Sightsong

自縄自縛日記

土本典昭さんが亡くなった

2008-06-28 13:58:48 | 九州

沖縄県東村・高江での戦争準備がはじまるのは3日後。私は行くことができないので、抵抗している方々には頑張って欲しいなどと軽く言うことはできないが、せめて皆で監視しておくべきだ。どうせ大新聞やテレビではろくに報道されないから。(>> リンク

先週、土本典昭さんが亡くなったとの報道があった。『季刊・軍縮地球市民』(2008冬、明治大学軍縮平和研究所)(>> リンク)にも登場し、まだ終っていない水俣の現在などを語っていたばかりだった。最近、歌舞伎町のバー「ナルシス」でも、川島ママが「ここには羽仁進さんとか土本さんとかよく来ていた」と話すのを聞いて、記録作品をまとめて観たいと思っていたところでもあった。

『回想・川本輝夫 ミナマタ ― 井戸を掘ったひと』(土本典昭、1999年)は、水俣や東京でのチッソ、国とのたたかいにおける中心人物であった故・川本輝夫さんの活動や考えを、過去の土本作品や最近のフィルムを使ってまとめた作品である。当時、完成したが「私家版」なので直接にしか販売しないことを新聞で読み、土本仕事部屋に電話して買ったものだ。追悼の意味で、あらためて観た。

故・川本さんの座右の銘は、「熱意とは事ある毎に意志を表明すること」だった。その言葉の通り、たたかいの最中においては、相手のまん前の会議机にでんと座り、じゅんじゅんと言葉で患者たちの惨状や加害者側の酷さを発言し続けた。チッソにおいては、この対策として、こともあろうに『水俣病新認定患者 「自主交渉」派とその”支援”の実態 ― 責任追及という名で暴力は許されるか ―』(チッソ、1972年)という内部文書を作り、あたかも交渉を方便として暴力にのみ訴える人たちとして扱っていたことが、映像でも示される。ひとつの企業のあり方であったということだろう。

1990年代になって、水俣市が慰霊祭を開こうとした際には、川本さんはこれを「矮小化をねらう、不純なもの」と感じ、独自に慰霊碑を立てている。そこには、「慟哭」、「遺恨」の文字があった。そして、慰霊碑を立てる場所としてこだわったのは、チッソ排水口近くの百間港であった。

この映像には出てこないが、土本監督の『水俣の図・物語』(1981年)では、丸木位里・俊夫妻が、百間港でスケッチをするシーンがあるようだ。その際、土本さんはカメラマンに対し、「ジィーッと見ている位里さんの眼鏡の脇から眼鏡のタマ越しに向こうの海と島を撮れ」と指示したという。しかしそのためには、カメラは位里さんの頬にくっつくところまで持っていななければならず、かなりの確執があったという(『ドキュメンタリー映画の現場』シグロ編、現代書館、1989年)。ここまでドキュメンタリー作家として対象と一体化(あるいは行き過ぎなほど)していたのだと思わされるエピソードだ。

7月5日深夜には、NHK-BS2において追悼番組『記録映画作家・土本典昭さんを偲ぶ「水俣~患者さんとその世界』(1971年)が放送されるようだ(>> リンク)。「チッソ城下町」であった水俣において、孤立を強いられ、病院から半ば捨てられるが、家族に見守られ生活していく患者さんたちの映像がおさめられているという(前出書)。『回想・川本輝夫』にもこれは一部含まれていて、他には『死民の道』(1972年)、『実録 公調委』(1973年)、『水俣一揆 ― 一生を問う人びと』(1973年)、『不知火海』(1975年)、『水俣病 ― その30年 ―』(1987年)が、川本さんや患者さんたちの足跡を辿るために使われている。


酒井啓子『イラクは食べる』

2008-06-26 22:19:53 | 中東・アフリカ

こんど「中東カフェ」(>> リンク)に登場させていただく関係で、この研究プロジェクトを進めている酒井啓子教授(東京外国語大学大学院)より、本書『イラクは食べる―革命と日常の風景』(岩波新書、2008年)を頂いた。さっそく読んだ。

 

米英が軍事的に介入したイラクにおいて、さまざまな歪みが生じてきた。歴史的な背景と結びついた必然であったり、新たな解釈を必要とするものであったりするようだ。この、ことあるごとに現象として現れる歪みを、本書では、日常的にイラクの人たちが食べてきた食事メニューとともに提示している。中東に関しては私はトーシロなので、非常に新鮮な切り口として読むことができた。

それにしても、ここで紹介される料理はどれも旨そうだ。羊挽肉の肉団子、野菜の肉ご飯詰め、挽肉を潰した米で包んで揚げたお握り、野菜や肉と米を煮込んだ鍋をひっくり返したドーム状の料理など、手が込んでいる。レシピも付いているので休日に作ろうかな。

興味深いのは、サマーワでの自衛隊の受け止められ方だ。安全に非常に気を使った「見えない軍隊」は、その企図した貢献ではなく、むしろイラクへの経済的支援のシンボルとして捉えられていたということが、検証しながら示されている。また、そもそも日本を含め、イラクの復興ビジネスから利益を得るためにこそ、米国の軍事政策に追随したのだということも。

さらには、日本のメディアにおける報道が、日本の意向に見事に沿ったものとなり、「自己責任論」などを含め世論の形成に大きく影響したことが、特筆すべき点として指摘されている。これが当分風化しないであろうことは、最近また浮上した「自己責任論」とその社会の反応を見てもわかる。「自己責任論」は、個々の市民がミニ為政者化し、権力の中二階に自らの身を置くような、極めてアンバランスで醜いことなのではないか。


難民映画祭 「すべての人間は自由で平等・・・」

2008-06-25 23:59:55 | アート・映画

UNHCR(国連難民高等弁務官)の主催で、「第3回難民映画祭」が開かれている。いくつかの場所で上映しているが、今日は、ドイツ文化センターで上映された短編プログラム「すべての人間は自由で平等・・・」を観てきた。(楽しい人たちと・・・)

作品は、『ビザのない暮らし』(バルトシュ・パドゥフ@ポーランド)、『アフロバンド』(アンドリウス・セリウタ@リトアニア)、『母と壁』(ズザンナ・ヴォンドラチコーヴァ@チェコ)、『祖国であれど』(ムハマド・アブ・ザルカ@イスラエル)、『人間に関わること』(バーバラ・ファルクナー@ドイツ)の5本。

玉石混交なのだけど、なかでも好感を持ったのは、『母と壁』というアニメーション。煉瓦の壁ににゅうっと窓ができては、その中の生活に厭いているような人々の姿を描く。顔が隠れるほど白粉を付けて化粧する人、ごちそうを醜く食べ続ける人、会話なくテレビをザッピングし続ける夫婦。と、突然、妊婦が壁の前で銃に狙われる。お腹の子どもは、その前に登場してきた人々とは違って、精神の壁など感じさせない生命だ。妊婦は撃たれてしまい、壁の中に塗りこめられたような人々が嘆き悲しむ。しかし生命は、壁の裏側にあり、緑の蔦となって壁を壊す。

残酷なイメージは好みでないが、生まれる生命と緑に希望を感じさせるものだった。残酷なイメージを描かないことには希望も描けないというところを記憶すべきかともおもった。


コーヒー(4) 『おいしいコーヒーの真実』

2008-06-24 22:42:12 | 食べ物飲み物

渋谷アップリンクXで、『おいしいコーヒーの真実』(マーク・フランシス、ニック・フランシス、2006年)を観た。エチオピアのコーヒー農家を上流とすれば、下流は嗜好品や日常的な消費財となる。映画は、その両端を交互に示すことにより、矛盾を誰の目にも明らかなものにしようとする。

エチオピアはコーヒーの生まれた国として紹介される(実際のところは、シバの女王とまったく同様に、イエメン説とエチオピア説とがある)。そこで、この映画で大きくフィーチャーされる、農家に多くの収入をもたらそうと努力する取次人が、農民たちに「このコーヒー豆から出来るコーヒーを、先進国では幾らで売っていると思う?」と問う。農民たちは想像もできない。一次買上価格の100倍を超える価格を示されたとき、あまりの非現実的な乖離に、彼らはとまどう。このアンバランスな流通構造を、知らされていないのである。

これが貧困と直結している。現在の買上単価を最終消費価格の1%とすれば、これが5%となれば生活は劇的に改善し、10%となれば生活のみならず教育も改善するという構造改革となることが示される。10%であっても、100%のうちの取り分なのであり、どう考えても不当ではない。

現在のコーヒーの国際価格は、かなりニューヨークの取引所における指標が左右している。そして、取次人によれば、流通プロセスにおいて6回の取引があり、この利益構造に手を入れれば、原価の60%を削減できるはずだとする。当然、浮いた利益は、生産者のものとなるべきだ、という前提だ。

一方、取引所などを通さない流通を志向する下流部の人々には、このようなフェアトレード的な発想だけでなく、「いいもの」だから選ぶのだという嗜好の極みもある。もちろん悪いことではない・・・がしかし、流通の末端の大手コーヒーショップ(シアトルに1号店がある・・・)において、サービス展開している姿は、どうしても浮かれたものに見えてしまう。むしろ、この映画はあえて意地悪な仕掛けをすることで、もっと上流に思いを馳せようよというメッセージを発信したいのだろう。

エチオピアのコーヒー農家のなかには、より儲かる「チャット」の栽培に切り替えるところもあるようだ。映画では、「チャット」はアフリカでは消費されているが欧米では禁止されている麻薬的なもの、として紹介されている。イエメンにおける「カート」と同じものだろう。ただイエメンでは、カートは対人関係をスムーズにするための嗜好品であり、「悪い麻薬」的に扱うこと自体が西側的ではないかと感じた。

踏み込みに迷いが感じられるのはもうひとつ、WTO(世界貿易機関)の紹介の仕方だ。この、GATT時代から「例外なき関税化」を進め、グローバルに平準化された貿易を志向する取り組みは、実際には、大国(米国)が市場を拡大するための装置になっている側面がある。映画では、アフリカ諸国は、欧米はWTOの理想どおりに自国内の農業保護を撤廃しろ、そうすればアフリカにも富がもたらされる、と主張している。しかしこれは、農業全般の話であり、主に途上国で生産されるコーヒーのことではない。また、WTO的なグローバル化が貧困の解決に向かうとは思えない。各国内の農業保護は必要な面もあるだろう。このあたりも、認識したうえでの確信犯的な映画作りなのだろうか。

気になる点はありつつも、「おいしいコーヒーの真実」がこの映画には散りばめられている。何しろ、私たちはコーヒーショップやスーパーの棚のなかには、そこにコーヒーが辿りつくまでの姿を垣間見ることはまったくできないのであり、見ようとしないことは罪と言うことすらできるのだ。

●参考 カート、イエメン、オリエンタリズム

●参考 「Coffee Calculator」 映画(原題『Black Gold』のウェブサイトにある)


キアロスタミの『トラベラー』

2008-06-22 22:49:56 | 中東・アフリカ

イラン出身のAさんから、渋谷ユーロスペースでアッバス・キアロスタミの特集上映をやっていると聞かされ、あわてて調べたが行けずじまい。キアロスタミの映画のなかでは、10年近く前、ラピュタ阿佐ヶ谷ができたばかりのころに観た『トラベラー』(1974年)が気に入っていて、DVDも持っている。それで改めて観た。

これは、キアロスタミの長編デビュー作。主人公の10歳の少年は憎めない悪ガキで、勉強せずサッカーばかりして怒られてばかりいる。どうしてもテヘランでサッカーの試合を観たい少年は、親からオカネをくすねたり、街角で写真撮影のふりをして大勢からオカネを騙し取ったりする。ついに工面して、夜中にこっそりと抜け出して、夜行バスでテヘランまで旅をする。スタジアムに入ったはいいが、知らない大人たちの間で疎外感をおぼえ、疲れもあって、うろうろする間に寝てしまう・・・試合があるのに。

子どもが夢中になる世界の様子や、罪悪感、一生懸命さなんかの描写がとてもうまくて、キアロスタミは特別なひとなんだなと思わされる。日本ではじめて劇場公開されたイラン映画は、キアロスタミの『友だちの家はどこ?』だったと記憶しているが、他の映画監督の作品も観てみたいものだ。

ところで、写真を撮るふりをするのに使うカメラは何だったろうとおもい、じろじろ見てみた。メーカーはよくわからないが、コダックなどが多く作っていたボックスカメラのひとつだろう。フィルムは120のブローニーを使う。撮影用レンズの上にレンズが2つ付いており、上から覗いて撮るときに、縦横の両方が可能なタイプである。下にシンクロ接点が2つある。この手のボックスカメラのなかでは割と良いものだとおもうが、70年代に入ってこのようなカメラをまだ使っていたのかということに驚く。


盤洲干潟

2008-06-21 23:23:44 | 環境・自然


干潟と製鉄所

木更津市の盤洲干潟に行ってきた。「盤洲干潟をまもる会」の見学会である(2008/6/15)。

盤洲干潟は、木更津港に注ぐ小櫃川河口あたりを中心に分布している。近くには新日鉄君津工場があり、干潟からよく見える。その向こうには東電の富津火力があり、逆側には、川崎まで通じるアクアラインの入口が見える。また近くに陸上自衛隊や航空自衛隊の駐屯地があり、ヘリが訓練している。

東京湾全体で見ると、埋め立てを免れている干潟としては、三番瀬富津と並んで大きなものだ。ほかにも、ラムサール条約に登録されている谷津干潟などがある。


『干潟ウォッチングフィールドガイド』(市川市・東邦大学東京湾生態系研究センター、2007年)より作成

盤洲の目玉は、何といっても小櫃川河口に残された葦(ヨシ)。このために、陸域から海域まで連続した豊かな生態系が成り立っていて、何しろ三番瀬と違って自分の足でアクセスできる。とは言っても駅から遠く、内房線の木更津の手前、巌根駅から25分歩いて集合場所に着き、そこから車に乗せてもらって田んぼの畦道を進んだ。堤防から干潟に入り込めるのは小さなゲートだけ。自力では見つけるのが極めて難しいに違いない。

カメラはペンタックスLXに77mmF1.8Limited、それに偏光フィルタ(干潟では必須)を付けたものを持っていった。フィルムはベルビア100を2本。

ゲートから入ると、まず堤防の向こうに葦原がある。途中にはクリークなんかもあり、汽水域としてかなり理想的なエリアのようだった。いきなり、息子がシジミを発見した。外来種かもしれなかったが、たかがシジミではなく、東京湾では非常に少なくなっている。


葦原


ずんずん進む


タブノキに実がなっていた


葦原


クリークにあったアカテガニの抜け殻


東京湾のフナムシであるキタフナムシ

三番瀬よりも驚かされたのは、蟹の種類の多さである。

まず、クリークには小さいチゴガニがたくさんいて、白いハサミを両方上げ下ろしするダンスを踊っていた。近づくとすぐに逃げる。ハサミがひらひら動くさまは、沖縄のシオマネキを思い出させるものだった(こちらは片手だけで、動きが上下逆だが)。まわりには砂団子がたくさんあって、有機物を食べたときにチゴガニが作ったものだ。コメツキガニの作る団子よりは粗っぽい感じだった。


ダンス中のチゴガニ(小さいけど・・・)

ここで威張っている蟹は、葦原(ヨシハラ、アシハラ)の名前通り、アシハラガニだ。特にアシハラガニよりもちょっと色が濃いヒメアシハラガニは、東京湾ではこの小櫃川河口にしか居ないということだった。


アシハラガニの棲家


アシハラガニ


ヒメアシハラガニかな?

形が面白いのは、オサガニヤマトオサガニ。オサ(長)の名前の通り、甲羅が横に長細い(オサガニのほうがヤマトオサガニより長い)。潜望鏡にもなる長い目は、パタッと横に折りたたまれて収納される場所があるのがユニークだ。オサガニの目は白っぽい。


オサガニ(目が白い)


腹に卵を抱えているメスのヤマトオサガニ

前に進むことができるずんぐりむっくりのマメコブシガニは三番瀬にもたくさんいた。手が赤いのはアカテガニコメツキガニはすぐ逃げるので姿が見えないが、ただの砂だとおもっていたところが、じつはコメツキガニが作った砂団子がびっしりあるのだと気付き、歓声をあげた。


水の下のマメコブシガニ


アカテガニ


見事なコメツキガニの砂団子

貝はと言えば、シジミもアサリもハマグリも少なくなっている。特にハマグリはほとんど東京湾では絶滅しているようで、船橋あたりではホンビノスガイが「白ハマグリ」として売られている。アサリはどこもそうだが、中国や北朝鮮から稚貝を輸入してきて撒いているようだ。

ムラサキイガイ(ムール貝)、牡蠣、屍肉にむらがるアラムシロなんかが目立った。


牡蠣


粘着質のものを出して何かをくっつけているムラサキイガイ

稚魚を見ることができるのは、生命を実感できて嬉しい。浅瀬にじっと目を凝らしていると、マハゼボラがちろちろ動いている。ハゼの仲間であるビリンゴや、何と変なフグもいた。


マハゼの稚魚


何かのフグ

ほかには、ゴカイの棲家がある。スゴカイソメは、粘着液を出して、周りにゴミやら何やらくっつけていて、味噌汁のなかから志村けんがつまみ出す靴下のようだ。カンザシゴカイの巣は、細い石灰質の管が集合していて、割るとまだゴカイが居た。これをゴカイだということを忘れていて、息子に指摘されてしまった。子どもの記憶力は凄い。

フジツボはそんなに珍しくもないが、砂の中に住む小さいエビのスナモグリも、見ることができた。


フジツボ


スナモグリ(小さいけど・・・)


カンザシゴカイ

昼になって、海を見ながらおにぎりを食べて帰った。結構日焼けしていた。


風紋


アクアライン


潮風に抗するため葉っぱがぴかぴかしたテリハノイバラ


沖縄「集団自決」問題(15) 結成1周年総会

2008-06-21 09:32:06 | 沖縄

「大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会」(沖縄戦首都圏の会)の「第2回総会」に参加してきた(2008/6/20、明治大学リバティタワー)。参加者は開始時には50名ほどだったが、最終的には約100名となった(主催者発表)。

●事務局 浅羽さん

会発足後、激動の1年だった。大江・岩波沖縄戦裁判の大阪地裁での勝訴は感慨深い。他にも、名古屋高裁においてイラク派兵が違憲との判決があった。NHKの従軍慰安婦番組改竄については最高裁で敗訴したが、珍しい密度の濃い1年だったと言える。

沖縄平和ネットワークの会報『根と枠』では、村上有慶さん(沖縄平和ネットワーク)が、首都圏の運動に高い評価をしている。膠着状態にあった運動において、首都圏の会という場で、執筆者も声をあげ、多くの集会を開いたことは一定の役割を持つものだった。

また、同会報では、小牧薫さん(大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会事務局長)が、大阪、東京、そして沖縄での支援運動が力を発揮したと発言している。2007年9月29日の沖縄県民大会の11万人超は、東京であれば100万人超に相当する。全国紙も取り上げざるを得なかった。市民の動きが鍵を握るものだった。また、これにより皆が大江裁判に目を向けるようになり、証言者が勇気をもち始めた。

沖縄戦の実態は、軍の不名誉であり、なんとかご破算にして国民にわからないようにし、軍の名誉回復を狙ったものだ。権力の小賢しさである。

家永三郎さんは、『舞踏会の手帖』や『チャップリンの独裁者』が好きだったという。人生の悲哀や現実に目を向けながら、不正と戦ってきたのだなという気がする。チャップリンといえば、私(浅羽さん)の好きな映画は『ライムライト』だ。この中で、チャップリンの扮する旅商人カルデロが、バレリーナを励ますために「人生をおそれることはない。人生に必要なものは、勇気、想像力、わずかなお金に過ぎない」と言う台詞がある。この3点に対する会員の貢献は大きい。

●事務局長 寺川さん

この1年間の経過報告と決算報告。

地裁ではほぼ完全に勝利したが、まだ道半ばである。控訴審は6月25日にはじまる。それを期日とし、控訴審に出す署名を再度集めている。

教科書への検定意見はまだ生き続けている。これは歴史的な研究からみて間違っており、引き続き撤回をもとめていく。それとともに、検定制度の改善を要求していく。この過程でわかったことは、社会科だけの問題ではなかったということだ。教科書検定に関しては、きわめて理不尽・不合理な運用がなされている。

一方、最近、「教科書協会」が、検定制度の非公開を求めたいという意見を出した(『琉球新報』2008/6/17 >> リンク)。これは透明性を高める動きに逆行するものだ。

●平井美津子さん(大阪府公立中学校社会科教師)

3月28日、「勝訴」の紙をもったのは自分だった。敗訴のことは考えず、「勝訴」の旗しか作らなかったが、前夜は眠れなかった。しかし、原告側は思ったより元気がなかった。

喜んでばかりはいられないのであり、次は控訴審がはじまる。署名は6月25日朝11時に大阪高裁に持っていく。原告側の「控訴趣意書」は、いままでの主張とほぼ同じだが、新証人が出てきたことをアピールしている。しかし、この証言は根拠として薄弱だと評価している。

大学で週1回教えているが、未来の社会科教師たる若者は何も知らない。このことを広めなければならない。憲法9条を守るか、戦争を進めるか、というところだ。

●坂本昇さん(教科書執筆者)

1990年に教科書執筆に携わり始めてから18年目、いちばん忙しい1年だった。

『琉球新報』(2008/6/17 >> リンク)では、「教科書協会」が、教科書検定段階の非公開化を提言したとの報道がなされていて驚いた。この協会には、文部科学省の天下りが何人もいる。検定透明化の流れに逆行するものだ。急遽、「子どもと教科書全国ネット21」では抗議の談話を公表し、また「日本出版労働組合連合会」でも抗議文書を出した。

これまで、検定段階で「白表紙本」のコピーが出回り、よってたかって批判されたりしたため、教科書会社については守秘原則となった。しかし、執筆者についてはお咎めがなかった。実際に、今回の検定でも、私(坂本さん)が共同取材という形で「訂正申請」の内容を提示したことの効果があった。これができなくなると、情報交換により良い教科書をつくろうとすることができなくなる。暴挙である。文部科学省の働きかけにほぼ間違いない。

●森住卓さん(フォトジャーナリスト)

1時間あまり、辺野古、高江、座間味島、渡嘉敷島の写真のスライドショー。
※ぜひ写真集にして公表してほしい


やんばるの米軍基地(ジャングル訓練センター)

●次の勉強会


『RURIKO』

2008-06-18 23:59:40 | アート・映画

名古屋に向かう朝、地下鉄の吊り広告を見て、矢も盾もたまらず、東京駅で林真理子『RURIKO』(角川書店、2008年)を入手した。浅丘ルリ子、『男はつらいよ』でのリリー役のファンなのだ。

浅丘ルリ子は満州生まれ。何と、満州国官吏であった父親が、満映の理事長である甘粕正彦に可愛がられ、ルリ子のことを将来女優になるべき人間だと言われ続けていたという。大杉栄・伊藤野枝を虐殺した甘粕大尉である。この、ぬれぬれとした大きな目やぼってりとした口を持つ稀代の美女を、林真理子は特別な人間として描く。銀幕スターをまるで天上界の存在であるかのように扱う作風は、筒井康隆『美藝公』を思い出させる。

あまりにも小奇麗にまとめているのでちょっと物足りないような気もするが、石原裕次郎が登場したときの衝撃、小林旭や美空ひばりの特別さや人間くささなんかを見せてくれて、とても面白い。何しろ、自分にとって彼らは最初から過去の存在であり、なにが良いのだろうと思っていたからだ。(読んだからと言って、リアルタイムの実感ができるわけではないが。)

ついでに、恋人役として登場する蔵原惟繕(名前は明示されないが)の日活映画を2本、デビュー間もない石原裕次郎が北原三枝と共演する『俺は待ってるぜ』(1957年)、それから浅丘ルリ子を添え物ではなく本格的な女優として扱った『愛の渇き』(1967年)とまとめて見た。たしかに、ムクムクとしてしまった裕次郎がルリ子と共演した『夜霧よ今夜もありがとう』(江崎実生、1967年)と比べれば、前者は意味不明ながらその10年前の裕次郎が新鮮ではあるし、後者は同年の作品だが、ルリ子の「顔」の魅力がとてつもない。

横尾忠則も、当時『愛の渇き』にやられてしまったようだ。

「(略)今までの日活の石原裕次郎や小林旭と共演の、アクション映画の清純娘の彼女とガラッと異なり、ここには完全に成長した女、浅丘ルリ子があった。この時、ぼくはただただ画面の彼女に魂を奪われたように、彼女の妖しい恐ろしいような魅力に、そうだ、この女(ひと)を持つことにより何か自分の未知なるものが引き出され、その結果、己れを発見するのではないかと、彼女を内なる女にすることを心に決めた。」
横尾忠則『未完への脱走』(講談社文庫、1978年)


同書より(イラストは横尾泰江)


シドニーの散歩

2008-06-17 23:29:12 | オーストラリア

シドニーはマーケット、芸人、シンボル、すべてがあって大都会である。物価が矢鱈と高い。何も言うことはない。

そして早朝や昼休み、ランニングにとりつかれているような人たちが多い。直接話した人たちは皆、とんでもない、真似できない、と口を揃えた。


オペラハウスの腹筋 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


早朝 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


早朝 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


早朝 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


親子 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


アボリジニの話 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


芸人 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


芸人 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


似顔絵描き Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


市場 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


枯葉剤の現在 『花はどこへ行った』

2008-06-17 06:30:07 | 環境・自然

岩波ホールで、坂田雅子『花はどこへ行った ベトナム戦争のことを知っていますか』(2007年)が公開されている。夫を癌で亡くされた坂田雅子さんが、ベトナムで60年代に散布された枯葉剤「エージェント・オレンジ」のこと、それによる被害、いまのベトナムについて追いかけた記録である。その夫は、若い頃、米兵として有害とは知らずに枯葉剤を浴びている。

ベトナム戦争が終結したのは随分前のこと、枯葉剤も過去のこと、といった意識せぬ思い込みが大いなる間違いであることが、現在のベトナムの映像によって否応なく突きつけられる。奇形児や障害を抱えた人々は経済的に困窮していて、誰もそれに責任を取ることはない。米軍はもちろん、ここでは言及されていないが、ベトナムに向けて発進した飛行機の基地を提供した日本も、である。最近、米軍のジャングル訓練センター(沖縄)においても枯葉剤を使っていたことがわかっている。飛行機の基地や枯葉剤を準備する場を置くのを許す「私たち」は、枯葉剤の被害にも加担していることになる。

撮られる対象としての奇形児の映像が与える印象は置いておくとしても、単純な事実を覚えておきたい。

○枯葉剤の散布は10年にわたり、7,200万リットルが南ベトナムの面積の12%に撒かれた。そのうち4,500リットルがエージェント・オレンジ。これにダイオキシンが含まれていた。
○1963-70年に、400万人近いベトナム人が枯葉剤を浴びた。さらに、それと知らず曝露した米兵も多い。
○ダイオキシンは生物や土壌のなかに長期にわたり残留する。
○ロンタンでは、人口23万人のうち1,000人が枯葉剤の後遺症に苦しんでいる。
○カム・ニア村では、人口5,623人のうち、0歳から18歳の障害児の数が158人。80年代(戦争終結よりずっと後)から生まれた子どもに異常が増えた。
○母親でなく祖父母が枯葉剤を浴びた結果の障害児、つまり第3世代がいる。出産前の異常の発見と中絶が進められている。

映画に登場する、障害児の親や兄弟姉妹は、家族として隔てなく接している。その奥にあるに違いない苦しみをおもえば、なお印象的である。

「ベトナムで出会った人たちは、想像を超える障害や奇形をもちながらも、静かに運命を受け入れ、充実した人生を送っている様にも見えた。
 彼らが求めているのは、復讐ではない。具体的で実際的なほんの少しの救いの手なのだ。」

(映画ナレーションより)


キャンベラの散歩

2008-06-15 23:59:11 | オーストラリア

キャンベラは、1920年代にコンペにより設計が決まり構築された都市であり、歴史は長くない。整然としていて、あまり面白みはない。観光であるなら、あまり訪れることはないところだろう。

―――と思って、空いた時間にうろうろしていたのだが、旧国会議事堂前の広場に、妙な小屋があった。アボリジニの「テント・エンバシー」であり、主権を謳っている。また、シドニーの再開発圧力がある地区、アボリジニの多いレッドファーン地区を守れとのスローガンが掲げてある。中を覗いたが不在だった。

帰国してから調べてみると、ここに30年以上も座り込みを続けているようだ。また、現・ラッド政権に交代してから、アボリジニに対する「ソーリー・スピーチ」が行われた際には、この小屋の周辺に多くのアボリジニや支援者が集まっている。知っていたなら、シドニーでレッドファーン地区にも足をのばしたかもしれず、勉強不足を悔やんだ。


テント・エンバシー Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII

都市の中心にある公園も人工的だが、自然が多く気持ちがいい。故・大平首相が贈ったという桜の木があった。大きな池からは、日中、巨大な噴水が水を噴き上げている。写真におさめようと橋の上から見ていると、隣にも似たような人がいる。よくみると、ライカIIIaとベッサRを使っていた。「おお、M3か」「IIIaか」と、ライカ好き同士の短い会話、これだけで少し幸せになるのだった。マックス・デュペインの写真を真似して橋の写真を撮ったが、まったくつまらないものになったのでプリントすらしなかった。


公園の鳥 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


楓 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


ユーカリの剥げた樹皮 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


ライカ男 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


池のカップル Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


噴水 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


ボード Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦

2008-06-15 22:30:42 | 沖縄

福地曠昭『オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦』(海風社、1992年)は、沖縄に連れてこられ、強制的に日本軍に従事した朝鮮人女性たちの姿を描いた書である。

沖縄県内では、従軍慰安所は、本島では北部・やんばるの東村や本部半島にまで設置されていたことが確認されている。また慶良間諸島、南大東島、宮古島、西表島にもあったようだ。当然、軍人の数と慰安婦の数とは極めてアンバランスである。

ついこの間の歴史を、分ったようにタカを括らず、邪に一元化して納得するのではなく、このような無数に生起し続ける声を自分に通過させるべきこと。ひとつの感情や心は、歴史のダイナミズムなどの中で構造化するようなものではないこと。そのような当然のことを、改めて感じさせられる。

ここには、如何に慰安婦にすることを隠し、騙し、あるいは強制的に徴用したかの証言が集められている。戦中の恐るべき性的重労働が終焉を迎えても、ひとりひとりの人生は損なわれ、精神を病んだ事例も数多い。そして国を跨るということの非対称性が告発されている。

「付近の山すそには、死んだ日本軍のための慰霊塔があった。正面の右側には日本軍人ではない「戦死 日本人の碑」という碑石があり、その横には「世界人類が平和でありますように」と書かれた木の柱が立っている。
 太平洋戦争当時パプア・ニューギニアは、オーストラリアの信託統治を受けており、ラバウルの人口は一万人だった。現在は独立国になっているが、いまだにラバウルにはオーストラリア銀行はあても、パプア・ニューギニア銀行はない。そしてどこにも現地住民の犠牲を追悼する痕跡を発見することができなかった。」

「「女らしい生活をしたことなく生きて来て五十年来、胸に恨(はん)がつのって解けない。飛行機に乗ったとき、JALの翼の日の丸を見て、体が震え、力が抜けた。このような想いをして、なぜ私は日本へ行かなければならないのか、と思いながら来日した。日本政府は行ったことを認め、一言でも間違いだったといってほしい」
 約四百五十人もの聴衆を前にして、凛とした姿であった。毅然とした語り口であった。」


これからの備忘録

2008-06-15 18:42:15 | もろもろ

●NNNドキュメント'08 『基地の町に生きて 米軍再編とイワクニの選択』 6/15深夜(6/16) 日テレ 0:55-1:50 >>リンク
アメとムチ、というより、それがどうマスに受け止められているかを描いているかに注目。

●BS世界のドキュメンタリー 『綿花地帯からの告発』 6/16深夜(6/17) NHK-BS1 0:10-1:00 >>リンク >>録画し損ねた(笑)
米国南部のNovember Cotton Flowerでなく、ことはインドに広がっている。

●NHKアーカイブス 『桑田真澄661日間の苦悩』、『清原と桑田 18歳の大物ルーキー 6/21 NHK総合 10:05-11:25 >>リンク

●じんぶん企画 『未決・沖縄戦』 >>リンク
やんばるなど北部での沖縄戦に焦点を当てた映像。6/20に発売延期になった。

●エミリー・ウングワレー @国立新美術館 5/28-7/28 >>リンク >>感想
アボリジナルアートの大きな存在。オーストラリアでも観ることができなかったパースで3点観た(>> 感想)。

●マーク・フランシス、ニック・フランシス 『おいしいコーヒーの真実』 @渋谷アップリンク 5/31- >>リンク >>感想
エチオピアのコーヒー農家の様子、ひいては国際流通構造を垣間見るために。

●石元泰博 『東京』 @Photo Gallery International 6/10-7/4 >>リンク >>いけなかった
意思が漲る巨匠の、50年代以降のモノクロ。

●坂田雅子 『花はどこへ行った』 @岩波ホール 6/14-7/4 >>リンク >>感想
枯葉剤の問題は風化していない。ジャン・ユンカーマンが協力している。

●翁長巳酉 『エルメート・パスコアール秘蔵映像モロ出し』 @UPLINK FACTORY 6/17 >>リンク >>気が向かず行かなかった
エルメート好きなのだ。マイルスとの共演とか、ナベサダを困惑させた日本公演とか、出てこないだろうか。

●「沖縄戦首都圏の会」総会 @明治大学リバティタワー 6/20 >>リンク >>記録
会の設立から1年。森住卓氏による『沖縄・ヤンバルの森から、「集団自決(強制集団死)」の現場へ』講演。

●青春のロシア・アヴァンギャルド @ザ・ミュージアム 6/21-8/17 >>リンク
亀山郁夫『ロシア・アヴァンギャルド』(岩波新書、1996年)を読んでから気になる存在だったフィローノフの作品も含まれているようだ。

●平カズオ 『ブリュッセル ―欧州の十字路の街で―』 @銀座ニコンサロン 6/25-7/8 >>リンク >>いけなかった
この、ライカと銀塩にこだわり続けた写真家が住んだブリュッセルの作品は、写真雑誌で散見してきた。オリジナルプリントを観るのが楽しみだ。

●北井一夫 『ドイツ表現派1920年代の旅』 @ギャラリー冬青 7/1-31 >>リンク >>感想
三里塚のあとで当時評判が芳しくなかったそうだが、奇妙な建築の写真群はいいと思う(DVD『北井一夫全集2』に収録されている)。写真集の印刷も終ったようだ(>>リンク)。さらに、『日本カメラ』連載の『ライカで散歩』も、12月に出版予定とのこと(>>リンク)。

●野本大 『バックドロップ・クルディスタン』 @ポレポレ東中野 7/5- >>リンク
シヴァン・ペルウェルの音楽を使っていて、クルドの踊りの映像が観られそう。

●藤本幸久 『Marines Go Home - 辺野古・梅香里・矢臼別』 @ポレポレ東中野 7/26- >>リンク
このような、沖縄、北海道、韓国をリンクする試みがあったとは知らなかった。


ピナクルズの奇岩群

2008-06-14 21:54:04 | オーストラリア

5月、オーストラリアにはカンタス航空で飛んだ。直行の便数が少ないので、到着早々時間が空いてしまった。同行者に誘われ、自分にしては珍しく、バスツアーなんぞに参加した。目的地は、パースから北に数百キロ離れたピナクルズ(Pinnacles)である。英国、ドイツ、ニュージーランド、香港などさまざまな人がバスに同乗した。

ピナクルズの売りは、延々と広がる奇岩だ。数メートルくらいの高さで、風雨の侵食によって残された石灰岩である。説明を聴いて驚いた。残された奇岩の上には、かつて潅木があり、根を張っていた。それで、潅木がないところがどんどん削られていったようなのだ。そのため、岩をよくみると、潅木の化石らしきものがあったり、今では隣の潅木と同居していたりする。

奇岩にもさまざまな形があり、観光向けか、「カンガルー」、「ゲイシャ」、「イーグル」などの名前が付けられているものがあった。曇ってはいたが天候はころころ変わり、陽射しが強いため、光の当たり方によって岩の表情も変わる。

帰りには、砂丘で、いい大人がサンド・ボーディングをして遊んだ。自分も2回くらい滑ったが、尻をしたたかに打ってどうでもよくなりやめた。まわりのおじさんたちも皆そうだった。最後まで嬉々として遊んでいたのは、年齢によらず、女性だった。


風車 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak E100G、ダイレクトプリント


バンクシア Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak E100G、ダイレクトプリント


奇岩 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak E100G、ダイレクトプリント


奇岩 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak E100G、ダイレクトプリント


奇岩 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak E100G、ダイレクトプリント


奇岩 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


奇岩(イーグル) Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


休憩 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


休憩 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


サンドボーディング Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII


バス Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII (上部を焼き込み)


パース駅 Leica M3、Summicron 50mmF2、Kodak TMAX-100、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII

●参考 本部半島のカンヒザクラ(寒緋桜)と熱帯カルスト


鮒鮨、三井寺

2008-06-14 13:27:05 | 関西

所用で大津に泊まった。京都から本当にすぐの場所にある。もう8時を過ぎていたので、とにかく居酒屋へ一直線である。居酒屋といえば、まずは太田和彦が訪れているかどうかを基準に探す(「ん~おいしいな~」という口調をイメージしながら)。それで、『ニッポン居酒屋紀行』でも紹介された、「でんや」に行った。

せっかくなので、名物の鮒鮨を食べてみた。握り寿司の原点とも言われ、米の中で長期発酵させたものだ。思ったより強烈な臭みはないが、とても酸っぱく、独特の風味がある。これで酒を呑む習慣も悪くないかもなとおもった。高校生のころ、はじめて読んだ岡本かの子の小説が『鮒鮨』だったような気がするが、中身をまるで覚えていない。


鮒鮨 (ケータイで撮影)

翌朝、始動まで少々時間があったので、早起きして琵琶湖を経て三井寺まで歩いた。本来の仁王門(大門)からの参拝とは順序が逆だが、地元の方が「長等神社のわきの階段を上ったら観音様があるよ」と教えてくれたので、近いほうから観ることにした。


ニコライ皇太子が襲われた場所(大津事件)

三井寺(みいでら、正式には園城寺)は、天台寺門宗の総本山である。最澄が開いた天台宗からの流れにあり、寺は壬申の乱で敗れた大友皇子の息子が創建したものだが、9世紀に、比叡山の僧・智証大師円珍が再興している。

『園城寺』(朝日新聞社、2007年)によると、この宗派を特徴付けるものは、顕教と密教に加え、修験道をも柱に加えていることである。円珍もそのような修験の僧であったようだ。しかし、よりドラマチックには、寺が延暦寺との抗争で幾度となく燃やされ、そのたびに甦ってきたことが挙げられる。直接的には、大津住人を支配するのが延暦寺なのか、三井寺なのかというところのようだ。

観音様まで通じる階段は、修験者ではなく、体育会の学生が息を切らしながら上っていった。

観音堂の奥には、たしかに観音菩薩が設置されていた。チベットや四川大地震への義捐金も集めていた。手前には、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ、釈迦の弟子)の像もあった。


賓頭盧尊者

その先に、微妙寺という、琴線に触れる(笑)名前の寺があった。重要文化財である十一面観音菩薩が奉安されているが、扉が開けられるのは週末のみということで、観ることができなかった。手前に、中国から寄贈されたという、金ぴかの十一面観音があった。寺で配布していた解説によると、重文のそれは檀像の特徴である「頭部を大きく表すところをはじめ、極度に圧縮された体のつくり」を持つものであり、この大らかな像は随分と異なる。


観なかった重要文化財・十一面観音菩薩(『園城寺』(朝日新聞社、2007年))


中国から寄贈の十一面観音菩薩

微妙寺のわきには、国宝・勧学院客殿があるが、完全非公開で敷地内にも入れなかった。外からちょっとだけ覗いた。


国宝・勧学院客殿を外から垣間見る

拝路を逆行し、その先に国宝・金堂がある。しかしこれも、屋根の修復中ということで外から観ることができなかった。屋根というのが、檜の樹皮を何十にも重ねたものであり、たしかに近くには檜がたくさんあった。樹皮を剥ぎかけた丸太もあった。


外から観られなかった国宝・金堂(『園城寺』(朝日新聞社、2007年))


金堂のいまの様子



樹皮を剥ぎかけた檜


一切経蔵の屋根も檜の樹皮からなる

金堂のなかには、秘仏である不動明王像があるはずだが、当然、秘仏なのでちらりとも観ることはできない。大日如来や閻魔などにも目を惹かれたが、何より驚いたのが「尊星王」という、北極星を体現した菩薩の姿だった。後ろには鹿や象などが乗った月や日が配されていて、右足を後ろに上げて片足で立っているのが極めて奇妙である。

※写真はすべてペンタックス・エスピオミニにカラーネガ、同時プリント(本の図版を除く)。