Sightsong

自縄自縛日記

久高島の映像(1) 1966年のイザイホー

2007-10-31 23:30:38 | 沖縄

琉球神話開闢の地とされる久高島の、もっとも知られた祭祀はイザイホーである。12年に1度だけ行われ、1978年を最後に行われていない。久高島に住む父と母から生まれた、30歳から41歳までの女性のみが、神として、このイザイホーに参加することができる。いまでは成り手がいないわけだ。

最後のひとつ前のイザイホーを記録した映画、『イザイホウ』(野村岳也、1966年)が、早稲田大学で上映されたのを観た(2007/10/31)。この時点でもう最後のイザイホーになるかもしれぬということで、記録として撮らせてもらったが、上映は望まれず今の今まで眠っていたのだ、との野村氏の弁。今回は本土での初上映だった。

久高島については、行ったら身体に変調をきたした、とか、変なことをしたところ祟りにあった、とか、たまに沖縄を訪れるだけの私の耳にもさまざまな話が聞こえてくる。今にあっても畏敬の対象と言っていいのだろう。現在の人口は200人強だが、映画が撮られた40年前には600人くらいいたようだ。

映画は、半漁半農の久高島の姿を描くところからはじまる。男は漁師になり女は農業をしつつ神にもなる。昔、沖縄近海の船長には慶良間と並んで久高の出身者が多く、大人になれば半強制的に漁師になっていたらしい。既に亡くなった西銘シズさんの声で、男が海に出て浮気をしても当然許すものだったと語られる。海難事故が多く、男にとっては「板一枚下は地獄」だから、土地や家や家族を護る女性が神になりえたのだ、という話もあった。このあたり、吉本隆明『共同幻想論』において母系社会だと論じた、その根拠には組み入れられていなかったと思う。

また、土地は共有を原則としており、農地を十に、さらにそれらを十五に分割して分け与えられていたと解説される。人口が3分の1に減少した今でもその構造は変わっていないかもしれないが、その分、放棄された農地があるのだろうか。ただ最高の神職者の特権はあり、私有地や、イラブー(海蛇)を獲って燻製にする権利は、故・久高ノロさんにあったという。私が久高島を訪れた一昨年、その前日に、何年ぶりかでイラブー漁を復活させたと港で聞いた。

映像はいよいよ祭祀を映し出す。女性は皆白装束だ。新たに神になるナンチュは白布で頭を縛らず、ばさばさの黒髪を出している。そしてノロも、ほかの既に神である女性たちも、ナンチュも、手を叩きつつ「エイファイ、エイファイ」とかなり速いピッチで言いながら歩み続ける。ゆっくりと厳かなのではなく、多くの白い神とこれから神になる人とが繰り広げる群舞がもたらす恐ろしさが感じられる。これが形を変え、何日も行われる。

イザイホーが終わった後、皆が笑顔で踊る。久高ノロさんの見事な踊りも見ることができた。

ちゃんと映像を観たのは初めてだが(実は某所で記録を少し見た)、本当に凄い。しばし呆然としてしまう。魅力的とか何とかは、その後に頭で理解される。 故・岡本太郎が目撃して『沖縄文化論』(中公文庫、1972年)に書いたイザイホーは、このときである。もっとも、入ってはいけないタブーをかなり無視したために、沖縄ではこのときの岡本太郎のことは評判がよくないようだが・・・。写真家である故・比嘉康雄が記録したイザイホーはこの12年後、1978年の最後のイザイホーである。確かに『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』(集英社新書、2000年)の写真を見ると、映画よりも参加者の神女が少ないようだ。

ところで、先日、沖縄一坪反戦地主の方に何故か頂いた、伊波普猷の『琉球人種論』(那覇小澤博愛堂、1911年)を読むと、アマミキヨ・シネリキヨの琉球開闢神話について、いくつかの興味深い仮説があった。曰く、アマミキヨのアマミは奄美と通じており、さらには古事記と類似している。また、さまざまな言葉がアイヌと共通している。だから、共通の祖先を大陸に持っており、本土に渡ってきた祖先の一部はアイヌとなり、一部は本土に残り、一部は九州から奄美を経て久高島に上陸し、それから知念に進んだのだと。この百年近く前の説がどの程度妥当でどの程度覆されているのか、じつは全く知識がないので評価できない。

久高島の記録映画は、今週の土曜日(2007/11/3、中野PlanB)、『久高オデッセイ』(大重潤一郎、2006年)も観るつもりだ。

●『イザイホウ』 → リンク

●『久高島オデッセイ』 → リンク


斎場御嶽から望む久高島(2005年) ミノルタオートコード、コダックポートラ400VC


米兵による凶悪犯罪は「たまたま」ではない

2007-10-30 23:59:52 | 沖縄

山口県の岩国米軍基地に所属する米兵が、日本人の女性に性的暴行を加えたとされる事件があった。これの状況が実際にはどうだったのかについては、知らない以上、何とも言いようがない。私たちがしなければならないであろうことは、常に受苦の感情移入をしようと試みること、それから、この種の事件が「たまたま」ではないことを理解することだろう。

『イアブック核軍縮・平和2007』(ピースデポ、高文研)によると、米軍人による刑法犯検挙件数は、2005年に93件(うち凶悪犯5件)、2006年に76件(うち凶悪犯4件)である。また、米軍基地が存在する都県(青森、東京、神奈川、静岡、広島、山口、長崎、沖縄)の06~07年の合計は、168件(うち凶悪犯9件)にのぼる。

また、『被害者の会通信 第25号』(米軍犯罪被害者救援センター)でも、今年に入ってから沖縄など国内のみならず、韓国やイラクでも数多く米軍が関与した犯罪が報道されていることがわかる。

件数のみを追いかけることは、おそらくは、あまり意味がない。表面化しない犯罪が数多くあるだろうことが、容易に想像できるからだ。それは日本でも同じことだろう。

では、米軍が関与しないこの種の犯罪とを分つものは何か―――ひとつには「日米地位協定」の不平等さを前提にした行動、それから、他国(すなわち日本)の基地外の存在に人格を見出さないこと、ではないか。これが個人個人の問題ではなく、軍隊という組織が孕む構造的な問題だと指摘する本が、アラン・ネルソン『元米海兵隊員の語る戦争と平和』(沖国大ブックレット、2006年)である。先日、沖縄県東村の高江でも少し話題になった。

ネルソン氏は、米海軍の兵隊として、沖縄で「人殺し」のトレーニングを受け、そのあとにヴェトナム戦争に出征した体験を持つ。その実体験から、米軍の兵隊は、ほとんどが超貧困層の出身であり食べていくために入隊していること、ただただ「人殺し」の方法とマインドをすり込まれていること、を指摘している。これは、そのような境遇にある個人に対する差別ではもちろんない。そのような境遇になってしまうことの構造的問題だということができる。

「皆さんが基地の側を通るとき、常に覚えておいてください。その基地の中で行われていることは、毎日如何にして人を殺すかというトレーニングが行われているということです。」
「そして、私たちは街へ繰り出していくとき、三つの目的だけを達成するためにだけ街に出て行きました。酒を飲んで酔っぱらうこと。喧嘩をすること。三つ目は女性をさがすこと。」
「しかし、皆さんは理解しなければなりません。何を理解するかというと、私たちは海兵隊員であり、軍隊であり、私たちは人を殺すために訓練されているということです。そして、私たちがその暴力の訓練をうける時、基地のなかで、それを使うのではありません。私たちは街に繰り出していって、そこでその暴力を使うのです。」 「多くのアメリカ人にとって、原子爆弾を落としている相手は人間ではなくて、ネズミでありジャップであり、そして、多くのアメリカ人にとって、ジャップというのは人間ではありませんでした。」
「そしていまだに、米軍においては、イラクの人びとのことを人間というふうには見ていなく、人間としても扱ってもいません。彼らのことを、”砂漠の猿”としか呼んでいません。」

これをもって、個々の米兵をそのようなマインドを持つ人として色眼鏡をかけてみることは間違いだ。それは私たちが、相手を個別の人格として見ない側に立つことを意味する。

しかし、構造的な問題があることもまた確かだ。構造的な問題がある限り、この種の凶悪犯罪はなくならないのではないか。


ヴェンダースの最近の映画

2007-10-30 08:12:17 | 北米

この数年間で映画館に観に行ったヴィム・ヴェンダースの映画を2本、あらためてDVDで観た。

好きなヴェンダースの映画は多い。『ことの次第』や『アメリカの友人』、『ニックス・ムーヴィー』など強面の作品もいいし、甘めの『都会のアリス』、『パリ、テキサス』や『リスボン物語』なども捨てがたい。しかし、90年代から妙に大作主義になったのか、映画の匂いが薄い作品をつくることがあった。

久しぶりにヴェンダースらしそうだと思い、映画館に足を運んだのが、2004年(日本公開は2005年)の『ランド・オブ・プレンティ』だった。「9.11」から数年がすぎ、自分のことしか考えられない病んだ米国に対して、ヴェンダースはあからさまにその罪を指摘しているようだ。

主人公ラナの叔父さんは、ヴェトナム戦争で使った枯葉剤の後遺症に悩みつつ、「9.11」で亡くなった民間人の無念さに涙を流し、「米国」を護るため、アラブ系の人びとをすべてテロリストだと決め付ける。それは病んだ「米国」そのもののように見える。しかし、米国の馬鹿な若者が殺したアラブ系ホームレスの肉親が涙を流すのを目の前にして、自分は何をしていたのかと突然自省する。ラナは、そんな叔父さんに対して、「9.11」で亡くなった人びとは、報復により自分たちと同様に罪のない民間人が殺されていくのを望まないはずだと言う。

ストーリーだけでいうと、ヴェンダースは「説教男」のようだ。しかし、映画の匂いはそこかしこに充満していると感じられる。ラナと叔父さんとが自動車(叔父さんは星条旗を付ける!)で移動するときの、ラナが太陽の光を受けて見せる顔のクローズアップは、「ロード・ムーヴィー」を体現していたヴェンダースの手腕だろう。


ポスターより

「映画の匂い」でいえば、その後の『アメリカ、家族のいる風景』(原題『Don't Come Knocking』)は、初期のヴェンダースの作品群に匹敵すると思い、夢中になった。主演も兼ねるサム・シェパードが書いた脚本は最高で、『まわり道』や『ことの次第』のように、おかしな人物がたくさん出てくる。情が溢れる踊り場だらけの階段のようだ―――、それも階段は妙なところに行きつ戻りつしているような。インタヴューでは、ヴェンダースはもっともらしい顔でもっともらしいことを語っているが、実は無茶を通すことができて楽しくてしかたなかったのではないかと思える。


『アメリカ、家族のいる風景 オフィシャル・フォトブック』


「けーし風」読者の集い(3) 沖縄戦特集

2007-10-28 15:45:53 | 沖縄
台風をものともせず(笑)、『けーし風』読者の集いに参加してきた(2007/10/27、千代田区ふれあい会館)。

今回の特集は、「岐路に立つ沖縄戦教育」だった(→感想)。それで、「沖縄戦首都圏の会」の、教科書に携わっておられる方も参加されて、いろいろと実態を聴くことができた。

自分も含め、多くの人にとっては、高校教科書は人生の一時期においてのみ使った本にすぎない。しかし、世代交代のプロセスとして、中長期的には社会の共通認識にも影響するものとして考えなければならない。さらには、教科書検定という枠組みにおいて、日本という国がどこに向いていくのかが反映されるということだろう。

検定プロセスはわかりにくいので、図にしてみた。



現在の検定制度において、①最後まで検定合格かどうかわからない(80年代まではそれなりに文科省(当時文部省)とやりとりができた)、②検討結果全てが修正しなければならない対象(80年代までは、修正必須の「修正意見」と、修正が努力に委ねられる「改善意見」との2種類が提示された)、といった理由により、検定不合格になれば大損を出してしまうので、教科書会社が検定に従わざるを得ない従属構造になっている。

また、検定意見を伝えてもらい質疑応答をする時間が1社わずか2時間であること、検定意見への反論が形式上可能ではあるものの、①期間が35日間と短すぎる、②反論の妥当性を判断するのが検定意見を提示した側そのものであること、といった理由で、この方法はほとんど実効性がないそうだ。

今回沖縄戦の検定が問題化してから、「検定調査審議会」の議事録を公開とすべきだとの意見がある。なぜなら、審議会にかけられるたたき台となる「調査意見書」が、まったく沖縄戦箇所について審議されずスルーしてしまったことが明らかになっているからだ。しかし、このプロセスを聴いて、審議会の前段階、すなわち現場の先生方(覆面)の意見などを含め文科省内で「調査意見書」を作り上げる段階こそを透明化すべきではないかと思った。さまざまな意見・論点やその根拠を整理し、それぞれに対してなぜ「調査意見書」にまで盛り込んだのかを記載し、公開すべきではないかということである(パブコメ結果のイメージ)。

実際に、根拠として使われた資料のひとつ、林博史『沖縄戦と民衆』については、著者本人が「文脈を無視して1箇所だけを悪用された」と反論している(→リンク)。

いまは、来年度から用いるための教科書であり、印刷をしなければならないので、時間がない状況にある。検定の「撤回」こそが必要だが、時間との兼ね合いで、「訂正申請」による対応が現実的だということだ。しかし、それでは、「撤回」という実績が残らないことや、今度は文科省ではなく「妥協」した教科書会社や執筆者が糾弾されるだろうことから、「検定」前以上の水準にまで「訂正」する必要があるだろうということだ。

実際、今日(2007/10/28)の「沖縄タイムス」や、「東京新聞」などで報じているが、記述削除の経緯までを教科書に追加しようという執筆者があらわれている。

ところで、「大江・岩波沖縄戦裁判」では、直接の軍命を含め、さまざまな証言が次々に出てきているようだ。『けーし風』では、岡本厚氏(『世界』編集長)は、このような存在を、グラムシのいう「サバルタン」として表現している。もの言わぬ(言えなかった)人たちが、ひどい状況を看過できず出てきたというわけだ。


ベランダで、Novemberを待たずにCotton Flowerが姿を見せた

勅使河原宏の『十二人の写真家』

2007-10-26 23:53:02 | アート・映画
ポレポレ東中野で、『十二人の写真家』を、最終日に何とか観ることができた。

1955年、写真雑誌の肝いりで、勅使河原宏が撮った1時間の映画だ。時期でいうと、1953年に初めての監督作品『北斎』を撮っており、その後、亀井文夫について『流血の記録 砂川』(1956年)(→過去の記事)なんかの撮影を担当したり助監督をつとめたりしている。しかし、この映画については、手元にある『勅使河原宏カタログ』(草月出版、1983年)にも『前衛調書』(勅使河原宏と大河内昭爾・四方田犬彦との対談、学芸書林、1989年)にも書いていない。

古いだけあって画像が不鮮明で、写真家たちのカメラがいまいちわからないのが悔しいが、それでも彼らの身のこなしを見ているだけでとても面白かった。

木村伊兵衛の使っているのは、出たばかりのライカM3だろうか。スナップの速度が冗談のように速い。本当に速い。ライカを小脇に抱え、歩きながらほとんど止まることなくさっと撮る。これには心底仰天だ。

三木淳は、ニコンがレバー式になったので速く撮れて云々、と言っているので、たぶんライカM3の影響を受けたニコンS2だろう。草月のいけばなの様子、とくに勅使河原宏の妹の勅使河原霞を撮っている。ちょうど、勅使河原宏は、草月の機関紙に関わったり、その後すぐに副会長になったりと、映画にも草月にも大変なころだったはずだ。

大竹省二は海辺でローライを使っている。モデルのポーズをあれこれ注文し、奇妙なフォルムをつくっていくスタイルがわかる。えらく二枚目だ。

濱谷浩は、敗戦の日に、晴天の空に向かってシャッターを切り続けた写真家である(飯沢耕太郎『戦後写真史ノート』、中公新書、1993年)。この1955年頃は、リアリズムという命題をどう受け止めるか、が多くの写真家にとって重要なことだったようだ。濱谷浩は、この時点では、新潟の海辺の村を、「行くところがなくへばりついている人びと」が暮らす場所として撮り続けている。バルナックライカにヴィゾフレックスを付けているのが面白い。

真継不二夫はキヤノンのバルナック型の何かを使っているようだ。林忠彦はいろいろ使っていた。

十二人のなかで最後に登場するのが土門拳。ちょうど『江東のこどもたち』を撮っていたころだ。土門拳は、この前年にリアリズム写真にひとつの区切りを宣言している・・・それが何なのかよくわからないのだが。また、「絶対非演出を前提にしたスナップ撮影」に、社会的リアリズム(本人は社会主義リアリズムと言いたかったらしい)を見出している(飯沢耕太郎『戦後写真史ノート』、中公新書、1993年)。

実際に映像に映し出されるのは、子どもたちに目の前で遊んでもらい、それを記録する土門拳の姿だった。そして撮影後には、子どもたちにお小遣いさえあげている。ヤラセだとは言わないし、これによる写真が時代の姿を記録した極めて優れた作品となっているのは確かなのだが、風のように吹き抜ける木村伊兵衛が捉えた偶然性は、そこにはなかった。



沖縄「集団自決」問題(10) 沖縄戦首都圏の会 連続講座第3回

2007-10-26 08:46:26 | 沖縄
大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会(沖縄戦首都圏の会)による連続講座第3回、大城将保氏による「沖縄戦の真実と歪曲」に参加してきた(2007/10/25、岩波セミナールーム)。





会場はほぼ満員、たぶん40~50人くらいは集まった。また石山久男氏など教科書関係者も何人もおられたようだ。

大城氏は、嶋津与志のペンネームで、幕末の琉球を描いた『琉球王国衰亡史』(平凡社ライブラリー)、沖縄戦を描いた『かんからさんしん物語』(理論社)などいくつもの小説を書いている。

最初に、その小説を原作にし、大城氏(嶋氏)が脚本も書いたアニメ映画『かんからさんしん』(1989年)(→リンク 予告編を見ることができる)の最後の部分が上映された。

そこでは、旧日本軍(友軍)が住民の食糧や水を奪い、デマを嘘だと見破るハワイからの移民をスパイ扱いし「処刑」しようとし、「集団自決」、そして投降に至る様が描かれている。なかでも圧巻なのが、手榴弾で「集団自決」しようとすると、幼児が死に際して着せられた晴れ着を自分でびりびりと破り、嫌だと泣き叫ぶ場面だ。泣く子どもは米軍にばれるので殺すという恐ろしい軍の慣習があるので、皆が子どもをなだめようとすると、おばあが「子どもは童神だ。神さまが何かを言おうとしているのだ」と、皆に「集団自決」を思いとどまるよう呼びかける。

一旦は我に帰る住民だが、また兵隊が捨て身で米軍に攻撃を仕掛けると、米軍からの集中砲火がある。そして住民のひとりが手榴弾を自ら爆発させると、他の住民もそれに続き始める。その「集団自決」の連鎖に歯止めをかけたのが、既に白旗を掲げた女の子が歌う民謡「いったーあんまーまーかいが」(お前のお母さんはどこに行ったの)だった。

これはフィクションではあるが、大城氏によれば、実際に沖縄戦においてあった話をもとにしている(津堅島、伊江島)。「死」に向かって心がフリーズしているのを元に戻させるための「間」、そして「生きたい」という心の奥底に辿りつく力をもつ歌。

大城氏の講演は、以下のようなものだった。

●9月の県民大会では、意思が島ぐるみとなり、11万人が集まった。
●旧日本軍の直接的な関与により「集団自決」が起きたのは紛れもない史実であり、多くの体験談がそれを裏付けている。
●軍による残虐行為は慶良間諸島だけではなく、至るところであった。それを慶良間の座間味島・渡嘉敷島の、しかも隊長命令があったかどうかだけに絞って裁判をおこしていることは、そもそも意図した問題の矮小化だ。ここには騙されやすい落とし穴がある。「曖昧なら裁判が決着してから判断」「両論併記」という陥りがちな考え方は、実は、史実を隠蔽しようとする策略に組み入れられているに過ぎない。
●「沖縄の人々は戦争で苦労した。それなのに政府は冷淡だ。だから耳を傾けるべきだ」とする意見にも落とし穴がある。問題は「可哀想だから」ではない。
●「集団自決」は、旧日本軍による住民虐殺(見せしめ、処刑)が住民に恐怖感をうえつけ、パニックに至りやすくしたという構造がある。「集団自決」と住民虐殺は表裏一体のものだった。
●(大城氏は「集団自決」や住民虐殺の事例のリストを用意したが)実際にはリスト以外にまだまだある。死んだ人はそもそも証言などできない。かろうじて生き残った人(沖縄で4人のうち3人、本島では3人のうち2人)も、死のうとしたり家族を先に殺そうとしたりといった生々しい体験を、なかなか自ら口にできなかった。そのような、語られない「隙」を狙って、「集団自決」を「神話」化することは許されない。
●軍の命令は、戦時中、とくに戦争末期にあっては、上から下への口頭での伝令であって、命令文書などなかった。それを軍命有無に悪用するのは、当時の常識に反している。
●『かんからさんしん』は、アニメだからといってオーバーではなく、むしろ逆だ。別の作品では、ある体験者の方から、「現実はもっとひどかった。ガマはもっと暗かった。」と言われた。乳飲み子を餓死させてしまった母親は、暗くて死んだ子の顔を見ることができず、顔を手のひらで覚えようと1週間なでていた。
●生き残った者には、後ろめたさ、加害者意識もある。大城氏自身も5歳のときに本土に疎開したことがいまだ後ろめたい。
●沖縄の本土復帰前後に「沖縄県史」を残し始め、その後も各地において歴史をしっかりと記しておこうとする動きはずっと続いている。戦争体験はまだ風化していない。これは、裁判の原告側がたった2日間の慶良間島取材によって「集団自決」の反証を得たとし、さらにはもう戦争体験は風化しただろうからそろそろ「美しい国」を作り上げようとする誤った流れに対抗しうるものだ。
●「美しい国」、あるいは戦争できる国、を目指して、「戦争の史実が風化したに違いない」沖縄をターゲットにして史実をゆがめ、さらに裁判を起こし、そして教科書検定がなされた。その意味で、訴訟も検定もすべてつながっている。裁判が終わってから検定の是非を判断するというのは、中立的なようでいて、実はそうではない。
●『かんからさんしん』では、「集団自決」は一部の住民にとどまり、多くの住民は助かることになっている。本島では3分の2が生き残ったのだ。死ぬことを描くより、如何にして生き残っていたかが大事なことだろうと考えてのことだ。「死から生」への転換の象徴化こそが、この作品の価値だと思っている。それに、住民が死んでいった記録は、「1フィート運動」などの素晴らしい動きもある。
●読谷村の米軍上陸地点に近いチビチリガマでは「集団自決」があったが、その近くのシムクガマではなかった。旧日本軍がいて、義勇隊も含め、竹槍での最後の斬り込みを行うといった状況も同じだったが、この違いは、実に微妙なところにあった。チビチリガマでは誰かの手榴弾が爆発し、つぎつぎに衝動的に死の方向へ引きずられていった。一方シムクガマでは、ハワイ移民二人(おじいさん)が、なぜか、手榴弾を捨てろと叫び、ガマ中に響いた。そこで住民は立ちすくみ、死の方向への暴走がストップした。そして二人は出て行って米国と交渉した(そのフィルムがある)。生と死を分けたものはこれだけ、「軍隊の論理」を「住民の論理」に引き戻した出来事だった。
●シムクガマのことは、戦後何年もまったく語られることがなかった。千人もの生き残った住民が、チビチリガマの人達に遠慮し、だれ言うことなくタブー化したのだ。生き残っただけでも申し訳ない、という気持ちであった。それを、黙っているのを良いことに、なかったことにしようという動きに利用されている。
●裁判の原告は、大城氏が、自ら執筆した「沖縄県史」において隊長命令のことを覆したと主張している。そんなことはありえない。単に主張だけなら自由だから、「研究紀要」に掲載されただけだった。
●裁判で決着がつかないうちでも、検定を通じて、教科書を書き換えることはできる、それが原告とその背後のねらいだった。隊長の名誉がポイントではない。
●しかし、やってみると、人事ではなくなった一般県民が敏感になり、地元紙にぞくぞく体験の投書をはじめた。それで、歴史自体の隠蔽と歪曲は無理だと悟り、隊長命令の有無だけに争点を絞った。その意味で、この実に矮小化されたことだけを云々するのは、そもそも歴史修正の流れに乗っかっていることになる。
●旧防衛庁の戦史には、「軍の煩累を絶つため、崇高な犠牲的精神で自ら死を選んだ」と書いてある。これが旧防衛庁の公式文書だった。軍隊と戦争と「集団自決」を美化する「軍隊の論理」だ。実際には、「崇高な精神」などといった格好良い言葉では人間は死ねないものだ。心をフリーズさせなければ無理だ。
●チビチリガマとシムクガマとの結果の違いを分けたこと。津堅島で子供が晴れ着を破り、おばあの呼びかけによって間ができて我に帰り、もう死ねなくなったこと。阿嘉島では最初の手榴弾が不発でばかばかしくなり、目が覚めたこと。このように死と生との転換は微妙だった。誰にも心の奥底には生きたいという心がある。しかし、言えばスパイ扱いされることもあり、しまいこんだ。これが何かの拍子に浮かび上がる。
●沖縄市美里では、隊長から、義勇隊(青年と老人)に、家族を殺してこいとの軍命があった。逃げるのに足手まといになるからだ。手榴弾がもったいないので閉じ込めて家を燃やし、30人が焼死した。こんなことは、なかなかひとに語ることができないものだった。このような体験があちこちにある。
●軍隊は国民を守らない、米軍より日本兵のほうが怖かった、命どぅ宝、この3つは体験者がみんな言うことだ。
●軍事を維持するためには、軍隊を美化しない歴史は邪魔な存在だ。このようなデマ宣伝は、ファシズムといってもよい。歴史の修正の先には、念頭に徴兵制があるはずだ。このような流れを止めなければ、子どもたちが戦争に巻き込まれてしまう。
●そして慶良間諸島での軍命の有無についても、なかったとする隊長の証言を裏付けるものはまったくない。

「「いまだ。全員、玉砕だ!いいか、家族はひとかたまりになれ。合図するまでまて!」
合図をまたずに、手りゅう弾はあちこちで炸裂していた。
―――まだか、まだか。
心があせる、取り残されるのが怖い。
「マサ、どうするね、どうするね」
「まて、合図があるまでまつんだ」
正吉はぶるぶるふるえる手でようやく安全ピンを引きぬいた。信管をたたいてしまえばいっぺんに楽になる。
「イヤだ!イヤだ!ならん!」
 いきなり、フミが叫び出した。
(略)
全員がマラリア患者のようにガタガタふるえ、手りゅう弾をもっておれなくなった。正吉は鉄のかたまりをなげだし、両手で頭をかかえこんでしまった。」

『かんからさんしん物語』(嶋津与志、理論社)より



高松市美術館、うどん

2007-10-24 23:30:45 | 中国・四国

日帰りで高松市に行った。朝早い便しか取れなかったので、空いた時間に、高松市美術館を訪れた。

特別展は「巨匠ブールデル展」だった。ロダンと同時代の彫刻家だ。常設展だけよりはと思い観たが、やはり、別に自分の好みでもなかった。イサドラ・ダンカンのドローイングは手が不自然に長く、気に入ったが。

常設展の「讃岐漆芸にみるモダン」は目を見開くくらい素晴らしかった。まったく予備知識がなく観たのだが、漆を厚く塗り重ねてから彫る「彫漆」、漆に点彫りをしては色漆を塗って研ぎ出す「蒟醤」(きんま)など、讃岐漆器独特の手法をはじめて知った。

彫漆」は、わりに大きな彫りができるので、荒々しくもスコンとモダンにもなりうるのだった。中国清代の、色ガラスを重ねあわせてから精密に彫る「乾隆ガラス」が京都の京セラ美術館にいくつも展示されているが、それと並べても面白い展示になるだろうな、と、ふと思った。音丸耕堂の「彫漆双鯰之図料紙箱」(1934年)がソリッドな刻み感を残しているのに対し、磯井如真の「里芋之図 彫漆花瓶」(1936年)はもう少し丁寧に里芋の葉っぱの図柄を組み合わせて気持ち良い。

蒟醤」はあまりにもきめ細やかで、目が離せなくなる。磯井如真の息子である磯井正美の「蒟醤 石畳 箱」(1987年)はモダンで鮮やか、本当に素晴らしいと思った。太田儔の「籃胎蒟醤 短冊箱 夏ぐみ」(1996年)は、駒井哲郎の版画に生命が吹き込まれたようだ。

帰りに、『週刊朝日百科 人間国宝 漆芸』を買った。

もうひとつの常設展示は、「体感温度」と題されていた。汚泥の縫い目から枯木が左右シンメトリックに垂れ下がり、さらに上を泥の湯葉のようなものが覆う、菊畑茂久馬の「天動説 十五」(1985年)は、東京都現代美術館の所蔵品より数倍気に入った作品だ。昔から好きな香月泰男の「業火」(1970年)は、炎が牡蠣殻のように見え、シベリアシリーズと同様に怨念のイコンと化していた。はじめて知った小川百合の、暗闇で息をしているような本棚や階段の鉛筆画は、異彩を放っていた。

ところで高松といえばうどん。美術館の隣に、「かな泉」という店があったので、朝のうちに一杯食べた。セルフ方式で、かけうどん(中)160円+海老と小柱のかき揚げ150円。値段が信じられないほど旨い。この店は、帰りの高松空港にもあり、夕食としてまた食べたが、こちらはセルフでなく普通の値段だった。昼には、美術館近くの「源芳」でぶっかけうどんを食べたが、もっちりした柔らかめの麺で、これも旨かった。

当たり前かもしれないが、私の知っている、東京で食べることのできるうどんとはまったく違う旨さだ。いまはそれでもマシで、15年位前の学生のころは、「うまいうどん屋」を探すことが難しかった。千駄木の「うどん市」によく通っていた。高松に何日も居たら、うどんだけでも幸せだろうな。


『けーし風』沖縄戦教育特集、これから行きたいところ

2007-10-22 23:40:33 | 沖縄
『けーし風』(2007/9、新沖縄フォーラム刊行会議)を読んだ。11月に閉店する神保町の書肆アクセスではもう入荷していないようで、新宿の模索舎で調達した。

特集は「岐路に立つ沖縄戦教育」であり、教師、岩波書店(岡本厚氏)、「沖縄戦首都圏の会」、「沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」、新崎盛暉氏など、それぞれの立場から発言をしている。当然、問題意識はかなり共通しているわけで、いまの争点が良くまとまった特集だと思う。

改めて感じたことは、教育は世代交代のプロセスであるということだ。地域や親族というつながりが消えているから、目に見えない「記憶」、「体験」、「意識」を敢えて持ち出さざるを得ない状況があるのだろう。

教師の対談では、こんなエピソードが紹介されている。「八重山で「ひめゆりの乙女たち展」を見学していた生徒が、死体の写真を見て、思わず「気持ち悪い」と言ってしまった。前の世代なら、写真一枚で充分に悲惨さが伝わり、肉親の痛みとして感じることができた。いまの子たちは肉親の痛みではなく、少し遠い出来事となっている。だから、平和教育の形も変えなければならない。」

また、過去の沖縄戦の歴史を、もっと広い歴史の文脈のなかで、少なくとも現代のアフガンやイラク、いじめ問題などと同じ根を持っていることに結びつけなければならないとの指摘がなされていた。自分にとっての問題の理解という意識では当然だが、結びつける方向性にあえて働きかけるとは、普段考えない教育者としての視点ではある。

新崎盛暉氏は、映画『ガイサンシーとその姉妹たち』にあわせたトークショーの会場で、若者が「日本軍の強制連行という事実がないのに、慰安婦の証言ばかりを垂れ流すのはいかがなものか」と質問したことを書いている。新崎氏はそれについて、映画のメッセージが若者の心に届くことはないだろうと、諦めの気持ちを抱いているようだ。しかし、私はそうした「囲い込み」は避けるべきだと思った。

金東柱氏による済州島のルポは興味深い。マージナルな場所にあって、軍備の流れに抗いつつ平和のあり方を考える状況については、今後つっこんで調べてみたい。



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これから足を運びたいところ。

●『けーし風』読者のつどい(関東)
2007/10/27(土)14:00~@千代田区ふれあい会館

今回はテーマが絞られているので、議論が発散しない。
→ 報告

●沖縄戦首都圏の会・連続講座第3回「沖縄戦の真実と歪曲」大城将保氏
2007/10/25(木)19:00~@岩波セミナールーム →リンク

スライドショーもあるとのこと。大城氏の想いをききたい。
→ 報告

●一坪反戦地主会関東ブロック「今こそ沖縄の基地強化をとめよう!」
2007/11/28(水)19:00~@全水道会館(水道橋) →リンク

安次富浩氏や山内徳信議員の発言がある。高江のヴィデオ上映も予定とのこと。
→ 報告(1)(2)

●勅使河原宏の映画『十二人の写真家』
2007/10/26まで、ポレポレ東中野でレイトショー →リンク

勅使河原がこんな映画を撮っていたとは知らなかった。木村伊兵衛や大竹省二の撮影の様子を見たい。
→ 報告

●東松照明の写真展『Tokyo曼荼羅』
2007/10/27~12/16@東京都写真美術館 →リンク

長崎や沖縄などの曼荼羅シリーズの最後。

●『おきなわ時間美術館』
2007/10/26~11/4@那覇の栄町市場にある古民家 →リンク

行きたいが絶対に行けない。音楽やヴィデオやハプニングやなんかがあるようだ。
→ やはり行けなかった

●『無限大の宇宙―埴谷雄高『死霊』展』
~11/25@神奈川近代文学館 →リンク

『死霊』を読みなおすところからはじめたい。
→ 行けなかった

吉田敏浩氏の著作 『反空爆の思想』『民間人も「戦地」へ』

2007-10-21 22:28:53 | 政治

テロ対策特別措置法(テロ特措法)の延長または新法をめぐって、米艦に給油した燃料が対イラク戦争にも流用された、いわば「油ロンダリング」(逆方向かもしれないが・・・)に関して与野党の鞘当てが激しい。問題は給油された燃料の使途に関するデータ管理や説明責任、隠蔽工作そのものにあるのではない。最終的にその意図、米軍の矛先がどこに向けられたか、というところにある。今回の場合、端的に言えば、「テロとの闘い」を標榜しながら、本来目的は効果をあげておらず、それどころかアフガニスタンやイラクの罪のない民間人を犠牲にし続けている、ということが、正視すべきことだろう。

吉田敏浩『反空爆の思想』(NHKブックス、2006年)は、米軍が(さらに遡れば、旧日本軍を含めた多くの国軍が)空爆という方法を採り続けていること、そしてそれが技術的にも誤爆が避けられず、手段を問わない殺戮兵器を使うことも含め、民間人の犠牲が確信犯的であることを浮き彫りにしている。

ブッシュ政権がこのような軍事行動を本格化させたのは、言うまでもなく、2001年9月11日の「9.11テロ事件」をきっかけとしている。「9.11」では、米国人を中心に、罪のない民間人が3,000人以上も犠牲になった。しかし、同年10月7日から12月29日までの空爆で死亡したアフガニスタンの民間人は、それを上回る4,000人前後だという。民間人を直接狙ったのではなく、ある確率で犠牲者が出ることを承知の上で行ったことの結果である。もちろん、その後も、イラクにも範囲を拡げ、軍事活動は続いていて、犠牲者は出続けている。米軍・米政府の説明は「誤爆」、「付随的被害」、「かれらはテロリスト」である。

米軍が空爆に使用する精密誘導爆弾の「半分」(!!)が的中する範囲は、3mだったり13mだったりするようだ。さらにこれは設計値であるから、誤作動や天候や人為的ミスで精度が低下し、数百m~数kmそれる場合もある。つまり、ピンポイント爆撃という言葉自体がウソというわけだ。ターゲットも、誤認などにより、テロリストではなく民家などになっている場合もあるという。

すなわちこれは、「テロとの闘い」が、実は民間人への「無差別爆撃」に他ならないのだと、吉田氏は指摘する。そして、不発弾が多く地雷的なものになってしまうクラスター爆弾や、強度が高いが放射性物質を含む劣化ウラン弾など、いまだ確信犯的な兵器が使われていることも含め、その背後には、「空爆」という方法が孕む危うさを主張している。

吉田氏のいう「空爆」の危うさは、民間人の犠牲を回避しえないことを行い続けることの背景として、①お互いが見えないこと、②敵側の人間を非人間的な存在としてしか想像できないこと、③傷つけた側は痛くないから日常生活を送れること、④権力や政治の格差、⑤軍事技術は限られた者にしかわからないこと、⑥「正しい戦争」をしているとの優越感・選民意識、⑦民間人が犠牲になっていることが報道されない、といった「距離・隔たり」を挙げている。

そして私たちは、基地や給油を通じて、税金を民間人の無差別殺人に使ってもらっているわけだ。吉田氏も繰り返し語るように、爆弾を受ける人たちのことを想像してみるとどうか。日常生活をしていたところ、自国の為政者や政権が「ならず者」だからという理由だけで、不可避的な「誤爆」にさらされ、家族を奪われたりひどい障害を受けたりして、その理由を見ず知らずの人に「付随的な被害だ」、「仕方がなかった」、「避難しておくべきだった」、「ネセサリー・コストだ」などという言葉で片付けられたとしたら。無関心でいることは、実は大きな罪であることに他ならない。

「しかし、それはよく考えてみると、自分の子どもの命を守るためなら、「対テロ戦争」の名のもとに他国の子どもたちの命が奪われてもやむをえない、という正当化論である。自分が直接手を下さなくても、他国の母親から子どもの命を奪うのを容認していることになる。自分たち家族の安全はアメリカの軍事力によって守られると思っているのだろうが、一方でアメリカの軍事力によって他国の人びとの家庭が破壊されている現実には目をつむっている。
 他国の人びとに犠牲を強いていることに対して、それはあまりにも無自覚な態度ではなかろうか。他国の人びとの生命を自分たちの安全のための「消耗品」あるいは「コスト」のように見なすその考え方は、実は血塗られた論理である。」

吉田敏浩『反空爆の思想』(NHKブックス、2006年)より

犠牲になりうるのは、日本企業の民間人も含まれることを示した本が、同じ吉田敏浩氏の『民間人も戦地へ テロ対策特別措置法の現実』(岩波ブックレット、2003年)である。

テロ特措法では、洋上で米艦に給油するため、自衛隊の護衛艦や補給艦が出航している。あまり知られていないことだが、その自衛隊の艦艇の修理に、民間企業の技術者が派遣されている。艦艇を造る企業だけでなく、たとえば艦艇内のシリンダーやレーダーといった部品・装置を供給している企業が対象となっている。

「安全な地域」という前提でありながら、米軍はそのような前提を置いておらず、また安全のため情報を非開示にしている時点で、その前提は矛盾している。要は、「戦地派遣」である。

防衛省は、省と民間企業との修理契約のみにしかタッチしておらず、事故や事件に関しては企業内の労使関係で(会社が掛けている保険などで)対応するものとしているようだ。しかし、実際には、民間企業が政府の要請に対して首を振ることは難しいだろうし、また、企業内でも派遣を拒否することは難しいに違いない。

テロ特措法成立(2001年11月2日)から2007年3月までに、インド洋に自衛隊艦船が派遣された回数は延べ57回にのぼる(ピースデポ『イアブック核軍縮・平和2007』高文研、2007年)。そのうち、2003年3月までの延べ回数は17回だが、吉田氏の調べたところでは、その期間に7回の修理派遣が行われている。

テロ特措法の延長・新法、さらにはこのような戦争への加担はあってはならない。


田村彰英、李禹煥、『哲学者クロサキの写真論』 バウハウスからバスハウスへ

2007-10-20 23:58:48 | アート・映画
外出したついでに、観たかった展覧会を梯子した。御茶ノ水の「gallery bauhaus」で開いている田村彰英の写真展「BASE」(→リンク)と、谷中の「SCAI THE BATHHOUSE」で開いている李禹煥(リー・ウーファン)の個展(→リンク)である。

田村彰英の写真展「BASE」は、この写真家が20歳そこそこの頃に、横田、横須賀、三沢などの米軍基地を撮ったモノクロ写真が中心である。高感度で撮ったと思しきザラザラの銀塩の点。吹き流しの向こうにボケて潜む航空機の影、抽象にまで化した空を飛ぶ航空機、夜の闇の中で笑う少女。影と闇の黒は存在の黒だった。バタイユ『眼球譚』の黒目が脳裏をかすめた。

他にも、モノクロ作品は、ミノルタオートコードで撮られた家の写真、ハッセルにゾナー150mmで撮られた黒澤明の姿なんかが展示されていた(ミッチェルのカメラを覗く黒澤の顔がいい)。カラー作品としては、ペンタックスSPにスーパータクマー55mmF1.8かニコンFにマイクロニッコール55mmを使い、コダクローム25か64に撮られた欧米のスナップがあった。私は、この写真家の作品にはなんとも言えない色気があると思っているが、今回の展示では、コルシカ島の海の前景としてピンボケの女の顔がある「女」がたまらない色気をたたえていた。マゼンタがかった色もたまらなかった。

田村氏の写真エッセイに、『スローカメラの休日』(えい文庫、2005年)がある。プロとしての矜持を示しつつ撮影の状況や考えを見せてくれるものとして、凡百のカメラ本よりも遥かに面白い。そこでも、谷中・根津・千駄木のいわゆる「谷根千」を散歩しているのだが、次に向かった「SCAI THE BATHHOUSE」もその界隈にある。日暮里の南口から谷中墓地を抜けたあたり、銭湯を改装した画廊である。





李禹煥の作品は、白く塗りこめたキャンバスに、角が丸く微妙に歪んでいる矩形を描きこんだものが5点。これは最近の「照応」の作品群の延長にあるものだろう。矩形は灰色でグラデーションがかかっており、ちょうど「砂消し」のようにざらざらな質感だ。それから、鉄の板と石を組み合わせて配置したものが2点。これは「関係項」の延長だろうか。

辺鄙な場所なのに、何人もの観客がいて、中には同じ作品をいつまでも眺めて瞑想していそうな人もいた。それは半ばユーモラスだとしても、李禹煥が「もの派」のなかで1960年代から提唱していた、あるがままの世界の肯定、ものの関係性、といった概念が、まだ作品として力を持っていることを示すものだろう。

「もはや人間は死に、二元論は破算しているのであり、いまや「表象行為としての創造意識を振り捨てなければならなくなって」いるのである。すくなくとも、事物でなくなったそれ自身の世界、ひきさかれてゆく観念と物体のあいだのひろがりをこそ、浮きぼりにし、そうしてみずからを語らしめるべきであろう。」(李の初期の主張)(千葉成夫『現代美術逸脱史』、晶文社、1986年、より)

ところで、黒崎政男『哲学者クロサキの写真論』(晶文社、2001年)を読んだ。『日本カメラ』での連載時にいくつか読んだものだが、まとめて読むと興奮する。モノクロ写真のプリントを試行錯誤しながら行っていて、中判(クオリティが高いから)→35mm判(フォコマートを使うと満足できる仕上がりになるから)→ペーパーをRCからバライタへ(トーンの深さが違うから)、と進めている。確かにバライタで焼くと違うような気がする、しかし時間も手間もかかる。もう少し、自分のなかの時間の進み方をゆったりしたものにして、気に入った撮影結果を何枚かだけ1日で焼く、のようにでもしなければならないと思う。

クロサキ氏は、デジタルに比べての銀塩のタイムスケールについて、サンチャゴ・デ・コンポステラに徒歩ではなくバスで巡礼した体験を重ね合わせて、それらのもつ「巡礼」の意味が異なるのと同様に、写真撮影の意味もまったく異なるものだとしている。もちろんこれは、「撮影結果」だけを取り出しての話ではない。

「聖地に歩いて到着すること。バスで到着すること。飛行機で瞬間的に到達すること。おなじ旅でも、その意味はまったく異なるだろう。ていねいに時間をかけるほど、その意味は人に深く刻まれ、大きな体験となるような気がする。
(略)
 しかし、そういった瞬間に完了してしまう写真行為は、私に深い意味を留めることもなければ、体験として定着することもないように思われる。帰国するまで結果がわからずに、それについて、反省や期待する時間を十分に確保しておくこと。プリントの露光時間やコントラストについてあれこれ想像しておくこと。これこそ、撮影した写真が「私の写真」として定着するのに不可欠な時間であるように思われる。」


いま銀塩を使う意味を徒歩に例えることは、良い表現ではないかと思う。それにしても、ライカの引伸機フォコマートが欲しくなって困る。私のは藤本写真工業のラッキー90M-S、カメラで言えばニコンのニューFM2のような存在。つまりそれで十分ではあるのだが。



石川文洋の徒歩日本縦断記2冊

2007-10-19 18:17:56 | 思想・文学
ヴェトナム戦争を長く取材した写真家、石川文洋氏は、2003年に北海道から沖縄までの徒歩の旅をしている。そのときは、ふぅん、位にしか思っていなかったが、『てくてくカメラ紀行』(えい文庫、2004年)と『日本列島 徒歩の旅』(岩波新書、2004年)の2冊で追体験をするととても面白い。

えい文庫のほうは、えい出版『ライカ通信』などにも使われたものであり、写真が中心だ。今回、岩波新書のほうをブックオフで105円で見つけ、改めて石川氏の旅をたどってみたわけである。

気になるカメラは、EOS7のほかに、ライカM6を2台に、エルマリート28mmF2.8、ズミルックス35mmF1.4、ズミクロン50mmF2、テレエルマリート90mmF2.8。

歩くことは思索をめぐらすこと。だから、平和のこと、カメラのこと、道路交通のこと、街づくりのこと、食べ物や酒のことなどの石川氏の考えを読んでいると、こちらも脳内で逍遥する。

石川氏はヴェトナム戦争から帰ってからしばらく、市川市の江戸川沿いに住んでいる。ほっとくと太りやすい、歩くことが好き、ということも含め、共通点があると親近感がわいてくる。

小松空港のF15を見ては嘉手納基地の爆音のことを思い、日本の戦争や沖縄戦のことと重ね合わせている。舞鶴の海上自衛隊の護衛艦を見ては異様さを覚えている。これこそが、戦争取材体験もさることながら、歩くことで眼と脳を洗い続けたからこそ新鮮になりうる印象なのだろう。

「舞鶴の海上自衛隊基地は国道に沿ったところにある。通る人は誰でも護衛艦を見ることができる。護衛艦は軍艦である。軍隊があるから戦争が起きる。そのたびに多くの民間人が犠牲となる。ベトナム、カンボジア、ボスニア、アフガニスタンで、戦争にまき込まれて死傷した民間人の痛ましい姿をたくさん見てきた。だから、軍隊、武器には拒絶反応がある。市民の目にはどう映っているのだろう。日本の戦争が終ってから五八年。憲法第九条の精神がだんだん人々から遠のいていくように感じた。」
『日本列島 徒歩の旅』(岩波新書、2004年)より

フェンスや軍艦を「風景」化しないための異化作用―――このテキストは「当たり前」のことではない。米国の民間人殺戮に加担しながら眼をそむけ続ける政治家、それに追随するだけのマスメディア。現状を当然のことのように訳知り顔で語る、私たちの近くに無数にいるミニ保守評論家。

福岡県では、故・伊藤ルイ(大杉栄と伊藤野枝の娘)のことを思い出している。佐賀県では、故・一ノ瀬泰造のお母さんと、ヴェトナム戦争当時の思いを共有している。沖縄本島最北端の辺戸岬では、「祖国復帰闘争碑」に書いてある、「1972年沖縄は復帰したが、基地は強化されている。辺戸岬で聞こえる風の音、波の音は戦争を拒み平和を願う大衆の雄叫だ」という碑文に共感している。

沖縄県北部で石川氏が泊まった宿、国頭村奥の「海山木」、東村の「島ぞうり」は私も好きな場所だ。大宜味村の芭蕉布会館では、平良敏子先生(人間国宝)のことを「素敵なおばあちゃん」と愛情を持って評している。私も以前、平良先生のお仕事を拝見し、会館の1階で芭蕉布のキーケースを買って大事に使っている。私も一緒に山原路を歩いた気になってくる(私は国頭村営バスや路線バスに乗ったが)。

初めて知ったこと。石川氏のお父さん、石川文一氏は小説家であり、『怪盗伝 運玉義留と油喰小僧』など面白そうな本を書いている。(石川氏は、本がまったく売れず貧乏だったと書いている。) これが高嶺剛の映画『ウンタマギルー』のもとにもなっているのだろうか。さっそく古本を探して注文した。

この2冊、無性にまた歩きたくなる本だ。



当代島稲荷

2007-10-16 23:34:06 | 関東

千葉県浦安市の当代島稲荷神社には、富士塚、支那事変(日中戦争)への出征を祈念した碑、それから鯨の碑がある。民衆的信仰、豊穣の神としての稲荷だが、ここの鳥居にはトヨウケの文字があって興味深い。


支那事変出征祈念碑 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、コダクローム64、ダイレクトプリント


大鯨の碑 Leica M4、Zeiss Biogon 35mmF2、コダクローム64、ダイレクトプリント

1875年に、荒川の河口にある三枚洲に鯨が乗り上げたところを、二人の漁師が生け捕りにし、二百円で売ったらしい。これは深川で見世物となった。漁師はあぶく銭で遊蕩したが、年寄りの助言により、残りのお金をここに寄進し、碑を建立したと言われている。(小松正之『豊かな東京湾』、雄山閣、2007年)

●過去の記事 「浦安・行徳の神社」、「浦安・行徳の神社(2)


沖縄「集団自決」問題(9) 教科書検定意見撤回を求める総決起集会

2007-10-15 23:59:19 | 沖縄

高校教科書から、沖縄戦において日本軍が住民の「集団自決」に関与しなかったような記述に変更するような「検定」があった件は、その撤回を求めて、9月29日の沖縄県民大会での11万人参加という大きなうねりとなっている。東京でも、東京沖縄県人会と沖縄戦首都圏の会とが主催で、「教科書検定意見撤回を求める総決起集会」が開かれた(2007/10/15、星陵会館)。

私も参加してきた。会場は座れないほどの混雑、集会後の発表では650人超だったそうだ(カンパは35万円超)。

多くの国会議員が壇上に座った。また、いろいろな団体や自治体もスピーチをした。かといって政治集会とは受け取らず、多くの声を代表してのことだと考えるべきだと思う。

以下、各人の発言をかいつまんで紹介する。(逐語的な再現ではないことには留意してほしい。)

●開会挨拶 川平朝清氏(東京沖縄県人会会長)

・県人会は県民以外の「沖縄好き」の人たちにも開かれたものとしたい。
・「朝日川柳」には、「琉球処分の歴史脈々」、「文科省介入していぬ顔で言い」なんて作品が寄せられている。この「検定」の動きの悪質さも認知されてきた。
・「検定」の審議会はずさんだった。多くの人に正しい現代史を知ってほしい。

●川内博史衆議院議員(民主党)
・文科省の「検定」は中立性も公平性も欠いたものだった。
・もういちど審議会を開かせる決議案を参議院で採択したい。
・まだ民主党に一部の抵抗勢力があり採決に至っていない。
・教科書会社からの「訂正申請」を受けた対応は、撤回でも回復でもない。


壇上には喜納昌吉参議院議員(民主党)、赤嶺政賢衆議院議員(共産党)、辻元清美衆議院議員(社民党)らも座った

●山内徳信参議院議員(社民党)

・この動きは本土をも動かしていることを感じる。
・衆議院の代表質問や予算委員会でぶつけても、閣僚の答弁は「重く受け止める」「真摯に」など、ことばだけだ。
・なぜ住民が手榴弾という兵器を持っていたのか。「集団自決」への日本軍の関与は明らかだ。
・かつて家永教科書を使うなという皇国史観の役人を、沖縄の高校が協力して追い返したことがある。
・官房副長官には、「「検定」に政治介入できないというが、それを行っているのはあなた方だ」と伝えた。文科省の調査官が、行政介入、思想介入している。
・沖縄県民は、何回殺され、何回自決すればいいのか。

●遠山清彦参議院議員(公明)

・県民大会に参加し、その雰囲気とともに、記述回復を渡海文科大臣、福田首相、北側公明党幹事長に要請した。
・「検定」制度のあり方を厳しく再検証しなければならない。議事録は公開すべきだし、文科省調査官の作ったものがどのようなプロセスを経るのか透明性を確保しなければならない。

●ひめゆり学徒の沖縄戦体験 上江田千代氏

・自分は皇民化教育を受け、軍国少女として育った。
・師範学校に入ったが、軍命で学徒動員がなされ、高射砲の構築や飛行場周辺の堀を掘削するなどにかり出された。
・食糧の配給は、ごぼうの煮しめ二本、味噌なしの塩汁(「太平洋汁」)など本当に少なかった。
・「集団自決」のあった座間味島や渡嘉敷島などに比べ、軍隊のいない島ではそれはなかった。軍隊は住民を守るものではなかったのだ。
・壕で日本軍に協力したが、ガマのような頑丈なものではなかった。入口からは血と尿の臭いがして吐き気をもよおした。
・ピンポン玉のようなご飯を一日一個しか食べられず、軍医も衛生兵もおらず薬もない状況では兵士が次々に死んでいった。死体は壕の外の穴に埋める、その繰り返しだった。毎日が地獄だった。
・日本軍より、壕からの移動命令が出た。歩けない者は「生きて虜囚の辱めを受けず」、つまり殺された。誰も歩けないので手榴弾が配られ、自分ももらって将校に死ぬための使い方を教わった。
・将校は「逃げて生き延びなさい」と言ってくれたが、夜、死体の上を歩いて逃げた。
・隠れた岩陰から、近くに米兵が見えた。家々に火をつけて歩いていた。
・いよいよ死のうと思ったら、手榴弾がなかった。父親が捨てていてくれたのだ。
・他人の看病をした。蛆は、膿を食べると次に筋肉を食べて太る。その大きな蛆を取って潰した。
・墓の横の穴にいたら、米軍が「抵抗しないで出て来い」と叫んだ。そして爆弾を投げられ、皆死んだ。自分と母親は奇跡的に生き残った。
・米軍に収容されて、狭く、食糧も少なく、雨が防げなかった。しかし、みじめとは思わなかった。弾は降ってこないし、逃げまわらなくてもいいし、青空のもとで堂々と歩けるのだ。
・戦争は人間の理性を失わせるものだ。戦争を二度としてはならない。憲法9条の精神が、平和への道となる。
・教科書は真実を伝えるべきものだ。

●糸数慶子参議院議員(無所属)

・南京大虐殺、従軍慰安婦とともに沖縄戦の歴史に光を当てたいと思い、「平和ガイド」をやってきた。
・自分は一議席ではあるが重みを感じる。
・沖縄戦の真実を、今こそ国民全体が後世に伝えていくべきだ。それが私たちの責務だ。

●川田龍平参議院議員(無所属)

・かつて薬害エイズの被害者として沖縄で講演したとき、平和の礎と平和祈念公園を訪れ、「集団自決」の写真を見た。
・戦争の責任が曖昧にされている、他国の人々のみならず、自国の人々を殺していった責任も曖昧にされている、と感じた。
・薬害問題は、被害者だけの問題でも、過去だけの問題ではない。その点で共通している。悲劇を繰り返さない使命がある。自分にも起こるかもしれない、自分の問題だ。
・辺野古に何度も足を運んだ。高江のヘリパッドもそうだが、まるで民主的な手段で基地をつくらせることを許してはならない。
・今回、「検定」が撤回されたとしても、たたかいを止めてはならない。

●市田忠義参議院議員(共産党)

・「集団自決」は軍命なしに起こりえなかったことだ。誰が強制なしに、わが子をあやめるだろうか。
・政府は「「検定」に介入できない」としているが、そもそも介入していたのは他ならぬ文科省だった。
・赤嶺政賢衆議院議員(共産党)の追求により、「検定」プロセスが明るみに出てきた。文科省調査官が専門家の意見を聴かず検定意見をつくり、これに文科省職員7名の判が押してあった。つまり文科省の自作自演、組織ぐるみの犯行だ。
・「検定」撤回は介入ではない。勝手につくった「検定」への固執こそが介入だ。

●大浜敏夫氏(沖教組委員長)

・小さな火種が大きな議論をまきおこした。
・沖縄の新聞などが怒った人の証言を掲載しはじめ、これが奏功した。
・6月の県議会決議は、9月県民大会の火種になったと自負している。
・「検定基準」に「沖縄条項」をうち立てたい。

●高嶋伸欣氏(琉球大学教授)

・「検定」撤回に反対する集会が別に開かれているが、報道陣以外は数人の参加者に過ぎなかったようだ。そして資料に、「国民的論議をまきおこしている」と記述し、認めてしまった格好。
・「産経新聞」のアンチ「検定」撤回キャンペーンは、首相が「11万人」と認めてしまい、うまくいかなかった。
・今回の運動は、日本の戦後民主主義における「主権在民」を行動に移しているものだ。
・小学校6年生の社会科の教科書には、前回(95年、米兵による少女暴行事件)の沖縄県民大会の写真を大きくとりあげ、「考えてみよう」と提起までしている。審議官はこれを認めていたのだ。今回の県民大会も、「検定」対象となった教科書だけでなく、多くの教科書にとりあげてほしい。

●藤本泰成氏(フォーラム平和・人権・環境 副事務局長)

・文科省による「検定」の根拠は、学術的な理由が不十分だったこと、結審もしていない裁判、審議会での審議がなされなかったことから、すべて否定されている。
・「検定」撤回は「政治介入」とは偏っている。史実は、県民大会に参加した11万人という人数が証明している。議論の余地があるというなら、反対の観点で大会を開けばよい。しかし、多くの人を集められるわけがない。
・「検定基準」のなかに「沖縄条項」を入れ込むべきだ。

●米浦正氏(全教委員長)

・日本を「戦争できる国」にしたい人々にとって、歴史を改変したい標的は、南京大虐殺、従軍慰安婦、そして沖縄戦「集団自決」の3つがある。残念ながら従軍慰安婦については、2005年の中学校教科書から削除されている。
・「軍隊は国民を守らない」は史実だ。
・このような「検定」を許してしまっては、また軍隊が国民に銃口を向けてしまう。

●三鷹市、国立市、鎌倉市、小金井市

・「検定」撤回を求める意見書採択を得たことを、それぞれ報告された。

意見書を採択した、あるいは動いている自治体を表示

●閉会挨拶 俵義文氏(沖縄戦首都圏の会呼びかけ人)

沖縄の高校生の寄せ書きが何枚もできていた


恒例の締め


もういちど観たい映画(3) 歩みつつ垣間見た美しい時の数々

2007-10-14 23:52:34 | 小型映画

もっとも敬愛する映画作家、ジョナス・メカスによる、2000年に完成した4時間48分の大作である。2002年に、御茶ノ水のアテネ・フランセで観た。

長いとはいえ、ボレックスの16ミリカメラで日常を淡々と撮り、時間を置いてから編集し、自分の訥々と話す声をかぶせる映画のあり方は、これまでの作品とまったく変わらない(もっとも、『グリーンポイントからの手紙』など最近の作品はDVを使っているようだが)。

1996年に六本木のシネ・ヴィヴァン(今はもうない)でのリバイバル上映で観た、『リトアニアへの旅の追憶』(1972年)に揺さぶられてから、メカスのことがずっと好きである。故郷への旅という非日常でありながら、日常的な視線と心象を撮った、揺れるカメラ、瞬き、情緒的な自身の声、により、酔ったような気持ちになった。その<瞬き>は、実は、ボレックスが壊れて露出がおかしくなっていたからでもあるが、小型映画独特の、フリッカーの明滅からこぼれるような光と<染み>があってこその効果だ。吉増剛造が言う、8ミリの画面についての、「脈動を感じます。それはたぶん8ミリのもっているにごり、にじみから来るのでしょう」(『8ミリ映画制作マニュアル2001』、ムエン通信)とする感覚にも共感をおぼえる。

『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』は、自分の妻や子どもたち、友達などのシークエンスを、個々にタイトルを出しては展開するという手法で作られている。採録シナリオを読んでも、それしかない。これで5時間弱も語り続けるのは過激ですらある。

メカスが過去の映像を利用しつつ語る、編集時点での気持ち。観客に対して、これは日常に過ぎないのだと開き直るのも、『リトアニア・・・』と同じだ。しかし、メカス自身が歳をとった所為なのか、とても感傷的だ。ゆらぐ映像とともに聴かされると、胸がしめつけられる。甘いといえばその通りなのだろうが。

「長い時を費やして、ようやくわたしはひとを石、木々、雨と隔てるのは愛であること、その愛は愛することによって育まれると気づいた、そう、わたしにはどうすればよいのか、まったくわからない、なにひとつ、わからない―。」

「きみの眼に歓喜と苦痛を、失われ、取り戻され、再び失われた楽園の残影を、あのひどい寂しさと幸せを見た、そして夜明けに独りこうして坐り、思いをめぐらせ、きみを想う、冷たい宇宙を往くふたりの寂しい飛行士のようなわたしたち、そうしたひとつひとつに思いを馳せる―。」

「わたしたちの暮らしは、みなじつによく似ている。ブレイクの言うとおり、ひと雫の水にすぎぬ。わたしたちはみなそのなかにあり、きみとわたしの間に大きなちがい、本質的なちがいなどありはしない。」

「どれもこれも、日々くりかえされるなんでもない情景、そのひとだけのささやかな楽しみや歓びばかり。重要なものはどこにも見当たらない。しかしそう見えるとすれば、そのひとは生まれて初めて歩いたこどもの感じる有頂天の歓びを知らないのだ。その瞬間の、こどもが生まれて初めて踏み出す一歩が、たとえようもなくたいせつなことを知らない。春、木々が一斉に花を咲かせる、そのたいせつさ、途方もないたいせつさ。奇蹟、日々の奇蹟、今、ここにある楽園のささやかな瞬間、またたきひとつするうちに、過ぎ去って、もう戻らないかもしれない一時。まったくたわいもなく(笑い) しかし、すばらしい・・・・・・」

「撮影するこころよさ、身近なものをただ撮ること、眼に映るもの、そこにあると気づいてわたしが反応するもの、指が、眼が反応を起こすもの、この瞬間、今、すべてが起こりつつあるこの瞬間を撮影することの、ああ、そのなんというこころよさ―」

「今わたしはきみたちに話しかけているのだよ、ウーナ、セバスチャン、そしてホリス。今、わたしはきみたちに話しかけている。これはわたしの思い出だ。きみたちにも記憶があったとしても、きみたちの思い出はずいぶんわたしのとはちがっているのだろう。これはわたしの思い出だ。」

最後の引用は、映画でも4時間を過ぎて終わりそうな頃に、自分の子供たちと妻に向けて話された台詞だ。しかし、私には、妻への愛情表現がいちばんの気持ちであって、メカスの照れ隠しではないかと感じられた。もっと言えば、これはメカスが妻にささげた愛情映画だ。映画のフラグメントひとつひとつが「なんでもない」ものであっても、観るものは、想いさえ共振すれば、長い映画でもメカスの心象に引き込まれるし、これは実は自分のなかで反射し続ける体験にもなるのだった。

メカスは2005年、青山の画廊「ときの忘れもの」での個展にあわせて再来日した。自身の映画フィルム3コマくらいを大伸ばしにした作品だ。レセプションパーティーでメカスに逢えるというので出かけて、メカスに映画のことではなくごく私的なことについてだけ話をした。夢のような心地だった。


ジョナス・メカス Leica M3、ズミクロン50mmF2.0、Tri-X(+2)、フジブロ2号


ジョナス・メカス Leica M3、ズミクロン50mmF2.0、Tri-X(+2)、フジブロ2号


『怪獣と美術』 貴重な成田亨の作品

2007-10-14 12:05:38 | アート・映画
三鷹市美術ギャラリーに、『怪獣と美術』と題された成田亨の展覧会を観に行った。

成田亨といえば、ウルトラQ、ウルトラマン、ウルトラセブンの主な怪獣のデザインを手がけたことで知られている。特に成田のデザインを高山良策が着ぐるみに造形した怪獣は、ヒールでありながら愛嬌があって、人間くさくて、感情移入できる。ヒールにはヒールとしての理由があって、時に反体制のシンボル的に見ることもできた。成田によれば、怪獣は混沌(カオス)、それに対するウルトラマンは秩序(コスモス)。そして「真に強い者」のアルカイック・スマイルを浮かべている。

いまでは成田亨の画集はすべて絶版になっていて、手元で鑑賞することも能わない。だから、多くの作品を観ることができたのは個人的にはとても幸福だった。ダダやギャンゴやメトロン星人などのデザイン原画。80年代以降に描かれたウルトラマンや走るケムール人や哀しいカネゴンなどのアクリル画。壁から外し、抱えてダッシュしたいくらいだ。

会場には、高山良策や池谷仙克らの作品も展示してある。高山の、さまざまな事象や観念が混沌とした作品や、後期のエルンストを思わせるマチエールなどを観ていると、デザイナーとしての成田亨の姿がなおさら引き立ってくる。成田は、ウルトラマンにデザイン後カラータイマーが付けられたことを良しとせず、後のどの作品でもカラータイマーを描いていない。さらにはウルトラマン作品とは袂を分ち、「商売」として蔑むようになる。

展覧会の図録はハードカバーで充実している。これで、当面は成田亨の画集を探さなくて済む。三鷹市美術ギャラリーでの展示は10月21日まで、その後は足利市立美術館にまわるようだ。

●過去の記事 「怪獣は反体制のシンボルだった




カラータイマーのないウルトラマンと、身体に付けられるのを防ぐため額に付けたウルトラセブン


このシンプルで奇抜なデザインも、実相寺昭雄の演出も素晴らしかったメトロン星人


空に浮かぶカネゴン