Sightsong

自縄自縛日記

『けーし風』読者の集い(14) 放射能汚染時代に向き合う

2011-07-31 09:08:03 | 沖縄

『けーし風』第71号(2011.6、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した。参加者は4名と少ない。

放射能汚染時代に向き合う」と題された特集であり、一見弱いように感じる沖縄との関連性は強い。権力の住民軽視、基地と原発の立地、メディアとの距離。核や毒ガスや枯葉剤といった、沖縄米軍基地にかつて(今も?)持ち込まれている「目に見えない毒」の恐怖だって、そうである。

議論も含めて、気付いたこと。

『未決・沖縄戦』(2008年)(>> リンク)を撮った輿石正氏が、東北からの被災家族を受け入れている。このときの映像を『10年後の空へ』として完成したそうであり観たいところ。
○その被災家族も、松田潤「国民共同体からの逃走」でも、早尾貴紀「原発事故から避難するネットワークの動き」でも、「逃げる権利」に言及している。これは非常に重要な点である。一方では、「逃げる」ことへの非難・批判や、その場にとどまることに対するヒロイックな高揚した気分があちこちに見られるからだ。(『AERA』のコラムをやめた野田秀樹の主張も、もっともらしいように聞こえて、所詮はそんなものだった。)
○いわき市では全戸に東電から年間4000円が配布されていたとのこと、どのような枠組みか。
○早尾貴紀「原発事故・・・」や矢ヶ崎克馬「内部被曝の可能性と防御への道」で指摘されているように、被曝限度の基準を突然上げている政策は科学的根拠に背を向けた危険極まるものであり、住民を避難させない(福島をからっぽにさせない)ためのものでもあった。
○いまの社会におけるインターネットの重要性が指摘されている(一応はメディアが機能している日本と、それのみに頼らざるを得ない中東とは異なるとの論調があったが、実はそうではない)。OAM(沖縄オルタナティブメディア)(>> リンク)もその可能性のひとつであり、真喜志好一「オスプレイ配備計画を撃つ」でも、生の情報を発信する場としてOAMを紹介している。
竹内渉「知里真志保と創氏改名」では、アイヌに対する「創氏改名」政策が、実は朝鮮に対する適用前のトレーニングであったことを示している。なお、明治期の戸籍の「族称欄」には、「旧土人」と付け加えられていた。
佐藤学「米軍再編:アメリカでいま何が起こっているか」は相変わらず鮮やかな立証・論考である。これによると、普天間を固定し、辺野古に基地を作ろうとしているのが必ずしも米国政府ではなく、他ならぬ日本政府であることが理解できる。
○沖縄では毎年軍用地料を値上げして軍用地主との契約をさせていたが、ここにきて、地価や物価との比較上さほどいいものではなく、軍用地主会は政府との契約に前向きではなくなってきている(通常の面積なら年間200-300万円を得る)。そのため反戦地主会の人数も増えてきている。

●参照
『けーし風』読者の集い(13) 東アジアをむすぶ・つなぐ
『けーし風』読者の集い(12) 県知事選挙をふりかえる
『けーし風』2010.9 元海兵隊員の言葉から考える
『けーし風』読者の集い(11) 国連勧告をめぐって
『けーし風』読者の集い(10) 名護市民の選択、県民大会
『けーし風』読者の集い(9) 新政権下で<抵抗>を考える
『けーし風』読者の集い(8) 辺野古・環境アセスはいま
『けーし風』2009.3 オバマ政権と沖縄
『けーし風』読者の集い(7) 戦争と軍隊を問う/環境破壊とたたかう人びと、読者の集い
『けーし風』2008.9 歴史を語る磁場
『けーし風』読者の集い(6) 沖縄の18歳、<当事者>のまなざし、依存型経済
『けーし風』2008.6 沖縄の18歳に伝えたいオキナワ
『けーし風』読者の集い(5) 米兵の存在、環境破壊
『けーし風』2008.3 米兵の存在、環境破壊
『けーし風』読者の集い(4) ここからすすめる民主主義
『けーし風』2007.12 ここからすすめる民主主義、佐喜真美術館
『けーし風』読者の集い(3) 沖縄戦特集
『けーし風』2007.9 沖縄戦教育特集
『けーし風』読者の集い(2) 沖縄がつながる
『けーし風』2007.6 特集・沖縄がつながる
『けーし風』読者の集い(1) 検証・SACO 10年の沖縄
『けーし風』2007.3 特集・検証・SACO 10年の沖縄


北井一夫『湯治場』

2011-07-31 01:22:02 | 東北・中部

六本木のZen Foto Galleryで、北井一夫『湯治場』を観る。1970年代に、秋田や岩手や青森などのひなびた温泉地で撮られた作品群である。

土曜日の昼は北井さんのいつもの在廊パターンかと思っていたら、観ているうちに、やはりおにぎりが入ったコンビニ袋片手に現れた。

この写真群は、キヤノンIIDIVSbキヤノン25mm、一部はライカM3M4(まだM5を使いはじめる前)にエルマリート28mmにより撮られており、フィルムはトライXの1600増感が多いそうである。エルマリートによる作品は、「山形県滑川温泉」(17頁)、「宮城県仙台市」(20頁)、「栃木県三斗温泉小屋」(21頁)などだそうで、パッと見には違いはわからない。今回のプリントではなく、既に1990年ころには焼いていたのだという。

肌が凍てつくような寒さと湯気が共存する暗い空間、湯治客たちはほっとして笑顔を浮かべており、そういった姿が粒子感とともにもやっと浮かびあがる。宿の寒そうな室内では、板の床、何枚も重ねてある布団、そして子どもという生命体。これはたまらない。つい日本の原風景などとどこかで聞いたような言葉を口走りそうになるが、しかし、国などを超えた広がりを持つ原風景に違いない。やはり特別な写真家なのだ。

このように北井さんとお会いすると、写真と政治との関係性のような話になる。曰く、自分もそうだったからよくわかるのだが(『抵抗』や『三里塚』など)、芸術としての写真は政治に使うようなものであってはならない、と。話の中で、豊里友行さんや石川真央さんについても言及がある。考えるところ多い。

最近は、ライカM5+TMAX100ライカM6+トライX、レンズはエルマー50mm沈胴ズミクロン50mmが多いそうである。

今後の北井一夫情報

●『Walking with Leica 3』(印刷で時間がかかったが、そろそろ写真集が出るとのこと) ギャラリー冬青
●1965年、神戸の港湾労働者を撮った未発表写真群(2013年) ギャラリー冬青
●『村へ』カラー版!(2014年?) ギャラリー冬青
●『三里塚』 ワイズ出版のものよりも前の作品群、もうドイツの出版社のカタログには載っているとのこと

●参照 北井一夫
『ドイツ表現派1920年代の旅』
『境川の人々』
『フナバシストーリー』
『Walking with Leica』、『英雄伝説アントニオ猪木』
『Walking with Leica 2』
『1973 中国』
『西班牙の夜』
『新世界物語』
中里和人展「風景ノ境界 1983-2010」+北井一夫
豊里友行『沖縄1999-2010』


韓国冷麺

2011-07-30 09:27:29 | 韓国・朝鮮

暑くて疲れてだるいときには韓国冷麺。所用で出かけた先では何となく探してしまう。

初めて食べたときはもう二十歳を過ぎていて、噛み切れない麺と上に乗っている西瓜に仰天したものだった。

浜松町の駅近くにある「韓豚屋(ハンテジヤ)」。店内はまるで韓国の市場内食堂で(行ったことがないが)、店員もフレンドリーでいい感じである。他にも店舗があるみたいだ。冷麺にはいろいろ変った種類があって、目を引いた「九条葱冷麺」を食べた。見た目ほど奇抜な味ではなく、勿論葱が冷麺に合わないわけもなく、満足した。

東銀座の三原橋近くにある「はいやく」は、薬膳料理を謳っているだけあって上品な作りの店。ランチなのに椅子まで引いてもらって恐縮する。味もやはり上品。自分は残念ながら上品でないのだけれど。

川崎の「屯ちん」は、池袋に本店があるラーメン屋で、ここの味を模したカップラーメンを食べてしまうほど好きなところである。先日も、ずっと会議で空腹感が押し寄せていて、ラーメンで頭を一杯にして突入すると、「韓式冷やし麺」の文字。冷麺ではなくラーメンなのだという謳い文句が並んでいる。旨かったが、やはりこの麺は熱いラーメンで食べたほうがいい。

茅場町の「よんじこんじ」。東京証券会館の裏側の路地、古い雑居ビルの奥側にある。他の店と同じビルだが、ここは看板がほとんど外に出ておらず目立たない。やはり仕事を終えたあと、空腹感を漲らせて突入、「ひとりですが食事だけでもいいですか」と訊くと店の女性はげらげら笑い、「ほらここにもひとりで呑んでる人がいるよ!」と、そのひとり呑み人の前の席をあてがわれた。茅場町は古い町で、こういった路地感も情も残っているのだ。

折角の縁なので生ビールと冷麺を注文。ひとしきり四方山話をする。冷麺の量が多く、満腹になってしまった。やはり蕎麦粉をたくさん使った麺は旨い。白い太麺と黒い細麺とを選ぶことができる店も多いが、韓国冷麺なら断然黒い細麺である。

●参照
赤坂コリアンタウンの兄夫食堂
鶴橋でホルモン
枝川コリアンタウンの大喜
「屯ちん」のラーメンとカップ麺


森口豁『毒ガスは去ったが』、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』

2011-07-29 06:54:45 | 沖縄

駒込の琉球センター・どぅたっちで、ジャーナリストの森口豁さんが「NNNドキュメント」枠で撮ったドキュメンタリーを2本観た(2011/7/28)。

■『毒ガスは去ったが』(1971年)

山中の米軍嘉手納弾薬庫地区にある知花弾薬庫では、1969年、毒ガス兵器が漏れる事故があった。密かに持ち込まれていたものだった。このドキュメンタリーは、1971年、それらをハワイ近海のジョンストン島(現在は無人島)に移す様子を記録している。延べ56日間、移送回数136回、トレーラー1319台を使う大規模なものであった。移送ルート近くの住民は、毒ガスの恐怖に怯え、避難生活を強いられた。

森口さんは次のように語った。ドキュを撮った40年前の前年はコザ暴動、翌年は沖縄復帰があった。そしてその年、「見えない恐怖」が襲った。毒ガスと原発は似ている。これからだってどうなるか判らない。もっと恐ろしい現実が襲いかかるかもしれない、と。私にとって米軍の毒ガス持ち込みは単なる知識に過ぎないものだったが、このように「ねっちり」と撮られたことにより、住民の恐怖をわずかながら体感することとなった。優れたドキュの力である。

現地リポーターを務めた寺田農から、最近、森口さんの写真集についての感想を毛筆でしたためた分厚い手紙が届いたという。その中には、「沖縄と向き合ったあの日から、ずっと沖縄を忘れることなく関心を持っていますよ」と書いてあった。まさに40年前の今年は現在の今年である。森口さん曰く、「自分の命は自分でしか守れない」ものであり、「確たる見通しももてないまま逃げまくった」姿は、今のわれわれの姿と重なるものだ、と。

ドキュでは、ドルの変動相場制移行に伴う経済的な犠牲も映し出している。「日本復帰がもう1年早ければもっと犠牲は少なかったはず」というそれは、やはり、日本政府の沖縄軽視を反映したものだった。ドル価値はみるみるうちに目減りし、本土からの「移入」に頼る生活必需品の価格は高騰した。1971年11月、沖縄中の金融機関をすべて閉鎖し、手持ちドルの登録を行うことによって、損失補償の策が打たれた。しかし、その対価は360円より遥かに安い308円程度であった。

ところで、国頭村安田の祭り「シヌグ」も登場する。貴重な映像である。

■『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』(1979年)

彫刻家・金城実、41歳(!)。「ほとんど独演会、しばし金城節に酔ってほしい」との森口さんの弁のあとに上映された。彫刻作品「戦争と人間」とともに全国をキャラバンのようにまわる姿を記録している。そしてやはり、ヤマトゥに対する思い、平和や戦争に対する思いが吹きまくる。

番組の放送がどういうわけか2週間ずれこむ間、タイトルの「在日沖縄人」に関して、7-8回は抗議の電話があった。沖縄人を日本人とみていないのか、これまでの同化の努力を台無しにするものだ、というわけである。森口さんも、番組制作の「タブー」ではあったが、事前に金城さんに相談している。しかし、金城さんは関西弁で「おもろいがな!」と、あっけらかんとしたものだったという。 

この「同化」に関して、森口さんが興味深い事例を紹介している。大阪大正区の関西沖縄文庫では、以前、森口さんを招聘し、「復帰35年、ドウカしちゃった私たち」というタイトルのイベントを行っている。ドウカしちゃった=どうかしちゃった=同化しちゃった、という問題提起である。


大木さんと森口さん
 

会場には大木晴子さんも体調が悪いなか駆けつけた。金城実の写真集を構想しているということで、これは期待せざるをえない。

上映後は森口さんを囲んだ飲み食いの場。故・金城哲夫のこと、じーまみ豆腐のことなど興味深い話ばかりだった。

●参照 森口豁
森口豁『アメリカ世の記憶』
森口豁『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』
森口カフェ 沖縄の十八歳
罪は誰が負うのか― 森口豁『最後の学徒兵』
『子乞い』 鳩間島の凄絶な記録

●参照 金城実
豊里友行『彫刻家 金城実の世界』、『ちゃーすが!? 沖縄』
金城実+鎌田慧+辛淑玉+石川文洋「差別の構造―沖縄という現場」
金城実『沖縄を彫る』
『ゆんたんざ沖縄』

●NNNドキュメント
岩国基地のドキュメンタリー『鉄条網とアメとムチ』(2011年)、『基地の町に生きて』(2008年)
『沖縄・43年目のクラス会』(2010年)
『シリーズ・戦争の記憶(1) 証言 集団自決 語り継ぐ沖縄戦』(2008年)
『音の記憶(2) ヤンバルの森と米軍基地』(2008年)
『ひめゆり戦史・いま問う、国家と教育』(1979年)、『空白の戦史・沖縄住民虐殺35年』(1980年)
『沖縄の十八歳』(1966年)、『一幕一場・沖縄人類館』(1978年)、『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』(1983年)


森口豁『アメリカ世の記憶』

2011-07-27 23:17:25 | 沖縄

ジャーナリスト・森口豁さんは、高校生のときの1956年、沖縄に渡っている。高校同窓の金城哲夫(『ウルトラマン』)の導きによるものだったという。そして改めて1959年、大学を中退し、沖縄でのジャーナリスト活動を開始している。まさにその年、石川市(現・うるま市)の宮森小学校に米軍機が墜落し、多くの犠牲者を生む事件が起きている。

『アメリカ世(ゆー)の記憶』(高文研、2010年)は、そのときから日本への施政権返還までの沖縄の姿、いわゆる「アメリカ世」を捉えた写真文集である。

そのようなわけで、仰天し、凝視してしまう写真が数多く収められている。「大文字」の歴史的瞬間だけではない。ひとりひとりの佇まい、表情、視線、空気に時空間が反映されているように見えてならないのである。メーデーの場所で、バス停車場で、キャンプ・シュワブ建設予定地で、呆然と座り、頬杖をつく人たちの姿すべてが歴史である。

勿論、国家権力に対する怒りはモノクロ写真においても噴出していることがわかる。米軍の基地拡張により故郷を追われた人々。ハンセン病で差別・隔離されひとり暮らす老女。宮森小学校の窓に吊るされた千羽鶴。沖縄戦の遺骨を探す人々。森口さんがヤマトンチュだとわかるや恐怖のあまり姿を隠してしまった老女。

自身のテレビドキュメンタリーについて、いくつか言及されている。久高島を撮った『乾いた沖縄』(1963年)、平敷兼七ら沖縄の写真家たちが昭和天皇の死をどのように表現したかを追った『昭和が終わった日』(1989年)は、ぜひ観たい作品だ。琉球センター・どぅたっちさん、上映しませんか?

◇琉球センター・どぅたっちでは、7/28(木)、森口豁さんのドキュメンタリー『毒ガスは去ったが』(1978年)と『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』(1979年)の上映を行う。前者は沖縄の米軍基地に貯蔵されていた毒ガス兵器を追ったもの。後者では若い日の金城実さん(彫刻家)が登場するという。>> リンク

●参照 森口豁
森口豁『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』
森口カフェ 沖縄の十八歳
罪は誰が負うのか― 森口豁『最後の学徒兵』
『子乞い』 鳩間島の凄絶な記録


黒木和雄『日本の悪霊』

2011-07-27 00:06:09 | アート・映画

黒木和雄『日本の悪霊』(1970年)を観る。高橋和巳は当然同時代ではなく、『我が心は石にあらず』でウンザリした自分にとって、そこは興味の対象ではない。佐藤慶の一人二役が観たかったからに過ぎない。


『アートシアター ATG映画の全貌』(夏書館、1986年)より

日本共産党が中国の影響下に結成した山村工作隊は、自己批判とともに否定された。映画に登場する佐藤慶は、左翼学生の時に自らを変えることができず、地主を殺害する(リーダーは土方巽!)。それは時効となるが、そもそも、やくざと警察との癒着の材料に使われていて、「無かった」ことにされていた。やくざとなった佐藤慶と、彼に瓜二つの警部・佐藤慶。このふたりが入れ替わり、やがて、話は混沌と化す。

映画としての完成度は低く、あまり誉めるようなところがない。佐藤慶、土方巽、殿山泰司渡辺文雄といった怪人たちの登場が嬉しいくらいだ(伊佐山ひろ子の名前もあったが、どの役だろう?)。

岡林信康が何度も登場しては、ギターを掻き鳴らし歌いまくる。『原子力戦争』(1978年)における福島第一原発のゲリラ取材といい、黒木和雄は楽屋落ちによる異化が好みだったのだな。

●参照(黒木和雄)
黒木和雄『原子力戦争』
井上光晴『明日』と黒木和雄『TOMORROW 明日』
『恐怖劇場アンバランス』の「夜が明けたら」、浅川マキ(黒木和雄)

●参照(ATG)
実相寺昭雄『無常』
黒木和雄『原子力戦争』
若松孝二『天使の恍惚』
大森一樹『風の歌を聴け』
淺井愼平『キッドナップ・ブルース』
大島渚『夏の妹』
大島渚『少年』
新藤兼人『心』
グラウベル・ローシャ『アントニオ・ダス・モルテス』


枝川コリアンタウンの大喜

2011-07-25 23:41:35 | 韓国・朝鮮

元気を出したいときは肉だと思い、唐突に研究者のTさんを誘い(迷惑行為)、江東区枝川の「大喜」に突入した。『パッチギ!Love & Peace』主演の中村ゆりが、演技の参考のため、撮影前に少しバイトした店でもある。

店員さん推薦の特上ハラミと牛スジハラミ、それからギヤラ、上カルビ。特上ハラミはとても旨い。その一方、牛スジハラミはよく焼かないと、スジが歯に挟まったり噛み切れなかったりして大変なことになった。これは網の端にでも置いておいて、十分にスジを溶かしてから食べるべきものだという結論に達した。

教訓。甘い考えで立ち向かうと、肉の逆襲に遭う。


特上ハラミ


ギヤラ、牛スジハラミ


上カルビ

●参照
『東京のコリアン・タウン 枝川物語』
枝川でのシンポジウム「高校無償化からの排除、助成金停止 教育における民族差別を許さない」
道岸勝一『ある日』
井筒和幸『パッチギ!Love & Peace』
赤坂コリアンタウンの兄夫食堂
鶴橋でホルモン


井筒和幸『パッチギ!Love & Peace』

2011-07-24 23:53:15 | 韓国・朝鮮

江東区枝川のコリアンタウンが舞台になっている映画、井筒和幸『パッチギ!Love & Peace』(2007年)を観る。近所のブックオフでは、本編とメイキングフィルムとの2枚組、台本などが入ったボックスセットが、外箱が日焼けしているという理由だけで1000円だった。

1974年の枝川。雑踏風景の中に、地域の重要な存在だったという江東朝鮮人生活協同組合(既に取り壊し)が見える。焼肉屋も登場する。現在の朝鮮第二初級学校はこのとき初中級学校であり、映画の中に出てくる宇野重吉(似ていない・・・寺尾聰が演じればよかったのに)は、実際に紙芝居を持って足を運んだのだろうか。

筋ジストロフィーの息子チャンスを治療するために枝川に移り住んだ主人公アンソンは、住宅と一緒になっている叔父のサンダル工場で働いている。その妹キョンジャは、ホルモン焼肉屋で働きながら、芸能界で成功しようとする。アンソンとキョンジャの父は、かつて済州島で日本軍に徴用されながら命がけで逃げ出した人だった。キョンジャが主演女優を掴んだ映画は、「お国のために命を捧げる」特攻隊員を称揚するものだった。そして完成後の舞台挨拶で、キョンジャは、自分が在日コリアンであることを告白し、父が逃げ出したからこそ自分があるのだと満員の観客に向かって話す。日本から帰れと叫び紙コップを投げる男たちの行動を機に、劇場は大乱闘となる。

公開当時、反日的かつ過度のカリカチュアだとの批判記事があった。とんでもない、意も技もある上質のエンタテインメントであり、そこには伝えたい現実社会の姿がある(勿論そんなものがなくても良い映画はいくらでもあるが、これには両方があるというだけだ)。

井筒監督が同時期公開の『俺は、君のために死ににいく』(石原慎太郎製作・脚本)をぼろくそに貶した事件もあった。まさに現実が、劇中映画を模倣した悪い冗談のように見える。自らのマジョリティ性に無自覚的な者が特攻について語る文脈は、例えば、海江田経産相が福島原発の労働者を称揚した文脈と、思考過程と、奇妙なほどに重なる。

海江田万里経済産業相は23日のテレビ東京の番組で、東京電力福島第一原子力発電所事故後の作業に関連し、「現場の人たちは線量計をつけて入ると(線量が)上がって法律では働けなくなるから、線量計を置いて入った人がたくさんいる」と明らかにした。「頑張ってくれた現場の人は尊いし、日本人が誇っていい」と称賛する美談として述べた。」(朝日新聞、2011/7/24)

●参照
『東京のコリアン・タウン 枝川物語』
枝川でのシンポジウム「高校無償化からの排除、助成金停止 教育における民族差別を許さない」
道岸勝一『ある日』


ニコラス・エチェバリーア『カベッサ・デ・バカ』

2011-07-23 10:19:06 | 中南米

ニコラス・エチェバリーア『カベッサ・デ・バカ』(1991年)を初めて観たのは、1997年の「メキシコ映画祭」においてだった。その後英語字幕版のVHSを入手し、何度も観ている。改めて観ても面白い。



「メキシコ映画祭」パンフレット(1997年)より

カベッサ・デ・バカはスペイン・セビリア出身の探検家である、というと聞こえはいいが、「白い侵略者」であり「treasurer」だった。1528年にフロリダに上陸、8年間の放浪と虜囚を経て、母国スペインの組織的な侵略者たちに遭遇する。コルテスの上陸とアステカ王国征服より後である(上陸地点を含め、「メキシコ映画祭」パンフレットの解説は間違っている)。

バカが住民に捕えられ、両腕のない小人の王や魔術師に翻弄され、そのうちに自らが死んだ女性を生き返らせる魔術師と化す様は、まさに、かつてラテンアメリカ文学を表現する際に用いられた「魔術的リアリズム」そのものだ。上陸時の仲間に遭遇するも、彼らは空腹のあまり、死んだ仲間の肉を食べては生き延びていた。

そして8年後、彼らはスペインの軍隊に取り囲まれる。侵略者は、大聖堂を建築するのに奴隷がさらに何百人も必要だ、住民に人望のあるお前が集めてくれ、と命令する。バカは既に侵略者ではなかった。建築中の大聖堂や奴隷たちを指さし、ここはスペインなのか?と絶叫する。もちろん新たに「発見」された土地は、コロンブス後、スペイン人の見地からはすべて法的にスペインのものだと見なされていた。


増田義郎『物語ラテン・アメリカの歴史』(中公新書)より

一方、バカのかつての仲間は、救出された後、得意になって酒を飲みながらほら話を繰り広げる。虜囚されていたときに「3つの乳首を持つ女」と交わるように強制されたが他は普通だったぜ、と笑わせ、黄金の町があったと場を盛り上げる。黄金帝国を探す野望が漲っていた時代だった。

●参照
ジャック・アタリ『1492 西欧文明の世界支配』
マノエル・ド・オリヴェイラ『コロンブス 永遠の海』


浦安「九州部屋」のちゃんぽん

2011-07-23 00:22:58 | 関東

以前から記者のDさんが薦めまくっていて、行友太郎・東琢磨『フードジョッキー その理論と実践』(ひろしま女性学研究所、2009年)でも触れている、浦安駅前の「九州部屋」。また行こうと思いつつはや幾年、ようやく暖簾をくぐった。松中信彦の200本塁打記念タオルやら石原裕次郎カレンダーやら何かの歯やらボクシングのカレンダーやら、何だか小カオス。テレビには「アナログ放送終了まであと2日」と表示されている。ご主人曰く、「放送が切れる瞬間を見たいと思ってね」。

とりあえずビールの小瓶を呑みながら、スポーツ紙の松井500本塁打特集を読みながら、ぽつぽつご主人と話しながら、ちゃんぽんが出来上がるのを待つ。ぜんぜん焦ることなくゆっくりと調理している。

お待ちどう様のちゃんぽんには、帆立、海老2尾、いか、豚肉、白菜、人参が豪勢に乗っている。当然のように汁にはすべて味が溶け込んでいる。そして、食べ終えてもさらりとしている。旨い。

●参照
行友太郎・東琢磨『フードジョッキー』


山之口貘のドキュメンタリー

2011-07-22 01:09:17 | 沖縄

駒込の「琉球センター・どぅたっち」に足を運んだ。つい数日前、ここのブログで詩人・山之口貘のドキュメンタリーを上映するとの告知があったのだ。こんな機会を逃すわけにはいかない。山之口貘の命日は7月19日である。

■『貘さんを知っていますか』(NHK「ETV特集」、2004年)

山之口貘の娘・山口泉さんが、髭剃りに1時間をかける父親の遺伝なのか滅多に片付けない家から、見慣れない木箱を発見した。中には20本の録音テープが入っていた。山之口貘が自作の詩を朗読した肉声だった。その詩も、山口泉さんにとっては、詩作のときに近寄れないようなバリアを張っていた記憶とはかけはなれたものだった。

本名、山口重三郎(幼少名、サンルー)。現在那覇バスターミナルのある泉崎界隈で誕生。父・山口重珍は士族の血をひく銀行員で、標準語を話さない場合に見せしめに首にかけられる「方言札」を集めて便所に投げ入れるような精神の持ち主であった。重珍は鰹節事業に失敗、石垣島に移住し、重三郎は東京に渡る。関東大震災の時には、日本刀を持った男がうろうろする殺伐とした時空間を体験している(このとき日本人は朝鮮人を数千人虐殺したばかりでなく、「言葉が違う」沖縄人も殺したのだという)。そして貧乏生活のなか「汚れ仕事」をこなし、夢を食べる動物=貘をペンネームにしている。

ドキュには、那覇の与儀公園にある「座蒲団」の碑が登場する(なお、沖縄にはもうひとつ、大宜味村の芭蕉布会館に「芭蕉布」の碑がある)。高田渡は、吉祥寺の「いせや」で烏龍茶を呑んでいる。このとき亡くなる前年である。


与儀公園の「座蒲団」 Minolta Autocord、コダック・ポートラ400VC

佐渡山豊大阪大正区を歩く。4分の1の住民が沖縄出身であったというこの地、市営住宅の表札を見て、「喜屋武」を「キャン」ではなく「キヤタケ」と読み替えたり、「岩城」は「金城」から変えられたケースがあったという話をしている。これは沖縄差別への対応に他ならなかった。貘の詩は、それに対する直接的なプロテストではなく、気弱につきつけ、それが却ってパワーを持つものになったのだ、と佐渡山豊が語っている。

貘にも弱さがあった。死後、「オホゾラノ ハナ」、「アカイ マルイ シルシ」といった戦争協力に加担するような詩を書いていたことが発見され、話題になったという。貘は、敗戦まで、国民登録所というところで徴用補佐官として禄を食んでいたのだ。貘の詩では「紙の上」や「ねずみ」が好きだと言う詩人・高良勉は、波之上宮が見える海辺に佇み、貘は自分の弱さを自覚し、見つめていたのだ、取り立てて「ぼくは反戦詩人です」とは言わなかったのだ、と分析する。また、池袋の沖縄料理屋「おもろ」で上原成信さんらと話をしながら、貘の日本復帰運動は「泡盛を忘れず、蛇味線を忘れず、日本に戻ってこい」だった、文化を持っていた、いわば「複雑骨折」であったのだと回想している。

35年ぶりに沖縄に帰ったとき、貘は飛行機でなく船を選んだ。その理由が面白い。「35年間離れていたのに、3時間で那覇に降り立って、気でも狂ったんじゃ困る」というのだった。このとき、貘は「どちらが内でどちらが外かわからない」基地に違和感を覚え、三線を弾いていた酒場で米兵にレコードを聴きたいからやめろと言われ、またも沖縄人に劣等感を持たせるではないかという印象を持っている。そして、東京に戻ってからは虚脱したように詩を書けなくなっている。

亡くなる直前に貘が記者と話したときのテープがある。中学のときに恋愛をした女の子の名前は「グジー」だったが、今では沖縄からそのような名前は消え去ってしまった。方言がなくなるのが悲しいんじゃなくて、なくなるところに沖縄の生活があるわけなんだ、と。

動く山之口貘の映像を観ることができ、さらに亡くなる直前の高田渡の姿を目にすると、何だか胸が一杯になってしまった。


高田渡、吉祥寺 Pentax LX、A135mm/f2.8、Provia 400F

■ 『貘さんの詩がきこえる』(琉球放送「情報コンビニ・龍の髭」、2003年)

この年、山之口貘生誕100年を記念した「命どぅ宝」コンサートが開かれた。何と、佐渡山豊が声をかけ、三上寛が貘の詩を唄っている。「座蒲団」も「会話」も、三上寛が唄うといつもの世界、しかし詩が貘というのがあまりにも奇妙で面白い。三上寛は、貘の詩を「自分が10年かかって書いたんだからお前らも10年かかって読め」と言われているような世界だ、と興奮気味に話している。

この「会話」は、芝宇田川町(いまの大門あたり)の喫茶店「ゴンドラ」で、貘が気になる女性に自分の出身について話す奇妙な苦労を詩にしたものだ。佐渡山豊はその界隈を歩きながら、「ヤマト世になったときの貘さんの声を聴きたい」と呟く。

山之口貘の墓は、松戸市の八柱霊園にあるという。

 

また、終わってから集まった人たちと呑みながらいろいろ話した。昼間のイヤなことは忘れてしまった。

●参照
山之口獏の石碑
「生活の柄」を国歌にしよう
高田渡『バーボン・ストリート・ブルース』
『週刊金曜日』の高田渡特集
本間健彦『高田渡と父・豊の「生活の柄」』、NHKの高田渡
どん底とか三上寛とか、新宿三丁目とか二丁目とか
三上寛+スズキコージ+18禁 『世界で一番美しい夜』
中央線ジャズ


岩国基地のドキュメンタリー『鉄条網とアメとムチ』、『基地の町に生きて』

2011-07-20 08:19:27 | 中国・四国

NNNドキュメント'11」で、『鉄条網とアメとムチ ~苦悩する基地のまち~』2011/7/17、日本テレビ・山口放送製作)が放送された。主に沖縄と山口県岩国市の基地拡大をめぐるドキュである。

民主党は、基地の町に対する自民党政権の「アメとムチ政策」を踏襲した。

沖縄県嘉手納町83%の面積は、嘉手納基地によって占められている。昨年の深夜・早朝の騒音発生回数は5320回を数え、難聴や低体重児も少なくないという。既に、第3次爆音訴訟がはじまっている。ここで520年務めた宮城町長2011/2/17退任)は、「アメとムチ」を逆利用して、さまざまなものを国から引き出したと評価されている。1996年、前年の米兵少女暴行事件を契機とした「島田懇談会」での補助事業費1000億円のうち220億円が嘉手納町に充てられた。

しかし、このようなハコモノによる活性化は期待を下回り、失業率は依然として高い。嘉手納町再開発に伴い誘致した沖縄防衛局(家賃収入1.6億円)で働く500人は昼間人口であり、町民税を払っていないのだという声がある。

また、地元の若者は、那覇新都心や北谷町で基地が返還されたが、「内地企業」が入ってきて、ウチナンチュは時給700800円でしか採用されない、バカにしているのか、と怒りの声をあげている。これはきっと、基地返還に伴う経済効果を見る際に重要な視点である。

山口県の岩国基地では、1km沖合の新滑走路が完成し(2010/5)、騒音被害軽減の謳い文句があったはずが、1.4倍の拡大・機能強化のみをもたらしている。そして、厚木基地の空母艦載機59機が移転する計画であり、120機以上を抱えることとなれば、極東最大の嘉手納基地を超える規模となる。愛宕山は、沖合滑走路埋め立てのため削られ、住宅建設の目的が破綻、防衛省が米軍住宅のため買収しようとしている。もとの地権者は、宅地として買い戻すつもりだった、と怒りを隠さない。田村順玄・岩国市議は、保守派の多い山口県にあって、反対した当時はまるで反逆者のように言われたのだという。

20063月、米軍再編に反対する井原市長(当時)のもと、米軍基地に関する住民投票が行われ、圧倒的に反対票が多い結果となった(投票率58.68%No 43433人、Yes 5369人)。それを受けて国はムチを振るい、市庁舎建設費用35億円を凍結した。井原市長は辞職、出直し投票を行うが、自民党の福田候補に敗れる結果となった。即座に補助金凍結は解除され、さらに134億円の再編交付金10年間)が与えられている。まさに民意のずれ、「アメとムチ」による住民意思の抑圧であった。

沖縄の「普天間移転」と称される辺野古の新基地建設も同様の状況があった。高専、みらい館、マルチメディアなどハコモノを作るが、やはり失業率は高い(2005年には12.5%)。現地の土木業者は、「工事の雇用を期待して内地から帰ってくる人が増えた」のだと説明する。そんな中、名護市では、基地反対を掲げる稲嶺市長が当選した(20102月)。岩国と同様に、国のムチ=米軍再編交付金の停止があった。しかし、それでも20109月の市議会選では、市長派が圧勝した。

大浦湾近くに建てられた物産館「わんさか大浦パーク」は、建設費の9割を占める3.6億円は北部振興事業の予算として出されたものの、年間2000万円の運営費に充てられる予定だった米軍再編交付金がカットされた。それでも経費節減と各区積み立てなどでしのいでいるという。

この20115月、国頭村安波への基地誘致の動きが表面化した。見返りは高速道路延長であり、工事であり、基地雇用である。沖縄選出の下地幹郎衆議院議員の動きもあった。これがどのような結果を生むのか、まだわからない。

ドキュは、基地政策が一部の弱い立場の人々に負担を強いるものであり、場当たり的だと締めくくっている。

岩国の動きについては、3年前の同じ番組枠「NNNドキュメント'08」での『基地の町に生きて ~米軍再編とイワクニの選択~』2008/6/15、山口放送製作)においても報じられていた。やはり田村順玄・岩国市議が登場し、「米軍のやりたい放題」「民主国家のやることではない」と批判している。

ここで明らかにされる国と県と市の密約。米軍のNLP(夜間着艦訓練)は滑走路を空母に見たてて夜中のタッチ&ゴーを繰り返すものであり、実は1992年、山口県・岩国市と防衛施設庁(当時)との議事録において、「NLPを将来も受け入れざるを得ない」としていたことがわかっている。騒音がなくなる、墜落の危険性がなくなる(戦後、ここでの墜落事故は29件)との謳い文句により、1997年に滑走路沖合移設工事が開始し(思いやり予算、2400億円)、単なる基地拡大となったばかりか、厚木の空母艦載機59機の呼び水となった。その前の密約であり、当然、住民はそのカラクリを知らなかった。そして愛宕山は削られ、いまでは米軍住宅用地のターゲットとなっている。

岩国基地は1930年代、旧日本軍に接収された土地であり、それが敗戦とともに米軍のものになった。集団移転の要望を出す住民たち。岩国基地から飛び立つ飛行機にはクラスター爆弾が搭載されている。

参照
『基地はいらない、どこにも』(岩国基地)
『基地はいらない、どこにも』(岩国基地)
『けーし風』読者の集い(9) 新政権下で<抵抗>を考える(井原・元岩国市長インタビュー)
東琢磨・編『広島で性暴力を考える』(岩国の米兵による暴行事件)
問題だらけの辺野古のアセスが「追加・修正」を施して次に進もうとしている 環境アセスへの意見(3)(岩国と普天間)
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(1)(岩国と嘉手納)
『国策のまちおこし 嘉手納からの報告』に見る「アメとムチ」
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
渡辺豪『「アメとムチ」の構図』
『現代思想』の「日米軍事同盟」特集
久江雅彦『米軍再編』、森本敏『米軍再編と在日米軍』

●NNNドキュメント
『沖縄・43年目のクラス会』(2010年)
『シリーズ・戦争の記憶(1) 証言 集団自決 語り継ぐ沖縄戦』(2008年)
『音の記憶(2) ヤンバルの森と米軍基地』(2008年)
『ひめゆり戦史・いま問う、国家と教育』(1979年)、『空白の戦史・沖縄住民虐殺35年』(1980年)
『沖縄の十八歳』(1966年)、『一幕一場・沖縄人類館』(1978年)、『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』(1983年)


ジョニー・トー(13) 『柔道龍虎房』

2011-07-19 00:02:53 | 香港

ジョニー・トー『柔道龍虎房』(2004年)を、BS11が放送してくれた。こういう企画はとても嬉しい。

主役は、路上でも店の中でも腕利きに戦いを挑みたくて仕方のない男と、かつて柔道で名を馳せたが今はただの飲んだくれ(ルイス・クー)。さらに、台南から台北を経て、香港で歌手としての成功を夢見る女性。ヤクザからオカネを盗んだり、突然この3人(サックス、ギター、ヴォーカル)でパフォーマンスをしたり、賭けに負けてオカネを必死で持ち逃げしたりと、相変わらず訳が解らない抱腹絶倒のエピソードだらけだ。柔道の投げ技はイマイチなのだが。

ルイス・クーはジョニー・トーの『エレクション』連作では迫力ある二枚目だったが、このようなコミカルな演技も巧い。彼はトーの新作コメディ『単身単女』(2011年)にも出ているようで、期待感が高まる。

本作は黒澤明『姿三四郎』へのオマージュだそうで、なるほど、最後は草っ原での対決場面である。ルイス・クーの相手はレオン・カーフェイ(つまりこれが檜垣源之助)、粋な悪役がハマりすぎるのは、まるで仲代達矢だ。その横では、会う人ごとに「俺は姿三四郎、お前は檜垣源之助」と言ってのけるおかしな男が、姿三四郎の歌を吟じ続けている。何でしたっけ。


『映画秘宝』2006年1月号より

ところで、映画の中で日本の芸能プロダクション社員らしき男が出てくるが、彼はトー映画専属のスチールカメラマン・岡崎裕武である・・・とは、『映画秘宝』2006年1月号のジョニー・トー小特集で自ら語っていることで、それによると、やはりトーは相当のカメラ好きらしい。今まで映画やインタビュー映像に登場した数々の銘機(コンタレックス・ブルズアイ、ツァイスイコン・ホロゴンウルトラワイド、バルナック型ライカ、ペンタックスZ-1P、ポラロイドSX-70など)がトーの私物かどうかについては触れられておらず、いまだ不明である。

『映画秘宝』誌には、ホイ・シウホンが笑福亭鶴瓶などと書いてあるが、いやいや、どう見ても渡辺喜美(みんなの党)である。それを含め、ジョニー・トー作品の常連の影武者を連れてくるなら。

■ アンソニー・ウォン ・・・ 宍戸錠(日活アクション)
■ ラウ・チンワン ・・・ 宮沢和史(THE BOOM)
■ ホイ・シウホン ・・・ 渡辺喜美(みんなの党)
■ サイモン・ヤム ・・・ 佐々木則夫(なでしこジャパン監督)

●ジョニー・トー作品
『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』(2009)
『文雀』(邦題『スリ』)(2008)
『僕は君のために蝶になる』(2008)
『MAD探偵』(2007)
『エグザイル/絆』(2006)
『エレクション 死の報復』(2006)
『エレクション』(2005)
『ブレイキング・ニュース』(2004)
『PTU』(2003)
『ターンレフト・ターンライト』(2003)
『スー・チー in ミスター・パーフェクト』(2003)※製作
『デッドエンド/暗戦リターンズ』(2001)
『フルタイム・キラー』(2001)
『ザ・ミッション 非情の掟』(1999)


道岸勝一『ある日』

2011-07-18 01:47:23 | 韓国・朝鮮

道岸勝一『ある日』(新宿書房、1985年)は、1960年代以降の在日コリアンたちの姿を撮った写真集である。江東区枝川、小平の朝鮮大学校、北朝鮮帰国事業、関東大震災朝鮮人虐殺の慰霊、指紋押捺拒否など、いくつもの振り返るべき時空間が記録されている。

何といっても、枝川の子どもたちの屈託ない笑顔がたまらなく良い。枝川のコリアンタウンが、「潜入ルポ」など、見世物のようにメディアに取りあげられていた時期のシリアス・フォトグラフィーなのだ。

この前の土曜日に枝川の東京朝鮮第2初級学校でシンポジウムに参加し、その後、校庭での焼肉パーティの時に、昔からの住人の方々にこの写真集を見せてみた。

「ああこれは○○さんじゃないかね。」
すかさず隣の人が、「赤ん坊の顔でわかるものかね。」
「いやわかるもんだよ。」

道岸氏は今では神奈川県に住んでおられると聞いた。

●参照
『東京のコリアン・タウン 枝川物語』
枝川でのシンポジウム「高校無償化からの排除、助成金停止 教育における民族差別を許さない」
野村進『コリアン世界の旅』
菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業』、50年近く前のピースの空箱と色褪せた写真


枝川でのシンポジウム「高校無償化からの排除、助成金停止 教育における民族差別を許さない」

2011-07-17 05:30:00 | 韓国・朝鮮

江東区枝川東京朝鮮第2初級学校で、シンポジウム「高校無償化からの排除、助成金停止 教育における民族差別を許さない」があると知り、足を運んだ。この学校は、もともと皇民化教育を行っていた隣保館という建物を利用するところからはじまっており、見学したくもあったのだ。

早めに枝川の町を見ておこうと、東西線の木場駅から炎天下を延々と歩いて着いたころ、新聞記者のDさんから携帯に電話があった。「某氏のインタビューが流れて時間ができたので、いま枝川にいる」と。別にシンポジウムのために来ていたわけでもなかった。あり得ない偶然(笑)、合流する。

戦前の地図を片手に歩く。かつて東京市が在日コリアンを強制的に押し込めた朝鮮人集合住宅は、いまではその影もなく、住宅がぎっしりと集中している。もちろん在日コリアンの方々が多く住んでいることはすぐにわかる。また、ごみ処理場だったはずの場所は、運送会社の倉庫などになっていて、裏の川沿いにまわってみてもそれとはわからない。川といってもすべて運河であり、流れのせいか、水は澄んではいなかった。


朝鮮人集合住宅があったあたりの界隈


ごみ処理場があったあたりは運送会社の倉庫になっている

学校はこの4月に建て替えられたばかりで、とてもモダンな雰囲気だ。横には人工芝のグラウンドがある。シンポジウムの少し前に入り、見学させてもらった。内装は木が多く使われており、まだ建具の匂いがする。以前の建物も見てみたかったところだ。

シンポジウムは講堂で行われた。弁護士二人による講演の要旨は以下の通り。

■ 金舜植さん「<高校無償化・教育補助金>停止の問題点」

○東京都が学校と土地の明け渡しを求めた枝川裁判(2003年~2007年和解成立)では、外国人学校(各種学校の扱い)を、①ナショナルスクール、②インターナショナルスクール、③その他、と分類した。今回の高校無償制度(2010年)においても、この枠組みが用いられた。なおブラジル学校は各種学校として認められていない。
○これらの外国人学校を認める基準としては、①ナショナルスクール:本国の教育水準と同等、②インターナショナルスクール:国際評価機関が水準を担保、③卒業生を受け入れる各大学が判断、となっている。この③は実質的には放置である。
○②と③についても明確ではない。台湾系中華学校については、国交がないが「確認できる」ものとして②扱い。しかし朝鮮学校については、朝鮮総聯を通じて確認できる、とはされない。
○スポーツでいえば一軍、二軍、三軍のようなものであり、むしろ同等なセ・リーグ、パ・リーグのような形であるべきだ。
○高校無償化にあたっては③を放置したままでは制度化できないため、2010年、文科省の検討会議において基準が定められた。それによれば、授業の科目・時間、教員資格、施設など、客観的に判断されるべきものであり、外交上の配慮などにより判断されるべきものではないと明らかにされた。つまり、好き嫌いで決めるようなものではない。
○この方針ならば朝鮮学校も無償化されるはずであったが、申請期限直前の2010年11月23日に北朝鮮砲撃事件が起きた。それを受けて、政府と文科省は審査を停止した。本来外交上の配慮は判断基準に入らないはずであり、法的根拠がないものだった。東京朝鮮学園は、2011年1月、行政不服審査法に基づく異議申し立てを行った。なお、文科大臣は議会において法的根拠がないものと答えている。
○日本の新聞は、「産経新聞」以外、この措置をおかしいものと論じた。
○手続きを停止するということは、手続きを進めたら無償化対象から外せないということを意味する。
東京都は2010年12月、突然、補助金交付の対象から朝鮮学校を「別途知事が定めるまで」除くとする要綱を発表した。石原知事の言う根拠は、①高校無償化の判断を国が保留している、②もともと補助金は都議会からの要請で出していたものであり、議員の考えを判断するため、あらためて議会に諮りたい、とするものだった。
○このような地方自治体における補助金停止が、大阪、埼玉、千葉、宮城でもなされた。さらに他の都道府県、区、市に波及することを懸念する。
○まずは高校無償化に関してこの8月に提訴する準備を進めている。和解まで3年半を要した枝川裁判よりも短いものであるべきで(生徒がいるから)、争点をしぼりたい。

■ 師岡康子さん「国際人権法とマイノリティの教育権」

○国際人権基準のさきがけであった人種差別撤廃条約(1965年)は、60年代のネオナチ跋扈に対する批判として、アフリカ諸国が中心となって推進し、成立させたもの。
○マイノリティとは数の問題だけではなく(そのため「少数者」とは言わない)、被支配的な存在であることも意味する。在日コリアンは民族的マイノリティである。
○民族的マイノリティの教育への権利としては、教育を受ける権利だけでなく、保護者が教育機関を選べる権利も含まれている。その選択肢の中には、自民族の言葉によって学ぶことも入っている。
自由権規約(1966年)は初めてマイノリティについて定めた国際人権基準であり、「自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利を否定されない」としている。「否定されない」とはいかにも弱い表現だが、時間を経て、内容の豊富化・具体化が進み、マイノリティの権利宣言(1992年)では、より積極的な規定に転じている。
マイノリティ・フォーラム「マイノリティと教育への権利」勧告(2009年)では、以下のようにはっきりと謳っている。
親または法的な保護者が子どもたちのために、当該国政府によって設立された教育制度とは別の学校を選択する自由、及び、彼らが子どもたちのコミュニティ内において信念に基づき宗教的道徳的な教育を保障する自由は認められなければならない。・・・ 非公立学校に対する公的財政支援はこうしたすべての学校に平等に提供されなければならない。
○日本政府はマイノリティとしてアイヌしか認めておらず、それも最近までは、すでに同化したために存在しないと開き直っていた。在日コリアンを認めてこなかったのは、過去の植民地支配を直視してこなかったことに起因する。
○日本に対する人権差別撤廃委員会勧告(2010年)には、「・・・高校無償化の法改正の提案がなされているところ、そこから朝鮮学校を排除するべきことを提案している何人かの政治家の態度」と書かれている。この「政治家」とは、中井国家公安委員長のことだった。
○このように、日本の政策は明らかに国際人権法に底触する差別政策である。差別的な扱いを外すなら、高校無償制度は日本において画期的なものと評価できる
○準備中の裁判は、文科省の定めた基準にさえあてはめればよいはずで、それに限定する方針。

 

シンポジウムの後、近場の「みゆきや」など評判の焼肉屋に行こうと考えていたが、校庭での焼肉パーティが催されるとのこと、そちらに参入した。もう夕方、過ごしやすい気温になっていて、野外で炭で焼く肉とビールは旨かった。なぜだか全員が自己紹介させられ、親密な雰囲気だった。

●参照
『東京のコリアン・タウン 枝川物語』