Sightsong

自縄自縛日記

藤原新也『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』、ドラマ『永遠の泉』

2012-06-23 23:47:11 | 思想・文学

藤原新也『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』(河出文庫、原著2009年)を読む。

このひとの、潔く、それでいて思いを込めた文章は、以前から好きだ。読んでいると内省的になっている自分を発見することも少なくない。逆に、抒情的なつもりで、冗長に、自己愛と甘えを垂れ流す文章は多い。

本書は、「どこにでもいる普通の人々」の生き方や心の中に触れ、実話ともフィクションともつかないような作品に仕立て上げた短編集である。それらは哀しく、大きく心を動かされるというよりは、目を閉じて、混沌を感じたくなるようなものだ。登場する人物たちは、死の影をまとった幽霊のようで、また、実体の定かでない霧がかった時空間のなかで何かを必死につかもうとしているようでもある。

本当は、「普通の人々」などは存在しない。人はそれぞれ違うものを抱えている。芸能人や有名人以外は「一般人」と呼んで区別するなど、大変な思い上がりであり、傲慢である。そんな社会だから、みんなが劣等感を抱え、嫉妬に苦しむことになる。

短編「尾瀬に死す」は、先日NHKで放送されたテレビドラマ『永遠の泉』の原作である。ドラマの舞台は、尾瀬ではなく、阿蘇となっていた。ドラマの撮影は、やたらと横方向にレンズをティルトしていたり、フィルターワークによって夢のような世界を創りだそうとしていたりと、やや作為的ではあった。しかし、寺尾聰の演技が素晴らしく、印象深いものだった。

●参照
藤原新也『なにも願わない手を合わせる』


オスプレイの危険性

2012-06-23 00:43:04 | 沖縄

あまりにも危険な複合機オスプレイの配備が、沖縄・普天間基地に強行されそうになっている。開発段階から何度も墜落し、沖縄の2紙の一面に「オスプレイが沖縄全域を飛行」と報じられた翌日にも、フロリダで墜落している有様だ。

『オスプレイ普天間配備の危険性』(リムピース+非核市民宣言運動・ヨコスカ編、2012年)という小冊子が、オスプレイの危険性を取りまとめている。

周知のように、オスプレイは、離着陸時にはヘリモード、そして大型の回転翼を90度回転させ、水平飛行には飛行モードとなる。問題は、飛行中に何かがあった場合である。

○通常のヘリは、エンジンが止まっても、プロペラが落下するスピードを緩和する(オートローテーション)。しかし、オスプレイは重いうえに、プロペラが通常のヘリよりも小さいため、オートローテーションが効かない。つまり凄い勢いで落ちる(同じ条件で、CH46の2倍程度の速度)。
○日米政府の説明では、エンジントラブルがあっても、オートローテーションを効かせながら滑降し、滑走路に降りることができると説明しているが、これはウソ。滑走ではなくまっさかさまに落ちる。
○仮に、グライダーのように降りるとしても、回転翼を横倒しにしたままではプロペラが滑走路にぶつかるため、最後にプロペラを吹き飛ばす機能がついている。これが生活地域に落ちたら大変なことになる。
○安全に着陸できるとする前提は、普天間の周囲の「場周経路」(俵型の飛行ルートで訓練)をオスプレイが飛ぶということである。仮に、それが守られている場合に着陸できるとしても、実際の飛行ルートは、「場周経路」を大きくはみ出している。すなわち、前提から崩れている。


伊波洋一氏の説明資料(2012/6/15)

○辺野古のアセスでは、オスプレイの飛行経路が海側に示されていた(これとても、そのような台形のルートを飛べるわけがないと米軍自らが否定している)。しかし、「場周経路」は示されていなかった。すなわち、辺野古基地が仮に出来たとしたら、陸側の集落は危険にさらされる。もとより、このことが評価されていないアセスはダメである。
○オスプレイは、米国において、連邦航空局の耐空性要求を満たしていない(軍用機には適用されない)。日本の航空法においても、耐空証明が取れず、民間輸送機としては飛行できない。しかし、日米地位協定航空特例法で、米軍は、航空法の「耐空証明を受けた航空機以外の用途禁止」という条項の適用を除外されている。
○さらに、米国では、普天間のように住宅地の上を飛び続けることはない(フロリダのオスプレイ墜落事故も、基地内だから被害が最低限で済んだ)。
○従って、本来は安全基準をクリアしないような欠陥品が、しかも米国と違って、民家の上を飛ぶということになる。
○なお、普天間へのオスプレイ配備後には、キャンプ富士岩国基地に、月2,3回、2-6機が低空飛行ルートで派遣される(東京新聞、2012/6/21)。危険は「本土」にも及ぶ。


「東京新聞」2012/6/21

いくら米国に通告されるがままに安全だと言ったところで、このような代物である。

●参照
6.15沖縄意見広告運動報告集会
オスプレイの模型
60年目の「沖縄デー」に植民地支配と日米安保を問う
辺野古の似非アセスにおいて評価書強行提出
前泊博盛『沖縄と米軍基地』
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
渡辺豪『「アメとムチ」の構図』
○シンポジウム 普天間―いま日本の選択を考える(1)(2)(3)(4)(5)(6
『世界』の「普天間移設問題の真実」特集
大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』
二度目の辺野古
2010年8月、高江
高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘
高江・辺野古訪問記(1) 高江
沖縄・高江へのヘリパッド建設反対!緊急集会
ヘリパッドいらない東京集会
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(1)
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(2)
「やんばるの森を守ろう!米軍ヘリパッド建設を止めよう!!」集会(5年前、すでにオスプレイは大問題として認識されている)


柄谷行人『政治と思想 1960-2011』

2012-06-21 02:03:29 | 政治

柄谷行人『政治と思想 1960-2011』(平凡社、2012年)を読む。

歴史の60年周期説や120年周期説を拵え、過去の事件を重ね合わせることはまだ良いとして、今後の動きについても推測することなどには、何の根拠もなく、呆れかえってしまう。

それは忘れることとして、いくつも考えさせてくれる指摘があった。

フランスの現代思想は、1968年の5月革命の挫折から生まれたものであり、現実において不可能な革命を、観念で起こそうとした。(白川静『孔子伝』において、「思想は本来、敗北者のものである」としていたことを思い出す(>> リンク)。数多い1968年についての本では、そのことについての考察があるだろうか?)
○1960年代、東大の学生は、経済学部でも法学部でも、みな宇野経済学を学んだ。そこでは、資本主義においては恐慌が不可避だとしていた。彼らが官僚や企業人となりそれをどう活かしたか不明だが、市場経済万能主義を学んだ者よりはましだろう。
アントニオ・ネグリは、国家を社会から生まれたものと考える。そのために、国家を、社会の公共的合意のもとにおけばよいと考えている。しかしそれは実現などしない。国家は他の国家に対して生まれる。
○また、ネグリは、マルチチュードの反乱による国家の無化を考えるが、それは反対である。革命は国家の強化を生み出す。そしてこれからも、国家・資本に対抗する運動は、それがマルチチュードによるものであっても、世界戦争に結びつく。(この論理展開はよくわからない。歴史の周期を想定した結論だとすれば、非常にバカバカしいことだ。)
EUは、かつての「第三帝国」や「大東亜共栄圏」と同様に、広域国家の実現による「帝国」の実現に過ぎない。(この指摘には違和感がある。EUの創設による、英国、フランス、ドイツなどの国家間の諍いのかなりの現実的な解決は、もっと評価されてよいはずだ。)
○1980年代、中曽根政権によって実施された政策により、国鉄の労働組合(国労)が解体され、総評(現・連合)の解体、社会党の消滅を生んだ。日教組の弾圧、公明党の取り込みに伴う宗教勢力の抑制、解放同盟の制圧などとあわせて、2000年には、中間勢力がほぼ消滅した。そして小泉政権は、その残党を守旧派・抵抗勢力と呼んで一掃し、新自由主義化を進めた。
○この、中間勢力(個別社会)の消滅が、市民の政治参加への道を閉ざしてしまった。現在の間接民主制は、市民の意思を反映するものでは、まったくない。日本では自治的な個別社会のネットワークが弱く、社会がそのまま国家である。
○従って、デモを数多く行うべきである。現在のデモは、60年代のように、一部の団体によって指揮され、過激な行動によって市民参加を排してきたようなものとは異なっている。
○社会の強さは、個人の強さであり、それは中間勢力としての共同体・アソシエーションの存在を前提とする。個人の力はアソシエーションの中で鍛えられる。インターネットだけではアソシエーションの創成には結びつかず、実社会での身体的な参加が不可欠である。
日本国憲法は、国家が規定した法ではなく、国家権力に規範を与えるために存在する。(田村理『国家は僕らをまもらない』においても、日本国憲法の位置づけを、「ほっておくとろくなことをしない」国家権力に対して制約を加えるものだと明言している。(>> リンク))
脱原発は、たんにエネルギーシフトでかたづくような問題ではない。カントのいう「他者をたんに手段としてのみならず同時に目的として扱え」という倫理に深く関連している。この道徳法則は、人間を「手段」としての扱うことによって成立する資本主義経済では、成り立たない。

●参照
柄谷行人『探究Ⅰ』
柄谷行人『倫理21』 他者の認識、世界の認識、括弧、責任
『浅川マキがいた頃 東京アンダーグラウンド -bootlegg- 』(柄谷行人が登場)
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(上)
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(下)
廣瀬純『闘争の最小回路』を読む
デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』
『情況』の新自由主義特集(2008年1/2月号)
『情況』のハーヴェイ特集(2008年7月号)
『藤田省三セレクション』


オーネット・コールマン『White Church』、『Sound Grammar』

2012-06-20 00:59:27 | アヴァンギャルド・ジャズ

久びさの台風から逃げ帰り、うとうとしながら、オーネット・コールマン『White Church』(2003・2005年)を聴く。

Ornette Coleman (as, tp, vn)
Greg Cohen (b)
Tony Falanga (b)
Denardo Coleman (ds, perc)

1枚目の録音は2005/11/5であり、一応の最近作『Sound Grammar』の録音日2005/10/14よりも少しだけ後である。そして2枚目は遡って2003/9/26。ベース2人に息子デナード・コールマンの巧いのかどうかよくわからないドラムスを従えた編成も、まったく同じ。

2006年3月の来日メンバーも同じだった(いや、山下洋輔オオクボ・マリ客演だけが違う)。

「Turnaround」、「Lonely Woman」、「Song X」、「P.P. (Picolo Pesos)」、「Tone Dialing」、「Guadalupe」など名曲ばかりだが、垢はついていない。何歳になってもオーネットの独自性はまったく衰えておらず、サックスの音の張りや凶暴性が若干マイルドになってはいても、それは依然オーネット。このあたりは、大城美佐子やリー・コニッツにも同じことが言えるのではないかと思うのだ。

この盤はヘンな録音で、オーネット以外の音が遠いのが難点だが、オーネットと同時代に生きていると思いながら聴けるだけで満足する。とは言え、『Sound Grammar』(2005年)を改めて聴いてみると、やはりデナードのパルスとベース2本の音がしっかり聴こえるほうがよいのであって、このサウンドの中を、エッジが丸く磨きぬかれたオーネットの音がぬるぬるツルツルと遊泳するのは快感極まりない。

Ornette Coleman (as, tp, vn)
Greg Cohen (b)
Tony Falanga (b)
Denardo Coleman (ds, perc)

さて、今年の「東京JAZZ」に出演するオーネットを観にいくかどうか。

●参照
シャーリー・クラーク『Ornette: Made in America』 オーネット・コールマンの貴重な映像
オーネット・コールマンの最初期ライヴ
コンラッド・ルークス『チャパクァ』


ザ・シー・アンサンブル『We Move Together』

2012-06-19 00:50:31 | アヴァンギャルド・ジャズ

やっぱりアラフォーともなると仕事のあとは疲れる。特に月曜日は疲労困憊する。本を開いてもすぐにぼとりと落とす。録画した映画を観はじめるとすぐに意識を失う。がっちりした音楽もつらい。

そんなわけで、ギャレット夫妻による「The Sea Ensemble」がデュオで録音した盤、『We Move Together』(ESP、1974年)のユルさが丁度良い(ESPだから持っているだけなのだが)。タイトルも「わたしたちは一緒に動く」とか、そのまんまである。

Donald Rafael Garrett (ds, voice, 尺八, sheng, cl, b)
Zussan Fasteau Garrett (ds, nye, 尺八, cello, p, voice)

二人して、何かいろいろな楽器を駆使して、吹いたり、叫んだり、叩いたり、弾いたり。緊張感があるのかどうかまったく判断できないが、あってもユルい。壮大さとは対極にある、スモール・ワールドを創りだしているが、まったく引き込まれない。脳内を掻き乱すこともなく、とりあえず微妙にマッサージして去っていく。

まあ、楽しそうだからとりあえずこちらも楽しいフリができる。

夫によるジャケット画も素朴で良い(としか言えない)。


”カラパルーシャ”・モーリス・マッキンタイアー『Forces and Feelings』

2012-06-18 00:35:39 | アヴァンギャルド・ジャズ

ここのところ、”カラパルーシャ”・モーリス・マッキンタイアー『Forces and Feelings』(delmark、1970年)をよく聴いている。

Kalaparusha Maurice McIntyre (ts, cl, fl, bells, etc.)
Sarnie Garrett (g)
Fred Hopkins (b)
Wesley Tyus (ds)
Rita Omolokun (Worford) (vo)

マッキンタイアーは昔も今もさほど注目されないプレイヤーかもしれない。シカゴAACMの超個性軍団のなかでは、それも仕方がないと言えなくもない。

しかし、特にテナーサックスの音色も暴れ方も悪くない。この盤は、マッキンタイアーの初吹き込みの翌年に録音されている。ポエトリー・リーディングとヴォーカルの間にでもありそうなヴォイスが臭さを高めており、そこにサーニー・ギャレットのギターとフレッド・ホプキンスのベースが絡み、その中でさまざまな音を繰り出すマッキンタイアーはかなり魅力的。もっとマッキンタイアーの録音を聴きたいところ。

ベースのフレッド・ホプキンスは、まだ20代そこそこと若く、シカゴ市民交響楽団の一員としても活動していた。ここでも、ミドル級の確かな重厚さと機敏さは、このサウンドの中でとても存在感を示している。

注目すべきは、これが、ホプキンスがヘンリー・スレッギルと組む直前の記録だということだ。1972年(71年後半という説もある)に、スレッギルやスティーヴ・マッコールと一緒に「リフレクション」というグループを結成し、その後、1975年から「エアー」としてジャズの歴史に名を刻む。どこかに「リフレクション」の演奏の録音は残っていないものだろうか。

●参照
ヘンリー・スレッギル(2) エアー
ヘンリー・スレッギル(7) ズォイドの新作と、X-75
ヘンリー・スレッギル(9) 1978年のエアー
マッコイ・タイナーのサックス・カルテット(フレッド・ホプキンス)


纐纈あや『祝の島』

2012-06-17 09:56:56 | 中国・四国

ようやく、中古DVDを入手し、纐纈あや『祝の島』(2010年)を観る。昨年訪れた祝島の小さな売店にも置いてあったが、鞄が一杯だったので買わなかったのだ。

山口県上関町、祝島。対岸の長島には、新たな原子力発電所の計画があり、既に土木工事がはじまっている。長島の集落からは見えない、祝島に向かい合っているところだ。

島民の方々は、1982年の計画公表以来、ずっと反対を続け、漁協でも補償金の受け取りを拒否し続けている。その間には、賛成・反対で地域社会にヒビが入り、人間関係が壊されてきたともいう。それでも、毎週1回、大勢で原発反対と叫びながら、島をねり歩くことをひたすら続けている。オカネにも屈せず、一度は原発のために中断した祭まで復活させ、地域の生活を守っている。これは大変なことである。

映画では、上関町役場での諍い、漁船での直接反対行動、島内の週1回の反対行進が示される。しかし、それ以外には、ことさらに大きな事件を示すこともなく、拍子抜けしてしまうほどゆっくりと、島の生活が紹介される。お年寄りたちの山口のことばは、場所は違うが、わたしのことばでもある(字幕はわたしには要らない)。にこにこと笑いながら四方山話をしたり、カメラに向かって話しかけたりする様子を視ていると、何だか心の奥をさすられているようで、切なくなってくる。

上関町議の清水敏保さんが登場する。昨夏、わたしたちを案内してくださった方である。映画の中では、町議会で激しく原発推進派の町議に喰ってかかり、また一方では、島の集まりで古い歌を唄ったり、船のペンキ塗りを手伝ったりと、いろいろな表情を視ることができる。愉快な人なんだな、もっとお話すればよかったな。

名物の「練塀」が多く残る集落の他にも、昨夏足を運ぶことはできなかったが、何十年もかけてつくられた立派な棚田や、島の反対側にはウニやひじきが採れる磯がある。また行きたくなってくる。

都市住民の勝手なロマンチシズムではあるが、原発建設を退け、島の生活文化と海とを守ってほしい。今後の大きな分岐点は、7月29日投票の山口県知事選であろう。長期に渡る平井知事、現在の二井知事という保守王国ではあるが、亀裂は入るだろうか。亀裂が入ったとして、それは別の奇妙な道につながらないだろうか。(いまは勘繰っているだけなので何とも言えない。)

そういえば、昨夏、生れたばかりで側溝に放置されていた猫を、同行した方が牛乳なんかを与えて救出し、「祝」(ほうり)と名付けて杉並まで連れ帰っていた。先日気になって訊ねたら、元気に育っているということだった。


集落と海と長島のブルーシート(2011年) Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8、Velvia 100F、DP

●参照
○長島と祝島 >>
リンク
○長島と祝島(2) 練塀の島、祝島 >> リンク
○長島と祝島(3) 祝島の高台から原発予定地を視る >> リンク
○長島と祝島(4) 長島の山道を歩く >> リンク
○既視感のある暴力 山口県、上関町 >> リンク
○眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』 >> リンク
○『これでいいのか福島原発事故報道』 >> リンク (上関の原発反対運動について紹介した)
○1996年の祝島の神舞 『いつか 心ひとつに』 >>
リンク
○内田康夫『赤い雲伝説殺人事件』 寿島=祝島、大網町=上関町 >> リンク


6.15沖縄意見広告運動報告集会

2012-06-16 10:30:15 | 沖縄

6.15沖縄意見広告運動報告集会」(2012/6/15、連合会館)に足を運んだ。

沖縄意見広告という形で米軍基地撤去を訴え、世論を喚起する運動であり、現在は第三期。この5月には沖縄の2紙(琉球新報、沖縄タイムス)、朝日新聞全国版に掲載されている。また、その対象に原子力をも含めるようになっている。

広い会場はかなりの人で埋まっていた。同時に行われた官邸前アピールとずれていれば、さらに多かったのだろう。年齢層は相変わらず相当に高い。若い層は、デモには多くても、このようなイベント性のない場には少ないということだ。

司会は上原公子さん(元国立市長)。脱原発の盛り上がりに伴い平和集会が減ったと指摘しつつも、基地も原発も基本的人権の侵害という点で共通しているのだと述べた。

次に挨拶に立った上原成信さん(沖縄・一坪反戦地主)。『那覇軍港に沈んだふるさと』(>> リンク)の著書がある。上原さんは相変わらず飄々としてユーモラスである。特に、「2プラス2」でも、オバマ・野田共同声明でも、同じことを繰り返すばかりであり、両政府ともどうすればいいかわからない状況なのだとした。それゆえ、辺野古や高江同様に、普天間も人間の鎖で反対すれば、日本政府を変えられると強調した。

この後登場した各氏の発言は以下のようなもの。

■ 山内徳信(参議院議員)

○今年の1月に沖縄市民訪米団の団長として参加した。米国では、多くの上下院議員らと会った。
ダニエル・イノウエ議員(民主党のNo.3)は、日本政府が「6月の沖縄県議会選挙を待て。必ず日本政府の望む方向に決まる」と言ってきたが本当か、と訊ねた。それに対し、野党多数となるのは間違いないと応えた。それは実現した。
○県議選の結果を受けて、仲井真知事はうつむいていた。日本政府に新法をつくらせ、満額回答に近い振興予算も得ていたから、あまりにも意外だったのだろう。
○ガンジーやキング牧師の例を挙げるまでもなく、闘いは民衆が立ちあがって行うものだ。非民主的な政治はもはや通らないということをわからせてやりたい。
○これは憲法を実践させていく闘いである。それにより、多くの国が手本とする国をつくりたい。

退席するとき、鎌田慧さんが立ちあがって握手したのが印象的だった。

■ 伊波洋一(元宜野湾市長)

司会の上原さんは、「この前の知事選で伊波さんが勝っていればどんなに沖縄は変わっただろうと思うと、残念でならない」と紹介した。

○旧安保条約から60年あまり、沖縄「返還」から40年。まだ、沖縄は米軍占領下にある。
○日米安保は日本を守るためではなく、米国の世界戦略のためにある。日本を攻める国はないにも関わらず、虚構をつくりだしている。
○米軍は基地の自由使用権を持ち、米兵が問題を起こしても、地位協定によってほとんど裁かれない。これほど住みやすいところはない。
○米軍は日本の上のどこであっても、いつ飛んでもよい。日本の空は米国のものである
○日本の安全政策に関しては、日本政府は米国の傀儡政権となっている
○あまり知られていないことだが、日米首脳会談(2012/4/30)を前に、普天間の固定化、辺野古とグアム移転の分離を「2プラス2」の合意として日米政府が発表しようとしたところ(2012/4/25)、3ヶ月かけて準備されたものにも関わらず、直前に突然キャンセルされた。辺野古移設に反対する米国上院議員レビン、マケイン、ウェブ各氏の反対のためであり、この3名は、国務長官に対し、議会を無視するなと圧力をかけたのだった。それは急遽文言に反映された。
○普天間飛行場は、日本の航空法上では飛行場ではない。何ら周辺の安全対策をしていないからだ。米軍は、フェンスの内部は米国法の規制を厳に運用し、危険を除去するが、フェンスの外はまったく関知しない
○例えば、米国のミラマー基地は、普天間の20倍、宜野湾市の5倍の面積を持ち、旋回訓練コースはすべて基地内に含まれている。一方、普天間の飛行ルートの下は住宅ばかりである。ここに、さらに危険なオスプレイが配備されたらどうなるのか。
○従って、日米安保そのものが日本の安全を守るものではないし、沖縄はいまだ占領下だということがいえる。
○2030年には、中国の経済は米国の1.5倍、日本の4倍にもなる。その時代にも、日本は中国と対峙するのか。それが国益なのか。

■ 安次冨浩(名護・ヘリ基地反対協議会共同代表)

常に辺野古のテント内にいる安次冨さんである。

○辺野古での座り込みは2980日を数え、この7月5日には3000日を迎えるという。いまでは平和学習の場にもなっている。それだけ日本・米国と対峙し、辺野古の新基地を止めているのだと自負している。
○沖縄の2紙の一面に「オスプレイが沖縄全域を飛行」と報じられた翌日に、オスプレイがフロリダで墜落した。皮肉なものだ。
○フロリダでの墜落も、その下が米軍基地であったから、被害が最小限で済んだのだ。これが沖縄ならばどこに落ちるか。
○普天間では、オスプレイは輸送機CH46Eの後継機として位置づけられている(軍によって呼び名も用途も異なる)。CH46Eは墜落しないがオスプレイは墜落事故多数。しかし、まやかしの計算により、日米政府とも「事故率は少ない」と言っている。
○フロリダの事故により、7月の岩国、8月の普天間というオスプレイ配備計画は当面見送られる可能性が高くなった。しかし、森本敏大臣は、配備計画は続けるなどと発言している。
○那覇市長は、那覇軍港への搬入と組み立ては許されないとしている。一方の岩国では、基地の軍民共用化に伴い、民間の飛行場の予算を了解させるための条件(アメ)として、オスプレイ受け入れを呑んだ。しかし事故によって、一転拒否に至っている。
○沖縄県議選は、野党が過半数を占めるという結果になった。民主党が大きく議席を減らしたのは、県民の不信感による。
○県議会は6月26日から開かれる。そのときから要請をはじめ、7月一杯にはオスプレイの全会一致での反対決議を実現させたい。さらに、知事を含める形での県民大会を開きたい。
○仲井真知事と宜野湾市長とは、直接防衛省に赴き、オスプレイ受け入れはムリだと伝えるだろう。
○これまで、日本政府の存在が、米国との交渉を分断し、邪魔するという機能しか果たしてこなかった。これからは、日本政府をあてにせず、米国との直接交渉が望ましい。その意味で、1月の訪米は意義深いものだった。外交も自己決定権の原則のもと行わないと、沖縄問題は解決しない。
○オスプレイは月に2-3回は「本土」に飛ぶという。決して沖縄だけの問題ではない。

■ 鎌田慧(さようなら原発1000万人署名活動)

わたしも深く敬愛するジャーナリストである。

○この日の午前中、740万筆の署名を藤村官房長官に届けた。 この中には、原発に直接は関連しないにも関わらず、島民の半分近くが署名した竹富島の約150筆も含まれている。この国を変え、圧倒的な力の下から人々を解放し、国民主権を実現したいという力である。
○大飯原発の再稼働が、たかだか4人程度により、密室内で決定されそうになっている。議会でもない。政治決定は国民が行うものであり、決して認められない。
○いまではどこにも責任がない状況だ。藤村官房長官も、横路議長も、輿石議員も、「重みはよくわかる」と言う。しかし、誰も決定をしない。誰が主権を持っているのだろうか。私たちが「イヤだ」と言うべきなのだ。その意味で、7月16日の10万人集会を必ず成功させたい。
○東日本大震災の原発事故から、原子力安全保安院にせよ、電力の供給・経営体制にせよ、安全装置の設置にせよ、何一つ状況が変わっていないのに、もう一度稼働しようということだ。何の反省もみられない。
○原発も沖縄基地も危険にも関わらず、政府は安全だと言い続けてきた。例えば、2年前、高江の公民館における説明会では、住民が訊ねても、防衛局はオスプレイ配備計画があることをいっさい認めなかった。民主主義どころでない、住民無視である。
○原発を再稼働させてほしいとする地方の声もある。これは原発というモノカルチャーを押し付けられてきたことによるわけであり、彼らも犠牲者なのである。原発に依存しない国をつくりたい。
○電力不足や安全神話など、ウソに立脚した政治が行われてきた。これを、真っ当な、人間の声が反映された政治にしたい。

■ 椎名千恵子(原発いらない福島の女たちの会)

○日本には、原子力ムラがあるどころか、原子力帝国になっている。
○辺野古では、現地のオバアに、「福島と沖縄は同じだよねえ」と声をかけられた。シンプルで核心をついた言葉だと思った。
○原発は「犠牲のシステム」(高橋哲哉)(>> リンク)である。犠牲なしには生み出されないし、維持もされない。しかし、今や、その犠牲さえ壊れてしまう状況である。
○福島原発を廃炉にしない動きがある。また、福島県民を福島に居させ続けたい力が働いている。
○闇の中から光をつかみとるべく頑張っている。責任を取らない日本の体質を変える国民運動にしていきたい。
○診療所の建設運動にも協力してほしい。

以上、各氏の報告と問題提起のあと、さまざまな立場からの連帯挨拶があった。

藤本泰成さん(原水禁・平和フォーラム事務局長)は、「合意なき国策」の異常さを主張した。

渕上太郎さん(経産省前テントひろば)は、 この同じ時間に、官邸前アピールのため1万人以上が集まっているとの速報とともに、組織上の動員ではないという点で画期的だとした。

吉田正司さんの代役(沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック)は、意見広告をヤマトゥの新聞すべてに掲載してほしいと主張した。

吉沢弘久さん(伊達判決を生かす会)は、基地そのものが違憲だとする伊達判決(東京地裁、1959年)のあと、立川基地が撤去されたことの意義を述べた。

野平晋作さん(JUCON/沖縄のための日米市民ネットワーク)は、現在、3mものオスプレイが子供たちの上に墜落する模型をつくっており、これを多くの人に撮ってもらい、twitterやfacebookで拡散させることによって、「本土」の世論を喚起する計画だと述べた。(一方、会場からは、なぜ子供の上に落とすのか、やりすぎだとの声があがった。わたしは地獄絵のヴィジュアライゼーションという意義で賛成である)

広告運動の発起人からは、これから「第四期」に入り、今後は米国やその他米軍基地で苦しむ国々にも働き掛けること、安保を運動の中心に据えることなどの報告があった。

 

●参照
オスプレイの模型
60年目の「沖縄デー」に植民地支配と日米安保を問う
金城実+鎌田慧+辛淑玉+石川文洋「差別の構造―沖縄という現場」
辺野古の似非アセスにおいて評価書強行提出
前泊博盛『沖縄と米軍基地』
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
渡辺豪『「アメとムチ」の構図』
○シンポジウム 普天間―いま日本の選択を考える(1)(2)(3)(4)(5)(6
押しつけられた常識を覆す
『世界』の「普天間移設問題の真実」特集
大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』
鎌田慧『沖縄 抵抗と希望の島』
アラン・ネルソン『元米海兵隊員の語る戦争と平和』
二度目の辺野古
2010年8月、高江
高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘
高江・辺野古訪問記(1) 高江
沖縄・高江へのヘリパッド建設反対!緊急集会
ヘリパッドいらない東京集会
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(1)
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(2)
ゆんたく高江、『ゆんたんざ沖縄』 
終戦の日に、『基地815』
『基地はいらない、どこにも』
「やんばるの森を守ろう!米軍ヘリパッド建設を止めよう!!」集会(5年前、すでにオスプレイは大問題として認識されている)
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)


原田正純『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』

2012-06-16 02:14:21 | 九州

先ごろ亡くなった原田正純氏の本、『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』(岩波書店、2007年)を読む。医師として、また研究者として、水俣病に取り組んだ人である。

氏は、このように書く。水俣病が発病したから差別が起こったのではない。差別のあるところに公害が起こるのだ、と。まさに水俣病は、血の通わない権力構造の姿を体現するものであった。権力は、それとわかっていながら、歪みを弱いところに発現させ、それを隠蔽し、なかったことにしようとする。

水俣病の因果関係を明らかにすることに大きく貢献し、それを社会に問うてきた原田氏であるからこその観察や考えが、さまざまに述べられている。

○水俣病が1960年に終焉したとする説があった。これは、行政が幕引きのために意図的につくりあげた可能性がある。
○1968年に、政府(園田厚生大臣)が、はじめて公式に水俣病を公害病と認めた。実はその年に、チッソばかりでなく、日本中からアセトアルデヒド工場が完全に消えた。これにより企業への影響がおよばなくなるのを待って、幕引きの意図をもって認めたのだった。
○水俣病以前、「毒物は胎盤を通らない」が医学上の定説だった。そのため、母親の症状が軽いと、胎児に病状がみられても、母親が毒物を接取したためとは認められなかった。この説は、学問上の権威を守り、新しい事実に目をつぶる権威者の存在によって、なかなか見直されなかった。
○発病した胎児の臍帯(へそのお)を多数分析すると、問題量のメチル水銀が検出された。子宮は環境そのものであった。

水俣病が認知されていっても、常に、患者は権力上も経済的にも圧倒的に弱かった。原田氏は、公害のような裁判において、被告の企業や行政の側に控訴が認められていることは大変不公平だと書いている。強大な国家権力に踏みにじられることへの抵抗という点では、このことは、水俣にも公害にも限るまい。同じことは、原田氏がやはり関わった、三池炭鉱の炭塵爆発事件に伴うCO中毒についても言うことができるのである。

どきりとさせられる指摘がある。原田氏は、日本が敗戦により植民地を失ったあと、九州を植民地代わりにして高度経済成長を行ったのだとする。その代償として、次のような事件が列挙されている。

○三池だけでなく炭鉱事故が九州に頻発した。
○カネミ油症事件(1968年)※福岡県中心に西日本一帯
○土呂久鉱毒事件(1971年)※宮崎県
○松尾鉱毒事件(1971年)※宮崎県
○興国人絹による慢性二硫化炭素中毒事件(1964年)※熊本県
○森永ヒ素ミルク事件(1955年)※宮崎県など西日本一帯
○振動病
○スモン
○大体四頭筋委縮症
○サリドマイド禍

まさに、高橋哲哉のいう「犠牲のシステム」だ。

●参照
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
石牟礼道子+伊藤比呂美『死を想う』
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想(石牟礼道子との対談)
熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』(CO中毒)
熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』(CO中毒)
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント


斎藤環『生き延びるためのラカン』

2012-06-15 10:53:02 | 思想・文学

斎藤環『生き延びるためのラカン』(ちくま文庫、原著2006年)を読む。

先日、はじめてジャック・ラカンの著作に触れ、単純なようでいて、何だかよくわからず、もやもやしていたのだ。わたしも御多分に洩れず、フロイトやユングを多少読みかじったことはあっても、あとは、すぐに忘れてしまう概説書のみ。確か、大学生のころに読んだ岸田秀の何かの本で、解り難い文章を書いて威張っているとラカンを罵倒していたこともあって、自分には無縁な存在かなと決めつけていた。

それで、これも入門書。しかし、「日本一わかりやすいラカン入門」を自称していることもあって、難しいことを、ベタに、饒舌に、語っている。分野は違うが、わたしも難しいことをいつも小難しく書いたり話したりしてしまい、顰蹙を買っている。これはなかなか勇気の要ることで、自分への教訓にもなった。

一方で、解りやすい雰囲気をまとって、ウソを述べる人も少なくない(環境問題でも、社会問題でも)。誰とは言わないが、そういう人がウケることが多い。国防問題や領土問題を単純なストーリー仕立てにする人が、偏狭なナショナリスト(と、その予備軍たるたくさんの人)に奉られ、下手をすると為政者や大臣にまでなってしまう。環境問題を陰謀論仕立てにする人が、なぜかリベラル層に受け、折角の社会を変える力を別のベクトルに変えてしまう。腹立たしいことだ。

閑話休題、と言いつつ、興味がある人はこの本を読めばよいのだ。勿論、違和感やすっきりしない点は多いが、そうでなければならない。

著者も言っている。あまりにもわかりやすいものはクセモノで、特権階級を持ってしまったり、カルト宗教にハマったりする。ラカンの魅力は、わかったと思ってもさらに永遠に続く解り難さである、と。そして、人間は愚かだからこそ人間であるのだ、と。

ジル・ドゥルーズが、『ディアローグ』のなかで、フロイトの精神分析を批判し、これは権力としての硬直した作動配列(アジャンスマン)に過ぎない、私たちは絶えず新しい作動配列を創り続けなければならぬと説いていたが、そうでもないと思えてきた。

●参照
ジャック・ラカン『二人であることの病い』
ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』


ペーター・ブロッツマンの映像『Soldier of the Road』

2012-06-14 00:46:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

ペーター・ブロッツマンの映像『Soldier of the Road』(バーナード・ヨセ、2011年)を観る。

本編は、演奏よりも、ブロッツマンや他の音楽家たちの生の声を中心にしている。

演奏のため旅から旅へのブロッツマン。彼は、自分の生い立ちについて語る。ドイツ敗戦後、ソ連兵に比べドイツ兵は卑小な存在に見えた。父はソ連に収監されたままなかなか戻ってくることができず、ストリートでも稼ぐ、貧乏な少年時代であった。父の家系は軍人や官僚ばかりであり、そのこともあって、ブロッツマンが絵画を学び始めたとき、父はそれを理解できず、結婚すると口をきかない仲になってしまう。ふたたび話すことができたのは、父の死の直前であったという。

ブロッツマンを中心としたライヴ映像をまじえ、さまざまな音楽家たちがインプロヴィゼーションについて語っているのは愉快だ。これは、付録映像のインタビュー集でも続く。

ブロッツマン、「サックスは独学だから何やらのコードを上から下まで吹くなんてできない」。
エヴァン・パーカー、「テナーサックスは、その人の個性をもっとも出すことができる楽器だ」。
フレッド・ヴァン・ホーフ、「予測できないのがインプロヴィゼーションだ。24時間インプロヴィゼーションだ」。
ハン・ベニンク「ダダだ!」。
マッツ・グスタフソン、「ベースやドラムスが入るとやりやすいのは確かなんだけど、サックス3人のみで展開させていくことの手ごたえといったら」。
ケン・ヴァンダーマーク、「インプロヴィゼーションってのは、連続性のスナップショットだ(snapshot of the continuity)」。

・・・・・・、皆好き勝手なことを言い放つものだ。それにしても、ケンさんはマジメな顔で良いことを言う。前々から考えていたフレーズなのかな。

印象的なのは、ブロッツマンもパーカーも、自分はヨーロピアンだと何度も強調し続けていることだ。ブロッツマンなどは、「自分は黒人でもないし、米国にそのようなルーツも持っていない。自分はドイツ人でありヨーロッパ人だ」と、悟ったかのように呟く。その一方で、「誰でも心のなかにブルースを持っている」とも。世界にそれぞれ違った形で存在するジャズとブルースというものを、矜持とともに示しているわけであり、嬉しくなってしまう。

●参照 
ペーター・ブロッツマン@新宿ピットイン
ペーター・ブロッツマン
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(ブロッツマン参加)
セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット(ブロッツマン参加)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ(ブロッツマン参加)
ハン・ベニンク『Hazentijd』(ブロッツマン参加)
4 Corners『Alive in Lisbon』(ケン・ヴァンダーマーク参加)
マッツ・グスタフソンのエリントン集
大友良英+尾関幹人+マッツ・グスタフソン 『ENSEMBLES 09 休符だらけの音楽装置展 「with records」』
1988年、ベルリンのセシル・テイラー(エヴァン・パーカー参加)
ネッド・ローゼンバーグの音って無機質だよな(エヴァン・パーカーとのデュオ)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ(ブロッツマン、エヴァン・パーカー、ハン・ベニンクらとのデュオ)
アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『ライヴ・イン・ベルリン』(エヴァン・パーカー参加)
シュリッペンバッハ・トリオの新作、『黄金はあなたが見つけるところだ』(エヴァン・パーカー参加)
イレーネ・シュヴァイツァーの映像(ハン・ベニンク参加)
横井一江『アヴァンギャルド・ジャズ ヨーロッパ・フリーの軌跡』
ヨーロッパ・ジャズの矜持『Play Your Own Thing』


土本典昭『在りし日のカーブル博物館1988年』

2012-06-12 00:12:32 | 中東・アフリカ

土本典昭『在りし日のカーブル博物館1988年』(2003年)を観る。(レンタル落ち品を500円で入手した。)

『よみがえれカレーズ』撮影時の未使用フィルムを用いた「私家版」の作品である。音楽が何と高田みどり

映画は、地球儀でアフガニスタンの場所を示すところからはじまる。ここは、古代から、ヨーロッパと東洋とを行き来する際に通らざるを得ない地であった。紀元前4世紀のアレクサンダー大王も、アフガニスタンを踏破し、滞在した。そして、彼の東征により、ギリシャ文化がインド、ガンダーラなど東方の文化と混淆し、化学変化が生じた。

ギリシャ風の造形文化が、仏足石や蓮の花などによって間接的に仏陀の存在を示していた仏教文化に、仏像をもたらした。映画で紹介される、カーブル博物館収蔵品の数々は、このことを文字通り雄弁に語る。

ガンダーラのハッダ遺跡から出土した彫刻では、ブッダの横にヘラクレスが控える。何気ない彫刻においても、ヨーロッパ的、インド的など、混淆から形が出てくる力を感じさせて面白い。なかには極めて現代的な顔の造形もあって驚かされる。それだけではない。同時期に興隆していたゾロアスター教の影響により、仏教彫刻には火焔がみられる。

現在はどうなのか判らないが、当時、アフガニスタンの歴史教科書は6世紀のムハンマドの生誕からはじめていたため、多くの人々が、それ以前の歴史をこのカーブル博物館で学んでいたという。

1918年に創立され、1989年のソ連軍撤退まで、この博物館は無傷であった。しかし、その後数年間で、タリバンが偶像崇拝の禁止を原理的に掲げ、博物館の多くを破壊してしまった。そして、2001年にはバーミヤンの磨崖仏まで破壊されるにいたった。

モフセン・マフマルバフは、『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(2001年)において、アフガニスタンに向けられる視線の不在を嘆いている。この映画は、政治や現代社会そのものについてはないにせよ、明らかに、滅ぼされるアフガニスタンの文化を凝視しようとした視線であっただろう。破壊される前の過去の文化を大事にとらえた、貴重な映像である。

映画の最後に、アフガン北部の都市マザリシャリフにあるブルーモスクが紹介される。青い石の造形がとても美しいモスクである。土本監督は、イスラム美術はモスクの形で表わされるのだとしたあとに、「あらゆる美術は、その時代の宗教心によって創られたものだという気がする」と述べている。極論ではあっても、一面ではその通りだろう。わたしもいつの日かアフガニスタンを訪れてその文化に接してみたい。

●参照
土本典昭『ある機関助士』
土本典昭さんが亡くなった(『回想・川本輝夫 ミナマタ ― 井戸を掘ったひと』)
モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』
モフセン・マフマルバフ『カンダハール』
『タリバンに売られた娘』
セディク・バルマク『アフガン零年/OSAMA』
中東の今と日本 私たちに何ができるか(2010/11/23)
ソ連のアフガニスタン侵攻 30年の後(2009/6/6)
『復興資金はどこに消えた』 アフガンの闇
イエジー・スコリモフスキ『エッセンシャル・キリング』
ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』(アフガンロケ)
中村哲医師講演会「アフガン60万農民の命の水」


ヘンリー・スレッギル(11) PI RECORDINGSのズォイド

2012-06-11 01:24:30 | アヴァンギャルド・ジャズ

最近のヘンリー・スレッギルの新作を出しているレーベルは専らPI RECORDINGSであり、このところずっと「ズォイド」名義である。LPの1枚を含めると、ズォイドの作品は5枚ということになる。

『Up Popped The Two Lips(ふたつの唇の音色)』(PI RECORDINGS、2001年)
『Pop Start The Tape, Stop』(hardedge、2005年)※LPのみ
『this brings us to / volume I』(PI RECORDINGS、2008年)
『this brings us to / volume II』(PI RECORDINGS、2008年)
『Tomorrow Sunny / The Revelry, Spp』(PI RECORDINGS、2011年)

ズォイドの編成は少しずつ変化している。最初の2作では、スレッギルの他に、ギター、ウード、チューバ(+トロンボーン)、チェロ、ドラムスであったが、『this brings us to』の2作(録音同日)では、ウードが抜け、チェロの代わりにベースギターが入っている。そして今年発売されたばかりの最新作『Tomorrow Sunny / The Revelry, Spp』では、再度チェロが参加した。

あらためて、最近の3作を立て続けに聴いた。

■ 『this brings us to / volume I, II』(2008年)

Henry Threadgill (fl, as)
Liberty Ellman (g)
Jose Davila (tb, tuba)
Stomu Takeishi (bass g)
Elliot Humberto Kavee (ds)

今にして思えば、この連作にさほど熱狂しなかったのは、スレッギルの楽器がフルート中心だからである(わたしが好きなのは彼のアルトサックスだ)。

『I』では、最初の3曲に登場するのはフルートであり、チューバやドラムスが低音アンサンブルの下部構造を形成し、その上でフルートとギターが躍る。緊密さに圧倒はされても熱狂はしない。4曲目のアルトも、構造の中で大人しい印象だ。白眉は次の5曲目だろう。前のめりのドラムスのビートの中、アルトが時空間を切り裂いていく様は、コロンビア時代の次々に怪作を生み出したスレッギルを思い出させるものだ。エルマンのギターソロは、ユニゾンを含めて格好いい。

『II』は、冒頭曲、トロンボーンのソロの後に満を持して登場するのはやはりフルートだ。次のタイトル曲では、ギターとベースギターのソロの後に、アルトが注意深く入ってくる。3曲目のフルートを経て、4曲目は曲の最初からアルトが吹きはじめるが、これも注意深い。しかし、次第にチューバ、ドラムス、ギター、ベースギターによって曲が持ち上げられ、アルトを取り巻く雰囲気が狂騒的になってくる。白眉はこれだ。そして最終曲も、この勢いのままに、アルトソロが力強い。

■ 『Tomorrow Sunny / The Revelry, Spp』(2011年)

Henry Threadgill (fl, as)
Liberty Ellman (g)
Jose Davila (tb, tuba)
Christopher Hoffman (cello)
Stomu Takeishi (bass g)
Elliot Humberto Kavee (ds)

何となく欲求不満な時期が続いたこともあり、待望の新作である。前作メンバーにチェロが再加入した。

1曲目、アルトサックスはこれまでよりかすれたような音色だろうか、何だか印象が異なる。しかし、ソロから受ける印象はより自由闊達なものだ。チェロ再加入の効果は絶大で、低音アンサンブルは緻密なままにより分厚く、さらにチェロの音色がまるで触手を伸ばすように感じられ、音構造が多彩なものになっている。

2曲目のフルートはバイタル、3曲目にはアルトがグリッと肩から入ってくる。それを弦たちのピチカートが引き立てている。

4曲目と5曲目では、チェロが実に良い雰囲気を作り出し、前者ではその上にまるで薄膜をかぶせるようにフルートがかぶさってくるし、後者ではさらにチューバとドラムスが形成し続ける構造の中、ややかすれた音のアルトサックスがしつこく挑むような素晴らしいソロを見せる。エルマンのソロも良い。そして最後に、静かなフルート曲で幕引きがなされる。

もはやスレッギルの音楽は眼を見開いて驚くようなドラスティックな変貌を遂げているわけではないが、それでも、この新作が前作から見せた変化は大歓迎である。傑作。

●参照
ヘンリー・スレッギル(1) 『Makin' A Move』
ヘンリー・スレッギル(2) エアー
ヘンリー・スレッギル(3) デビュー、エイブラムス
ヘンリー・スレッギル(4) チコ・フリーマンと
ヘンリー・スレッギル(5) サーカス音楽の躁と鬱
ヘンリー・スレッギル(6) 純化の行き止まり?
ヘンリー・スレッギル(7) ズォイドの新作と、X-75
ヘンリー・スレッギル(8) ラップ/ヴォイス
ヘンリー・スレッギル(9) 1978年のエアー
ヘンリー・スレッギル(10) メイク・ア・ムーヴ


勅使河原宏『東京1958』、『白い朝』

2012-06-09 22:14:27 | 関東

勅使河原宏『東京1958』(1958年)、『白い朝』(1965年)を観る。両作とも30分に満たない小品である。

『東京1958』は、正確には勅使河原の単独作ではなく、勅使河原宏、羽仁進、松山善三、草壁久四郎、荻昌弘、川頭義郎、丸尾定、武者小路侃三郎、向坂隆一郎による集団「シネマ57」が、海外映画祭への出品を目的に集団製作した作品である。

満員電車の勤め人たちを参勤交代に、化粧をする女性の顔を浮世絵の幽霊画に重ね合わせ、ことさらに一歩引いて視た日本なるものを演出している。さらに、大野伴睦や間組社長を「サムライの末裔」であると紹介する。確かに、保守政党と土建・重厚長大産業は、経済成長する日本のシンボルであったかもしれない。(いまもその幻想を持っている者たちが少なくない。これは50年以上前のことだ。)

サム・フランシスの絵をバックに着物の着付けを行う女性を撮っているところなど、いかにも時代だ。しかし、屈折したオリエンタリズムの他には、映画としての面白さを見出すことは難しい。

『白い朝』は、大傑作『砂の女』の翌年に撮られた小品。パン工場で働く若者たちの青春を断片の集合として描いたものであり、この時期にも関わらず、勅使河原の冴えを感じることはない。主演の入江美樹は、翌年の『他人の顔』において、被爆した少女を演じることになる。その印象が強いせいか、ここでも薄幸な存在に見えて仕方がない。

●参照
勅使河原宏『十二人の写真家』(1955年)
勅使河原宏『ホゼー・トレス』、『ホゼー・トレス Part II』(1959年、1965年)
勅使河原宏『おとし穴』(1962年)
勅使河原宏『燃えつきた地図』(1968年)


勅使河原宏『ホゼー・トレス』、『ホゼー・トレス Part II』

2012-06-09 15:52:03 | スポーツ

勅使河原宏『ホゼー・トレス』(1959年)、『ホゼー・トレス Part II』(1965年)を観る。

プエルトリコ人ボクサーのホゼー・トレス(日本での表記はホセ・トーレス)が、WBA・WBC世界ライトヘビー級チャンピオンになる前となった時のドキュメンタリー映画である。

第一部ではまだ無名の存在であったようで、『前衛調書』によると、写真家の石元泰博とのつながりから出逢うことができたのだという。ストイックな練習を行い、試合に勝つ。このとき勅使河原宏みずからがリングサイドから16mmで撮影しており、ボクサーの背中のマッスが素晴らしい映像となっている。その後のシャワーシーン、誰もいなくなったリングサイドでの恋人との抱擁なども収めており、20分そこそこながら密度が非常に高い。

第二部の冒頭では、王者のタイトルマッチを示す前に、既に勝利したトーレスが、ニューヨーク・ハーレムのプエルトリコ人居住区において、ベランダから姿を現し、大喝采を受ける。映画の中心はファイトシーンだが、撮影の許可が得られず、コミッショナーが撮った映像を編集するにとどまっている。そのため、面白くはあっても、第一部に結実したような、観る者に迫ってくる肉体の生生しさはない。

王座についた夜、トーレスは、ニューヨークのノーマン・メイラー邸に招待され、歓喜の表情を見せる(誰がメイラーなのかよくわからない)。のちにモハメッド・アリマイク・タイソンの伝記をものすインテリのトーレスに、文章の手ほどきをしたのは、このメイラーであったという。

2本とも、森川ジョージ『はじめの一歩』で知った、「ピーカブー・スタイル」を視ることができる。これを使うトーレスは天才であったが、タイソンはそれを上回る天才であったという。2009年に亡くなったトーレスを偲ぶコラム(>> リンク)を読んでいると、彼のタイソン伝を読んでみたくなる。

ところで、タイソンのPRIDE参戦はなぜ消滅したのだろう。幕ノ内一歩の世界挑戦はいつだろう。

●参照
勅使河原宏『十二人の写真家』(1955年)
勅使河原宏『おとし穴』(1962年)
勅使河原宏『燃えつきた地図』(1968年)
鈴木清順『百万弗を叩き出せ』、阪本順治『どついたるねん』