Sightsong

自縄自縛日記

海原修平『消逝的老街』 パノラマの眼、90年代後半の上海

2010-11-28 15:33:26 | 中国・台湾

上海で活動する写真家の海原修平さんから、写真集『消逝的老街』(上海錦綉文章出版社、2007年)を送っていただいた。発送のご連絡があったのが、こちらが上海経由で杭州に居たときで、帰国してから手に取るという奇妙な感覚。

1996年から2000年までの上海の古いまちが捉えられている。全てがモノクロのパノラマ写真である。ひと昔前にどの一眼レフにも付けられていた、35mmの上と下をカットするだけの似非パノラマではない。レンズがぐるりと回るパノラマカメラによって撮られている。

これは見覚えがあると思って探したら、『クラシックカメラ専科39 モダンクラシック・レンズ編』(朝日ソノラマ、1996年)の巻頭に2葉掲載されている。それによると、フィルムはイルフォードXP-2、カメラはドイツ製のノブレックス135U(29mmF4.5)、サブ機としてワイドラックスF8(26mm)。ロシアのホリゾンも試したが性能が満足できるものではなかったという。この写真集の作品が撮られ始めた時期である。

作品群は何度も最初から最後まで観てしまうほど素晴らしい。この種のパノラマカメラを使ったことはないが、他者の作品を観る限りにおいては、眼前が妙に湾曲して間延びし、おかしな世界になってしまっていることが多かった。しかしここでは、画面の左と右に別々の路地を配し、上海の裏道ならではの有り様を捉えている。視線が左へ右へと彷徨うのだ。路地だけではない。片方の眼では雀荘の中を覗きこんでいる作品には驚いてしまう(私も中国を散歩しながら撮影していても、雀荘にはまだ入っていく勇気がない)。

ひとつの路地、あるいは広い空間を捉えた作品も魅力的だ。レンズに気付く人も気付かない人もいる。気付くかどうかはどちらでもいいことであって、泰然としている人も多い。実は、この個人の揺るがなさは、日本人にはあまり見られない、学ぶべき点のひとつでないかと私などは思っている。

『季刊クラシックカメラ18 ローライ』(双葉社、2003年)には、海原さんがローライフレックス3.5Fを使って撮った上海・大世界(行ったことはない)の作品がある。パノラマの眼とはフォーマットも画角も対照的だ。『消逝的老街』を紐解いていくと、路地は超広角やパノラマでなければ駄目だなどと思ってしまうのだが、これはこれ。面白いものである。それはともかく、ローライの作品群はデジタルスキャンしたあとに覆い焼きを行っているという。『消逝的老街』のモノクロプリントは、暗いところで撮られた作品群である以上、覆い焼きが不可欠であっただろうと想像するのだが、それがアナログなのかデジタルなのか訊ねてみたいところ。写真集のお礼にビールを振る舞う約束(笑)なのだが、当面は年明けに北京に足を運ぶ計画しかなく、さて、いつお会いできるだろう。

写真集には小さいCDが付いていて、この中に90年代上海のまちの音が収録されている。人々の声はもとより、車の音、おそらくは街頭で料理をする鉄鍋とお玉の音、奇妙な電子音などがざわざわと流れ出てきて、とても愉しい。さっき再度聴きながら写真を眺めていたら、何の作用か、猛烈な睡魔に襲われてしまった。

●参照 上海錦綉文章出版社の写真集
陸元敏『上海人』、王福春『火車上的中国人』、陳綿『茶舗』
張祖道『江村紀事』、路濘『尋常』、解海?『希望』、姜健『档案的肖像』
劉博智『南国細節』、蕭雲集『温州的活路』、呉正中『家在青島』


平井玄『愛と憎しみの新宿』

2010-11-28 11:07:57 | 関東

平井玄『愛と憎しみの新宿 ―――半径一キロの日本近代史』(ちくま新書、2010年)を読む。私にとっての街は、大学時代によく呑みにいった渋谷でも上野でも、昔住んだ谷根千あたりでも、猥雑ながらミニマルな中央線沿線でも、足が棒のようになるまでうろつく神保町でもなく、やはり海のような新宿であるから。ああ、また彷っつきに行きたくなってくる。

ここに愛憎を込めてきっと体液で記されているのは、60年代以降の新宿である。私の新宿はせいぜい90年代以降、はじめて聴く話が多い。それでも新宿は新宿で、新宿ピットイン(昔の場所には入ったことがないが)も、「街の底へ向かう入口」として紹介されている独立本屋の模索舎も、ここには書かれていないが三丁目のどん底も、歌舞伎町コマ横のナルシスもまだ存在している。エイズで亡くなったミシェル・フーコーが二丁目に赴くために使っていた常宿もこのあたりにあったという。まさに、著者の言うような、埴谷雄高が宇宙の彼方から見つめる宇宙都市である(なお、『作家の酒』(平凡社)には、埴谷雄高が通っていた店としてナルシスが紹介されている。ナルシスのママが見せてくれた)。

新宿ピットインにさほど頻繁には足を運ばなくなって気が付いていなかったが、すぐ近くには、「ラバンデリア」や「IRA Irregular Rhythm Asylum」といった「アナーキズムの衝動」的な空間ができているようだ。また衝動的に新宿を目指す日は近い。

●参照
どん底とか三上寛とか、新宿三丁目とか二丁目とか
新宿という街 「どん底」と「ナルシス」


中東の今と日本 私たちに何ができるか

2010-11-27 22:18:35 | 中東・アフリカ

東京外大「中東カフェ」と国際交流基金共催のシンポジウム『中東の今と日本 私たちに何ができるか』に出席した(2010/11/23)。

なお、以下は当方の理解に基づく聞き書きであり、各氏の正確な発言録ではない。※印は当方の所感。

■ アフガニスタン情勢 われわれはどう関わっていけるのか

(1) 田中浩一郎(エネ研) 「投げる匙、加減する匙」

○2001年の暫定政権成立以降、今はもっとも治安が悪く、いつの間にかイラク以下になっている。外国軍は最大規模の15万人ながら、武装勢力が「点」から「線」になってきている。
○誤算は地域性や民族性であり、全国横断的な政治団体はできないということ。
○国際的なカルザイ政権批判は主に汚職についてだが、それだけに着目すべきではない。
○集団的自衛権の発動は「オープン・エンド」であり、どこまでやれば終わるのか定められていない。
○イラク戦争への助走時に、アフガンを成功例として脚色した側面がある。
○ISAF(国連治安支援部隊)は治安維持よりむしろ武装勢力の掃討を実施している。
○NATOは2014年以降の治安維持委譲計画を持っている。
日本においては、米国的見方への気遣いがレンズを曇らせてしまった。またテロ特措法による給油活動が論点をすり替えてしまい、まるで民生支援であるかのように見なされてしまった。
○現在、自衛隊の医務官を派遣し、軍医育成を行う議論がなされている。一方、日本ではNGOや市民を中心に「軍隊アレルギー」が強い。しかし、軍にしかできないことがある

※軍にしかできないことがある、との理屈は既に軍の理屈ではないのか、という印象がある。

(2) 伊勢崎賢治(東京外大)

○現在、タリバンは勝てると思っているわけであり、アフガンでの仲介など無理な状況である。
○民主党は、テロ特措法によるインド洋での給油活動の停止をせざるを得なかった。その代わりに、米国を納得させるため、鳩山政権が5年間で総額50億ドルの援助を合意した
○50億ドルの使途は、①治安支援(優秀な国軍と警察を作る)、②タリバン兵の社会復帰支援、③民生支援。
○①については、警察を短期間に急増させることになり、腐敗の象徴と化している。これを命令したのはブッシュ政権下のラムズフェルドである。カルザイ政権にとっては、カネで結びつけることができる力が増えたわけで、歓迎だろう。こんな恥かしい使途を公言するのは日本くらいだ。
○②については、結局はタリバンとの関係がグレーな民兵にカネが流れることになり、逆効果。
○③については、軍事組織が人道支援などすべきではないし、NGOがターゲットになってしまう。
○誰もがNATOに出ていってもらいたいわけだが、それは責任ある戦略をもってでなければならない。
○カルザイ政権は現在唯一の解である。しかし、日本のように彼を喜ばせるような活動はやめたほうがよい。
○ハードターゲットが狙われるのは当たり前であり、ちょっとした攻撃で引き下がると、日本の外交姿勢を疑われてしまう。
○(NATO撤退後の姿に関する質問に対して) 地下資源を狙う中国や、インドの対パキスタン戦略にも影響を与えるだろう。しかし、単純なNATO撤退は考えにくい。望ましくないが、空軍が無人機を利用するという方法もある。国を分割するという出口が最悪であり、テロリストにサンクチュアリを与えてしまう。パキスタンの政治にも影響することが必至で、インドがもっとも恐れていることだろう。
○(なぜ、そもそも国外がアフガンに介入しなければならないのか、という質問に対し) 立場上「介入ありき」である。

(3) 保坂修司(エネ研) 「アフガニスタンの異邦人」

○自爆テロを行った者たちの行動や動機を分析。
○インターネット上の掲示板では、米国・イスラエルへの怒りやイラクに関する書き込みがほとんどであった。しかし、米国やイスラエルに攻撃を仕掛けるのではなく、なぜアフガンで自爆テロを行う必然性があるのか。このような例は少なくない。
○彼らにはジハード、殉教への憧れがある。すなわち、彼らにとっては、より大きな大義のために死ぬことが目的と化している。
○自爆テロは、死にたいと思う人がインターネットで関係するテキストなどを探し、自分の行動を正当化するような「再生産」を繰り返している。テキストやヴィデオなどを見てその影響で自爆するわけではない。
○オサマ・ビン・ラーディンが発言するような「わたしはアッラーの道に殺されたい。それから生き返って、また殺され、また生き返って殺され・・・」といった考えが、アフガン、イラク、ソマリアでの殉教者の見本となっている。
○(自爆テロの源流に関する質問に対して) 19世紀インドでの対英ジハードであるムジャヒディン運動、80年代レバノンでのシーア派などが挙げられる。また、1972年ロッド空港での日本赤軍の乱射事件には、多くのアラブ人たちが共鳴した。現在では、自爆テロはOKだという認識が一般的なものとなってしまっている。

※日本赤軍に関するコメントには少なからず驚きを覚えた。

■ 石油産出国とどうつきあうか 産油国の抱える問題 

(1) 武石礼司(東京国際大学) 「湾岸産油国経済の持続可能性」

○湾岸産油国の外国人比率は非常に高く(UAEでは74%)、どのようにまとめていくのか、どのように産業を育てていこうというのかという問題がある。
○石油収入額はどの国も伸びており、特にサウジが突出している。カネの使い道として武器がある。
国内ではカネは不動産にしか入っていかず、たとえば自動車産業にしても設備だけの問題ではなく育成が難しい。
○(原発入札での日本の韓国への敗退について) 韓国サイドは60年保証という破格の条件に加え、途上国という隠れ蓑も影響した(連結決算すら一般的でない)。しかし実務上は、マスコミが騒ぐような話ではなく、実務的には日本サイドが受注する構造もある。
○中東でユニチャームが広まったのは「快適だから」である。日本人が日本から出たくないのは快適だからだ。つまり、日本が貢献したりビジネスを行ったりする種はあるはずだ。しかし、その気持ちが出てこない。

(2) 中川勉(外務省)

○イラクとアフガンの間にあるイランのプレゼンスが圧倒的なものとなってきている。現在、正規軍40万人+革命ガード10万人=50万人の軍隊を擁している。核開発問題もあり、イスラエルが攻撃を仕掛けるのではないかという危惧がある。
○イランのアフマディネジャド政権は安定している。しかし三選は不可能であるから、2013年には新大統領が誕生する。そのときに何が起きるか。
○日本は石油の90%をGCC(湾岸協力会議)諸国に依存している。一方、米国は輸入先をアフリカなどにもシフトし、エネルギー依存度を下げている。
○(原発入札での日本の韓国への敗退について) 日本政府にとってもショックだった。今後は政府によるトップセールスを積極的にしていく方向に変わってきた。
○(イランのような独裁国では情報が必要にもかかわらず、NHKなどによるニュース配信が不十分だとの指摘に関して) 賛成だが、「仕分け」が厳しく、政府のカネはなかなか使えない。またNHKは国民の受信料を使っているのであり、海外のために利用するのは問題があるとの意見もある。

(3) 河井明夫(中東調査会)

○中東と日本との重層的関係パートナーシップは、日本の教育システムの導入が下支えしている面がある(しつけ、挨拶、公文式)。
○サウジでも若者の失業問題が深刻で、日本の技術に関する職業訓練校を立ち上げる試みがある(その後その企業で働く)。

■ 中東和平の現状と日本 市民にできることは何か

(1) 池田明史(東洋英和女学院大学) 「パレスチナ問題の現在~袋小路の構造と背景~」

○小さいパレスチナにおいて、欧州、アラブ、ユダヤという三つ巴のナショナリズムが対抗していた。そこから欧州が離脱し、アラブとユダヤの二項対立・全否定の関係となった。
○ゴラン高原はイスラエルがシリアから奪ったものであり、構図はわかりやすい。一方、ヨルダン川西岸やガザ地区は「誰から奪った」かが明確でないため、「誰に返すか」もはっきりしない構図。というのも、お互いに相手を認めないからだ。その意味で、返す相手を設定したオスロ合意(1993、1995年)は、ゼロから1になったという大きな意義があった。
○パレスチナ自治が拡がって行ったが、イスラエルに自治地域間を封鎖されてしまうと、都市間の移動が不可能になった。むしろ移動に関しては占領下のほうが自由であった。つまり自治により閉塞感が強まるという逆説だが、このことに国際社会は気付かない。
○パレスチナは、ヨルダン川西岸のファタハとガザ地区のハマスとに分裂した。ハマスはイスラエルを認めない集団であり、ハマスの総選挙での勝利には国際社会は困惑した。
○占領下におかれた時間の長さという非対称的な力関係を考慮に入れる必要がある。
○国家はカネの使い道にプライオリティを付けるものである(例:戦後日本)。一方、パレスチナでは「一度に全部やりたい、そのために援助が必要だ」という論理であり、国を作っていき一体感を醸成する形でなくなっている。
○和解協議は責任不在による持ち越しの連続である。特に、治安組織をハマス、ファタハ、イスラエルがどのように持つのかが難しい問題であり、和解を不可能なものとしている。
○インターネットでの情報の遮断は行われていない。しかし、意識の共有が進まないのは、相手の情報にアクセスしたくないという心理的な要因が働いているからではないか。特に壁の構築が大きな分岐点となった。
○パレスチナの政治的一体性を確保した方が国際的には都合がよいのであり、窓口をひとつにするプロセスには国際社会はあまり立ちいってはならないのではないか。2006年のハマス勝利以降の国際社会介入は判断ミスであった。

(2) 立山良司(防衛大学校) 「中東和平の現状と日本:対パレスチナ援助の現状と問題点」

○1994~2009年の対パレスチナODA援助合計は157億ドル、うちDAC(OECD開発援助委員会)諸国は74億ドル、うち日本は10億ドル。
○日本の対パレスチナ援助の中には、ヨルダン川西岸地域へのごみ処理施設+システム導入なども含まれている。
○パレスチナ経済は貿易収支が大幅赤字という特徴を持ち、支援が赤字の半分以上を補填する構造となっている。また、直接投資がきわめて少ない。
○イスラエルの封鎖により、ガザ地区の1人あたりGDPは急減している。
○イスラエルの占領政策による「de-development」(サラ・ロイ:「経済の内在的な成長に必要な(資本などの)投入が妨げられているため、経済の成長・拡大の能力が蝕まれ弱められるプロセス)、援助依存体質の拡大援助を受ける一部の人々の金持ち化・腐敗和平より日常生活への関心のシフト占領者が持つ実権、といった特徴もある。
○ハマスの中にもいろいろな者がおり、また地域によっても異なる。ハマスがいないふりをすることはできないのであり、公的にも私的にも聴く耳を持つ必要がある。

※de-development、援助漬け、一部の歪な肥大、当事者が持たざる実権など、沖縄に重なる点が多い。

(3) 田中好子(パレスチナ子どものキャンペーン)

○(池田氏の指摘に関して) パレスチナではNGOが昔から活動しており民度が高い。そのため、開発独裁が難しい。
○ガザ地区では8割の人が援助物資に頼っている。
○建設物資以外はカネで手に入る。停電が多いという問題もある。
○facebookが盛んだが、それで知り合って大学の前で歩いていた男女がハマスに拘束されたという事件があった。すでに文化的拘束がはじまっている。

●参照
ソ連のアフガニスタン侵攻 30年の後(2009/6/6)
ガザ空爆に晒されるひとたちの声
酒井啓子『<中東>の考え方』
酒井啓子『イラクは食べる』


大島保克+オルケスタ・ボレ『今どぅ別り』 移民、棄民、基地

2010-11-27 16:59:02 | 沖縄

大島保克の作品の中では(全部聴いてはいないが)、賑々しい楽団のオルケスタ・ボレと共演した『今どぅ別り』(Off Note、1997年)が最も好みだ。もとより大島の名前を知らないときに、かつて故・篠田昌已と「コンポステラ」を組んだ中尾勘二のサックスや関島岳郎のチューバを聴きたくて手に取った。

つい数日前、沖縄料理店で酒を呑んでいると、誰かの唄う「移民小唄」が聴こえてきて、この盤のことを思い出した。明らかなテーマは「移民」と、タイトル『今どぅ別り(なまどぅわかり)』にあるように「別離」である。

冒頭、曲ではなく、どこかの座敷で旅立ちの宴を開いているのであろう音、三線も指笛もざわざわと聴こえてくる。琉球民謡にしてこの盤を異色作たらしめていることが分かる、その後のサンバとマーチの2ヴァージョンの「IKAWU」。大島抜きで、中尾勘二の裏淋しいソプラノサックス、関島岳郎のチューバ、大原裕のトロンボーン、船戸博史のベース、芳垣安洋のタイコ。これはすなわち「行かうー」、アルゼンチンに移民として旅立つ唄である。そして大島保克の唄三線による「移民小唄」。その後は、曲によって何人かが大島をバックアップする。

大島保克は民謡だけだと爺むさいというか(1969年生まれなのに)、抹香臭いというか、そのような面があって(嫌いではないが)、このオルケスタ・ボレとの共演はまた試してほしいところ。

ジントーヨーワルツ」は、旅の別離と淋しさを「ジントーヨー」(そうだね)と共鳴させる。作詞は知名定繁、知名定男の父であり、大阪から日本復帰前の沖縄に父子で密航した歴史を持つ。何年も前、知名定男が言っていた話。「密航日和」(笑)だったにも関わらず沖縄の警察に捕まってしまい、取り調べ中に他ならぬ知名定繁だとわかるや、警察は収監しながらも敬意を持って丁寧に父子をもてなしたという。

「移民小唄」や「移民口説」を作詞した普久原朝喜も大阪で苦労した個人史があるようだ。ところで「移民口説」の曲は「黒島口説」と似ているが、口説(くどぅち)独自の形式があるのだろうか。

かつて沖縄から南米や南方への移民も、台湾への租界も、多くは国策としてなされた。そしてそれらの中には、手段としての棄民政策も、植民政策も含まれていた。移民の心を唄った数々には、望郷の思いも、新たな共同体への思いも込められている。

明日は沖縄県知事選。米軍基地という必然性のない幻想に基づかせる国策は、現在の棄民政策に他ならない。革命はなされるか。

●参照
『サルサとチャンプルー』(キューバ移民)
集団自決(ハワイ移民)
大城美佐子『唄ウムイ』(移民小唄)
浦島悦子『名護の選択』(広東省珠海・三竈島移民)
松田良孝『台湾疎開 「琉球難民」の1年11カ月』(台湾疎開)
『世界』の「普天間移設問題の真実」特集(伊波洋一)
『沖縄基地とイラク戦争 米軍ヘリ墜落事故の深層』(伊波洋一・永井浩)
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
○シンポジウム 普天間―いま日本の選択を考える(1)(2)(3)(4)(5)(6
『現代思想』の「日米軍事同盟」特集
久江雅彦『米軍再編』、森本敏『米軍再編と在日米軍』
『けーし風』2009.3 オバマ政権と沖縄/ガザ、『週刊金曜日』2009/4/10 戦争ごっこに巻きこまれるな
渡辺豪『「アメとムチ」の構図』


ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(上)

2010-11-26 00:12:15 | 思想・文学

頭を掻き乱すために、ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』(上)(河出文庫、原著1980年)を読む。

プラトーとは精神のパフォーマンスのための高原、いわば踊り場である。ガタリはともかく、ドゥルーズを読むとは唄を聴くことであり、唄を聴くとは唄うことである。しかも、肋骨にヒビが入るほどの痙攣的な笑いを引き起こすような。彼らの饒舌に付き合うには立ち止まっては駄目であり、ノリを合わせる他はない。もとより要約など不可能であり、それは唄の要約が無意味なことに似ている。リゾームの意味のグロッサリーなど破り捨ててしまえ・・・・・・そういえば、浅田彰『逃走論』など、高校時代に夢中になったものであったが、この書のどのようなプラトーからも滑り落ちてしまう類のものだ。

彼らは樹木ではなく、有機体ではなく、還元的な地層ではなく、リゾームを、絶え間無き変化を、アレンジメントを、脱領土化を、脱コード化を、器官なき身体を説く。前者のパラダイムが帝国であり、近代であり、資本主義であるとして。そしてミシェル・フーコーの言う権力(微小なものから大きなものまで、トポロジカルなもの)として。

「外国人であること、しかし、単に自国語ではない言語を話す誰かのようにではなく、自分自身の言語においてどもること。二国語あるいは多国語を用いるものであること。しかも地方語、あるいは方言とは関係なく、唯一の同じ国語において。私生児であり、混血児であるが、人種としては純粋であるというふうに。こうしてスタイルは言語となる。こんなふうにして言語活動は強度的となり、価値や強度の純粋な連続体になるのだ。こうして言語は秘密となるが、別に言語の中に秘密の下位システムを出現させるわけではなく、何も隠すことなどないのだ。」

政治への意志はやはり連続的に、饒舌の中にトポロジカルに出現する。メジャーへの意志は樹木への意志であり、専制君主のもたらすシニフィアンとシニフィエであるとして。

「解釈は無限に続き、解釈すべきものといっても、それ自体すでに解釈であるもの以外何にも出会わないのである。したがってシニフィエはたえずシニフィアンを与え、それを充填し生産するのである。形態はいつもシニフィアンからやってくる。最終的なシニフィエとは、それゆえ冗長性あるいは「過剰」となったシニフィアンにほかならない。シニフィアンの生産によって解釈や伝達が超えられると主張してもまったく無駄である。シニフィアンの再生産や生産をいつも助けるのは解釈が伝達されるからである。」

彼らがいう「逆シニフィアン的記号系」、遊牧民的な組織的原則には、アントニオ・ネグリのいう「マルチチュード」と同様の匂いがありそうだ。しかし、ネグリのマルチチュードが実は組織化を前提としていることを思い出せば、ネグリの思想はリゾームの中を蠢いてはいないことに気がつく。

鬱に落ち込んでしまいそうな自分を、無限に存在し増殖する結節点や襞や孔から蘇らせるための書か。掻き乱しのためのプラトーは、まだこの2倍残されている。

ちょうど今日、平井玄『愛と憎しみの新宿』(ちくま新書、2010年)を読んでいたら、連合赤軍という歴史に言及し、次のように述べていた。

「彼らの運動と理念に確かにきっかけはあったが60年代の唯一の帰結ではない。別の場所で別の偶然が重なりあって、見たこともない可能性が開かれる道はあれから一度も閉ざされていないのである。」

なんだここにもリゾームがあると思った途端、その数行後に、ドゥルーズ+ガタリにも言及していた。まあ、そういうことである。

●参照
ジル・ドゥルーズ『フーコー』
フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』
ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』
桜井哲夫『フーコー 知と権力』
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(上)
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(下)


2010年10月、デカン高原

2010-11-24 23:21:41 | 南アジア

巨大な洪水玄武岩、デカン高原。時間を体現した奇岩また奇岩にただ驚く。クルマから降りて奇岩に近付いてみると、人工の石垣が作られていて、何だかほっとした。


高原と空


黄色の花


サボテン


クルマと奇岩


奇岩


奇岩


石垣


店先

※すべて Bessaflex、EBC Fujinon 50mmF1.4、Velvia 100、ダイレクトプリント

●参照
2010年10月、バンガロール
ジャマー・マスジッドの子ども
2010年10月、デリー
2010年9月、ムンバイ、デリー
2010年9月、アフマダーバード
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク


2010年10月、バンガロール

2010-11-23 08:24:07 | 南アジア


わからない果物


豹柄バイク


とうもろこし


クリケット


マハトマ・ガンディーと犬

※すべて Bessaflex、EBC Fujinon 50mmF1.4、Velvia 100、ダイレクトプリント

●参照
ジャマー・マスジッドの子ども
2010年10月、デリー
2010年9月、ムンバイ、デリー
2010年9月、アフマダーバード
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク


ジャマー・マスジッドの子ども

2010-11-23 00:06:57 | 南アジア

オールドデリーにあるジャマー・マスジッドはインド最大のモスクであり、ミナレットにも登ることができる。そこからアザンが一日に何度も流されるかどうかはわからない。何しろ雑踏の中である。

先月、5年ぶりに訪れることができた。5年前も、今も、なぜか子どもたちの写真を撮っている。


2010年のジャマー・マスジッドの子ども Bessaflex、EBC Fujinon 50mmF1.4、Velvia100、DP


2005年のジャマー・マスジッドの子ども Pentax MZ-3、FA50mmF1.4、シンビ200、DP

●参照
2010年10月、デリー
2010年9月、ムンバイ、デリー
2010年9月、アフマダーバード
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク


辰野登恵子新作展

2010-11-22 07:41:41 | アート・映画

銀座のBLDギャラリーで「辰野登恵子新作展」が開かれている。ずっと引っかかる画家だったこともあって覗いてきた。

空間に紫や緑やピンクに色づいた球体が浮かび、交錯する。球体だけではなく、角柱の作品も何点かあり、この世界に触れるのははじめてだ。ドラえもんの時間移動空間のような空間、そこに微妙に立ち、途中で微妙にズレる柱。観る者の脊髄に違和感を生じさせるような、静かな狂気を感じる。その場でのインパクトは大きくないが、あとでずっと尾を曳く印象である。

辰野登恵子作品のこの不思議な魅力について、手持ちのカタログでは充分には説明されていない。東京都現代美術館の『収蔵作品展1995』では「常に色彩豊かで、豊饒な質感を持つ作品を追求」、国立近代美術館の『近代日本美術の名作』では「描くというその都度が一回限りの営みの中で模様はもはや装飾ではなくなり、いわばその模様自体の起源へと遡行するかのようにして、ひとつひとつが固有の表情を持って生きている」、とする。作品から作品製作のプロセスと内的世界への旅の方法を読み取る、それは間違ってはいないのだろうけど。


与世山さんの「Poor Butterfly」

2010-11-22 01:24:23 | アヴァンギャルド・ジャズ

ふと聴きたくなって、与世山澄子『Interlude』(Tuff Beats、2005年)を久しぶりに棚から取りだした。那覇の与世山さん本人の店・インターリュードで録音された音は、冗談のように外界の嫌なノイズを遮断する空間で聴くまさにその音で、いますぐにでも歩いて行きたいと思うが、ここは残念ながら那覇ではない。しかし、与世山さんに逢いたい、そんな気持で聴くのも悪くない。

インターリュードには何度足を運んだかな。「安里そば」の材料が無いと言って近くのサンエーに走ったり(そんな、申し訳ない)、美味しいですと言ってコーヒーを淹れてくれたり、出演した映画『恋しくて』のシナリオを懸命に読んでいたり。夜は夜で、客の注文をさばくのにてんてこ舞いで唄いはじめるのが12時を回ったり、たまたま同席した初対面のアンチャンが唄を聴いて「忘れられない夜になった」と感動していたり。やっぱり行きたいぞ。

『Interlude』の曲はどれも良くて、冒頭のベースが響く「Interlude」も、甘甘の歌詞を可愛く唄う「Misty」も、寂しくなる「Somewhere in the Night」も、ビリー・ホリデイが唄っていたはずの「Left Alone」も、つまり最初から最後まで聴き入ってしまう。歌詞をいとおしむように丹念に唄う与世山さんの姿が見えるようで。

なかでも「Poor Buttefly」は沁みる唄である。『ジャズ詩大全 6』(村尾陸男、中央アート出版社)によると、『蝶々夫人』を巡る奇妙な勘違いから生まれたものらしい。与世山さんはヴァース(2種類ある)から唄う。そうでないと、これが日本人の物語であることがわからない。米国人と恋に落ち、戻ってくると言って去ったその男を待ち続ける哀れな蝶。ほんのひと時が数時間になり、数時間が数年になり。私は彼が戻ってくると信じている、けれども戻ってこなかったとしても溜息をついたり泣いたりはしない。私はただ死ぬだけ。そんな歌詞である(「I must just die」だって)。

以前、青山のBody & Soulに与世山さんを聴きに行ったとき、たまたま友人のKさんも来ていて、ああこんな歌詞だったんだと呟いていたのが記憶に残っている。

他のものを聴きたくなって、サラ・ヴォーン『Sassy Swings the Tivoli』(Emarcy、1963年)と、そのサラに捧げられた、カーメン・マクレエ『Sarah - Dedicated to You』(BMG、1990年)に収められた「Poor Butterfly」と比べてみる。サラは誰もが認める完璧な歌手、淀みなく溢れ出てくる声で唄う。しかし軽すぎる上に、ピアノが妙にオリエンタル臭を出そうと中国風メロディのオブリガードを入れるのも気にいらない。ヴァースも唄わない。そしてカーメンの声は金属であり、いまの気分には合わない。やはり与世山さんの「Poor Butterfly」がいい。

そういえば、那覇に行くとインターリュードと梯子していた民謡バー・いーやーぐゎーは、ついこの間、店をたたんだ。やはりここは那覇ではないから、駆けつけることができなかった。

●参照
いーやーぐゎー、さがり花、インターリュード
城間ヨシさん、インターリュード、栄町市場(いーやーぐゎー → インターリュード・・・同じ行動ばかりしていた)
35mmのビオゴンとカラースコパーで撮る「インタリュード」
与世山澄子ファンにとっての「恋しくて」


浦安市郷土博物館『三角州上にできた2つの漁師町』

2010-11-20 21:45:51 | 関東

浦安市郷土博物館で開かれている特別展『三角州上にできた2つの漁師町 名古屋市下之一色と浦安』に足を運んだ。この展示の立ち上げに関わった研究者のTさんにご案内をいただいていて、多忙にかまけていたらもう終了間際。2階の展示室に入ると、そのTさんがいて吃驚した(笑)。

タイトルの通り、名古屋の下之一色(しものいっしき)も浦安も、内湾に注ぐ河川の下流にできた三角州の上に発展してきた地である。そしてそれぞれ、藤前干潟三番瀬という大規模な干潟を持ち、その一部のみが埋立を免れて残されている点も共通している。とても興味深い視点である。

展示は、それぞれの地における生活形態や漁法の共通点と違いに注力したものとなっていた。初めて知る話がいくつもある。

○下之一色には、素足でハマグリなどの貝を探し当て、足の親指と人差し指とでつかみ取る「踏み取り」という漁法(!)があった。浦安には、山本周五郎『青べか物語』に描かれているような、カレイをかかとで踏む漁法があったはずだが、どちらも過激である。
○下之一色では天然の牡蠣がたくさんとれた。浦安の三番瀬にも牡蠣がいて、現在では不自然な牡蠣礁まで形成されているが、どうやら浦安の牡蠣は不味かったらしい。パンフレットには「身が小さくデレっとしていて、美味しいものではなかったから、とる人もほとんどいなかったよ。『ハナタレ(洟垂れ)』とかって、言ったりしたよね」という証言がある。漁師町の言葉は荒っぽい。
○下之一色では、貝殻を洗浄して鬢付油や軟膏の容器として使う「さらし貝」が製造されていた。自家利用ではなく商品である(!)。浦安にはなかったと言われていたが、実は、「カラヤ」という加工業者がいたという証言が出てきた。
○浦安では、本州製紙江戸川工場からの廃水が大きな被害をもたらした歴史があるが、一方、下之一色の上流にも王子製紙春日井工場があり、江戸川に先だって「黒い水」を流していた。この責任者たちが本州製紙江戸川工場にも移ってきたことがわかっている。つまり、江戸川の垂れ流しは確信犯であった。

展示室の隣では、1960年における下之一色の映像を観ることができた。名古屋市の製作によるものであり、焼玉エンジンの舟やワタリガニの漁などが印象的だった。こういった貴重な映像は、ぜひ「科学映像館」などで配信してほしい。

展示については、敢えて言えば、三番瀬と藤前干潟との比較にも踏み込んでほしかったところ。Tさんと1階の喫茶「すてんぱれ」で雑談をして帰った。


フラワー通りにある「天哲」で天丼を食べた。甘いタレ。

●参照
浦安市郷土博物館『海苔へのおもい』
ハマん記憶を明日へ 浦安「黒い水事件」のオーラルヒストリー
浦安魚市場(1)~(15)

●東京湾の干潟(三番瀬、盤洲干潟・小櫃川河口、新浜湖干潟、江戸川放水路)
市川塩浜の三番瀬と『潮だまりの生物』
日韓NGO湿地フォーラム
三番瀬を巡る混沌と不安 『地域環境の再生と円卓会議』
三番瀬の海苔
三番瀬は新知事のもとどうなるか、塩浜の護岸はどうなるか
三番瀬(5) 『海辺再生』
猫実川河口
三番瀬(4) 子どもと塩づくり
三番瀬(3) 何だか不公平なブックレット
三番瀬(2) 観察会
三番瀬(1) 観察会
『青べか物語』は面白い
Elmar 90mmF4.0で撮る妙典公園
江戸川放水路の泥干潟
井出孫六・小中陽太郎・高史明・田原総一郎『変貌する風土』 かつての木更津を描いた貴重なルポ
盤洲干潟 (千葉県木更津市)
○盤洲干潟の写真集 平野耕作『キサラヅ―共生限界:1998-2002』
新浜湖干潟(行徳・野鳥保護区)
谷津干潟


2010年10月、デリー

2010-11-19 22:14:20 | 南アジア

中国から戻ってきて、旅立つ前にラボに出していたインドの写真のプリントを受け取る。なんだかいつのことだったか、空中分解しそうだ。

いつもはモノクロだが、気が向いて(実は寒いからモノクロプリントが億劫)、ベッサフレックスにリバーサルを詰めて、レンズは古いEBCフジノン50mmF1.4。このレンズ独特のマゼンタがかったような色、絞り開放ではコントラストが極端に落ちて光が滲む。とても危ういバランス、好きな玉なのだ。

※すべて Bessaflex、EBC Fujinon 50mmF1.4、Velvia 100、ダイレクトプリント


祠の神


駅の女性たち


駅の父子


朝の光線


少年


烏と掃除


立ち上がる


ランニングおじさん


芋むき

●参照
2010年9月、ムンバイ、デリー
2010年9月、アフマダーバード
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク


フェリーニとブライヤーズの船

2010-11-13 20:52:17 | ヨーロッパ

もう何年ぶりだろう、フェデリコ・フェリーニ『そして船は行く』(1983年)を観る。

亡くなったオペラ歌手の遺骨を海に撒くため、多くのオペラ歌手や劇場主や新聞記者やカメラマンがナポリから豪華客船に乗る。社会的地位も気位も高い金持ちたちの饗宴、それは奇妙奇天烈である。時は1914年、第一次世界大戦の発端となったサラエボでのオーストリア皇太子暗殺により、受難を恐れたセルビア人たちが難民と化し、突如、海から客船に乗り込んできた。高等遊民と難民という、互いに相容れない集団による交流とも言えない交流。そして難民を引き渡せと迫るオーストリア・ハンガリー帝国の軍艦。偶然により(これが歴史に対するフェリーニのシニカルな見方か)、攻撃を受け沈みはじめる客船。甲板では歌い続けるオペラ歌手たち。

以前に観たときには抱腹絶倒、丸谷才一の言うような何でもありの魅力にやられてしまった記憶があるが、今回はなぜかそうでもなく、円熟から腐敗に移ってきたフェリーニの小品にしか見えない。それでも傑作であることには疑問はない。ところで、昨年亡くなったピナ・バウシュが登場していることに初めて気がついた。

なお丸谷才一は、フェリーニが世界文学におけるカーニヴァル文学の伝統を探り当てたのだと絶賛している。

「この映画では、深刻と冗談、大まじめと馬鹿つ話は、いつも二重になります。実写の方法による、リアリズムからの脱出といふ妙なことが、平然とおこなはれているんです。つまりこれは、映画の機能の両極を重ね合わせた方法ですね。」(『犬だって散歩する』文春文庫)

ところで、沈みながらも甲板でなお演奏をやめない精神貴族たちの下りは、この少し前、1912年のタイタニック号沈没の史実にフェリーニが想を得ていることは間違いないのだろう。かつてはジャズ・ベーシストとしてデレク・ベイリーとも共演していた作曲家ギャビン・ブライヤーズは、沈みゆくタイタニックの演奏を繰り返し発表し続けている。私が持っているのは、1994年ヴァージョンの『The Sinking of the Titanic』(Point Music)のみであり、時を経るにしたがいどのような変貌を遂げているのか実感できない。それでも、この中でも同じ讃美歌を繰り返しており、系統発生ならぬ個体発生のスリリングさを感じることはできる。

何人ものヴィオラとチェロ、さらにブライヤーズ自身のベース、バスクラリネット、ホルン、キーボード、エレクトリックギター、讃美歌の子どもたちのヴォイス。当時のサウンドそのものではありえない。しかし、床が傾いて食器類やテーブルや椅子やピアノが海へと突撃し、目の前が崩壊し、それでも讃美歌を続ける恐ろしさ、その耽美性というのか、随分奇妙な迫真性を持っている。

実際に、タイタニック号の生き残りの証言が収められている。少年の無線技士曰く(1912年のNYタイムズ)、「楽団はまだ演奏していた。たぶん全員が沈んでしまったと思う。そのとき彼らは、「Autumn」を演奏していた。私は力の限り泳いだ。タイタニックが残り4分の1を天に向けて、それからゆっくり沈み始めたとき、たぶん150フィートくらいしか離れていなかった。楽団が演奏し続けたのは貴いことだった。」

ブライヤーズは、さらに、「タイタニック号が沈没した後も、海面下には讃美歌が水中故の伝達速度の遅さによって存在し続けるのではないか」などという奇想すら抱いているようで(『アヴァン・ミュージック・ガイド』作品社)、こうなればどうかしているかもしれないのだが、やはりそういった奇想が系統発生にも反映しているのであれば、他のヴァージョンの『The Sinking of the Titanic』も聴いてみたくはある。


どん底とか三上寛とか、新宿三丁目とか二丁目とか

2010-11-12 23:21:16 | 関東

昨日久しぶりに、新宿三丁目の「どん底」に呑みに行って、やっぱり新宿っていいよなと思った次第。舗道も雑居ビルも、古い看板も、何もなかったように店を開いている桂花も、それから人も、全部から体液みたいなものが一度出て中途半端に乾いたような感覚で。

今日も新宿三丁目に出かけてエリオット・シャープの演奏を聴こうかと目論んでいたが、いろいろあって断念。そんなわけで、よくわからない吟醸酒を一人で家で呑みながら、三上寛が新宿二丁目で行ったライヴ『異議ナシ!』(OPEN、2003年)を聴く。

三上寛はいつだって最高である。「昔、ゲイ方面のひとたちにはお世話になったものです。お世話したことも」と言うMC、深沢七郎のギターの話。それに何と言っても、名曲「オートバイの失恋」。日本海に向かって、「身体を震わして まるで泣いているように泣いていたという」オートバイの失恋を諄々と説き、叫び、咽ぶこの唄。これは世界そのものだ。

オートバイの失恋 オートバイの失恋が
今 あなたがたが座っている
椅子と無関係ではない


三上寛、レディージェーン、2005年 Leica M3、Summicron 50mmF2、Tri-X(+2)、フジブロ3号

●参照
新宿という街 「どん底」と「ナルシス」
三上寛+スズキコージ+18禁 『世界で一番美しい夜』
中央線ジャズ


李恢成『伽倻子のために』

2010-11-11 00:39:56 | 東南アジア

何をかなしんでか今朝まで夜っぴてカラオケで唄い続け、眠い一日を過ごし、帰宅後居眠りしてしまったりして今に至る。時差は平気なほうだが、もうこんなムリはあまりきかない。大学生じゃないのだ(笑)。

李恢成『伽倻子のために』(新潮文庫、原著1970年)を読む。李恢成のごく初期の作品であり、それだけに未成熟の小説世界なのだなと思いながら読んでいた―――最後のあたりに至るまでは。

在日コリアンの林相俊(イムサンジュニ)。両親は戦後、サハリンから北海道へと引き揚げてきた。朝鮮にも日本にも引き揚げることができず多くのコリアンが残された、そのサハリンである。父親がサハリンで義兄弟として付き合った男も、やはり北海道に移住しており、日本人の母に捨てられた娘に伽倻子(かやこ)と命名し、わが子として育てている。相俊と伽倻子は駆け落ちのように東京で刹那的に暮らす。1950年代末、北朝鮮帰国事業が盛り上がった時代であった。相俊が親しみを抱いた別の女性は、済州島四・三事件を幼少期に体験し、自らの蘇りのため、真っ先に北朝鮮に帰っていく。

伽倻子の両親はコリアンとの結婚を認めず、相俊の両親は日本人との結婚を認めない。狂ったようになった両親に連れ戻された伽倻子には、自分を捨てた母の淫蕩の血が流れていた。彼女は家出し、盛り場に流れる。相俊はもはや伽倻子を引きとめることができない。そして10年以上が経ち、三十代となった相俊は、伽倻子が自分の娘に、かつて実母に呼ばれていた日本名を付けていることを知る。

この作品は、在日コリアン、サハリン引き揚げ・残留、済州島四・三事件、北朝鮮帰国事業といった大きな視点を跨ぎ、掴みようのない人間の業と無間地獄を垣間見せてくれる。後戻りのできない時間が過ぎたことだけが、救いのような足場としてこちらに与えられる。なにしろ小説家自らが、作品の中で無間地獄を眺めているのである。

「その道は人間のいかなる条理に支えられているのだろう。人間の不可思議さを伽倻子はおしえてくれたように思う。それは通常のまなざしでは見透すことのできぬ世界であり、どんでん返しの仕組みをもったあっけらかんの世界なのだ。それは人間にそむいてくる。そむいていることで人間的にさえ見える。しかしそれはやはりどこかで人間を裏切っている。」

それにしても、この題名『伽倻子のために』とは何か。相俊は伽倻子の「ために」何をしたのか。それとも、「ために」は、伽倻子という表徴的な存在に向けられた小説家の思いか。人が人の「ために」できることは何か。「ために」が向けられるからこそ、人が人なのか。

恐ろしい小説である。李恢成は三十台半ばにしてこの地獄を覗きこんでいた。

小栗康平がこの作品を映画化している。どこかで探して観たいところだ。

●参照
李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』
菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業』、50年近く前のピースの空箱と色褪せた写真
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』