小川紳介『三里塚 第二砦の人々』(1971年)を観る。
前年の『三里塚 第三次強制測量阻止闘争』(1970年)に続く作品。住民の反対により用地取得が進まず、土地収用法に基づく行政代執行が政府により実行され、公団(新東京国際空港公団)と機動隊とによる強制的な乗り込みをとらえている。
この作品から完全な同録をはじめており、そのためかカメラが回る音が聞こえる。また、映像と音とがスムーズにつながり、粗削りさが少し姿を消して普通のドキュメンタリー映画に近づいた感がある。前作までは同録可能なナグラを買うオカネがなく、ボリューに工夫して録音機をくっつけていたような使い方だったようだ。
1971年2月24日。農民(住民)たちが戦略を練っている。いくつもの砦が日々補強されてゆき(そのうち第二砦の人々に焦点を当てた作品ということである)、自分たちを鎖でそこにくくりつけるという方針を決めている。なぜか妙に愉しそうだ。ヘルメットについて「命が惜しけりゃこれかぶっだ」、子供と一緒に鎖でくくるときには「子犬ができた」と、軽口まで叩いている。
2月25日。支援部隊の学生らしき者が、なるべく穴に入って長期戦を戦うようにと、また、異を唱えられても「決定だから」「こういう戦いもあるんですよ」などと、上から滔々と述べている。それに対して婦人行動体(農民)の女性は「学生は、よお」と不満そうでもあり、また、「社会党がうろちょろしてんのは、おれらのためじゃないんだよ、幹部説得だよ」と言い放ったりもして、外部からの支援部隊との多少の軋轢も感じさせる。ただ、このときはそれ以上のものではないことが、映画全体を通じて感じられる。
3月3日。第一砦が狙われた。公団はなんと、全国から日当2万円で臨時職員を雇っている(いまでは抵抗側が根拠なく揶揄されるような手法である)。被害が大きく、総括として、無抵抗に近い守りではもう戦えないのだという理解となった。
3月5日。いつも目立つ農民女性が、無抵抗ではなくどのように抵抗しようかと話す後ろに、石牟礼道子さんの姿が見える(研究者のTさんに教えていただいた)。今回は、逮捕者を出さないよう、支援者の抵抗に対して公団と機動隊が退いたときに、婦人行動隊が前面に出てくるという作戦になった。逮捕者は非常に少なかった。
3月6日。第四砦で支援部隊が狙いうちにあった。反対同盟の住民たちは近づけず、第二砦の山の上から「やめろ!」と口々に叫ぶことしかできない。ある農民の男性は、「かわいそうでかわいそうで見てらんねえな」と呟く。そしていくつかの砦がこわされた。
戦いのない時間に、農民たちが集まって、考えを述べ合っている。実質的な審議なく国策として土地が取り上げようとされてきたこと、権力は怖ろしいものだということ、世論に直接ぶつけられないはがゆさ、相手が同じ人間だと思えないこと、それらが自民党の政策によるものであること、社会党はあてにならず頼る政党がないこと。内省し、考え、興奮し、話す老人の顔を凝視するカメラは実に粘っこい。
粘っこいといえば、このあとの展開こそ粘っこい。「穴に入ってみよう」とのキャプションのあと、抵抗のため掘られた穴に入り、じっくりと観察するかのような時間が続くのである。トイレの臭さ、通風孔の風、暑さと湿気、出てくる虫やネズミのこと、敵の侵入を阻むための格子。後年の『ニッポン国古屋敷村』や『1000年刻みの日時計-牧野村物語』における、自然と社会のなかに我が身を置いて観察する過激なスタイルの萌芽が、すでにここに見られるわけである。
穴を掘った農民は得意気に語る。そもそも入ることができるのは選抜した同盟員のみ、学生は入れない、と。ここには、「自分で掘った穴にしか怖くて入れない」という心理の他にも、大地の下とまで一体化できるのは住民だけだという意識もあったのだろうか。
3月25日。いくつかの穴がこわされた。
4月下旬。穴はまた同盟員により横に掘り進められている。やはり、笑いながら。そして公団は、近いうちに残った穴と放送塔を強制撤去すると公表した。
●参照
小川紳介『1000年刻みの日時計-牧野村物語』(1986年)
小川紳介『牧野物語・峠』、『ニッポン国古屋敷村』(1977、82年)
小川紳介『三里塚 第三次強制測量阻止闘争』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線・三里塚』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)
『neoneo』の原発と小川紳介特集
大津幸四郎・代島治彦『三里塚に生きる』(2014年)
萩原進『農地収奪を阻む―三里塚農民怒りの43年』(2008年)
鎌田慧『抵抗する自由』 成田・三里塚のいま(2007年)
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』(1995年)
前田俊彦編著『ええじゃないかドブロク』(1986年)
三留理男『大木よね 三里塚の婆の記憶』(1974年)