沖縄県東村・高江での戦争準備がはじまるのは3日後。私は行くことができないので、抵抗している方々には頑張って欲しいなどと軽く言うことはできないが、せめて皆で監視しておくべきだ。どうせ大新聞やテレビではろくに報道されないから。(>> リンク)
先週、土本典昭さんが亡くなったとの報道があった。『季刊・軍縮地球市民』(2008冬、明治大学軍縮平和研究所)(>> リンク)にも登場し、まだ終っていない水俣の現在などを語っていたばかりだった。最近、歌舞伎町のバー「ナルシス」でも、川島ママが「ここには羽仁進さんとか土本さんとかよく来ていた」と話すのを聞いて、記録作品をまとめて観たいと思っていたところでもあった。
『回想・川本輝夫 ミナマタ ― 井戸を掘ったひと』(土本典昭、1999年)は、水俣や東京でのチッソ、国とのたたかいにおける中心人物であった故・川本輝夫さんの活動や考えを、過去の土本作品や最近のフィルムを使ってまとめた作品である。当時、完成したが「私家版」なので直接にしか販売しないことを新聞で読み、土本仕事部屋に電話して買ったものだ。追悼の意味で、あらためて観た。
故・川本さんの座右の銘は、「熱意とは事ある毎に意志を表明すること」だった。その言葉の通り、たたかいの最中においては、相手のまん前の会議机にでんと座り、じゅんじゅんと言葉で患者たちの惨状や加害者側の酷さを発言し続けた。チッソにおいては、この対策として、こともあろうに『水俣病新認定患者 「自主交渉」派とその”支援”の実態 ― 責任追及という名で暴力は許されるか ―』(チッソ、1972年)という内部文書を作り、あたかも交渉を方便として暴力にのみ訴える人たちとして扱っていたことが、映像でも示される。ひとつの企業のあり方であったということだろう。
1990年代になって、水俣市が慰霊祭を開こうとした際には、川本さんはこれを「矮小化をねらう、不純なもの」と感じ、独自に慰霊碑を立てている。そこには、「慟哭」、「遺恨」の文字があった。そして、慰霊碑を立てる場所としてこだわったのは、チッソ排水口近くの百間港であった。
この映像には出てこないが、土本監督の『水俣の図・物語』(1981年)では、丸木位里・俊夫妻が、百間港でスケッチをするシーンがあるようだ。その際、土本さんはカメラマンに対し、「ジィーッと見ている位里さんの眼鏡の脇から眼鏡のタマ越しに向こうの海と島を撮れ」と指示したという。しかしそのためには、カメラは位里さんの頬にくっつくところまで持っていななければならず、かなりの確執があったという(『ドキュメンタリー映画の現場』シグロ編、現代書館、1989年)。ここまでドキュメンタリー作家として対象と一体化(あるいは行き過ぎなほど)していたのだと思わされるエピソードだ。
7月5日深夜には、NHK-BS2において追悼番組『記録映画作家・土本典昭さんを偲ぶ「水俣~患者さんとその世界』(1971年)が放送されるようだ(>> リンク)。「チッソ城下町」であった水俣において、孤立を強いられ、病院から半ば捨てられるが、家族に見守られ生活していく患者さんたちの映像がおさめられているという(前出書)。『回想・川本輝夫』にもこれは一部含まれていて、他には『死民の道』(1972年)、『実録 公調委』(1973年)、『水俣一揆 ― 一生を問う人びと』(1973年)、『不知火海』(1975年)、『水俣病 ― その30年 ―』(1987年)が、川本さんや患者さんたちの足跡を辿るために使われている。