編集者のMさんと川崎港町で待ち合わせ。美空ひばりの<港町十三番地>のモデルになった場所で、かつては日本コロムビアの本社があった。いまその場所にはタワマンが建っており、その先には多摩川。都内とちがって葦が生えたままの干潟域であり、生き物の環境としてはとても良さそう。ちょっと上流に歩くと、寝っ転がって日光浴をしている人も釣りをしている人もいる。ここは2015年の中一殺害事件の現場だった(磯部涼『ルポ川崎』に詳しい)。
下流のほうに戻ると六郷橋、京急の橋、JRの橋。阿部薫は六郷橋あたりでサックスを練習していたはずで、若松孝二の映画『13人連続暴行魔』にも阿部本人の映像が出てくる。以前に阿部薫のお母さんのお宅を訪ねたことがあって、壁には五海ゆうじが撮った阿部の練習風景の写真が飾ってあった。その作品が収録された写真集を持ってうろうろしてみたけれど、どうも正確な場所がはっきりしない。
そのまま、ソープランド街の堀之内を横目に見つつ、愛しの丸大ホール。仕事で来るときいつも昼前に設定していたのは丸大ホールがあったからなのだ(もちろん半ドンだと呑むこともできた)。運よく席があった。ハムエッグもカレーの具もいつもながら美味しい。中原一歩『寄せ場のグルメ』には丸大ホールが紹介してあり、ハムエッグについて「醬油かソースか、はたまた塩か」と書かれている。真向かいで酒を呑んでいた74歳だというトラック運転手さんが急に破顔、「醤油?ソース?」とツッコミを入れてきて笑った。やっぱり誰にとっても永遠のテーマなんだな。ちなみにふたりの満場一致で醤油にした。つい愉しくて長っ尻。
丸大ホールのすぐ北側には「どぶろく横丁」がある。日曜日はどこも休み、というか、ほとんど店が残っておらず再開発の雰囲気が濃厚。いちど焼肉店の三好苑でワンコインランチを食べたことがあって、あとで調べたところ、三好苑を営む姜秀一さんがどぶろく横丁の形成史を語っていた(川崎在日コリアン生活文化資料館の聞き取り事業)。それによれば、戦後の焼け野原に固まって住んでいた場所を立ち退かされ、代替地としてこの横丁があてがわれたのだということ。つまり東京のあちこちにあるヤミ市跡と同じということになるけれど、ここの場合は、条件が悪い場所に無理やり押し込めた差別政策だった。やはりそうか。
そのまま、ふたたび多摩川のほうに戻り、戸出地区まで歩いた。ここも戦後在日コリアンによって形成された地域だけれど、もはやほとんど再開発されていて、かつてあったという狭い路地や長屋や廃屋はみあたらない。むしろタワマンが目立っていて、どうやらスーパー堤防が防災目的よりも地域の再開発目的だったのではないかという印象。住宅総合研究財団の研究資料にも、居住者から「スーパー堤防の上にこのまちをそのまま移してくれればいいのに」といった意見が多かったと書かれている。
川崎駅が改装される前、西口の階段を降りたところにいつもキムチ売りの女性が立っていた。いま川崎では「おつけもの慶」があちこちに店舗を開いていて、JR川崎駅の構内にもあった。美味しそうな「脂のり過ぎ・えんがわキムチ」を買った。脂のり過ぎ!
資料
磯部涼『ルポ川崎』(CYZO、2017年)
中原一歩『寄せ場のグルメ』(潮出版社、2023年)
五海ゆうじ『OUT TO LUNCH 阿部薫写真集』(K&Bパブリッシャーズ、2013年)
川崎在日コリアン生活文化資料館聞き取り事業「川崎駅前「どぶろく横丁」の形成」(2007年)
http://www.halmoni-haraboji.net/exhibit/report/2007kikitori/person03.html
新井信幸、大月敏雄、井出建、杉崎和久「川崎・戸手四丁目河川敷地区の経年的住環境運営に関する研究」(2007年) http://www.jusoken.or.jp/pdf_paper/2007/0606-0.pdf