東京国立博物館で「最澄と天台宗のすべて」展を観てきた。
仏教も仏教美術も好きなのだが門外漢だからすぐに忘れ、そのたびに勉強する。頼りにするのは末木文美士『日本仏教史』。もう四半世紀前に読んで、良書だと思ったのでフィルムルックスを貼ってまだ大事にしている。
それによれば、エリート最澄はせっかく入唐しながら「自らの知識が時代に遅れつつあること」に焦りをおぼえ、帰国後の日本で求められた「密教的な呪法の力」に対して最澄のそれは「付け焼き刃」であったから、年下のライバル空海に教えを乞うた。だから両者の交流とは言ってもその多くは最澄の側からの密教経典の借用だった。今回の展示ではそのあたりの屈折した関係がさらりと触れてあるのみで、密教についても並列的に展示するにとどめている印象。もちろんことさらにドラマチックな対立を見せなくても良いのだろうけれど、きっとそのほうがおもしろい。だから、「最澄は「最も澄む」と書くが、彼は澄みきった深い淵のような孤独と誇りに生きてきた僧であるかにみえる。それに対して空海というのは空と海である。それは果てしなく巨大な空であり海である。その巨大なもののなかには、いささかいかがわしいもの、汚いものもないわけではないが、それらのいかがわしいもの、汚いものも、空のような海のような、はてしない巨大な世界のなかではいつの間にか浄化されてしまうのである。」(『芸術新潮』1995年7月)などという梅原猛の文章に煽られるわけである(いや、自分が)。じっさい、空海が下賜された東寺の「何でもあり」の仏像群を見たとき圧倒されて脳内快楽物質が分泌された記憶があるし、納得できなくもない。(おかざき真里の漫画『阿・吽』はそのようなものらしい。大人買いしなければ。)
それはともかく今回の展示物は刺激的。いくつもの「法華経」は引いてしまうほどゴージャスで、金箔を散らしたり、金泥で書いたりしている。貴族に華美さが好まれたこともあるのだろうけれど、やはり、宗教は語りなおされるたびになにかが付加されて強力になっていくのかなと思えた。
●参照
末木文美士『日本仏教の可能性』
国宝・阿修羅展
東寺、胡散臭さ爆発
仏になりたがる理由
三枝充悳『インド仏教思想史』
楠元香代子『スリランカ巨大仏の不思議』
杭州の西湖と雷峰塔、浄慈寺
山西省・天寧寺
山西省のツインタワーと崇善寺、柳の綿
北京のチベット仏教寺院、雍和宮
天童寺とその横の森林
阿育王寺(アショーカ王寺)