Sightsong

自縄自縛日記

山岡淳一郎『日本電力戦争』

2015-05-31 23:33:28 | 環境・自然

山岡淳一郎『日本電力戦争 資源と権益、原子力をめぐる闘争の系譜』(草思社、2015年)を読む。

2030年の電源構成の計画が「原子力20-22%、再生可能エネルギー22-24%、LNG火力27%、石炭火力26%、石油火力3%」(2015/4/28案)あたりに落ち着きそうである。明らかに原子力への追い風と読めるわけである。橘川武郎氏の指摘によれば、40年廃炉基準が厳格に守られるならば、仮に今後島根3号と大間が加わったとしても、原子力の比率は15%程度にしかならないだろうということだ。すなわち、40年を超える稼働か新設が前提としており込まれている。

これはなぜなのか。もちろんエネルギー・ポリティクスの結果でもある。本書は、それがいかに難題であるかを探っていく。

LNG化して運び込む天然ガスの売り手として、中東など既存の国々に加え、シェール革命を起こしたアメリカや、国家主義的なロシアが巨大なプレイヤーとして動いている。原子力について言えば、アメリカのメーカーは本体では原子力ビジネスを縮小したにも関わらず、日本のメーカーと提携して原子力輸出を押している。使用済み核燃料の再処理について、日本はアメリカに特別扱いされているが、その結果出てくるプルトニウムを軍事転用しうるポテンシャルがあることを、周辺国への抑止力として使いたい野望も見え隠れする(そこにはリアリズムはない)。核燃サイクルはまわらないものに依然とどまっているが、これをやめるとしても、青森県や原子力立地自治体、さらに再処理を依頼してきた英仏といった国の間で問題が噴出することは目に見えている。要は、前進も後退も容易ではないのである。

しかし、真っ当な旗を掲げなければならないとすれば、キーとなるのは、やはりアメリカとの関係である。その構造を変えうるのかどうかによって、エネルギーの未来も変わる。このことは軍事戦略・軍事産業と同様のように思える。

本書は、戦前からの電力業界の変遷についてもまとめている。戦中に官主導の統制的な発電・送配電の組織構造が形成され、敗戦後GHQの意向により9の民間電力会社に再編されるわけだが(沖縄を含めれば10)、その過程において、原子力が官の権益維持のために使われた経緯があることは興味深い。中曽根の原子力予算化(1954年)や、正力松太郎によるアメリカのエージェントとしての工作は、原子力産業の起点ではなかったのである。

●参照
山岡淳一郎『インフラの呪縛』
橘川武郎『日本のエネルギー問題』
大島堅一『原発のコスト』
小野善康『エネルギー転換の経済効果』
ダニエル・ヤーギン『探求』
太田昌克『日米<核>同盟』
有馬哲夫『原発・正力・CIA』
東海第一原発の宣伝映画『原子力発電の夜明け』
福島原発の宣伝映画『黎明』、『福島の原子力』
福島原発の宣伝映画(2)『目でみる福島第一原子力発電所』
フランク・フォンヒッペル+IPFM『徹底検証・使用済み核燃料 再処理か乾式処理か』
『"核のゴミ"はどこへ~検証・使用済み核燃料~』
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』
使用済み核燃料
『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
鎌田慧『六ヶ所村の記録』
『伊方原発 問われる“安全神話”』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
山本義隆『原子・原子核・原子力』
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』
ナオミ・クライン『This Changes Everything』
松村美香『利権鉱脈 小説ODA』


映像『Woodstock Jazz Festival '81』

2015-05-31 08:33:56 | アヴァンギャルド・ジャズ

『Woodstock Jazz Festival '81』(1981年)というDVDが出ている。その一部は観たことがあるし(15年くらい前にebayで汚いVHSのダビング物を買った)、また、やはり一部が『Creative Music Studio Woodstock Jazz Festival』(Douglas Music、1981年)というCD 2枚組になって何年か前に出たものを持っている。ひょっとしたらネットのどこかにアップされているかもね。

それにしても、こうしてまともな1時間の映像として出てくると感無量である(汚いVHSは、観ている途中で、磁気テープがデッキに巻き込まれてグチャグチャになった)。

何しろこのメンバー、感涙必至。

1) Arrival
Marilyn Crispell (p)
Howard Johnson (sax)

20代半ばの若いクリスペルが登場する。ビックリ。何でもクリスペルはウッドストックに住み、カール・ベルガーにより組織された「Creative Music Studio」で教えてもいたようだ。

2) Left Job
Ed Blackwell (ds)
Baikida Carroll (tp)
unknown (b)
Marilyn Crispell (p)
Julius Hemphill (sax)

目玉はジュリアス・ヘンフィルに、エド・ブラックウェル、そして若いクリスペル。

3) We Are
Karl Berger (balaphon)
Ed Blackwell (ds)
Aiyb Dieng (talking drum)
Nana Vasconcelos (talking drum)
Colin Walcot (tabla)

ベルガーが真ん中に座ってバラフォンを叩き、ナナ・ヴァスコンセロスのトーキング・ドラムをフィーチャーする。見事。

4) Broadway Blues
Jack DeJohnette (ds)
Pat Metheny (g)
Dewey Redman (sax)
Miroslav Vitous (b)

デューイ・レッドマンが出てきただけで涙腺がゆるむ。ちょうどパット・メセニーの『80/81』でも共演していたころか。

5) The Song Is You
Anthony Braxton (vo)

会場の外側で、アンソニー・ブラクストンが、面白そうに集まったミュージシャンたちに対して得意そうにスキャットを披露する。チック・コリアがにやにやしている。で、それは何と訊かれて、ブラクストンは「The Song Is Youだよ!」。

6) Impressions
Anthony Braxton (sax)
Chick Corea (p)
Jack DeJohnette (ds)
Miroslav Vitous (b)

昔、この音源をはじめて聴いたときにはぶっ飛んだ。何しろ「Circle」が空中分解したあとにも、コリアとブラクストンはこんな風にギンギンに共演していたのだ。ブラクストンは、テーマを吹き終わった直後は同じ音ばかりを出してヘボな即興かと思わせるが、間もなく、微分的・抽象的なソロを展開して、自分の世界を爆発させる。(ところで、ブラクストンは昔からおじさんカーディガンを着ていたのだな。)

7) Stella by Starlight
Chick Corea (p)
Lee Konitz (sax)

リラックスしたデュオ。コニッツはアルトを吹きながら声を出す芸。わたしが90年代後半にコニッツとバール・フィリップスの共演を法政大学で観たとき、コニッツはやはりそれを披露していた。昔からの得意技だったのか。

8) All Blues
Anthony Braxton (sax)
Chick Corea (sax)
Lee Konitz (sax)
Jack DeJohnette (ds)
Pat Metheny (g)
Miroslav Vitous (b)

オールスターどころでない、いや凄いね。ブラクストンとコニッツが顔を見合わせて微笑みあっていたりして楽しい。デジョネットは叩きまくり、精魂尽き果てたようで、演奏後スティックを興奮してブン投げる。

●参照(ごった煮ジャズ映像)
ジュリアン・ベネディクト『Play Your Own Thing』(2007年)
Vision Festivalの映像『Vision Vol.3』(2003年)
アラン・ロス『INSIDE OUT IN THE OPEN』(2001年)
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(1985年)
ロン・マン『イマジン・ザ・サウンド』(1981年)
『Jazz in Denmark』 1960年代のバド・パウエル、NYC5、ダラー・ブランド(1962-65年)
バート・スターン『真夏の夜のジャズ』(1958年)


マタナ・ロバーツ『Coin Coin Chapter Three: River Run Thee』

2015-05-30 11:12:07 | アヴァンギャルド・ジャズ

マタナ・ロバーツ『Coin Coin Chapter Three: River Run Thee』(Constellation、2015年)を聴く。

Matana Roberts (as, Korg Monotron, Korg Monotron delay, Korg Monotron duo analogue, wordspeak, early 1900s Archambault upright piano)

マタナ・ロバーツは、2014年に、アメリカ南部を25日間旅した。おそらくはそのときに得た印象や社会の記憶といったものを、彼女ひとりの演奏と声、そしてサンプリングにより、ひとつの作品にした。アメリカ南部や黒人の歴史が彼女のアイデンティティにおいて重要なのだろう。

たとえば、そこで見聞きした川や野といった風景が心象となって語られる。しかし、それらは必ずしもよくは聞き取れない。マルコムXによる演説テープも、「お客さん、兄弟姉妹、淑女紳士、友人と敵のみなさん、・・・普段は人びとの前にシャツとタイなしで出ることは無いので申し訳ないのだが、・・・」といった挨拶のあとは、サウンドに混ざっていく。

もちろん演説作品ではないのだ。ここでは、ドローン(空飛ぶアレではなく)の効果が素晴らしく、とても重層的な音楽として作り上げられている。塩辛いような音のサックスも良い。

●参照
2014年6月、ニューヨーク(4) ハーレム
ハーレム・スタジオ美術館
ナショナル・アカデミー美術館の「\'self\」展


アリ・ホーニグの映像『kinetic hues』

2015-05-30 08:03:48 | アヴァンギャルド・ジャズ

アリ・ホーニグのライヴDVD『kinetic hues』(2003年、Smalls Records)を中古で見つけた。

Ari Hoenig (ds)
Jean-Michel Pilc (p)
Jacques Schwarz-Bart (ts)
Matt Penman (b)

NYのライヴハウス「Fat Cat」における演奏、しかし、制作は「Smalls Records」。自分のハコ「Smalls」でのライヴCDは沢山出しているのに、(たぶん)関係のないハコで収録するというのが面白い。「Fat Cat」には足を踏み入れたことがないが、映像で見る限り、「Smalls」よりも小さく、親密な空間のようだ。

ホーニグのドラミングは、まるでメロディを奏でる楽器のように、あるいはラップ歌手のように、ひたすら「唄う」ことに専念する。先鋭で自立型のリズムを発するプレイヤーとは対極にあると言っていいのかな。唖然としてしまう凄さというよりも、むしろ、聴けば聴くほど親しみがわいてくる。「Giant Steps」、「Summertime」、「Con Alma」、「I Mean You」といったおなじみの曲を、リズムであるはずのホーニグが成り立たせようとしている一方、ピアノのピルクはとらえがたいフレーズで斬り込んでいく。

シュヴァルツ・バルトのテナーはまったく冴えないのだが。

●参照
アリ・ホーニグ@Smalls(2015年)
ジャン・ミシェル・ピルク+フランソワ・ムタン+アリ・ホーニグ『Threedom』(2011年)


勝井祐二+ユザーン、灰野敬二+石橋英子@スーパーデラックス

2015-05-30 00:59:18 | アヴァンギャルド・ジャズ

六本木のスーパーデラックス(2015/5/29)。

勝井祐二 (vln)
ユザーン (tabla)

勝井さんのヴァイオリンには、アジアの艶歌のような親しみやすさと艶めかしさがあった。そして、たくさんのタブラによるたくさんの音色。耳が悦ぶ感覚があった。

灰野敬二 (fl, perc, ds)
石橋英子 (fl, ds)

まずは真ん中でフルートの競演、つぎに両端に置かれたドラムスの競演という変わった趣向。ドラムスもフルートも、石橋さんの演奏における静かな狂気のようなものは、この並存で引き立つ。

灰野さんのフルートは、エリック・ドルフィーのそれのように急に飛躍する感覚である。そして異様に強度のあるドラムス。それは、リミッターをすべて取っ払い、自分が傷つくほどの速度と勢いで拳を繰り出すエメリヤーエンコ・ヒョードルのようだ。おそろしいほどの緊迫感があった。

●参照
ジョン・イラバゴン@スーパーデラックス(対バンで灰野敬二)(2015年)
本田珠也SESSION@新宿ピットイン(2014年)


『うたをさがして live at Pole Pole za』

2015-05-29 00:13:16 | アヴァンギャルド・ジャズ

『うたをさがして live at Pole Pole za』(Travessia、2011年)を聴く。(齋藤徹さん、ありがとうございました。)

齋藤徹 (b)
さとうじゅんこ (vo)
喜多直毅 (vl)

先日観たライヴ(齋藤徹+喜多直毅+黒田京子@横濱エアジン)において強く印象に残った曲のなかには、テオ・アンゲロプロスの映画をモチーフにしたものがいくつもあった。当初は、アンゲロプロス映画に参加していたエレニ・カラインドルーの作曲なのかと思いもしたのだが、曲想や雰囲気は異なった。すべて、テツさんの手によるものなのだった。

こうして、さとうじゅんこさんによる歌唱とともに展開される曲の数々。『永遠と一日』、『エレニの旅』、『霧の中の風景』から生まれたものである。決して東欧、南欧の雰囲気ばかりではない。「今日は私の日」はサンバとミロンガで踊る女のイメージだ。そして、ことばは主に日本語。境界は無いものではなく、あって越えるもの、越えられないもの。

ベースもヴァイオリンも、ここでは、声との親和性が高い。ビョークが最新作において聴く者の世界に近づいてきたように思えたことも無縁ではない。そして、ことばのイメージが生まれ、流れては、痕跡を残して消えていく。何て不思議なことだろう。

●参照
齋藤徹+喜多直毅+黒田京子@横濱エアジン(2015年)
喜多直毅+黒田京子『愛の讃歌』(2014年)
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)
バール・フィリップス+Bass Ensemble GEN311『Live at Space Who』(2012年)
ミッシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹@ポレポレ坐(2011年)
齋藤徹による「bass ensemble "弦" gamma/ut」(2011年)
齋藤徹+今井和雄『ORBIT ZERO』(2009年)
齋藤徹、2009年5月、東中野(2009年)
ミッシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm(2007年)
往来トリオの2作品、『往来』と『雲は行く』(1999、2000年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ『交感』(1999年)
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、池澤夏樹『眠る女』、齋藤徹『パナリ』(1996年)
ミシェル・ドネダ+アラン・ジュール+齋藤徹『M'UOAZ』(1995年)
ユーラシアン・エコーズ、金石出(1993、1994年)
テオ・アンゲロプロス『エレニの帰郷』
テオ・アンゲロプロスの遺作『The Dust of Time』
エレニ・カラインドルー『Elegy of the Uprooting』


パット・メセニーの映像『at Marciac Festival』

2015-05-28 07:12:11 | アヴァンギャルド・ジャズ

パット・メセニーのDVD『at Marciac Festival』(2003年)を観る。

Pat Metheny (g)
Christian McBride (b)
Antonio Sanchez (ds)

目当てはアントニオ・サンチェスのドラムス。サンチェスはこのとき30を超えたばかりで、メセニーとの活動を始めてまだ間がない(映像のなかで、メセニーが、「クリスチャンが、この世代ではピカいちだと言って推してくれた」と発言)。実際に力強くキレている。だが、ここではまだ「ひとりEXILE」ぶりまでは見ることができない。

むしろ、クリスチャン・マクブライドの手堅いサポートと(特にデュオ「Cinema Paradiso」)、自分の繰り出す高速フレーズで燃え上がってきて昇天する昔からのメセニー(特に「Question and Answer」)を堪能できたので、よしとする。ああ、「Question and Answer」といえば、結局、来日したロイ・ヘインズを観に行かなかったな。

●参照
パット・メセニーとチャーリー・ヘイデンのデュオの映像『Montreal 2005』
アントニオ・サンチェス@COTTON CLUB
アレハンドロ・G・イニャリトゥ『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』


島村英紀『火山入門』

2015-05-27 22:58:46 | 環境・自然

島村英紀『火山入門 日本誕生から破局噴火まで』(NHK出版新書、2015年)を読む。

本書は、本当の意味での入門書だと思う。プレートテクトニクスやプリュームテクトニクスなどをもとに、手際よく火山のメカニズムを説明している。また、火山にもさまざまなタイプがあり、それらの噴火の歴史を追うことによって、長い目で見れば日本における大規模な噴火は必然であることを示している。さらに、それがどこでいつ起きるかについて確実なことを言うことは難しく、予知も地震と同様に極めて難しいことを、明らかにしている。

これまで、マグニチュード9クラスの地震のあとには、必ず数年間の間に、近くで複数の噴火が起きていた。東日本大震災のあとには大きな噴火がなかったが、結局、2014年の御嶽山噴火が起きた。これからも起きる可能性は十分にあり、その「近く」とは震源から600キロメートル以内であった。

地震の影響だけではない。長い目で見れば、この100年ほどは異常に静かな時期であったという。そして、火山や地震に対しては、時期や場所や規模を特定する「予知」ではなく、長い時間と広い場所を視野に入れることが、むしろ科学的な知見であるということができる。すなわち、いつ何時、さしたる予兆もなく、日本のどこかの死火山と思われている場所からさえ、巨大噴火は起こりうるということである。

●参照
島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』
ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』
黒沢大陸『「地震予知」の幻想』
大木聖子+纐纈一起『超巨大地震に迫る』、井田喜明『地震予知と噴火予知』
石橋克彦『南海トラフ巨大地震』
石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』
『The Next Megaquake 巨大地震』
『Megaquake III 巨大地震』
『Megaquake III 巨大地震』続編


さようならスティピュラ、ようこそ笑暮屋

2015-05-27 07:27:32 | もろもろ

イタリア・スティピュラの「エトルリア」という万年筆を使っていて、インクフローがいまひとつなので、ペンクリニックで何度か調整してもらった。その結果、ペン先は良くなったが、古いインクが残っているかもしれないとのドクターの言。そんなわけで、プラチナが出している万年筆クリーニングキットを買ってきてペン先を漬けておいたところ、今度は、インクの吸入機構がうまく働かなくなった。

ちょうど新宿のキングダムノートでペンクリニックを開催していたので、出かけて行って、仲谷ドクターに診ていただいた。なんと、壊れていた。エトルリアの初期型は、ペンのお尻をくるくると回してインクを吸い上げるのだが、ペン軸の途中で分解できず、また中の部品がプラスチック製ゆえ壊れやすいのだという。そして、もうメーカーでも補修部品を作っていない。

毎日使うものである。困る。といって駄々をこねて騒いでも仕方がない。直らないものは直らない。古いタイプを使った自分が悪い。

そんなわけで、日本で唯一のエボナイト素材製造工場である「日興エボナイト製造所」が出している「笑暮屋」の万年筆を入手した。ちょうど谷中で出張販売をしていて、実際に触って確かめることができた。ろくろで削って作られた手作り万年筆である。エボナイトは固いゴムであり、何でも、黒檀(Ebony)に似ているためにその名が付けられたらしい。実際に、触っていて、独特の柔らかく軽い質感があって気持ちが良い。なお、エトルリアはセルロイドで作られており、こちらの質感も好きである。

中でもクリップが付いていないタイプ「萌芽」が個性的だったので、そのMサイズを選んだ。Sサイズとあまり値段が変わらないが、訊いてみると、「工作することは同じようなものだし、素材の量はさほど変わらない」からだという。また、中字が好きなので試し書きさせてもらっていると、ペン先(14K)を薄く研いだものもあると囁かれた。そちらの方が柔らかく好みであり、さらに、筆圧の弱いわたしでもインクがさらりと出るよう、調整していただいた。

いまのところ絶好調。


エトルリア(奥)と萌芽(手前)

●参照
万年筆のペンクリニック
万年筆のペンクリニック(2)
万年筆のペンクリニック(3)
万年筆のペンクリニック(4)
万年筆のペンクリニック(5)
万年筆のペンクリニック(6)
万年筆のペンクリニック(7)
本八幡のぷんぷく堂と昭和の万年筆
沖縄の渡口万年筆店
鉄ペン
行定勲『クローズド・ノート』
モンゴルのペンケース
万年筆のインクを使うローラーボール
ほぼ日手帳とカキモリのトモエリバー
リーガルパッド


パット・メセニーとチャーリー・ヘイデンのデュオの映像『Montreal 2005』

2015-05-26 22:45:06 | アヴァンギャルド・ジャズ

パット・メセニーとチャーリー・ヘイデンのデュオ・ライヴを収録したDVD『Montreal 2005』(2005年)を観る。

Pat Metheny (g)
Charlie Haden (b)

このふたりのデュオといえば、『Beyond the Missouri Sky (Short Stories)』(1997年)である。それから8年ほど後、モントリオール・ジャズ祭で再演したときの記録。

「Waltz for Ruth」「The Precioul Jewel」「Message to a Friend」といった、かつてデュオで演奏した曲からはじめる。そのほとんどはスローで、明らかに意図的に、メセニーはアコースティックギターを一音一音を大事にするように弾く。ヘイデンもさらにスローであり、残響をまるで基底音のように扱うヘイデンならではの素晴らしい演奏。

聴いていると、名曲「Blues for Pat」におけるブルース演奏も含めて、アメリカのフォークやカントリーのような素朴な色彩が驚くほど強いことに気付く。もっとも、メセニーはそのはじまりからそうだったし、ヘイデンだってルーツを隠そうとしなかった。

●参照
チャーリー・ヘイデン+ジム・ホール
チャーリー・ヘイデンとアントニオ・フォルチオーネとのデュオ
Naimレーベルのチャーリー・ヘイデンとピアニストとのデュオ
スペイン市民戦争がいまにつながる
ジェリ・アレン+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Segments』
ポール・ブレイ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Memoirs』
ゴンサロ・ルバルカバ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン
富樫雅彦『セッション・イン・パリ VOL. 1 / 2』
ギャビン・ブライヤーズ『哲学への決別』
キース・ジャレット+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Hamburg '72』
70年代のキース・ジャレットの映像
キース・ジャレットのインパルス盤
シャーリー・クラーク『Ornette: Made in America』 再見
オーネット・コールマンの最初期ライヴ


柳川芳命+ヒゴヒロシ+大門力也+坂井啓伸@七針

2015-05-25 22:51:19 | アヴァンギャルド・ジャズ

八丁堀の七針に足を運び、柳川芳命+ヒゴヒロシ+大門力也+坂井啓伸というセッション(2015/5/24)。何しろ柳川さんは四日市や名古屋で活動することの多い人だから、関東で演奏する機会を狙っていたのだ。

柳川芳命 (as)
ヒゴヒロシ (b)
大門力也 (g)
坂井啓伸 (ds)

ギターの大門さんがビールや酎ハイをたくさん持ってきていて、図々しくも3本もご馳走になってしまった。客を含め和やかな雰囲気。しかし、演奏がはじまると急に緊張感が場を支配した。ギター、ベース、ドラムス、アルトサックス、全員の発する音がイーブンに衝突しあい、地下の小さなハコの中で奔流が生じ、響いた。柳川さんの情念のようなアルトにも呑み込まれた。

●参照
直に聴きたいサックス・ソロ、柳川芳命と浦邊雅祥
直に聴きたいサックス・ソロ その2 ジョン・イラバゴン、柳川芳命


キース・ジャレット『North Sea Standards』

2015-05-24 08:19:28 | アヴァンギャルド・ジャズ

キース・ジャレットの「スタンダーズ」によるヘンな盤『North Sea Standards』(Slang Records、1985年)を入手した。

Keith Jarrett (p)
Gary Peacock (b)
Jack DeJohnette (ds)

1985年7月12日の演奏、すなわち、大傑作『Standards Live』の10日後である。その間にトリオはパリからハーグに移動している。ヨーロッパ・ツアーを行っていたのだろうか。

ここで演奏される曲は、「I Didn't Know What Time It Was」、「My Ship」、「God Bless The Child」、「So Tender」、「Late Lament」、「Falling in Love with Love」、「I Wish I Knew」、「You And The Night And The Music」。

このときキース40歳、エネルギーの放出ぶりが凄い(同時にうなりも凄いが)。もちろん異論も好みの違いもあろうが、わたしは、シンプルなものを求めていった後年のキースよりも、この頃までの、とにかく引き出しを開けまくる絢爛豪華なキースのほうが断然好きである。「God Bless The Child」での余裕綽綽の和音も、『Standards Live』と共通する「Falling in Love with Love」での目くるめくような即興の連続も素晴らしい。

●参照
キース・ジャレット『Facing You』(1971年)
キース・ジャレット+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Hamburg '72』
70年代のキース・ジャレットの映像(1972、76年)
キース・ジャレット『Arbour Zena』(1975年)
キース・ジャレットのインパルス盤(1975-76年)
キース・ジャレット『Staircase』、『Concerts』(1976、81年)
ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』、クリストのドキュ、キース・ジャレットのグルジェフ集 (1980年)
キース・ジャレット『Standards Live』(1985年)


岡本隆司『袁世凱』

2015-05-23 22:34:24 | 中国・台湾

岡本隆司『袁世凱 ―現代中国の出発』(岩波新書、2015年)を読む。

袁世凱という人物の評価は概して極めて低い。それは日本だけでなく中国においてもそうらしい。曰く、革命を奪い取った男。曰く、卑怯者。曰く、冷酷な軍人。北一輝にいたっては、「世評のごとき奸雄の器にあらずして堕弱なる俗吏なりき」と糞味噌に罵っているという。実は、著者の袁世凱評もそんなに違わないのが面白い。すなわち、イデオロギーや思想にはまったく無関係で、如何に権力を形にしていくかという実務能力に非常に長けていた人間である、と。(最近どこかで聞いたような話だが。)

袁が自己実現のため活動した時期は、清朝が滅亡してゆく激動期であった。列強に抗する力を全体として持たなかったことは事実であっても、いまの概念でとらえる国家像とは異なる。それは、汪暉『世界史のなかの中国』において示されたような、境界を明らかにせずファジーに統治する「天下」概念の国家かもしれない(1871年に台湾原住民により沖縄人が殺されたとき、清国政府は、「化外の民」がしでかしたことだとして切り捨てた)。しかし、すでに、そんなことを標榜しても無意味なほど、中央の力は弱っていたのだった。

属国として位置づけていた琉球王国を奪われ(1879年)、そのために同様のことが起こりかねないとして警戒した朝鮮半島での衝突をきっかけにした日清戦争でも敗れ(1894年-)、台湾を奪われた(1895年)。そもそも、大陸の各地方は独自の権力を持っていて中央集権とはかけ離れていた。西太后が亡くなる直前に発布された憲法大綱は、明治憲法をモデルとしたものであったが、そんなあがきも空しく、オセロの駒がパタパタと一気にひっくり返るように地方が離反し、辛亥革命が実現する(1911年)。

ここで孫文から革命を「奪った」袁の意図は、本書を読むと、強い権力体系を持つ近代国家を構築しようとしたところにあったのだろうと思える。しかし、皇帝になったのはやり過ぎだった。

ところで、李烈鈞らによる第二革命(1913年)は袁によって鎮圧されるが、これは列強から苦労して得た大借款を軍資金に回した結果であるという。その意味では、ここまでは何とかなった。しかし、第三革命(1915年)ではぐらつき、そのこともあって、皇帝推戴を撤回している。確かに、強い権力体系ということ以外にさしたるヴィジョンなど持たなかった袁の限界であった。

●参照
菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』
ジャッキー・チェン+チャン・リー『1911』、丁蔭楠『孫文』(辛亥革命)
大島渚『アジアの曙』(第二革命)
尾崎秀樹『評伝 山中峯太郎 夢いまだ成らず』(第二革命)
武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す』(秋瑾)
汪暉『世界史のなかの中国』
汪暉『世界史のなかの中国』(2)
中塚明・井上勝生・朴孟洙『東学農民戦争と日本』
井上勝生『明治日本の植民地支配』


喜多直毅+黒田京子『愛の讃歌』

2015-05-23 07:39:36 | アヴァンギャルド・ジャズ

喜多直毅+黒田京子『愛の讃歌』(ORT music、2014年)を聴く。

喜多直毅 (vln)
黒田京子 (p)

ずいぶん昔、黒田京子さんがご自身のブログで「渋谷毅さんのピアノの歌伴はなぜ多くの歌手に望まれるのだろう、なぜあのようにいい歌伴なのだろう」といったようなことを書いていた記憶がある。わたしにとって、渋谷さんの歌伴といえばどうしても浅川マキだ。マキさんが見せようとする闇と情の世界を包み込むのは、懐の深い渋谷さんのピアノだったといえる。

何が言いたいかといえば、ここで様々な貌を見せる喜多さんのヴァイオリンは人間の声のようで、黒田さんのピアノがそれを大きく包み込んでいるということだ。それによって、手垢のついたような、下手をすればベタベタに堕してしまうようなポピュラーな有名曲が、ここでは、実に鮮烈に生まれ変わっている。

とはいえ、武満徹の「他人の顔」などはそのベタベタ曲の部類には入らない。まさかこれが演奏されているとは思わず、スピーカーの前で仰天した。勅使河原宏の同名映画の中で、ビアホールにおいて医師と患者が狂気に満ちた会話をするときに、前田美波里が歌ったドイツ風のワルツである。喜多さんのヴァイオリンも、どこに向かっていくかわからぬドロップのように狂気をはらんでいる。

他の曲も素晴らしいのだ。震える声で歌うような「黄昏のビギン」(ああ!ちあきなおみ)、消え入りそうな音での「ジェルソミーナ」、哀切極まりない「ラストタンゴ・イン・パリ」、水がこれ以上ないほど吸い込まれたスポンジのように感情を保持しながら盛り上げる「愛の讃歌」、聴く者が個人の思い出に遡らざるを得ないような「おもいでの夏」、・・・。

●参照
齋藤徹+喜多直毅+黒田京子@横濱エアジン(2015年)
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)


ティム・バーン『You've Been Watching Me』

2015-05-21 23:45:11 | アヴァンギャルド・ジャズ

ティム・バーン『You've Been Watching Me』(ECM、2014年)を聴く。

Tim Berne (as)
Oscar Noriega (cl, bcl)
Ryan Ferreira (g)
Matt Mitchell (p, electronics)
Ches Smith (ds, vib, perc, timpani)

たぶんもう10年以上はバーンを聴いていなかった。90年代にデイヴィッド・サンボーンとの共演盤があって、わたしの耳にはピンとこなかったのだ。また何となく気になっていて、JOEさんのブログも読んで、久しぶりに近づいてみた。

一聴してあきらかに異質なノリ。アクロバティックなメロディーを、バンドメンバーが皆やさぐれた感じで音の層を積み重ねていく。層の色はきらびやかで変化し続け、こちらが落ち着いて座りなおすのを待ってくれない。その、眩暈がするようなトンネルの中を、バーンのアルトサックスがやたらと粘っこく、うねうねと吹く。何だこれは、という感覚。