Sightsong

自縄自縛日記

吉田文和『グリーン・エコノミー』

2011-06-29 07:36:35 | 環境・自然

吉田文和『グリーン・エコノミー 脱原発と温暖化対策の経済学』(中公新書、2011年)を読む(ここではシゴトに関係するものは取りあげないのだが)。

下らぬ温暖化懐疑論に釘を刺し、脱原発を明確に謳っている点に好感を覚えた。環境政策は複雑であり、一般書でそれを詰め込もうとするとメッセージを伝えるというよりハンドブックのようになってしまう。本書においてもそれを回避できているとは言えないが、良書である。偏った既存政策に対して偏った意見ばかりをぶつけるのでは勝つことができないからである。

いくつか頁の角を折った箇所がある。

○福島原発事故において、被害者よりも加害者救済を優先させる方針には、水俣病問題との類似性がある。
○J・スティグリッツとA・センらが『経済実績と社会進歩の計測』レポートをまとめた(2008年、フランス・サルコジ大統領の指示)。それによると、持続可能性(sustainability)を考慮した経済・環境・社会側面に関する「人々のよい生き方」(well-being)を捉えるには、GDPは不適切な測定基準である。
○グリーン開発の構想実現に向けた最大の障害は、経済的な要因ではなく、つねに政治的な要因である。
○ドイツのように、規制があってこそ再生可能エネルギーも環境技術も成長する。縦割行政の解決も重要である。
○日本では、ごみ焼却工場は「迷惑施設」扱いとなり人口の少ない地域に立地させる。EUではエネルギー利用を積極的に行うため都市中心部に立地させる。
(※ごみ処理が置かれてきた社会的差別構造や、ダイオキシン問題について、ここでは触れられていない)
○原発解体の難題のひとつに、原子炉全体の放射化という問題がある(本来放射性ではない原発構造物の金属が放射能を持つようになる)。そのため解体に想定を超える時間とコストがかかる。
○解体により発生する放射性廃棄物すべてを処分できる処分場を確保できた国はない。ドイツ・アッセ処分場(1992年に閉鎖)は、建設時には、地下が処分に適した地質だと地元住民に説明された。その後処分場の壁が崩れ、地下水に浸透した。政府はそれを10年近く公表しなかった。これがきっかけとなり、その地域も処分場の受け入れを拒絶するようになった。
○東日本大震災で発生する大量のがれきを、バイオマス燃料として使うことができる。
(※ここでは、それによる放射性物質拡散に触れられていない)
○東北地方は、風力、バイオマスをはじめ、再生可能エネルギーのポテンシャルが大きく、復興によりその一大センターとなりうる。


J.J.エイブラムス『SUPER 8』

2011-06-29 00:54:13 | 小型映画

J.J.エイブラムス『SUPER 8』(2011年)をレイトショーで観る。スーパー8ユーザーとしては見逃すわけにいかない。

典型的なスピルバーグ映画、『E.T.』だの『未知との遭遇』だのといった作品と重なる既視感ありまくり、だ。その意味で面白いのだが、絶対に傑作ではない。既視感があるから衝撃もないし感動など決してしない(感動したらしたで、悔しいものだが)。

やはり愉快なのはディテールである。スーパー8カメラを使って怪奇映画(「ロメロ化学」という会社を登場させていて笑ってしまう)を撮っている少年少女たち。映画監督を気取る少年は、『SUPER 8 FILMAKER』誌を愛読している。ちょうどテレビからスリーマイル島の事故の報道が聞こえてくる1979年、時代は同録のサウンドカメラであり、カートリッジも当然サウンドフィルムである。じろじろ見ると、大事故で壊れるまで使っていたカメラがオイミッヒ(Eumig)、その後主人公の父親から無断で借りたカメラがコダック。オイミッヒは横に「MAKRO SOUND」と書いてあった。

帰宅して、ユルゲン・ロッサウ『Movie Cameras』という重たい本で調べた。オイミッヒは「MAKRO SOUND 44XL」「64XL」「65XL」「66XL」のいずれか、ダサい形のコダックは、主人公の幼少時を撮ったカメラであり1979年より遡ることも考慮して「Ektasound 130XL」「140XL」のいずれか。フィルムの考証さえ出鱈目だった『8mm』という映画に比べれば、まったくしっかりしている。

●参照
山下清展(山下清の使った8ミリカメラはベルハウエル)
シネカメラ憧憬
シネカメラ憧憬(2)
シネカメラ憧憬(3)


土本典昭『ある機関助士』

2011-06-28 00:22:12 | アート・映画

土本典昭のデビュー作、『ある機関助士』(1963年)を観る。

37分と短いセミ・ドキュメンタリーであり、東京-水戸間をつなぐ蒸気機関車の機関助士が、いかに教育を受け、ひとつの信号読み取りミスも許されない条件に自分の生活を適応させているか、いやというほど強調されている。それというのも、多くの死者を出した脱線事故のあと、国鉄岩波映画に作らせた宣伝フィルムであったからだ。(どうしても、JR福知山線脱線事故のことを思い出してしまう。)

とは言っても土本典昭のかっちりした映画作りであって、手、視線、汗、そんなディテールがひとつひとつ力を持っている。轟音をあげて機関助士を真っ黒にしながら爆走する蒸気機関車の姿にも目が釘付けになってしまう。ちょうど電化が進み、蒸気機関車が終わりを迎えようとしていた時期の記録である。

●参照
土本典昭さんが亡くなった(『回想・川本輝夫 ミナマタ ― 井戸を掘ったひと』)
「金曜日」の基地利権と岩国記事、「軍縮地球市民」の休刊
大木茂『汽罐車』


ジョナス・メカス(5) 『営倉』

2011-06-26 10:54:33 | 小型映画

ジョナス・メカス『営倉(The Brig)』(1964年)を観る。メカスはリヴィング・シアターで行われた同名の演劇を観に行き、これをフィルム化することを突如思いつく。最終日であったから、メカスとこのアイデアに同意した演劇の俳優たちが翌日夜の閉鎖された劇場に入り込み、セットを俳優たちが作りなおし、同時録音の16mmカメラでいつもの公演を撮る、という方法であった(後日、メカスは映画組合に大目玉をくらったという)。従って、劇映画とも違うし、ドキュメンタリーとも違う。メカスの異色作である。

「これがほんものの営倉だったらどうだろう。米軍海兵隊の許可をとってどこかの営倉に入り込み、そこで行われていることを映画に撮るとしたら。人の目に、どんな記録を見せられるというのか! その時演じられていた「営倉」のありさまは、私にとってはほんものの営倉だった。」
(『メカスの映画日記』フィルムアート社)


『営倉』上映用16mmフィルムレンタルのチラシ

営倉は懲罰房、米軍海兵隊で営倉に入れられている下っ端たちは、教官に熾烈な訓練とシゴキを受ける。教官たちは絶対的な存在であり、棍棒で気の向くまま囚人たちを殴る。囚人は逆らってはならず、「Yes, Sir!」と叫んではロボットのように起床し、着替え、掃除し、走り、腕立て伏せをし、何やら復唱する。何度観ても、何を言っているのかよくわからない。ただひたすらに、叫び声と、規則的に動かす足踏みのだっだっだっという音が耳に残る。

海兵隊のシゴキを描いた映画としては、スタンリー・キューブリック『フルメタル・ジャケット』(1987年)があったが、情けのかけらもない描写と裏腹の美しい映像とドラマはあくまで劇映画だった。1日で撮られ、既に演劇を観てしまっているという予定調和を避けるために弟のアドルファス・メカスに残酷に編集させたという『営倉』の生の存在感とは、根本的に異なっている。

『営倉』の上映用16mmフィルム貸出のチラシが挟み込まれた『newsreel catalogue no.4 / March 1969』(Newsreel Features)という機関誌を持っている。ロバート・クレイマー『The Edge』なんかのチラシも入っていたりする。何よりも興味深いのは、表紙にフィデル・カストロの写真があるように、キューバやヴェトナムのニュースフィルムを貸し出す組織であったことだ。米国のインディペンデント映画は大きな政治への抵抗という文脈にも位置していた。

●参照
ジョナス・メカス(1) 『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』
ジョナス・メカス(2) 『ウォルデン』と『サーカス・ノート』、書肆吉成の『アフンルパル通信』
ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1(『メカスの難民日記』)
ジョナス・メカス(4) 『樹々の大砲』


黒木和雄『原子力戦争』

2011-06-25 23:32:38 | 環境・自然

黒木和雄『原子力戦争 LOST LOVE』(1978年)を観る。以前に録画しておいたものだが、どうやら「日本映画専門チャンネル」では、震災後に予定していた再放送を中止したらしい。実際に観ると、確かに、事故を予言していたかのような内容に、そして原子力推進政策が地域を狂わせる描写に、慄然とする。『ATG映画を読む』(フィルムアート社、1991年)には、「原子力事故は今日的なテーマというよりも、むしろ不在者をめぐる巧妙なミステリー仕立ての核として利用されている」と評価されている(武藤旬)が、とんでもない。まったく逆だ。


『アートシアター ATG映画の全貌』(夏書館、1986年)より

原発を望む海岸に、男女の心中死体が流れ着く。男は原発の技術者であり、東京から帰省してきたばかりの女性とのつながりはなかった。東京で女性を風俗店で働かせていたヒモのヤクザ(原田芳雄)は、死を不審に思い、実家を訪ねるが、女性の父親(浜村純)に「おまえらに土地は売らん!」と追い返されてしまう。父親は原発に反対し、孤立して酒に溺れていた。死んだ技術者の妻(なぜか山口小夜子)は、迫ってきたヒモに、夫に託された秘密資料を渡す。そこには、原発事故の資料と欠損した燃料棒のネガが入っていた。技術者は、事故を明るみに出そうとしたばかりに、心中を装って殺されたのだった。そして、手を下したのは、漁業権放棄の追加補償金を得た女性の兄であった。彼は、もう地域の税収の9割は原発関連なのだ、もう漁業の町ではないのだ、と吐き捨てる。

新聞記者(佐藤慶)は、この特ダネによって本社勤務に戻ろうと張り切る。しかし、本社から圧力がかかり、上司(戸浦六宏)は苦しそうに「配管の亀裂ということにできないか」と提案する。実際には、冷却水漏れなど何らかの理由によりカラ焚きが起き、燃料棒が欠損する事故であった。

記者は電力会社を訪れていた原発推進学者(岡田英次)を詰問する。学者はこのように言う。大事故が起きるリスクは、こうして歩いていると隕石が落ちてきて直撃するようなものだ、あるいは、東京で一軒が火事になったからといって東京全土が灰燼に帰すと見なすようなものだ。沸騰水式(BWR)の欠陥があるという話になれば、加圧水式(PWR)のメーカーとの競争に加担するだけだ。確かに原発の技術は未熟だが、ここで目先のことで大騒ぎすれば日本の原子力政策が頓挫してしまう。中東からの石油に大きく依存している日本では、それが政治的に止められると、多くの死者を生んでしまう。なるべく多くのエネルギー源を持たなければならないのだ。―――と。

記者は仕事を続けるため、ネタをもみ消す。ヤクザは地元の若者たちに殴り殺されてしまう。技術者の妻は、御用学者の高級車で一緒に去っていく。そして、ヤクザに真実を伝えた女性の妹(風吹ジュン)は、歩いて地域から逃げ出していく。

ロケは福島原発において無許可でなされている。劇中突然の楽屋落ち、原田芳雄は俳優・原田芳雄としてゲートから入ろうとし、カメラは警備員に阻止される。ちょっとあざとい演出ではあるが、今となっては、実際に福島という場で撮られたのだという迫真性が凄い。

偏ったリスク論、偏ったエネルギーセキュリティ論、安全神話、御用学者など、震災後の現在の眼で見てこそ現在との共通性を認めることができるのは、皮肉なことだ。

なかなか観ることができない状況のようだが、ぜひどこかで上映すべき映画だ。最近の『朝まで生テレビ』に登場した田原総一朗の激しい保守化に愕然として、復刊された原作を手に取る気にはならないのだが。

#シネマヴェーラ渋谷で7/2から上映する >> リンク

●参照
○井上光晴『明日』と黒木和雄『TOMORROW 明日』 >> リンク
○『恐怖劇場アンバランス』の「夜が明けたら」、浅川マキ(黒木和雄) >> リンク
○『これでいいのか福島原発事故報道』 >> リンク
○有馬哲夫『原発・正力・CIA』 >> リンク
○山口県の原発 >> リンク
○使用済み核燃料 >> リンク
○『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ) >> リンク
○『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』 >> リンク
○東北・関東大地震 福島原子力の情報源 >> リンク
○東北・関東大地震 福島原子力の情報源(2) >> リンク
○石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』 >> リンク
○長島と祝島 >> リンク
○既視感のある暴力 山口県、上関町 >> リンク
○眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』 >> リンク


ジョナス・メカス(4) 『樹々の大砲』

2011-06-25 13:44:22 | 小型映画

ジョナス・メカスの最初の作品、『樹々の大砲(Guns of the Trees)』(1962年)を観る。メカス自身も、シナリオのある「映画」はこの1作だけだと述べており(のちの『営倉(The Brig)』は演劇に介入した映像)、その点でも、メカスの日記映画のスタイルはまだ確立されてはいない。それでも、何度も挿入される白い画面や、音と映像との断絶など、メカスなのだなと感じさせてくれる場面はそこかしこに散りばめられている。

自殺した若い白人女性。生前、人生の意味や苦しさ、醜さといった絶望が、彼女の口から繰り返し語られていた。恋人の男はとどめる術を知らず、なぜ自殺したのかと嘆きながら彷徨い歩く。彼女に人生を前向きに見つめようと助言していた黒人女性とその恋人は、性の悦びを含め、人生を謳歌する。この対照的な二組のカップルの姿が、揶揄や皮肉をまったく抜きにして、メカスにより眼の前に放り出されている。

彼女の絶望は、キューバへの圧力やたび重なる核実験など、矛盾と不義だらけの米国社会にも関連していた。その映像は、やはりストーリーとして構築されてはいない。しかし、メカスのこの映画活動は不穏なものとして睨まれたようだ。1961年12月(完成以前の版があったということだろうか?)、『樹々の大砲』を上映してから2日後の早朝、FBIからメカスに電話が入り、まもなく「キャロル・リードの映画から抜け出してきたような顔に黒い帽子。それにレインコート」の男が脅迫にやってくる。メカスは怯えながら言う。「実は、私は手先になる人間が嫌いなのです。どんな機関の手先でも」。メカスらしい、素晴らしい言葉だ。(『メカスの映画日記』フィルムアート社)

悦びのカップルの男を演じたベン・カラザーズは、見覚えがある。調べると、やはり、本作の前にジョン・カサヴェテス『アメリカの影』(1959年)にも出演している。メカスは『アメリカの影』のオリジナル版を高く評価し、「改良」版を手厳しく批判しているが、これはどういうことなのかよくわからない。いずれにしても、メカスがこのインディペンデント劇映画を撮りつづけていたなら、カサヴェテスになっていたのだろうか。

●参照
ジョナス・メカス(1) 『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』
ジョナス・メカス(2) 『ウォルデン』と『サーカス・ノート』、書肆吉成の『アフンルパル通信』
ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1(『メカスの難民日記』)


551蓬莱

2011-06-24 23:55:54 | 関西

所用で大阪に足を運んだ。何か旨いものを食べないと損をするのであれこれと妄想していたが、時間がなく、結局は昼も夜も大阪伊丹空港で食べることに。それでも見つけたのは、到着出口の横にある「551蓬莱」。テイクアウトの豚まん専門店かと思い込んでいた。そもそもずっと気にかけていて食べたことのない豚まん。昼夜連続して食べるほど憧れていた(笑)。

豚まんは中身も皮も絶妙で旨くないわけがない。焼そばも、焼売も、エビチリも、天津飯も旨かった。調子に乗って頼みすぎた。ウップウップ。なお、中国の天津には天津飯も天津麺もない。

ところで、「551」って何だろう、「午後イチ」に食べるのか?などと想像していた。店のウェブサイトには、店名の由来があった。「味もサービスもここがいちばんを目指そう!」だって。(>> リンク


楊逸『時が滲む朝』

2011-06-23 06:00:00 | 中国・台湾

楊逸(ヤン・イー)は「日本語を母語としない」者として唯一の芥川賞受賞者である。その受賞作が『時が滲む朝』(文春文庫、原著2008年)であり、中国民主化運動のなかで生き方を変えざるを得なかった若者たちの姿を、吃驚するくらいストレートに描いている。

この小説では、運動のなかで目立っていたアイコンではなく、歴史に名を残すわけではない者たちを主役に据えている。しかし彼らは、運動を自らのものとして主体的に関わり、自らの身体を捧げた者たちである。その意味で、現代の歴史小説であると同時に、青春小説であり、ビルドゥングスロマンでもある。

彼らは、大学寮で密かに持ちよったテレサ・テンのカセットテープを(周りに音が漏れないように)聴いて別世界に触れ、日本語が解らないうちに尾崎豊の「I Love You」を聴いて自らの姿に重ね合わせ、民主化要求運動に参加し、第二次天安門事件のあと大学を追放される。まるで親の世代のインテリが、文化大革命のさなかに農村へ下放された歴史を繰り返すように。

そして、彼らが第二次天安門事件の報を聞いて愕然とするのが1989年6月、日本で尾崎豊の急死に身体が崩折れるほどの衝撃を受けるのが1992年4月。作家の楊逸と主人公たちの年齢は私よりも上であり、それらの事件がもたらしたものも異なるが、それでも自分と同時代ではある。

思い出すことなど。テレビで天安門の様子を見てにわかには何が起きているのか理解できなかったこと。友人とオールナイトでロッセリーニの映画を観たあとに朝刊を開くと尾崎の死、しかも近所の日本医科大学に運び込まれたことを知り、騒ぎながらも徹夜で我慢できず寝てしまったこと。せつないなあ。昨夜南阿佐ヶ谷で編集者のSさんや杉並区議の方々と呑む機会があり、酔った所為もあってか、長い帰り道に読んでいると感傷的になってしまった。

それにしても、テレサ・テンの歌声は、中国大陸でも底流のように流れていたのだな、と思う。大陸から香港に渡った若者たちを描いた映画『ラヴソング(甜蜜蜜)』を思い出してしまう。

●参照
沙柚『憤青 中国の若者たちの本音』
加々美光行『現代中国の黎明』 天安門事件前後の胡耀邦、趙紫陽、鄧小平、劉暁波
北京の散歩(6) 天安門広場
私の家は山の向こう(テレサ・テン)
私の家は山の向こう(2)


ポール・オースター『Sunset Park』

2011-06-22 01:08:19 | 北米

ポール・オースター『Sunset Park』(2010年)を読む。今のところの最新作である。

主役のマイルスは、義理の兄弟を小さい頃に誤って死なせてしまい、若い日に失踪した男である。もっと若い十代の女の子と恋に落ちるが、やはり逃げ出す破目に陥る。駆け込んだのはニューヨーク、サンセット・パークにある廃墟であり、呼び寄せてくれた友人たちと4人で共同生活を送ることになる。あくまでマイルスが主人公だが、残りの3人、汚くて癖のある大男のビング、ウィリアム・ワイラー『我等の生涯の最良の年』を執拗に分析して論文を書き続けるアリス、人の肌の温もり恋しさにエロチックな妄想にふけり、エロチックな絵を描き続けるエレンも、同時に主人公である。そして、小さな出版社を営むマイルスの父、再婚相手、女優として大成している離婚した母も、それぞれの物語を紡いでいく。

ざっくり言えば、傷ついた若者(と大人)たちの逃走と再生の群像劇である。もちろんオースターの小説であるから、途中でやめることができない。ところが、いつまで経っても面白くならないし、刮目するような展開がない。ワイラーのみならず、ボルヘスやら劉暁波やら、知られざるメジャーリーガーやら、ディテールは凝っている。しかしこのつまらなさは何だろう。あり得ないような偶然の出来事や、それらが生み出す運命の恐ろしさや、カタルシスにも転じうるような凄惨な事件といったものが描かれないことには、オースター世界が完成しないということだろうか。

前作『Invisible』(2009年)でもそうだったが、本作ではそれに輪をかけて、エロ話が満載であり、辟易させられる。それはまあ、人間と性とは不可分であり、それを過剰に描いてこそ感じるものがあることは理解できる。それでも、いくらなんでも過剰である。オースターからしばらく遠ざかってもいいかな。

●参照
ポール・オースター『オラクル・ナイト』
ポール・オースター『ティンブクトゥ』
ポール・オースター『Invisible』
ポール・オースター『Travels in the Scriptorium』
ポール・オースターの『ガラスの街』新訳


ジョセフ・クーデルカ『プラハ1968』

2011-06-19 09:57:28 | ヨーロッパ

東京都写真美術館で、ジョセフ・クーデルカ『プラハ1968』を観た。

チェコスロヴァキアでの「人間の顔をした社会主義」、ドゥプチェク体制のいわゆる「プラハの春」。1968年夏、それを否とするブレジネフ体制のソ連率いるワルシャワ条約機構軍がプラハに侵攻する。ジョセフ・クーデルカ(ヨゼフ・コウデルカ)は当時30歳前後、おそらくは東ドイツの一眼レフカメラ、エキザクタを持って、この国家犯罪を記録した。

ずいぶん広角のレンズも使われており、これが、友人の評論家にベルリンで買ってきてもらったという、やはり東ドイツのカール・ツァイス・イエナ製のフレクトゴン25mmなのだろうか(本人はフレクトゴン35mmが欲しかったのだという)。なお、現在ではゼブラ模様の旧タイプ、モダンデザインの新タイプともに、フレクトゴンの20mmや35mmは比較的入手しやすいが、25mmを見ることは稀である。私もロンドンの中古カメラ店に在庫があることを確認して駆けつけたが、もう売れたあとだった(昨年再訪したところ、その店はどこかに移転していた)。

写真群の緊迫感は凄まじく、観る者に刺すように迫る。一眼レフでピントを合わせる間もなかったであろう写真、市民と一緒に走りながら撮ったためかブレブレの写真、そして市民と一緒にソ連の戦車に登って(!)撮ったらしき写真。市民たちは不安な表情を浮かべたり、茫然としていたり、それでも、毅然として戦車や軍人に迫っている。戦車には、そのほとんどはチェコ語で書かれていて読めないのだが、「ロシアンは家に帰れ」、「ファッショ」、といった落書きがされ、ナチの逆鉤十字のマークもあちこちに書きつけられている(反対のまんじになっているものもあるのは愛嬌だ)。曖昧に支配され、曖昧に生きているいまの日本の私たちに、これができるだろうか。その意味で、極めて現代的な作品群である。

街に繰り出して座り込んだり、抵抗したりする市民は、恐怖と緊張の表情を浮かべているばかりではない。笑顔もある。これが人間だ。しかし、これらを捉えたクーデルカの名前は、自身と家族に危害が及ぶために、しばらく公表されることはなかった。写真展には、「P.P」、すなわちプラハの写真家と記された写真プリントの裏側も展示されている。

>> 『Invasion 68』の写真群(Magnumのサイト)

夜の約束まで時間があって、4階の図書館を覗いた。目当ては、1997-98年に写真美術館で開かれた『ユリシーズの瞳 テオ・アンゲロプロスとジョセフ・クーデルカ』の図録である。映画もテレビも見ないというクーデルカだが、テオ・アンゲロプロス『ユリシーズの瞳』(1994年)のスチルを担当したのだった。従って、ギリシャ、マケドニア、アルバニア、ルーマニア、旧ユーゴを旅した記録になっている。

寒そうな雪景色のマケドニア、主演のハーヴェイ・カイテルが眉間に皺をよせて、車の中から不安そうに外を眺める瞬間。孤独な犬。図録にはクーデルカの言葉も引用されている。

「意味をなさない言葉、思い出、夢や秘密の断片、遂げられなかった望み、期待、予感、信仰、そして希望。幾つかの声のハミングが一つになる。」
「私たちの手は現実に触れ、想像を消し去った。私たちの魂は、もはや鈍感ではいられなくなってしまった。」

中には、『ユリシーズの瞳』の印象的な場面のひとつである、解体されたレーニン像が船に乗せられてドナウ河をゆく姿の写真があった。パノラマ写真である。図書館に置いてあったクーデルカの写真集、『CHAOS』(1999年)を開くと、さらに多くのパノラマ写真を見ることができた。これらは『ユリシーズの瞳』の旅においてだけでなく、米国、フランス、イタリア、リビアといった国々でも撮られている。やはり解体されたレーニン像、首がもがれたマリア像、無数の銃弾が撃ち込まれた交通標識。おそらくフジのTX-1、あるいは同型のハッセルブラッドXPANであろう。

旅。

>> 『CHAOS』の写真群(Magnumのサイト) 6葉目がレーニン像の写真

夜、新宿西口で新聞記者のDさんと久しぶりに会い、思い出横丁の「鳥園」、「きくや」(某サックス奏者と「ぶれいん」を食った店だった)、そして小雨の中をゴールデン街まで歩き、浅川マキの写真が飾られている「裏窓」と梯子する。

「裏窓」の狭い店内には、カウンターの背中側にアップライトのピアノが置かれていて、2か月に1回くらい、渋谷毅がピアノを弾くという。そしてそのピアノは、浅川マキの部屋にあったものだという。マスターが、以前に「裏窓」で録音した、渋谷毅のピアノソロ演奏を流してくれた。「ボディ・アンド・ソウル」、「マイ・マン」、「ロータス・ブラッサム」、いつものレパートリー、いつも変わらない魅力なのだった。


「鳥園」


「きくや」

●参照(チェコ)
ヨゼフ・スデク『Prazsky Chodec』
ミラン・クンデラ『不滅』
チェコのジャズ


バート・スターン『真夏の夜のジャズ』

2011-06-18 14:08:38 | アヴァンギャルド・ジャズ

バート・スターン『真夏の夜のジャズ(Jazz on a Summer's Day)』(1958年)。同年のニューポート・ジャズ・フェスティヴァルとそれを愉しむ人たち、海や街の様子を捉えたフィルムであり、ジャズ映画としてはもっとも有名な作品のひとつだ。六本木にあったシネ・ヴィヴァンだったか、1996年頃に再上映され、大スクリーンでの映像にひたすら感激した記憶がある。輸入VHSを持っていたが、いまではサントラCD付きのDVDを1500円で買うことができる。

改めて観ると、魅力的な場面が散りばめられていることがわかる。

竹フレームのサングラスとくしゃくしゃのスーツを着たセロニアス・モンク、何てヒップなんだろう。確かステージ直前にドラッグをやっていたアニタ・オデイ、ハスキーな声と余裕綽々な押し引きが素晴らしい。バリトンサックスを軽々と吹きならすジェリー・マリガンダイナ・ワシントンのキインと通るヴォイス、後ろの愉しそうなマックス・ローチ。唾吹きのハンカチを持って唯一無二のトランペットの音を響かせるルイ・アームストロング。観客を黙らせてしまう、マヘリア・ジャクソンの圧倒的に深いヴォイス。

バート・スターンはもともと写真家であり、DVDに付いているスターンの独白でも、何度も「ストレート・フォトグラフィ」に言及する。マリリン・モンローが亡くなる直前、プライヴェートなヌード写真を撮った作品がある。確かネガにモンロー自身がペンでバッテンを描き入れたものだったはずだ。特集された雑誌を持っていたが、どこかに消えてしまった。誰だ、持ち去ったのは。


森口豁『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』

2011-06-17 01:54:47 | 沖縄

駒込の「琉球センター・どぅたっち」にはじめて足を運んだ。琉球独立を是とする場であり、これまで気軽に行かなかったわけなのだが、何のことはない、とても居心地の良い空間だった。いつも『けーし風』の読者会に参加しているAさんと遭うことができた。

目当ては、ジャーナリストの森口豁さんがかつて「NNNドキュメント」枠で制作したテレビドキュメンタリー、『ひめゆり戦史・いま問う、国家と教育』(1979年)および『空白の戦史・沖縄住民虐殺35年』(1980年)の上映である。12名ほど集まり、森口さんご本人も現れた。

●『ひめゆり戦史・いま問う、国家と教育』(1979年)

年に数回あったという拡大版の55分。いわゆる「ひめゆり部隊」の生き残り5名を訪ね、彼女たちの生の声から、軍事国家社会と皇民化教育の実状を示していくつくりとなっている。

敗戦から34年、皆50歳を超えたときになって、改めて卒業証書が授与された場面からはじまる。そして、那覇、本部町、国頭村、長野、さまざまな場所に住む彼女たちが口を開き始める。突然解散命令が出て、米軍捕虜になったら恥であり酷い目にあわされるから、手榴弾で殺してほしいと思っていた。沖縄本島南端の喜屋武岬では、女性・子どもに対する米軍の投降勧告の声が死ぬよりも恐ろしく、それに応じた者の背中には日本軍が銃弾を浴びせ、海が赤く染まった。学校では疎開者を非国民呼ばわりした。疎開するなら4年支払った給料を全て返せと言われた。―――と。

ある女性は、このような皇民化教育を「魔の力」だと表現する。ある女性は、生き残ったことが後ろめたいと言う。ある女性は、もう戦争やだ、もう戦争やだ、と繰り返す。亡くなった娘の母親は、いつか帰ってくると信じて毎日鍵をかけずに寝ている。そして、取材には決して応じない生き残りの女性もいる。彼女は、仲宗根政善『沖縄の悲劇』において、日本軍兵士の獣性を語っている。取り返しのつかない傷口はあまりにも生生しい。

数々の証言のなかから、沖縄女子師範学校の西岡一義校長の存在が浮かび上がってくる。ひめゆり部隊の行動を命令し、それに異を唱えた人物を「洗脳者」と罵り、そして生徒たちと行動を共にせず安全と信じられていた日本軍本部に身を寄せた人物である。戦後、彼は一度も沖縄を訪ねることもなく杉並区に住み、東京学芸大学で定年退職まで教鞭と取っている。取材に対し、あれは軍の命令だったから仕方がない、「俺も戦争の犠牲者だ」と居直る声が捉えられている。当時沖縄でもこのドキュが放送され、大きな怒りとともに受けとめられたという。

一方、八原博通陸軍大佐(高級参謀)は取材に対し、自分はひめゆり部隊の徴用に反対したのだが結果的に役に立った、あれは県庁の考えだった、と答える。矛盾するようだが、実際には、県と軍との折衝によって決められたものであった。森口さんの話では、ドキュ放送後、八原氏本人から、「花も実もある番組だった」との謝意を示す葉書が届いたのだという。それがどのような意味だったのか、もはや確認できない。

このドキュに投じられた費用は、通常の300万円(当時)を遥かに超える1000万円だったとのことだ。「お国のため」と主張した沖縄の教師も確かにいたというが、まだ沖縄に対する関心が深化していない時代にあって、ヤマトゥの戦争犯罪を免罪する可能性があると判断し、そのような場面は使わなかった、今なら使うかな、と、森口さんは上映後に語った。

●『空白の戦史・沖縄住民虐殺35年』(1980年)

大宜味村の渡野喜屋(いまの白浜)において、南部から疎開していた住民たち約30人が日本軍に虐殺された事件があった。塩屋湾の近くであり、浜に立たせておいて、兵隊が1、2の3で手榴弾を投げて殺した。すべてスパイ容疑、その前に、3人が山中でやはり日本軍に殺された。

このドキュの主人公は、その宇土部隊に通信兵として同行し、虐殺を止めることができずすべてを目撃した森杉多さんである。直接手を下したのではないが、罪をわがものとして負い、現地を訪ねて遺族に謝罪する姿が捉えられている。それは、『ひめゆり戦史』において、自分も犠牲者だと自らの罪を勝手に免責する醜い姿とは正反対の場所にある。森さんは戦後、東京の高校で社会科を教えながら、『戦争と教育』という本をものし、また、頻繁に集会に出席して発言し、熾烈な批判を浴びたこともあったのだという。

ドキュの中で、軍の機密文書が示される。宇土部隊のミッションのひとつは容疑者の監視であったこと、そして標準語を喋らない者(沖縄の言葉を喋る者)はスパイと見なし処分することが、はっきりと定められている。

森口さんは、沖縄差別が底流にあったことは間違いない、しかし、仮に米軍が九州や房総に上陸したとしても同じようなことが起きただろう、それが軍というものの本質だ、と語った。

上映が終わったあと、飲み食いしながらいろいろな人たちと話した。森口さんがご自身のブログで、このブログのことも紹介してくださっていたことがあった(>> 〈沖縄〉が分かる! 森口豁のお薦めブログ No,1)ので自己紹介すると、60歳くらいの人かと思っていたよ、と言われてしまった。また褒められてしまい恐縮した。

●参照
森口カフェ 沖縄の十八歳
罪は誰が負うのか― 森口豁『最後の学徒兵』
『子乞い』 鳩間島の凄絶な記録
『沖縄・43年目のクラス会』、『OKINAWA 1948-49』、『南北の塔 沖縄のアイヌ兵士』
『“集団自決”62年目の証言~沖縄からの報告~』、『沖縄 よみがえる戦場 ~読谷村民2500人が語る地上戦~』(渡野喜屋事件を取りあげている)
『兵士たちの戦争』、『未決・沖縄戦』、『証言 集団自決』(宇土部隊を取りあげている)
『けーし風』2008.6 沖縄の18歳に伝えたいオキナワ
仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』、川満信一『カオスの貌』
『ひめゆり』 「人」という単位
沖縄「集団自決」問題(記事多数)


エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』

2011-06-15 23:22:44 | アヴァンギャルド・ジャズ

エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(1985年)を再見する。何度も観たフィルムであり、それほどに貴重な映像が含まれている。私の持っているのはVHSだが、今ではDVDも出ている。

チャールズ・ゲイル(テナーサックス)が自身や音楽について語る場面に多くの時間が割かれている。その声は演奏から想像するような重いものではなく、むしろ意外なほど快活だ。7歳ころにピアノを始めて、トランペットや大きなハープなんかも触ってみて、15-17歳ころにサックスに出会った。練習はいまでも1日に8時間くらいはしているよ。1960年代はジョン・コルトレーン、オーネット・コールマン、セシル・テイラー、サニー・マレイ、アルバート・アイラーなんかが登場して、定型に陥っていたジャズを蘇らせた重要な時代だった。ジャズは個人的な(personal、individual)音楽だ。個性を追求して、さらに世界とどう折り合うか、それが重要だ。自分には辛い時代もあった。自分はカネのために活動しているんじゃない。―――そんな内容を、憑かれたように延々と話し、次第に判りにくくなっていく。

そのゲイルは、マリリン・クリスペル(ピアノ)、ラシッド・アリ(ドラムス)、ペーター・コヴァルト(ベース)とのカルテット、コヴァルト、ジョン・ベッチ(ドラムス)とのトリオ、さらに大編成、街角でのテナーソロ、練習風景と、さまざまな姿を見せる。特にアリの蛇のようにまとわりつくドラムソロが素晴らしい。

コヴァルトはドイツ語で、自分は白人だから黒人プレイヤーのような根ざすルーツがなく、ヨーロッパ人であると屈折したことを話す。ゲイルに日本音楽、三味線のことなんかを教えているのが面白い。ウィリアム・パーカー(ベース)がその妻と語るシーンもあるが、これは意外につまらない。

演奏の見所は多い。若いジョン・ゾーン(リード)とウェイン・ホーヴィッツ(キーボード)との実験的なデュオ。愉しげなビリー・バング(ヴァイオリン)のグループ。ドン・チェリーがピアノを弾くオーケストラ。イレーネ・シュヴァイツァー(ピアノ)とリュディガー・カール(テナーサックス)とのデュオ。

ペーター・ブロッツマンデイヴィッド・S・ウェアフランク・ライト、チャールズ・ゲイルというヘビー級テナーサックスが4人揃い(!)、ベースにコヴァルトとパーカー、ドラムスにアリ、ピアノがシュヴァイツァーという凄まじく重いアンサンブルもある。そして、パーカー夫婦のアンサンブルでは、A.R.ペンクの大きな絵の前で、ダンサーが5人踊り、ジーン・リーを含む3人のヴォイス・パフォーマーらが奇妙な音を形作っていく。白眉といえばすべて白眉だ。

但し、チャールズ・タイラー(アルトサックス)のクインテットでは、ヘンな歌詞をタイラー本人が歌いまくる様子がいかにも中途半端でがっかりさせられる。しかし、贅沢を言ってはならない。ウェアやライトやタイラーの映像は、これでしか観たことがないのだから。


●参照
ESPの映像、『INSIDE OUT IN THE OPEN』
ヨーロッパ・ジャズの矜持『Play Your Own Thing』
イレーネ・シュヴァイツァーの映像
ブラクストン、グレイヴス、パーカー『Beyond Quantum』
ウィリアム・パーカーのベースの多様な色
歌舞伎町の「ナルシス」、「いまはどこにも住んでいないの」(チャールズ・ゲイル)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ
ペーター・ブロッツマン
ラシッド・アリとテナーサックスとのデュオ
ジョン・ゾーン『Interzone』 ウィリアム・バロウズへのトリビュートなんて恥かしい
ミッキー・スピレイン、ジョン・ゾーン
『Treasures IV / Avant Garde 1947-1986』(ゾーンの音楽と実験映像)
チャールス・タイラー
ドン・チェリーの『Live at the Cafe Monmartre 1966』とESPサンプラー
横井一江『アヴァンギャルド・ジャズ ヨーロッパ・フリーの軌跡』


「屯ちん」のラーメンとカップ麺

2011-06-13 23:03:53 | 関東

残業中におにぎりを2個食べただけだったので腹が減り、矢も楯もたまらずコンビニに入ると、「屯ちん」のカップ麺があった。川崎店で食べて、さくさくした麺にインスタント感を覚えたラーメンである(この場合、褒め言葉)。帰るなり着替える前にお湯を沸かす。

麺がインスタントなのは当たり前(笑)だとして、スープの出来が良い。「スープは半分残しましょう」と教わったが、つい全部平らげてしまった。まあいいじゃないか(誰に言っている)。

カップ麺も進化しているんだな。


店舗もの


カップもの

●参照
なんばの、「千とせ」の、「肉吸」の、カップ


ジョニー・トー(12) 『デッドエンド/暗戦リターンズ』

2011-06-13 00:59:39 | 香港

気が向いて立ち寄った中古ヴィデオ店で、ジョニー・トー+ロー・ウィンチョン『デッドエンド/暗戦リターンズ』(2001年)のレンタル落ちVHSを180円で確保した。最近ツイていないが、まあ、たまには良いことがある。

主演の警部役のラウ・チンワンは、後年の『MAD探偵』(2007年)ほど暑苦しくはない。借金取りに追われ、狂ったようにコインの裏表当てを続ける男、ラム・シュー。まったく使えない駄目上司、ホイ・シウホン。美しい実業家、ケリー・リンなど、トー作品の常連たちに逢えて、帰って来たような錯覚さえ覚えてしまう。

そして、「如何に奇抜で面白いプロットを無数に詰め込めるか」にのみ(!)執心したとしか思えない濃縮エンタテインメントは相変わらずだ。

盗賊は猛禽を飼い、大学で鳥類学を学んだ男がそれに気付き、クルマのルーフを開けて双眼鏡とともに立ち、追いかける。雨が降る夜の香港、チンワンはさらに走って追いかける。互いに休む間、チンワンは水、盗賊はアイスを食う(これがトーの食い物シーンだ)。追跡はゲームである。彼らは自転車に乗り換え、無意味なレースを続ける。ビルの屋上での対決、盗賊はなんと隣りのビルから傘を片手に綱渡りで現れる。勿論、チンワンは彼が屋上に到着するまで待っている。何なんだ!

この年(2001年)、トーは『フルタイム・キラー』を含め3作品を撮っている。本当に天才と言っていいんだろうね。

●ジョニー・トー作品
『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』(2009)
『文雀』(邦題『スリ』)(2008)
『僕は君のために蝶になる』(2008)
『MAD探偵』(2007)
『エグザイル/絆』(2006)
『エレクション 死の報復』(2006)
『エレクション』(2005)
『ブレイキング・ニュース』(2004)
『PTU』(2003)
『ターンレフト・ターンライト』(2003)
『スー・チー in ミスター・パーフェクト』(2003)※製作
『フルタイム・キラー』(2001)
『ザ・ミッション 非情の掟』(1999)