『料理と利他』(ミシマ社、2020年)も刺激的だったけれど続編の『ええかげん論』(ミシマ社、2022年)もおもしろい。自然に受け止められるようになったのは土井先生の考えに馴染んできたからかな。「ええかげん」とは相手との関係で動きを決められるようにしておこうという思想。相手とは一緒に食事をする人であったり食材であったり。自分もゆるやかに自由になれるかもしれない。
『料理と利他』(ミシマ社、2020年)も刺激的だったけれど続編の『ええかげん論』(ミシマ社、2022年)もおもしろい。自然に受け止められるようになったのは土井先生の考えに馴染んできたからかな。「ええかげん」とは相手との関係で動きを決められるようにしておこうという思想。相手とは一緒に食事をする人であったり食材であったり。自分もゆるやかに自由になれるかもしれない。
山口県の母親に電話であんた欲しいものはないかねえと聞かれたので、そういえば「せめんだる」って食べたことないなあと呟いたところ、すぐに送ってくれた。
小野田市(いまの山陽小野田市)にはセメント町というところがあって、小学生のころ、先生から赤黒2色刷の割引券をもらってそこの映画館にときどき行った。もちろん民営初のセメント会社・小野田セメント(いまは合併して太平洋セメント)から付けられた地名である。なお近くには日産化学にちなんだ硫酸町、日本化薬にちなんだ火薬町もある。つまり企業城下町。(ところで、京王線明大前駅の旧名は陸軍火薬庫にちなんで火薬庫前駅だったとか。)
セメント町の名物がつねまつ菓子舗の最中「せめんだる」。明治期にはセメントは樽に詰めて出荷されていた。なるほど樽、裏側には「つねまつ」の文字、中には小豆餡。これは美味しい。
下田孝「セメント製造技術の系統化調査」にセメント樽の説明があった
伊藤章治『ジャガイモの世界史 歴史を動かした「貧者のパン」』(中公新書、2008年)を読む。
ペルー原産のジャガイモがヨーロッパに伝わったのは16世紀のことである(インカ帝国を滅ぼしたスペイン兵のお土産)。それ以降の拡がりが、ブリュージュのフリット博物館にいろいろと展示してあり楽しい。
最初はお金持ちがちょっとだけ育ててみる程度だったらしい。それが爆発的に拡がったのは、気候変動や度重なる戦禍による食糧不足のためである。すなわち寒冷地でもちゃんと育ち、工夫すれば備蓄ができ、栄養価が高い。ジャガイモが世界各地に伝わっていなければ、現在の人口もずいぶん違ったものになっていただろう。コーヒーがヨーロッパの黒い血液だったとすれば(臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液』)、ジャガイモは黄色い活力である。
そんな重要な役割を担った食べ物であるから、歴史にもいろいろなところで関与している。英国の苛烈な支配に苦しんだアイルランドの住民たちは、小麦を英国人地主に納める一方で、残りの土地でジャガイモを育て生き延びた。それでも単作の弱さ、疫病が発生し、多くが米国へと移民として逃れていった。アイルランドの人たちを支えたのも、またケネディやレーガンの祖先を米国に連れていったのも、ジャガイモの影響である。驚いた。
日本には1600年頃にジャカルタから長崎へと伝わった。ジャカルタの旧名ジャカトラがジャガイモの名前の由来とされる。ここでもいろいろと苦闘の歴史があったようだ。アンデスは寒冷地であるから、長崎ではなかなか育たず、品種改良が進んだ。また、昭和初期の東北の凶作では、十分に種イモを育て蓄えるなどの対策が出来ておらず、ジャガイモの力が及ばなかったという。
中央アジアや東欧などジャガイモ食が盛んな場所に比べて、日本の一人当たりジャガイモ消費量は1桁少ない。こんな話を聞くともっと食べたくなってくる。そういえば本八幡駅の近くには、「じゃがいも」というジャガイモ料理専門店がある。ランチではいろいろな種類のジャガイモをひとつのプレートの中で試すことができる。こんどライヴのついでにまた行ってこよう。
町中華探検隊、北尾トロ、下関マグロ、竜超『町中華とはなんだ』(立東舎、2016年)を読む。
町中華再発見の立役者たちによるコラム集(?)。北尾トロ、下関マグロの両氏の文章はよく目にするが、お互いに意識して付けたライター名である。「町中華探検隊」(MCT笑)に遅れて参入した竜超さんはゲイマガジンの元編集長。
内容は、町中華である(笑)。ガイドブックでも何でもない。町中華に対するときの偏った心がけのサンプルである。
だらだらと読んでいると、突発的に笑いそうになる。「おいしさなんて求めない」。「油流し」(町中華を食べた後で舌に残った油をコーヒーで洗い流す)。「町中華グルーヴ」。「絶対言うまいと誓ったお世辞」。「舌の火傷は、危険を承知で宝探しをする腹ペコ野郎の勲章」。「町中華ブルース」。「化調風月」。「土着中華」。
天才だ。腹筋が痛い。
刈部山本『東京「裏町メシ屋」探訪記』(光文社智恵の森文庫、2018年)を読む。
すごく楽しみにしていて、発売日に買ってきた。なにしろ「板橋しっとりチャーハン」の提唱者である。「町中華」もこの人抜きには語れない(たぶん)。
いや面白い面白い。こういう分野にマニュアルは無粋というものかもしれないが、とはいえ知らない町の魅力的な店や、近くまでしょっちゅう足を運んでいるのに知らないエリアのことなどが書かれていて、つい食べログに登録しながら読み進めてしまう。もちろん行ったことのあるお店が出てくると、やっぱりねと嬉しくなる。
また著者の視線は、なにも食堂や飲み屋だけではなく、東京の古層にも向けられている。
退院後のフィールドワーク(=飲み食い)のきっかけがまた出来た。ありがとうございます。
●参照
『ザ・閉店2 ―定食・洋食篇―』(2017年)
『ザ・閉店2 ―定食・洋食篇―』(2017年)を読む。欲しいなと思っていたら新宿の模索舎にあった。文と写真はtwitterでもよく拝見する刈部山本さん。
すでに閉店した食堂が紹介してあり、下には、その代わりとして「ここで食え!」と現役の食堂。そのセットが1頁。ジャンルは定食屋などの食堂のみならず、町中華、大衆酒場、立ち食いそば、カレー、パン・喫茶。残念ながらジャンル的にすべてヒットする。
三原橋の半地下、シネパトス近くにあった「カレーコーナー三原」には結局入らなかった。神保町の「徳萬殿」には数回入ったのだが、普通の勤め人が半端ない大盛を平然と平らげているのを目撃して仰天した。7年以上離れていて、また近くの職場に戻ってきたら、すでに閉店していた。隣の「ふらいぱん」もその後閉店した。裏側(というか、すずらん通り側)の「キッチン南海」についても閉店という誤情報が流れて焦った。思い出はこのような人情食堂とともにある。
「アツアツのを頬張ると、やんわりと玉子とご飯の甘みがきて、焦げた香ばしさとネギのニガ甘さと合わさって、なんでもないこと極まれり! 量的にはそんなに多くないが、満足感がハンパない」とか、次々に読んでいるとやたら笑える。やっぱり「卵」より「玉子」だよなあ。「なんでもないこと極まれり」に真実がある。
で、昨日と今朝、神保町の「天丼いもや」と「とんかついもや」が3月末に閉店との報。これは誤報ではなさそうだ。悲しい。
とりあえず、「ここで食え!」をもとに食べログにいくつか登録した。
東の雄こと「神楽坂五十番」の肉まんを食べることができて満足していたところ、同じ神楽坂に別の肉まん店を発見してしまった。高級住宅街のなかに小さく構えた「フルオンザヒル」である。名前がいかしている。確かに神楽坂はヒルにあって、ひとつ226円の「プチ肉まん」を買って、お店の前でかぶりついていると自分が限りなくフルに見える。
それはそれとして、肉まんひとつだけなのにお茶まで出してくださって、とてもいいお店だった。プチとは言っても普通サイズで、ほどよくおやつ感覚。中身にはしっかり味が付いていてこれが東京。そんなに皮が厚くないからもたれない。ここも旨い。また汁をこぼしてしまった(フル)。
よしよし、肉まん豚まん評論家を目指そうかな(何も知らん癖に)。
===以下、同じ2016年12月。===
全日空の機内誌『翼の王国』に、長友啓典氏による「おいしい手土産」という連載があって、毎回なんとなく読んでしまう。その中に、確か、西の「551蓬莱」に対して東の「神楽坂五十番」だ、などと書いてあって、そのうちにと思っていた。ちょうど入院中の病院から神楽坂は近く、思いがけず好機到来。ひとつ買って、急ぎ足で病院に戻って食べた。
結構大きいので、まずはパカリと割ってみたら、ズボンに汁をこぼしてしまった。かなり肉汁が多い。味付けも東京もんらしくしっかりしている。汁が多くても中から皮に沁みてぐちゃぐちゃになるでもなく、ちゃんとホールドしている。割らずに、大きな小籠包だと思って食べるべきである。そして食後の充実感がある。
でも好みはやはり「551蓬莱」なのだった。
ところで、なぜ関西で「豚まん」、関東で「肉まん」なのかについては、一説によれば、かつての肉の供給状況と人びとの嗜好が関係している(小菅桂子『カレーライスの誕生』の受け売り)。つまり、日清・日露戦争が起こり、牛肉の缶詰が戦地に送られた結果、牛肉の産地を控える関西と市場に流通する牛肉が減った関東では、人びとの嗜好までが違ったものになってしまった。そして、カレーライスについても、大阪では、牛肉が8割近く用いられ(東京は3割)、逆に東京では、豚肉が4割以上用いられている(大阪は1割)。従って、肉と言ってしまえば関西ではそれは牛肉ということになってしまうから、あえて豚肉だと呼ぶのだというわけである。
===以下、2014年9月。===
所用で神戸に足を運んだついでに、三宮駅で関西豚まん対決。両方ともテイクアウト専門店である。
「三宮一貫楼」の豚まんは、はじめて食べる。具がぎっしりで肉肉しいと聞いていたのだが、実際にはそうでもなく、普通の具と皮とのバランス。具材が粗めに切ってあり、汁が多い。少ししょっぱい印象もあるが、その一方で、玉ねぎの旨味が嬉しい。
「551蓬莱」は大阪が本拠。以前に、伊丹空港の店舗で何度も食べた。あらためて「一貫楼」とくらべてみると、具材が小さく刻んであって粘性がある。また、皮自体がとても旨い。
対決の結果、両方旨い。というと勝負にならないので、皮が旨い「551蓬莱」がより好み。
左:三宮一貫楼、右:551蓬莱 (iphoneで撮影)
●参照
551蓬莱
佐藤洋一郎『食の人類史 ユーラシアの狩猟・採集、農耕、遊牧』(中公新書、2016年)を読む。
食べ物はそれぞれルーツを持つ。そして輸送はそう簡単ではなかった(とくにタンパク質)。このことが食文化の違いを生み出してきた。たとえばアジアにおいては「コメと魚」、ヨーロッパにおいては「肉とミルク」である。
原初は個々の交換や取引、のちの市場経済は、たしかに食と土地との結びつきを大きく歪めてきたことがよくわかる。ヨーロッパはもともと肉食中心の土地であった。パンは決して昔からの主食でもなんでもなく、中東にルーツを持つ麦(特に小麦)が入ってくるも、中世においても手に入れやすいものではなかった。アンデスをルーツとするジャガイモはさらに遅く伝播し、たくさん栽培されるようになるが、19世紀のジャガイモ飢饉によって多くの餓死者を出すことになった。多様性よりも食糧生産を重んじた結果である。
わたしたちは、日本の稲作は、弥生時代に、朝鮮半島からの渡来人がもたらしたものと学んできた。面白いことに、著者によれば、その物語もいまや確たる根拠を持たないのだという。縄文時代にも稲作が行われていた証拠があり、一方、朝鮮半島にも縄文土器が見つかっている。従って、時期の区切りも、移動のヴェクトルも、さほど単純ではなく、実際のところはよりファジーな交流によって稲作が広まってきたことになる。
他にも、小麦を中東から東方に運んだのは誰なのか、照葉樹林文化という観念が長い歴史のダイナミズムの中で本当に確実なとらえかたなのか、氷期の到来や温暖化の進行など環境変動が文明の盛衰をもたらしたとする説は本当か、など、興味深い指摘が本書にはたくさん散りばめられている。
しかし、残念ながら、専門論文とは異なる一般向けの新書としては、明らかに詰め込み過ぎだ。ああでもない、こうでもないと、饒舌な独り言をまき散らしている印象ばかりが残る。情報量を4分の1にして、よりわかりやすくまとめるべきである。
東西線木場駅の近くに「カマルプール」というインド料理店があって、ドラマ『孤独のグルメ』に取り上げられて以来、大人気である。わたしも夜中につい見入ってしまい、これはいつか行かねばと思っていた。近所に住む方によれば、その前から旨くて評判だっただけに、混んでいて入れないことは残念だとの言。そんなわけで、先日、電話をかけてあと30分したら行きますと予約を入れた。
看板メニュー(のひとつ)は「ラムミントカレー」というもので、文字通り、ソテーしたラム肉と、冗談のようにたくさんのミントが、カレーと混ざり合っている。ラムは新鮮で、ミントの効果もあってかまったく臭くない。しかも、ふつうはインドのカレーを食べたあとは口の中にスパイス世界ができるものだが、この場合は、妙にさっぱりして新鮮な体験だった。
他には「チーズクルチャ」や、チーズをゴルゴンゾーラにした「ゴルゴンゾーラクルチャ」なるものがある。チャパティやナンのような小麦粉の皮の中に、やはり冗談のように大量のチーズを封じ込めて窯で焼いたもので、これもチーズ好きにはたまらない。さらに旨そうな料理がたくさんあって、こんどまた行こうと心に誓っている。
日暮里は昔住んでいた近くの街で、千駄木との間にある谷中銀座はいつも賑わっている。その端っこに、「夕焼けだんだん」という階段があって(つまり、山の手の東端の細い山である)、それをのぼったところに「深圳」という小さい店がある。わたしが住んでいたころには多分なかった。
なお、階段の下には「シャルマン」というジャズ喫茶や(学生の頃には敷居が高くて入ったことがない)、「ザクロ」というペルシャ・トルコ料理の店や(ここがまた凄まじいところなのだが)、「蟻や」というとんかつ屋(篠山紀信が宮沢りえを撮った『Santa Fe』が当時置いてあって興奮しながら食べた)なんかがある。
その「深圳」が最近評判のようなので、わざわざ電車に乗って行ってきた。目玉は「ラム肉とパクチーの炒め飯」である。静岡の地ビール「パンダビール」を飲みながらしばらく待っていると、大迫力の皿が運ばれてきた。ご飯とラムの上に、野っ原のように大量のパクチーが載せてある。それが目当てだったのではあるが、実物を見ると驚く。キワモノではない。下のコッテリした肉飯とのバランスがとてもよくて、あっという間に夢中になって平らげてしまった。
それにしても、どちらもラム肉に対するカウンターとしての、生のスパイス。過剰なのに、旨さにしか貢献していない。
パクチーはシャンツァイでもあり、コリアンダーでもある。すなわちカレーに使われているわけであるから、カレーへのカウンターとしてパクチーを大量に入れてもまた旨いのではないか。あるいは大量のパセリであればどうなるだろう。
いまサウジアラビアに居て、先週ジャカルタの空港で食べた揚げバナナのことを思い出している。
衣の下は半分溶けていて、まあそれほど旨いものとも思えなかった。Wikipediaによれば、揚げバナナは、インドネシア、マレーシア、シンガポール、フィリピン、ブルネイなどで食べられている。タイ・バンコクの路上では、揚げバナナではなく焼きバナナを多く見かけるのだが、訊いてみると、旨いかどうかは店にもよるし、クレープに挟んだもの、そのままゴロゴロと焼いたものなど色々あるのだという。
揚げバナナに使うバナナは熟する前の青いものだという。『アントニオ猪木自伝』には、家族で移民としてブラジルに行く途中、パナマで途中下船した話があった。猪木氏のおじいさんは、当時まだ日本では珍しかったバナナを買ってきてたくさん食べたところ、毒にやられて亡くなってしまった。では揚げバナナも焼きバナナも、熱で毒が分解されるのだろうか。
どうでもいいようなことではあるが。
高野秀行『移民の宴 日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活』(講談社文庫、原著2012年)を読む。
他の国においてと同様に、日本には多くの外国人コミュニティがある。たとえば自動車工場の街にブラジル人が多く住んだり、「2000年問題」のときのIT対応として、成田や羽田に行きやすく金融機関にも東西線で行くことができる西葛西~行徳にインド人が増えてきたり。あるいは、沖縄人が集まる鶴見に、かつて移民としてブラジルに渡った沖縄人の子孫が住み着くようになったり。あるいは、「君が代丸」で出稼ぎにきていたコリアンが集まっていた旧・猪飼野に、さらに済州島から逃げてこざるを得なかった人々がたどり着いたり。そのようなもっともらしい理由が見つかる場合があるとはいっても、むしろ、同胞や仲間がいるから、特定の場所に集中するようになるという理由のほうが実態に近いように思える。
理由や経緯はどうあれ、それらのコミュニティでは、当然、他の日本とは異なる食文化が発達する。本書は、そのような場を訪れ、何を食べているのかについて体験したルポである。成田=タイ、神楽坂=フランス、館林=ムスリム・特にミャンマーの被弾圧民族ロヒンジャ、鶴見=沖縄とブラジル、西葛西=インド、下目黒=ロシア、あちこち=中国の朝鮮族、など。どこの事情を読んでも、日本にいると感じることが難しい同胞意識がコミュニティを形成せしめていることがよくわかる。そして、物語として理解しやすい「らしさ」もあったりなかったり。
新鮮なことは、たとえばタイ寺院、モスク、ロシア正教の教会、ヒンドゥー寺院など、信仰の場がコミュニティに欠かせないということだ。僧侶の大來尚順さんによると、日本の地方でも「駆け込み寺」的な文化は残っているというし、むしろ東京のドライな空間のほうが非人間的で異質なのかもしれない。
何しろ本書を読んでいると猛烈に腹が減ってくる。とりあえず、西葛西のインド料理店と、鶴見の沖縄とブラジルの料理店には足を延ばしてみようと思うのだった。
●参照
高野秀行『ミャンマーの柳生一族』
最相葉月『ナグネ 中国朝鮮族の友と日本』
朝鮮族の交流会
中国延辺朝鮮族自治州料理の店 浅草の和龍園
金賛汀『異邦人は君ヶ代丸に乗って』
藤田綾子『大阪「鶴橋」物語』
上原善広『被差別のグルメ』(新潮新書、2015年)を読む。
少数民族や、離島や、被差別などの出自であるために、かつて(あるいは今も)、いわれなき差別の対象になった人びと。その社会的、地理的な障壁が、独特の食生活を発展させてきた。本書は、知られざるそれらの食を体験し、味わい、背景と結びつけようとする。かつては広く取り上げるには困難なテーマであったものを、回避する視線を正すことによって、貴重な食文化として記録しようというものである。視線が逸れていくからこそ、たとえば、「ホルモン」は「放るもん」からきたという、それ自体が差別的でもある言説を生み出すことになる。
大阪の焼肉や、新大久保のアイヌ料理店「ハルコロ」など、知っている食もある。久高島のイラブー料理(いちど訪れたとき、その前日に何年かぶりにイラブー漁を復活させたと聞いた)や、粟国島のソテツ料理や、大阪のアブラカス(カリカリに揚げた大腸)など、知ってはいても体験したことがない食もある。聞いたこともない食もある。サハリンに樺太アイヌ以外の少数民族がいたとは知らなかったし、そのニブフやウィルタが伝える食文化にも驚く。なんと、鮭の皮からゼラチンを取り、果実とともにゼリー状のデザートを作っていたというのである。
何しろ滅法面白く、すぐにでも食べてみたくなる。食を見ることは人を見ることか。
●参照
新大久保のアイヌ料理店「ハルコロ」
行友太郎・東琢磨『フードジョッキー』
枝川コリアンタウンのトマトハウス
枝川コリアンタウンの大喜
藤田綾子『大阪「鶴橋」物語』
鶴橋でホルモン(与太話)
90年代頃の東京には旨いうどん屋がなかった。いやあったのかも知れないが、いまのようにネットで情報を入手できるような状況にはなかった(そういえば、『ぴあグルメMAP』を愛用していた)。もちろん、立ち食いのうどんはまるで違う代物であった。21世紀に入り、「はなまるうどん」が東京に進出して店舗を増やしてきたことはかなり嬉しいことではあったのだが、やはり、高松の「源芳」や「かな泉」で食べたうどんは別次元で、そのような一期一会のうどんを食べたいと願っていた。
そんなわけで、2003年、駿河台下に讃岐うどんの「丸香」ができたときはセンセーショナルだった。先日久しぶりに行ってみると、相変わらず旨すぎるうどんだった。麺にはコシがあり、いりこ出汁。以前は「かま玉」が好みだったが、いまは「かけ」こそが王道だと思っている。ちくわ天、げそ天、いろいろなすり身の丸天などをのせて食べるときには幸福感で一杯になる。
この「丸香」の磁場がまだ消えていない神田淡路町に、やはり香川県を本拠とする「一福」が店を開いたというので、矢も楯もたまらず駆けつけた。「かけ」に、ちくわ天とげそ天。やはりいりこ出汁ながら、「丸香」よりもマイルドな味である。麺も「丸香」ほど自己主張するコシの強さがあるわけではない。もちろん、キャラが立った「丸香」も、やさしい印象の「一福」も、どっちも旨い。
めでたしめでたし。
日本橋にずいぶん昔からあるラーメン屋「ますたに」。向かい側にある洋食屋「たいめいけん」の行列にひるんだらこちらである(値段が高いという理由もある)。なお、「ますたに」の行列にもひるんだら、その先には「九州じゃんがら」がある。
先日久しぶりに足を運んで、一口目を食べたときに「これだこれだ」と味を再確認する。鶏ガラ出汁で、味が濃く脂もたくさん入っているのだが、しつこくないし、食べたあとで不自然に喉が渇くこともない。いつ食べても旨い。トッピングの海苔がスープに溶けやすいのもいい。京都のラーメンでは、「第一旭」、「新福菜館」と並ぶ名店である(実はほかに知らない)。
そんなわけで、コンビニで「ますたに」のカップ麺を見つけ、食べてみた。
感想。まったく似ていない(笑)。日清食品は、以前になんばの「千とせ」のカップうどんも出していたが、これも全然似ておらず普通のカップうどんだった。近づけるのがパッケージだけでは駄目である。
●カップ麺
博多の「濃麻呂」と、「一風堂」のカップ麺
「屯ちん」のラーメンとカップ麺
旨いハノイ(「フォー24」)
なんばの、「千とせ」の、「肉吸」の、カップ
なんばの「千とせ」のカップ、その2