Sightsong

自縄自縛日記

柴田元幸さんによるポール・オースター

2024-11-30 21:49:10 | 思想・文学

ポール・オースター『4 3 2 1』の邦訳がようやく出版され、梅屋敷の仙六屋カフェで翻訳家の柴田元幸さんによるトークが開かれた。葉々社さんの主催(いい書店!)。

2013年5月に書き始めて2017年1月に出版。アメリカの事情のことを考えればこの分厚い本を2年半ほどで書き終えたことになるという。1960年代を描いた作品としては『Moon Palace』、『Invisible』に次いで3作目。柴田さんが最初のところを朗読しはじめるとどうも覚えがある。それも当然で、原著が出たとき自分も読みかけ、あまりの量に挫折したのだった。

柴田さんによればオースターを映画が支えていた面もあったようで、サイレント期のコメディアンであるローレル&ハーディはサミュエル・ベケット経由で意識した可能性があるという。会場では『極楽ピアノ騒動』が少しだけ上映されてみんな爆笑。お尻を蹴飛ばされた女性が警官にお尻のことを「daily duties」と表現しており妙に可笑しい。原題は『The Music Box』であり、じっさいオースターの『The Music of Chance』だって思い出させてくれる。

オースターは黒人初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンのことを書いているけれど、『4 3 2 1』でもそれを想起させるバスケットボールの試合のエピソードがある。その部分の柴田さんの朗読はみごとでもあり、また人種差別という面では「まるっきりいまの話だと思えてしまう」とのコメントにも納得させられてしまう。

それにしても厚く、およそ800頁。翻訳のゲラの修正も順序通りではなく敢えてとびとびにして整合性をチェックしたりして、たいへんだったらしい。柴田さんの手書きの原稿をオマケにいただいた。 さていつ読もう。年末年始かな。

●ポール・オースター
『ユリイカ』のポール・オースター特集号
ポール・オースター『Baumgartner』(2023年)
ポール・オースター+J・M・クッツェー『ヒア・アンド・ナウ 往復書簡2008-2011』(2013年)
ポール・オースター『冬の日誌』(2012年)
ポール・オースター『Sunset Park』(2010年)
ポール・オースター『インヴィジブル』再読(2009年)
ポール・オースター『Invisible』(2009年)
ポール・オースター『闇の中の男』再読(2008年)
ポール・オースター『闇の中の男』(2008年)
ポール・オースター『写字室の旅』(2007年)
ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』(2005年)
ポール・オースター『オラクル・ナイト』(2003年)
ポール・オースター『幻影の書』(2002年)
ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』(1997-2002年)
ポール・オースター『ティンブクトゥ』(1999年)
ポール・オースター『リヴァイアサン』(1992年)
ポール・オースター『最後の物たちの国で』(1987年)
ポール・オースター『ガラスの街』新訳(1985年)
ポール・ベンジャミン『スクイズ・プレー』(1982年)
『増補改訂版・現代作家ガイド ポール・オースター』
ジェフ・ガードナー『the music of chance / Jeff Gardner plays Paul Auster』


安部公房展@神奈川近代文学館

2024-11-05 08:28:30 | 思想・文学

神奈川県近代文学展の安部公房展。展示内容がとても豊富で驚いた。

8インチフロッピーのワープロやKORGのシンセも、2台のコンタックスRTSやミノルタCLEも実際に目にすることができてうれしかった。

もうひとつの目当ては苅部直さん(政治学者)と鳥羽耕史さん(文学研究者)との対談。

若いころ共産党に入った安部が展開したのはシュールレアリスム的な表現であり、これがソ連式リアリズムとどう折り合いを見出したのかという指摘がおもしろい。もとよりシュールレアリスムが大衆に向けられた手段であったこと、一方で安部が活動した下丸子文化集団では相手が市民であろうと容赦なくカフカの話などをしていたことについても言及があり、そのアンバランスさは今後も安部への視線のひとつであるにちがいない。

そして、『箱男』では匿名性をもとにしたデモクラシーとユートピアを見出そうとしたのではないかという指摘。それから、『闖入者』~『友達』では共産党の上意下達のエリート組織に違和感を覚え、それが自分たちのみへの忠誠心を尊重する者を描いた『榎本武揚』に結実したのではないかという指摘。筒井康隆『脱走と追跡のサンバ』が『壁』のパロディなんて知らなかった。

鳥羽さんに「いやご著書の運動体というタームを自分の本に拝借してうんぬん」と押しつけがましい挨拶をして中華街に下山。友人の南谷さんと北京飯店で食事したところ、ベイスターズ日本一記念で「エビチリとエビマヨの紅白盛り」が26%オフだった。つまり26年ぶりの日本一。天才鈴木尚典の記憶だけが残っている。

●安部公房
鳥羽耕史『安部公房 消しゴムで書く』
『「前衛」写真の精神:なんでもないものの変容 瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄』@松濤美術館
鳥羽耕史『運動体・安部公房』
2014年2月15日、安部公房邸
安部公房『(霊媒の話より)題未定』
安部公房『方舟さくら丸』再読
安部公房『密会』再読
安部公房の写真集
友田義行『戦後前衛映画と文学 安部公房×勅使河原宏』
山口果林『安部公房とわたし』
安部ヨリミ『スフィンクスは笑う』
勅使河原宏『燃えつきた地図』
勅使河原宏『おとし穴』


創立100周年記念「知の大冒険—東洋文庫 名品の煌めき—」@東洋文庫ミュージアム

2024-10-15 23:33:03 | 思想・文学
東洋文庫ミュージアムの展示に思わず興奮。『山海経広注』、ラッフルズの『ジャワ誌』、杉田玄白訳の『解体新書』、朝鮮通信使の記録『朝鮮聘事』、『ラーマーヤナ』、いちいち楽しい。本という物体は脳のなにかを刺激する。
ここにはマルコ・ポーロの『東方見聞録』が80種類も収められているそうである。前にスリランカの箇所を読んだら、聖なる山スリー・パーダに鎖で登っていて笑ったことがある。たしかに最後はきつかった。他の地域についても、700年以上前に変人が見聞きし妄想した内容を自分の記憶と照らし合わせて読んでみたい。(モンゴルのウランバートルにはかれの銅像があった。)

鳥羽耕史『安部公房 消しゴムで書く』

2024-08-29 23:44:30 | 思想・文学

鳥羽耕史『安部公房 消しゴムで書く』(ミネルヴァ書房、2024年)。

著者の『運動体・安部公房』(一葉社、2007年)は、安部が共産党と相容れなかったこと、かれの写真にも共通する小説世界の展開は外の政治状況にコミットしないという決意表明でもあったことをあぶり出し、とてもおもしろいものだった。「運動体」ということばを拙著のサブタイトルに使ったほどだ。

本書は包括的な評伝だからそのように特定の視点でのみ分析したものではない。だが、やはりあちこちに発見がある。細かいことでいえば、たとえば、歌舞伎町のナルシスに安部や勅使河原宏や開高健も訪れていたということ(夕子ママのお母さんの時代だろうな)。それから堤清二を通じて西武・セゾンから支援をずっと受けていたということ。セゾン文化と安部公房とのつながりなんて考えなかった。

そして、前からちょっと気になっていたことだけれど、他者の想像力に作品を委ねないこと。新潮文庫版『笑う月』の尾辻克彦(赤瀬川原平)による解説が気に入らず、再版からは解説を外したそうである。自分の作品が触手を伸ばす領域は自分以外に決められたくなかったということか。それは安部公房の価値をいささかも減じるものではなく、むしろ安部らしいように思える。

●安部公房
『「前衛」写真の精神:なんでもないものの変容 瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄』@松濤美術館
鳥羽耕史『運動体・安部公房』
2014年2月15日、安部公房邸
安部公房『(霊媒の話より)題未定』
安部公房『方舟さくら丸』再読
安部公房『密会』再読
安部公房の写真集
友田義行『戦後前衛映画と文学 安部公房×勅使河原宏』
山口果林『安部公房とわたし』
安部ヨリミ『スフィンクスは笑う』
勅使河原宏『燃えつきた地図』
勅使河原宏『おとし穴』


今福龍太『霧のコミューン』、川満信一

2024-08-18 13:53:58 | 思想・文学

今福龍太『霧のコミューン』(みすず書房、2024年)。「群島」的な思考、大文字の歴史への疑い、AIへの疑い、やはり読んでいて発見することが少なくない。

今年亡くなった詩人の川満信一さんについての章もあった。東アジアの島嶼部において独自に構想されてきたヴィジョンとして、島尾敏雄(ヤポネシア)、谷川雁、崎山多美、エドゥアール・グリッサンらとともに川満さんの思想が挙げられている。

もちろん、川満さんが沖縄独立を想って書いた憲法案「琉球共和社会憲法C私(試)案」(1981年)も思想のひとつの成果であるけれど、それは実際のところそれは体系的でもなんでもなかった。だから今福さんも共鳴したのかもしれない。僕の手元には川満さんの個人誌『カオスの貌』が4冊ほどあって、ときに思い出して開いてみてもすぐになにかが得られるようなものではない。そのあたりに大いなる価値を見出すべきなのかな、と思っている。

●川満信一
川満信一『沖縄発―復帰運動から40年』
仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』、川満信一『カオスの貌』
仲宗根勇・仲里効編『沖縄思想のラディックス』
『越境広場』創刊0号
仲里効『悲しき亜言語帯』
知念ウシ・與儀秀武・後田多敦・桃原一彦『闘争する境界』
鹿野政直『沖縄の戦後思想を考える』


木庭顕『ポスト戦後日本の知的状況』

2024-04-01 07:21:31 | 思想・文学

木庭顕『ポスト戦後日本の知的状況』(講談社選書メチエ、2024年)。

時空を超え姿を変えて登場するのは、夏目漱石『三四郎』の与次郎。一見知的で活動的な批判精神を持つ存在だが、実のところこちらを借りてあちらをけなす野次馬的態度にすぎない。たとえばアジア侵略時代の大陸浪人、そのロマン主義的・周辺的な分子に過ぎない与次郎は中枢に向かってテロルを行使する。そしてユスリタカリだったはずの与次郎が権力自体と化してしまう。

戦後期も然り。本丸の丸山眞男も藤田省三も竹内好もクリティックたりえなかった。かれらの周りには与次郎ばかり。「畢竟彼らは、裾野に広がる広大なニッチの闇(を問題とすべきであったにもかかわらず、その意識さえなく、そ)の中からそのまま抜き出してきたにすぎなかった。だからしばしば、文字通りその闇の中に棲息する分子と大いに意気投合した。」

それどころか知的世界では「クリティック解消の快感」すらあったのだ、という。つまりそれはポストナントカだったり借り物のあたらしい思想だったり。中沢新一なんて一刀両断。「与次郎に相応しく、いい加減なことを意識的に言って読者をたぶらかそうとする意図(特に中沢にこの暗い悪意)が丸見え」と。

いや笑ってしまうくらい手厳しい。じっさい、これはいまの原論空間そのものだ。


『N/KOSMOS』@東京芸術劇場

2024-03-23 09:36:21 | 思想・文学

お招きいただいて、東京芸術劇場で『N/KOSMOS』を観劇。ヴィトルド・ゴンブローヴィッチの『コスモス』を小池博史さんが演出したもの。

さてあの饒舌な狂った独白のような文章がどうなるのかと思ったら、息つく間もなくことばとアクションと映像とが次々に転換される。観る者を呑みこみ出られなくする狂った脳は、個人のものでもあり、集団のものでもあった。伸び縮みするヴァツワフ・ジンペルのクラリネットは、あの者たちを此岸に引き寄せるようでみごと。


義江彰夫『神仏習合』、村山修一『本地垂迹』

2024-03-07 07:24:58 | 思想・文学

義江彰夫『神仏習合』(1996年)を再読。出てすぐに読んだ記憶があるから数十年ぶりか。やはり物語のように読めてしまうのは、マルクス主義史観というのか進歩史観というのか、特定の階層が社会的・経済的な要請を受けて行動するという図式化があるからだろう。

たとえば、地域の神々が仏になりたがったのは王権の納税システム機能のためであり、共同体の呪術的な神々では権力を成立させるために役不足であったから。支配の側が仏教を普遍的な力として使うならば、反権力もまた神仏習合を前提とせざるを得ない。巨大な存在から有象無象の存在までをカバーした密教が社会統合に使われ、怨霊信仰もそれなしには力を持たなかった。権力の側からすれば、密教を取り込む一方で、基層信仰たる神祇祭祀を仏教に比すべきものにするため清浄化しなければならなかった、とする指摘もおもしろい。いまにつながるケガレ忌避観念の最大化、「浄」「穢」の価値の絶対化。

そういった運動が、「日本在来の神々が仏教に帰依し、神の姿を残したまま仏の世界に入ろうとする」ヴェクトルだとして、本地垂迹説では仏教の側から逆ヴェクトルで位置づけなおそうとする。すなわち、仏が神の世界に侵入して仏の化身だとみずからを位置付ける。平安末期、武家の台頭に危機感を抱いた王権は、本地垂迹説とケガレ忌避観念を使って事態を打開しようとした。しかし、それは失敗した。逆に、武家は、殺生やケガレを肯定する論理を仏教の力で獲得した。

村山修一『本地垂迹』(1973年)がことし文庫化されたばかりで、義江先生のスタンスとは対照的なように思える。自律的発展のありようではなく、社会における受容もあわせて分析されていておもしろい(けれど長ったらしくて難しい)。たとえば、八幡神について。

「もともと神は天上から下界へ降臨すると考えた素朴な神祇観念のニュアンスが垂迹の語に纏緬しているように思われ、仏陀が権現となって日本各地の村落に天降るようなイメージが本地垂迹説の成長について明確になってゆくのは、それだけこの思想が地域社会に拡がりつつある実情を示すものであろう。とすれば権現の言葉にも同様なことがいえよう。仏陀が権りの姿で化現するとの抽象的な意味よりも現実に人間のすむ世俗社会へ身近く、神祇が慈悲と利益なる仏の本誓を負うて来り臨み、常時そこに現前したまうものと観ずるところに、権現と仰がれるもののイメージがあったのではあるまいか。すなわち神祇はつねに人間の俗社会から遠く離れた清浄な天上の世界に住し、ときあって特定の期間のみ人間社会に訪れ来るとのまれびと神思想は地域社会における神祇常在のイメージをもつ権現思想にとって代られつつあったのである。」


ドグラ・マグラ

2024-02-11 12:09:03 | 思想・文学

鶴見俊輔『ドグラ・マグラの世界/夢野久作 迷宮の住人』(講談社文芸文庫)。

「世界に世界意識が生れたのは、いつからか」という鶴見の問題設定に刺激される。『ドグラ・マグラ』もまたただの怪作ではなく、その文脈の中にあった。孤独な想像の精神が世界といかにつながりうるものか。久作の父は頭山満ともつるむアジア主義者、ただ久作は父から大きな影響を受けつつも国家至上主義者ではなかった。それに加え、雲水として放浪し、東京文壇に身を置くことを拒否して福岡で農園経営をしていたスタンスも、久作の作品が世界につながり続けたことと無縁ではない。

そして、久作がこの世から姿を消したあとの戦時中にあって、その狂気は戦争という狂気とはまったく異なるものとして、たとえば学徒出陣の命令で兵士となっていた中井英夫にも影響を与えた(戦後、『虚無への供物』を書く)。また60年安保のときには平岡正明にも。

それにしても、こんな文章なんて鶴見俊輔らしい。「大アクビがつづけて出るように、シャックリがとまらなくなるように、何度書き改めても、端正な形をはみだす不随意筋の運動が、夢野久作にはおこる。」


大谷能生『<ツイッター>にとって美とはなにか』

2024-01-06 09:37:25 | 思想・文学

大谷能生『<ツイッター>にとって美とはなにか SNS以後に「書く」ということ』(フィルムアート社、2023年)。出版される前に大谷さんに聞かされて笑い、「すごいですね」を連発してしまった。もちろんそのタイトルが吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』のパロディだからである。

吉本は言語のありようを「自己表出」と「指示表出」の二軸で分析してみせたわけだけれど、それはわかりやすくもないし、おそらくは二軸は必ずしも独立していない。ただ「自己表出」として敢えて生み出された書き言葉が「疎外」の対象となることは確かで(日本語の「疎外感」のような、除け者のニュアンスではない)、だからこそ書き言葉は永遠に奇妙なものであり続ける。

本書がおもしろいのは、「自己表出」と「指示表出」の背後に広く深い共同体の歴史、ロゴスのようなもの、動かないもの、ひょっとしたら退行の対象があることを、さまざまな思想を参照しながら想像していること。途中で小林秀雄や本居宣長を持ち出してきたのはどういう回り道なのかと思っていたけれど、じつはそういう意図があった。

そしてSNSは二軸のどちらに位置付けられることもない。

「この場面で重要視されるのは、互いが「コミュニケーションしている」ことを担保するための「リズム的場面」を成立させることである。つまりもうどちらも「言語による表現」なんてメンドくさいことがはじまる以前の、「誰かと親しくしている」ことだけを確認するためのやりとりへ舵を切りつつあるのだ。」

●大谷能生
大谷能生+高橋保行+阿部真武+林頼我@稲毛Candy(2023年)


『個人的な大江健三郎』

2023-11-12 10:15:32 | 思想・文学

ETV特集の「個人的な大江健三郎」。心の危機に直面したときに読んだ大江健三郎というテーマ、共感するところが多かった。自分にとっては二十代のころに読んだ『「雨の木」を聴く女たち』と『人生の親戚』、それから何年か前にあらためて紐解いた『同時代ゲーム』。

漫画のこうの史代さんが、『ヒロシマ・ノート』について語っている。当事者ではない者が苛烈な事象にいかに相対するのか、大きな示唆が得られた、と。それが大江にとって「広島的」すなわち「真に人間的」という表現に象徴されたのだ、と。

いま大江健三郎の「同時代論集」が岩波書店から刊行されていて、まずは第4巻の『沖縄経験』を読んでいる。半分は『沖縄ノート』で読んだものだけれど、やはり発見が多い。「当事者性」ということでいえば、それは日本人たる自身に向けられたものであって、たとえば、「多様性にたいする漠然たる嫌悪の感情が、あるいはそれを排除したいという、なかばは暗闇のうちなる衝動」という指摘であり、スーザン・ソンタグを引いての「倫理的想像力 moral imaginationはいささかもないのか?」という疑問だった。 そしていわゆる集団自決に関して使われた「おりがきたら」。日本軍の責任者であった守備隊長が言い放った言葉であり、「おりがきたら」、過去についてあいまいにしてもよいだろうという自己欺瞞の言葉。

https://www.nhk.jp/.../ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/3P398NPVR2/


「フェルナンド・ペソアを語る夜」(澤田直+山本貴光)@千駄木ブーザンゴ

2023-10-22 23:02:23 | 思想・文学

千駄木のブーザンゴで「フェルナンド・ペソアを語る夜」(澤田直さん、山本貴光さん)(2023/10/22)。

ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアはすこし読んだのみだけれど、自分自身へのうたがいをやさしくエモーショナルなことばにしていて、すっと入ってくるところが好きだ。永遠に足場を信じられない者はたぶんペソアの詩を愛する。ふたりの話から、そのうたがいは、ひとりにひとつのアイデンティティがあるという前提を問いなおしているからでもあるのだと気づかされた。澤田さんは、アイデンティティとはその人固有の魂を想定するキリスト教的なものでもあるという。そして、ペソアにとってそれは絶対的ではない。

「もうずいぶんまえから、私は私ではない。」

ペソアは70もの異名を持ち、別人格でことばを発する人だった。かれが南アフリカで英語を学び、その時点で故郷も母語も明確でなかったことと無関係ではない。ポルトガル語のサウダーデ、郷愁、ペソアはそれを過去の特定の対象のみにではなく、複数の想像上の存在、それから未来のなにものかにも向けていた。


「ルネ・シャールを語る夜」(野村喜和夫+桑田光平)@千駄木ブーザンゴ

2023-09-09 10:26:05 | 思想・文学

千駄木のブーザンゴで「ルネ・シャールを語る夜」(詩人の野村喜和夫さん、フランス文学の桑田光平さん)。

野村さんはむかしからファンで、拙著の出版記念イヴェントでも詩を朗読していただいたのだった。

野村さんはシャールのことをランボーのあとに来た大地の詩人だと位置づけ、それもあって埼玉で生まれ育った野村さんは根拠のようなものをシャールの詩に見出したのだという。シャールのプロヴァンス、宮沢賢治のイーハトーヴ、野村さんにとっての埼玉が(小さくても)詩的大地であり、(小さくても)川があった。

シャールは驚くほどの女好きでもあった。かれを野村さんは「現代詩のカサノヴァ」、「現代詩のゼウス」と呼び、詩人にとっての大地と結びつけて「シャールがピュシスであったのでは」と指摘する。それどころか、女性との関係をめぐってシュルレアリストたちと諍いがなかった(らしい)ことをもって「交換の記号にしていたのでは」と。おもしろいなあ。

シャールの詩にあるアフォリズム的なものについて質問しようと思ったら会場の専門家から発言があった(素人が間抜けなことを言わなくてよかった)。野村さんによれば、あえてフレーズからフレーズへの連続性をもとめないことで断片性が豊かになっているのだ、フラグメントでしか書けない世界の真実があるのだ、と。

●参照
天沢退二郎
石原吉郎 - 野村喜和夫
松本泰子+メアリー・ダウマニー+丸田美紀@音や金時
松本泰子+庄﨑隆志+齋藤徹@横濱エアジン(『Sluggish Waltz - スロッギーのワルツ』DVD発売記念ライヴ)
野村喜和夫+北川健次『渦巻カフェあるいは地獄の一時間』


コレクション展「生誕120年 森茉莉」@森鷗外記念館

2023-09-05 08:27:17 | 思想・文学

千駄木の森鴎外記念館でコレクション展「生誕120年 森茉莉」。

和服の中でひとりだけハイカラな洋服の茉莉。原稿もいくつか展示してあって、最初は極細の万年筆、晩年の『ドッキリチャンネル』なんかはボールペンかな?

むかし読んでもう手元になかったので、文庫オリジナルの『貧乏サヴァラン』をあらためて買ってきた。美味しいものについては借り物でないことばで、そして自分自身のカッコよさについても臆面もなく書いている。ぜんぶ素敵。

「私は食いしん坊のせいか、スウェターの色なぞも、胡椒色、ココア色、丹波栗の色、フランボワアズのアイスクリーム色なぞがすきで、又似合うのである。」


天沢退二郎

2023-06-06 22:41:01 | 思想・文学
 
今年亡くなった詩人の天沢退二郎さん、アマタイ。熱心な読者でもなかったけれど妙におもしろい存在だった。
宮沢賢治論は第三者的な批評家になりきれず自ら賢治になってしまっている感覚。『les invisibles 目に見えぬものたち』は凝縮されたテキストが好きだけれど、オクタビオ・パスの詩のような凝縮の強度があるわけでもなく、どうしても残る「近所の人」感。
『現代詩手帖』のアマタイ特集を読んでいて、ああなるほどと納得させられた。野村喜和夫さんは「大詩人にならなかった」人、「B級っぽくなった」人と評し、福間健二さんは「A級というのは成熟から老人を立派に生きるかどうかであって、そんなことはどうでもいいんだという姿勢がある」と喝破している。さすがなのだ。(その福間健二さんも亡くなってしまった。雑誌の座談会は倒れる直前になされた。)
平田俊子さんの「タ・イジーロの夜」はアマタイとは違う開かれかたのようで、嬉しくなってしまう。