Sightsong

自縄自縛日記

『生誕110年・香月泰男展』@練馬区立美術館

2022-02-06 21:04:41 | 中国・四国

練馬区立美術館に足を運び、「生誕110年・香月泰男展」を鑑賞。

「シベリア・シリーズ」は、中学生のときに山口県立美術館ではじめて接していらい繰り返し観ているのだけれど、そのたびに発見がある。

土を固めたようなマチエールは、ヨーロッパの石の文化から触発されたものでもあったのだなと実感する。そして過酷な抑留体験を終わらせるためだった「シベリア・シリーズ」に香月自身が塗りこめられてしまい、脱却のかわりに成熟をもたらした。

2016年に平塚市美術館で開かれた「香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治」展には行くことができず、図録をあとで手に入れた。たしかに表面のディテールが切実な意味を持ったという点で、この4人に共通するところがある。図録には映画監督の小栗康平が次のように書いていて、あらためて共感した。

「世界を変形して受け止めざるを得ないほどの精神の歪み、受苦があってそれが発露する。香月の抽象は、そうした臆した時間を費やしている。それが香月のよさだ。」

●香月泰男
『香月泰男・追憶のシベリア』展(2011年)
工藤敏樹『祈りの画譜 もう一つの日本』(1972年)
高松市美術館、うどん


出雲、創られた伝統

2021-12-08 21:04:22 | 中国・四国

ずいぶん昔に読んだ『コリアン世界の旅』は再読したいと思っている良書。その著者の野村進さんの本『出雲世界紀行』を見つけて一も二もなく確保した。

アマテラス~ニニギノミコトの「表」「顕」と、スサノオ~オオクニヌシの「裏」「幽」は知識として知ってはいたし、オオクニヌシが大黒様に同定され、その大黒天はヒンドゥーのシヴァの化身であったりするような世界と地方の神仏習合にすごく興味を持っていたわけだけれど、おもしろいのはそのような物語ばかりではなかった。

本書によれば、「裏」「幽」が祀られる出雲において、いまも日常生活にこの神々が生きているのだという。そしてこの社会には水木しげるも妖怪の導入によってただならぬ影響力を発揮している。どうやらこの妖怪というもの、民間伝承の中にあったものだが、姿かたちの創作も含めて水木先生が数十年前に蘇らせたのだった。曰く、これはバリの伝統に似ていて、ケチャもバリ絵画も20世紀になって欧米との出逢いの中で創られたものだという。つまり「現代的な伝統文化」。

出雲の神々は現代人が創りあげたものではないけれど、権力関係は古代からずっと同じではなかった。たとえば、本居宣長、平田篤胤らの思想を経て、明治において「表」「顕」にふたたび政治的に敗れ去るという激変もあった(このあたりは、原武史『<出雲>という思想 近代日本の抹殺された神々』がおもしろい)。最初の政治的な敗北はもちろん大和朝廷に対して。『水木しげるの古代出雲』を読んでみるとたしかに悔しそう。本書によれば、オリジナル版では出雲兵が大和兵に惨殺され、牢獄の鉄格子を握ったオオクニヌシが「水木よ、この悲惨な殺戮から目をそむけてはいけないッ‼」と叫んでいるそうである。

●参照
原武史『<出雲>という思想』
溝口睦子『アマテラスの誕生』
「かのように」と反骨
三種の神器 好奇心と無自覚とのバランス
仏になりたがる理由
鶴見俊輔『アメノウズメ伝』
「岡谷神社学」の2冊
久高島の映像(5) 『イザイホー~沖縄の神女たち~』
吉本隆明『南島論』
柳田國男『海南小記』
伊波普猷『古琉球』
伊佐眞一『伊波普猷批判序説』
村井紀『南島イデオロギーの発生』
佐谷眞木人『民俗学・台湾・国際連盟』


林立雄『ヒロシマのグウエーラ』

2017-02-20 23:42:20 | 中国・四国

林立雄『ヒロシマのグウエーラ ―被爆地と二人のキューバ革命家―』(渓水社、2016年)を読む。

先日、記者のDさんと有楽町で飲んだときに頂戴した。(ありがとうございます。)

「グウエーラ」とは何か、ゲバラのことである。チェ・ゲバラは、フィデル・カストロらとキューバ革命(1959年)により政権奪取したその年に、訪日し、さらには突然に広島にやってきた。そのとき、ゲバラが何者であるかも、名前さえも、日本では知られていなかった。著者(故人)は、原爆慰霊碑に献花するゲバラを取材した唯一の新聞記者だった。そして、乏しい文書から引っ張ってきた名前が「グウエーラ」だったのである。

ゲバラ訪日の目的は、国を存続させるために必要な経済的なつながりを求めてのことだった。具体的には、キューバの砂糖を輸出する先を探していた。しかし、それとは別に、被爆地・広島を訪れたいと熱く願い、外務省が嫌がるであろうことも察知して電撃的に動いた。ゲバラは、「日本人はこんなに残虐な目に遭わされて腹が立たないのか」と直情的に問うたという。

それから36年が経ち、今度は、フィデル・カストロが電撃的に日本を「非公式」に訪問した。当時、自社さきがけ政権で首相は村山富市。社会党とは言え、アメリカという主人の機嫌を気にすることは今と変わらない。村山首相は、「外務省の耳打ち」により、アメリカの受け売りで人権問題を持ち出してカストロの不興を買った。ここで、より高い政治家としてのヴィジョンで語りあっていたなら、社会党~社民党の凋落も、これほどべったりの対米追従も、少しは違った形に軌道修正されていたかもしれない。

カストロは2003年にも再来日し、ゲバラと同様に、原爆慰霊碑に献花している。そのとき、著者の機転で、1959年のゲバラの写真を見せられたカストロは興奮、感激したのだという。長く歩んで清濁併せ呑んで政治家となった革命家が、熱く走って殺された革命家に、想いを馳せたのだろう。胸が熱くなるエピソードだ。

ゲバラもカストロも、原爆資料館を実に熱心に見学したという。一方、アメリカのオバマ大統領による歴史的な広島訪問(2016年)の際には、ほとんど見学の時間は作られなかった。この段取りを設定した者が、キューバの革命家ふたりの言動の意味を深く理解していたなら。

●参照
細田晴子『カストロとフランコ』(2016年)
太田昌国の世界 その24「ゲバラを21世紀的現実の中に据える」(2014年)
太田昌国の世界 その10「テロリズム再考」(2011年)
『情況』の、「中南米の現在」特集(2010年)
中南米の地殻変動をまとめた『反米大陸』(2007年)
チェ・ゲバラの命日


片渕須直『この世界の片隅に』

2016-12-01 08:36:20 | 中国・四国

片渕須直『この世界の片隅に』(2016年)を観る。新宿では毎回満員と聞いていたので、外出許可の時間に合う池袋までダメモトで足を運んでみたら、意外にも席には余裕があった。

主人公すずは、広島で海苔養殖・製造を営む家庭から、呉の海軍工廠で働く者のもとに嫁ぎ、「銃後」の辛酸を舐める。生来の朗らかなノンビリ屋のすずの顔からも、希望は次第に消えてゆく。そしてすずは負傷し、終戦を迎える。

ここに登場する人物たちの関係は、違和感があるほど和やかだ。人間関係とはちょっとした表情やふるまいのニュアンスによってこそ大きく左右されるはずのものであるのに、ここでは、そのような精神的な引っ掛かりは徹底して回避されている。微温的なコミュニティにおいて、すずも、他の人物も、与えられた状況の中でのみ前向きに行動する。

それに対する亀裂が突然現れるのは、玉音放送を聴いたあとのことである。微温的なコミュニティにおいてのみ成立していたファンタジーが突然瓦解するわけである。すずは、自分の身体について他国の作物で出来上がっていることに気付き、暴力の理不尽さを嘆く。それこそがコミュニティの外を覗き込む亀裂であった。(ここで泣き叫ぶすずについては、こうの史代の原作漫画において、他国への加害性に気付いたのだとの「ネタバレ」が出回っている。しかし、それはあくまで原作の話である。)

広島は、既に日清戦争時に陸海軍の大本営が置かれるなど軍都として存在していた(広島の戦跡)。また呉では「東洋一」の海軍工廠が稼働していた。すずたちは工廠で建造される軍艦を、単なる風景としてしか見ていなかった。その意味するものすら少しも考えず、風景画を描く有様だった。また、映画にも登場する国防婦人会は、徹底的な無思想性と庶民性をその特徴としていた(藤井忠俊『国防婦人会』)。

すなわち、これは、上から無思想になされた者たちの姿を描いた映画である。その一方で、理不尽な世界で生きていく人たちの間で新たなつながりができていく姿を描いた映画でもある。観る者は、両極端で揺り動かされ落ち着く場所を得ることができないのだが、それがこの映画の大きな価値ではないか。


岡村幸宣『《原爆の図》全国巡回』

2016-01-24 22:12:07 | 中国・四国

ハノイに来る飛行機の中で、岡村幸宣『《原爆の図》全国巡回 占領下、100万人が観た!』(新宿書房、2015年)を読む。

丸木位里・俊による「原爆の図」は、実体験により描かれた作品ではない。両親などの親族を心配して、原爆投下の後に広島に入り、夫妻はそこではじめて実態を知ることとなった。したがって、地獄絵図のような有様は、母スマらから聴いての二次体験である。しかし、広島以外の地域においては、被害の実態がほとんど知られていなかった。それは、原爆の惨禍に対する反発が反米に結びつくことをおそれた、アメリカの圧力による結果でもあった。

「原爆の図」は、1950年以降に全国を巡回することとなるが、当初は、実態を知らぬがゆえに「グロテスクだ」との反応が少なくなかったという。ところが、実際の被爆者や戦争被害者による呼応があり、また再独立直後には「アサヒグラフ」誌による写真の公表もあり、その真実性がすさまじい反響を呼ぶこととなった。すなわち、この作品は、歴史の語り直しと戦争体験の共有という大きな役割を担うことになった。本書は、そのプロセスを丹念に追ったドキュメントである。

アメリカがいなくなっても、圧力は続いた。その背景には東西冷戦構造もあり、平和運動とはソ連や共産主義と関係しているものだとの根強い視線があった。「原爆の図」展示に関わった学生が逮捕される「愛大事件」や、「アサヒグラフ」の写真を大学に無届で展示した学生が退学になる「琉大事件」もあった(沖縄はまだ占領下にあったわけだが)。そして、レッドパージや労働運動の抑圧により行き場を失った人たちが、「原爆の図」の巡回展を活性化させた。関係者によれば、これは「一種の蜂起、一揆だった」のだ。

著者は、「原爆の図」は、たとえば「政治」と「芸術」との関係に限定される言説によって語られるにとどまるものではなく、「日本画」と「洋画」、「事実」と「物語」、「伝統」と「前衛」、「生者」と「死者」、「近代」と「土俗」など、実に多元的で多層的な視線を集めうる作品であるとする。このことは、丸木美術館に足を運び、巨大な作品の前に立ってみれば実感できることだ。そしてまた、「被害」の視線から、さらには「加害」の視線をも獲得し、南京大虐殺や沖縄の「集団自決」も描いたことも、あらためて評価されるべきである。

●参照
岡村幸宣『非核芸術案内』
「FUKUSHIMAと壷井明 無主物」@Nuisance Galerie(2015/6/6、丸木美術館・岡村幸宣さんとの対談)
『魯迅』、丸木位里・丸木俊二人展
過剰が嬉しい 『けとばし山のおてんば画家 大道あや展』
丸木美術館の宮良瑛子展


ジョルジュ・バタイユ『ヒロシマの人々の物語』

2015-04-28 22:11:31 | 中国・四国

ジョルジュ・バタイユ『ヒロシマの人々の物語』(景文館書店、原著1947年)を読む。

本書は、広島への原爆投下間もなく書かれたものである。過去に例をみない大量殺戮兵器を、他ならぬ人間が開発し、それを実際に使ったという前代未聞の事件を受けて、バタイユはどのように考えたか。

深く印象に残ることは、従来のヒューマニズムや善や倫理に対する絶望感である。かれは、そういった<感性>は、どうあっても、<知性>に奴隷的に従属せざるを得ないとした。ここでいう<知性>を狭義の観念ととらえるべきか、むしろ、近代社会・資本主義社会の必然的な帰結というように言い換えたほうがよいかもしれない。この時点にして将来を見通したような慧眼か。

<感性>が<知性>を凌駕するには、すべての条理を捨てなければならない。この<至高>のような考えにはついていけないところがあるが、実は、資本主義に付きまとう<有用性>の激しい否定だととらえれば、やはりわからなくもない。

●参照
マルグリット・デュラス『ヒロシマ・モナムール』
アラン・レネ『ヒロシマ・モナムール』


マルグリット・デュラス『ヒロシマ・モナムール』

2014-10-12 08:24:14 | 中国・四国

マルグリット・デュラス『ヒロシマ・モナムール』(河出書房新社、原著1960年)を読む。

1957年8月、広島。30歳過ぎのフランス人の女と、40歳位の日本人の男とが関係を持つ。12年前の原爆投下とその後の惨劇について、女は「わたしはすべてを見た」と言い続け、そのたびに、男は「きみは何も見ていない」と否定する。男にはわずかにでも当事者性があり、女にはそれがない。そのとき、十代後半の女は、大戦中のフランスの小村において、ドイツ人兵士と恋愛に落ちていた。かれとふたりで村を脱出するその日に、ドイツ人兵士は射殺され、女は敵と関係を持ったという咎で丸刈りにされ、地下室に数年間幽閉されたのだった。12年前の日本人の男と、殺されたドイツ人の男とが重なり、当時の物語を現在進行形のドラマとして繰り返す。それはフロイト風の治療にも見える。

本書は、アラン・レネによる同名の映画の脚本を中心としたテキストであり、これ自体として独立した作品である。それと同時に、映画がレネとデュラスとの共同作業であったことがよくわかる。

「わたしはヒロシマを見た」、「きみは何も見ていない」という溝は、デュラス自身による「補遺」にあるように、「フランス人」と「日本人」との間に横たわったものではない。そうではなく、それは、当事者であったか否か、苛烈な体験を身体に刻んだか否かという、「態度の踏み絵」なのであり、溝は決して埋まることがない。女のまったく別の苛烈な体験は、「ヒロシマ」の代償として現われるようにも思われる。

まさに、「ヒロシマ」の向こう側は言葉が意味を失い、そのために「広島」を抽象的に「ヒロシマ」と呼ぶわけである。言葉=人間が抽象となる臨界点という意味で、「ヒロシマ」があり、同様に、「ホロコースト=ショアー」があり、「ナンキン」があり、「フクシマ」がある。安易な象徴化は批判されるべきだとしても、その衝動はわからなくもない。

たしかに、「当事者性」という面からは、異なる惨劇を個人の上に重ね合わせることにも、個人の苦痛を浄化の過程として描くことにも、拒否反応があって然るべきかもしれない。しかし、それらの矛盾と埋まらない溝をこそ、本書において読むべきなのだろう。

●参照
アラン・レネ『ヒロシマ・モナムール』
ジャン=ジャック・アノー『愛人/ラマン』(デュラス原作)


鈴木則文『少林寺拳法』

2014-01-11 22:36:16 | 中国・四国

鈴木則文『少林寺拳法』(1975年)を観る。

少林寺拳法とは、中国の少林拳とは異なり、満州から引き揚げてきた日本人・宗道臣(※)が創始した武術である。異なるとは言っても、宗は、中国河南省の崇山少林寺出身者に教えを乞うており、それに他の武術の要素を組み合わせたものであるようだ。(実はさっきはじめて知った。)

この映画も、実在の宗の生涯をモデルとしている。もっとも、宗が千葉真一のような濃いキャラであったかどうかわからないが。

宗は、敗戦後、大阪の闇市で警察に目をつけられ、香川県多度津町へと渡り、道場を開く。よそ者であるにも関わらず、宗は地元に受け容れられ、どんどん若者を入門させ一大勢力となっていく。そして地元ヤクザとの抗争。

やはり鈴木則文ならではの面白さ最優先主義、すべてにおいて過剰。誠直也(アカレンジャーにしか見えない)の右手を人形みたいに切り落とさせたり、安岡力也の局部を鋏で断ち切ったり、最後にとどめをさされる男が口から吐く血を煮こごりのようなコロイドにしてみたり。

そして、悪人がうそぶきながらガラッとふすまを開けたところ、暗闇の中に千葉真一の顔が浮かび上がる場面なんて、待ってましたと言いたくなってしまう。(この場面で、千葉真一が「少林寺拳法が無頼の徒なら、お前たちは何だ」と、絞り出すような低い声で威嚇するところだけ、何故か覚えていた。)

ところで、いろいろ検索していて発見した。中国の崇山少林寺の近くに、「少林拳とサッカーを融合させて教えるサッカースクールを2017年までに建設する計画」があるという。もろに『少林サッカー』の影響らしい。記事には、まさに映画を地でいく写真があって、笑うというより仰天した。そのうちワールドカップやオリンピックでセンセーションを巻き起こしたりして。チャウ・シンチーが監督とかやったりして。

「中国“少林サッカー”専門校建設へ 成績向上に期待」(スポニチ、2013/8/10)

そういえば、何年か前、杭州だか寧波だかの空港の売店で、崇山少林寺の写真集を発見して立ち読みした。その中には、超人としか思えない人たちが紹介されていた。中でも、男が自分の局部に紐を通し、その紐で重たい石を引きずって歩くという写真があった。驚愕してすぐに頁を閉じたが、強烈すぎて忘れられない。おそるべし崇山少林寺。

※実は、一筋縄ではいかない側面が大きいようである。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/geography/gaihouzu/newsletter2/pdf/n2_s2_3.pdf
http://budo.sence-net.com/siryou/
http://budo.sence-net.com/siryou/shiryou6.pdf

●参照
鈴木則文『ドカベン』(1977年)
鈴木則文『忍者武芸貼 百地三太夫』(1980年)
鈴木則文『文学賞殺人事件 大いなる助走』(1989年)


上本ひとし写真展『海域』

2013-11-24 21:30:42 | 中国・四国

銀座ニコンサロンに足を運び、上本ひとし写真展『海域』を観る。

山口県周南市の大津島には、かつて、人間魚雷「回天」の訓練場があった。おそるべきことだ。自らの命を無為に落とすために、特攻の訓練さえもさせられていたのである。

この写真群は、大津島、さらに島を取り巻く海を、スクエアフォーマットの銀塩フィルムによってとらえている。むろん、テキストによる説明はある。しかし、写真は、ものいわぬ海を見つめている。この視線の強度たるや、刮目にあたいする。

薄暗がりのなかでの、島のかたち、波のかたちと光、船、小舟、鳥。すべてを覚悟して受け止めなければ許さぬといわんばかりである。これらを撮ることじたい、写真家は「還暦を迎えて」、はじめて可能となったのだという。

わたしも山口県の出身だが、この島のことは、数年前まで知らなかった。いつか訪ねてみたいところである。

●参照
上本ひとし写真展『OIL 2006』


『ドキュメンタリードラマ・基町アパート』

2013-08-26 08:49:22 | 中国・四国

翌朝のジャカルタ行きの荷造りを急いで済ませてしまい、NHKで放送された『ドキュメンタリードラマ・基町アパート』を観た(2013/8/24放送)。

広島の戦後復興事業として、1969-78年に建設された基町アパート。東京に住む龍太は、母親の仕事の都合で、2か月間、基町アパートの祖父のもとに預けられる。その間、小学校も転校。はじめて会う祖父は、中国語しか話せない人だった。何も事情を知らない龍太は、仰天し、反発する。しかし、隣の同級生の中国人・リンリンや、町内会長のおじさんや、先生に心を開いていくうちに、龍太は、自分のルーツについて知りたいと思うようになる。

龍太の祖父は、満州に残された残留孤児で、中国人と結婚し、龍太の母が生れていた。戦後しばらく経ってから帰国、家賃が安い基町アパートに住むようになる。もう日本語を覚えることなど難しく、孤独感を覚え続けた生活だった。そして、基町アパートには、そのような事情を抱えた帰国者が多いというのだった。

一方、基町アパートに住む、よそよそしいお婆さん。龍太も気にしていたが、原爆で被曝し、火傷のある側に人が立つと耐えられないという心の傷を抱える人だった。

龍太の先生は被曝者三世。龍太も残留孤児三世。直接には持たない戦争の記憶を、心の傷を持つ当事者から、乱暴にではなく、シェアしてもらいたいとの思いが込められていて、いいドラマだった。その一方で、あくまで「戦争に巻き込まれた」という被害の立場から視ており、加害の立場が盛り込まれていないことが残念ではあった。

それにしても、基町アパートのさまざまな姿には驚かされた。先日、記者のDさんの案内で、商店街や、下を見渡せるようになっている空中の渡り廊下なんかを歩いてみたのではあったが、実はもっと画期的な構造なのだった。これではまるで空中楼閣である。(番組のサイトに詳しい >> リンク

龍太の通う学校には、『はだしのゲン』が置いてある。松江市の検閲圧力事件より後にこのドラマが撮られていたら、どうなっていただろう。戦争の実相を隠蔽しようとする誤った考えは、ドラマで描かれた記憶の共有とは正反対に位置する。

●参照
旨い広島
『ガタロさんが描く町~清掃員画家のヒロシマ~』


朱鷺&つれバンド『ひろしま歌ものがたり』

2013-08-18 10:13:46 | 中国・四国

この6月、広島にある「純音楽茶房 ムシカ」に、記者のDさんにご案内いただき、朱鷺&つれバンド『ひろしま歌ものがたり』のCD記念ライヴを聴いた。CDも購入、ときどき思い出しては聴いている。

「朱鷺」は土屋時子さん(朱鷺子さん)。劇団でずっと活動してきた方で、何と劇中歌以外で人前で歌い出したのは50代になってからだという。

サックスの宮國泰明さんは宮古島出身、耳鼻科のお医者さん。それから、広島ちんどん倶楽部。

広島の歌だけでなく、「アリラン」、「黄昏のビギン」、「十九の春」といったお馴染みの歌も含まれている。

ほとんどのメンバーはアマチュアである。だから何、ではない。CDも聴きはじめるとそのままリピートしてしまう。なぜか心地好いのは、人間臭さと、ちんどんのサウンドによく合うサックスの音色のせいでもあるのかな。それと、ムシカの居心地のよさも思い出したりして。


『ガタロさんが描く町~清掃員画家のヒロシマ~』

2013-08-11 07:57:32 | 中国・四国

NHK・ETV特集で放送された『ガタロさんが描く町~清掃員画家のヒロシマ~』を観る(2013/8/10)。(>> リンク

広島市営の「基町アパート」。戦後の復興事業として建設された「小さなまち」であり、その中には、商店街がある。

ガタロさんの名前は自分で付けた渾名。川が好きな彼は、川に棲むという「河太郎」こと「ガタロ」を自分になぞらえた。

もう30年もの間、ガタロさんは、ひとりで商店街の清掃を請け負っている。月給15万円、仕事はきつい。ごみが捨てられ、ガムがこびりついている通路。それだけでなく、いくつも設置されているトイレ。ガタロさんは、猛スピードで、しかも丁寧に、綺麗にしていく。真冬でも素手でこなし、しかも、手を抜いてもいいような便器の金属パイプまでひとつひとつ磨く。文字通り、真似できない仕事ぶりである。

この仕事に就いた当初、長くは続かないだろうと思ったという。しかし、ガタロさんを支えたのは、商店街の人びととの触れ合いであり、仕事のあとに描く絵であった。

商店街の一角にあつらえた「アトリエ」において、ガタロさんは、掃除用具の絵を描いていく。掃除と同様にスピーディーな手業で、拾ってきた画材をつかって、掃除用具をいとおしむように。ガタロさんにとって、掃除用具は人生の大事な伴侶なのである。決して借り物ではない芸術の世界がそこにある。

この6月に、記者のDさんに、この基町アパートを案内していただいた。シャッターを下ろした店が多いものの、思い返してみれば、確かに手が行きとどいている「人間のまち」だった。その、人間の手こそが、ガタロさんの手でもあったとは。

番組では、商店街の上につくられた歩道が紹介されている。団地や商店街を見渡せるように設計されたものであったという。わたしが歩いたときにも、お年寄りがおしゃべりをしていたり、背伸びをしたい若者が集まっていたりした。設計思想は、いまも生きているということか。

Dさんご夫妻と一緒に入った「華ぶさ」で食べたオコゼは、旨かった。また行きたくなってくる。

ところで、そのDさんが昨日教えてくれた。NHKで8月24日(土)23時から、『ドキュメンタリードラマ・基町アパート』が放送される(>> リンク)。アパートの成り立ちや特徴を生かしたドラマのようで、これは見逃せない。

●参照
旨い広島


山田洋次『馬鹿まるだし』

2013-08-10 14:23:00 | 中国・四国

山田洋次『馬鹿まるだし』(1964年)を観る。

瀬戸内の漁村。シベリアから引き揚げてきた男は、偶然が重なり、寺に住まわせてもらうことになる。男は、生死の判明しない夫を待つ寺の長女の妻に一目惚れ。やがて周囲に親分とおだてられ、侠客のふりをしたり、労働組合の英雄になったり、人助けをしたり。時代は変わり、男のようなはみ出した人間は生きづらくなり、落ちぶれていく。そして最後に訪れた人助けの機会。

山田洋次は「愚か者をしっかり愚か者として描けば、観客は笑ってくれるものだ」と語っているという。まったく大した手腕であり、ハナ肇、犬塚弘、長門勇、花沢徳衛、植木等など芸達者な役者たちを使って、笑いあり涙ありの傑作人情劇に仕立て上げている。ハクモクレンの花が登場人物たちを見守るつくりも巧い。山田洋次、これでまだ30代そこそこ。

明らかに、惚れた女から自ら身を引く愚かな男という、『男はつらいよ』シリーズの原点になっている。ただ、初期の寅さんは「かわいい愚か者」ではなく「凶悪な愚か者」でもあり、観ていて辛くなる。自分はこちらのほうが好きだ。


広島の戦跡

2013-06-27 08:37:36 | 中国・四国

記者のDさんに案内していただき、広島市内の戦跡をいくつかまわった。知らないことばかり、勉強になった。

■ 広島大本営

1894年、日清戦争の際に、大本営が広島に設置された。軍港・宇品港があったことも評価され、広島は兵站基地となった。なお、広い練兵場は、現在、公園になっている。

それに伴い、首都機能が広島に移され(!)、約7か月の間、明治天皇がここに移り、戦争を指揮した。これは明治維新以降ただ一度だけの首都移転であるという。

原爆により、大本営跡は破壊された。現在は、建物の基礎と、昭和十年設置の碑石が残されている。碑石からは、「史跡」という文字と、それを指定した「文部省」の文字が消されている。

■ 旧日本銀行広島支店

日本銀行広島支店は、建物自体は頑丈であったためか破壊を免れた。しかし、爆風で窓ガラスが割れ、部屋の壁に刺さった跡をいくつか見つけることができる。

地下の金庫室(分厚い扉に驚かされる)では、「被爆仏石写真展/地蔵の記憶」が展示されていた。

原爆によって、首が折れたり、皮膚がはがれたりした地蔵群。もの言わぬ存在であるだけに却って痛々しい。

■ 世界平和記念聖堂

戦後、原爆被害者の慰霊のために建造されたカトリック教会である。

設計は村野藤吾。確かにDさんの言うように、手仕事の跡があえて残された味のある外壁であり、円鍔勝三による入口上の彫刻も素晴らしい。また、鳥居のような門、松や梅の形をした窓など、「和」のテイストが面白い。

特筆すべきことは、同じ敗戦国であるドイツからの寄付が多いことだという。聖堂内部正面のイエスの壁画はアデナウアー元首相、パイプオルガンはケルン市、玄関の鉄製の扉はデュッセルドルフ市から、などというように。


デュッセルドルフ市寄贈の扉

■ 地下通信室

原爆投下についての第一報は、軍の地下通信室からなされたという。それも、学徒動員された女学生たちによって。

護国神社の横にあるのは、何とも皮肉なことである。

■ 広島第一劇場

まったく戦跡とは関係がないが、広島市内に唯一残るストリップ劇場。残念ながら覗かなかった。

●参照
被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい(1)
被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい(2)
新藤兼人『原爆の子』
『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』
原爆詩集 八月
青木亮『二重被爆』、東松照明『長崎曼荼羅』
『はだしのゲン』を見比べる
『ヒロシマナガサキ』 タカを括らないために
アラン・レネ『ヒロシマ・モナムール』


旨い広島

2013-06-26 08:21:40 | 中国・四国

およそ2年ぶりの広島。

記者のDさんが自転車を貸してくれて、夜まであちこちを案内してくれた。もう大感謝、言ってみれば実践版・「観光コースでない広島」。

運動不足がたたり、翌日は足が猛烈に痛かった。

■ ホルモンの天ぷら

市内某所の、とある天ぷら屋。驚いたことに、カウンターの上には小さいまな板と包丁が置いてある。自分で天ぷらを小さく切り、唐辛子をたっぷりつけて食べるというわけである。

メニューにあるセンマイ、オオビャク、チギモ、ビチ、ハチノスをひととおり頼んだ。ビールとホルモン、こたえられない。遅めのランチなのに、地域の人たちが次々に入ってきた。


喧嘩をしてはいけない

■ 基町アパートの「華ぶさ」

広島復興事業のひとつであった、基町アパート(>> リンク)。中にある商店街では、営業を続ける店が少なくなっているようだ。

「華ぶさ」という渋い店で、Dさんご夫妻と、オコゼ尽くし。お頭はつつくとピクピクと動いた。刺身、肝、寿司。新鮮なだけあって、実に旨かった。頭は唐揚げになった。いくつか試してみた日本酒のうち、青森の酒「八仙」が特に印象的だった。


鯛そうめん

■ 愛友市場の「りゅう」

まもなく駅前再開発のために姿を消す愛友市場。既に立ち退いたところが多いようで、昼も夜も、開けている店は少なかった。

「りゅう」はカウンターが中心の店で、8時半頃に訪ねてみると、満席だった。そんなわけで、近くでビールを一杯ひっかけて、9時過ぎにようやくお好み焼きにありついた。

薄く生地をのばし、山盛りのキャベツ。豚肉と、イカ天(関東のイカの天ぷらではなく、広島ならではの食材)。麺、卵。

コテで小さく切り、直接食べる。切り方も大きさもシロートそのものだったようで、指導されてしまった。それにしても、旨い。どこかの駅ビルの店でいつか食べたものより、断然旨い。移転前に、もう一度来ることはできるだろうか・・・?

●参照
広島の「水主亭」