Sightsong

自縄自縛日記

谷津干潟

2010-07-31 11:58:04 | 環境・自然

近いのに行ったことのなかった谷津干潟を、はじめて訪れた。津田沼駅からバスでほんの少しで着く。暑くてたまらないので、谷津干潟自然観察センターに急いで入る。中にはフィールドスコープや双眼鏡、鳥のおもちゃなどもあり、子どもたちは喜ぶ。しかし本物に触れる親水性という点では物足りない。

谷津干潟は周囲が埋め立てられており、長方形の穴ぼこ型の干潟として残されている。勿論水路を通じて海とつながっているため、海水が干満を繰り返し、干潟が形成されている。「どろんこサブウ」こと森田三郎氏らの努力により貴重な生態系として維持されているとは言え、ここが東京湾唯一のラムサール条約登録湿地であることは、管理のしやすさという側面のあらわれだ。少し皮肉なことである。

センターからは、杭の上にとまるカワウカルガモの親子、子育て中のセイタカシギダイサギなどを観察することができた。水際には何かの稚魚も見えた。アシが繁茂しているのは気持ちが良い。なお、関西ではヨシと言うことが多いが、これは「悪し」を忌避して「良し」と言い換えたものだ。

そういえば、千葉ロッテマリーンズの宣伝番組「ロッテレビ」を観ていたら、福浦選手が登場した。若いころに登場したとき、谷津干潟がお気に入りの場所だと言っていましたね、とアナウンサーにからかわれていた。彼のシャープなヒットは昔から好きであったので、さらに親近感が増したのだった。

(追記)その後ほどなくして、アサリの大量死事件が起きた。暑さによりアオサが繁殖し、そのために溶存酸素が減るなどした結果だった。やはり、バッファーの小さい状況での生態系は、変動に対して脆弱だということだろう。


何かの稚魚 Pentax MZ-S、FA★200mmF2.8、ベルビア100、DP


カワウは羽根を広げなかった Pentax MZ-S、FA★200mmF2.8、ベルビア100、DP


アシは良し Pentax MZ-S、FA★200mmF2.8、ベルビア100、DP


セイタカシギ Pentax MZ-S、FA★200mmF2.8、ベルビア100、DP


カルガモ親子 Pentax MZ-S、FA★200mmF2.8、ベルビア100、DP


セイタカシギ Pentax MZ-S、FA★200mmF2.8、ベルビア100、DP

●東京湾の干潟(三番瀬、盤洲干潟・小櫃川河口、新浜湖干潟、江戸川放水路)
市川塩浜の三番瀬と『潮だまりの生物』
日韓NGO湿地フォーラム
三番瀬を巡る混沌と不安 『地域環境の再生と円卓会議』
三番瀬の海苔
三番瀬は新知事のもとどうなるか、塩浜の護岸はどうなるか
三番瀬(5) 『海辺再生』
猫実川河口
三番瀬(4) 子どもと塩づくり
三番瀬(3) 何だか不公平なブックレット
三番瀬(2) 観察会
三番瀬(1) 観察会
『青べか物語』は面白い
Elmar 90mmF4.0で撮る妙典公園
江戸川放水路の泥干潟
井出孫六・小中陽太郎・高史明・田原総一郎『変貌する風土』 かつての木更津を描いた貴重なルポ
盤洲干潟 (千葉県木更津市)
○盤洲干潟の写真集 平野耕作『キサラヅ―共生限界:1998-2002』
新浜湖干潟(行徳・野鳥保護区)


原将人『おかしさに彩られた悲しみのバラード』、『自己表出史・早川義夫編』

2010-07-31 08:48:03 | 小型映画

茅場町のギャラリーマキで、原将人の映画を順番に上映しはじめた。今回は高校生のときに撮られた『おかしさに彩られた悲しみのバラード』(1968年)と次作『自己表出史・早川義夫編』(1970年)の2本である。大島渚『夏の妹』の批評や、『東京戦争戦後秘話』の脚本によって興味を持っていたものの、作品をこうして観るのははじめてだ。

『おかしさに彩られた悲しみのバラード』は、一見、極めてユルい。しかし、カットが短く切り詰められ、継ぎ合わされている映像は、奇妙なビート感を孕んでいた。こうすることにより、楽屋落ちに堕すことがないのだと後で気が付いた。

政治の季節。街頭デモ。ベトナム戦争で頭を撃ち抜かれるベトコンの映画を撮ろうとする劇中劇(いや、すべてが劇中劇か)。リンチを受ける朝鮮人少年。それは「風景論」のようなタイトさや抽象性は持たず(足立正生『略称・連続射殺魔』は1969年に公開された)、ユルいが故に、丸山真男の言った「であること」的な距離を置かず、よりアクティブに世界と関わっているのだった。

「中学生のころからコルトレーンを追いかけていた」という監督らしく、映画ではずっとジャズが使われている。チャールス・ロイドの「フォレスト・フラワー」があった。上映の後、居酒屋で訊ねてみると、エリック・ドルフィーやレス・ポールも使っているということだった。

『自己表出史・早川義夫編』は、ソロ活動を始めたころの早川義夫を追った映像。デビュー作のユルさは消え、スタイリッシュでさえある(何しろ、オーネット・コールマン「ロンリー・ウーマン」で始まるのだ)。早川義夫は、作曲のときが音楽的なピークであり演奏時は追体験に過ぎないこと、メッセージソングであろうとなかろうとメッセージを殊更に強調したくはないこと、グループで演奏すると時間の進み方を支配されてしまうこと、などについて、原監督のツッコミに応じて正直に語る。

やはりここでも政治が独特な振る舞いで闖入する。1969年10月21日、国際反戦デー、前年に続く新宿での騒乱。「政治運動を撮るだけで運動になる」との主張をナンセンスだと感じていたという原将人の、独自の距離と関わり。この前後、原将人は大島渚の創造社に出入りしていた。この関係が、大島渚『新宿戦争戦後秘話』(1970年)において、脚本での参加という形となる。大島渚は『新宿泥棒日記』において、1968年の新宿騒乱を撮っていた。大島渚の近くには常に私服の公安が張り付き、声ひとつ、手ひとつあげようものなら逮捕しようと待ち構えていたという。足立正生が「おまわりさん!」と叫んでみると、柔道で耳の形が変わった「私服」たちは一斉に逃げた、という話も開陳された。

トークショーのとき、突然、Sさん質問はないですかと指名されたので、8ミリと16ミリというフォーマットの違いについて訊ねてみた。1枚の解説には、8ミリに飽き足らず、質感を求めて16ミリにしたのだとある。実際のところ、1コマずつのコントロールがより自由である点を重視したのだということだった。また最近8ミリに回帰している点については、フジのシングル8中止に対するプロテストのようなものだ、と。居酒屋で、それではスーパー8は使わないのかと訊ねると、巻き戻しなどのコントロールがシングル8のほうが良い点、フジカZC1000というカメラが使えるという点を挙げていた。このため、スーパー8のフィルムをシングル8のカートリッジに詰め替えて使っている人もいるらしい。

それにしても、変人たちの集まりは愉しかった。次回の上映にも足を運びたい。

●参照
大島渚『夏の妹』(原論文)
大島渚『少年』
大島渚『戦場のメリークリスマス』


李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』

2010-07-30 00:56:56 | 韓国・朝鮮

李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』(角川文庫、1974年)を読む。『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』の続編という形だが、もともとは1冊の単行本であったものだ。おそらくは単行本の構成がそうだったのであろう、第2巻は作家論や軽いエッセイが多く、読みごたえはあまりない。

金石範と共通することだが、在日コリアンにとって<支配者の言語>たる日本語で書かざるを得ないことについて、思い悩み、思索している。興味深いことに、発音や語彙の難しさによるぎこちなさだけでない理由により、<観念が分裂する>ことに言及している。それこそが、自分の肉体化した母国語が<支配者の言語>によって否定される兆しに起因するのだとする。また、アイデンティティ崩壊なのか、それとも分裂を行きながらアイデンティティを再発見していくか、両方の可能性があるのではないか、とも考えている。

李がこれを書いてから40年弱、在日コリアンも三世、四世と進んできて、分裂としない分裂が出発点になっているのかもしれない。そして、長期的には、「在日朝鮮人文学」はいずれその運動を終える時期をもち、「帰化人文学」が生まれる可能性をも示唆している。しかし、その「長期」は残念なことにいまも「長期」であり続けている。

李自身が未成年時代には「岸本」姓を名乗っており、これはもともと、「李」を「木」+「子」とした抵抗であったという。また、「いつ自分の子供と生き別れになるかもしれないという想い」が日頃からあるのだという。<観念>を語ることを大袈裟だと言うことなどできないのだ。

作家論においては、金史良という朝鮮戦争で戦死した在日作家を繰り返し評価している。これは読まねばならない。

「日本語で書かれた彼の作品はまた同時に朝鮮人でなければ書けぬ濃密な文体を持っていた。日本語は彼のパレットに溶け合わされて出てくると不思議と朝鮮的な色彩を帯び出し、文体は生き生きとしている。また羨ましいほど文体に人間・金史良の息遣いが立ちこめ、生の声が録音されている感じである。」

●参照
李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
金石範『新編「在日」の思想』
朴重鎬『にっぽん村のヨプチョン』
井上光晴『他国の死』
野村進『コリアン世界の旅』
『世界』の「韓国併合100年」特集
尹健次『思想体験の交錯』
尹健次『思想体験の交錯』特集(2008年12月号)
高崎宗司『検証 日朝検証』 猿芝居の防衛、政府の御用広報機関となったメディア
菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業』、50年近く前のピースの空箱と色褪せた写真
朴三石『海外コリアン』、カザフのコリアンに関するドキュメンタリー ラウレンティー・ソン『フルンゼ実験農場』『コレサラム』
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』


「KAIBUTSU LIVES!」ふたたび

2010-07-30 00:04:19 | アヴァンギャルド・ジャズ

座・高円寺で、「KAIBUTSU LIVES!」を観た。原田依幸(ピアノ)、鈴木勲(ベース)、ルイス・モホロ(ドラムス)、トリスタン・ホンジンガー(チェロ)、トビアス・ディーリアス(テナーサックス、クラリネット)、セルゲイ・レートフ(ソプラノサックス、フルート、小笛)という強力メンバーであり、前回(2007年)に比べると、ベースがヘンリー・グライムスから替わり、さらにセルゲイ・クリョーヒンとも共演したレートフが加わっている。

またしても1時間ずつ2回のフリー・インプロヴィゼーション大会。このような場に居合わせると、嬉しくて心臓の鼓動が激しくなることがある。

レートフは時にチャルメラのようなソプラノサックスを吹きまくり、このメンバーの中でも目立っていた。ディーリアスのサックスは野犬が吠えるようだった。原田依幸のピアノを聴くのは前回以来だが、相変わらずナマナマしく暴れていた。鈴木勲のベースとなるともっと久しぶりだが、ダンディな早弾きソロが存在感を示していた。しかし何といっても、今回素晴らしいと痛感したのは、ホンジンガーとモホロだ。

ホンジンガーのチェロは、祝祭的としか言いようのない奇妙な中間音とメロディーであり、他のプレイヤーのソロに絶妙に斬り込んで行く。アンコールでは高揚してヴォイスで参加していた。そしてモホロは「剛の者」。タイトに張ったタイコに、まるでボクサーのように攻め続けた。モホロの魅力に気が付いたのははじめてかもしれない。

●参照
「KAIBUTSU LIVEs!」をエルマリート90mmで撮る(2007年)
イレーネ・シュヴァイツァーの映像(モホロと共演)
現代ジャズ文化研究会 セルゲイ・レートフ
セルゲイ・クリョーヒンの映画『クリョーヒン』(レートフ登場)


ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1

2010-07-29 00:33:25 | 小型映画

ジョナス・メカスは映画作家としても、詩人としても、もっとも敬愛する人物のひとりだ。『リトアニアへの旅の追憶』(1972年)という奇跡的な映画を1996年に六本木シネ・ヴィヴァンで観たことが、確実に自分の中の何かを変えた。『I Had Nowhere to Go』(1991年)も、もう何年も前に読んだ本だが、また読みたくなって通勤電車の中で開いている。

少年時代から、ナチスドイツによる虜囚、難民となっての米国への移住、1950年代までの手記である。500頁近くの分厚い本であるから、通勤電車の中ではなかなか読み進めることができない。今のところ、終戦後数年間が経ったものの、メカスはまだ弟のアドルファス・メカスとともにドイツにいる。

なぜ捕虜となったかについては、『リトアニア・・・』でも語られている。抵抗運動を続けていたメカスには、ドイツもロシアも目を付けていた。ある日、納屋に置いていたタイプライターが泥棒に盗まれる。そこから足が付く危険がある。メカス兄弟はウィーン行きの電車に乗る。しかし、それは収容所行きの電車となった。そして、空腹で、退屈で、不潔で、自由のない生活が始まる。

メカスの自由への願いは切実で、痛々しく、かつユーモラスだ。狭いタコ部屋に同居する奴らがやかましいと常に怒っているのだが(ボッシュの描く怪物に例えたりしている)、その一方、自由が得られたときには周囲の迷惑を顧みず大声で歌ってみたりする。駄目だと禁止されても、自転車や電車で無理に遠出し、犬のように疲れてしまう(このあたり、収容所生活の感覚がよくわからない)。

収容所から大学にも通うが、何も残らない。空腹に耐えかねて、大量の本やタイプライターや服を売り払う。メカスは空っぽになってしまったらしい。そんな中、後年同名の映画を撮ることになる、ヘンリー・ソロー『ウォールデン』を読んだり、リトアニア人たちを集めて機関誌を発行し始めたりもする。この苦しくも楽しそうでもある時期に、メカス再生のプロセスを見る思いだ。

メカスらしく、無意味に、手記の一部をピックアップして適当に訳してみる。

「アドルファスは芋の皮をむく。レオと僕はそのまま食べる―――なぜ良い物を捨てるのか。それに早いし、手間が要らない。僕たちは料理と家事でたくさんの新しいことを学んだ。食べ物は原始的に眺めること、ちょうど子どもたちがしているように。僕たちは、芋を熱い灰の中に入れて焼いたものだった。それをズボンでちょっと拭いて、全部、灰ごと食べた。ああ、そんなふうに食べたら旨かった。特に、濡れた枝から冷たい秋の雨が首筋に垂れてくるようなとき、風が吹いてハンノキが曲がってしまうようなときには。
 しばらくして・・・違う生活があって、年月が過ぎて・・・僕は、焼き芋のことを忘れてしまった。綺麗に皮をむかれて適度に茹でられ、牛乳やバターと一緒に出されるものだった・・・。
 いま僕たちは、ぼろベッドの端っこに座り、テーブルの上にある5個の茹でた芋を見ている。塩に付け、皮ごと全部食べてしまう。もしかけらでも床に落ちていれば拾って、埃を吹き飛ばして、むさぼり食う。
 それから僕らは、汚れ、埃、大地、床、内部、外部の意味について論じ合う。
 子どもは何でも口に入れてしまうが、僕たちはパンの一かけでさえ、床に落ちた途端に食べたくなくなるんだ。」

●参照
ジョナス・メカス(1) 『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』
ジョナス・メカス(2) 『ウォルデン』と『サーカス・ノート』、書肆吉成の『アフンルパル通信』


魯迅の家(3) 上海の晩年の家、魯迅紀念館、内山書店跡

2010-07-27 22:57:32 | 中国・台湾


魯迅故居 PENTAX MX、M35mmF2.0、Tri-X、ケントメアRC、2号フィルタ

2010年5月、所用で上海に赴いたついでに、時間をみつけて、魯迅紀念館魯迅の故居に足を運んだ。魯迅紀念館は魯迅公園の中にある。公園では社交ダンスの公開練習のようなことをしていた。

紀念館の中には、当然ながら、自筆原稿や当時出版された本などが展示してある。『狂人日記』も、『藤野先生』も、『朝花夕拾』も、あった。


『狂人日記』


『朝花夕拾』


『藤野先生』

北京魯迅博物館と同様に、魯迅のデスマスクもある。そして、近くにあった内山書店を模したモデル(出来はあまり良くない)や、内山完造の胸像が飾られている。もちろん面白くはあるが、北京魯迅博物館の方が細やかな思いが行きとどいていたように思った。


魯迅のデスマスク


内山書店のつもり

観終わって出ようとしたら、館の人に、キャンペーン中だからクイズに答えないかと誘われた。座ったはいいが、クイズはすべて中国語、まるで解らない。その人が猛烈な早口で解説してくれて、何だかよくわからないままに丸をたくさん付けた。「万博で有名人に出くわしたら、どうするのが正しいですか? 1・指さして大声で騒ぐ、2・気が付かないふりをする、・・・」といったようなクイズだ。適当に当たっていて、景品に魯迅のキーホルダーを貰った。これでささやかな魯迅グッズがひとつ増えた(笑)。終わってから、写真を撮るからクイズに記入しているポーズを取ってくれと言われ、重厚な演技で応えた。たぶんノルマでもあるのだろうね。

公園を出て、歩いて故居に向かう。探し当てたら、そこは長屋だった。料金を払って3階まで見学したが(解説付き)、あまり面白くはなかった。これも比較すれば、北京の四合院の方が断然見どころがある。

近くに内山書店の跡があるはずだけど、と故居の男に訊ねると、道を教えてくれた。確かにそこにあり、銀行となっていた。1階の壁には、それを示す石板が貼ってあった。少し微妙な日本語でも書いてある。

「内山書店は日本の有名な社会活動家である内山完造が1917年に創立された進歩した書店である。最初の住所は北四川路魏盛里にあり、1929年に現在の住所に引っ越した。二十世紀30年代の内山書店は上海左翼進歩系書籍の主な売店であり、中日の進歩的文化人の集まった場所でもあった。魯迅、郭沫若、田漢、郁達夫、塚本助太郎、昇屋治三郎、石井政吉などの中日の有名な文化人はこの書店との繋がりが深かった。同時に、内山書店は中国共産党と進歩した人々との連絡場所でもあり、魯迅、許広平、夏丐尊などの愛国的文化人を救助したことがある。1980年8月26日に「内山書店」は上海政府により、上海市記念地と命名された。」


内山書店跡 PENTAX MX、M35mmF2.0、Tri-X、ケントメアRC、2号フィルタ

●参照
魯迅の家(1) 北京魯迅博物館
魯迅の家(2) 虎の尾
魯迅グッズ
丸山昇『魯迅』
魯迅『朝花夕拾』
井上ひさし『シャンハイムーン』 魯迅と内山書店
2010年5月、上海の社交ダンス


ハカス民族の音楽『チャトハンとハイ』

2010-07-26 23:31:13 | 北アジア・中央アジア

科学映像館により、『チャトハンとハイ』(1994年)が配信されている。ロシアのハカス共和国における伝統音楽であり、チャトハンは箏、ハイは喉歌を意味する

>> チャトハンとハイ

私は1997年に公演「草原の吟遊詩人」を聴き、特に喉歌の不思議な響きと技巧に驚いた記憶が強く残っている。この映像は、1994年5月4・6日、カザフスタンにおいて行われたシンポジウム「チュルク諸民族の音楽」での記念コンサートを記録したものであり、来日メンバーのエヴゲーニイ・ウルグバシェフセルゲイ・チャルコーフも含まれている。


パンフレットを探したら取ってあった


上記パンフレットより

チュルク(テュルク)とはトルコ、のちに西方の中央アジアやトルコに移動していった人々の末裔であり、モンゴルの北西に位置する共和国(ロシア内)としては、ハカス、トゥヴァ、アルタイがある。またロシア北東に位置するサハも同様である。モンゴルを含め、それぞれに喉歌や口琴が発達しており、不思議なのか、当然なのかわからないが、奇妙な思いにとらわれてしまう。喉歌は、ハカスではハイ、トゥヴァではホーメイ、モンゴルではホーミーと呼ぶ。ヴォイス・パフォーマーのサインホ・ナムチラックはトゥヴァの出身である。


上記パンフレットより

映像『チャトハンとハイ』では、次の演奏が行われている。当日のパンフを見ると、公演で演奏した曲も入っている(突然で区別できず、覚えていない)。

○エヴゲーニイ・ウルグバシェフ(チャトハン、ハイ) 「アルグィス(山と海への祈り)」
○ユーリィ・キシティエフ(ハイ、口琴) 「即興曲」
○エヴゲーニイ・ウルグバシェフ+セルゲイ・チャルコーフ(チャトハン、ハイ) 「草原(ステップ)の祭り」
○セルゲイ・チャルコーフ(ホムィス、ハイ) 「我がハカシア」
○エヴゲーニイ・ウルグバシェフ(チャトハン、ハイ) 「アルトイン・アルィグ(英雄叙事詩)」

曲の間に、ウルグバシェフがチャトハンについて面白い解説をしている。基本的に金属の7弦(昔は腸)、弦を支える柱(じ)は羊の後足のくるぶし、下部のほうがやや広め。昔は底板や共鳴口はなかった。なぜなら祖先の霊が大地に眠っているため、座って直接大地に向けて響かせるためであった。また、上記公演のパンフレットには、ハカスでチャトハンが国民楽器的な地位を占めたのは、彼らの牧畜が比較的定住型だったことも関連しているかもしれないとの考察がある(直川礼緒『ハカスの喉歌と楽器』)。

チャトハンだけでなく、ハイもシャーマニズムと密接な関係にあり、精霊に語りかけるものであった。そのハイには3種類があり、やはりウルグバシェフが実演してみせている。中音域のハイに加え、地鳴りのような低音域のチョーン・ハイ、キーンという音が鼓膜を刺激する高音域のスィグルトィプ。

この喉歌について、やはり、パンフレットに素晴らしい解説があった。

「浪曲の声のような、あるいはアメ横で聴かれるような、倍音成分を多く含んだいわゆる「喉声」による歌唱は、チュルク系の民族であるカザフやカラカルパクのものを含め、比較的広範にみられる。が、その「喉声」から、口腔の容積や形を変化させることによって意識的に特定の倍音を強調し、「メロディ」(実は音色の変化なのであるが)を紡ぎ出す技法を重要な要素とする「喉歌」は、アジア中央部を中心とした、ごく限られた地域の民族が持つのみである。
 例えば、日本でも最近知られるようになってきた西モンゴルのホーミーは、倍音によるメロディの「演奏」を主眼とした、器楽的な面が強いのに対し、そのすぐ北隣のロシア側、「アジアのへそ」を自負するトゥヴァでは、倍音によるメロディーなど出ていて当然、それよりもそこに謡い込まれる歌詞の内容や即興性、その場にあっているかどうか、といった点が重視される。 (略) 特にアルタイ・ショル・ハカスでは、英雄叙事詩と深く結びついていることが特徴として挙げられる。」
(直川礼緒『ハカスの喉歌と楽器』)

ここから、トゥヴァがサインホを輩出したことの背景を読み取ることができるかもしれない。また、映画『チャンドマニ~モンゴル ホーミーの源流へ~』(亀井岳、2009年)に描かれたように、モンゴルの中でも喉歌は異なり、国とスタイルは1対1ではないのだろう。私の棚には、喉歌のCDはトゥヴァのものしかない。これまで口琴には興味を持っていくつか聴いていたのだが、改めて聴いてみると、俄然、この拡がりと多様性が興味深いものとなってきた。

●参照
亀井岳『チャンドマニ ~モンゴル ホーミーの源流へ~』
サインホ・ナムチラックの映像
TriO+サインホ・ナムチラック『Forgotton Streets of St. Petersburg』
姜泰煥+サインホ・ナムチラック『Live』
酔い醒ましには口琴
宮良瑛子が描いたムックリを弾くアイヌ兵士

●科学映像館のおすすめ映像
『沖縄久高島のイザイホー(第一部、第二部)』(1978年の最後のイザイホー)
『科学の眼 ニコン』(坩堝法によるレンズ製造、ウルトラマイクロニッコール)
『昭和初期 9.5ミリ映画』(8ミリ以前の小型映画)
『石垣島川平のマユンガナシ』、『ビール誕生』
ザーラ・イマーエワ『子どもの物語にあらず』(チェチェン)
『たたら吹き』、『鋳物の技術―キュポラ熔解―』(製鉄)
熱帯林の映像(着生植物やマングローブなど)
川本博康『東京のカワウ 不忍池のコロニー』(カワウ)
『花ひらく日本万国博』(大阪万博)
アカテガニの生態を描いた短編『カニの誕生』
『かえるの話』(ヒキガエル、アカガエル、モリアオガエル)
『アリの世界』と『地蜂』
『潮だまりの生物』(岩礁の観察)
『上海の雲の上へ』(上海環球金融中心のエレベーター)
川本博康『今こそ自由を!金大中氏らを救おう』(金大中事件、光州事件)
『与論島の十五夜祭』


ユルマズ・ギュネイ(2) 『希望』

2010-07-25 15:03:12 | 中東・アフリカ

ユルマズ・ギュネイのDVDボックスの1枚、『希望(Umut)』(1970年)を観る。ギュネイはトルコにおいてクルド人として生まれ、後年、反体制的な映画を撮っているとの咎で長い獄中生活を送ることになる。この作品はそういった状況に追い込まれる前ではあるが、やはりトルコで上映禁止となり、4年後に恩赦でトルコの人びとの目に触れる前の1971年、カンヌ映画祭で発表されている。

乗合馬車の御者として生計を立てる主人公のジャバル(ギュネイ自身が演じている)。古い馬車は営業を禁止されつつあり、タクシーにも客を奪われ、ジャバルはまったく稼ぐことができない。泣き叫び言うことを聞かない子どもたち、ヒステリックに荒れ狂う妻。宝くじを買い続けるも当たることはない。ある時、金持ちの自動車に馬をひき殺されてしまうが、警察は金持ちの味方である。借金が返せない、そんなジャバルの前に一攫千金の話を持ちかける男が現れる。すがる思いで、神託を下す怪しげな聖人とともに、川べりに宝が埋まっているはずだと掘りに出かける。何日掘っても何も出てこない穴の横で、ジャバルは発狂し、よろよろと回り続ける。

こんな救いようのない物語が、体制批判と捉えられたのは当然でもあっただろう。馬をひいた金持ちは真っ先に車の傷を調べ、ジャバルを罵る。ジャバルはぎらぎらとした眼で怒りをあらわにし、「人の馬を殺しておいて、車のペイントのことなど言いやがって・・・」と殴りかかっていく。警察でお前が一方的に悪いのだとけんもほろろに扱われ、その怒りは行き場を失う。また、新しい馬を買うためにさまざまな金持ちに借金を無心に行くが、プールサイドでの彼らの生活に何ら割り込むことができない。階級社会に向けられたギュネイの怒りなのである。

主張だけではなく、映画として巧妙で力を持った描写には目を引き付けられるものがある。貧しいジャバルのポケットをさらに狙うスリ。ジャバルはそれに気付き殴りつける。回転するカメラ、突如俯瞰して上から諍いを眺めるカメラ。そして最後のジャバルの暗黒舞踏には、唾を飲み込むことを忘れてしまう。白黒の撮影技術も一級品である。

マルセル・マルタンは、「メロドラマに陥る」こと、「巧い逃げ道の役に立つ、ある造形的なこぎれいさ」、「紋切り型で口あたりのよい見世物に変えてしまう表面的な美しさ」がすべて避けられていることを、イタリアン・ネオレアリスモとの比較において論じている(特にヴィットリオ・デ・シーカ『自転車泥棒』)。
(『ユルマズ・ギュネイ リアリズムの詩的飛躍』(欧日協会・ユーロスペース、1985年)所収)

●参照
ユルマズ・ギュネイ(1) 『路』


ウィレム・ブロイカーが亡くなったので、デレク・ベイリー『Playing for Friends on 5th Street』を観る

2010-07-24 16:07:06 | アヴァンギャルド・ジャズ

オランダの即興音楽家にして「コレクティーフ」のリーダーでもあった、ウィレム・ブロイカーが亡くなった。死因はまだ調べてもわからない。

来日したときに一度ライヴを聴いた。それまでレコードで聴いていたのと同様に、ブロイカーの吹くサックスの特色はこれだという納得は得られなかった。しかし、「コレクティーフ」の音楽をドライヴする演奏は過激で、アンサンブルが小休止する間もソプラノを吹き続ける姿に興奮させられた。それに加えて、ICPオーケストラなどとも共通する、笑いに軟弱に屈することのない演劇性が素晴らしかった。


2004年来日時に頂いたサイン

ブロイカーの演奏する映像は、ハン・ベニンク『Hazentijd』(ジェリー・デッカー、Data Images、2009年)の一部のフッテージを除いては持っていない。他には、デレク・ベイリーの演奏の聴客として座っている、『Playing for Friends on 5th Street』(ロバート・オヘア、Strawgold、2001年)があった。田中泯と共演した『Mountain Stage』などと並んで、ベイリーの数少ない映像のひとつである。ただし、ブロイカーは座っているだけだ。

ベイリーの即興演奏はいつだって素晴らしい。50分間ほどのソロの様子(もう村山富市のようだ)を観ていると、フレーズに拘って繰り出し続ける雰囲気を感じることができる。緊張感と余裕があい混ぜになって、目が(耳が)離せない。

ベイリーがギターの地道な練習を欠かさなかったことは、著書『インプロヴィゼーション』(工作舎、原著1980年)を読んでもよくわかることだが、まさにイディオムと即興演奏との関連性についても書かれている。これは教育にも関連していて、この映像の中でも、ベイリーは「私は60年代から活動しているが、演奏と、学習と、教育とを同時に行っていた」と話している。まさにその発言の途中、イディオム的なものとは対極にあるような変な音を出して、聴客を笑わせているのはお茶目である。

『インプロヴィゼーション』には、ハン・ベニンクが用いる即興演奏の教育方法を紹介しながら、即興演奏を教えるのは現役の即興演奏家でなければならないことを語っている。はっきりとまとめられてはいないが、イディオムの教育と同様に、プロセスの教育(しかも参加を通じての)が重要であることが強調されているようだ。実際のところ、コード進行に対峙するための各種のパターン、つまりイディオム、だけで習得することは無数にあるのであって(特に即興のソの字にも辿りつかなかった自分にはそう思える)、ここで書かれていることはとてつもなく高い次元にある。

●参照
ウィレム・ブロイカーとレオ・キュイパースとのデュオ『・・・スーパースターズ』
ハン・ベニンク『Hazentijd』(ウィレム・ブロイカー登場)
デレク・ベイリーvs.サンプリング音源
田中泯+デレク・ベイリー『Mountain Stage』
トニー・ウィリアムス+デレク・ベイリー+ビル・ラズウェル『アルカーナ』
デレク・ベイリー『Standards』


鶴橋でホルモン(与太話)

2010-07-23 23:40:56 | 関西

所用で大阪に足を運んだ。ちょっと昼の時間が空いてしまったので、生野区の鶴橋まで足を延ばした。もちろんコリアンタウンで昼飯を食い、ついでに食材を手に入れることが目的だ。

駅からちょっと離れたところまで歩こうかとも思ったのだが、この酷暑、スーツ姿でそんなことをしたら途中で倒れてしまう。そんなわけで、駅前の評判の良い「鶴一」に入った。ホルモン4種盛りとミニ石焼ビビンバ、もう腹一杯だ。

腹ごなしに駅前商店街を歩き、ニンニクがごろごろ入ったキムチと、甘鯛の干物を確保した。しかし、夏バテ対策にはならないだろうね。

そういえば『じゃりん子チエ』の家はホルモン屋だった。大阪のどこなんだろうなと思いつつ帰って調べてみると、大阪市西成区萩之茶屋がモデルらしい。明日にでも映画を観ようかな。

(追記)さっそく映画を観た。高畑勲が監督、1981年。新世界が多く出てくる。チエの家からは通天閣が見える。テツってアホだな。

●参照
なんばB級グルメ(与太話)
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』(大阪市生野区)


イエメンの映像(2) 牛山純一の『すばらしい世界旅行』

2010-07-22 00:29:03 | 中東・アフリカ

テレビディレクターの故・牛山純一は、『すばらしい世界旅行』や『知られざる世界』を手がけている。残された映像が、BS朝日の『牛山純一 20世紀の映像遺産』という番組でピックアップされ、放送された(番組は既に終了)。この中に、イエメンを取材した『これがアラビアンナイトの王様だ!!』(1978年)と題された『すばらしい世界旅行』の回がある。

イエメン統一は1990年、取材先は当時の北イエメン、カミールという街である。

このあたりを治めるアブダラ・アマール殿下という「4万の兵隊を抱える」部族長がドキュメンタリーの主役だ。殿下のもとに、さまざまなトラブルが持ち込まれる。曰く、「隣村から嫁入りがあったが、実はとんでもない女性で、離婚しても持参金を返さなかった。すると、向こうが強引に宝石やカネを獲って行った。復習したい。」 これに対し、殿下は調停を行う。ロールプレイのようなものであり、難しくても威厳を示すためのハレの舞台なのだ、とのナレーションが入る。

室内はお決まりのカート(少し酔う葉っぱ)と水煙草。なぜか調停を、丘の上で行ったりもする。調停前にも、後にも、昂る気分で腰のジャンビヤを抜き、ダンスをする。殿下は何故か刈り入れ(何の穀物だろう?)を手伝う。

何度観ても奇妙なドキュだ。当時イエメンに行ったことのある人なんて非常に少なかっただろう。お茶の間で流されるこの映像は、とてもミステリアスなものであったに違いない。渋い久米明の声で、訳が解らなくても、とりあえず放置してよい気分になる。


カートを噛む


カート


丘の上で調停


ジャンビヤ・ダンス


刈り入れ

なお1978年は、現・サレーハ大統領が北イエメンの大統領の座に就いた年である。私が訪れたのは98年ころだが、街中ではサレーハの肖像がそこかしこに飾られていた。サレーハの「ハ」をはっきり発音していたら、それは女性の名前になってしまうぞ、しかし奴にはそれで十分だぜ、などと嘯く男がいた。

この時代から大統領も変わっていないし、イエメンが部族社会であることも変わっていない。これには、山あり谷ありの地形にあって、それぞれの街が天然の要塞となっていることが大きく影響しているようで、実際に、オスマン帝国もイエメンを版図に入れるのに大変な難儀をしたようなのだ。アル・カーイダが拠点をここに移したのも、地形的な面が大きいに違いない。

●参照
イエメンの映像(1) ピエル・パオロ・パゾリーニ『アラビアンナイト』『サヌアの城壁』
イエメンとコーヒー
カート、イエメン、オリエンタリズム
イエメンにも子どもはいる


桜井哲夫『フーコー 知と権力』

2010-07-21 00:28:51 | 思想・文学

桜井哲夫『フーコー 知と権力』(講談社、1996年)を読む。

ミシェル・フーコーの思想を「できるだけ、普通のことばで」語ろうとする評伝であり、本書に限らないのだろうが、フーコーの洪水のような過剰なテキストの中から水脈を見つけていく愉しみはここにはない。また、評伝としても、無数のつぶやきの中を浮遊しながらフーコー世界を感じとろうとすることができる、ジル・ドゥルーズ『フーコー』のように、読む者の脳を震わせてくれるものでもない。

しかし、一貫して権力構造について思索し、発信し続けたフーコーの著作を順に追うことができ、次に挑む書を考えることができることは嬉しい。世のフーコー・マニアなどを横目に見つつ、フーコー自身がしていたように、個別論を跨ぎ、大きなまなざしを自由に持ってよいのだというメッセージには共感できる。

いくつか記憶に留めておきたいこと。

○フーコーは、ルイ・アルチュセールの権力論(すべての組織や機関が国家イデオロギーに奉仕する)に影響を受けている筈。
○中世に多く存在したハンセン病のための病院が、15世紀になって、性病の患者を受け入れるようになっていく。これは治療の対象となり、ハンセン病の後継の位置を占めるものが「狂気」と位置付けられていく。(『狂気の歴史』)
○フーコーの仕事の本質は、人々の「まなざし」や内面の「概念」の形成を追ったことにある。それは、無数に存在する発言行為のアーカイヴから見出されていく。
○フーコーは権力の源を「下位にいる個人」に見出していた。イラン革命やポーランドの「連帯」の動きに共感したのも、権力に対する人の服従や闘争の有りようといった面で可能性を見出したからではないか。

●参照
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』
ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』
ジル・ドゥルーズ『フーコー』


豊里友行『彫刻家 金城実の世界』、『ちゃーすが!? 沖縄』

2010-07-19 22:38:21 | 沖縄

豊里友行『彫刻家 金城実の世界』(沖縄書房、2010年)は、文字通り、金城実の作品や本人の姿を捉えた写真集である。もともとは、沖縄の写真誌『LP』(#9、2009年)でその一部を紹介しており、彫刻=生き物を作り上げていく氏の指先と一体化したマチエールに強い印象を持ったのだった。

表紙は読谷村・残波岬にある残波大獅子、足元に金城実と山内徳信・参議院議員(元・読谷村長)が座っている。その山内議員と、秘書を務めていたこともある服部良一・衆議院議員が、文章を寄稿している。両氏の人間性が沁み出てくるような語り口だと思う。写真も同様にケレン味がない。殊更にハイコントラストにしておらずトーンが出ており、場合によってはフラッシュを使っている。焼き込みは空が画面の多くを占めるときくらいだろうか。

空と書いたが、これが本写真群の特徴のひとつである。つまり、「金城実作品集」ではないのだ。野外に置かれた彫刻は陽に焼かれ、さまざまな表情を見せる。また、作品の一部を切り取り、その意味やドラマ性を大きなものにしている。絞りをかなり開けて、彫刻の顔の一部にのみ焦点を合わせ、背後の彫刻家を後ボケの中に溶かしこんでいる。これは恐らく、ある芸術作品群の記録としてはオーソドックスとはとても言い難いものであり、むしろ作品群に新たなイノチを吹き込む試みである。そして、金城実作品にはそのようなアプローチが相応しいように思われてくる。

例えば仏像写真で言えば、土門拳の作品に象徴されるように、絞りまくって全てのディテールが焼き込まれるのが王道である。それに対し、浅井慎平は『巴里の仏像』(2007年)において、撮影条件を逆手に取り、絞りを開き、まるで仏像たちのスナップ写真を撮るかのように迫っていった。私の言いたいことはそんなことで、要は、異色であり、良い写真群だということだ。

昨夜、TBSの『報道の魂』という枠で、『ちゃーすが!? 沖縄』という金城実を追ったドキュメンタリーが放送された(>> リンク)。深夜に一度観て、朝改めて観た。TBSだからなのか、親方日の丸のNHKなどとは違い、思いがぶつけられた番組となっていた。特に、金城実が日米地位協定の改正にこだわっていること、菅首相が「沖縄に感謝」などと発言したことに対し「足を踏んでおいて、人を殴っておいて、有難うとは、言葉になっていない」と怒りを露わにしていたこと、知花昌一・読谷村議会議員が「今回は、1879年の薩摩侵攻、1945年の敗戦に伴う扱い、1972年の施政権返還に続く第4の琉球処分だ」と発言していたことが印象的だった。

●参照
金城実『沖縄を彫る』
『LP』の「写真家 平敷兼七 追悼」特集
「官邸前意思表示~『県外移設』の不履行は絶対に認めない!」Ust中継
『ゆんたんざ沖縄』
坂手洋二『海の沸点/沖縄ミルクプラントの最后/ピカドン・キジムナー』


張芸謀『LOVERS』

2010-07-19 21:12:34 | 中国・台湾

張芸謀『LOVERS』(原題:十面埋伏、2004年)を観る。15元(190円位)だった。

張芸謀の作品としては、この前作『HERO』(2002年)と同様に、ワイヤーアクションやCGをふんだんに使った武侠映画である。唐王朝期、反乱組織と官吏との争いを描いている。しかし、絢爛豪華なワダエミの衣装もあり、時代性は希薄だ。

この特殊効果の出来は素晴らしく、特に竹林の対決シーンには目を見張るものがある。チャン・ツィイー、アンディ・ラウ、金城武それぞれの見せ場も満載。

面白いとは言え、こんなエキセントリックな映画に張芸謀の作家性を見いだすのは難しい。『HERO』(2002年)、『LOVERS』(2004年)、それから陳凱歌『PROMISE/無極』(2005年)と、巨匠が揃って派手なワイヤーアクションにトチ狂ってしまった数年間、とでも言えるだろうか。その後、張芸謀と陳凱歌はそれぞれ『単騎、千里を走る。』(2006年)、『花の生涯~梅蘭芳~』(2008年)というオーソドックスな傑作に回帰している(しかし、張芸謀はまた『王妃の紋章』という武侠アクションを撮った)。それでは、『レッドクリフ』連作(2008、09年)を撮ったジョン・ウーはどこに向かうのだろう。

●参照
張芸謀『単騎、千里を走る。』
北京五輪開会式(張芸謀+蔡國強)
陳凱歌『人生は琴の弦のように』、『さらば、わが愛/覇王別姫』、『PROMISE/無極』
陳凱歌『花の生涯 梅蘭芳』
ジョン・ウー『レッドクリフ』


与論島のドキュメンタリー 『与論島の十五夜祭』、『とうとがなし ばあちゃん』

2010-07-19 01:04:06 | 沖縄

NHKで『とうとがなし ばあちゃん~与論島 死者を弔う洗骨儀礼~』というドキュメンタリーを観る(>> リンク)。与論島には、死者を土葬したあとの3~5年後に掘り返し、丁寧に洗って骨壷に入れて埋葬する習慣がある。かつては風葬がなされていたが、明治政府により禁止され、土葬に変遷したのだという。

この儀礼を前に、愛知や東京に散った一族が集まり、酒肴を前に意気込みを述べる。そして、骨を掘り出し、洗うときの使者を慈しむような様子には見入ってしまった。赤瀬川原平『島の時間―九州・沖縄 謎の始まり』(平凡社ライブラリー)にも、沖縄において、やはり土葬してから7年目に掘り返して洗う習慣のことが紹介されていた。とは言え、今では貴重な記録だと思うがどうか。

高揚した気分のまま、科学映像館のサイトで『与論島の十五夜祭』(1980年)を観る(>> リンク)。

旧暦8月15日を祀る習慣は、宮崎、熊本、鹿児島あたりの南九州から琉球弧まで共通し、それぞれ異なる祭があるようだ。30年前の記録映像であり、現在5,600人の人口は当時7,200人。Youtubeで十五夜祭を検索すると、現在も行われている様子をいくつか観ることができた。

映画の解説によると、城(グスク)や安里といった沖縄やんばるが見える地域にある地主神社(トコヌシ)で行われている。一番組は赤い鼻と赤い頬の白い面を付け、笠を被り、白装束で狂言をとり行う。一方、二番組は布で顔を隠し、黒装束で舞う。この2組が交互に踊る。

最初は両組による雨乞いの踊り「雨たぼれ(アミタボレ)」。次に二番組、棒を使う「一度いふて」。一番組、「三番囃子(サンバスウ)(末広がり)」。中腰で片足を上げては奇妙な掛け合い、ぼろ傘の受け渡しが面白い。二番組、「この庭」。一番組、「二十四孝(ニジュウシコウ)」。これは孝行試しであり、長者が息子たちに赤子を殺し、乳を自分にくれるよう頼む。それに対し、末の息子のみが妻と相談して赤子を殺すことにし、クワを持って穴を掘る踊りをする。そこからは、二包みの金と銀の宝が出る。二番組、「今日のふくらしゃや」。一番組、「大熊川」。二番組、「坂本」。一番組、「長刀(牛若弁慶)」。次第に暗くなり、「獅子舞」、「綱引き」、そして「六十節」でのカチャーシーになだれ込む。

牛若弁慶や日の丸の扇子などヤマトゥの伝説が織り込まれているのがわかる。その一方、三線の音は奄美の叩きつけるような荒々しいものよりは沖縄のそれに近いように感じられる。グスクやアサドといった地名もそのままだ。ただ、太鼓も叩くが、金属の銅鑼を叩いて割れた音を出す局面もあり、これは沖縄ではどうだろう。勿論、薩摩の侵攻まで琉球王国の一部だったわけであり、共通点をことさらに見出すこともないだろう。国頭村北端の辺戸岬からは与論島を眺めることができるほど近い。

いつか与論島を訪れてみたいものだと思い続けてはいるが、沖縄本島とつなぐフェリーでは時間がかかってしまうため、まだ果たせないでいる。那覇から本部まで乗ったことがあるマリックスラインでは、例えば本部を朝9時過ぎに出て昼前に与論着。帰りは昼2時に与論発、夕方4時過ぎに本部着。その気になればいいだけなんだけど。

●参照
高田渡『よろん小唄(十九の春)・ラッパ節』

●科学映像館のおすすめ映像
『沖縄久高島のイザイホー(第一部、第二部)』(1978年の最後のイザイホー)
『科学の眼 ニコン』(坩堝法によるレンズ製造、ウルトラマイクロニッコール)
『昭和初期 9.5ミリ映画』(8ミリ以前の小型映画)
『石垣島川平のマユンガナシ』、『ビール誕生』
ザーラ・イマーエワ『子どもの物語にあらず』(チェチェン)
『たたら吹き』、『鋳物の技術―キュポラ熔解―』(製鉄)
熱帯林の映像(着生植物やマングローブなど)
川本博康『東京のカワウ 不忍池のコロニー』(カワウ)
『花ひらく日本万国博』(大阪万博)
アカテガニの生態を描いた短編『カニの誕生』
『かえるの話』(ヒキガエル、アカガエル、モリアオガエル)
『アリの世界』と『地蜂』
『潮だまりの生物』(岩礁の観察)
『上海の雲の上へ』(上海環球金融中心のエレベーター)
川本博康『今こそ自由を!金大中氏らを救おう』(金大中事件、光州事件)