Sightsong

自縄自縛日記

1985年の里国隆の映像

2013-10-27 23:33:55 | 沖縄

ベーシストの齋藤徹さんが、里国隆のホームヴィデオによる映像記録を送ってくださった。

「第1回発表会/関西奄美北大島民謡/おさらい大会」(1985年5月19日、尼崎サンシビック)における、特別ゲストとしての登場である。これは嬉しい。

これまで里の映像としては、「あがれゆぬはる加那」を唄っている短いものしか観ることができなかったのだ(>> リンク)。NHKのドキュメンタリー『白い大道』(2005年)にも、里本人の映像は入っていなかった(>> リンク)。

民謡の発表大会であるから、勿論、他の唄者たちも登場する。その中で、里は3回も登場する。

1回目:里国隆(三線、唄)+中村ヤエ(唄、三線)
2回目:里国隆(竪琴、唄)+萩原キミエ・松山美枝子(唄、三線)
3回目:里国隆(竪琴、唄)

驚いたことに、里の語りは軽妙であり、会場も相方も笑わせる。唄を指定したところ、相方の萩原キミエと松山美枝子が仰天、耳打ちすると、「風の吹きまわし」だとして(予定通り?)「あがれゆぬはる加那」に変更する始末。考えてみれば、里は樟脳売りをしながらあちこちで唄っていたのであり、売り込みの語りが達者でなければならないのだった。

それにしても、どこかがびりびりと響くような唄声は、文字通り唯一のものだと思わせる。呻きなのか、叫びなのか。喉を震わせているのか、頭蓋全体が音を発しているのか。貴重な記録を観ることができた。

ところで、他の唄者にも、里と同じく大きな竪琴を演奏する人がいる。かつて、竪琴を持って唄う樟脳売りは、どれほどいたのだろう。島尾ミホ『海辺の生と死』には、昔の奄美の話として、島に流離してくる人々のなかに「立琴を巧みに弾いて歌い歩く樟脳売りの伊達男」がいたとある(>> リンク)。ひょっとしたら、里本人だったのかもしれない。

里国隆は、この映像の1か月少しあと、1985年6月27日に亡くなった。

●参照
里国隆のドキュメンタリー『白い大道』
島尾ミホ『海辺の生と死』


佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』

2013-10-27 08:23:17 | 環境・自然

佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』(玉川大学出版部、2013年)を読む。

東アジア、東南アジア、南アジア、どこでも田んぼを目にする。長い間、人の手が入った自然である。コメやコメ料理が場所によって大きく異なるように、田んぼも土地それぞれの顔を持っている。

本書は、コメ作りのみならず、野生のイネについての研究までも紹介している。その野生イネもさまざまで、タネをつけないものもあった。それが、中国・長江流域(6千年前だという)やインド・ガンジス川流域から意図的な稲作が拡がっていき、収穫効率の良いタイプへと選択的にシフトしていくことになる。たとえば、背が高いものよりも低いものの方が、また、穂が自然に落ちるものより落ちないものの方が、収穫効率がよい。また、赤米から突然変異で生まれた白米が選択され、主流となった。

東南アジアの近代農法が普及していない地域では、農法だけでなく、コメのタイプにも古いものがまだある。しかし、近代的・画一的にすることが良いばかりではない。昭和の不作・飢饉は、そのような画一化により総倒れになったことが理由だという。東南アジアにおいて、たとえば頻繁に村々の間で種を交換したり、同じ田んぼでも多種多様なコメを栽培したり、といったことが行われ、収穫できないリスクを回避している。しかし、収穫効率を追求する近代農法ではそれは否定される。また、単一でないコメは流通させることができない。まさに、近代の陥穽というべきである。

本書ではじめて知ったものに、プラント・オパールというものがある。コメは珪素を取り込み、それはガラス体となり、焼かれたり分解したりしても残る。つまり、遺跡で出土されるプラント・オパールの分析が、当時の稲作を探る手掛かりとなるわけである。

それを含め、本書では、分析やフィールドワークの方法を紹介している。何でも、アジアのフィールドワークにおいて、自動車を止めることなく野生イネを見出す能力さえも要求される現場だという。別に稲穂が垂れているわけでもなく、ただの貧相なる草である。他にも、調査場所でのご飯の食べ方のコツなど、研究者の生の声がいちいち面白い。科学を人間の仕事として見せてくれている。


ベトナム・サパの棚田とトウモロコシ(2012年6月)


ベトナム・サパの棚田(2012年6月)

●参照
佐々木高明『照葉樹林文化とは何か』
2012年6月、サパ(本書にも登場する場所)


スティーヴン・ホーキング『My Brief History』

2013-10-26 10:05:45 | 思想・文学

スティーヴン・ホーキング『My Brief History』(Bantam、2013年)を読む。タイトル通り、有名な理論物理学者の自伝である。

ベストセラー『ホーキング、宇宙を語る』(原題:A Brief History of Time)を読んだのは、大学生になったばかりのとき。赤鉛筆で線を引きながら熱心に読んだのだが、9割がた忘れてしまった。

なぜこのような難解極まる本が売れたのか不思議だったのだが、この自伝でも、ホーキング自身がそのことを書いている。狙いは、まさに、専門書ではなく、駅の売店に置かれて広く読まれる本を書くこと。出版に乗ってくれたBantamの担当編集者は、とにかく専門的な用語や数式を避けて、例え話などによって読者がイメージを持つことができるよう、原稿に執拗なダメ出しをし続けたという。そして、「永遠に終わらないのではないか」とホーキングが思ったほどのやり取りの結果、あの本が生まれたのだった。もっとも、ホーキングの病気についての興味で買った人や、本棚に並べるというだけの目的で買った人が多いに違いないと、シニカルに言ってもいる。

おそらく『ホーキング、宇宙を語る』にも書いてあったのだろうが、当然というべきか、この自伝でも触れられているブラックホールや時間に関する理論は、イメージを介してではあっても、まったくわからない。

たとえば、時間や重力の特異点(singularity)。これが有限でないことが理論上重要なようなのだ。そのために(どのためかわからないが)、時間を遡ることは不可能であり、時間のはじまり(ビッグバン)以前は何があったかを問うこと自体が無意味である、と説く。

また、たとえば、ブラックホールから光は脱出しないが、情報は脱出しうる。それは、エンサイクロペディアが灰になってしまって解読できないが、一次情報は揃っているということ。勿論、そう言われること自体は想像できるが、哀しいかな、それ以上に想像が進まない。

理論はともかく、下世話な興味の部分も含め、ホーキングの生涯を追うことができて興味深い。父親の教育方針について、難病について、大学の中について(リチャード・ファインマンとマレー・ゲルマンとの激しいライバル意識なんて面白い)、2度の結婚と離婚について。

ところで、ホーキングの口癖は、「○○だ、but、・・・」だということを発見した。


島尾ミホ『海辺の生と死』

2013-10-24 08:14:18 | 九州

島尾ミホ『海辺の生と死』(中公文庫、原著1974年)を読む。嬉しい復刊。

ゆっくりと、思い出しながら綴られる奄美の記憶。丁寧に示される奄美のことばを、脳の中で、島尾敏雄『東北と奄美の昔ばなし』に付されたレコードや(>> リンク)、伊藤憲『島ノ唄』において見聴きことができる島尾ミホの声と重ね合わせながら、唇を動かしながら読んでみる。「神話的想像力」とでも言うべきか、驚いてしまうほどの強度で、島尾ミホの存在が浮かび上がってくる。

本書に併録された吉本隆明の文章においては、古い奄美の「聖」と「俗」とを、あるいは「貴種」と「卑種」とを、「鳥瞰的にでもなく、流離するものの側からでもなく、受けいれるものの側から描きつくしている」と表現している。まさに、神と人とが混濁した大きなカオス的な存在だったのだと思わざるを得ない。

ところで、ここには、島に流離してくる人々のなかに「立琴を巧みに弾いて歌い歩く樟脳売りの伊達男」がいたとある。これは、まさに里国隆のことではなかったか、と想像する。あるいは、里も樟脳売りに付き従って放浪するうちに芸を覚えたというから、同じような人は少なからずいたのかもしれない。

本書の後半は、のちに夫となる島尾敏雄が、ミホの郷里・加計呂麻島に赴いたときの思い出が記されている。敏雄には特攻準備の命令が下り、いつ米軍に突っ込んでいってもおかしくない状況だった。自らも死を覚悟して、白装束に着替え、海岸を傷だらけになりながら敏雄に逢いに行くミホの姿は、文字通り凄絶であり、思い出話の領域を遥かに超えている。結局は、特攻する前に日本が敗戦し、敏雄もミホも生き長らえる。しかし、それはここで書かれている世界とは「別の話」である。

「日経新聞」の「文学周遊」というサイトに、『海辺の生と死』の舞台となった加計呂麻島の現在が紹介されている(>> リンク)。島尾敏雄の文学碑、さらにその向こうに敏雄、ミホ、娘マヤの墓が写された写真もある。『季刊クラシックカメラNo.11』(2001年)にも同じ場所の写真が掲載されている。ミホもマヤも亡くなる前である。見比べてみると、文学碑の後ろの生け垣が撤去され、3人の墓に歩いていくことができるようになっているようだ。


2001年(『季刊クラシックカメラ No.11』)


2013年(「日経新聞」)

 
島尾敏雄『東北と奄美の昔ばなし』の付録レコード

●参照
島尾ミホさんの「アンマー」
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』


藤田富士男・大和田茂『評伝 平澤計七』

2013-10-23 23:37:11 | 関東

大阪からの帰途、藤田富士男・大和田茂『評伝 平澤計七 亀戸事件で犠牲となった労働演劇・生協・労金の先駆者』(恒文社、1996年)を読む。

平澤計七。新潟県に生まれ、やがて労働運動に身を投じ、江東区・大島で、オーガナイザーとして目覚ましい活動を行う。同時に、彼は警察に睨まれることになる。

1923年9月1日、関東大震災。意図的なデマにより、多くの朝鮮人、中国人、沖縄人らが捕えられ殺される中、社会主義者も、騒乱を扇動するかもしれぬとの理由によって、暴力の対象となった。9月3日、平澤らは亀戸署に連行され、深夜、刺殺される(亀戸事件)。大杉栄・伊藤野枝夫妻と甥の橘宗一が甘粕正彦らに殺される事件は、9月16日に起きている。

90年が経った今でも、この事件が極めて現代的な意味を持つことは、少しでも敏感な者であればわかることだろう。

関西の賀川豊彦と同時期に、生協というシステムを構築したという点もあらためて記憶されるべきことであろう。

●参照
隅谷三喜男『賀川豊彦』
山田典吾『死線を越えて 賀川豊彦物語』
山之口貘のドキュメンタリー(関東大震災時の虐殺の記憶)
道岸勝一『ある日』(関東大震災朝鮮人虐殺の慰霊の写真)
『弁護士 布施辰治』(関東大震災朝鮮人虐殺に弁護士として抵抗)
野村進『コリアン世界の旅』(阪神大震災のときに関東大震災朝鮮人虐殺の恐怖が蘇った)


アラヴィンド・アディガ『グローバリズム出づる処の殺人者より』

2013-10-21 23:56:07 | 南アジア

アラヴィンド・アディガ『グローバリズム出づる処の殺人者より』(文藝春秋、原著2008年)を読む。

原題は『The White Tiger』(何というダサい邦題をつけたことか)。主にデリーバンガロールが舞台である。

ジャングルの中でひときわ珍しい動物は白い虎。主人公バルラムは、極貧の家に生まれたが、耳学問の意欲と野心だけはあった。彼らを見下す者から、バルラムは白い虎だと褒められる。そして、バルラムは、地主の家の運転手になり、やがて、主人の都合で大都会デリーで暮らすようになる。

教育の欠如とカースト社会の習慣により、バルラムは、生まれながら限られた領域から逃れ出ることができない。扉が開かれていても、そこは哀しい「籠の鶏」であり、それをくぐる智恵も意識も何もない。バルラムは、ついに主人を殺すことにより、扉の向こう側へと歩み出る。

ひとりひとりなど何でもなく圧殺してしまえる社会は、「閉塞感」と単純に片づけられないほどの巨大な敵である。活路を見出したところで、その巨大な敵の一部になるだけという恐ろしさ。単にインド社会の実状を描いた小説というだけではない。この物語は、がんじがらめの近代社会、日本社会も捉えている。

本作はブッカー賞を受賞しており、さすがの面白さと完成度。それでも、最新作『Last Man in Tower』の方が優れている。他の作品も含め、ぜひ邦訳してほしいところ。


オリッサ州の動物園にいた白い虎

●参照
アラヴィンド・アディガ『Last Man in Tower』
2010年10月、バンガロール
2010年10月、デリー
2010年9月、ムンバイ、デリー
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク


ペーター・ブロッツマンの映像『Concert for Fukushima / Wels 2011』

2013-10-21 08:11:36 | アヴァンギャルド・ジャズ

ペーター・ブロッツマンのシカゴ・テンテットによるライヴDVD『Concert for Fukushima Wels 2011』(Trost、2011年)を観る。タイトルの通り、東日本大震災のあと、オーストリアにおいて、チャリティー目的で開催されたコンサートである。

Peter Brötzmann (reeds)
Ken Vandermark (reeds)
Mats Gustafsson (sax)
Joe McPhee (tp)
Johannes Bauer (tb)
Jeb Bishop (tb)
Per-Åke Holmlander (tuba)
Fred Lonberg-Holm (cello, el-g)
Kent Kessler (b)
Paal Nilssen-Love (ds)
Michael Zerang (ds)
Guests:
近藤等則 (el-tp)
八木美知依 (17 & 21 string koto)
大友良英 (el-g)
坂田明 (reeds)

このきら星のごとく並ぶメンバーを見よ。ひとり、ふたり来日するだけでも駆け付けていくほどの、一騎当千の面々である。よほどの企画がなければ、日本でこのコンサートを開くのはまず難しいだろう。

演奏は、日本側のゲストをひとりずつ迎える形で行われている。つまり、4曲である。

近藤等則はエレクトリック・トランペットを吹く。かすれたような音色とエコー。ジョー・マクフィーのポケット・トランペットの鮮やかな音色と、明らかに対照的に響くのが面白い。ヨハネス・バウアーは、相変わらず、踊るようにトロンボーンを吹く。

八木美知依は大音響での集団即興に負けじと加わるというより、静かな中で、一音一音を大事にする箏の音色を響かせる時間を、存分に持たされる。轟音との対比がとても効果的で、また、フレッド・ロンバーグ・ホルムのチェロやエレキギターとのコラボレーションが、意外なほど美しい。

大友良英はエレキギターだけでの勝負。もはや、彼の音色を皆が固唾を呑んで見守る印象がある。

トリの坂田明は貫禄そのもの。唐突に鈴を鳴らし、物凄い勢いでアルトサックスを吹きはじめる。ペーター・ブロッツマンとのアルト・ブラザーズ対決には笑ってしまった。マッツ・グスタフソンも俺が俺がと主張する。

ただひたすらに愉快な105分。演奏者たちがお互いの演奏を観てにやりとする、エクスタシーの時空間でもある。

●参照 
ペーター・ブロッツマンの映像『Soldier of the Road』
ペーター・ブロッツマン@新宿ピットイン(ニルセン・ラヴ、ロンバーグ・ホルム、八木美知依参加)
ペーター・ブロッツマン+佐藤允彦+森山威男『YATAGARASU』
ペーター・ブロッツマン
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(ブロッツマン参加)
セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット(ブロッツマン参加)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ(ブロッツマン、坂田明参加)
ハン・ベニンク『Hazentijd』(ブロッツマン参加)
ジョー・マクフィー+ポール・ニルセン・ラヴ@稲毛Candy
ジョー・マクフィー『Sonic Elements』
『Tribute to Albert Ayler / Live at the Dynamo』
ウィリアム・パーカー+オルイェミ・トーマス+リサ・ソコロフ+ジョー・マクフィー+ジェフ・シュランガー『Spiritworld』
ジョー・マクフィーの映像『列車と河:音楽の旅』
ジョー・マクフィーとポール・ニルセン・ラヴとのデュオ、『明日が今日来た』
ザ・シング@稲毛Candy(マッツ・グスタフソン、ニルセン・ラヴ)
マッツ・グスタフソンのエリントン集
大友良英+尾関幹人+マッツ・グスタフソン 『ENSEMBLES 09 休符だらけの音楽装置展 「with records」』
ポール・ニルセン・ラヴ+ケン・ヴァンダーマーク@新宿ピットイン(坂田明、八木美知依参加)
4 Corners『Alive in Lisbon』(ヴァンダーマーク、ニルセン・ラヴ参加)
スクール・デイズ『In Our Times』(ヴァンダーマーク、ニルセン・ラヴ参加)
浅川マキ『幻の男たち』 1984年の映像(近藤等則参加)
浅川マキ『ふと、或る夜、生き物みたいに歩いているので、演奏者たちのOKをもらった』(坂田明参加)
嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』(近藤等則参加)
坂田明『ひまわり』
大森一樹『風の歌を聴け』(坂田明出演)
ジャン・ユンカーマン『老人と海』(坂田明参加)
ジョン・ブッチャー+大友良英、2010年2月、マドリッド
井上剛『その街のこども 劇場版』(大友良英参加)
テレビドラマ版『その街のこども』(大友良英参加)
テレビ版『クライマーズ・ハイ』(大友良英+サインホ)
サインホ・ナムチラックの映像(大友良英参加)
『鬼太郎が見た玉砕』(大友良英参加)


内澤旬子『世界屠畜紀行』

2013-10-20 08:23:00 | 食べ物飲み物

内澤旬子『世界屠畜紀行』(角川文庫、原著2007年)を読む。

奇書である。しかし、なぜ奇書なのかと言えば、ほとんどの人が視ようとしない「屠畜」あるいは「」をマジマジと観察し、「なぜ肉屋は差別の対象となるのか」という点を、正面から問いかけるからである。

著者は、身銭を切って、世界中の屠畜場を訪ね、具体的に、家畜から肉が出来ていくプロセスや、そこで働く人たちのライフスタイル、意識といったものを掘り出し続ける。それらは国や地域によって驚くほど異なっている。差別も、あったりなかったり、隠れていたり。

日本においては、差別と歴史とが密接に関連している。しかし、本書を読んでいると、現在は、「視えない構造」による歪みをこそ問題とすべきではないのかと思い知らされる。「肉以前」について、向こう側として判断中止としているからである。

●参照
平川宗隆『沖縄でなぜヤギが愛されるのか』(本書にも平川氏が登場)
森達也『東京番外地』、『A』
『差別と環境問題の社会学』 受益者と受苦者とを隔てるもの


ガネリン・トリオの映像『Priority』

2013-10-19 10:35:04 | アヴァンギャルド・ジャズ

ガネリン・トリオのライヴDVD、『Priority / Live at the Lithuanian National Philharmony Vilnius 2005』(NEM Records、2005年録音)を観る。

Vyacheslav Ganelin (p, key, perc)
Petras Vysniauskas (as, ss)
Klaus Kugel (ds, perc)

かつてのウラジーミル・チェカシン、ウラジーミル・タラソフとの元祖ガネリン・トリオではなく、はじめて知るサックス奏者とドラマーである。

ヴャチェスラフ・ガネリンはたいへんなテクニシャンである。片手で高速のパッセージを弾きまくりつつ、もう片手で、ピアノの上においたキーボードを操る。その出し方が重力にしばられておらず、静かなる展開から、交響曲のような雰囲気に、まったく唐突にシフトする。飄々と、簡単に引き出しから出すように、である。そしてメロディーは、親しみやすいものからパイプオルガン曲のような壮大なものまで。ときにはクラウス・クーゲルとのパーカッション合戦。

主流からの逸脱というより、逸脱そのものが主流となっている。面白い。

●参照
セルゲイ・クリョーヒンの映画『クリョーヒン』
ロシア・ジャズ再考―セルゲイ・クリョーヒン特集
現代ジャズ文化研究会 セルゲイ・レートフ


旨い釧路

2013-10-18 07:50:25 | 北海道

所用で釧路に足を運んだ。台風26号のために大揺れしながらも、何とか辿り着いた。

ちょうど初雪が降った日で寒く、繁華街・栄町の「あぶり屋」に入って一安心。頭のなかには「秋刀魚」しかない。タクシー運転手も、いやここで食べたら他の秋刀魚は食べられませんよなどと煽ってきた。

そんなわけで、秋刀魚の刺身と塩焼、ししゃも、真ほっけ、ザンギ、白レバー。秋刀魚は脂がのっているし、ザンギは大きくて柔らかい。どれもこれも旨い。

所用を終えて、翌日の昼は、「和商市場」に立ち寄った。もう1時過ぎだというのに、多くの人。目当ては、飯の上に好きなネタをのせてもらう「勝手丼」である。店の人は、途中でも、あっまだご飯が見えますよ!などと煽ってくる。釧路は煽りの街か。

秋刀魚、鯨、いか、ほっけ、鮪、しめ鯖、蟹爪、蟹の子を選んだ。もうこっちのものだ(何が?)

空港には、佐藤紙店とソメスサドルとが共同で出店している。ここで、佐藤紙店の釧路オリジナルインク「夜霧」を入手した。どの万年筆で使ってみるか・・・。

●参照
旨い札幌
「らーめん西や」とレニー・ニーハウス


三枝充悳『インド仏教思想史』

2013-10-18 00:34:48 | 南アジア

三枝充悳『インド仏教思想史』(講談社学術文庫、原著1975年)を読む。

ゴータマ・シッダールタが創始した教えがシンプルであったのに比べ、その後、仏教世界は際限なく拡がっていった。ブッダはひとりではないし、宗派も多い。付随する物語も多い。信心ゼロのわたしにとっては、都度調べてはみるものの、結局よくわからぬパッチワークの世界にしか思えない。(もっとも、無宗教などと言うこと自体が異常だと捉えられる国もあるから、いつも便宜的に「Buddism」と書いたり答えたりしている。)

本書は、仏教が、どのような展開をみせ、それがどのような意味を持ち、どのような時代の要請に応えてきたのかを、わかりやすく説こうとしている。もちろん、わかりやすいが、難しい。仏教とは偉大な普遍哲学なのだということを思い知らされるだけでも、読んだ意味があったのかもしれない。

それだけかと言われそうだが、それだけである。求めなければそんなものである(たぶん)。

密教が次第にヒンドゥー的になっていき、その結果、仏教はインドにおいてヒンドゥーに吸収され、仏教自身は凋落したのだとする説明には納得するものを覚えたのだが、実際のところどうなのだろう。

●参照
末木文美士『日本仏教の可能性』
仏になりたがる理由(義江彰夫『神仏習合』について)
荒松雄『ヒンドゥー教とイスラム教』


元ちとせ『ハイヌミカゼ』

2013-10-15 22:59:23 | ポップス

ふと久しぶりに、元ちとせ『ハイヌミカゼ』(Epic、2002年)を取りだして聴いたところ、自分でも意外なほどに刺さってしまった。

実は、これをはじめて聴いたのは、大ヒットして何年か経ってからだった。「何年に一度の声」といったコピーを目にして、どうせ商売で煽っているだけだろうと決めてかかっていた。実際に、テレビで歌声を聴いて、何だか下手だなあと思っていた。

そんなことはなかった。

奄美のこぶしが過剰である。それまでの上手い歌とは違う。録音であれば、多少操作もしているだろう。しかし、これは本物だった。やがて聴き惚れて彼女の歌を集めはじめるのに、時間はかからなかった。

このCDは、何しろ良い曲が揃っている。ヒット曲「ワダツミの木」だけではない。山崎まさよしが作曲した「ひかる・かいがら」のしっとりした情感。切々とした気持を前に吐き出しまくる「初恋」。静かな抑制から哀しさに転じる「ハイヌミカゼ」。そして、ハシケンが作曲した「君ヲ想フ」では、まるで天に音で挑戦したかのような「Groovin' High」(ディジー・ガレスピー)よろしく、あり得ないようなメロディーに乗って、血管が切れそうな勢いで、想いを繰り返し天に叫び続ける。

ずっとファンではあるのだが、その後、声量が落ち、鼻から抜けるような発声に違和感を覚えるようになっていた。ところが、最近のライヴをテレビで観たところ、声がもとの力を取り戻しているように聞こえた。本人のブログを読むと、新たなレコーディングを行っているらしい。期待。

●参照
元ちとせ『Orient』
元ちとせ×あがた森魚
『ウミガメが教えてくれること』
元ちとせ『カッシーニ』
元ちとせ『Music Lovers』
元ちとせ『蛍星』
『ミヨリの森』、絶滅危惧種、それから絶滅しない類の人間
小田ひで次『ミヨリの森』3部作


須田一政『凪の片』、『写真のエステ』、牛腸茂雄『こども』、『SAVE THE FILM』

2013-10-14 20:41:41 | 写真

昨日は、友人の研究者Tさんと、写真展をハシゴ。

■ 須田一政『凪の片』(東京都写真美術館)

須田一政という写真家は、どうも作風や個性を捉えられないように思っている。作品の方向性は多彩である。それでも、すべて「オドロオドロシイ」とでも言うのか、まるで妖怪を見るような気にさせられてしまう。

この個展は、これまでの代表作のいくつかを紹介するものだった。すべて銀塩プリントなのだが、吸い込まれそうな恐怖を覚えるものが少なくない。

おそらくは低感度の白黒フィルムを使っており、粒子を感じさせない。そして、印画紙の端々まで、ぎっちりと、非常に巧みに焼き込んである。光と影と瞬間の偶然性に賭けたものではないのだ。レンズで捕捉した<光>ではなく、<現実>という底知れぬ魔を、執念深く焼いていくような感覚。

帰ってから思い出した。この人が、ニッツォのスーパー8カメラで撮影した8ミリフィルムを35ミリに複写した『OKINAWA』という作品群があった(何年か前に雑誌で観た)。あらためて観てみたいのだが、何かにまとまっていないだろうか。

■ 『写真のエステ-コスモス 写された自然の形象-』(東京都写真美術館)

木、火、土、金、水というテーマによって(曜日ではない)、収蔵品を紹介する企画。好きな写真家の作品も、はじめて聞く名前の作品もある。水越武による日本の原生林や、石元泰博による有無を言わさぬ構成の桂離宮が印象的だった。

■ 牛腸茂雄『こども』(ナディッフ)

『SELF AND OTHERS』などに収録された子どもの写真。はじめて目にしたときの衝撃はもうないが、それでも、観るたびに、静かな動揺のような気持を覚える。今度、牛腸が製作に携わったという16mmフィルムの上映があるそうだが、どのようなものだろう。

■ 『SAVE THE FILM - 7TH GELATIN SILVER SESSION』(六本木アクシスギャラリー)

銀塩にこだわった、多くの写真家たちによる作品群。言うまでもないことだが、如何にデジタルが精密描写の方向に進もうと、フィルムの力は永遠に侮れない。それは観ればわかることである。どれもが素晴らしいのだが、中でも、中藤毅彦による高感度フィルムでのパリ、広川泰士による大判での橋、広川智基による雪山(カラーで白黒プラスアルファを生み出す感覚?)などが印象的。

■ この日食べたもの

恵比寿の「ビール坂」でお祭りをやっていて、女川町の人たちがつみれ汁を無料で振舞っていた。さっそく並んで頂いたところ、つみれがごろごろと沢山入っていた。勿論、旨くないわけがない。すきっ腹が落ち着いた。

ランチは、恵比寿の「海南鶏飯食堂2」にて、ハイナンチキンライス。シンガポール名物だが、今年シンガポールに初めて上陸したときに食べる機会がなかった。上品な味で満足。

歩き回った後、新宿の「海森」(かいしん)という沖縄料理店に入った。なんと、「ゴーヤー入りビール」なるものがあった。身体によさそうだと思って飲んでみると、これが悪くない。ただ、ビール感が希薄だった。


アラヴィンド・アディガ『Last Man in Tower』

2013-10-14 08:31:49 | 南アジア

アラヴィンド・アディガ『Last Man in Tower』(2011年)を読む。

これが発表された2011年、ニューデリーの「Jain Book Depot」で買ったのだが(値札を見ると6.99ルピー、当時は円高だったから1000円を割るくらい)、そのまま2年間放置していた。400頁を超えるボリュームのうえに、いきなりさまざまな人物が登場する群像劇ゆえわかりにくく、最初の何頁かを読んで後回しにしてしまったのだった。

改めて読んでみると、最初のうちに何人かの名前を頭に入れてしまえば、実は人間関係はそれほど複雑ではないことがわかった。

舞台は、ムンバイのスラム街にある古いアパート。ある日、突然、デベロッパーがやってくる。このアパートを取り壊し、再開発したいというのである。立ち退き料として住民に提示された金額は、相場のざっと2.5倍。それでもモトが取れる、野心的なプロジェクトなのだった。

動揺する住民たち。各々が生活上の困難を抱えており、ほとんどが立ち退くことを決意する。しかし、反対する者が3人。1人は、「バトルシップ」という渾名の女性「コミュニスト」であり、デベロッパーという存在をまったく信用していない。オカネも渡されないに違いないと決めてかかる有様だ。それでも、葛藤の末、折れてしまう(部屋にアルンダティ・ロイのポスターが貼ってあるということが可笑しい)。2人目は、デベロッパーの手先に妻を脅され、恐怖のあまり立ち退きを受け容れる。

そして、「塔の最後の男」。元教師であり、思索を好む。鉄道事故で死んだ娘が残したアパートの絵を大事に持ち、その思い出や、他の住民との生活を壊されたくないために、頑として立ち退こうとしない。しかし、彼が受け容れない限り、同じアパートの住民は立ち退き料を受け取れないのである。たとえば、知能の発達が遅れた子どもを持つ母親は、世話が大変なために別の場所に移りたいのに、彼が邪魔しているようにしか思えない。そんなわけで、子どものウンコを彼の部屋の前にまき散らして、どれだけ大変かわかってみろと怒鳴り散らす。それでも、彼は、この母親が、子どものためではなく自分自身のためにオカネが欲しいのだと決めつける。解り合えないとはこのことだ。

元教師、文字通りの四面楚歌。ついに、何人かの住民たちが、彼を殺す計画を立て、こわごわと実行に移す。

元教師、デベロッパーとその部下、住民たち。それぞれの事情や内面が実に人間的に描かれており、飽きないどころか、読んでいる間はハラハラして次の展開が気になってしかたがない。デベロッパーの弱さにも、「バトルシップ」の脆さにも、生活が大変な人たちにも、頑固で独善的な元教師にも、感情移入してしまうのだ。

作者の文章は面白く、かつ巧みだ。たとえば、元教師が法律事務所を訪れ相談するも、盾となる法律に「MOFA」だの「MHADA」だの「ULCRA」だのといった多くの複雑なものがあると知らされる場面。法律事務所に貼られているアンコール・ワットの写真を、まるで法律の牙城たるゴシック様式のように見ていた元教師は、パニックに陥る。

「Now this High Court and its high roof shuddered and its solid Gothic arches become shredded paper fluttering down on Masterji's shoulders. Mofa. MHADA. ULCRA. MSCA. ULFA. Mohamaulfacramrdama-ma-ma-abracadabra, soft, soft, it fell on him, the futile law of India.」

さすが、30代にしてデビュー作でブッカー賞を受賞した才人。他の作品も読んでみたいところ。

それから、くだらないことだが、インドにも「5秒ルール」があるのだということには笑ってしまった。食べ物を下に落としても、5秒以内に拾えば、バイ菌は付かないのである。

●参照
2010年9月、ムンバイ、デリー
アショーカ・K・バンカー『Gods of War』(ムンバイの作家)
ロベルト・ロッセリーニ『インディア』(ムンバイが舞台)
ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』(ムンバイが舞台)


ニコラス・ペイトン『#BAM Live at Bohemian Caverns』

2013-10-12 13:10:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

ニコラス・ペイトン『#BAM Live at Bohemian Caverns』(BMF Records、2013年)を聴く。

Nicholas Payton (tp, fender rhodes)
Vicente Archer (b)
Lenny White (ds)

ニコラス・ペイトンを聴くのは実に久しぶりだ。たぶん1995年前後に、神田TUCで彼のトランペットを目の当たりにしたのだが、パワーもソロ回しもこちらを威圧するには十分で、カップリングされていた日本側のメンバーが「ジャズを真似している」ようにしか聴こえなかったほどだ。

ただ、その頃のCDへの吹き込みは、『From This Moment』も『Gumbo Nouveau』もその迫力を捉えていないように思えて、その後手放してしまった。(カール・アレンをリーダーとするグループ「Manhattan Projects」でのペイトンは、朗々とした長いソロを吹いていて、なかなか素晴らしかった。グループ名に大きすぎる問題点があることを除いては。)

そんなわけで、なぜかレコード店で匂ってきて手にしたこの最新作だが、期待に違わない。なんと、ペイトンがフェンダーローズまで弾いている。しかも、ちょっとした味付けなどではなく、トランペットと同じくらいの比重を置いた演奏なのである。これがスタイリッシュ、実にカッコいい。もちろん、ペイトンのトランペットの音色はビカビカと光り輝いている。記憶にある音量を重ねながら、聴く。

ドラムスがあのレニー・ホワイトだということも、妙にハマっている。CDの真ん中あたり、ホワイト抜きでのベースとトランペットとの短いデュオ「Pannonica」(セロニアス・モンク)が息抜きになっていて、また盛り上げるという趣向。これは好きになった。