Sightsong

自縄自縛日記

ヴィジェイ・アイヤーのソロとトリオ

2012-12-31 13:38:37 | アヴァンギャルド・ジャズ

いまさらではあるが、ヴィジェイ・アイヤー。インド・タミル人を出自に持つ米国のピアニストである。

ピアノソロ作『solo』(ACT、2010年)と、ピアノトリオ作『accelerando』(ACT、2012年)を聴いている。

Vijay Iyer (p)

Vijay Iyer (p)
Stephan Crump (b)
Marcus Gilmore (ds)

ひたすら硬いという印象。ブルージーな要素はない(ハービー・ニコルスの曲ではさすがに出てくる)。

硬い氷の欠片を投げつけられているような気分だ。かと言って、イメージの奔流のようなものがあるわけでもない。このように中庸で、かつ尖がったピアノは、スタイリッシュだということはわかっても、あまり好みではない。

それでも工夫が凝らしてあり、何度も繰り返し聴いている。

両盤に共通する曲が、マイケル・ジャクソンが歌い、マイルス・デイヴィスもカバーした「Human Nature」である。ソロは清新な感覚で、トリオでは前半にジャンピーなフレーズを押しだしていたベースが、後半ではアルコに転じ、はらはらして聴かせる。

珍しいことに、トリオ作では、ヘンリー・スレッギルの「Little Pocket Size Damons」が演奏されている。スレッギルの『Too Much Sugar for a Dime』の初っ端に演奏されている曲であり、こちらは「ヴェリー・ヴェリー・サーカス」グループならではの重層的なアンサンブルを示しているのに対し、アイヤーのトリオでは、ベースもドラムスも変則的でトリッキーなリズムを刻むことで対抗しようとしているようだ。悪くない。

スレッギルの曲を、スレッギル不在の場所で演奏するのは、例えば、チコ・フリーマンが演奏した「The Traveler」があったが、ちょっと珍しいのではないか。

●参照
ワダダ・レオ・スミス『Spiritual Dimensions』(アイヤー参加)
ヘンリー・スレッギル(5) サーカス音楽の躁と鬱(「Little Pocket Size Damons」)


侯孝賢『風櫃の少年』

2012-12-30 22:21:41 | 中国・台湾

侯孝賢『風櫃の少年』(1983年)を観る。

台湾の澎湖島に住む少年たち。毎日することもなく、ふらふらしては喧嘩をしているような生活。嫌気がさして、友達4人で、台湾島の高雄へと旅立つ。工場に職を得るが、生活態度はさほど変わらない。同じアパートに住む女の子と仲良くなり、父が亡くなった時も郷里に一緒に帰るが、歓迎してはもらえない。そして友達は徴兵され、女の子は仕事を求めて台北へと旅立つ。

少年は周囲の世界を受けとめ、適応しようとするだけで精いっぱいである(そして、成功などしない)。無力感に押しつぶされそうになり、鬱屈して、何かに怒りのはけ口を求める。

自分の世界は、凶悪なものにも懐かしいものにもなりうる。侯孝賢がじっくりと撮る風景は、そのような世界となっている。不良少年だけでない、誰もが求めてもがいたに違いない関係性なのだと感じた。

●参照 侯孝賢
『冬々の夏休み』(1984年)
『非情城市』(1989年)
『戯夢人生』(1993年)
『ミレニアム・マンボ』(2001年)
『珈琲時光』(2003年)
『レッド・バルーン』(2007年)


ロヴァ・サクソフォン・カルテットとジョン・コルトレーンの『Ascension』

2012-12-30 14:18:53 | アヴァンギャルド・ジャズ

何しろ『Ascension』である。とはいっても、最近また特定方面で盛り上がっているらしい「アセンション」ではない(知らないが)。ジョン・コルトレーンの永遠の問題作のことである。

ロヴァ・サクソフォン・カルテットが、「Rova's 1995」名義で、『John Coltrane's Ascension』(Black Saint、1995年)という作品を出している。

盤の存在を知ったのはつい最近、中古CD店の棚で発見してからのことだ。これを演るのか!

Jon Raskin, Steve Adams (as)
Larry Ochs, Bruce Ackley, Glenn Spearman (ts)
Dave Douglas, Raphe Malik (tp)
George Cremaschi, Lisle Ellis (b)
Chris Brown (p)
Donald Robinson (ds)

即興集団にはひとつのテーマが与えられたのみで、それをユニゾンでもなく吹いては、ソロイストに演奏を渡していく。その繰り返しである。

管のソロの順番は、スペアマン(as)→マリク(tp)→アダムス(as)→アックリー(ts)→オクス(ts)→ダグラス(tp)→ラスキン(as)。

聴くとやはり興奮してしまうのだが、なかでもラリー・オクスの潰れたような音色のテナーサックスが良いと思った。

ところで、デイヴ・ダグラスのトランペットは抑制が効きすぎていて、さほど好みではない。以前に随分と持て囃されて、それなりに聴いてもいたのだが、何度かジョン・ゾーンのクレズマー音楽のグループ・MASADAでの演奏を目の当たりにして、少し失望した。それ以来、ダグラスの作品をほとんど聴いていない。この思い込みを変えてくれるような演奏に接したいと思ってはいるのだが。

オリジナルは、言うまでもなく、ジョン・コルトレーン『Ascension』(Impulse!、1965年)である。


昔、エルヴィン・ジョーンズにサインをいただいた

John Coltrane, Pharoah Sanders, Archie Shepp (ts)
Marion Brown, John Tchicai (as)
Freddie Hubbard, Dewey Johnson (tp) 
McCoy Tyner (p)
Art Davis, Jimmy Garrison (b)
Elvin Jones (ds)

管のソロは、ジョン・コルトレーン(ts)→デューイ・ジョンソン(tp)→ファラオ・サンダース(ts)→フレディ・ハバード(tp)→アーチー・シェップ(ts)→ジョン・チカイ(as)→マリオン・ブラウン(as)、となっている。実際のところ、世に出たヴァージョンによって違いがあるらしい。

さすがというのか、それぞれ個性大爆発である。ファラオ・サンダースの地響きがするようなテナーも、一際モダンなフレディ・ハバードも、見た通りの精悍なアルトを吹くマリオン・ブラウンも良い。マッコイ・タイナーは、何だか終わりで自棄になったようなピアノソロを弾くが、実際にミスマッチで面白い。そして全体を締めるエルヴィン・ジョーンズのドラムス。

コルトレーンのサックスの音色が苦手な自分だが、これは数少ない好きな盤である。

しかしふと思ったのだが、この曲、もっと多くの演奏があってもいいのではないか。野球のように、集団即興と個人の見せ場が順番に来るのだから、参加者にとっては腕の見せ所に違いない。

ところで、藤岡靖洋『コルトレーン ジャズの殉教者』によれば、このセッションに、怪人ジュゼッピ・ローガンが参加した可能性もあったということで、そうなればさらに妖しさ爆発になったはずだ。(いや、まだ遅くない。ESPディスクなんかがそのつもりになってくれれば。)

●参照
藤岡靖洋『コルトレーン』、ジョン・コルトレーン『Ascension』
ラシッド・アリとテナーサックスとのデュオ(コルトレーンとの『Interstellar Space』)


武満徹『波の盆』

2012-12-30 10:49:55 | ポップス

気が向いて、武満徹『波の盆』(RASA、1983年)というドラマのサントラ集を聴いてみた。

指揮/岩城宏之
演奏/東京コンサーツ

何とも気持ちのいいアンサンブルである。このテレビドラマは、ハワイを舞台にしたものであったらしく、「パール・ハーバー」、「ヒロシマ」といった曲も含まれる(もっとも、これらの曲は気持ち良いというより不穏なイメージを出している)。

武満徹の映画音楽で好きなものは『他人の顔』『夏の妹』だが、これは、南国という点で沖縄と共通するのか、『夏の妹』を想起させる。

言ってみれば「甘酸っぱい」なのか、「ほろ苦い」なのか、しかしそれも大きな力の中に位置づけられるような。つまり、ここにある感覚は、どちらかと言うと「諦念」であり、諦めて思考停止したところに、癒しだとか観光だとかいったものが成立するのではないかな、と思ってしまった。大島渚が『夏の妹』において描いた世界も、そのような沖縄であったのかもしれない。

「日本」とは「諦め」だ。

参照
大島渚『夏の妹』


高野孟『沖縄に海兵隊はいらない!』

2012-12-30 10:06:41 | 沖縄

高野孟『沖縄に海兵隊はいらない!』(モナド新書、2012年)を読む。

著者は民主党立ち上げ時のブレーンのひとりであり、旧来の日米安保の枠組から新時代の国際関係へと脱却しようとする思いが強く押し出されている。

これを読むと、民主党が無残にもヴィジョンを失い、鳩山元首相に象徴される基地撤去の方向性を自ら棄て去り、その結果存在価値さえ失っていることが、情けなくてならなくなる。

著者の分析と主張はきわめて鋭く明快である。もっとも、沖縄の基地問題をずっと見ている人にとっては、その多くは半ば常識であるに違いないものだ。

まさにその情報と認識が共有されていないことが問題なのであり、あるいは共有しようとしないことや、論理的・戦略的に詰めようとしない「東京」の政治や大メディアの知的退行にこそ問題の根っこがありそうに思われる。

いくつかの論点がある。

●戦争の方法や国際関係が大きく様変わりし、海兵隊そのものの存在意義が希薄になっている。
●沖縄に基地を置くことが地政学上重要だという、押し付けられた「常識」は根拠をもたない。オスプレイは航続距離が伸びたとはいえ輸送機に過ぎず、さらに長距離には、佐世保に停泊している空母によって移動することになる。そして司令部と本体のグアム移転がある。逆に分散していることで非効率になっている。
(あれだけもっともらしく沖縄の地政学的重要性を説いていた森本敏防衛大臣(>> リンク)が、ついに、それがウソであったと述べたばかりである。)
●北朝鮮や中国や台湾での有事を想定するというが、そのような事態が仮にあるとして、そのときに必要な機能は海兵隊ではない。
●もはや、米軍基地縮小に伴い日本の軍備増強が必要というトレードオフは成り立たない。
辺野古の新基地を米海兵隊以上に欲しがっているのは陸上自衛隊である。
グアム移転費用カットという米議会の動きは、日本で報道されているような「脅し」ではなく、その逆である。米議会では、すでに沖縄の海兵隊不要論などさまざまに現実的な案が出されている。
●今では、「沖縄+米議会」vs.「日米両政府」(米国の安保既得権益層、米国に出て行ってもらっては困る日本の既得権益層)と視ると状況が明快になる。

小沢一郎と著者の国連主義にはちょっと首を傾げてしまう点もあるが、それを含めて、良書である。ぜひご一読を。

●参照
前泊博盛『沖縄と米軍基地』
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
渡辺豪『「アメとムチ」の構図』
渡辺豪『国策のまちおこし 嘉手納からの報告』
エンリコ・パレンティ+トーマス・ファツィ『誰も知らない基地のこと』
宮城康博・屋良朝博『普天間を封鎖した4日間』
由井晶子『沖縄 アリは象に挑む』
久江雅彦『日本の国防』
久江雅彦『米軍再編』、森本敏『米軍再編と在日米軍』
『現代思想』の「日米軍事同盟」特集
終戦の日に、『基地815』
『基地はいらない、どこにも』
知念ウシ・與儀秀武・後田多敦・桃原一彦『闘争する境界』
鎌田慧『沖縄 抵抗と希望の島』
アラン・ネルソン『元米海兵隊員の語る戦争と平和』
10万人沖縄県民大会に呼応する8・5首都圏集会(オスプレイ阻止)
オスプレイの危険性(2)
オスプレイの危険性
6.15沖縄意見広告運動報告集会
オスプレイの模型
60年目の「沖縄デー」に植民地支配と日米安保を問う
辺野古の似非アセスにおいて評価書強行提出
2010年12月のシンポジウム「沖縄は、どこへ向かうのか」
○シンポジウム 普天間―いま日本の選択を考える(1)(2)(3)(4)(5)(6
『世界』の「普天間移設問題の真実」特集
大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』
二度目の辺野古
2010年8月、高江
高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘
高江・辺野古訪問記(1) 高江
沖縄・高江へのヘリパッド建設反対!緊急集会
ヘリパッドいらない東京集会
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(1)
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(2)
「やんばるの森を守ろう!米軍ヘリパッド建設を止めよう!!」集会 


ニコラス・レイ『太平洋作戦』

2012-12-29 23:35:48 | 北米

ニコラス・レイ『太平洋作戦』(1951年)を観る。レイ初期の作品である。ブックオフで105円だったが、画質はそれなりだった。

米軍海兵隊は、ソロモン諸島のガダルカナル島の戦いに向かう。新たな司令官(ジョン・ウェイン)はひたすら厳しく、自らの作戦実行のためには、部下が戦死することも厭わない。しかし実は心の優しい男だという設定(それ自体が矛盾に満ち満ちているのだが)。一方、司令官に昇格できなかった大尉(ロバート・ライアン)は、部下に優しく人気があり、そのためにリーダーシップ欠如という評価をくだされている。

司令官と大尉との不和、憎しみ合い。唐突に挿入される、司令官と家族との触れ合い。再度組んだ戦場での、ふたりの歩み寄りと、大尉のリーダーとしての成長。ガダルカナル戦の実写フィルムが使われているのも、当時の映画としては、迫真性を増している。

見所は、まあ、そんなところである。

演出が少し奇妙で面白くはあるが、このように、好戦的で、自国の都合だけを前面に押し出し、体育会的でもあるような映画は、まったく好きになれない。ジョン・ウェインとロバート・ライアンという組み合わせも、ひとつの典型である。

ああ、いやだいやだ。


侯孝賢『非情城市』

2012-12-29 20:29:46 | 中国・台湾

侯孝賢『非情城市』(1989年)を観る。もう久しぶりの再見だ。

物語は、1945年8月15日、天皇の玉音放送をラジオで聞きながらの出産シーンではじまる。しかし、日本の植民地支配の終焉は、台湾人(本省人)にとっての真の解放ではなかった。支配層は、大陸の国民党(外省人)へと変わり、本省人たちは強権的な扱いに苦しむこととなった。本省人と外省人との軋轢は、やがてたび重なる衝突となり、1947年、陳儀将軍が蒋介石に依頼したことによる大弾圧「二・二八事件」が起きる。この白色テロにより、多くの本省人が突然投獄され、処刑された。

この映画は、ある本省人の家族と、そのひとりと結婚しようとする女性の家族の運命を中心に描かれている。短気な父と長兄が家を仕切り、二男は出征して戻らず、三男は意志薄弱で上海やくざの甘言に乗せられて身を滅ぼし、口がきけない四男(トニー・レオン!)は義憤に駆られて行動し、逮捕される。

それぞれの気持ちの発露が、侯孝賢ならではの長回しと風景描写のなかに置かれ、大きな語りを創出していく手腕は見事である。

息苦しさを覚えながらもずっと映画に引き込まれた。そして、語りが終わった後、何とも言いようのない感情の波がやってきた。

やはり名作に違いない。

●参照 侯孝賢
『冬々の夏休み』(1984年)
『戯夢人生』(1993年)
『ミレニアム・マンボ』(2001年)
『珈琲時光』(2003年)
『レッド・バルーン』(2007年)

●参照
丸川哲史『台湾ナショナリズム』


ハリー・コニック・ジュニア+ブランフォード・マルサリス『Occasion』

2012-12-29 10:52:25 | アヴァンギャルド・ジャズ

ハリー・コニック・ジュニア+ブランフォード・マルサリス『Occasion』(Marsalis Music、2005年)を聴く。ブックオフの500円棚にあった。

何しろハリー・コニック・ジュニアがヴォーカル抜きで活動しているということなどまったく知らなかった。というよりまったく興味を持たなかった。洋楽好きの姉が1990年代初めころに何やらうっとりして聴いていたのを目撃して以来、自分の中ではミーハー向けというレッテルを貼っていた有様である。

そういえば、故・古澤良治郎さんは、スクールの待合室でいつも仙人のように存在していたが、その古澤さんが、「あの人、何だっけ、ハリー・ニコック・ジュニア!」とか叫んでいた記憶がある。(どうでもいいか・・・。)

Harry Connick, Jr. (p)
Branford Marsalis (ts, ss)

ブランフォード・マルサリスとピアニストとのデュオというと、父エリス・マルサリスと吹き込んだ『Loved Ones』を思い出してしまうが(「Maria」の演奏などは印象的だった)、ハリーは実はエリスに師事していたのだという。そうか、ジャズの伝統を既得権益のように抱え込むネオコン一味か、と一言で片付けず、聴く。

ハリーのピアノは、当然というべきか、エリスのピアノよりもモダンな要素を取り入れている印象がある。そしてブランフォードのサックスは、相変わらず、巧すぎるくらい巧い。もうヤンチャ臭はない。実はそれがつまらない。かつて『The Dark Keys』というピアノレスグループの作品に熱狂した自分だが、それ以降は、綺麗なだけに感じられて、聴く気がしなくなっていた。改めて聴くと、これはこれで悪くない。

「Steve Lacy」という曲が収録されている。文字通り、ソプラノサックスの巨匠、故・スティーヴ・レイシーに捧げられた演奏であり、解説を読むと、『Sands』にインスパイアされたものであるらしい。しかし、やはり当然というべきか、似ても似つかないどころか、雰囲気もない。ケニーGかなにかを聴いているようだ。

ニューオリンズ風あり、シャンソン風ありと、悪くないのだけど。


『Sands』(TZADIK、1998年) 昔、レイシーにサインをいただいた


『Sands』(TZADIK、1998年)の内部の写真

●参照
『Point of Departure』のスティーヴ・レイシー特集(『Sands』)


どぅたっち忘年会

2012-12-29 01:20:44 | 沖縄

仕事納め。琉球センター・どぅたっちで忘年会をやっているんだなと思いだし、駒込まで足を運んだ。

集まった人は30人くらい。島袋さんの料理、泡盛、三線。

常連のOさんに、福島の米をいただいてしまった。ありがとうございます。

帰りの電車は、仕事納めの後だけあって、泥酔して眠りこける女の子、微妙な拍手を続けるオッサン、胸元に何枚もの千円札を挟んだ女の子、降りようとダッシュしてすっ転ぶ若い男など、ワンダーランドだった。


スクール・デイズ『In Our Times』

2012-12-28 08:27:46 | アヴァンギャルド・ジャズ

スクール・デイズとは、ケン・ヴァンダーマークらシカゴの2人と、ポール・ニルセン・ラヴらオスロの2人とが名乗ったグループである。当時別に注目しておらず、それというのもヴァンダーマークがシカゴの重鎮、故フレッド・アンダーソンと共演した録音を聴いて、何か勢いだけの暑苦しいサックス吹きだと思い込んでいたからだ。

そんな印象が変わってきたのは割に最近のことで、やはり予断はよくない。

『In Our Times』(2001年)は不思議な盤で、聴けば聴くほど聴きどころが出てくる。

Ken Vandermark (reeds)
Jeb Bishop (tb)
Kjell Nordeson (vib)
Ingebrigt Haker-Flaten (b)
Paal Nilsen-Love (ds)

1曲目からいきなり猛然と攻められるのだが、そればかりではない。

例えばビル・エヴァンスの曲「Loose Blues」では、クラリネットのヴァイブのデュオが静かで、また不穏でもある。途中からトロンボーンが、そして次にベースとドラムスとが入ってきて快感を覚える。

ヴァンダーマークのサックスの暑苦しさにうまく味を加えているのは、トロンボーンであり、そして決定的にヴァイブだろうと思える。ぜひヴァイブを帯同したグループで再来日してほしい。

●参照
ポール・ニルセン・ラヴ+ケン・ヴァンダーマーク@新宿ピットイン
4 Corners『Alive in Lisbon』(ヴァンダーマーク、ニルセン・ラヴ参加)
ペーター・ブロッツマン@新宿ピットイン(ニルセン・ラヴ参加)
ジョー・マクフィーとポール・ニルセン・ラヴとのデュオ、『明日が今日来た』
ペーター・ブロッツマンの映像『Soldier of the Road』(ヴァンダーマークがインタビューに答える)
横井一江『アヴァンギャルド・ジャズ ヨーロッパ・フリーの軌跡』(ニルセン・ラヴに言及)


富樫雅彦『セッション・イン・パリ VOL. 1 / 2』

2012-12-26 07:50:09 | アヴァンギャルド・ジャズ

富樫雅彦『セッション・イン・パリ VOL.1 ソング・オヴ・ソウル』と、『VOL.2 彩られた夢』が、1500円の廉価版で出ている(King Record、1979年)。前から聴きたい盤だったこともあり、入手して聴いている。

富樫雅彦 (perc)
Don Cherry (tp, cor, 竹笛, perc)
Charlie Haden (b)

富樫雅彦 (perc)
Albert Mangelsdorff (tb)
加古隆 (p)
Jenny Clark (b)

第1集は、ドン・チェリー、チャーリー・ヘイデンというオーネット・コールマン人脈とのトリオ。シンプルなだけに、自由を体現したようなチェリーのトランペットと、独特の匂い立つ深い沼のようなヘイデンのベースとが、それぞれ広い空間で演奏していて嬉しい。

第2集は、アルバート・マンゲルスドルフ、加古隆、ジェニー・クラークというヨーロッパ人脈。マンゲルスドルフのトロンボーンは、融通無碍というのか、実に柔軟かつ技巧的で、これがベースと有機体の如く絡み合っている。加古隆はパリでばりばり演奏していたころだ。

これらを聴くと、富樫雅彦のパーカッションが独自のものだったことが痛感される。壁が見えないほど広い音空間のなかで、遠くから、一音一音の音色を異常なほど大事にしたであろう擦音や破裂音が「スパタタタ、すぱたたた」とやってきて、富樫ワールドを創り出す。まるで、脳内の神経細胞ネットワークにおいて信号が縦横無尽に行き来し、あちこちで反応が起きているところを、ミクロな存在になって見渡しているような気がしてくる。

もう亡くなってから5年以上が経つ。最晩年はもう演奏を休止せざるを得ない状況になっていたから、最後に新宿ピットインで観たのはいつのことだったか?

●参照
富樫雅彦が亡くなった
『富樫雅彦 スティーヴ・レイシー 高橋悠治』


宮城康博・屋良朝博『普天間を封鎖した4日間』

2012-12-24 08:29:04 | 沖縄
宮城康博・屋良朝博『普天間を封鎖した4日間』(高文研、2012年)を読む。

2012年9月末の数日間、普天間基地の各ゲートが市民により「封鎖」された。これまで、辺野古高江での基地建設阻止はあっても、また嘉手納基地を取り囲む「人間の鎖」はあっても、このように、まるまる数日間も基地機能をストップさせたのはかつてないことであった。

勿論、阻止の対象は「オスプレイMV-22」だった。この危険極まりない輸送機が市街の上を飛ぶというクレイジーな決定は、米国のダブルスタンダード(自国ではありえないが、他国では適用する)を、日本政府が唯唯諾諾と引き受けてのことだった。

「勿論」とは言っても、「勿論」ではない。「オスプレイ」が流行語大賞候補となる位、ようやく日本でも報道されてきてはいる。しかし、それは「本土」にも配備されることを受けての危機感でしかなく、沖縄での配備については、必要悪とみなす空気が醸成されている。あるいは無関心である。

封鎖に参加した宮城康博氏(元名護市議)は、この無関心が、それを装う者にいずれ暴力に姿を変えて降りかかってくるのだと説く。

「この事実を、動画や写真や諸々の媒体もしくは現場にいて拘束される当事者ではなく傍観者として知ることで、彼と我の違いを強固に反対しうる強い人もしくは怖い人と弱い普通の一般人としての私などと線引きし、対岸のものとしてしまうことは、安全圏であると思っている此岸に遍在する暴力を見失い、自らの存在を危険にするだけである。」

このルポを読むと、まさに、普天間のゲートで展開されたことが「此岸に遍在する暴力」であることがわかる。これは、市民を脅かし続ける米国基地を護るために、国家権力が、市民を排除していったプロセスであった。国の安全保障を抽象的に語る者も、あるいは原発について語る者も、そこに間違いなく姿を見せている暴力については見ようとしない。

結局、オスプレイは配備され、いまでは市街の上を轟音を立てて飛んでいるとの声が、毎日のようにツイッターから聞こえてくる。しかし、この封鎖は抵抗の挫折ではなかったのだと、宮城氏は言う。それは市民の意思表明のジャンプボードとなり、国家暴力の顕在化のプロセスとなるということなのだろう。

今また、満州国や60年安保という国家暴力を指揮した祖父を崇める者が、首相になろうとしている。国家暴力のさらなる顕在化はこれからだと思えてならない。

本書後半では、屋良朝博氏(元沖縄タイムス)が、沖縄に米軍基地を置くことの無意味さを解説している。つまり、中身を追求すれば無意味だということが明確にも関わらず、中国や北朝鮮の脅威を煽りつつ、必要な機能なのだとする空疎な強弁がまかり通っているということである。


佐喜間美術館から視る普天間(2008年) Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ

●参照
宮城康博『沖縄ラプソディ』
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
10万人沖縄県民大会に呼応する8・5首都圏集会(オスプレイ阻止)
オスプレイの危険性(2)
オスプレイの危険性
6.15沖縄意見広告運動報告集会
オスプレイの模型
60年目の「沖縄デー」に植民地支配と日米安保を問う
辺野古の似非アセスにおいて評価書強行提出
前泊博盛『沖縄と米軍基地』
渡辺豪『「アメとムチ」の構図』
2010年12月のシンポジウム「沖縄は、どこへ向かうのか」
○シンポジウム 普天間―いま日本の選択を考える(1)(2)(3)(4)(5)(6
『世界』の「普天間移設問題の真実」特集
大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』
二度目の辺野古
2010年8月、高江
高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘
高江・辺野古訪問記(1) 高江
沖縄・高江へのヘリパッド建設反対!緊急集会
ヘリパッドいらない東京集会
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(1)
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(2)
「やんばるの森を守ろう!米軍ヘリパッド建設を止めよう!!」集会(5年前、すでにオスプレイは大問題として認識されている) 


パク・チャヌク『JSA』

2012-12-24 00:06:56 | 韓国・朝鮮

パク・チャヌク『JSA』(2000年)を観る。

JSAとは南北朝鮮の国境地帯に設けられている共同警備区域(Joint Security Area)のことである。ここを警備する南北の兵士2人ずつが仲良くなる。しかし、それが発覚した瞬間に、すべては瓦解し、悲惨な結末が訪れる。

帝国の思惑により引き裂かれたままの国家。その一端を担い、かつ、帝国の丁稚のように振る舞い続ける日本という国は何だろう。北朝鮮の脅威を煽ると同時に、庶民はこのように窮乏しているのですよ、と宣伝する意図は、表裏一体のものではないか。

韓国兵士のイ・ビョンホンと、北朝鮮兵士のソ・ガンホとは、『グッド・バッド・ウィアード』という満州西部劇でも共演していた。良い俳優。

なお、映画の中では、北朝鮮捕虜収容所が置かれた巨済島での事件についても言及されている。

●参照
パク・チャヌク『オールド・ボーイ』
飯田勇『越境地帯』
『三八線上』(朝鮮戦争への中国出兵)
馮小剛『戦場のレクイエム』(朝鮮戦争への中国出兵)
李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』
井上光晴『他国の死』(朝鮮戦争における巨済島事件)


侯孝賢『戯夢人生』

2012-12-23 08:10:16 | 中国・台湾

侯孝賢(ホウ・シャオシェン)のDVD13枚組を入手した(なんと44ドル)。そんなわけで、まずは、『戯夢人生』(1993年)を観る。

台湾。1895年の下関条約により、日本の占領下に入る。主人公・李天祿の語りもここからはじまる。父は結婚して養子に入ったが姓が悪いと判断され、息子(李)を元の姓で戸籍登録しようとするも、日本の法律で認められない。祖母の健康が悪くなったとき、その代わりに自分の命を差し出すと祈っていた母が亡くなり、祖母は回復する。その祖母が行く先々で死がつきまとう。父は呑んだくれになり、再婚相手は李とのそりが合わない。李は人形劇の腕を買われて劇団を転々とする。日本軍による戦意高揚のための劇にも参加せざるを得ない。そして1945年に日本は敗戦。日本軍の戦闘機などを鉄屑として売ったオカネで演劇ができるのだと聞いたとき、李は、台湾の独立を実感する。

晩年の李天祿による語りと、台湾の山々や田畑の風景が映画を支配する。ドラマとしての幹はなく、すべては時代の記憶である。しかし、その力が圧倒的で、否応なく惹きこまれてしまう。あの何気ない風景のロングショットを、まったく惜しみなく挿入する侯孝賢の手腕はやはり途轍もない。

それにしても、布袋劇という伝統的な人形劇は面白い。まるで京劇のようで、声色を作った語りの合間に、出入りや流れるような動きがあり、そのときに小さな銅鑼が連打される。最新作『レッド・バルーン』(2007年)でも人形劇を扱っていた侯孝賢の、人形劇への拘りや如何に。

●参照 侯孝賢
『冬々の夏休み』(1984年)
『ミレニアム・マンボ』(2001年)
『珈琲時光』(2003年)
『レッド・バルーン』(2007年)


森山威男『SMILE』、『Live at LOVELY』

2012-12-22 20:08:29 | アヴァンギャルド・ジャズ

森山威男『SMILE』(DENON、1980年)を入手した。「オンデマンド盤」、つまり注文に応じて焼かれたCD-Rである。

森山威男(ds)
国安良夫(①②③⑤ts、④ss)
板橋文夫(p)
望月英明(b)
松風鉱一(①ts、②fl、③as)

ずいぶん初期の森山威男カルテットに、松風鉱一さんが3曲ゲスト参加している。すでにマルチインストルメンタリストぶりを発揮しているのだが、ユニークなソロを聴くことができるのは③の「ステップ」のみ。以前、10年以上もサックスの師匠だっただけに期待して購入したので残念だ。(そう言えば、これが再発されたころにメールで訊くと、知らされていないとのことだった。)

音質は何だかペラペラでいまひとつである。とはいえ、「エクスチェンジ」「わたらせ」「グッドバイ」という、板橋文夫作曲の十八番ばかりを聴くことができるのは嬉しい。何しろ俊敏な斧であるかのような森山威男のタイコであり、大音量であればあるほど動悸動悸する。国安良夫さんのサックスはパンチがないように思ったが、聴いているうちに耳に馴染んできた。

以前から愛聴しているのは、『Live at LOVELY』(DIW、1990年)。10年の月日が流れているが、この間に、何年にもわたる演奏活動の休止と再開がはさまっている。しかし、演奏曲はほとんど同じ「わたらせ」「エクスチェンジ」「グッドバイ」。メンバーもサックス以外は同じ。

森山威男(ds)
板橋文夫(p)
井上淑彦(ts、ss)
望月英明(b)

やっぱり軍配はこっちに上がる。

森山さんの鬼気迫るドラムスは油が乗りきっている。特に、最後の「グッドバイ」において、力技で他の楽器を押しのけるように創り出すクライマックスは何度聴いても素晴らしい。もちろん板橋さんの音が飛び散るようなピアノもいつも通りである。

年末に「グッドバイ」なんか聴くと、いつもライヴで歌っていた浅川マキを思い出す。マキさんが亡くなってから、もう3年が経とうとしている。

●参照
ペーター・ブロッツマン+佐藤允彦+森山威男『YATAGARASU』
渋谷毅+森山威男『しーそー』
若松孝二『天使の恍惚』(森山威男参加)
板橋文夫『ダンシング東門』、『わたらせ』
板橋文夫+李政美@どぅたっち
板橋文夫『うちちゅーめー お月さま』
中央線ジャズ