Sightsong

自縄自縛日記

『金達寿小説集』

2015-01-31 22:55:32 | 韓国・朝鮮

『金達寿小説集』(講談社文芸文庫)を読む。この時代に金達寿(キム・ダルス)の作品を文庫で出すなんて快挙ではないか(高いけど)。

金達寿は、日本による併合時の1920年に韓国に生まれ、少年時代に「内地」に渡ってきた。神奈川新聞に入社するも、一時期は韓国に戻り植民地政府の御用新聞で働き、幻滅するという体験をしている(そのあたりのことが、 『玄海灘』(1952-53年)や『わがアリランの歌』(1977年)に書かれている)。特筆すべきは、日本において日本語で書くという、さまざまな意味で複層的な活動を行ってきたことだ。

本書には、『玄海灘』と同じく芥川賞候補になったユーモラスな作品「朴達の裁判」(1958年)のほかに、興味深い短編がいくつか収録されている。

「位置」(1940年)は「善良なる日本人」が朝鮮人に向ける差別を、そして「富士の見える村で」(1951年)は「民」というマイノリティが別のマイノリティたる朝鮮人に向ける差別を描いた作品であり、底無しの、やり切れないほどの絶望感が吐露されている。

「濁酒の乾杯」(1948年)も複雑だ。ここには、朝鮮人が日本人の手先となり朝鮮人を抑圧する姿がある。

「対馬まで」(1975年)には、郷里に戻れない者たちの念が文字通り噴出している。そして、自身が少年時代に郷里を去った体験を描いたごく短い小説「祖母の思い出」(1946年)に渦巻く哀切の念はすさまじい。

●参照
金達寿『玄海灘』(1952-53年)
金達寿『朴達の裁判』(1958年)
金達寿『わがアリランの歌』(1977年)


ヴィジェイ・アイヤー+プラシャント・バルガヴァ『Radhe Radhe - Rites of Holi』

2015-01-31 10:07:05 | 南アジア

ヴィジェイ・アイヤーが音楽を担当し、プラシャント・バルガヴァが映像を撮った『Radhe Radhe - Rites of Holi』(ECM、2014年)を観る。

Vijay Iyer (p, composition)
International Contemporary Ensemble

インド北部の祭祀。極彩色の粉や泥にまみれた、誰がみても非日常の時空間に、ストラヴィンスキーを意識したアイヤーが音楽を付けていく。

映像にはもちろん目を奪われる。しかし、俯瞰したり、中望遠で被写体以外のボケを活かしたり、少しコマ送りを粗くしたりと、その手法はあまりにもステレオタイプだ。要は、恥ずかしげもないオリエンタリズムなのであり、観ながら恥ずかしくなってしまう。もちろん、アイヤーはインド系であり、バルガヴァをはじめとするスタッフもインドである。しかしそのことは、オリエンタリズムを回避しおおせているという理由にはならない。

アイヤーに求めるものもこれではない。

●参照
ジャファール・パナヒ『これは映画ではない』、ヴィジェイ・アイヤー『In What Language?』
ヴィジェイ・アイヤーのソロとトリオ


トマ・ピケティ『21世紀の資本』

2015-01-31 09:40:08 | 政治

トマ・ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房、原著2013年)を読了した。分厚くて重く、混んだ電車の中で立って読むのには向いていないこともあって、ずいぶん時間がかかってしまった。

ただし、内容は驚くほど明快であり、ひるむことはない。何しろ大ブームで、解説本やテレビの講義番組などが大流行だが(わたしも来日講義を聴講しようとしたが、2回とも落選してしまった)、時間があるなら簡単に済ませず本書をじっくり読むことを勧める。キーワード的な結論だけを何かの主張の手段として使うよりも、考えながら脳内回路に沈着させていくべきだと思うからだ。

本書の最大の特徴は、可能な限り、所得や資本の定量的なデータを過去に遡って詳細に収集し、それによる分析結果に基づいて議論を展開していることだ。逆に言えば、マルクスの仕事を含め、従来の分析がいかにそのような手法からかけ離れており、場合によっては、いかに自分の示したいストーリーという鋳型に分析を当てはめているかということである。

従来の分析とは過去のものばかりではない。現在の資本主義のもとで、富が看板通りに再分配されるということが神話に過ぎないことも、「資本が中国に所有されつつあるという恐怖」が幻想に過ぎないことも、明確に示される。

本書において示される最も重要な成果は、資本が肥大化していくメカニズムだろう。資本は必然的に蓄積されてゆき、それは元々資本を保有する者のもとから離れることはない。持てる者は何かを行うための原資も、そのためのさまざまな手段やノウハウも持つ。従って、社会のモビリティは失われてゆき、構造が硬直化する。それを突き崩すのは、教育の向上による個人の「能力」のかさ上げでは不十分である。

すなわち、「格差」とは、資本主義という経済社会の構造から必然的に生み出される結果なのだ、ということである。ピケティが提言する最も効果的な処方箋は、資本に対する累進課税そのものである。現在の先進国における政策がそれに逆行したものであることは言うまでもない。かれの予測によれば、このままでは、資本の少数者への集中と社会の硬直化はさらに進む。

●参照
デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』
『情況』の新自由主義特集


トリオ3+ジェイソン・モラン『Refraction - Breakin' Glass』

2015-01-30 06:33:53 | アヴァンギャルド・ジャズ

トリオ3+ジェイソン・モラン『Refraction - Breakin' Glass』(Intakt、2012年)を聴く。

Trio 3:
Reggie Workman (b)
Oliver Lake (as, ss, voice)
Andrew Cyrille (ds, voice)
+
Jason Moran (p)

「トリオ3」は、オリヴァー・レイク、アンドリュー・シリル、レジー・ワークマンという「レジェンド3人衆」によるスーパー・グループである。しかし、第一作『Live in Willisau』(1992年)が出た当時聴いてピンと来ず、やがて手放してしまった。

オリヴァー・レイクのアルトサックスが好みの音でなかったことが、ひとえにその理由だった。何だか息が「んぐっ」とそのあたりで詰まっているようで、また、サックスのマウスピースのハードラバーに歯がこすれるような嫌な感覚もあった。『ジョーズ』において、ロイ・シャイダーが黒板をひっかいて皆を黙らせる、あの感じ。

そんなわけで、レイクのリーダー作もすべて手元から消えてしまったのだが、気にはなっていたのである。特にトリオ3では、最近、イレーネ・シュヴァイツァー、ジェリ・アレン、ジェイソン・モラン、ヴィジェイ・アイヤーと、新たな生き血をすするようにピアニストをゲストに起用し続けており興味津々。そんなわけで、ジェイソン・モラン参加作を入手した。

もちろん、中庸な音のワークマンも、キレキレに薄く鋭く砥がれた刃物のようなシリルも良い。そして、確かに、変なカオスが内奥で渦巻いているようなレイクの音には、硬質な響きを持つピアニストが向いているのかなととらえた。また、ピアノが刺激剤として機能しているというだけでなく、レイクのサックスも別のイメージを抱きながら聴くと良いものだと感じ始めることができた。自らの内臓に向けてもぐり続けるような音色?何をいまさら。

●参照
ビル・マッケンリー+アンドリュー・シリル@Village Vanguard
US FREE 『Fish Stories』(シリル参加)
アンドリュー・シリル『Duology』
アンドリュー・シリル+グレッグ・オズビー『Low Blue Flame』
アンドリュー・シリル『Special People』
ビリー・バング+サン・ラ『A Tribute to Stuff Smith』(シリル参加)
レジー・ワークマン『Summit Conference』、『Cerebral Caverns』
『苦悩の人々』再演(レイク参加)
ワールド・サキソフォン・カルテット『Yes We Can』(レイク参加)


ほぼ日手帳とカキモリのトモエリバー

2015-01-30 00:06:14 | もろもろ

仕事でも私用でもたくさん書くので、とにかく紙やノートは自分にとって大事である。

手帳は、去年までの2年間、レイメイ藤井のA5サイズのスケジュールノートを使っていた。見開きで左に1週間分の予定を記入でき、右にあれこれ書けるのがよかったのだが、書くスペースが足りず、また普通の紙では万年筆を使うと滲んでしまう欠点があった。

そんなわけで、今年から、同じA5サイズの「ほぼ日手帳カズン」を使っている。予定の記入に加え、毎朝開いて、思いつくことややるべきことをたくさん書き込めるのが良い。そして、万年筆を使ってみて感動した。ペラペラに薄いくせにインクが裏抜けせず、滲みもなく書きやすい。あえて難点を言えば、インクが乾くのに少々時間を要することくらいだ。

この紙は、巴川製紙所の「トモエリバー」。これは素晴らしいと思い調べてみると、蔵前の「カキモリ」でもこの紙を扱っている。さっそく訪ねて、ノートを作っていただいた。ここは面白いお店で、紙だけでなく、表紙、リング、留め具を選ぶことができる。同じ紙を選んだので当然ではあるが、書き心地抜群。他のパターンも試したくなるのが困りものである。

ヘルツのカバーに「ほぼ日手帳カズン」、カキモリのノート

ほぼ日手帳カズン

カキモリのノート

●参照
万年筆のインクを使うローラーボール


トム・ハレル『Trip』

2015-01-28 06:58:25 | アヴァンギャルド・ジャズ

トム・ハレルの新作『Trip』(High Note、2014年)。

Tom Harrell (tp, flh)
Mark Turner (ts)
Ugonna Okegwo (b)
Adam Cruz (ds)

一聴して、拍子抜けするくらい普通のカルテット演奏であり、奇抜な工夫だとかサプライズだとかいったようなものはまったくない。マーク・ターナーのテナーサックスも滑らかすぎるくらい滑らかである。

コンテンポラリーがこれでいいのか、いいのだ。何しろトム・ハレルのプレイをじっくり聴くことができる。この一瞬間を置いて繰り出される端正な音は、とても気持ちが良い。ハレルの独特な曲作りにもよるところが大きいのかな。

ハレル自身のツイッターによれば、アンブローズ・アキンムシーレと組んでの新しいプロジェクト「Something Gold, Something Blue」が進められているという。ふたりの個性的なトランペットがどのような作品を生み出すのか、また楽しみになってきた。

●参照
トム・ハレル『Colors of a Dream』


アルバート・マンゲルスドルフ『A Jazz Tune I Hope』、リー・コニッツとの『Art of the Duo』

2015-01-25 22:52:00 | アヴァンギャルド・ジャズ

気が向いて、アルバート・マンゲルスドルフを聴いている。実は、昔、新宿DUGでのライヴ盤(1971年)に馴染めずいまに至るのだが、それも美味しいものを逃してきたような気がして。

■ 『A Jazz Tune I Hope』(MPS、1978年)

Albert Mangelsdorff (tb)
Wolfgang Dauner (p)
Eddie Gomez (b)
Elvin Jones (ds)

また聴いてみようと思ったのは、エルヴィン・ジョーンズの参加によるところが大きいのだが、やはり期待以上のプレイだった。ん、どどっ、と、ボディのあらゆる箇所を叩かれ続ける感がエルヴィンならではだ。しかも油断して弛緩した部分に。

マンゲルスドルフはといえば、確かに大変なレベルのテクニシャンだったのだなと強く思い知らされる。吹きながらの肉声の混入も含めて、実に多彩な音色の群れなのだ。

編成はカルテットだが、1曲おきに、ピアノ、ドラムス、ベースそれぞれとのデュオで演奏される。それはそれで愉しいのだが、やはり全員がそろって、エルヴィンの鞭で泡を吹くくらいに煽られて演奏するほうがカラフルだ。(エディ・ゴメスのダサいベースはさほど気にならない。)

■ リー・コニッツとの『Art of the Duo』(Enja、1983年)

Albert Mangelsdorff (tb)
Lee Konitz (as)

こんな興味深いデュオがあることを知らなかった。これは変態の室内楽だ。

マンゲルスドルフのテクはここでも鮮やか。これに、まだふくよかに変貌しきる前のコニッツのアルトサックスが絡む(このセッションの数年前に吹きこまれたギル・エヴァンスとの演奏では、もっとエアが入っていたような)。緊張感が漂っているようでいて、あるいはリラックスしているようでもあって、何とも不思議。このふたりには、演奏しながらどのような時間が流れていたのだろう。

●参照
リー・コニッツ『Jazz at Storyville』、『In Harvard Square』
ケニー・ホイーラー+リー・コニッツ+デイヴ・ホランド+ビル・フリゼール『Angel Song』
ギル・エヴァンス+リー・コニッツ『Heroes & Anti-Heroes』
リー・コニッツ+ルディ・マハール『俳句』
今井和雄トリオ@なってるハウス、徹の部屋@ポレポレ坐(リー・コニッツ『無伴奏ライヴ・イン・ヨコハマ』)
ジャズ的写真集(2) 中平穂積『JAZZ GIANTS 1961-2002』


ジェレミー・ペルト『Tales, Musings and other Reveries』

2015-01-25 08:36:11 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジェレミー・ペルト『Tales, Musings and other Reveries』(High Note、2014年)を聴く。

昨年(2014年)の6月に、ニューヨーク・SMOKEでこのグループによる演奏を観たとき、9月の録音を公表していた。ライヴが鮮やかなものでもあったため、楽しみにしていた。

Jeremy Pelt (tp)
Simona Premazzi (p)
Ben Allison (b)
Billy Drummond (ds)
Victor Lewis (ds)

右チャンネルはビリー・ドラモンド、左チャンネルはヴィクター・ルイス。ふたりのドラマーがまったく異なる文脈のパルスとリズムを発するわけである。両方の音に耳をそばだてていると、そのふたつが時々刻々と形成するカオスが、何やら映像的なイメージとなって脳内に現れる。

こんなカオスの中で、ペルトのトランペットは奇をてらうことなく真ん中を突き進む。いやこれは聴けば聴くほど素晴らしい。ふと、何年か前に来日したMLBのライアン・ハワードのバッティングを思い出す。ハワードは、あらゆる日本投手の球を余裕をもって迎え、ただシンプルに、驚嘆するような打球を打ち返していた。

クリフォード・ジョーダンの「Glass Bead Games」など曲も良い。ペルトのこの路線をもっと続けて聴きたいところ。


ジェレミー・ペルト、2014年6月、SMOKE(NY) 

●参照
ジェレミー・ペルト@SMOKE
ジェレミー・ペルト『Men of Honor』
ルイ・ヘイズ『Dreamin' of Cannonball』(ペルト参加)


『けーし風』読者の集い(25) 2014 沖縄の選択 ―県知事選をふり返る

2015-01-24 23:12:25 | 沖縄

『けーし風』第85号(2014.12、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した(2015/1/24、神保町区民館)。参加者は8人。

特集は「2014 沖縄の選択 ―県知事選をふり返る」。2014年11月に翁長・新沖縄県知事が誕生した選挙を経て、辺野古新基地の建設強行、日本政府の新知事への異常な冷遇などが目立っている、そんな状況の中で。

以下のような話題。

○沖縄の反基地運動は、長い期間を経て、小さい種がつながってきている実感がある。
○翁長知事に対する評価。もともと仲井眞陣営の保守派であった人である。那覇市長時代の政治に対する厳しい評価もある。「本土」の保守とは明らかに異なるという見方と(沖縄戦の体験)、辺野古新基地の建設強行に対する積極的な関与が(今のところ)見られないことへの懸念と。
○「オール沖縄」という統合の方法はこれまで成功してきているが、その継続についての懸念。
○翁長知事は「イデオロギーよりアイデンティティ」を標榜してきた。「イデオロギー」とは、従来、保守が革新を揶揄・批判するために使われてきた言葉でもある。おそらく、翁長知事はそのことに意識的であり、保革を超えるために使ったのでもあった。
○運動において、「議論と実践と」を往還することが沖縄の特徴でもあるだろう。
○「普天間の返還」と「辺野古新基地建設」とは別個の問題であるはずだが、96年のSACO合意以降、パッケージで進められてきた。しかし、その直前の橋本首相の発言は「普天間の返還」であったはずで、そこからSACO合意までの間に狡猾に組み込まれたものではないか。なお、「本土」のメディアは無自覚に「普天間移設問題」と称するが、沖縄では、問題の構造を理解した上で、(共通言語という理由より)「普天間移設」という言葉を使っているようだ。
○翁長知事の公約に、高江の問題を入れたことについて(高江公約要請アクション)。もとより辺野古の問題を「ワンイシュー」とする合意があったゆえに、高江の問題をことさらに入れようとすることに対する「同調圧力」的な批判があったのではないか。このことも、運動の内部にある問題を示している。
○沖縄財界の「辺野古反対」への転換は、有力な諸企業グループが、もともと保守派のなかでも翁長派であったことによる政治的な現象でもあった。
○八重山においては、仲井眞知事票のほうが多かった。ここで見られる日本ナショナリズムについて。

●参照
これまでの『けーし風』読者の集い


『沖縄 島言葉(しまくとぅば)の楽園』、『狂気の戦場 ペリリュー』

2015-01-24 10:08:32 | 沖縄

沖縄の諸問題に詳しいOさんに貸していただいて、NHKのドキュメンタリーを2本。

『沖縄 島言葉(しまくとぅば)の楽園』(ETV特集、2014/10/4)(>> リンク

UNESCOは、琉球弧において、消滅の危機に瀕している言語グループが大きく6種類(国頭、沖縄、宮古、与那国、八重山、奄美)あるとして懸念を示している。沖縄本島の「ウチナーグチ」は全沖縄を代表するわけではなく、そのひとつに過ぎない。沖縄には800を超える言葉があるという。

8世紀以前に九州にあった言葉を源流として、近畿に流れた言葉が日本語となり、11世紀頃に沖縄に流れた言葉が「島言葉(しまくとぅば)」となったという。支配の言葉たる首里の言葉が公用語、しかし、琉球王国では地方の言葉を抑圧することはなかった。

番組には、沖縄本島の最北端にある奥(国頭村)や、那覇の栄町市場が登場する。

国頭村には20の集落があり、それぞれ言葉が微妙に異なっていた(往来も難しかったからだろうね)。そこで紹介される昔からの文化は面白い。イジュの樹皮から弱い毒を取り出し、それによって海の魚を獲る「ブレーザサ」。近代にいたり、機能を求め強い毒が使われるようになり、獲り過ぎや毒の影響が問題視されて「ブレーザサ」は言葉もろとも衰退した。また、2年に1回行われる「ビーンクイクイ」という祭は、豊作や長寿を祈り、集落の長老を桶に入れて練り歩くというもの。奥には沖縄最初の共同店もある(わたしは100周年のときに訪れたことがある)。また行きたくなる魅力がある。

栄町市場では、「庶民の言葉」である那覇の言葉を大事に残そうとする動きの紹介。確かに栄町には、たまに行くたびに何かの変化があって、商店街の活性化というだけにとどまらない面白さがある。

国連の人種差別撤廃委員会は、日本政府に対し、沖縄の先住民族を認めるよう勧告するとともに、島言葉での教育の必要性についても言及している。このことは、日本による沖縄支配の歴史の正当性を問うものでもある。

最後に、スコットランドの自治権拡大の紹介(島袋純さん)。スコットランドは18世紀にイギリスに統合されたが、1999年に大幅な自治権の獲得、特に教育に関する立法権の獲得に成功した(分権改革)。その後、ゲール語の復興と多言語社会への志向が強まっていった。2014年の独立国民投票は、イギリスに残るという結果となったが、島袋さんは、このプロセスはさらなる自治権の拡大につながるだろうとみる。

言葉は文化そのものであり、人間そのものでもある。これまで奪われてきた独自の言葉を取り戻そうとする動きには共感するところが大きかった。

■ 『狂気の戦場 ペリリュー ~"忘れられた島"の記録~』(NHKスペシャル、2014/8/13)(>> リンク

太平洋・パラオ諸島の小島ペリリューは、太平洋戦争の中でもかなり異質な日米間の戦闘が行われた地である。米軍はフィリピン・レイテ島を攻めるための拠点として、ペリリューに海兵隊を派遣した。日本軍はやはり防衛の重要拠点として関東軍の精鋭を派遣した。

1944年9月、アメリカ海兵隊が上陸。当初は2-3日で制圧できるものと考えていたという。しかし、その直前に、日本軍の大本営は、戦争を長引かせるための持久戦を行うよう方針転換を行っていた。石灰岩でできた山には網目のようなトンネルが掘られ、日本軍にとって天然の要塞と化した。戦車の性能には大きな差があったが、米兵にとって、いつどこから攻撃されるかわからないという恐怖心は大きく、精神に異常をきたすものもあらわれた。

1944年10月、米軍(マッカーサー)はレイテ島を直接攻撃。ペリリューの戦略的な意義は失われたが、それでも、戦闘は継続された。米軍は130m届く火炎放射器や飛行機から投下するナパーム弾を投入し、日本軍のほぼ全員を殺戮した。一方、大部分の米兵も死傷した。異常な戦闘であった。

これが、その後、「本土防衛の捨て石」として展開される硫黄島や沖縄戦のはじまりであり、また、それらの場所では、火炎放射器やナパーム弾がより大規模に使われることとなった。

●参照
『海と山の恵み』 備瀬のサンゴ礁、奥間のヤードゥイ
島袋純さん講演会「"アイデンティティ"をめぐる戦い―沖縄知事選とその後の展望―」
城間ヨシさん、インターリュード、栄町市場
Leitz Elmarit 90mm/f2.8 で撮る栄町市場と大城美佐子
栄町市場ライヴ
栄町市場
米国撮影のフィルム『粟国島侵攻』、『海兵隊の作戦行動』


鈴木則文『トラック野郎・望郷一番星』

2015-01-22 07:49:39 | 北海道

鈴木則文『トラック野郎・望郷一番星』(1976年)を観る。

舞台は北海道。ライバルは梅宮辰夫、マドンナは島田陽子。特別出演・都はるみ。ついでに松鶴屋千とせ、由利徹のいつもの芸。片思いの恋と喧嘩と爆走と。以上!

いや面白いんだけど、なんでここまでバカバカしく作ることができたのか。いやになるほどバカバカしくて笑える。鈴木則文よ永遠に、菅原文太よ永遠に。(ふたりとも昨年亡くなった)

●参照
鈴木則文『少林寺拳法』(1975年)
鈴木則文『ドカベン』(1977年)
鈴木則文『トラック野郎・一番星北へ帰る』(1978年)
鈴木則文『忍者武芸貼 百地三太夫』(1980年)
鈴木則文『文学賞殺人事件 大いなる助走』(1989年)


浅川マキ『ふと、或る夜、生き物みたいに歩いているので、演奏家たちのOKをもらった』

2015-01-20 07:24:38 | アヴァンギャルド・ジャズ

浅川マキ『ふと、或る夜、生き物みたいに歩いているので、演奏家たちのOKをもらった』(東芝EMI、1980年)。

以前はさほど多く見かけるLPレコードでもなくて、わたしも90年代の終わりころに必死になって探して手に入れ、大事に持っている。数年前に浅川マキの旧作品の多くがCD化されたとき、何となく意識しないようにしてしまい、時間が経ってしまった。亡くなったあとすぐには聴く気にならないのだった。

浅川マキ (vo)
渋谷毅 (p)
川端民生 (b)
トニー・木庭 (ds)
杉本喜代志 (g)
坂田明 (as)

あらためてCDで聴いてみると、LPにあったリアルさが希薄になっているような気がしてならないのは思い入れが強いためか。

それはともかく、何度リピートしてもすべてが迫ってくる。マキさんの微妙なビブラートや、歌いながら口蓋内と喉を歪めてよれていく声、ささやき。凄まじい強度の諦めと悦び。こんな歌手はいなかった。

それに加え、「ボロと古鉄」における坂田明のアルトソロは最高のもののひとつだし(これもLPのほうが断然良いのだが)、もちろん渋谷毅も杉本喜代志も川端民生も。「ふしあわせという名の猫」で締めくくられると、ノーコメントで自分の中に閉じ込めたくなる。

●参照
浅川マキの新旧オフィシャル本
『浅川マキがいた頃 東京アンダーグラウンド -bootlegg- 』
『ちょっと長い関係のブルース 君は浅川マキを聴いたか』
浅川マキが亡くなった(2010年)
浅川マキ DARKNESS完結
ハン・ベニンク キヤノン50mm/f1.8(浅川マキとの共演、2002年)
浅川マキ『闇の中に置き去りにして』(1998年)
浅川マキ『アメリカの夜』(1986年)
浅川マキ+渋谷毅『ちょっと長い関係のブルース』(1985年)
浅川マキ『幻の男たち』 1984年の映像
オルトフォンのカートリッジに交換した(『ふと、或る夜、生き物みたいに歩いているので、演奏者たちのOKをもらった』、1980年)
『恐怖劇場アンバランス』の「夜が明けたら」、浅川マキ(1973年)
宮澤昭『野百合』


ダニエル・ユメール+トニー・マラビー+ブルーノ・シュヴィヨン『pas de dense』

2015-01-18 22:32:19 | アヴァンギャルド・ジャズ

すっかりトニー・マラビーの音が病みつきになってしまい、ダニエル・ユメール+トニー・マラビー+ブルーノ・シュヴィヨン『pas de dense』(Zig Zag Territories、2009年)を聴く。

Daniel Humair (ds)
Tony Malaby (sax)
Bruno Chevillon (b)

ユメール、シュヴィヨンのふたりを目の当たりにして、何だこれはと仰天したのは1999年。新宿のDUG(もう無いほう)において、ユメール、シュヴィヨンにギターのマルク・デュクレを加えたトリオだった。シンバルばかりで音世界を創り出すユメールにも、ばきばきの不連続なフレーズを繰り出すデュクレにも驚いたのだった。そして、それにも増して、暴力的にアナログ世界にデジタル技術を持ち込んだような感覚というか、まったく思いもよらないイディオムというのか、シュヴィヨンの異次元技術のベース演奏は新鮮そのものだった。

ここでも、ユメールとシュヴィヨンの個性は全部開陳されている。何かが出てくるたびに、ああ来た来たと思ってしまう。

さらに、あらゆる音を提示する人・マラビーが参加している。このサックスには本当に心が動かされる。樹木の中で表情豊かな樹皮や葉叢を取り出したような、魚の中でも一番旨い骨の横の部分を取り出したような、何といえばよいのだろう。来日してくれないかな。

●参照
トニー・マラビー『Scorpion Eater』、ユメール+キューン+マラビー『Full Contact』
トニー・マラビー『Adobe』、『Somos Agua』
トニー・マラビー『Paloma Recio』
クリス・デイヴィス『Rye Eclipse』、『Capricorn Climber』(マラビー参加)
ジェシ・スタッケン『Helleborus』(マラビー参加)


ジャック・デジョネット『Made in Chicago』

2015-01-18 09:10:12 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジャック・デジョネット『Made in Chicago』(ECM、2013年)。

最近これほどまでに楽しみにしていた盤はなかった。何しろ、ヘンリー・スレッギル、ロスコー・ミッチェル、ムハール・リチャード・エイブラムスというAACMを代表する面々の共演である。スレッギルとミッチェルとは、記憶では、70年代の『Nonaah』や『L-R-G / The Maze / S II Examples』において共演しているものの、これまでさほど大きな録音での絡みはなかったのではないか。スレッギルとエイブラムス、ミッチェルとエイブラムスとはいくつもの印象深い接点があった。

あまりそのような印象はないが、デジョネットもれっきとしたシカゴ人脈である。60年代前半には、スレッギル、ミッチェル、デジョネットともに、エイブラムスの「エクスペリメンタル・バンド」に入っていた経緯がある。(デジョネットはその後すぐにニューヨークに進出し、チャールス・ロイドのグループに入った。)

Henry Threadgill (as, bass fl)
Roscoe Mitchell (sopranino sax, ss, as, baroque fl, bass recorder)
Muhal Richard Abrams (p)
Larry Gray (b, violoncello)
Jack DeJohnette (ds)

そんなわけで、昨日入手してからずっとこればかり聴いている。

もっとも心を動かされるのは、ミッチェルの変態ぶりだ。Joeさんのレビューの通り、かれのサックスは、確信犯的に「呪術的」で「ぐじゃぐじゃ」なのだ。ミッチェルは昔からそうなのだが、今なお過激。余人の到達できないところに平然として立っているように見える。

それに対峙して、スレッギルもまた強烈な存在感を発散する。ミッチェルのソロのなかに唐突に入っていくフルートのおぞましさなんて、もうぞくぞくさせられるのだ。そして時空間を刃の粗いナイフでざくりと切り裂いていくようなサックスも健在。もはやかつてのように吹きまくるわけではないし、自身のリーダー作のようにおそろしく緊密なアンサンブルで固めるわけではないのだが、個性だけは消しようもなく残っている。これは感涙ものだ。

もちろん、巨大な石の空間に鳴り響くような奥深さを持つエイブラムスのピアノも素晴らしい。このメンバーの中でデジョネットの影はどうしても薄くなってしまうが、そうはいっても、硬直化されない自遊空間を作りあげているのは、かれのドラムスに違いない。

何度聴いても捉えきることができない音楽である。熱烈推薦。

●参照
ヘンリー・スレッギル(1)
ヘンリー・スレッギル(2)
ヘンリー・スレッギル(3) デビュー、エイブラムス
ヘンリー・スレッギル(4) チコ・フリーマンと
ヘンリー・スレッギル(5) サーカス音楽の躁と鬱
ヘンリー・スレッギル(6) 純化の行き止まり?
ヘンリー・スレッギル(7) ズォイドの新作と、X-75
ヘンリー・スレッギル(8) ラップ/ヴォイス
ヘンリー・スレッギル(9) 1978年のエアー
ヘンリー・スレッギル(10) メイク・ア・ムーヴ
ヘンリー・スレッギル(11) PI RECORDINGSのズォイド
ワダダ・レオ・スミス『The Great Lakes Suites』(スレッギル、デジョネット参加)
ワダダ・レオ・スミスのゴールデン・カルテットの映像(デジョネット参加)
テリエ・リピダル+ミロスラフ・ヴィトウス+ジャック・デジョネット
キース・ジャレット『Standards Live』(デジョネット参加)
『Tribute to John Coltrane』(デジョネット参加)
アリス・コルトレーン『Universal Consciousness』、『Lord of Lords』(デジョネット参加)
ムハール・リチャード・エイブラムスの最近の作品
『Interpretations of Monk』(エイブラムス参加)
ロスコー・ミッチェル+デイヴィッド・ウェッセル『CONTACT』
アート・アンサンブル・オブ・シカゴの映像『LUGANO 1993』(ミッチェル参加)
アート・アンサンブル・オブ・シカゴ『苦悩の人々』(ミッチェル参加)
アート・アンサンブル・オブ・シカゴ『カミング・ホーム・ジャマイカ』(ミッチェル参加)


中藤毅彦『STREET RAMBLER』

2015-01-17 23:29:16 | 写真

渋谷のギャラリールデコに足を運び、中藤毅彦さんの写真展『STREET RAMBLER』を観る。

東京、ベルリン、モスクワ、サンクトペテルブルグ、ハバナ、上海、ニューヨーク、パリ。会場には、氏がさまざまな都市でざっくりと切り取ったスナップが展示されている。これまでに観た作品もある(写真集『パリ』は素晴らしかった)。

すべて高感度のモノクロで撮影された写真群は、銀塩のざらつきとぎらつきとが相まって、こちらに迫りくる力を持っている(それは誰にも否定できないだろう)。もちろん写真のマチエールだけによる迫力ではない。被写体の内臓にまで肉薄する覚悟のようなものも否応なく感じさせられるのである。

中藤氏はよく森山大道の後継者的に評価されることがあるが、共通するのは、都市の彷徨と、モノクロの粒子感くらいのものだ。被写体へのアプローチも写真の放つ力の種類もまるで異なるものだと思う。

●参照
中藤毅彦『Paris 1996』
中里和人『光ノ気圏』、中藤毅彦『ストリート・ランブラー』、八尋伸、星玄人、瀬戸正人、小松透、安掛正仁
須田一政『凪の片』、『写真のエステ』、牛腸茂雄『こども』、『SAVE THE FILM』
中藤毅彦、森山大道、村上修一と王子直紀のトカラ、金村修、ジョン・ルーリー