Sightsong

自縄自縛日記

『東急 暮らしと街の文化』展@世田谷美術館

2024-12-17 00:01:32 | 関東

世田谷美術館の『東急 暮らしと街の文化』展。自然(田園趣味)の中に暮らすというコンセプトで開発されていった沿線の歴史が興奮するほどおもしろい。五島プラネタリウムなんて懐かしい。国書刊行会から発行された図録は充実。

都心で発生する糞尿を武蔵野に持ち出すため開発され、自治の思想が発達していった西武線との比較もまたおもしろいかもしれない。原武史さんの名著『レッドアローとスターハウス』が増補新版になっていたことに気づき買いなおした。


鶴見

2024-12-01 10:15:33 | 関東

横浜の鶴見区潮田~仲通には関東最大の沖縄コミュニティがある。編集者の水木さん、沖縄オルタナティブメディアの西脇さんと街をうろうろ。

鶴見の埋立が始まったのが1913年。京浜工業地帯の労働力として沖縄出身者が集まってきた。一方で日本政府の琉球処分(1879年、琉球王国を沖縄県として自国に編入)のあと、税を払えずに土地を手放す人が増え、1899年より移民がスタートした。ブラジル移民は1908年からのことである。だから、沖縄から鶴見、沖縄から南米への移動はこの百年ほどの話。(*1、2)

日本はバブル期の1990年に入管法を改正し、日系3世までを受け入れることにした。労働力が欲しいが外国人を入れたくないとの政府の考えによるものだった。これを機に在日ブラジル人が増えた。(*3)

そういったことの結果として、鶴見の沖縄コミュニティにはブラジルやボリビアなど南米のひとたちも増え、街には両方のお店がある。

とはいえ外向けに宣伝する類のものではないから、それらしき場所は県人会のビルにある「おきなわ物産センター」のみ。入ってみると土産物もあるが知らない食品も多い。帰ってから食べようと思い、ソーキと宮古そばを買った。

もうひとつの目当てはブラジルのフェジョアーダを作るための黒いんげん豆。「ユリショップ」に入るとみんなポルトガル語で話している(たぶん)。一袋の量が多く、フェジョアーダ作りの腕もあがることだろう。

そしてお腹も空き、「ヤージ小」に入った。もちろん小はグワーと読む。沖縄ならではの味噌汁定食もあり(こちらの味噌汁とはちがい単品で立派なおかずになる)、悩んだが、ここはそば屋。中味そばを頼んだ。すごくたくさんの豚もつがのっており、強めの鰹出汁。とても美味しい。

1923年の関東大震災直後にはデマをうのみにした一般市民たちが多くの朝鮮・中国人たちを殺すという事件が多発したが、鶴見では警察署長を務めていた大川常吉というひとがかれらを守った。東漸寺にはそれを記念した碑があった。

(*1)「藤井誠二×磯部涼 沖縄、南米、鶴見定食」(『散歩の達人』2019年2月号)
(*2)上野英信『眉屋私記』(1984年)
(*3)植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』(2013年)


稲葉佳子・青池憲司『台湾人の歌舞伎町』

2024-11-26 18:49:25 | 関東

稲葉佳子・青池憲司『台湾人の歌舞伎町』(ちくま文庫)がおもしろい。

新橋駅前や渋谷の道玄坂あたりは戦後台湾やくざ(というと物騒だがそういう形でしかありえなかった)が開発を担った場所だと認識していたが、歌舞伎町もまたそうだった。

まずは新宿の西口マーケットがあり、そこを拠点として歌舞伎町が開発される。なぜ西口マーケット拠点かといえば今も残るトンネルを通じて歌舞伎町と地続きだったから。なぜ歌舞伎町に歓楽街と区役所ができたかといえばなにもなかったから。そして西口マーケットの一部はしょんべん横丁(いまの思い出横丁)として残る。

名店どん底も紀伊國屋書店の創業者・田辺茂一から歌舞伎町に移転しろと薦められたが、結局決断できず三丁目にちょっとずれただけだったらしい。ひょっとしたら風景が変わっていたかな。

コマ劇場が消えたのはついこの間くらいに思っていたけれど、実際には2018年末。もう6年も経つじゃないか。本書には1958年のあの界隈の地図が掲載されており、つい時間を忘れて今との違いを比較してしまう。こんどナルシスで川島ママに話を振ってみることにする。

●参照

ムジカについての雑談義 No. 3 サックスソロと歌舞伎町 (齊藤聡から福地史人さんへ)
新宿ゴールデン街、歌舞伎町のナルシス
田村隆一『自伝からはじまる70章』に歌舞伎町ナルシスのことが書かれていた
堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』
新宿という街 「どん底」と「ナルシス」
歌舞伎町の「ナルシス」、「いまはどこにも住んでいないの」


川崎

2024-08-25 23:29:51 | 関東

編集者のMさんと川崎港町で待ち合わせ。美空ひばりの<港町十三番地>のモデルになった場所で、かつては日本コロムビアの本社があった。いまその場所にはタワマンが建っており、その先には多摩川。都内とちがって葦が生えたままの干潟域であり、生き物の環境としてはとても良さそう。ちょっと上流に歩くと、寝っ転がって日光浴をしている人も釣りをしている人もいる。ここは2015年の中一殺害事件の現場だった(磯部涼『ルポ川崎』に詳しい)。

下流のほうに戻ると六郷橋、京急の橋、JRの橋。阿部薫は六郷橋あたりでサックスを練習していたはずで、若松孝二の映画『13人連続暴行魔』にも阿部本人の映像が出てくる。以前に阿部薫のお母さんのお宅を訪ねたことがあって、壁には五海ゆうじが撮った阿部の練習風景の写真が飾ってあった。その作品が収録された写真集を持ってうろうろしてみたけれど、どうも正確な場所がはっきりしない。

そのまま、ソープランド街の堀之内を横目に見つつ、愛しの丸大ホール。仕事で来るときいつも昼前に設定していたのは丸大ホールがあったからなのだ(もちろん半ドンだと呑むこともできた)。運よく席があった。ハムエッグもカレーの具もいつもながら美味しい。中原一歩『寄せ場のグルメ』には丸大ホールが紹介してあり、ハムエッグについて「醬油かソースか、はたまた塩か」と書かれている。真向かいで酒を呑んでいた74歳だというトラック運転手さんが急に破顔、「醤油?ソース?」とツッコミを入れてきて笑った。やっぱり誰にとっても永遠のテーマなんだな。ちなみにふたりの満場一致で醤油にした。つい愉しくて長っ尻。

丸大ホールのすぐ北側には「どぶろく横丁」がある。日曜日はどこも休み、というか、ほとんど店が残っておらず再開発の雰囲気が濃厚。いちど焼肉店の三好苑でワンコインランチを食べたことがあって、あとで調べたところ、三好苑を営む姜秀一さんがどぶろく横丁の形成史を語っていた(川崎在日コリアン生活文化資料館の聞き取り事業)。それによれば、戦後の焼け野原に固まって住んでいた場所を立ち退かされ、代替地としてこの横丁があてがわれたのだということ。つまり東京のあちこちにあるヤミ市跡と同じということになるけれど、ここの場合は、条件が悪い場所に無理やり押し込めた差別政策だった。やはりそうか。

そのまま、ふたたび多摩川のほうに戻り、戸出地区まで歩いた。ここも戦後在日コリアンによって形成された地域だけれど、もはやほとんど再開発されていて、かつてあったという狭い路地や長屋や廃屋はみあたらない。むしろタワマンが目立っていて、どうやらスーパー堤防が防災目的よりも地域の再開発目的だったのではないかという印象。住宅総合研究財団の研究資料にも、居住者から「スーパー堤防の上にこのまちをそのまま移してくれればいいのに」といった意見が多かったと書かれている。

川崎駅が改装される前、西口の階段を降りたところにいつもキムチ売りの女性が立っていた。いま川崎では「おつけもの慶」があちこちに店舗を開いていて、JR川崎駅の構内にもあった。美味しそうな「脂のり過ぎ・えんがわキムチ」を買った。脂のり過ぎ!

資料

磯部涼『ルポ川崎』(CYZO、2017年)
中原一歩『寄せ場のグルメ』(潮出版社、2023年)
五海ゆうじ『OUT TO LUNCH 阿部薫写真集』(K&Bパブリッシャーズ、2013年)
川崎在日コリアン生活文化資料館聞き取り事業「川崎駅前「どぶろく横丁」の形成」(2007年)
http://www.halmoni-haraboji.net/exhibit/report/2007kikitori/person03.html
新井信幸、大月敏雄、井出建、杉崎和久「川崎・戸手四丁目河川敷地区の経年的住環境運営に関する研究」(2007年) http://www.jusoken.or.jp/pdf_paper/2007/0606-0.pdf


松山巖『乱歩と東京』、鈴木博之『東京の地霊』、陣内秀信『東京の空間人類学』

2024-05-13 20:26:29 | 関東

久しぶりに気が向いて東京論を3冊。たまたま、すべてちくま学芸文庫。

松山巖『乱歩と東京』では、1920年代の東京が江戸川乱歩の世界にいかに密接に影響を与えていたかという分析。「家」制度の矛盾がみえてきた時代にあって、独身者こそ都市生活者の特質であり、明智小五郎もまたそうだった。性のありようも無縁ではなく、『D坂の殺人事件』における妻の姦通もSM趣味も20年代乱歩ならではのものだとする。

大正期には自己と社会の関係性を問いなおす動きがあった。たとえば武者小路実篤が宮崎に建設した「新しき村」もそのようなもので、これが経済的に失敗してゆくことと、乱歩の『パノラマ島奇談』とを関連付けて論じるくだりはおもしろい。(ところで「新しき村」は昭和に入って埼玉の毛呂山に移転する。何年か前に訪れてみたら十人の住民によるコミュニティが存続していた。)

鈴木博之『東京の地霊』を読んでへええと驚いたことは、上野公園の東叡山寛永寺について。これは江戸城鬼門の鎮護のために設けられたのだが、「江戸における延暦寺」として東の比叡山=東叡山、と名付けられた。上野の山からは下町が見渡せるから比叡山、山の下の不忍池は比叡山のふもとの琵琶湖。かつて下谷にあった下谷坂本町も比叡山のふもとに坂本という町があったからつくられたのだとか。

それから、貝塚爽平『東京の自然史』と並ぶ古典ともいうべき、陣内秀信『東京の空間人類学』を再読。ここで強調されるのは東京が「水の都」であるということ。水際にこそ都市空間を生きる人々の活力が漲っていた。その観点からは、日本橋も、冨岡八幡も、洲崎もまたちがってみえてくる。水運だけでない。橋のたもとは「無縁」の性格があって、見世物や小芝居の興行が行われていた。すなわち河原では商業活動と結びついて演劇空間も成立しており、悪所・非日常的な場でもあった。そして都市の拡大とともに、こういったアジール的空間が辺所に追い立てられていった。たとえば、根津の遊郭は東京帝国大学に近すぎて風紀上よろしくない、という理由で、洲崎の海辺に移されたという歴史がある。なるほど、映画『洲崎パラダイス』にはたしかに水際の雰囲気があった。


下町、鄙、水

2023-11-19 18:41:54 | 関東

川田順造さんの『母の声、川の匂い』(筑摩書房、2006年)というエッセイ集。このアフリカ研究で有名な人類学者が東京の下町のことを書いているなんて驚きだった。

小名木川についての話がおもしろい。もともと、西の隅田川から東の旧中川までを東西に結ぶ運河であり、行徳の塩などの物流のために徳川家康が開削させたのがはじまりだ。川田さんの記憶には、毎朝、伝馬船が行徳から「あねさんかぶりの女八百屋の一行」を乗せてきたり、自分自身も七輪を持って浦安に潮干狩に行ったりした風景がある。だから深川には行徳出身者が多く住んでいたらしい。

もっとも便利なだけではなかった。たしか行徳の地域史には、上りは3時間、下りは6時間を要した時代もあったと書いてあった。山本周五郎が浦安橋のたもとに住んだのは1928-29年のこと、そんなもので都内に通勤していたものだから勤務不良でクビになっている。当たり前だ。

それはともかく、川田さんが東京を「鄙」と見立て、深川あたりを「土地を媒介とする結びつきや血の紐帯が基礎になった、村落共同体の人情やしがらみとはまったくの対極にある、ニヒルでコスモポリットな性格のもの」なんて書くのはさすがである。稲荷が多いことに象徴される住民の迷信深さも、それゆえのことだろう、と。


東京の川遊び

2023-05-29 08:33:02 | 関東

シカゴのレジェンド・タツ青木さんたちのライヴを観にいったところ、翌日に川遊びをやるからどうかとのこと。幸い予定もなく日本橋まで出かけ、1時間ほど舟で缶ビールを片手に気持ちいい時間。

タツ青木さんは四谷荒木町の置屋「豊秋本」の生まれで、幼少期から料亭の「お座敷三味線」を体得している。なんでもこれは前座としての位置づけであり、それゆえ、演奏の進め方は即興そのものであった。驚いた。「どうですか齊藤さん、ズージャと比べて」と、青木さん。

娘さんの希音さんはこの日「豊秋千東勢」を襲名なさったそうで、お隣で太鼓を鳴らすさまはカッコよかった。

Fuji X-E2, 7Artisans 12mmF2.8, XF35mmF1.4


松平誠『東京のヤミ市』

2020-04-22 19:48:48 | 関東

松平誠『東京のヤミ市』(講談社学術文庫、原著1995年)を読む。

ヤミ市は戦後の焼け野原に拡がった。1940年代末期にGHQの意向のもと東京都などがヤミ市撤去命令を出し、そこから狭い横丁や高架下やビルに押し込められた場所が、今に残るヤミ市跡である。従ってこのふたつは土地に対する考え方が異なる。焼け跡を再興したのだと胸を張るテキ屋と、もともとその土地を所有していた者との土地に対する考え方が異なるとする指摘は興味深い。

台湾系華僑と組との抗争があった渋谷や新橋、東口の北と南とで棲み分けた新宿、電気屋が発展した神田(のちにかれらが秋葉原に移る)、食糧が入ってくる池袋や上野など、ヤミ市の性格が街によって違っていたとする説明には納得させられる。上野のアメ横は、引揚者たちの組合が買い上げたものだという歴史は知らなかった。テキ屋が跋扈するヤミ市とはいえ、最初のうちはほとんどが素人だったからこそ、多様な形成がなされた。

1947年6月には都内の料飲店営業が全面的に禁止される。そこからヤミ市は地下に潜り、商人たちも素人からプロへと化してゆく。それも生き抜くための必要があったからである。どうしてもコロナ禍の今と重ね合わせたくなってしまう。まともな現代社会でヤミ市でもあるまいに・・・。

●参照
藤木TDC、イシワタフミアキ、山崎三郎『消えゆく横丁』
藤木TDC『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』
フリート横田『東京ヤミ市酒場』


藤木TDC、イシワタフミアキ、山崎三郎『消えゆく横丁』

2019-06-11 00:27:32 | 関東

藤木TDC、イシワタフミアキ、山崎三郎『消えゆく横丁 平成酒場始末記』(ちくま文庫、2019年)。

消えた横丁、消えつつある横丁、再生した横丁。横丁は寂れていても賑わっていても、夜でも昼でも、人の心を惹きつけるものがある。

本書に紹介されている横丁は、新宿ゴールデン街や吉祥寺のハーモニカ横丁など再生したところもあるが、ほとんどは消えてしまったり、消えつつあったりするところばかりである。そりゃ理由はいろいろあるが、それにしても勿体ない。

文字通り、これらの横丁の空気を体感できるかどうかは時間との戦いである。江東区森下の五間堀長屋など、居酒屋「藤」や町洋食の「キッチンぶるどっく」にいつか行こうと思っていたのに、取り壊しとのニュースを読んだのが運悪く入院中であり、間に合わなかった。神田の今川小路も気が付いたら無くなっていた。その駅側の神田小路も再開発に伴う立ち退きが間もなくだそうである。ガード下のアーチ式の穴に複数店舗が入った奇妙な作りであり、「ふじくら」「宮ちゃん」でなんどか飲んだのだが、どれがどの店かわからなかった。隣の「次郎長寿司」にも早く行きたいと思っているのだが・・・。東銀座の三原橋の半地下も、シネパトスにしか行かなかった。ああ、勿体ない。

●参照
藤木TDC『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』
フリート横田『東京ヤミ市酒場』


大井町フィールドワーク

2018-07-17 06:47:45 | 関東

いつも蒲田ばかりで下車していると目が曇ってしまう。そんなわけで、週末に大井町の初フィールドワークを敢行した(呑むだけ)。同行者のおふたりもこの近くとは言え蒲田ほど詳しくはない様子で、出てくる言葉は大井武蔵野館とかそんな昔話くらい。

自分もはじめてだと思い込んでいたのだが、よく考えると、ニコンの大井製作所には光学ガラスを作った伝説的な坩堝があり、何度か訪問して敷地内に入ったことがあった。いまだに熱狂的なファンはここを聖地とみなす(『科学の眼 ニコン』)。工場前は「光学通り」である。わたしは銀塩はペンタックスとライカ、ニコンにはあまり縁がなかった。

駅を出るとまずは東側の「東小路」とその先の「すずらん通り」、「平和小路」を散策する。比較的まっすぐではあるが、狭くて横丁に入るとよくわからなくなりそうな作りである。共同便所もある。藤木TDC『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』によると、ここが建物疎開地にできた貴重なヤミ市跡ということである。

まずは東小路の入り口にある「牛タンいろ葉」で、柔らかい名物の茹でタン、それからポテサラやいぶりがっこ(クリームチーズと蜂蜜を付けて食べる)。塩レモンサワーは普通のレモンサワーのようだが、実はよく混ぜないと塩が底のほうに沈んでいる。かなり賑わっている。店員さんがなかなか来てくれずテーブル上の懐かしいくじ引き器を見ると、上に呼び出しボタンなどが付いていた。新タイプなのだった。

同じ東小路にある中華料理の「永楽」にも、多くの客が入っており、外には空くのを待っている人さえもいた。日曜日ゆえ閉まっている店が多いからでもあるようで、残念ながら、人気店の「肉のまえかわ」もシャッターを下ろしていた。

右往左往した挙句に、洋食をつまみながら呑むのも悪くはないだろうという結論に達し、平和小路の「ブルドック」に入った。すっかり暗くなり、このごちゃごちゃした雰囲気で気分が高まる。ショーケースのサンプルはアレだが、店内は古くはあっても綺麗にしてある。野菜が必要だろうと頼んだミックスサラダが想定外の逸品で、次々に箸が伸びた。また巨大なメンチカツはしつこくはなく、あっさりと食べられた。再訪決定。

もう1軒と食べログ検索したところ、沖縄料理の店が界隈に3軒ある。しかし、そのうち「アランチャ」というバーはどうも姿を消しているようだった。そんなわけで、西側の大井町線ガード下に並ぶ商店街「大井サンピア商店街」を歩き、道を渡ったところにある「沖縄の味 ぶがりの~し」に入った。隣の「南風 どなん」は臨時休業だった。

『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』によれば、「大井サンピア商店街」は実はかなり長い歴史を持つ。1927年に「目黒蒲田電鉄線」として開業したときから、国鉄大井工場(いまのJRの車両センター)の労働者をターゲットとした商店街だったという。いま並ぶのは新しい店が多いようだったが、活気があることは間違いない。

なお、西口の大きなイトーヨーカドーの敷地に、多くの飲食店(大井新地のマーケット)があったようである。

「若い頃、あのあたりを歩くと、呼び込みの化粧の濃いオネエサンに『どこいくの?』なんてからかわれて、お尻をポンと叩かれたりしてね」。(フリート横田『東京ヤミ市酒場』

「ぶがりの~し」では、島豆腐と島らっきょう。泡盛の種類は多く、貴重な泡波も置いてあった。高いから次の機会に。


本橋信宏『新橋アンダーグラウンド』

2018-05-28 15:36:36 | 関東

本橋信宏『新橋アンダーグラウンド』(駒草出版、2017年)を読む。

新橋という街の形成史や現在の裏の世界のルポなのかと思ったのだが、そうでもない。どちらかと言えば著者の自分語りであり、そんなことわざわざ書かんでもと密かにツッコミを入れつつも、なんだか妙に面白くてあっという間に読了してしまった。

まあ街なんて体系的に見ている人がいるでもなし、誰もが必死に生きていきながら身を置くようなものであり、このような見せ方が正しいのかもしれない。特に新橋のように個人の欲望を吸い込み続けてきた街はそうである。

それにしても、新橋のナポリタンが、勤め人のシャツに飛ばないよう粘っこく作られているなんて初めて聞いた説である。スタジオジブリの鈴木敏夫が「アサヒ芸能」出身であり、同誌は徳間書店の保守本流なんてやはり初めて知った。また、中丸明がかつてはやはり「アサヒ芸能」の伝説的記者であったことも初めて知った。たしかに人間は清濁というより濁濁としたものである。

まずは再開発が予定されているニュー新橋ビルを、あらためて探検しなければ。


マイク・モラスキー『呑めば、都』

2018-05-23 12:23:07 | 関東

マイク・モラスキー『呑めば、都』(ちくま文庫、2012年)を読む。

『戦後日本のジャズ文化』を書いた人でもあり、社会学的にぎっしりと蘊蓄が詰め込まれているのかなと敬遠もしていたのだが、そんなことはなかった。東京と東京の居酒屋を愛する人による、実に共感できるエッセイである。

なんといっても、ひとりでふらっと立ち寄ることができる居酒屋こそが良いのだとする価値観にとても共鳴する。当然、チェーン店居酒屋を激烈に嫌悪しており、笑ってしまう。また、後付けのレトロ的な雰囲気づくりにも攻撃の手をゆるめない。やっぱりね。「せんべろ」ブームも悪くはないが、その対象からチェーン店を外すべきである。

ひとり呑みの軽いエッセイだけではない。勉強になったことも少なくはない。

たとえば、かつての洲崎売春街(洲崎パラダイス)の歴史。洲崎とは、もとは根津にあった遊郭が、東大の近くにあって望ましくないというので移転された場所だが(1888年)、今度は海軍省に引き渡しを命じられ、造船所の宿舎となった(1943年)。そして大空襲で焼失し、戦後また赤線として復活。しかし、その1943年の立ち退きにより、業者たちは新吉原、羽田、立川、船橋、千葉、館山へと分散して営業を続けた。立川には「立川パラダイス」というキャバレーもあり、洲崎パラダイスを連想した人も少なくなかったはずだ、と。このように土地の記憶は分散し共有されるというわけである。

また、「下町」という視線。著者はそこに人びとのロマンチシズムを見出す一方、その呼称は不正確で広すぎるのだと言う。これは小林信彦の持論でもあったようで、葛飾柴又のような千葉の隣を下町と呼ぶことへの違和感だった。しかし、ことは簡単ではなかった。江戸時代には、浅草は、そこから神田・日本橋に出ることを「江戸に行く」と呼ぶほどの辺縁であり、戦後では、葛飾で「東京に行く」とは「浅草に行く」という意味であった。

自分などは貝塚爽平『東京の自然史』に激しい影響を受けた者であるから、下町といえば地形と自然史的な成り立ちを基本に考えてしまう。都市の成長や認識は面白い。そういえば浦安市の当代島は、いまで言えば駅のすぐ近くという認識なのだが、前に浦安で呑んでいて古くから住む方と話をしたところ、「むかしは当代島のひとは浦安に行くって言い方をしていたよ」と言い放って、驚いたものである。

ああ呑みに行かないと・・・。


滝田ゆう『下駄の向くまま』

2018-05-16 19:35:58 | 関東

神楽坂のクラシコ書店に足を運ぶといつも閉まっていて、先日、ようやく入ることができた。想像通りステキな古書店で、ほどよく整理されている。しばらく悩んで、2冊をわがものにした。そのうちの1冊、滝田ゆう『下駄の向くまま 新東京百景』(講談社、1978年)。

東京の盛り場や渋い町を散歩し、そのまま飲むだけのエッセイである。だけ、なのだが、もちろん面白いのだ。自由になったらいくつか健在の飲み屋に行こう。どじょうは別に食べなくてもよいのだけれど。

やはり、滝田ゆうの絵を味わうには単行本くらいでないと物足りない。たとえば、合羽橋商店街の奥行きの表現力といったら素晴らしいものだ。今回じろじろと観察していて、意外に建物の線がよれておらず真っすぐだということを発見した。よれるのはマチエールであり気持ちなのである。

ところでもうひとつ発見。旧赤線の洲崎パラダイスの入り口あたりに洲崎橋があったわけだが、いままで、あのへんだろうと漠然としか思っていなかった。実はよく行くインド料理店のカマルプールのすぐ向こう側だということがわかった。なお橋が架けられた川は、滝田ゆうが訪れたときには水が流れず草ぼうぼうであり、いまは緑道になっている。

●滝田ゆう
滝田ゆう展@弥生美術館


フリート横田『東京ヤミ市酒場』

2018-05-14 15:59:21 | 関東

フリート横田『東京ヤミ市酒場 飲んで・歩いて・聴いてきた。』(京阪神エルマガジン社、2017年)を読む。

というのも、藤木TDC『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』によって、戦後ヤミ市の跡(主に、ヤミ市そのものではなく、GHQの命令等によって行き着いた場所)が、いまもこまごました飲み屋が軒を連ねる横丁やビルになっていることを知り、その実践版として、雑誌『東京人』2017年11月号の「高架下の誘惑」特集を紐解いていたからである。

『東京戦後地図』によれば、神田駅北口側はスラブ式鉄筋コンクリートで線路直下を使える。一方南側は明治期の煉瓦アーチ式ゆえ、神田小路のように小型店舗がひしめく構造ができた。そこに今もある飲み屋が、たとえば「ふじくら」「宮ちゃん」が一緒になったところであり、その横の「次郎長寿司」。「ふじくら・宮ちゃん」では先日ちょっと飲み食いしてきた。良いところだった。

アーチの中には中二階がありお店の人が寝起きもしていたようであり(プラスアルファ?)、そのことについて、『東京人』にはもう少し解説がなされていた。それが、本書の著者であるフリート横田氏によって書かれていたのだった。

そんなわけで順番が前後したが、本書を見つけて喜んで買ってきて、一通り読んだところである。神田だけでなく、新橋、新宿、渋谷、池袋、大井町、赤羽、西荻窪、吉祥寺、溝の口、横須賀、野毛、船橋について、ヤミ市跡がどのように形成されたのか手短にまとめられ、いくつかの酒場が紹介されている。『東京人』と同様の実践版である。

まあとにかく自由になればまた好きな街をふらつくつもりである。


滝田ゆう展@弥生美術館

2018-03-11 21:23:29 | 関東

久しぶりに根津から弥生美術館まで歩いて、滝田ゆう展。

『寺島町奇譚』などにおいて、滝田ゆうは玉の井を描いた。戦前から存在した私娼街(公娼ではない)であり、1945年3月10日の東京大空襲でほとんどが焼けたのちは、1957年の売春禁止法施行までの間、赤線の街であった。「ぬけられます」なのにぬけられない、「ちかみち」なのに近くはない街。滝田ゆうはこの街の様子を実に味わい深く描いており、原画にはまた印刷物と違う良さがある。

どれも凝視してしまうのだけれど、『怨歌橋百景』での「柳橋幻夜」というカラー画がとてもいい。柳橋は永代橋を小さくしたような鉄の橋なんだな。もちろん柳橋は花街であって(柳はそのように使われる)、橋を渡るお姐さんの頭からは鈴が付けられた小さい鋏。

この絵は安倍夜郎(『深夜食堂』の)によるセレクションのひとつ。他にも、『滝田ゆう歌謡劇場』での「ゲイシャワルツ」の最後の絵が絶賛されていて確かに沁みる。暖簾越しに燗酒を飲む芸者さんの姿が影絵のように描かれているのだが、小指が立っている芸の細やかさ。

滝田ゆうはつげ義春に影響を受けたというが、画風はずいぶん異なる。しかし、『泥鰌庵閑話』には「やはり今夜はテッテ的に飲むムードです」というセリフがあって、「テッテ的」に傍点が振ってある。これはやはりつげ義春への意識だろうね。

驚き、また、しばらく目を離せなかった作品は、「沖縄情話'71 東に星が流れるとき」。『朝日ジャーナル』1971年3月の掲載である。沖縄戦、夜、崖の横のガマ。人びとが泣き血だらけになりながら、近い者を刃物や石で殺し、あるいは手榴弾で爆死している。いわゆる「集団自決」を描いたものだ。これは丸木夫妻の「沖縄戦の図」と並べて展示する機会があって欲しいと思った。