Sightsong

自縄自縛日記

ヘンリー・スレッギル(6) 純化の行き止まり?

2008-03-30 23:09:31 | アヴァンギャルド・ジャズ

ヘンリー・スレッギルは2001年、異なるグループによるCDを2枚発表した。そのひとつが、「ズォイド(Zooid)」という、サーカス音楽の流れを意識していると思われる名前(動物園のもじり)のグループによる、『Up Popped the Two Lips』(PI Recordings、2001年)である。

たぶん『Too Much Suger in a Dime』(Axiom、1993年)以来となる日本盤も出ていて、邦題が『ふたつの唇の音色』と付けられている。ジャケットの内側に書かれている詩には、チューリップという言葉が何度も登場しており、これが「Two Lips」に化けると同時に、「p」音の韻を踏んだものだろう。おそらく詩もタイトルもいつもの言葉遊びであり、これ以上の意味を持たせることは有害になる。

編成は、スレッギルのアルトサックスとフルートの他には、アコースティック・ギター、チューバ、チェロ、ドラムスというおとなしいものだ。ヴェリー・ヴェリー・サーカスなどの賑々しさはなく、チューバの登用に、それまでのスレッギルらしさがあらわれているに過ぎない。リバティー・エルマンのギターにしても他作品に多く参加しているブランドン・ロスのような強さはない。ドラムスも決して前に出てこようとはしない(もっとも、スレッギルは常に緻密な譜面を用意しているとのことだから、前に出てこようとしないのではなく、出てこないことになっているわけだろうか)。

それではこのグループの特徴はなにかというと、祭祀的、スキゾ的なものから、より純化されたものへの転化の試行ではないかという気がする。不穏なアンサンブルの中から、スレッギルの独特極まる音色が空間を切り裂くのは、これまでと同じ彼の音楽だということができる。そのアンサンブルが、賑々しいサーカス団ではなく、日常の動物園のような、個々の鳴き声が重なり合うような音風景になっただけ、なのかも知れない。

「ゾォイド」による次の作品『Pop Start the Tape, Stop』(hardedge、2005年)が、いまのところスレッギルの最新作であり、1,000枚限定のLPのみというところに、何か純化の行き止まりを見るような思いだ。スレッギル以外のメンバー編成は同じ(ドラムスが異なるのみ)だが、奇妙なのは、スレッギルの楽器である。フルート2種類の他に、「hubkaphone」というものを使っているのだ―――説明はないが、おそらくジャケット写真にある、8枚の円盤を紐でつないだ代物だろう。どうも、これによる演奏を録音し、オクターブを変えたりして、16個のスピーカーを個々に管理して再生する、サウンド・インスタレーションだったようだ。

「hubkaphone」が、静かに不穏な割れた音色を奏で続けるかと思っていると、突如、チューバを合図にアンサンブルが始まり、スレッギルのフルートがおもむろに入ってくる。しかしこれは、また、唐突に止まり、「hubkaphone」に戻る。これが幾度も繰り返される。ここで、作品のタイトルを思い出すことになる。

ジャケット裏には、スレッギルが「Enjoy.」という言葉でコメントを締めくくっている。最初は地味でつまらなく思えたこの作品も、聴き込んでいるうちに、足場がなくなるような掴みようの無さが、楽しいものと思えてくる。おそらく、NYで行われたライヴは、記録を聴くより何倍も体感的で刺激的だったことだろう(サウンド・インスタレーションなのだから)。しかし、ここからは、これからのスレッギルについて期待する気分が生まれてこないのが正直なところだ。


胡同の映像(1) 『胡同のひまわり』

2008-03-29 23:59:05 | 中国・台湾

気になっていた『胡同のひまわり』(チャン・ヤン、2005年)を観た。中庭のある典型的な住居・四合院が連なり、横丁が絡まる北京の下町・胡同(フートン)は、オリンピックを前にみるみるうちに壊されている。この映画は、文化大革命前から、そんな現在の北京までの様子を見せてくれている。


四合院の上から


四合院の中庭


白菜の調達


取り壊される胡同に座って絵を描く


胡同とビル

四合院の中庭で洗濯や煮炊きや修繕をしたり、悪ガキたちが小道や屋根で遊んだり、冬に備えて白菜を蓄えたりという風景は、私たちのものではないが、何故か懐かしさのような郷愁にとらわれてしまう。文革で下放され、画家への道を絶たれた父が戻ってきて、なつかない息子に厳しい教育を施す。息子は激しく反発しつづけながらも、画家になる。その確執を見ていると、こちらも、親不孝はお前のことだと言われているような気にさえなってしまい、堪らない話だ。

息子がはじめての個展を開く場所は、北京市街と空港の間あたりにある「北京798芸術区」の大きなギャラリー、「798 Space」だった。毛沢東や共産党を讃える文字や、国営工場当時の工作機械をそのまま残した奇妙な空間である。偶然だが、私の垣間見た現在の北京と重なる風景が多く出てきて、没入してしまった。

●「798 Space」のこと→「北京的芸術覗見(2)
●胡同の写真 →「北京の散歩」「牛街の散歩


「798 Space」の文字


「798 Space」の工作機械


リューベン・ウィルソンにお釣りをもらったこと

2008-03-28 23:59:54 | アヴァンギャルド・ジャズ

オルガンのリューベン・ウィルソン、ドラムスのバーナード・パーディ、ギターのグラント・グリーンJr.が組んだ「マスターズ・オブ・グルーヴ」による新作を買いそびれてから放っといたのだが、気がついたら、なぜか「ゴッドファーザーズ・オブ・グルーヴ」名義になっていた。しかもジャケットは文字以外同じだ。何かあったのだろうか・・・なんにせよ、聴きたかったので入手し、繰り返しかけてツマに呆れられている。


これが以前買いそびれたCD(Amazon.comで品切れになっている)

メンバーはうわっと言ってしまうくらい「コテコテ」である。リューベン・ウィルソン『Love Bug』(Blue Note)などのジャズの傑作を60年代に残しているものの、その後は、すくなくとも日本においては、なかばリアルタイムの存在としては忘れられた人物だったに違いない。ノリノリで臭い「ソウルジャズ」に、多くのジャズファンが眼を向けるようになるのはそんなに古い話ではない。バーナード・パーディも、ジャズという面から云々されることは少ない(浅川マキが好きなドラマーとして挙げていた記憶がある)。そしてグラント・グリーンJr.は、あのグラント・グリーンの息子であるがために、色眼鏡で見られることが多かったように思う。偉大な親父の磁力圏から逃れるために、グレッグ・グリーンと名乗っていたこともあった。

かく言う自分も、2002年にロンドンを訪れた際、空いた時間で何か聴きに行こうと思ってホテルで調べたら、このトリオの予定を見つけ、リューベン・ウィルソンってまだ健在だったのかと知ったのだった。20時以降まで仕事をした後で疲れていたが、ヨーロッパの夜は遅いから、カムデンタウンにある「Jazz Cafe」というライヴハウスに電話で予約を入れ、地下鉄で出かけた。電話口では、「席はないが入れる」とのこと、意味がよくわからなかったが、到着してわかった。オールスタンディングだったわけだ。

パーディーが前に歩みでてきて「俺たちゃマスターズ・オブ・グルーヴ!!」と大きな身体を揺すりながら叫ぶところからはじまった。パーディーのドラムスが良いのは勿論だが、リューベン・ウィルソンのオルガンには驚いた。ネジが外れているのでもないが、平気で外れていき、オルガンの猥雑さをドバドバと開陳するような勢い、悪ノリも含めてイケイケドンドン。若いのはグリーンJr.だが、余裕があって、アドリブのフレーズを歌いながら弾く格好良さ。フロア中が大興奮とはあのことだった。自分も疲れていて、立ちっぱなしで、空きっ腹にあのロンドンの大きなビールを流し込んでいたので、途中で後ろに倒れそうになって、後ろの人たちがおっとっとと支えてくれたのが哀しい思い出である。

演奏が終って、興奮した皆がステージに上がって、CDを買ったりサインを求めたりした。私も3人のサインを貰い、リューベン・ウィルソンに直接お釣りを貰ったり(笑)して、ほくほくしていると、他の英国人が鼻息荒く「CDはどこで買えるんだ!?」と訊きつつステージに突入していったことを覚えている。

そのときの『MEET DR. NO』(Jazzteria、2001年)では、トリオにベースとゲストを加え、「ジェームス・ボンドのテーマ」なんかを演っているのが楽しい。そして今回の『THE GODFATHERS OF GROOVE』(18th & Vine、2006年)も魅力が爆発している。ロバート・ジョンソンの「Sweet Home Chicago」もいいし、グリーンJr.が歌っている定番「Everyday I Have The Blues」も嬉しい。グリーンJr.は、「Just My Imagination」では、アドリブにあわせて調子にのりやがって歌う。難点は、気持ちが良すぎて聴いていて寝てしまうことだ(笑)。

リューベン・ウィルソンは、自分のリーダー作『Organ Blues』(Jazzteria、2002年)では、同じトリオにサックスのメルヴィン・バトラーを加えている。これが甘いテナーで、好みもあるだろうが、どうも合わない。せっかくの「After Hours」などのブルージーな曲がユルユルのだらしないものになっているのだ。昔の『Love Bug』(Blue Note)では、渋くて固いジョージ・コールマンのテナーサックスを加えて大成功しているのに。この中におさめられた、バカラックの「I Say a Little Prayer」は、ローランド・カークの演奏と並んで、とても好きな演奏である。


沖縄「集団自決」問題(13) 大江・岩波沖縄戦裁判 判決

2008-03-28 13:07:30 | 沖縄

大江・岩波沖縄戦裁判」の判決が、きょう2008年3月28日午前、大阪地裁でなされた。慶良間諸島の日本軍の戦隊長らが、いわゆる「集団自決」に関して、直接の軍命は下していなかったとして、大江健三郎と岩波書店を訴えた件である。


「琉球新報」の電子号外

判決結果は原告の請求棄却。つまり、日本軍の関与があったと認めたということだ。ただ、軍命の有無については断定を避けている。

もともと、軍命があったかどうかという矮小化された穴から、日本軍の関与全体が否定される性格があった。訴訟が起こされたことにより、高校歴史教科書の検定にもひどい影響があった。従って、今回の判決は正当なものだと評価できる。今後も報道は正当なものばかりではないだろうけれど(以下の各紙報道にも、それぞれ従来の姿勢があらわれている)。

●琉球新報 「「集団自決」軍が関与 元隊長らの請求棄却
●沖縄タイムス 「元隊長の請求棄却/「集団自決」訴訟」、「「新証言 聞いてくれた」/大江さん冷静に評価」、「検定撤回 決意新た/体験者ら「歴史正す一歩」
●東京新聞 「集団自決「軍が深く関与」 元守備隊長らの請求棄却
●毎日新聞 「集団自決訴訟:大江さんらへの請求を棄却 大阪地裁
●読売新聞 「「沖縄ノート」訴訟、集団自決への軍関与認める…大江さんら勝訴
●朝日新聞 「軍関与を司法明言 元隊長、悔しい表情 沖縄ノート判決
●産経新聞 「元守備隊長の請求棄却 沖縄集団自決訴訟

今回の結果報告を含め、東京での集会が4月にある。

大江・岩波沖縄戦裁判 判決報告集会 2008/4/9(水)18時半、@文京区民センター
沖縄戦検定意見撤回を求める4.24全国集会 2008/4/24(水)18時半、@豊島公会堂


フィリップ・K・ディックの『ゴールデン・マン』と映画『NEXT』

2008-03-28 07:57:09 | 北米

昨年国際線のなかで、リー・タマホリ監督の映画『NEXT』(2007年)を観た。わりに面白かったので、フィリップ・K・ディックの原作小説を探したが、ハヤカワ文庫が品切れになっていて、古本を探すかなと思っていたら再発された。この、フィリップ・K・ディック『ディック傑作集 ゴールデン・マン』(ハヤカワ文庫)には、7つの短編が収められている。

映画『NEXT』の原作となった『ゴールデン・マン』(1954年)だが、すぐ先の未来をいまの風景のように視ることができる男の話、という以外には、共通点がまったくない。映画では、変な顔のニコラス・ケイジがその男の役で、あくまで人間的(ケイジにはこの手の役がとてもはまる)。超能力について嗅ぎつけたFBIが、テロリストとの闘いに利用しようとするという話が、アメリカ映画またかという感じで、うんざりさせられる。しかし、「2分後の自分の姿」を複数同時に視て、最適な行動の判断をするという映像が新鮮で楽しめた。ケイジの「運命の女性」役、ジェシカ・ビールも魅力的だとおもった(シャーリーズ・セロンやアンジェリーナ・ジョリーと同様、少しエキゾチックで濃い顔だち)。

ただし、深くて没入させられるのはディック。『ゴールデン・マン』の超能力者は、突然変異で全身金色、何も話さないし感情が描かれることもない。あくまで「けもの」として、自らにとっては当然のように未来を視て行動するのみ、という存在である。何かの目的にまき込まれるドラマではない。人間が、自分たちの将来を守るために、遺伝子として優れているかもしれない突然変異を潰していこうとする話である。商業的に大利益を得るのでなく、また、あやうい問題を回避するのでなければ、原作に忠実な映画のほうをこそ観たい気がする。もっとも、『NEXT』も、興行的にははずしたということだが。

他の短編もとても面白い。ファンタジーでありながらH・P・ラブクラフトのような恐怖の裂け目をも提示する『妖精の王』。宇宙人がトロイの木馬的な装置を人間に与える強迫観念の結晶『リターン・マッチ』。メディアによる大衆の飼い慣らしが恐ろしい『ヤンシーにならえ』。個人の愛に基づく行動が政治に抑圧される『小さな黒い箱』など、どれも冗談とは思えず、ひきつけられる。1950年代、60年代に書かれたものが今なお力を持っていることが、ディックの凄さだ。

今回の再発版には、映画『NEXT』をめぐるさまざまなエピソードも巻末に付されている。今後『ヴァリス』、『アルベマス』の映画化の可能性があることにも興味があるが、何より、ジョン・レノンが生前、『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』の映画化に意欲的だったということに驚かされた。


ウデナハ売店(沖縄の共同売店)

2008-03-23 23:37:32 | 沖縄

毎年のようにお世話になっている、沖縄県東村の民宿「島ぞうり」さんの向かいに、小さい共同売店「ウデナハ売店」がある。滞在中は、泡盛や水を買ったり、荷物を出したり、くらいしか利用しないが、あると嬉しい。


ウデナハ売店には最近パインの画が描かれた、2007年末 Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ

共同売店ファンクラブ」(いつの間にか再開していた→リンク)によると、これは平良共同売店の支店という形のようだ。「ウデナハ」というのは「宇出那覇」、たしか那覇から来た人たちが棲みついたからだと聞いたような気がする。バスは川田線、1日に3本程度だ。

共同売店は地元密着型・還元型の独自な形態だから、いまでは経営が概して苦しいという話を聞く。コンビニなんかよりも嬉しい存在だと思うのは、たまにしか訪れない者の勝手な思いかもしれないのだが。


ウデナハ売店の赤土付き大根、2007年末 Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ


『情況』の新自由主義特集

2008-03-22 19:53:26 | 政治

『情況』(2008年1/2合併号、情況出版)が、主にデヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』に関する論文の特集を組んでいる。正直言って玉石混交なのだが、読んでいると他のことを考え始めるきっかけが多く転がっていて、頭がまとまらず再読した。

他のこと、というのは、ハーヴェイの著作でも軽くしか触れられていなかった<環境>の「埋め込み」(福祉や社会的弱者対策などと同様に)のことであり、さらには<環境>が新自由主義の文脈で悪用されるのではないか、といったことである。それは簡単に答えが出ないことだし、自分にとってのテーマのひとつでもあるので保留する。

また、新自由主義がもたらす問題の認識が出発点であるとはいえ、今後のオルタナティヴスの方向性については、やはりハーヴェイの著作と同様、どれも提示できているものは少ないようだ。ただ、括弧付きの<政治運動>ではなく、個人に還元された分散型の力を束ねうるものこそがオルタナティヴとなりうると考えているから、その意味では、閉じた<分析空間>では不充分だとする意見自体が不充分なものとなるのだろう。(ところで、やはりネグリの話を直接聴きたかった。「東京新聞」では、今回の来日中止に関して、何者かの横槍が入ったとしか思えないと結論づけている。)

諸論文のなかで、いろいろなきっかけになりそうに感じた指摘。(※記述そのものではない)

●新自由主義においては、大衆には「自己責任」が容赦なく突きつけられる。しかし社会システムの維持のために、その正反対の権威主義的な介入が不可欠となっており、理想的な「小さな政府」との乖離が著しい。(渡辺治)
●新自由主義が敵とした社会システムは、福祉国家であった。しかし、日本での敵は異なり、開発主義的国家(=地方への利益誘導型政治=従来型の自民党政治)であった。実はこれを壊すことは新自由主義の本格的な導入(小泉政権)とセットだった。(渡辺治)
●新自由主義による社会のひずみを(結果的に)糊塗しようとするものとして、新保守主義があらわれた(安部政権)。つまりネオコンはネオリベの補完的な役割を担うものだった。しかし、教育改悪や憲法改悪をはじめ、イデオロギッシュな方法は極めて脆弱なものにしかならない。(渡辺治)
●均衡財政をめざす場合に、福祉・医療・教育・文化事業などの<埋め込み>は可能である。その分、削減できる予算(無駄な公共事業など)を確保すればよい。(新田滋)
●小さな政府化は、所得再分配のメカニズムを壊すことではない。(新田滋)
●市場社会のもとで努力が報われるとする新自由主義は、先天的な不公平がある以上、欠陥を持つ。(橋本務)
●グローバル化、国際競争といったことが大前提だと考えることは間違いである。そのために人々の抵抗する力と意志が挫かれるような社会は、自由な社会ではない。新自由主義に欠けているのは、それが他の可能性に開かれているという感覚である。(橋本務)
●「マルチチュード」などに代表される<大衆の反逆>は、それらを民主主義的にコントロールする枠組みにおいてこそ力を持つ。(星野智)
●市場の自由と商品化による社会的連帯の破壊は、公共的な圏域を疎外し、民主制を脅かす。このような状況において、「自己決定」は適切にはなされ得ない。(坂井広明)
●<格差>は個人の問題ではなく社会の問題として捉え、公正・正義の観点から再分配を行うべきである。(坂井広明)
●新自由主義の背後には、他者への幻想が亡霊のように存在する。しかし、実際に新自由主義の行き過ぎにより、私たちが生きていくのに必要な<不透明性>や<恒常性>が消滅させられると、これは個々の精神や文化の破壊に直結する。(樫村愛子)
●「希望は戦争」という発言における「戦争」とは、乗りこえられない社会に対する諦念、挫折感に向けられている。(山口素明、菅本翔吾、DJノイズ)

○参考 デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』


『ドラえもん のび太と緑の巨人伝』

2008-03-21 23:50:45 | アート・映画

もう2週間前だが、息子と2人で、ドラえもん映画の最新作『ドラえもん のび太と緑の巨人伝』を観に行った。

植物が支配する「緑の星」では、緑がどんどん破壊される地球の様子を観察し、「緑を救うため」に地球を攻めることを議会で決議する。しかし、実際には攻撃のための攻撃であることがわかってくる。この方便を、「テロとの闘い」という欺瞞的な言葉に置き換えてみれば、いまの世界と重なるものだ。

いわゆる勧善懲悪ものではない。敵として描かれるはずの「緑の星」の人物(植物)たちも、いつの間にか同じ領域に立っている。また、緑の中で生きる人々の生活も、たとえば『風の谷のナウシカ』のように緊張感を持った描写ではなく、ゆるい描写なのも良い。

そして、動画の線が不均一な太さで、背景画の美しさと相まって、かなりクオリティが高い。自分が小学生のときに観た映画のリメイク版『のび太の恐竜2006』も、前作『のび太の新魔界大冒険』もそうだった。

異人との出会いと別れはドラえもん映画の常道だが、わかっていてもしみじみとしてしまう。子どもと一緒でも、大人だけでも、多くの人に見て欲しいと思った。


窓口でもらったノベルティ 後ろのは『のび太の恐竜』


本部半島のカンヒザクラ(寒緋桜)と熱帯カルスト

2008-03-20 23:59:45 | 沖縄

アントニオ・ネグリの来日が中止になったらしい。チャンスがあれば講演を聴きに行こうと思っていたのだが。

東京ではそろそろ桜が咲こうとしているが、沖縄では年始のころ、カンヒザクラ(寒緋桜)が咲く。ソメイヨシノと違って、色がやや濃く、花が下向きなのが特徴のようだ。年末、沖縄本島では、本部半島八重岳でカンヒザクラの咲き始めを見ることができた。八重山のほうではもっと早いのだろうか。


カンヒザクラ、八重岳、2007年末 Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ

この本部半島の一部は琉球石灰岩から成っている。概ね、100万年以上前の、サンゴ礁などに起因する石灰質の堆積物である。つまり、堆積後に隆起したわけだ。本部半島の西にある瀬底島では、キャベツ畑の横に琉球石灰岩が露出しているところを見た。


瀬底島の琉球石灰岩、2007年末 Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ

しかし沖縄全体を見れば、沈降した地域も多い。100万年前の陸地の中心は慶良間諸島あたりとされ、いまの島々は過去の頂ということになる。


琉球石灰岩の分布地域 『沖縄の島々をめぐって』(沖縄地学会編著、築地書館、1997年)

ただ、時代もいろいろあって、琉球石灰岩よりも遥かに古く、中生代二畳紀、三畳紀といった2億年以上前の層が本部半島の中の部分を占めている。フズリナなどから成る大きな山は、琉球セメントが原材料として採掘を続けている。また、同じく2億年以上前の石灰岩が侵食され、中国の桂林のような熱帯カルストを形成しているところもある。これは秋吉台のような平坦な温帯カルストとは違って、奇妙で面白い。


琉球セメントの採掘する石灰岩、2007年末 Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ


本部半島の熱帯カルスト、2007年末 Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ

ちゅら海水族館の向こうに見える、尖った山が特徴的な伊江島はまた異なる。この山(伊江島タッチュー)は、琉球石灰岩の下から固いチャートが突き出しているものらしい。伊江島を訪れたことはないのだが、頭痛持ちの自分は、百合の香りでくらくらしてしまうのではないかと思っている。


伊江島を臨む、2007年末 Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ

●参考 『沖縄の島々をめぐって(日曜の地学14)』(沖縄地学会編著、築地書館、1997年)
 ※ 沖縄への旅に携行すると楽しさ倍増。→ たとえば「銭石」を探したり


北京の「Soka Art Center」再訪、北京国際空港の食べ物

2008-03-19 23:59:26 | 中国・台湾

●1週間の中国滞在中にひとつ歳を取ってしまった。何だか全く感慨がない。

『日経Kids+』(2008年4月号)の「キッズ社会科見学」に登場しました。

『一坪反戦通信』(No.195、2008年2月28日)に、ブログ記事(「ヘリパッドいらない東京集会」)を転載いただきました。余部がありますので欲しい方に差し上げます。

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北京ではほとんど仕事以外の時間がなかったが、わずか2時間を得たので、再度「Soka Art Center」(→リンク)に行ってきた(→前回記事「武漢的芸術覗見」)。前回も案内してくれたAppleさんが再訪を喜んでくれて、いろいろ説明してくれた。

いまの展示は、「解放―温普林中国前衛藝術案之八〇年代」というものだった。キュレイターである温普林(ウェン・プリン)が関わってきた、80年代のパフォーマンス・アートを回顧するものだ。まずはギャラリーの中の上映スペースで、既に居た妙なおじさんと2人で、さまざまなアーティストによる活動を記録したヴィデオを観た。おじさんは少々臭くて、げっぷをするのには困った。

活動の数々は、まあ、いかれたものだ。ちょっと時代を遡って、日本のアンデパンダン的だが、破れかぶれと言うか、大きな国の大きなエネルギーと言うか、随分楽しめた。

●石膏で多くの自分の顔をかたどり、それを円筒にくっつけて次々に潰していく。●毛沢東の胸像を赤く塗りたくったり、顔のツボに針を刺したりする。●局部に墨を塗り、版画の要領で紙に跡をつけていく(当然、イブ・クラインによる、女性の青い跡より汚い)。●ラサのポタラ宮を臨み、白く長い布を敷いて這いつくばる。●山上、風光明媚なところで、多くの裸の男女がただうつ伏せで重なる。●Uターン禁止の標識を描いた布を街のあちこちに迷惑に敷く。●物言わぬ、白いユーモラスな仮面の2人組が、バスに乗る。●手錠をかけられた男がバスに乗る。●儀式らしき空間で看板を重々しく登場させ、生卵を投げつけ続ける。●橋の上に透明ボックスを作り、ホワイトカラーの男が煙草を吸い、ガスが充満した中で何やら仕事をし続ける。

また、写真でも展示してあったが、「包扎長城」(Wrap Up Great Wall、1988年)は、万里の長城を包むパフォーマンスである。今となってはクリストという存在もあり新鮮ではないが、キメの粗さや、布だけでなく人間で包もうとするところが極めて中国的に感じた。


「包扎長城」(Wrap Up Great Wall、1988年)


「最後の晩餐」


「中国現代芸術展」(1989年)に用いられた布

●参考
○「北京的芸術覗見(1)」(Red Gate Gallery)
○「北京的芸術覗見(2)」「(3)」(北京798芸術区)

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行き帰りの北京国際空港。今回は、特に高い3階の店(→「空港茶楼」など)を避けて、まだ安い地下の店に行ってみた。

中国小吃城」は、よく日本のショッピングセンターにあるような形式で、食べる場所を多くの店舗が取り囲んでいる。まず窓口で適当に支払ってカードを買い、好きなものを注文して食べたら、後でカードと引き換えにお釣りをくれるシステムになっている。20元(320円くらい)で雲呑麺を注文したが、わりに旨かった。

寿ゞ女」(すずめ)は日本料理。「とくせいげきからチャーシューめん」、「サーントリウーロンちゃ」など、日本語が微妙で少し笑える。32元(510円くらい)の「かつカレー」を食べた。あまり旨くないし、量が矢鱈と多いし、上より安いとはいっても、やっぱり高い。

と言って、空港の中の搭乗口近くにも、あまり良い店はない。セルフ方式の店はいろいろ揃えているが、高く、いつも混んでいるので、並んでまで食べる気にならない。ほかにはスターバックスがあるがこれはどこでも同じである。「珈琲時光」という、侯孝賢を思い出す名前の喫茶店があったが、コーヒーの味はかなり落ちるものだった。

いまのところ、北京国際空港は、食事という点でいえば、物足りないし高い。街の中で食べる食事は安くて旨いのに。(どこの空港でもそうかもしれないが。) 


フェローン・アクラフ、Pentax 43mmF1.9

2008-03-12 07:00:40 | アヴァンギャルド・ジャズ

フェローン・アクラフ(Pheeroan akLaff)といえば、山下洋輔ニューヨーク・トリオ、アンソニー・ブラクストン(『Charlie Parker Project』が印象深い)、オリヴァー・レイク、アンソニー・デイヴィス、ヘンリー・スレッギル(『makin' a move』でのドラミングが最も好きだが、「new air」での活動もある)など、フリー・アヴァンギャルド系でのサイドマンとして目立つ。エネルギッシュで多彩な音は飽きない。

リーダー作もいくつかあって、私は2枚持っている。『SONOGRAM』(MU Records、1990年)ではサックス2人のほかにソニー・シャーロックのギターを目立たせていて硬派。しかし色々な民族音楽への興味は、『Global Mantras』(Modern Masters、1998年)のほうにこそ色濃く顕れている。オリエンタルな曲調の「Okinawa Children」や「Hikalu Express」(新幹線のこと)、オリヴァー・レイクが詰まったような「あの音」を吹きまくる「Minister to Haiti」など、1曲ずつが違っていておもしろい。

2004年の来日時も、山下トリオとはまた違って、セッションが楽しそうだった。


フェローン・アクラフ、2004年 Leica M3、Pentax 43mmF1.9、PRESTO 1600、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ


フェローン・アクラフと永田利樹、2004年 Leica M3、Pentax 43mmF1.9、PRESTO 1600、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ


寒くて写真を撮らなかったモントリオール

2008-03-10 23:59:57 | 北米

2005年に、モントリオールに1週間ほど滞在した。あまりにも寒かったので、楽ちんなAEカメラ、フォクトレンダー・ベッサR2Aを持っていったのにも関わらず、モノクロフィルムを1本しか使わなかった。それを、寒さが和らいだ今、なぜかついでにプリントしていたりする。やっぱり自分は寒いと駄目だ。

ベッサは、飛行機の振動で距離計が縦ずれを起こしていた。コシナのサービスルームで直接調整してもらったが、いろいろあって、結局手放してしまった。しかし、AE付きのレンジファインダー機に、なんだかまた魅力を感じている。

無目的な散歩はいつものことだが、バックミンスター・フラーが1947年に発明したジオデシック・ドームのひとつ(バックミンスター・フラー『宇宙船地球号操縦マニュアル』、1968年、ちくま学芸文庫)には行ってみたかった。ところが時間外で中に入ることができず、栗鼠を横目に見て写真だけを撮った。ひとつというのは、普遍的な工学デザインを志向したフラーの技術は、あちこちで使われているということだ。

ライヴハウス「House of Jazz」にも潜った。サックス、ベース、ピアノのトリオが演奏していたが、名前を忘れてしまった。


モントリオール Bessa R2A、Summicron 50mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ


ジオデシック・ドーム Bessa R2A、Summicron 50mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ


House of Jazz Bessa R2A、Summicron 50mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ


ローラン・トポール

2008-03-09 23:56:00 | 思想・文学

ローラン・トポールといえば、ルネ・ラルーと組んだアニメ『ファンタスティック・プラネット』(1972年)である。美術以外にも、小説を書いたり俳優として映画に出たりする、ということは知ってはいたが、実際にトポールの小説を読むのははじめてだ。

この、『幻の下宿人』(1964年)は、トポールが26歳のときにはじめて書いた小説のようだ。単にユニークなものなんだろうと思って読み始めたが大間違い。主人公をとりまく世界の悪意は、弱気な男の妄想と相まって、際限なく発展していく。もう最後のあたりは読むのを中断することができないほど面白く(仙台の空港でも読み続けた)、そして真剣に怖いヤン・シュヴァンクマイエルの『悦楽共犯者』を思わせるようなエキセントリックな人間たちが次々と出てきながらも、馬鹿馬鹿しくならず、逃れられない世界を形成しているところが、ただのサイコホラーではない点だろうとおもった。

トポールの画集は、『トポールの眼』(アートギャラリー環、1996年)を持っている。『ファンタスティック・プラネット』が劇場でリバイバルされたときに買ったものだ。これを観ると、想像力の歯止めのなさが実感できる。改めてインタビュー記事を読むと、アルフレード・クビンにも言及されていて、世界が真綿で絞まってきて不安と狂気がぶるぶると均衡していくような共通点についても納得した。

『幻の下宿人』は、ロマン・ポランスキーによって映画化もされているようだ。そのうち探し出すつもりだ。


『幻の下宿人』(河出文庫)


『靴のコレクション』(1993年) 『トポールの眼』(アートギャラリー環、1996年)より


『悲惨を引きずる ― コージー・コーナー』(1993年) 『トポールの眼』(アートギャラリー環、1996年)より


基地景と「まーみなー」

2008-03-06 07:00:00 | 沖縄

年末、読谷村の「うたごえペンション まーみなー」に宿泊し、オーナーである歌手・会沢芽美さんに戦跡などを案内していただいた。

●佐喜眞美術館の屋上から見る普天間基地

屋上は慰霊の日(6月23日)にあわせて6段と23段、当日の夕方は窓を通じて階段に日が差し込む設計になっている。


普天間 Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ

●嘉手納基地の間をつなぐ、ガラスで保護された歩道橋

5,000万円(当時)を超える予算は日本から提供されたという。


「思いやり」歩道橋 Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ

●道の駅から見る嘉手納基地

道の駅内には基地の展示施設があり、飛行機の騒音を体感できるようになっている。


嘉手納 Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ

●読谷村役場から見る読谷飛行場

読谷飛行場は土地交換により読谷村に返還されている。向こうの読谷湾からは、1945年4月1日に米軍が上陸した。


読谷飛行場 Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ


『たいようの子どもたち』会沢芽美

●うたごえペンション まーみなー → リンク
●佐喜眞美術館 → リンク


記憶の残滓

2008-03-03 23:59:29 | 小型映画

以前、スーパー8のフィルムを現像に出すと、スイス送りになって戻ってきた。小さいリールに巻かれ、識別のためにか、端っコで切り捨てられた誰かのフィルムに数字のタグが付いたものが、貼られていた。どこで撮られたものかまったくわからないが、捨てるに忍びなくてとっておいた。