Sightsong

自縄自縛日記

J・G・バラード『楽園への疾走』

2009-05-31 22:40:46 | 思想・文学

J・G・バラードは随分と好きだった作家で、人間の内的なトリップと外的世界との関係性のようなもの(もちろん、そのそれらの破綻も含む)に、いつまでも偏執した存在だった。つい先日の4月、亡くなったとの報道があって、何となくいつまでも世界のどこかで妙な作品を書き続けるような印象を持っていたためか、哀しい心持になった。

最近はあまり読んでいなかったことも事実で、追悼の気持ちで、『楽園への疾走』(創元SF文庫、原著1994年)を読んだ。

タヒチ沖の島に、アホウドリなどの希少生物が棲息しているにも関わらず、フランスが軍事基地を造るために虐殺し、さらに核実験を行おうとしている。これに反対する女医が強烈ながら人を惹きつける人物であり、メディアも巻き込み、「ジュゴン号」という船で島に向かう。フランス軍を追い出した彼らは自給自足生活を始めるのだが、やがて、女医の信念に基づき、女性優位社会を構築する。そのため、男性たちは魚を捕り、子孫を残すことのみに奉仕させられ、挙句に女性たちに殺されはじめる。

この作品もまさにバラード。内的世界と外的世界のどちらなのかわからなくなるほど強靭なイメージが次から次へと繰り出され、どこに連れて行かれるのだろうという不安を感じながら読み続ける。この作家には、『残虐行為展覧会』(1970年)といい、『クラッシュ』(1973年)といい、そこまで書いたら「いけない」だろうと唖然としてしまうような狂気があり、しかもそれが揺るぎない。ということは、同じ人間が書くものであるから、強迫観念を昇華しているというわけである。禁忌がないため、しばしばモラルや常識の壁で防御している心の一部分をがりがりと掻きむしられ、抉られるような気分にさせられる。もちろん、どうしようもない残酷な犯罪小説などとは全く異なる位相にあるのであって、バラード作品には想像力の世界が無限に拡がっている。

ところで、バラードの小説『The Unlimited Dream Company』を、『限りない夢の仲間たち』ではなく、あえて『夢幻会社』という珍妙なタイトル(会社なんか出てこないのに)としてしまった前歴のある訳者がここでも翻訳している。読んでいて、ときどき違和感のある直訳風の訳が出てくると、読んでいてテンポが狂ってしまう。訳者があとがきでも触れていることだが、「exposure」がバラード独自の言葉という理由で、「ひどい火傷」などとせず「被爆」としている。確かに核実験の候補地であり、それを思わせる効果はあるのだろうが、まだ実験されていないはずの場所で「顔の被爆が・・・」と書かれても、わけがわからないだけだ。

バラードは、その作品群のなかでターニングポイントの1つであったに違いない傑作『太陽の帝国』以降、次のような長編小説を発表している。

太陽の帝国(1984年)
奇跡の大河(1987年)
殺す(1988年)
女たちのやさしさ(1991年)
楽園への疾走(1994年)
コカイン・ナイト(1996年)
スーパー・カンヌ(2000年)
Millenium People(2003年)※未邦訳
Kingdom Come(2006年)※未邦訳

『太陽の帝国』の続編『女たちのやさしさ』は日本語訳が待ちきれなくて英語で読んだため、たぶん、いい加減な理解をしている(タイミング悪く、読んでいる途中に岩波が日本語訳を出したので、買いはしたが本棚で眠っている)。それから『殺す』と本作は読んだが、あとはまだ読んでいない。亡くなってからまた読みはじめるのも奇妙だが、また順に読んでみたい。2008年には、『Miracles of Life』という自伝も出たようである。

J

今井和雄トリオ@なってるハウス、徹の部屋@ポレポレ坐

2009-05-31 00:04:34 | アヴァンギャルド・ジャズ

今週、素晴らしく印象に残るライヴに足を運んだ。もともと、「再開」したばかりの今井和雄・齋藤徹デュオを是非聴きに行こうと思いつつ都合があって叶わず、結果的に、それぞれの演奏を聴いた次第。

■ 今井和雄トリオ (なってるハウス、2009年5月27日)

音楽評論家・横井一江さんも大推薦のCD『ブラッド』(Doubt Music、2008年)(>> リンク)。実はまだこのCDを聴いていないのだが、そもそも今井和雄さんの演奏を直に聴く機会がこれまでになく(あまり頻繁に演奏していない)、ずっと興味があったので足を運んだ。

入谷のなってるハウスに行くのは久しぶりで、入谷駅から言問通りを東に歩いていくとわからなくなった。このあたりだろうというところで、入谷食堂という定食屋でアジフライを食べて、会計ついでに訊ねると、ああ向かいの横丁を入ってすぐの・・・と親切に教えてくれた。聴客は8人くらいだった(どこまで客でどこまで店の人なのかわからない)。

メンバーは、今井和雄(ギター)、鈴木學(エレクトロニクス)、伊東篤宏(オプトロン)。エレクトロニクスはなにやら怪しげないくつもの箱についたツマミなどを操作して、電子音を自在に操っていた。オプトロンとはきいたことがないが、どうやら本人の自作による楽器で、見た目は蛍光灯そのものである。これと何か電子機器とアンプをつないで、ペダルなどで操作し、音と強烈な光とが発せられる仕組。

演奏前から、今井さんは熱心に練習し、音がかちかちしすぎるなあなどと言いつつ音を調整している。リー・コニッツの「サブコンシャス・リー」だか「ケリーズ・トランス」だかを早弾きし、気に入らないようで嘆息している。ここからすでに<今井世界>へのイントロのようで面白い。

演奏前半は、おそらくオリジナル中心だった。今井さんが、後ろの2人に対して、「遅めの4ビートで・・・」と指示しているのが奇妙だった(あの2つの楽器でどのように4ビート?)。後半はジャズ曲が多く、バッハの「サラバンド」、リー・コニッツの「ケリーズ・トランス」、オーネット・コールマンの「ロンリー・ウーマン」、セロニアス・モンクの「ルビー、マイ・ディア」、コール・ポーターの「ソー・イン・ラヴ」といったところ。即興が激化してくると、今井和雄ならぬ今井俊満による色彩エネルギーの奔流のような絵を想起させられる(別に駄洒落ではないが)。凄いカタルシスが得られた。

リー・コニッツといえば、『無伴奏ライヴ・イン・ヨコハマ』(P.S.F. Records、1997年)では、2曲だけ今井和雄とのデュオを記録している。どちらかといえば静かで、お互いの探りあいのようにも感じられて、ジャズすなわちプロセス、といった面から見ればとても楽しい。なお、このアルバムでも、コニッツは「サブコンシャス・リー」や「ケリーズ・トランス」をアルトサックスのソロで吹いている。若くないコニッツについては、ジャズ・ファンはほとんど黙殺しているのではないかと感じるが、これはこれで悪くないのだ。音数が多く、ビブラートが少なく、知的な迫力がある若い頃に比べると、音数は減り、音色のふくよかさが増している。私は両方好きである。

今井和雄名義のディスクでは、バール・フィリップス(ベース)との共演盤『プレイエム・アズ・ゼイ・フォール』(eyewill、1999年)を頻繁に聴く。緊張感が漲っていて、2人の音もいろいろな雰囲気を漂わせている。デュオ相手のベーシストが、その再開された齋藤徹さんであったなら、どんな風に印象が異なるのだろう。

■齋藤徹「徹の部屋 VOL.2」(Space&cafeポレポレ坐、2009年5月29日)

「ひつじ年生まれ」のベーシスト3人(瀬尾高志、内山和重、齋藤徹)が、ベースだけでライヴを行うという変な試み。聴客は何十人もいた。

第一部は、タンゴ、それから「チューニングによる連作」。あえて演奏家としての技術を不自由にするため、3人ともベースを床に寝かせ、弓でゆっくりと演奏を始める。緊張感というよりむしろアンビエントな感じであり、聴いているこちらは呼吸困難にはならない。やがてゆるりと立ち上がり、ベースを弾き始める。

第二部は、まず「for ZAI」の一部を、「蛙の合唱」バージョンとして演奏した。ぎざぎざのおもちゃで弦を擦り、ついでに蛙の口真似をしてみたりするのを観て、会場からは笑いが漏れる。次に「オンバク・ヒタム桜鯛」。「ビッキ柳」という樹の枝の樹皮を剥いて白くなった棒を使い、べよんべよんと弦を叩く。

ここでのコンセプトは「オンバク・ヒタム」(黒潮)だということで、音楽の位置は東南アジアから琉球弧、さらに韓国、日本海へとつながっていく。この日配られた紙には、日本海を上に、日本を下にした地図とともに「「日本海」は大きな「内海」だった」という言葉が添えられている。確かにこれだけで随分とものの見方が異なってくる。演奏後の話でも、齋藤徹さんがこのあたりのリンケージをずっと気にしてきているということだった。伊波普猷の沖縄学における琉球とアイヌとのリンク、伊波に触発された柳田國男の「海上の道」島尾敏雄の「ヤポネシア」など、想像世界が拡がりそうだ。

演奏は琉球弧へと進む。琉球音階のようなメロディーもそうだが、面白かったのは指笛。なんと、薄い板で弦を叩き、指笛のような音を出している!

さらに韓国の大きな銅鑼を持ち出す。この繊細で割れたような音を聴いたあとすぐに、ベースの弦の音を聴くと、とても新鮮に思えた。

今後、大勢の筝との共演を行い、さらにこのコントラバストリオを合体させたうえで、田中泯の踊りを加え、「オンバク・ヒタム」を完成させていくとのことであり、かなり刺激的なプロジェクトになりそうな予感。

●参照
ユーラシアン・エコーズ、金石出
姜泰煥・高橋悠治・田中泯
姜泰煥・高橋悠治・田中泯(2)
齋藤徹『パナリ』
伊波普猷の『琉球人種論』、イザイホー
島尾ミホさんの「アンマー」


ユーラシアン・エコーズ、金石出

2009-05-29 00:49:54 | アヴァンギャルド・ジャズ

どこかのレコード店で、日本のジャズ・ミュージシャンと、韓国の伝統音楽家たちのセッションをたまたま見つけて聴いたのはもう10年以上前。それが第2集であることに気が付いて、ほどなく第1集も探し出した。

日本側は板橋文夫(ピアノ)、齋藤徹(ベース)、沢井一恵(琴)。韓国側は金石出(キム・ソクチュル)、李太白(リー・タエバェク)ら。この韓国の伝統音楽は、巫俗(シャーマン)の系統であったりもするようで、ジャズとの異質の出会いが鮮烈で、時に取り出して聴いていた。

『弦打/Eurasian Echos』(1993年、nices)では、金石出、李太白のほか、李光壽、安淑善が参加している。中でも、特に4曲目、金石出が吹く胡笛(ホジョク)の音が凄い。基本的にはオーボエのようなダブルリードの楽器なのだが、音色が肉声を突き抜けて化物のようになっており、山下邦彦氏による解説のように、アルバート・アイラーを思わせる獣の咽び泣きを思わせる。最後の5曲目では、齋藤徹のベースから始まり、ピアノ、琴が絡んで気持ちが良い。

続編が『弦打/Eurasian Echos(2)』(1994年、nices)。今度は曲により参加する音楽家が随分異なっている。ここでも金石出、李太白、李光壽、安淑善がいるが、他に、ダーグムという笛を吹く元長賢、馬頭琴(モリンフール)を弾くモンゴル人・?保力高も加わっている。

ここでの新鮮な発見はダーグムの音色だ。かすれたようなノイズが入り、1曲目の即興曲「黎明」では、板橋文夫のピアノととても魅力なデュオを演奏している。また、馬頭琴とピアノとの2曲目のデュオ「紅蓮花」は、板橋文夫によるメロディーが素晴らしく、落涙を思わせる。5曲目のモンゴルの短い伝統曲「Wild horse running free」は、馬頭琴とベースとのデュオで、本当にモンゴルの草原を走る馬を想起させる。最後の韓国伝統音楽「Sigimseh」では、途中、満を持して金石出が入ってくる。楽器は「太平簫(テピョンソ)」とあるが、これはきっと胡笛と同じものだろう。その後、ピアノが叙情的に入ってくるところで感動する。

これらに参加しているベーシストの齋藤徹さんに、「ユーラシアン・エコーズ」は2枚とも持っていると話したところ、実はもう1枚あって・・・ということで、聴かせていただいた。『無翼鳥/Unicorn』(nices、1993年)がそれで、録音は上の2枚の間になされている。

ここでは、韓国側は、金石出、金正熙、李太白が参加している。2曲目のヴォイス、笛に交じってのベースの胴体の響き、きしみが素晴らしい。3曲目は琴と笛、闇から音があらわれるようで緊張感が漲っている。4曲目、ここでも凄いと動かされるのは金石出の胡笛の音色であり、なんとも言いようのない立ち上がりである。大勢で打楽器を打ち鳴らし、テンポがだんだん速くなる中、金石出はソロでかぶきまくる。そして最後の5曲目、女性ヴォイスを受けて、ピアノ、ベース、琴と登場し、チルアウト的に終わりを迎える。良いアルバムだ。

金石出らには、このような異種交流セッションではなく、シャーマン儀式「クッ」など自らのルーツに根ざした音楽の記録もあるのだろうから、それも聴いてみたいところだ。しかし、もう鬼籍に入っている。聴くチャンスはあったのだろうか。

これら以外に金石出が演奏したものは、韓国の異色極まるサックス奏者・姜泰煥(カン・テーファン)と共演したアルバム、姜泰煥『トケビ』(1991年、ビクター)を持っている。収録された長い2曲のうち1曲は姜のソロ、もう1曲が金石出(胡笛)、金用澤(杖鼓)との演奏である。といっても3人によるインタラクションではなく、まず姜のソロ、姜と金石出とのデュオ、姜と金用澤とのデュオ、が切れ目なく続いている。金石出の音の素晴らしさはここでも聴けるのだが、あらためて印象に残るのは、姜泰煥の演奏技法は結構変貌しているのではないか、ということ。このころは、随分と荒々しい音も繰り出していて、いまの仙人のような印象よりむしろ、咆哮する獣である。

●参照
姜泰煥・高橋悠治・田中泯
姜泰煥・高橋悠治・田中泯(2)
齋藤徹『パナリ』


小波津正光『お笑い沖縄ガイド』

2009-05-28 00:22:19 | 沖縄

インターネット新聞JanJanに、小波津正光『お笑い沖縄ガイド 貧乏芸人のうちなーリポート』(NHK出版、2009年)の書評を寄稿した。

>> コント「お笑い米軍基地」芸人の『お笑い沖縄ガイド』を読む

 著者は沖縄出身のお笑い芸人である。本書の冒頭では、まず、著者はウチナンチュ(沖縄の人)を体現する振りをして、ヤマトンチュ(内地の人)が沖縄に対していかにも抱きそうな幻想をすかし、からかい、砕く。ガチンコ対決ではなく、肩すかしだ。いきなり笑いのツボを刺激されてしまう。例えばこんな風だ。

 Q.「沖縄旅行に行ったら、お土産にはなにを買えばいいですか?」
 A. 「基本的には海ぶどう(フィリピン産)とマンゴー(台湾産)だよね。余裕のある人は琉球ガラス(ベトナムの工場で作られたやつ)かな。(略)地元の人はほとんど買わない「海人(ウミンチュ)Tシャツもお勧めやさ。」

 特別にしつらえたステージと日常との間に、飄々と裂け目を入れているのである。そして、その「日常力」を生み出す現実の日常を紹介している。これがまた、ひたすら面白い。

 ところが、著者がずっと行っている舞台「お笑い米軍基地」のコントとなると、無防備に笑うことへの躊躇が生じてくる。

 もちろん、それは面白い。しかしそのとき、ウチナンチュと日常を共有してこなかった私(=ヤマトンチュ)は、後付けの<学習>に基づく土台の上に立ってギャグを受け止めているわけである。だから、受け止める時点で既に、当方の身体はあちこちに力が入ってカチコチになっている。頭で理解するギャグと、おそらくは多くのウチナンチュが日常、常識といったものへの<くすぐり>として感じるギャグとでは、全く効果が異なるに違いない。仕方のないことである。

 著者は、2004年、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した事故のメディアにおける扱われ方が、沖縄と内地とで大きく違うことに怒りを覚え、この「お笑い米軍基地」を思いついたのだという。理不尽な敵には笑いで闘え、である。快哉を叫びたい話だ。

 しかし、他人事ではない。ヤマトンチュが、自分たちだけの常識を疑ってかかるようでなければ、米軍基地と同様に、ヤマトンチュももっと彼らに笑い飛ばされてしまうぞ。それは今よりももっと恥ずべきことだ。まずは、みんなで彼らの差し出す裂け目を覗き込み、笑ってみようじゃないか。笑えないとしたら、その人はいつか裂け目に足をとられるのだ。

◇ ◇ ◇

ここには書かなかったが、国頭村の奥間では、国頭村民と一緒だと、米軍基地の施設に出入りできるそうだ。初めて知った。その中のレストランで出てくるハンバーガーの話など爆笑。

奥間には、良い民宿の「やんばるくいな荘」がある。ここにある某航空会社のリゾートホテルよりも(泊まったことはないが)。歩いて行ける桃原(とうばる)の海岸も、チキンカツサンドがやたら大きい「パーラー三角」もお薦めだ。


下村兼史『或日の干潟』

2009-05-26 23:59:44 | 環境・自然

下村兼史『或日の干潟』(1940年)を観ることができないものかと探していて、汐留の建設産業図書館にあることを突き止めた。永六輔も、日本映画の「マイベスト10」の4位に挙げている(『大アンケートによる日本映画ベスト150』、文春文庫、1989年)。小学校の講堂で見て最初の記憶に残っている映画だそうであり、おそらくは教育映画としてあちこちの学校で上映されたのだろう。

18分ほどの短編記録映画である。先日読んだ『海辺の環境学』(小野ら、東京大学出版会、2004年)(>> リンク)によると、通説はもっぱら有明海を撮ったものだが、三番瀬も含まれているという説もあるという。映画では「大川」の河口に近いとだけ説明している。変に人工物がないため、映像からは判断ができない。

映画は、海辺に海苔採りの女性たちが現われるところからはじまる。春、土手では赤ん坊に乳をあげている人もいる。干潟の干満の説明にまずフジツボを登場させ、満潮時に水中で微生物を食べている映像、干潮時に蓋をして日光に耐えている映像が対比される。そして女性たちは、澪を伝って小さな舟で沖に出て、歩きながら海苔を平ザルに拾っていく。

ここから、生き物たちの競演となる。ニナや「逃げ遅れた」シャコが出る。そして、映画撮影隊は機材を引きずっていき、藁の小屋のなかに隠れて望遠レンズで生き物たちの様子を探る(あさま山荘みたいだ)。

「マッチの様な目」をした「シラスナカニ」(オサガニの類だろうか?)が、器用に泥を両手で口に運んでいて笑ってしまう。トビハゼの紹介はユニークだ。「あっまばたきをした。まばたきをする魚など、皆さんは他に見られたことがありますか。」というナレーションがかぶさり、小学校の講堂ではきっと子どもたちがアハハと笑ったに違いない。

次に、渡り鳥のガンが登場し、カニやトビハゼは慌てて地中に隠れる。「旅のわらじをこの干潟に脱ぐのでした」という紹介で、また親しみを覚える。本当に上手い。チドリシギも登場する。

静かな干潟。大勢のカニが白い花のように甲羅干しをする。あるカニは、「何か繰り言を言うように」泡を吹く。アシハラガニは、「大きなハサミを持て余すように」して、泥を口に運ぶ。

静寂を破り、ハヤブサが登場する。群れで牽制されつつも、ハヤブサはガンを攻撃し、食べる。「平和であるべきこの干潟をハヤブサの撹乱に任せておいて良いのでしょうか。」というナレーションはもはや悪乗りだ。それに対する回答はない。前出『海辺の環境学』によれば、ハヤブサが出てくるときだけなぜかプロペラエンジン音が聞こえ、ハヤブサも糸でつながっているという説があるらしい。しかし、当時、干潟にハヤブサが現われて捕食をしていたという状況こそが重要なのであり、いまの干潟より大きな循環生態系があったのだとわかる。

満潮になり、海苔採りの女性たちは籠を持って帰っていく。

阿部彰『下村兼史論―内に情熱を秘めた「案山子」―』(>> リンク)によれば、映画撮影当時、鳥類研究は飼育・捕獲した鳥を用いて行うことが一般的であり、下村兼史はそれに対する疑問から、自然の生活のなかで観察・記録することを選んだのだという。そのため、藁の小屋に入り、完成まで2年間もかけたわけである。実際に、被写体深度の浅い映像からは望遠を多用したことがよくわかる。

阿部論文には、下村兼史の監督した映画リストがある。『或日の干潟』は2作目にあたり、全部で19本が製作されたようだ。富士山麓で撮られた『慈悲心鳥』(1942年)や、『雀の生活』(1951年)、『からす日記』(1953年)、『干拓』(1954年)など、ぜひ観てみたいものが並んでいる。

最近、NHK『モリゾー・キッコロ 森へいこうよ!』(>> リンク)では、横浜のどこだかの干潟にあるアマモを、海の森だとして紹介していた。子ども向けの番組だが、森林が主役の番組は少ないので、ときどき観ている。ああいうキャラクターものによる親しみやすさも悪くはないのだが、どうしても子どもたちはモリゾー、キッコロの言動の面白さに反応してしまうような気がしている。『或日の干潟』のような、地味だがユニークな映画はまだ必要だ。

●干潟の映像
『有明海の干潟漁』


ジョニー・トー(6) 『ターンレフト・ターンライト』

2009-05-26 00:52:40 | 香港

ジョニー・トーとワイ・カーファイとの共同監督による『ターンレフト・ターンライト(向左走・向右走)』(2003年)は、台北を舞台にした恋愛コメディ。金城武は大げさな演技も悪くない。そういえば、金城をまじまじと見るのは、『ゴールデンボウル』という、ボウリングが好きな男女(相手は黒木瞳)のドラマ以来だ。これもコメディで、とぼけた演技が良かった。

題名の通り、運命の相手とすれ違い続けるドラマ。左を向けば相手は右、近くにいるのにお互いに気が付かない。再会を約束して交換した電話番号は、両方とも、大雨で滲んで読めなくなっている。

冒頭、雨の横断歩道のシーンが良い。黒い傘を差した大勢のなかで、肝心の2人だけ赤と緑の傘。映画のなかでは、最後までこの傘は忘れられないような仕掛けになっている。最近の『文雀』といい、ジョニー・トーはアクションだけでなくコメディも強烈に巧い。『文雀』では、雨の交差点で、やはり傘が使われていた。工夫を凝らしたくなる状況なのだろうか。

最後のシーンは鮮烈だった。こればかりは言うわけにいかないが。脇役のラム・シューホイ・シウホンといった常連も最高に笑える。

電話番号がわからず、すれちがうという話、ジョン・キューザック主演の『セレンディピティ』(2001年)というアメリカ映画もそうだった。確か、マルケスの『コレラの時代の愛』に挟んだ彼女の番号が、古本屋を巡った挙句に彼の手に渡るという設定。もちろん、べとべとといやらしくなく、うきうきするのは『ターンレフト・ターンライト』のほうだ。

●ジョニー・トー作品
『エグザイル/絆』
『文雀』、『エレクション』
『ブレイキング・ニュース』
『フルタイム・キラー』
『僕は君のために蝶になる』、『スー・チー in ミスター・パーフェクト』


市川崑(2) 市川崑の『こころ』と新藤兼人の『心』

2009-05-25 00:04:19 | アート・映画

夏目漱石『こゝろ』は、中学生のころから何度も読んでいる。話しことばによる文学を拓いた漱石は、ものよってその陰鬱さが異なるが、子どもにも読むことができるし、歳を取ってもその潔さと深さを感じることができる作家だ。もう少なくとも15年以上は『こゝろ』を読んでいない。いまテキストを追っていけば、また新たな発見があるに違いない。

ちょうど、市川崑新藤兼人によって映画化された『こゝろ』を続けて観た。

市川崑『こころ』は1955年、まだ『ビルマの竪琴』(初作版)も『処刑の部屋』も『黒い十人の女』も撮る前であり、正直言って、市川崑独特のモダンさや小気味良いテンポや切れ味をほとんど感じることができない。「先生」役は森雅之だが、こんなに大根だったかと思う。陰りのある表情の変化だけで語ろうとしていて無惨だ。面白い点があるとすれば、「私」と「先生」との同性愛的な感情(もちろん、特異なものではなく)を意識していると思われるところだ。


神保町シアターのプログラムより

新藤兼人が市川崑バージョンを観ていたかどうか不明だが、『心』(1973年)では、まったくの現代劇に換骨奪胎している(というか、世界を狭くしている)。漱石作品では「先生」の回想シーンであった場面のみが取り上げられ、友人への裏切りとそれによる心の損傷が描かれている。本郷の間借は圧迫するように狭さを強調した撮り方であり、そしてときに風に煽られる樹木と下宿の屋根に上からぐらぐらとカメラが迫るため、世界の足元が揺らぐことになる。このような執拗な「舞台」へのアクセスは、マノエル・ド・オリヴェイラ『メフィストの誘い』における寝室のドアのシーンを思わせる。自らの倫理に滅ぼされる男に対する新藤の悪意なのだろうか。

ただ、「私」の「先生」への感情と同一化(輪廻?)、「明治」への殉死という形でのけじめなど、漱石作品では謎めいていて、だからこそ魅力の一部だったところがばっさりと切り落とされているのは残念ではある。

乙羽信子のたくらむような視線、諦念を顕す様な表情が凄い。最後に殿山泰司という異形を持ってきたことで、観ている者はなんだか救われたような気がする。よくわからない作品だが傑作である。

『アートシアター』(夏書館、1986年)より


加藤真『日本の渚』

2009-05-23 21:51:26 | 環境・自然

加藤真『日本の渚―失われゆく海辺の自然―』(岩波新書、1999年)。砂浜が陸域からの土砂の供給が減ったり開発圧力を受けたりして少なくなっている、といった解説かと思い込んでいて読んでいなかった。本屋で気が向いて目次を開いてみたら、「渚」として捉えている範囲はもっと広かった。

章は順に、河口、干潟、藻場、砂浜、サンゴ礁、ヒルギ林。それぞれの章の分量は当然多くないが、著者の体験と(これが重要なところだが)愛情に基づいて書いているため、「学者がさらった」というようなものにはとどまっていない。文字通りの良書であり、ジュゴンのこと、三番瀬のこと、サンゴのこと、ダムのこと、赤土のことなどを気にかけている多くの人に読んでほしい。素晴らしいと思った。

干潟の生き物については、私も東京湾の盤洲や三番瀬でじろじろ見た奴らのこと、先日『有明海の干潟漁』という記録映画で観た不思議な漁法のことなどに言及してある。そこで登場する、干潟の孔に筆を挿し込んで引き上げるアナジャコには、時にその胸にマゴコロガイ(笑)という二枚貝が付いていることがあるという。本当に真心のような形だ。マゴコロガイは、アナジャコが集めた有機物の一部を失敬し、くっついたまま一生を送る。

「干潟の生態系機能という視点から見たら、マゴコロガイは小さな存在にすぎない。しかし、マゴコロガイのようなささやかな種の集合こそが、干潟の生物多様性だといえる。マゴコロガイは干潟の生物多様性のひとつの指標であり、アナジャコの胸にマゴコロガイがついていることを発見して喜ぶ心は、生物多様性を享受できる私たち自身の心の豊かさの指標だ。」

藻場の章では沖縄のジュゴンに言及してしめくくっている。ジュゴンは哺乳類海牛目、その祖先は陸上の草食動物であり、海草のセルロースの消化に前もって適応していたことを示す、とする。そして「ジュゴンの生息はまさしく海草帯の生態系の自然度の指標にほかならない」と説いている。

サンゴ礁の章では、炭素固定源としての評価を述べていて、森林との比較がとても面白い。この機能を、地球上にはじめて登場した造礁生物であるストロマトライトからの変遷として書いてもいる。

また、サンゴの島の白砂をひとすくい取って、なんとひとつひとつをより分け、由来毎に選別している。これが愛情といわずしてなんであろう。その結果、紙の上に、ウニ類、甲殻類、コケムシ、有孔虫、貝、サンゴ、石灰藻、岩石が島々のように並べられた。そして有孔虫については、銭石、太陽の砂、星砂、月の砂、土星の砂、と分けて見せてくれている。もちろん、それぞれの有孔虫はただの変わった形の砂ではなく、単細胞生物の殻である。

砂のひとつぶひとつぶを生き物として見るわけだから、他の場所から土砂を取ってきて埋め立てたり、人工干潟などを造成したりすることに対しては、激しい批判を加える。情緒からの批判でないことは注目すべきだ。考えているのは、「砂」という無機物の塊ではないのである。

「生物多様性は、よそ行きの言葉として語られるだけで、社会的にはまだ正当に評価されていない。無数の種を識別し数えあげてゆくことによって初めて、生物多様性は驚きとともに見えてくるものだからだ。」

「生物多様性はそのかけがえのなさ自体に価値があり、それを人の都合で低下させることがあれば、それは人間の尊厳に抵触するはずだ。」

「この列島のいたるところで、渚は今でも消失しつづけているが、その背景には無駄な公共事業がある。「自然にやさしい工法」とか「ビオトープ」とか「環境復元」の名のもとに不必要な開発の手が自然の渚に及ぶことも多い。」

●参照
『海辺の環境学』 海辺の人為(人の手を加えることについて)
『有明海の干潟漁』(有明海の驚異的な漁法)
ジュゴンと共に生きる国々から学ぶ(ジュゴン覚書など)
熱帯林の映像(沖縄のヒルギ林)
理系的にすっきり 本川達雄『サンゴとサンゴ礁のはなし』(わかりやすいサンゴ礁のしくみ)
星の砂だけじゃない(沖縄県の塩屋湾の銭石のこと)
『赤土問題の基礎物理化学的視点』(沖縄の赤い海)


『海辺の環境学』 海辺の人為

2009-05-21 23:09:28 | 環境・自然

立ち読みしていると、『海辺の環境学 大都市臨海部の自然再生』(小野佐和子・宇野求・古谷勝則、東京大学出版会、2004年)の中に、堂本千葉県政での三番瀬の円卓会議や、記録映画『或日の干潟』についての記述があり、読まずにはいられなくなった。高いので、家に帰って、Amazonの古本を注文した(笑)。

タイトルには「自然再生」とあるが、そのような技術や土木工事についての解説などではない。人間がどのように海辺に関わり、自然と共生し、自然に影響を与えてきたか、といった視点である。いかにも東京大学出版会らしく、10人以上の大勢が文章を寄せ合っているため、個々のテーマについての物足りなさは残る。また、つまらない箇所も多々ある。ただ、人為なるものと自然とのインタラクションについて、歴史、実態、都市計画のコンセプトなどさまざまな側面を提示してくれていて、示唆的なところは多い。

海辺の「聖地性」が失われていき、実際に、物流を含め、海からもたらされる有形無形のものをあてにしなくてもよくなった現在。「用済みになった海辺は、ただの空地となり、埋め立てられて工場用地となった」。海辺の意味を取り戻すためには、新しい海辺との関係が必要なのだと説く。魔力のようなことばは、海辺との新たな関係を偽装した土木工事や商売につながるかもしれない。先走りするコンセプトは趣味ではない。

コンセプトという便利な「箱」のことは置いておくとして、面白いのは、縄文以降の海辺の植生変化だ。ここでは千葉県の大柏川流域について調べているのだが、このようなタイムスケールでは、潜在自然植生がどれかというより、人為の影響が色濃く出ていることがわかる。縄文時代には、腐りにくく、硬めだが割りやすく、石斧で伐採加工しやすく、かつ萌芽再生による成長が早いクリの木が重用された。また、海産物から植物に食事が変化し、クリ、トチノキ、クルミなど果樹をつける落葉広葉樹がやはり重視され、根菜類や山菜も落葉広葉樹の下でこそ生産できた。

縄文後期から弥生時代に入り、落葉広葉樹の食物としての利用は減った。そして稲作の鍬や鍬には、カシが適していた。常緑広葉樹の増加の一因である。

その後、スギやヒノキといった針葉樹が植林されるようになった。これらが、石斧では加工しにくいが、鉄斧・鉄鋸では板材にも加工できることが理由であるという。さらに強い火力を求めてマツも増えた。

陸と海とを緩やかにつなぐエコトーン、ハビタットとしては、木更津の小櫃川河口盤洲干潟江戸川放水路などが稀少な場所として大きくとりあげられている。それに追加して、行徳の新浜(野鳥保護区)や千葉の谷津干潟といった人為的側面が強い場所での影響についても言及している。新浜では東京湾との間の水の連絡が乏しかったため、干潟は乾燥した粘土面と化した。谷津では下水の流入によりアナアオサの大発生を招いている。

だからといって、人為的な操作がすべてエコトーンの健全なハビタット形成にとって悪いとはしていない。ここは興味深いところだ。三番瀬の海辺再生に向けた手法として、人為的に干潟を再生するか、極力人為を省くか、が未だ争点になっているからだ。円卓会議当時のアンケートによると、会議を聴講するような積極的な市民は人為的な干潟再生に反対、そうでない市民には抵抗が少ない、という結果が出ている。これをどう考えればよいのか。

●三番瀬
三番瀬を巡る混沌と不安 『地域環境の再生と円卓会議』
三番瀬の海苔
三番瀬は新知事のもとどうなるか、塩浜の護岸はどうなるか
三番瀬(5) 『海辺再生』
猫実川河口
三番瀬(4) 子どもと塩づくり
三番瀬(3) 何だか不公平なブックレット
三番瀬(2) 観察会
三番瀬(1) 観察会
『青べか物語』は面白い

●東京湾の他の干潟
盤洲干潟 (千葉県木更津市)
○盤洲干潟の写真集 平野耕作『キサラヅ―共生限界:1998-2002』
江戸川放水路の泥干潟 (千葉県市川市)
新浜湖干潟(行徳・野鳥保護区)


池谷薫『蟻の兵隊』

2009-05-20 21:30:32 | 中国・台湾

戦後も中国の山西省に残留した旧日本兵たちを追った映画、池谷薫『蟻の兵隊』(2006年)。なかなか上映会に行く機会がなく観逃していたが、DVDがレンタル店に置いてあった。

あまりにも奇天烈な話だ。山西省に駐屯した北支那派遣軍第一軍は総勢59,000人だった。そのうち2,600人が敗戦後も山西省に残留し、国民党軍の一部として、なお八路軍(共産党、人民解放軍)と4年間も戦闘を継続する。兵士たちには、敗戦ではなく、捲土重来してあらためて日本帝国のための戦争に備えるのだという軍命が下されていた。共産党に敗れ、虜囚ののちに帰国した兵士たちは、軍命ではなく現地除隊ののち自ら選んで行動したことにされていると知る。

映画の主役、奥村和一氏らは、軍命の存在という真実を国に認めさせるべく行動する。どうやら、上官がA級戦犯になるのを回避するため、国民党と密約を結んだという事実が浮かび上がってくる。しかし最終的に、最高裁は上告を棄却する。国が、旧日本軍の組織的な動きを認めようとしないことは、沖縄戦に関するものとまったく同様だ。

あらためて、奥村和一・酒井誠『私は「蟻の兵隊」だった』(岩波ジュニア新書、2006年)を買ってきて読んだ。奥村氏の証言によれば、元兵士たちは、ポツダム宣言の内容すら知らされていなかったという。そして、捕まりそうになったときのための手榴弾を渡されていることも、沖縄戦での住民への対応と重なる。

「私たち負傷兵はみな手榴弾を一個渡されていました。前に述べたように、「生きて虜囚(捕虜)の辱を受けず」という戦陣訓どおりに、敵に捕まる前にこの手榴弾で自決しろということです。馬に乗せられない人間、脱出できなかったほとんどの人間は自決しました。だから、自決しないで捕まった人間はそんなにいません。」

奥村氏は戦後60年も経って山西省を訪れ、記憶にある場所に立ち、住民虐殺の目撃者や被害者の家族に会い、自分は兵士としてあなた方を殺したのだと告げる。軍隊という組織で殺人マシーンにされ、挙句に国に裏切られた者による、自らの再構築をおこなうことへの執念か。

本書の表紙には、先日訪れた山西省の省都・太原の永祚寺の写真がある。その太原には、戦犯管理所があったという。実際に見た山西省や河北省の風景と、映画に出てくる風景とは当然ながら共通している。その場において、残虐行為が行われ、兵士たちが残留していた。そして歴史は改竄され、生の記憶は失われつつある。私は同じ空間を共有しても歴史は共有していない。なんということだろう。

●参照
太原市内、純陽宮
浄土教のルーツ・玄中寺
平遥
山西省のツインタワーと崇善寺、柳の綿


石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』

2009-05-20 01:55:47 | 九州

最首悟さんの話を聴いてみたいとかねてから思っていて、調べてみると「最首塾」という会合がある。その一環として、『天の魚』という「ひとり芝居」を観るという企画がなされていた(>> リンク)。日によっては加藤登紀子、今福龍太らのトークもある。これを観に行こうと思って、原作の、石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』(講談社文庫)を読んだ。

チッソの企業城下町であった水俣において、如何に企業や政府が厚顔無恥であったか、ということが強く印象付けられる。受苦の心の中を描いた筆致は途轍もない。軽々しく「公害」だとか「怨念」だとかいったことばを使うことを躊躇するほどだ。

自分は小学校の授業で、「4大公害病」のひとつとして水俣病を教わった。その写真や、猫が狂い死にする様子などによる有害物質への原初的な畏怖は心に滲み付いている。思い至らなかったのは、これは歴史ではなく、現在と陸続きだということだ。いまの子どもたちは、社会科の授業でどのように教わっているのだろう。

「水俣病わかめといえど春の味覚。そうおもいわたくしは味噌汁を作る。不思議なことがあらわれる。味噌が凝固して味噌とじワカメができあがったのだ。口に含むとその味噌が、ねちゃりと気持わるく歯ぐきにくっついてはなれない。わかめはきしきしとくっつきながら軋み音を立てる。」

「ここにして、補償交渉のゼロ地点にとじこめられ、市民たちの形なき迫害と無視のなかで、死につつある患者たちの吐く言葉となるのである。
「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。(四十三年五月にいたり、チッソはアセトアルデヒド生産を中止、それに伴う有機水銀廃液百トンを韓国に輸出しようとして、ドラムカンにつめたところを第一組合にキャッチされ、ストップをかけられた。以後第一組合の監視のもとに、その罪業の象徴として存在しているドラムカンの有機水銀母液を指す) 上から順々に、四十二人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。あと百人くらい潜在患者になってもらう。それでよか」
 もはやそれは、死霊あるいは生霊たちの言葉というべきである。」

ところで、巻末の渡辺京二による解説を読んで驚いた。多くの患者たちの絞りだすようなことばや独白は、聞き書きなどではなく、小説家・石牟礼道子の想像世界から生まれたものだというのだ。もちろん文学作品というものは想像世界の肥大した<しこり>であろうし、またルポでなくとも水俣病の受苦と非対称はえぐるように描かれている(第一、どこにもルポなどとは書いていない)。

とは言え、驚きからこちらに生じた違和感、それから、そもそもエンターテインメントででもあるかのように原作と芝居とを鑑賞しようとした自分が見えたような気がして、芝居に足を運ぶのはやめた。もっとも、ただの不精だからかもしれないが。

●参照
『差別と環境問題の社会学』 受益者と受苦者とを隔てるもの
土本典昭さんが亡くなった


製鉄の映像(2)

2009-05-18 00:08:46 | アート・映画

工場見学は楽しい。ただ、実際の現場では自分のペースにならないし、特に途上国の工場では臭いや騒音もあって余裕を持ってじろじろ見るわけにはいかないことが多い。それもあって、ものづくりの映像は好きである。最近はいくつか鉄鋼に関連する映像を見て、鉄分濃度が高まっている。

『シリーズ世界遺産100』(NHK)では、ドイツのフェルクリンゲン製鉄所が放送された。19世紀の建造であり、ビスマルクの意向を受けたものだ。第1次大戦のドイツ軍ヘルメットはここで作られたそうであり、1980年代まで稼動していたという。砂鉄となった副産物を焼結して原料としたこと、廃熱を利用したことが新しい試みであったようだ。実際、いま見てもとてもモダンで、当時のドイツの工業力が納得できる。

日本でもドイツの近代技術を輸入した。汐留の建設産業図書館で借りてきたヴィデオ『産業遺産紀行 第4巻・鉄は国家なり』(製作・日本映画新社、2001年)では、そのあたりの経緯を解説している。

黒船来航の脅威により、江戸幕府は自前の大砲を製造する。その材料とする鉄の精錬には、江川太郎左衛門が設計した韮山の反射炉を使った。韮山にはまだ反射炉がそのまま残されているようで(完全な形のものは世界でここにしかないという)、ぜひ今度見に行きたいものだ。もちろん、製鉄には反射炉はもう使われていない。ここで製造された鉄から大砲を作り、お台場に設置された。また、島津でも反射炉を造り、薩英戦争で使われた大砲製造に用いたようである。

精錬前の高炉については、19世紀半ばに南部藩で製造された橋野高炉が日本発のものだった。いまでも釜石の博物館にはこの高炉の模型があるようで、これも是非見てみたい。

明治に入り、帝国議会が官営製鉄所の建設を決め、八幡に完成したのは1901年。もう20世紀になっていた。日清戦争で得た賠償金が投じられたという。このとき、当初はドイツ人技師を招いたが、技術的にうまくいかず失敗する。ヴィデオでは、その原因を、日本人を見下す態度と技術不足にある、と語っている。真偽は調べてみないとわからないが、ドイツの技術のバックボーンはあのフェルクリンゲンにも通底するモダンなものだったのだろう。


八幡の映像が貴重

日本の近代的な製鉄については、『新しい製鉄所』(製作・岩波映画、1959年)が産業映画として有名である。先日、「日本映画専門チャンネル」で岩波映画の特集をやっていて観ることができた。もう50年前だが、製鉄の基本的な原理は現在のものと変わらない。川崎製鉄(現・JFEスチール)の製鉄プラントであり、冒頭の空撮をみると、現在の東日本製鉄所だろうか。すぐ近くに海苔の養殖まで見える。

一貫工程で高炉から圧延、最終製品製造までを誇らしく紹介しているのが楽しい。なお、ここの第一号高炉の大きな模型は、本八幡の千葉県立現代産業科学館に設置されている。

キューポラはそのような大規模な製鉄ではなく、小さな鋳物工場が中心である。自動車メーカーの工場内にあるキューポラを見せてもらったことがあるが、熱さ、暑さとのたたかいという方法は変わっていないのだなと思った。『キューポラのある街』といえば川口で、最近の様子が、『小さな旅―空高くキューポラ』(NHK)という番組で紹介されていた。かなり工場の数が少なくなってはいるが、まだ鋳物の職人たちは健在で、ベーゴマも作っていた。


鋳造されたばかりのベーゴマ

ところで、「箱アーティスト」こと、ジョゼフ・コーネルは映像も残していて、『Treasures IV / Avant Garde 1947-1986』というDVDに、『By Night with Torch and Spear』(1940年代)という短編が収録されている。ここに昔の製鉄の映像が使われている。とは言っても、フリーマーケットなどで買ってきた教育用フィルムを逆さにしたり、ネガポジ反転したりという加工を施していて、何なのかよくわからない。もっとも、この映画に対してそんな見方をする人は皆無に違いない。なお、もとはサイレントであり、今回ジョン・ゾーンが音楽を付けている。演奏は、シャニール・ブルーメンクランツ(ベース)、キャロル・エマニュエル(ハープ)、マーク・リボー(ギター)のトリオ。リボー以外は知らないが、NYの音楽家たちかな。

●参照 製鉄の映像(1)(たたら製鉄、キューポラ、近代製鉄)


中藤毅彦、森山大道、村上修一と王子直紀のトカラ、金村修、ジョン・ルーリー

2009-05-17 08:55:30 | 写真

最近の写真展(+α)いくつか。

中藤毅彦「TOWER」(ギャラリー福果、神保町)

高感度フィルム、コンタックスG使いで知られる中藤毅彦が、東京、京都、大阪、パリ、ベルリンなどあちこちのタワーを撮りためた作品群。フィルムの粗粒子の中に焦点がびしりと現われるのが鮮やかで嬉しい。ギャラリーで中藤氏ご本人に尋ねると、フィルムはネオパンの1600、レンズは長期間なのでまちまちのツァイス(広角も望遠もあった)、印画紙はベルゲールのバライタ紙。「ざらざらの感覚が好き」だとのことで、置いてあった写真集『Winterlicht』もすべてざらざらのモノクロでヨーロッパをびしびしと捉えたものだった。

森山大道「Light & Shadow 光と影」(BLD Gallery、銀座)

80年代の森山作品。同じ高感度ざらざらと言っても、まったく印象が異なる。仔細に観ると、トライXのように粒子が蛆虫のようにクラスター化し、作品に有機的な力を与えているように思える(実際に何のフィルムを使っていたのか知らないが)。それだけでない別格の迫力が森山写真にはあって、ひまわりをアップで捉えたもの、窓から中庭を見たもの、帽子をかぶった少女など、どれも息を呑んでしまう。

併設のショップを覗くと、森山手拭、森山カメラ、森山クリアファイル、サイン本など、もはや完全にイコン化していることがわかる。それが悪いとはいわないが、若者層への影響力がここにきてまた大きくなっていることには、いびつなものを感じてしまうのだがどうか。

村上修一「奇祭―トカラ列島・悪石島―」(銀座ニコンサロン)

クバのような葉で全身を覆い、まがまがしい棒を持って練り歩き、子どもたちを脅したりする奇祭がある。その準備と当日の様子、日常生活を記録した写真群である。奇天烈、怪奇、笑いながら驚く。ただ、奇抜なことは見れば解るが、こちらの受容体に蓋ができてしまったようで、何も感じなくなった。何しろ、夜の踊りや住民をストロボ一発で撮ってしまっては、夜が台無しである。

同じトカラ列島で撮られた作品展、王子直紀「吐?喇」(photographer's gallery、新宿)を年始に観たが、風景の染みをアンダーに撮っていくような方法のほうにこそ、風景と一体化する心のありようを感じる。


王子直紀「吐?喇」

金村修「チャイナ・ホワイト」(ツァイト・フォトサロン、京橋)

マキナ67による北京だろうか。カメラ雑誌の罵倒と言ってもいいような辛口のコメントが有名で、写真に恣意的な意味付けやストーリー付け、誘導を行うことを嫌悪しているようだ。それでこの作品群はどうなのかというと、それ以上先に進まない。やさぐれて「誘導しない」ような写真を撮ったところで、何の精神性も写真の力も感じない。

ところで、観ている間、ずっと奥の事務所からものすごい鼾が聞こえた。鼾が止まるとどきどきした。

ジョン・ルーリー「ストレンジ・アンド・ビューティフル」(Galerie Sho、日本橋)

鬱々とする写真ばかりを観てさあ電車に乗って帰ろうかと思っていると、こんな展示を見つけた。サックス吹きのジョン・ルーリー、と同じ人だろうかと思いつつ覗いた。そうだった。絵も描いているのだった。

もう愉快愉快、一気に体温が2度ばかり上昇した。鉛筆、ペン、クレヨン、水彩などによるドローイングが並べてある。打ち合わせ中につまらなくて落書きをするような、無心の楽しさ。観る人たちがみんなニヤニヤしている。

ルーリーのこのためのインタビューを収めたヴィデオが流されていた。日本のファンへのメッセージと訊かれ、俺の作品にメッセージ性なんてないよ、メッセージなんて言うのは商売人か政治家だけだ、と言い放ちつつ、俺にメッセージをくれ!とうそぶいたりする。最近俺のアートを誉める奴らは、俺の釣り番組やジャームッシュやラウンジ・リザーズのことを知らないんだよ、なんて淡々と語っている。本当か?

ジョン・ルーリーがトム・ウェイツ、ジム・ジャームッシュなどヘンな面々と釣りに行く連作、『フィッシング・ウィズ・ジョン』は抱腹絶倒の大傑作だった。また観たいとずっと思っている。


ポストカードをもらった


本橋成一『バオバブの記憶』

2009-05-16 22:38:18 | 中東・アフリカ

ポレポレ東中野で、本橋成一『バオバブの記憶』(2009年)を観てきた。ちょうど2年前の写真展で、いま本橋成一が追いかけているのはバオバブだということを知り、楽しみにしていた。

カメラが向かった先はセネガル。都市域では、既にほとんどのバオバブが切り倒され、見世物のように残された1本のバオバブの横には看板があり、「バオバブが丘」と宅地の名前が書いてある。失望するカメラは、さらに、都市化の波が押し寄せてきていない地域に進む。昔からの生活様式を残していることは、私たちが感じる絵にはなりやすいが、一方では、それは貧困だということを意味する。

しかしここで見せられるのは、自然のサイクルやスピードを壊さない活動であり、その中にいる人たちは「人間らしい」。もちろん、街の人たちだって「人間らしい」のであって、ここで感じる「人間らしさ」とは、自然という大きな限界のなかでお互いに生き物としての緩衝領域が大きい、といったようなことか。

なかでもバオバブという奇妙で神々しい存在。神木として崇め、かけらでも燃やしてはならない。そのかわり、バオバブの生は徹底的に利用している。その様子が、映画で様々に描かれている。

樹皮は渾身の力で剥ぎ取り(歯で噛んで引っ張ったりもする)、裂いて繊維を縄にする。栄養がある葉は乾かして粉にし、ミールというイネ科の穀物の粉と混ぜて料理する。実の中の果肉はそのまま食べたり、ジュースにしたりする(食べ過ぎると便秘になったり、オナラが出たりするので注意)。祈祷師はバオバブの力を借りて占いや治療を行う。そして収穫が終わったら、祈りの儀式を取り行う。

じろじろとバオバブを見せられ、何て力強くて奇妙な存在かと思う。何であのような異形のものが地面からにょきにょきと出て根を張っているのか。樹木愛はきっと誰の中にもあるだろう。


オーストラリアのバオバブの実なら持っている

●参照
本橋成一写真展「写真と映画と」
本橋成一写真集『魚河岸ひとの町』
本橋成一+池澤夏樹『イラクの小さな橋を渡って』
荒俣宏・安井仁『木精狩り』


小田ひで次『ミヨリの森』3部作

2009-05-15 21:16:30 | アート・映画

一昨年にテレビアニメ作品として放送された『ミヨリの森』。随分と評判が悪く、貶されたものをあえて誉める人が少ないためか、右に倣えの雰囲気だ。私は傑作だと思ったし、無駄な土建工事から森を護るというメッセージも、その森や人間にあるアニミズム表現の独創性も素晴らしいものだと考えている。確かにサインペンで描いたような絵は好き嫌いがあるだろうし、勧善懲悪的なストーリー展開が気に入らない人もいただろう。しかし2時間という制約、テレビでの広い視聴者層という制約のことを考えれば、まったく悪くない。


主題歌に使われた元ちとせのアルバムのおまけのシール

漫画の原作を読んでみたかったので、思い出した機会に入手した。小田ひで次『ミヨリの森』、『ミヨリの森の四季』、『続・ミヨリの森の四季』(秋田書店)の3部作になっている。このうちアニメ化されたのは1冊目のみだった。家庭事情の影響でひねくれてしまった都会っ子・ミヨリが森のある村に移り住み、精霊たちを見ることができるばかりか、自分が森の守り神であることを知る。そしてダム建設計画を知り、阻止するため、絶滅危惧種のイヌワシを探し、環境影響調査を偽装する業者たちを精霊たち、他の子供たちとともに追い出す。

2冊目は、しばらく村に住みたいと思うミヨリが体験する夏と初秋。以前の自分をみるような閉じこもった子どもが村にやってくる。その子も精霊を見ることができるのに、そんなはずはないと否定している。3冊目は冬と春。こんどはネイティブ・アメリカンの親子がミヨリの祖母(以前の森の守り神)を尋ねてくる。

何だか段々と話が妙な方向に発散していくようだが、どれも魅力的である。単なる自然、里山賛歌になっていないのが特筆すべきところ。つい繰り返して読んでしまうのは、ネチャネチャギシギシとしていた皆の心の中が、森の生活という毎日のプロセスの中でほろほろと解きほぐされていく様子が描かれているからだ。細くかすれたペンで描いたような繊細な絵は、サインペン的なアニメ版とは全く異なる。

読んだあと、あらためて録画しておいたアニメ版を観た。印象は以前と変わらない。

ところで、3部作のそれぞれの巻末に、作者による参考文献が掲載されている。ソロー『森の生活』とか宮脇昭『木を植えよ!』などはわかるのだが、なぜ、つげ義春『李さん一家』が含まれているのだろう?(笑)

●参照 そこにいるべき樹木(宮脇昭の著作)