Sightsong

自縄自縛日記

デイヴィッド・マレイ+ジェリ・アレン+テリ・リン・キャリントン『Perfection』

2016-03-31 07:19:46 | アヴァンギャルド・ジャズ

デイヴィッド・マレイ+ジェリ・アレン+テリ・リン・キャリントン『Perfection』(Motema、録音2015年?)を聴く。

David Murray (ts, bcl)
Geri Allen (p)
Terri Lyne Carrington (ds)
guests:
Charnett Moffett (b)
Craig Harris (tb)
Wallace Roney, Jr. (tp)

これはまた、意表を突くグループを組んだものだ。驚いて早速レコード店に行き、さあ買うべきかと悩んでいたところ、この盤がかかり始めた。もはや驚くこともないデイヴィッド・マレイのブロウなのだが、やはりツボにはまってしまう。

そんなわけで昨晩から何度も繰り返し聴いている。最初からわかっていたことだが、すべて想定の範囲内である。マレイのテナーは十年一日のごとく手癖乱発クリシェ乱発、突破力が消えて味だけが残っている。ちょっとずれたトーンでヴィブラートをかけて朗々と吹いたり、フラジオで高音に駆け上がっては戻ってきたり。最初の「Mirror of Youth」では、「All the Things You Are」になりかけて慌ててそらしているような雰囲気があって、乱暴に言えば、「All the ・・・」を吹いた『Children』(1984年)がデジャヴとして思い出されるくらいの変わらなさなのだ。

それでもマレイの音が聴ければわたしは満たされるのであります。ええ、何か。

テリ・リン・キャリントンのドラムスは軽くて高速で、そのうえ何かがあって、ずっと聴いていられる魅力がある。この人もステキで好きなのだ。

アルバムのなかでは、オーネット・コールマンの「Perfection」のみ、チャーネット・モフェット、クレイグ・ハリス、ウォレス・ルーニーが参加している。ここでチャーネットの速弾きベースの見せ場があって、やはり偏愛対象。マレイもオーネット流になで肩の無手勝流で斬り込んできて素晴らしいソロを取る。このトリオもいいが、ぜひマレイとチャーネットとがずっと組んで作品を吹き込んでほしい。

●参照
デイヴィッド・マレイ・ビッグ・バンド featuring メイシー・グレイ@ブルーノート東京(2013年)
デイヴィッド・マレイ『Be My Monster Love』、『Rendezvous Suite』(2012、2009年)
ブッチ・モリス『Possible Universe / Conduction 192』(2010年)
ワールド・サキソフォン・カルテット『Yes We Can』(2009年)
デイヴィッド・マレイの映像『Saxophone Man』(2008、2010年)
デイヴィッド・マレイ『Live at the Edinburgh Jazz Festival』(2008年) 
デイヴィッド・マレイの映像『Live in Berlin』(2007年)
マル・ウォルドロン最後の録音 デイヴィッド・マレイとのデュオ『Silence』(2001年)
デイヴィッド・マレイのグレイトフル・デッド集(1996年)
デイヴィッド・マレイの映像『Live at the Village Vanguard』(1996年)
ジョルジュ・アルヴァニタス+デイヴィッド・マレイ『Tea for Two』(1990年)
デイヴィッド・マレイ『Special Quartet』(1990年)
テリ・リン・キャリントン『The Mosaic Project: Love and Soul』(2015年)
ジェリ・アレン、テリ・リン・キャリントン、イングリッド・ジェンセン、カーメン・ランディ@The Stone(2014年)
デューク・エリントンとテリ・リン・キャリントンの『Money Jungle』(1962、2013年)
ジェリ・アレン+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Segments』(1989年)


ギル・エヴァンスの1983年の映像

2016-03-30 07:56:59 | アヴァンギャルド・ジャズ

ギル・エヴァンスのDVD『Gil Evans and His Orchestra』(TDK、1983年)を観る。

Gil Evans (arrange, p)
Billy Cobham (ds)
Tim Landers (b)
Dean Brown (g)
Gil Goldstein (key)
Mike Mainieri (vib)
John Clark (frh)
Howard Johnson (bs, tuba)
Michael Brecker (ts)
Thomas Gruenwald (ts)
Herb Geller (as)
Tom Malone (tb)
Juggs Whigham (tb)
Hermann Breuer (tb)
Rudi Fuessers (tb)
Randy Brecker (tp)
Lew Soloff (tp)
Benny Bailey (tp)
Ack Van Rooye (tp)

最初から最後までビリー・コブハムのドラムスが目立ちまくっていて、また、ブレッカー兄弟、ハーブ・ゲラー、ギル・ゴールドスタイン、マイク・マイニエリ、ハワード・ジョンソン、ルー・ソロフと、ビッグネームが顔を揃えている。(ただ、わたしはさほどかれらのファンでもない。)

ここでは、ギルのオリジナルや、セロニアス・モンクの「Friday the 13th」や、ジミ・ヘンドリックスの「Stone Free」や、チャールス・ミンガスの「Orange is the Color of Her Dress, Then Blue Silk」なんかを演奏している。やはり魅せられるのは、ギルの重厚でゴージャスで重層的なサウンドなのだ。ときにロック・テイストを入れつつ、ぶわっと分厚いハーモニーを放つときには惚れ惚れしてしまう。

ギルは悠然と指示を与えながら、要所で締めるフレーズを弾き、それがまたカッコいい。観客が同じように感嘆の声をもらして反応していることもわかる。

●参照
ギル・エヴァンスの映像『Hamburg October 26, 1986』(1986年)
ギル・エヴァンス+リー・コニッツ『Heroes & Anti-Heroes』(1980年)
ギル・エヴァンス+ローランド・カーク『Live in Dortmund 1976』(1976年)
ギル・エヴァンス『Plays the Music of Jimi Hendrix』(1974-75年)
ビリー・ハーパーの新作『Blueprints of Jazz』、チャールズ・トリヴァーのビッグバンド(ギル・エヴァンス『Svengali』)


浦邊雅祥@キッド・アイラック・アート・ホール

2016-03-29 07:09:59 | アヴァンギャルド・ジャズ

明大前のキッド・アイラック・アート・ホールに足を運び、浦邊雅祥のソロを観る。

Masayoshi Urabe 浦邊雅祥 (as, 笛、三線、鎖)

凶悪なる何ごとかを呟きながらパフォーマンスがはじまった。琉球民謡のようなコードで三線(バンコクで手に入れたという)を爪弾くとき、覗いてはならない過去を少しずつ目の前に広げられたような怖ろしさを感じる。その怖ろしさは、鎖と金具が床を叩く音によって増幅される。

ネックから引き抜いたサックスの音色は、擦音から突き刺すような音に変わってゆく。そして肉体は壁抜け男のように丸まった。身体を滅ぼしながら、そのことによって肉体そのものから目を背けることができなくなるのだった(フランシス・ベーコンを想起させる)。

「たっくるせ!」と小さく叫び、またアルトサックスを吹いているとき、さっきまで晴れていたはずの空が嵐となり、窓を叩き始めた。氏は窓を開け、外に飛び出ていく。凄まじいパフォーマンスが呼んだとしか思えない霙と稲光だった。

やがて、また三線を手に取り、「十九の春」をゆっくりと歌い、1時間半をゆうに超えるパフォーマンスが終わった。

浦邊さんは消耗し、寒さに震えていた。雨がやまず、里国隆の話などを伺ったりしていて、そのまま数人で駅前の居酒屋に移動。ちょっと書けないような話もあったりして、もっと居たかったのだが、電車の時間が迫ってきて残念ながら失礼した。『浦邊雅祥ソロ』(1996年)にサインをいただいたところ、ジャケットの裏面に書いてくださったそれは、見事なカリグラフィーのようなものだった。

Fuji X-E2、XF60mmF2.4

●参照
直に聴きたいサックス・ソロ、柳川芳命と浦邊雅祥


アーロン・チューライ@新宿ピットイン

2016-03-29 01:16:36 | アヴァンギャルド・ジャズ

新宿ピットイン昼の部にて、アーロン・チューライ・トリオを観る(2016/3/28)。かれらのプレイ目的で、そのうちに下北沢のApolloにでも行こうと思っていたから、1,400円はお得。

Aaron Choulai (p)
Hideaki Kanazawa 金澤英明 (b)
Shun Ishiwaka 石若駿 (ds)

アーロン・チューライのピアノは細やかで、何かの幹を中心に組み立てるのではなく、まるで無数の蟻を群れとして動かしているようなイメージを妄想した。時折その中に、異質で独立に動く左手を挿入し、驚かされた(キース・ジャレットの「All The Things You Are」のイントロを聴いたときのような)。

それに対し、石若駿のドラムスのアタックは軽快で、ノッてくると見事な動き。このふたりで俊敏な空中戦を繰り広げているようだった。


アダム・レーン『Oh Freedom』

2016-03-28 11:31:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

アダム・レーン『Oh Freedom』(CIMP、2009年)を聴く。

Adam Lane (b)
Avram Fefer (ts)
Roy Campbell (tp, flh)
Vijay Anderson (ds)

テナーのアヴラム・フィーファーは同じアダム・レーンの『Full Throttle Orchestra』でも吹いていたが、何しろ大編成なのでその音を意識していなかった。あらためて小コンボで聴いてみると、乾いた音色でテナーの臭みもあって、好みである。かれとロイ・キャンベルとが熱気を前面に押し出してくる感じで、「Go Down Moses」や「Cotton Eyed Joe」などのトラディッショナルをひたすらに吹いている。

アダム・レーンのベースが聴きたくて入手した盤なのだが、半分は、カンフーのようにトリッキーに弾きこなしているサウンドを想像していた。実際には、昔からのアメリカの曲をそのように演奏することはしないのだろう。それでもあらゆるところでベースをぶんぶん弾いていて、音楽をかなり力強くドライヴしている。いや、「Oh Freedom」なんて十二分にアクロバティックか・・・。ベースに耳を貼り付けて聴けば気分は列車、馬、大陸。

●参照
アダム・レーン『Full Throttle Orchestra』(2012年)
アダム・レーン『Absolute Horizon』(2010年)
4 Corners『Alive in Lisbon』(2007年)(アダム・レーン参加)


エルマンノ・オルミ『木靴の樹』

2016-03-28 09:28:03 | ヨーロッパ

岩波ホールに足を運び、エルマンノ・オルミ『木靴の樹』(1978年)を観る。

これまでに映画館やヴィデオで何度も観てきた作品なのだが、わたしにとっては、また体験しなければならない特別な映画なのだ。

19世紀末、北イタリアの農村。農民たちは玉蜀黍を収穫し、みんなでその皮を剥いたり、粉にして地主からおカネをもらったり。家畜の鶏や豚をつぶしたり、牛を大事にしたり、牛の蹄の中に拾った金貨を隠したり。15にもなって小さい子供たちと一緒にかくれんぼをして遊ぶ、おねしょが治らない子がいたり。たまに街のお祭りで大騒ぎしたり。みんなを驚かそうと早生のトマトを育ててみたり。

農業収益の3分の2は地主に差し出さなければならず、土地も家畜も地主のもの。生殺与奪の力はただ地主にあった。恋が実り結婚した男女は、舟でミラノまで旅をして、修道院で養子を授かる。育てることで養育費がもらえるからだ。そのような貧しい環境の物語でもあった。

なんということもない風景と物語とが、新鮮な野菜や果物のように感じられる。


渋谷毅@裏窓

2016-03-28 08:52:29 | アヴァンギャルド・ジャズ

新宿ゴールデン街の裏窓にて、渋谷毅のピアノソロ(2016/3/27)。

Takeshi Shibuya 渋谷毅 (p)

ゴールデン街だから当然ここも狭いバーで、渋谷さんのソロはいつもすぐ予約で一杯になる。客は10人、そのうち2人が立ち見、2人がバーカウンターの中で立ち見。わたしはというと、ピアノの真横に密着する席。至近距離で渋谷さんの指を視ながら、浅川マキの家にあったピアノから骨伝導のように音が伝わってくるという、これ以上ない条件である。

渋谷さんは、いつもの衒いのない態度で、いつもの曲を弾いた。「いつもの」であってもクリシェにならない、それが渋谷毅の魔術である。進んではゆるりと止まり、また進むピアノ。スムーズに動き、さまざまな和音を発する渋谷さんの指を凝視した。

曲は、「Misterioso」、「In a Sentimental Mood」、「Prelude to a Kiss」、「I Let a Song Go Out of My Heart」といったスタンダード。「Body and Soul」において洒脱に「Traumerei」を混ぜたりもした。そして浅川マキが歌っていた「My Man」。最後は「Lotus Blossom」で締めた、と思いきや、もう1曲「無題」または「Beyond the Flames」。こんな沁みる曲を弾くなんて反則である。

ゴールデン街は外国人観光客で溢れかえっていた。愉快というか不思議というか。

iphone 6s

●参照
渋谷毅エッセンシャル・エリントン@新宿ピットイン(2015年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2014年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2011年)
渋谷毅+津上研太@ディスクユニオン(2011年)
渋谷毅+川端民生『蝶々在中』
カーラ・ブレイ+スティーヴ・スワロウ『DUETS』、渋谷毅オーケストラ
渋谷毅のソロピアノ2枚
見上げてごらん夜の星を
浅川マキ『Maki Asakawa』
浅川マキの新旧オフィシャル本
『浅川マキがいた頃 東京アンダーグラウンド -bootlegg- 』
『ちょっと長い関係のブルース 君は浅川マキを聴いたか』
浅川マキが亡くなった(2010年)
浅川マキ DARKNESS完結
ハン・ベニンク キヤノン50mm/f1.8(浅川マキとの共演、2002年)
浅川マキ『闇の中に置き去りにして』(1998年)
浅川マキ『アメリカの夜』(1986年)
浅川マキ+渋谷毅『ちょっと長い関係のブルース』(1985年)
浅川マキ『幻の男たち』 1984年の映像
浅川マキ『ふと、或る夜、生き物みたいに歩いているので、演奏家たちのOKをもらった』(1980年)
オルトフォンのカートリッジに交換した(『ふと、或る夜、生き物みたいに歩いているので、演奏者たちのOKをもらった』、1980年)
『恐怖劇場アンバランス』の「夜が明けたら」、浅川マキ(1973年)
宮澤昭『野百合』


ネイト・ウーリー『Seven Storey Mountain III and IV』

2016-03-27 09:56:04 | アヴァンギャルド・ジャズ

ネイト・ウーリー『Seven Storey Mountain III and IV』(Pleasure of the Text Records、2011・2013年)を聴く。

Seven Storey Mountain III:
Nate Wooley (tp, amp, tape)
C. Spencer Yeh (amplified vln)
David Grubbs (g)
Chris Corsano (ds)
Paul Lytton (ds)
Matt Moran (vib)
Chris Dingman (vib)

Seven Storey Mountain IV:
Nate Wooley (tp, amp, tape)
C. Spencer Yeh (amplified vln)
Ben Vida (electronics)
Chris Corsano (ds)
Ryan Sawyer (ds)
Matt Moran (vib)
Tilt Brass Sextet

2011年の「III」では、最初と最後の裾野を支配している楽器はふたりのヴァイブである。そして山の中腹と頂では、デイヴィッド・グラブスが掻き鳴らすギターや、C. スペンサー・イーが鼓膜を励起せんとして弾き増幅させるヴァイオリン、もちろんネイト・ウーリーの駆使するトランペットなどによって阿鼻叫喚。

2013年の「IV」では、ドラムスのブラッシュワークやその他の擦音により静かに過激に始まり、ドローン的に、ときにドラマチックな展開をみせる。次にどのような絵巻が現れるのか、何度聴いても怖いようなところがある。それぞれの絵巻の中での意図的な楽器間の対話が、塑像力を掻き立てる。また、ここでも、「III」と同様に、クリス・コルサーノの見事にパルスを分断して発するドラムスに耳が引き寄せられる。

「JazzTokyo」でも翻訳・紹介しつつ未聴だったのだが(http://www.jazztokyo.com/column/jazzrightnow/007.html)、確かに、シスコ・ブラッドリー氏の言うように衝撃のようなものが持続する。よくわからぬものによる鈍痛というべきか。

●参照
ネイト・ウーリー『(Dance to) The Early Music』(2015年)
ネイト・ウーリー『Battle Pieces』(2014年)
ネイト・ウーリー『(Sit in) The Throne of Friendship』(2012年)
ネイト・ウーリー『(Put Your) Hands Together』(2011年)
ハリス・アイゼンスタット『Canada Day IV』(2015年)(ウーリー参加)


マリア・シュナイダー『The Thompson Fields』

2016-03-26 10:21:21 | アヴァンギャルド・ジャズ

マリア・シュナイダー『The Thompson Fields』(artistShare、2014年)を入手して以来、ときどき聴いているのだが、そのたびに素晴らしいなという印象が強くなっていく。

Maria Schneider (conductor)
Steve Wilson (alto/soprano/clarinet/flute/alto flute)
Dave Pietro (alto/clarinet/piccolo/flute/alto flute/bass flute)
Rich Perry (tenor/flute)
Donny McCaslin (tenor/clarinet)
Scott Robinson (baritone/clarinet/bass clarinet)
Tony Kadleck (trumpet/flügelhorn)
Greg Gisbert (trumpet/flügelhorn)
Augie Haas (trumpet/flügelhorn)
Mike Rodriguez (trumpet/flügelhorn)
Keith O'Quinn (trombone)
Ryan Keberle (trombone)
Marshall Gilkes (trombone)
George Flynn (bass trombone/contrabass trombone)
Gary Versace (accordion)
Lage Lund (guitar)
Frank Kimbrough (piano)
Jay Anderson (bass)
Clarence Penn (drums)
Rogerio Boccato (percussion)

曲ごとに絞ったソロイストをフィーチャーして、背後で鳴らしてゆく和声のつけ方がなんとも繊細である。はじめは静かに、やがておもむろにクライマックスを作ってゆく。管楽器たちが爽やかな風のようにざわざわと形作る和声の中で、フランク・キンブロウのピアノが朝の露のように小さく光りながら転がり、あるいは、ラーゲ・ルンドのギターが微妙な響きを作る。

CDのブックレットには、野の写真がたくさんおさめられている。このサウンドは、まさにそのように、野や原において太陽光と草木の匂いと風とがつぎつぎに離合集散する有機的な世界のイメージだ。気持ちいいこともむせ返ることもあったりして。なんて鮮烈で爽やかな音楽なんだろう。


齋藤徹・バッハ無伴奏チェロ組曲@横濱エアジン

2016-03-26 07:43:58 | アヴァンギャルド・ジャズ

齋藤徹さんによる渡欧前の最後の演奏を観ておこうと思い、横濱エアジンに足を運んだ(2016/3/25)。

Tetsu Saito 齋藤徹 (b)

バッハの無伴奏チェロ組曲。チェロのために書かれた曲を、ひとまわり大きなコントラバスで、しかもスティール弦ではなくガット弦を張りなおして演奏する。テツさんは、無謀だということはわかってはいるが、楽器にあわせて演奏するのだというようなことを言った。ときどきは自虐的なコメントをさしはさみながら。

テツさんのFacebookに、次のようにある。

「演奏においても、楽器製作・修理においても、弓においても、ヴィオラはヴァイオリンを目指し、チェロはヴィオラをさらにはヴァイオリンを目指し、コントラバスはチェロを、ヴィオラを、ヴァイオリンを目指すのが一つの大きな流れです。(流れには理由があるのです。)
なのに: 私のガット弦へのこだわりはどこから来ている?コントラバスというものは「倍音」と「雑音」が最大の特徴だ、という私のコントラバス観は、かなり変わっていると言わざるを得ません。」
「それは楽器の「発達」と逆行し、謂わば、民族楽器に戻る方向です。現代日本の民族楽器たるには何が求められるのか?そうすれば邦楽器と対抗できるのか?そんな指向・嗜好をもってバッハを弾くことにどんな意味がある?」
「現在、コントラバス演奏の主流のスティール弦だと、発音してからビブラートを強くかけて、まるでえぐり出すように音を出す傾向があります。特にクラシックの「名人」と言われる演奏で顕著です。
それは聴く人の感情を持ち去るような効果をもちます。しかしそれは感情をある方向に限定していく傾向があります。「どうです?気持ちいいでしょう?」と強制される気がしてしまいます。」
https://www.facebook.com/tetsusaitoh/posts/1173943152645927
https://www.facebook.com/tetsusaitoh/posts/1178166695556906

はじめのひと弾きを聴いて、あっずれていると思った。その場にいた聴客の多くが、思い描いていた音との差異に息を呑んだに違いない。しかしそれは、あるべき音程からずれているのではなかった。

美しい山を描く周波数のプロファイルが心に共振を与えることがあるとして、ここでの音はまったくそれとは異なる。

弓で弾いたときの周波数は、山の部分はさまざまな形をしていて、植生している樹々も雑木林のように多様である。森林とはそもそもそのように多様性を言い換えたことばではなかったか。それは生木のようにピキピキという音を立てたりもして、確かに発せられた途端に減衰していき、残るものは静かに鼓膜を震わせる残響ではなく、山の高まりが消えたあとの草叢やすすき野がお互いに触れて発する音。

ピチカートの音が鼓膜を触るときにも、草叢を歩いてズボンに沢山くっつく「ひっつき虫」のやわらかい棘棘のような印象があった。ピチカートを中心とした第6部では、不思議にも、沖縄の島のような印象を覚えた。

ここでは、精製され純化された音そのものではなく、発せられ消えていく音のありようを体感しているのだった。バッハの作品ではなく、バッハか他の誰かが音楽を立ち上がらせていくときの息遣いのようなものかと思った。

「ざわっざわっと箒の音がきこえます。
 とおくの百舌の声なのか、北上川の瀬の音か、どこかで豆を箕にかけるのか、ふたりでいろいろ考えながら、だまって聞いてみましたが、やっぱりどれでもないようでした。
 たしかにどこかで、ざわっざわっと箒の音がきこえたのです。
 も一どこっそり、ざしきをのぞいてみましたが、どのざしきにもたれもいず、ただお日さまの光ばかりそこらいちめん、あかるく降っておりました。」
(宮沢賢治「ざしき童子のはなし」)

Nikon P7800

●参照
うたをさがして@ギャラリー悠玄(2015年)
齋藤徹+類家心平@sound cafe dzumi(2015年)
齋藤徹+喜多直毅+黒田京子@横濱エアジン(2015年)
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)
バール・フィリップス+Bass Ensemble GEN311『Live at Space Who』(2012年)
ミッシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹@ポレポレ坐(2011年)
齋藤徹による「bass ensemble "弦" gamma/ut」(2011年)
『うたをさがして live at Pole Pole za』(2011年)
齋藤徹+今井和雄『ORBIT ZERO』(2009年)
齋藤徹、2009年5月、東中野(2009年)
ミッシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm(2007年)
往来トリオの2作品、『往来』と『雲は行く』(1999、2000年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ『交感』(1999年)
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、池澤夏樹『眠る女』、齋藤徹『パナリ』(1996年)
ミシェル・ドネダ+アラン・ジュール+齋藤徹『M'UOAZ』(1995年)
ユーラシアン・エコーズ、金石出(1993、1994年)


文京洙『新・韓国現代史』

2016-03-24 22:47:38 | 韓国・朝鮮

文京洙『新・韓国現代史』(岩波新書、2015年)を読む。

とてもよくまとまった通史である。示唆に富む箇所も少なくない。

例えば。
●徳川政権の日本は朝鮮を一段下の存在と見なしていた(通信国として)。その一方で、朝鮮も日本を一段下の存在とみなしていた(小中華思想的に、辺境として)。(もちろんこれは、「どっちもどっち」と雑に客観視すべきということではない。)
●朝鮮戦争(1950年~)は、済州島での虐殺(四・三事件、1948年)を朝鮮半島全域において再現する形であった。これは「アカ」を無条件に殺してもよい敵だとする刷り込みとして、韓国において長く残った。もちろん、それにはアメリカが深く関与している。
●朴正熙政権下での経済成長は、韓国社会への影響をまったく考慮せずに、純粋に「経済合理性」の見地から進められた結果だった。つまり、実験場であった(世界銀行、新古典派)。
●日本の歴史認識の甘さが、常に、日韓の関係構築を阻害してきた。(つまり、バックラッシュ以降のことなどではない。)
●地域感情の差が、常に、韓国の政治において利用されてきた。特に全羅道(韓国南西部)は激しい差別の対象となってきた。この構造は、いまの選挙においても変わらない。金大中は全羅道出身であり、また、光州事件(1980年)以降、リベラルが強い地域ともなっている。
●廬武鉉を大統領に押し上げた市民ネット社会の力は大きかったが、一方で、移り気で読めないものでもあった。ポスト廬の保守政権(李明博、朴槿恵)の誕生を押しとどめることができない結果にもなった。
●歴史認識の逆流は、2000年代の半ばに「ニューライト」として現れた。これは日本の「歴史修正主義」から10年遅れでやってきた現象であり、言葉も、「自虐史観」など日本からの借り物であることが少なくない。
●李明博政権の失政のひとつに、韓国四大河川の開発があった(川で遊ぶ、川を守る~日本と韓国の水辺環境)。この結果、地方の中小建設業者の受注率は計画の4割に過ぎず、景気浮揚も経済活性化も認められなかった。潤ったのは大手の建設会社のみであった。(どこかで聞いたような話である。)

「解放」後の韓国の歩みと日韓関係とを俯瞰することができる良書である。

●参照
文京洙『済州島四・三事件』
水野直樹・文京洙『在日朝鮮人 歴史と現在』
大西裕『先進国・韓国の憂鬱』
金浩鎮『韓国歴代大統領とリーダーシップ』
コバウおじさん
T・K生『韓国からの通信』、川本博康『今こそ自由を!金大中氏らを救おう』
金芝河のレコード『詩と唄と言葉』
四方田犬彦『ソウルの風景』
和田春樹『北朝鮮現代史』
服部龍二『外交ドキュメント 歴史認識』
波多野澄雄『国家と歴史』
高橋哲哉『記憶のエチカ』
高橋哲哉『戦後責任論』
外村大『朝鮮人強制連行』


高瀬アキ『St. Louis Blues』

2016-03-24 08:05:56 | アヴァンギャルド・ジャズ

高瀬アキ『St. Louis Blues』(Enja、2001年)を聴く。

Aki Takase 高瀬アキ (p)
Rudi Mahall (bcl)
Fred Frith (g)
Nils Wogram (tb)
Paul Lovens (ds)

あまりにも有名な「St. Louis Blues」を含め、W.C.ハンディの曲をカバーしたアルバム。他にもメンバーのオリジナルも演奏していて、それがハンディの曲とすんなりと融和している。

高瀬アキの悠然として音が立ったピアノは、アーリー・ジャズのようでもあり、ヨーロッパ的にも聴こえる。ルディ・マハールのキャラが立っているバスクラは、楽器を鳴らし切って道の真ん中を歩くというよりも、飄々とヘンな音で側道を歩くかぶき者の音であり、諧謔のようでもあり、また本道か側道かなんてどうでもよくなる愉快さに満ちている。そして意外にも、フレッド・フリスがこの中でギターをかき鳴らす面白さ。

日本とヨーロッパによるブルースへのアプローチ、などと決めつけたような見方をすることはない。外れた個性たちによるブルース再構築、メタ・ブルースとでも言うのか。

●参照
アンサンブル・ゾネ『飛ぶ教室は 今』(2015年)(高瀬アキ、マハール、ヴォグラム参加)
「失望」の『Vier Halbe』(2012年)(マハール参加)
フレッド・フリス+ジョン・ブッチャー『The Natural Order』(2009年)
アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『ライヴ・イン・ベルリン』(2008年)(マハール参加)
シュリッペンバッハ・トリオ『Gold is Where You Find It』(2008年)(ローフェンス参加)
『失望』の新作(2007年)(マハール参加)
リー・コニッツ+ルディ・マハール『俳句』(1995年)
『Improvised Music New York 1981』(1981年)(フリス参加)
シュリッペンバッハ・トリオ『Detto Fra Di Noi / Live in Pisa 1981』(1981年)(ローフェンス参加)
シュリッペンバッハ・トリオ『First Recordings』(1972年)(ローフェンス参加)


rabbitoo@フクモリ

2016-03-23 23:50:58 | アヴァンギャルド・ジャズ

万世橋のフクモリにて、rabbitooを観る(2016/3/23)。

Motohiko Ichino 市野元彦 (g)
Daisuke Fujiwara 藤原大輔 (ts, effect)
Hiroki Chiba 千葉広樹 (b)
Koichi Sato 佐藤浩一 (key, p)
Noritaka Tanaka 田中徳崇 (ds)

トンネルの跡なのだろうか、音が筒状のコンクリートの空間に響く。循環し何かへとシフトしていくサウンド、ソロ回しなどではない形で個々が主張するサウンド。仕事のあとでとても疲れていたのだが、この循環に耳をゆだねていると奇妙に覚醒してきた。

この面白さは何ならむと思いググっていると、市野さんと田中さんによるインタビュー記事を見つけた。なるほどと腑に落ちるところがあった。
http://www.cdjournal.com/main/cdjpush/rabbitoo/1000000958

そういえば渋谷毅さんだって、毎回違うことをやろうとする野心を漲らせているわけではないし、クリシェのようでいてクリシェでは決してない。同じように、プラクシスなるものと、それによる微細なズレが、ミニマリズムに限りない面白さを供給しているわけである。

●参照
福冨博カルテット@新宿ピットイン(2015年)
アクセル・ドゥナー + 今井和雄 + 井野信義 + 田中徳崇 『rostbeständige Zeit』(2008年)


林栄一+小埜涼子『Beyond the Dual 2』

2016-03-23 07:18:14 | アヴァンギャルド・ジャズ

林栄一+小埜涼子『Beyond the Dual 2』(R-Records、2014-15年)を聴く。

Eiichi Hayashi 林栄一 (as)
Ryoko Ono 小埜涼子 (as)

林栄一のアルトサックスは誰が聴いても一発で判るような音色で、節回しもまた個性的。そのため、『音の粒』といった完全ソロや、たとえば「往来トリオ」だとか『Mona Lisa』だとかのワンホーン作品でも、わたしはその気にならないと聴かないことが多い。(もっともそれは個性的な楽器奏者の誰についても言えることだろうけれど。)

このアルトふたりのくんずほぐれつの吹き込みからは、その林さんの個性だけが聴こえてくるわけではないが、同時に重層的なサウンドの中から林さんの個性がくっきりと浮かび上がってきて面白い。小埜さんのドライで闊達なソロの積み重ねも好きになる。1足す1は3以上である。

●参照
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2011年)
カーラ・ブレイ+スティーヴ・スワロウ『DUETS』、渋谷毅オーケストラ
往来トリオの2作品、『往来』と『雲は行く』(1999-2000年)


ジョン・ゾーン『Spy vs. Spy』

2016-03-21 23:57:15 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジョン・ゾーン『Spy vs. Spy - The Music of Ornette Coleman』(Elektra/Musician、1988年)を聴く。

John Zorn (as)
Tim Berne (as)
Mark Dresser (b)
Joey Baron (ds)
Michael Vatcher (ds)

たぶん20年以上前に聴いて以来である。当時はキッチュでわけのわからないものとしか思えなかった。いま聴いてみると、電気ドラムの籠った音などやめてほしいところはあるが、まあまあ愉しい。

オーネット・コールマンの音楽が冗談のようにスピーディーかつアクロバティックであり、これは、オーネットであろうとジャズであろうと、そうした過去の残滓を引きずっているものに対してゾーンが投げつけたメタ化爆弾だったわけである(たぶん)。その方法論は、「ネイキッド・シティ」の第1作における「Lonely Woman」でも同じようなもので、それがグロテスクでもあった。同作の中ジャケットには丸尾末広のイラストを使っていたりして、「ジャズ・ファン、イート・シット」などと言ってのけたゾーンの意図的な戦略だったのだろうね。

なぜ今ころ思い出したように入手したのかと言うと、ゾーンの相方アルトがティム・バーンだからで(そんなことも意識せず聴いていた)、耳がどうしても粘っこいバーンの音を追いかけてしまう。たぶんこれからもバーンを求めて聴くのである。

●ジョン・ゾーン
ジョン・ゾーン『Interzone』 ウィリアム・バロウズへのトリビュートなんて恥かしい(2010年)
ミッキー・スピレイン、ジョン・ゾーン(1987年)
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(1985年)
『Improvised Music New York 1981』(1981年)
ロイ・ローランド『Mickey Spillane / The Girl Hunters』(1963年)

●ティム・バーン
イングリッド・ラブロック UBATUBA@Cornelia Street Cafe(2015年)
イングリッド・ラブロック『ubatuba』(2014年)
ティム・バーン『You've Been Watching Me』(2014年)
ティム・バーン『Shadow Man』(2013年)
チェス・スミス『International Hoohah』(2012年)
ティム・バーン『Electric and Acoustic Hard Cell Live』(2004年)