Sightsong

自縄自縛日記

沖縄「集団自決」問題(18) 森住卓『沖縄戦「集団自決」を生きる』を読む

2009-01-31 22:28:33 | 沖縄

インターネット新聞JANJANに、森住卓『沖縄戦「集団自決」を生きる』(高文研、2009年)の感想を寄稿した。

>> 『沖縄戦「集団自決」を生きる』の感想

かたや、沖縄の別荘に「U.S. AIR FORCE」などと書き込んで得意になっている芸能人が、沖縄について喋っている様子をテレビで見ると、厭になってくる。

 本書が取材した地は、沖縄本島からさほど遠くない慶良間諸島の渡嘉敷島と座間味島である。沖縄本島において地上戦が行われたのは1945年4月以降だが、既にその前の3月より、これらの島々には米軍が激しい攻撃を加え、上陸している。よく知られているように、当時の日本政府は、沖縄を本土防衛のための盾として位置付けていた。これは、人間を盾としたことにほかならない。

 沖縄戦における多くの人びとの「難死」、そしてそれをもたらした愚かな政治の失敗から、私たちは戦争というものの正体を見出したはずだった。しかし実際のところ、そこからの揺り戻しを図る大きな力は常に働いている。歴史教科書から沖縄戦における日本軍の関与を消し去ろうとする検定はそのひとつだ。

 いわゆる「集団自決」は、「軍の論理」を支配的に教え込まれた人びとが、逃げ場所も他の選択肢もない極限の状況において、自分の家族に手をかけた史実である。主語のない悲劇ではなく、日本軍による住民虐殺といったほうが近いのだろう。この場所から偶然に生き続けた方々が、自分の体験を語ることも、思い出すことも、耐え難い苦痛に違いない。それにも関わらず、証言者が次々に現われているのは、過去の日本軍の犯罪を消し去ろうとする力を看過できないと考えたからだ。本書は、それらの生の声を収集した労作である。

 本書の読者は、多くの方々のポートレートからまなざしを読み取り、痛みを伴う肉声に耳を傾けることになる。さらに、わずかながら痛みを共有するためには、想像力をフル稼働させなければならない。それが、あえて証言という選択をした方々に払うべき敬意だろうと考える。

 無数の声に向き合わないことは、歴史や今なお続く戦争犯罪について「タカをくくる」こととなり、結果的に、戦争を手段として使おうとする力に加担することになりかねない。重要なことは、これは将来への危惧ではなく、米国やイスラエルの軍事行動や自衛隊の海外派兵といった現在の動きと確実に地続きであるという点だ。本書を読むことは、私たちの社会を侵食し続けている「軍の論理」を冷静に評価するためのプロセスでもある。


◇ ◇ ◇

●参照 沖縄「集団自決」問題(15) 結成1周年集会(森住卓さんの講演)


ウィントン・マルサリス『スピリチュアル組曲』は、完璧だけどまったく興奮しない。

2009-01-31 01:03:55 | アヴァンギャルド・ジャズ

ずっと本を読んでいる間、気が向いて、ウィントン・マルサリス『スピリチュアル組曲(In This House, On This Morning)』(Sony、1994年)を聴いていた。鬱陶しくてあまり聴いていなかったアルバムだが、2枚組をまともに最初から最後まで通して聴くと、きめ細やかで、ドラマ性があり、テクニックが完璧で、惚れ惚れするような出来である。

しかし、例えばサム・リヴァースのリヴビー・オールスター・オーケストラとか、ついこの間聴いてきたチャールズ・トリヴァーのビッグバンドとかと比較して、エキサイティングかどうかという点で天と地ほどの差がある。もちろん、ウィントンは興奮しない方だ。インプロヴィゼーションの比重の違いだけではないとおもう。

こういうのをネオコンといってもいいんだろうね。もっとも、ウィントンの好きな作品もいくつかあるのだけど。


ウィントンは新宿ピットインで何回か聴いた


金浩鎮『韓国歴代大統領とリーダーシップ』

2009-01-29 19:10:18 | 韓国・朝鮮

ひどく腹をこわして仕事を休むことにしたので、読みかけの、金浩鎮『韓国歴代大統領とリーダーシップ』(つげ書房新社、原著2006年)を読み終えた。米国帰りの李承晩から、現在の李明博の前、盧武鉉まで、韓国の大統領に関して「リーダーシップ」という観点からの評論である。なお、380頁ほどの大著だが、神保町のある古本屋のワゴンで、新古本を200円で買った。(やはり政治物はこうなる運命にある。)

冒頭、個々の大統領論に入る前の100頁程度が、リーダーシップ論にあてられている。これがちょっと、PH○文庫とか知的○き方文庫とかの「部下をもったときにどうじら」といった本でも読んでいるようで退屈だ。しかし最後まで読むと、ここで提示した見方が一貫して評価に使われていることがわかる。特に取り巻きや家族の優遇、生い立ちのコンプレックス、ポピュリズムの面からの評価は熾烈であり、歴代大統領を比較するときに一貫した視点を持っているという意味ですぐれた本のようにおもった。

日本の歴代首相を比較する本は数多いが、一般読者を想定していないもの、ヨイショ的なもの、批判に力を入れているもの、功績のみを整理した政局ものなどがそのほとんどに違いない。

特に印象的な点は、韓国の政治と社会が、反共=「赤色恐怖症」や親日/反日という見方に大きく縛られてきたことだ。これに親米、軍政などの歴史を充分考慮に入れないことには、韓国のナショナリズムを考える際に思考がアンバランスなものになるだろう。

最終的に、各大統領の特徴がひとつの表に整理されていて、眺めると面白い。総合評価だけをとりあげてみれば、以下のようになっている。さて李明博は。

●李承晩 ・・・ 「追放された」建国の父
●張 勉 ・・・ 「民主主義を守れなかった」民主論者
●朴正煕 ・・・ 「パンと自由を取り違えた」近代化の旗手
●全斗煥 ・・・ 「やるといったらやる」無断論者
●盧泰愚 ・・・ 「やらねばならぬこともしなかった」無事論者
●金泳三 ・・・ 「文民政治の夢を叶えた」国家経営の失敗者
●金大中 ・・・ 「国家経営の優等生になろうとして挫折した」民族和解の実践家
●盧武鉉 ・・・ 「理念を追い求めて実用を見逃した」失敗した改革家


シャーロット・カーターがストリートのサックス吹きを描いたジャズ・ミステリ『赤い鶏』、『パリに眠れ』

2009-01-28 00:35:16 | アヴァンギャルド・ジャズ

シャーロット・カーター『赤い鶏』(ハヤカワ文庫、原著1997年)、『パリに眠れ』(ハヤカワ文庫、原著1999年)は、ストリートでテナーサックスを吹く女性を主人公にした作品のシリーズだ。このあともいくつか同じ主人公が活躍する作品があるらしいが、邦訳は評判がいまひとつなのか、これっきり出ていない。なお、表紙に描かれた楽器は、2冊とも明らかにアルトサックスであり間違っている。

久しぶりに読んだが(例によって完全に忘れているので新鮮な気持ちで読める)、その翌日には忘れてしまう程度の内容である。ミステリという面では、大したひねりも驚きもなく、少なくとも頭は使わない。それでいいのだ、気分転換になったし(笑)。

となると、面白さを見出すのはディテールになる。

『赤い鶏』では、ニューヨークのストリートで吹く主人公ナンに近づく男が、演奏を貶して次のように毒づく。

「ひでえ音だと言ったのさ。だいいち、どこで手に入れたんだ、その楽器―――L・L・ビーンか?」

これをどう解釈すればいいのだろう。安物とくさしたのか(「ユニ○ロか?」のように)、それとも全く別のものという意味か。ちなみにわが家はL・L・ビーン好きであり、おもわず笑ってしまった。

こんなのも面白い。怒り心頭のときにつぶやけば、アホらしくなって怒りがおさまるかもしれない。もちろん『キャリー』は、ブライアン・デ・パルマの禍々しい大傑作(または大愚作)映画のことだ。

「わたしは自分が《キャリー》のシシー・スペイセクだったらどんなにいいかと思いながら、縁石の上に立っていた。あのくそいまいましい黄色い車が車輪二つでスリップしながらコンクリートの壁に激突し、空高々とふっとばされるところを思い描くだけ、そしてわたしはと言えば、平然として唇にかすかに笑みをうかべ大火事を見つめている。」

『パリに眠れ』は、題名の通りパリを舞台にしている。パリに対するナンの狂信的な憧れと、被差別の側にある黒人としての屈折とがこれでもかというくらいに描かれている。そんなにパリは良いものか。私は10年以上前に1週間滞在したが、(仕事だから当たりまえだが)うっとりするような思い入れはない。仕事が終わって、最後に「Sunset」というライヴハウスでビレリ・ラグレーンを聴いたことだけは楽しかった。ビレリは、ジャンゴ・ラインハルトの再来と称されたギターだけでなく、米国への憧れのような素朴な歌をも歌っていた。この主人公ナンとは逆ベクトルだ。そういうものか。


ビレリの背中をなでてサインを貰ったが、本人はもはやこのような愛らしい少年ではなかった

この作品で面白いディテールはと言えば、ナンとその恋人(両方ともストリートのジャズミュージシャン)が、バーで米国の大物ジャズミュージシャンを見つけるところだ。いちいちジャズ・マニアぶりを発揮しながら交わす噂話が笑える。作者は誰か特定の人物のことを想定しながら書いていたに違いないのだが、それが誰だかは私にはわからない。

「「いま流れてるのはだれの演奏?」 わたしは尋ねた。 「曲は《ハイ・フライ》よね」
 「ジャッキー・バイアードだよ。知ってるくせに」
 アンドレはひと握りのカシューナッツを口に放りこむと、グラスにつがれたワインを半分ほど飲みくだした。 「実は、彼のことは昔から嫌いだったんだ」 かの大物ミュージシャンをそれとなくあごで示しながら、アンドレはひそひそ声で言った。 「そりゃあ、まずいとは思ってたよ、彼を好きになれないのはね。でも、どうしてもだめなんだ。あいつはケツの穴の小さいうぬぼれ屋じゃないか」

 「ほんとよね。デヴィッド・マレーがあの人のことをどういってたか、あとで教えてあげるわ」

●ジャズ・ミステリ
フランソワ・ジョリ『鮮血の音符』
ビル・ムーディ『脅迫者のブルース』


『けーし風』読者の集い(7) 戦争と軍隊を問う/環境破壊とたたかう人びと、読者の集い

2009-01-27 11:14:33 | 沖縄

『けーし風』(新沖縄フォーラム)は、いつも新宿の模索舎に買いに行っていた。その前は神保町の書肆アクセスにも置いてあったのだが、店をたたんでしまったので、東京には1箇所しか買える店がない。あえて定期購読にしていないのは、本屋で他の本も物色するのが好きだからだ。

しかし今回はいつにも増して遅く、結局、「読者の集い」の日までに入荷しなかった。そんなわけで、困っている旨を編集者のHさんに言ったところ、余部を送ってくれた(ありがとうございます)。不便だからいよいよ定期購読にすることに決定(と言っている人が何人もいた)。

「読者の集い」(2009/1/24、@神保町区民館)の参加者は5人、プラス1人(最後に資料をもらいに登場)。今回は記録係なので、そのときの様子は次回『けーし風』に書く。

「戦争と軍隊を問う」特集では、「1フィート運動」の経緯がとりあげられている。1983年から開始され、米国公文書館などから、米軍により撮られた沖縄戦の記録フィルムを10フィート千円で買い取る運動である。いままでに11万フィート購入したが、まだ20万フィートが残っているという。参加者からは、米軍が撮影したということは、主客の非対称だけでなく、あえて撮らないことによる物語性も背後にはあるはずだとの指摘があった。

また、<軍隊なるものの正体>についてのシンポジウムが掲載されている。対談者からは、沖縄の米軍側には<良き隣人>としての認識が全く欠落しているということがいくつも指摘されている。しかし、実際にそうだとして、アレン・ネルソン氏によるコザ・ミュージックタウンなどの状況の説明は妙にカリカチュア化されていて、客観性を欠くのではないか、との話。

もう1つの特集は「環境破壊とたたかう人びと」。泡瀬干潟における公権力の暴力のほかに、西表島のリゾート開発の状況が非常に具体的に報告されている。大手資本によるリゾートホテルなどを利用することは、間接的に、社会と文化の破壊に加担していることが非常に実感できる報告である。

また、やんばるの森林破壊に直結している奥間ダム建設について、それを止めるための動きが報告されている。本棚から昔の『けーし風』(1998.6、特集・ダムの時代は終わった?)を引っ張り出してみると、故・宇井純氏が沖縄のダムに関する文章を書いていた。10年以上前だが、すでに問題の奥間ダムと大保ダムが「建設中」となっている。宇井氏の問題提起は、北で水を確保して南の都市や観光業などで消費するという構造のおかしさであり、これは水需要を土建事業のために膨らませる本土の構造とは異なっており、当然まだ問題の状況は変わっていない。沖縄のダム問題については、自分でも調べてみようとおもっている。


『けーし風』2008.12 戦争と軍隊を問う/環境破壊とたたかう人びと、読者の集い

2009-01-27 00:03:29 | 沖縄

『けーし風』(新沖縄フォーラム)は、いつも新宿の模索舎に買いに行っていた。その前は神保町の書肆アクセスにも置いてあったのだが、店をたたんでしまったので、東京には1箇所しか買える店がない。あえて定期購読にしていないのは、本屋で他の本も物色するのが好きだからだ。しかし今回はいつにも増して遅く、結局、「読者の集い」の日までに入荷しなかった。そんなわけで、困っている旨を編集者のHさんに言ったところ、余部を送ってくれた(ありがとうございます)。不便だからいよいよ定期購読にすることに決定(と言っている人が何人もいた)。

「読者の集い」(2009/1/24、@神保町区民館)の参加者は5人、プラス1人(最後に資料をもらいに登場)。今回は記録係なので、そのときの様子は次回『けーし風』に書く。

「戦争と軍隊を問う」特集では、「1フィート運動」の経緯がとりあげられている。1983年から開始され、米国公文書館などから、米軍により撮られた沖縄戦の記録フィルムを10フィート千円で買い取る運動である。いままでに11万フィート購入したが、まだ20万フィートが残っているという。参加者からは、米軍が撮影したということは、主客の非対称だけでなく、あえて撮らないことによる物語性も背後にはあるはずだとの指摘があった。

また、<軍隊なるものの正体>についてのシンポジウムが掲載されている。対談者からは、沖縄の米軍側には<良き隣人>としての認識が全く欠落しているということがいくつも指摘されている。しかし、実際にそうだとして、アレン・ネルソン氏によるコザ・ミュージックタウンなどの状況の説明は妙にカリカチュア化されていて、客観性を欠くのではないか、との話。

もう1つの特集は「環境破壊とたたかう人びと」。泡瀬干潟における公権力の暴力のほかに、西表島のリゾート開発の状況が非常に具体的に報告されている。大手資本によるリゾートホテルなどを利用することは、間接的に、社会と文化の破壊に加担していることが非常に実感できる報告である。

また、やんばるの森林破壊に直結している奥間ダム建設について、それを止めるための動きが報告されている。本棚から昔の『けーし風』(1998.6、特集・ダムの時代は終わった?)を引っ張り出してみると、故・宇井純氏が沖縄のダムに関する文章を書いていた。10年以上前だが、すでに問題の奥間ダムと大保ダムが「建設中」となっている。宇井氏の問題提起は、北で水を確保して南の都市や観光業などで消費するという構造のおかしさであり、これは水需要を土建事業のために膨らませる本土の構造とは異なっており、当然まだ問題の状況は変わっていない。沖縄のダム問題については、自分でも調べてみようとおもっている。

●参考
アラン・ネルソン『元米海兵隊員の語る戦争と平和』
1フィート運動の会・中村文子『九十の峠に立って今、語りたいこと』


北井一夫『Walking with Leica』、『英雄伝説アントニオ猪木』

2009-01-25 23:13:46 | 写真

もっとも敬愛する写真家のひとり、北井一夫さんの写真展『Walking with Leica』(ギャラリー冬青)に足を運んだ。『日本カメラ』でずっと連載している『ライカで散歩』をまとめたものである。

展示されている写真はすべてモノクロ。但し、これにあわせて出た写真集『Walking with Leica 1』(冬青社)にも、もとになった連載にも、カラー写真は若干は含まれている。たとえば、下北半島の宿で撮られた娼婦、沖縄で撮られた少年などがある。それらは随分昔の作品であり、展示写真は最近のものばかりだ。沖ノ島の巨樹や不忍池の亀なんかもあるが、ほとんどは北井さんが自宅近辺の船橋あたりを散歩して撮影した写真である。

いつもの北井写真は、あざとくなく、衒いがなく、自然で、何度観てもいいなあとおもえるものばかりだった。電線、総武線、倉庫、道、ケヤキの落葉、椿、猫。ギャラリーにおられた北井さんにサインをいただきながら、いろいろと伺った。今回の写真群はほとんど50ミリのエルマー(1点のみ28ミリ)。印画紙は富士のレンブラント(多階調のバライタ紙)に2号フィルタ。フィルムは粒子が細かいTMAXの100か400。最近は50ミリの沈胴ズミクロンも使っていて、ある時期の北井写真に使われたズミルックス35ミリは最近全然触っていないとのことだった。エルマーはF2.8かF3.5と暗いし只のテッサー型だろと捉え、使いたいことはなかったのだが、いきなり真似をしてエルマーを入手したくなるのが怖い。

ついでに、持参した『英雄伝説アントニオ猪木』(柴田書店、1982年)にもサインを頂いた。数年前に伺ったときには、肖像権などいろいろ面倒だから作品集(DVD)にも入れていないのだということだったが、今回は、もうカラーを新たにプリントすることはきっとないから、写真集として新たに出すこともないだろうと言った。このうちモノクロ写真の一部が発表された『アサヒカメラ』1982年4月号を見ると、使ったのはライカM5にズミルックスの35ミリと50ミリ、それにトライXとある。


掲載当時の『アサヒカメラ』。森山大道、沢渡朔、ニコンFM2などの文字が光ってみえる。

アントニオ猪木と北井一夫というとあまりにミスマッチな感があるが、学生運動や三里塚から写真家としてのキャリアをスタートし、ライカしか使わないという「反骨」をキーワードとして考えれば、猪木もまさにその世界の中にいても不思議はない。それにしてもライカM5で猪木に迫るなんて、想像しただけでアヴァンギャルドな! 猪木の試合をテレビ観戦して興奮したり、ハルク・ホーガンにリング外まで吹っ飛ばされて失神したシーンにショックを受けたり、初代タイガーマスク・佐山聡の山口県の実家にいたずら電話をかけたりした(すみません。)ような小学生であった自分にとって、この写真集は開くたびに妙にどきどきするものだ。

『英雄伝説アントニオ猪木』は沢山出たそうなので、まだ古本を探すのも難しくない。しかし同様に沢山出たが、浦安市民への無料配布だったために入手が困難な『境川の人々』(1979年)についても、新たにプリントして出版するつもりは、北井さんにはなさそうだ。去年(2008年)、浦安での写真展で展示された作品も、すべて当時RCペーパーに焼いたものだ。私も浦安駅前のうどん屋に置いてあった『境川の人々』を観て感激し、その後入手するまで随分苦労した。紙も印刷もさほど上等ではないし、新しい作品集として日の目をみることがあったらどんなに良いだろう。

●参照(北井一夫の写真集)
『境川の人々』
『ドイツ表現派1920年代の旅』
『フナバシストーリー』


浦部法穂『世界史の中の憲法』を読む

2009-01-24 00:56:36 | 政治

浦部法穂『世界史の中の憲法』(共栄書房、2008年)の書評を、『Internet新聞JANJAN』に寄稿した(>> 記事)。きちんと憲法を熟読しなければいけないなと痛感。

 改憲・護憲という争点を巡っては、戦争放棄について定めた「9条」がよく論争の対象となる。これらの声が高まってきたのは、91年湾岸戦争後、日本がカネだけでしか貢献しないと非難されて以降だと言われる。今に至るまで使われる、「国際貢献」という曖昧なレトリックが「9条」のあたかも対立概念として目立ち始めるわけだ。しかし、これは最近20年未満の現象に過ぎない。あるいは、敗戦後米国によって「押し付けられた」ものに代わり、「自分たちの」憲法を持つべきだとする論理も存在する。

 本書はこれに対して、中世以降の長い歴史をもとに、支配権力のかたち、政治参加のかたちを鳥瞰し、その中で憲法のあり方を問うものである。言ってみれば、憲法の「そもそも論」である。本書が特徴的なのは、複数の憲法の比較によってそれぞれ優劣を論じるのではなく、憲法という広い存在が前提としている、私たちが当然のように使っている概念に関しても、その背負っているものが提示されることのようだ。

 例えば「主権」。フランス革命によって、君主主権は国民主権へと転換する。しかしこれは抽象的な総体に過ぎず、その後選挙権の拡大などを通じて国民ひとりひとりと総体とがリンクするようになる。それでは、今の日本における意思決定において、そのリンクが機能していないことへの疑問にどう答えるのか。著者は言う。すべての国民が政治参加の権利を持つ、ということによって、権力支配の正当性を強化するという意味を持つのだ、と。そして、この正当性によって、少数者の意思が堂々と切り捨てられるのである。

 また「三権分立」。権力の集中専制を防ぐため、18世紀モンテスキューが立法・行政・司法の三権を唱えたとされている。どうやら、モンテスキューの意図は貴族の特権回復にあったが、抽象的であったがために普遍性を持ったのだという。私たちが教科書で学んだこの概念だが、ピンとこない人は多いだろう(あの議員たちがしている活動は何だろう?)。

 議院内閣制の場合は、議会の多数派が内閣を構成するから、同じ政党が立法権と行政権の両方を持つ。そのため、はじめから厳格な意味での権力分立はない。さらには、首相が「指導者」と呼ばれることは、行政権こそが政策決定の中心であり、首相の地位が議会の選挙によって正当化され強化されていることを意味する――というのが著者の指摘だ。付け加えるなら、最高裁長官・判事の任命に内閣の意向が反映される制度によって、日本においては三権ともに一体化するおそれがある、という点があるのではないか。

 このように、歴史的に見ることにより、私たちの憲法が置かれる位置が非常に不安定であることがわかる。ただ、憲法学者の田村理氏が言うように、憲法は、「国民をまもってくれる、頼れる味方」ではなく、「国家=権力に余計なことをさせないための規範」である。ならば、狭隘な改憲論議を牽制するためにも、集中する権力の暴走を律する枠組をつくるための憲法利用を考えるべきだろう。本書は、そのための「そもそも論」として読まれるべきものと思われる。

◇ ◇ ◇

●参照 ボトムアップ社会への回帰に向けた指針


★★★泡瀬干潟の埋め立てを止めさせるための署名★★★

2009-01-23 06:20:15 | 環境・自然

★泡瀬干潟と浅海の埋め立て中止を求めるWEB署名(第3期)
http://www.shomei.tv/project-631.html

テレビでも報道されているためか、署名が集まってきている。

●参考
泡瀬干潟における犯罪的な蛮行は続く 小屋敷琢己『<干潟の思想>という可能性』を読む
またここでも公然の暴力が・・・泡瀬干潟が土で埋められる
救え沖縄・泡瀬干潟とサンゴ礁の海 小橋川共男写真展

●詳細
泡瀬干潟を守る連絡会『埋立に経済的合理性がないことの実証』
最新の動向『リーフチェッカーさめの日記』
小屋敷琢己『<干潟の思想>という可能性』


『Number』の清原特集、G+の清原特集番組、『番長日記』

2009-01-22 23:19:41 | スポーツ

『Number』(文藝春秋)が、引退したばかりの清原和博の特集を組んでいる。

実は、PL学園時代、ライオンズ時代、ジャイアンツ時代、バファローズ時代と振り返ってみても、清原ファンであったことが一瞬もない。プレーを見て凄みを覚えたこともない(あるとすれば、ジャイアンツ1年目の後半戦に荒々しくなったころ)。しかし気になる選手であり、テレビの野球中継でもついまじまじと見ている。この原因は、メディアによって過剰につくられた幻影と実像とのギャップにあったに違いない、と勝手におもっている。この『Number』の特集を読んでも、その印象が強くなる。

PL学園の4番バッターとして活躍していたときの印象もじつはあまりないのだ。記憶にあるのは桑田投手の笑みを浮かべた顔であり、3年夏の甲子園決勝で対戦した宇部商藤井選手であり(大会ホームラン数を決勝で清原に抜かれた)、登板できず試合後に号泣していたエース田上投手であり、好投した2番手の古谷投手であり、それから自分の親戚だった。宇部商のレギュラーだったこの親戚だが、そのときにはじめて親戚だということを知った。いまだ会ったことは一度もない。宇部商の選手たちはひとりもプロにはならなかった。

最近、ジャイアンツのヨイショばかりをするテレビ「G+」で、清原が活躍した試合をほぼ丸々放送するシリーズが3回あった。全部懐かしく、ついつい見てしまった。しかしこれも、つい騒いでしまうのはほかの選手の登場シーンである。そういえば、93年だか94年だかに西武球場でAK砲のホームランを見たが、凄いとおもったのは秋山選手の外野席に突き刺さるようなライナーだった。

幻影といえば、『FRIDAY』で、勝手に清原の語り口で綴った日記らしきもの、『番長日記』(講談社、2003年)がまさにそれだ。ブックオフで105円で買って読んだ。やたら笑えるが、いまとなっては何がこういったものを成り立たせていたのかわからない。くだらんのう。

●参照
『Number』の野茂特集
野茂英雄の2冊の手記


泡瀬干潟における犯罪的な蛮行は続く 小屋敷琢己『<干潟の思想>という可能性』を読む

2009-01-22 00:38:36 | 環境・自然

あまりにもひどい犯罪的行為に、怒りを通り越して脱力感をおぼえ、何か言う気も一時失せていた。沖縄の貴重極まる自然、泡瀬干潟のことである。しかし1日に数百人前後は目を通してくれるはずなので、書かずに悶々と怒っているよりはましだろう。

泡瀬干潟の埋め立てについては、昨年末(2008年11月)、那覇地裁が「沖縄県と沖縄市の公金支出には経済性がない」、すなわち、目的を失った事業のための事業であることを認めた判決を下した。動き始めるとなかなか止まらない公共事業に関する判決として、画期的なものと言うことができる。しかし、例によって、県と市はすぐに控訴した。従って、司法としての最終結論はまだ出ていない。

それにも関わらず、国は(国、県、市が絡んだ事業なので)、今年(2009年)の1月15日から埋め立て用土砂の浚渫を始め、それを使った埋め立てを開始した。干潟を土砂で埋めるということは、自然にとってみれば不可逆的な破壊であるにひとしい。普通に考えて、「埋めてはダメだという判断が出たけど最終決定ではないから埋めてしまえ。元には戻らないことは知っているけど。」というのはどうかしている。

もともと泡瀬干潟の埋め立てに関しては、失業率が高い沖縄市の経済波及効果を狙う事業としては、地裁判決の通り、効果がきわめて小さいものだと評価されている(要はホテルもレジャー施設も入らない)。そうであるならば、地元を潤すというのは幻想であり、無駄なカネを投入することであり、損をするのは納税者であり、潤うとしてもそれは内地の大手ゼネコンである、と言っていいのだろう。ゼニカネのことは置いておいても、何しろゼニカネではかれない自然環境が死滅する。ここで大風呂敷を広げるなら、ゼニカネだけでものを判断する卑しい新自由主義的な価値が、この社会を決定的に駄目にしているのだ、とさらに言いたい。

実際のところ、泡瀬干潟の埋め立て計画が進み始めたのは、バブル期の妄想をベースとしていることはもとより、泡瀬干潟近隣で進められてきた自由貿易地域(FTZ)の港湾をつくるのに伴い発生する浚渫土の処理場所(捨て場所!)として注目されたからであることが知られている。そのFTZにしても、本来目的での企業誘致はほとんど進んでおらず、目的を変えたIT関連企業の誘致に話がすりかわっている。そしてIT関連企業には巨大な港湾は必要がない。誘致も進んでいない。

以上のようなことは、小屋敷琢己『<干潟の思想>という可能性』(岩佐茂編『環境問題と環境思想』、創風社、2008年に所収)に的確にまとめられている。さらに、「泡瀬干潟を守る連絡会」が「埋立に経済的合理性がないことの実証」(>> リンク)をまとめており、根拠がよくわかる。また、ブログ『リーフチェッカーさめの日記』(>> リンク)では、最新情報を伝えてくれている。

小屋敷論文では、さらに注目すべき指摘をしている(太字は当方で付した)。

「泡瀬には米軍泡瀬通信施設があり、埋立第二期工事区域には米軍の保安水域と重なる部分が存在する。もしも、企業誘致が実現せず、大部分の土地が余った場合、最も懸念されるのは、米軍の基地化、もしくは自衛隊の誘致という事態であろう。あるいは、いま沖縄の一部財界には、観光産業の発展として、法改正してカジノ特区をつくり、国内唯一のカジノを実現したいという欲望が渦巻いている。このような構想そのものがギャンブルであることを強く指摘しておきたい。」

●参照
またここでも公然の暴力が・・・泡瀬干潟が土で埋められる
救え沖縄・泡瀬干潟とサンゴ礁の海 小橋川共男写真展

●泡瀬干潟の写真(『リーフチェッカーさめの日記』のさめさんより教えて頂いた)
○泡瀬干潟 ヒメマツミドリイシ産卵確認
http://reefcheck.net/2008/06/22/awasespawning-2/
○オイシイ泡瀬干潟
http://reefcheck.net/2008/07/31/topic30/
○泡瀬干潟にふらり
http://reefcheck.net/2008/05/02/topic27/
○2本足で歩くタコ~泡瀬干潟のンヌジグワァの話~
http://reefcheck.net/2007/11/23/topic16/


ワダダ・レオ・スミスのゴールデン・カルテットの映像

2009-01-20 01:04:37 | アヴァンギャルド・ジャズ

トランペッター、ワダダ・レオ・スミスが最近組んでいるグループに「ゴールデン・カルテット」というものがある。トゥヴァ共和国のヴォイス・パフォーマー、サインホの映像を買うついでに、こちらのDVD『WADADA LEO SMITH GOLDEN QUARTET』(Jacques Goldstein、LA HUIT、2007年)も送ってもらった。何しろカット盤であるから、ほとんど送料だけかかったような感覚である。カット盤は、正規の流通ルートから外れたという意味で敢えて傷物にされ、そのため安い。LPではジャケットの隅がカットされたりパンチ穴が開けられたりしていた。DVDにもあることは今回初めて知った。


左下がカットされている

映像はスタイリッシュなモノクロであり、ひょっとしたら、チェット・ベイカーのドキュメンタリー、ブルース・ウェーバー『Let's Get Lost』に張り合えるのではないかとおもえるほど良い。レオ・スミスの演奏は最初は抑制気味だが、次第に熱くなっていく。何といっても特筆すべきは、ロナルド・シャノン・ジャクソンのドラムスだ。4ビートではなく、生命のようなパルスを全方位から放ち続ける格好良さ。レオ・スミスとお互いに煽り続けるのには凄みがある。ちょっと、最後期のコルトレーンに蛇のように絡んだドラマー、ラシッド・アリをおもい出した。これまでロナルド・シャノン・ジャクソンのことは特に何ともおもっていなかったのだが、突然気になるドラマーになってしまった。

ボーナス映像として、「DeJohnette」の演奏が収録されている。もちろん、ジャック・デジョネットのことで、「ゴールデン・カルテット」のCD第1作『Wadada Leo Smith's Golden Quartet』(TZADIK、2000年)ではそのジャック・デジョネットがドラマーとして参加し、「DeJohnette」を演奏している。印象としては、「寸止め」のような煮え切らなさを感じるデジョネットの演奏はさほど好みでないのだが、このCDは音が多彩でよく聴く。DVDの抑制から発散への流れとは違って、いろいろなタイプの曲が録音されているのだ。なかでも、録音の直前に亡くなった稀代の音楽家レスター・ボウイに捧げた「Celestial Sky and All the Magic: A Memorial for Lester Bowie」では、レオ・スミスがボウイのようなにぎにぎしいトランペットも吹いていて、ちょっと哀しくなる。

DVDのインタビューでは、「ゴールデン・カルテット」の意味するものと訊かれ、「Maturity」や「Wisdom」といったことばを発していた。CD第1作にベーシストとして参加していたマラカイ・フェイヴァースこそ、その2つの言葉に相応しいようにおもわれる。しかし、彼も既に鬼籍に入っている。このグループでのマラカイの演奏も、映像で観たいものだ。


科学映像館の熱帯林の映像

2009-01-19 01:38:34 | 環境・自然

科学映像館が、沖縄総合事務局・海洋博覧会記念公園事務所が企画し、製作された、熱帯林に関する教育映画の配信を始めた(>> )。1985年頃に撮影された映像だそうだが、こういったものはなかなか古くならない。両編あわせて1時間弱、楽しんで観た。

まず、着生植物の紹介が具体的で面白い。根を地面に付けず他の樹木に付着して生きる植物だが、私はオオタニワタリしか意識していなかった。ここではランやパイナップル科のアナナスなども紹介される。寄生しているわけではないので、水を吸収する仕組は工夫する必要がある。オオタニワタリは腐植土のバルコニーのようなものを作り、そこに根を置く。また空中から水分を吸収するものもある。締め殺し植物が垂らした根も見ると、樹木における根というものは実に不思議だ。

マングローブについての映像も面白い。よく知られていることだが、マングローブとは汽水域に生息する樹木または林を指すのであり、特定の樹種ではない。代表的なヒルギ科は、変わった「胎生種子」を持っている。普通の種子(胚と胚乳がまとまる)ではなく、受精してできた胚が、そのまま成長して杭のような形になったもので、卵と哺乳類の赤ん坊との違いに例えられる。

胎生種子は母樹にぶらさがっているから、落下すると下の泥に突き刺さりそうに見える。この映像では、実際のその瞬間をとらえている(はじめて見た)。ただ、中村武久・中須賀常雄『マングローブ入門』(めこん、1998年)によると、実際にそのように突き刺さることは稀で、満潮で流されて着いた先で活着するケースを含めても、母樹の世代交代を担う2、3本が残る程度なのだという。

いずれにしても、形も生態も独特であり愉快だ。マングローブの場合にも、特徴が支柱根(幹から根が支柱のように出る)、筍根(樹から離れて再度根が地上・水上に筍のように出る)、膝根(やはり根が再度姿を現し、座った膝のように見える)、板根(幹を支える板)など根が特徴のひとつであり、樹木における根の不思議をここでも見せ付けられる。

余談ながら、『マングローブ入門』によれば、根の特徴、胎生種子の有無、生育地などからその植物がマングローブであるかどうかを判断する方法があり、ヒルギなどは「純マングローブ種」、この映像にも登場する、東南アジアで屋根材などに使われるニッパヤシなどは「準マングローブ種」、そして普段マングローブとはおもわないサガリバナサキシマスオウノキキョウチクトウオオハマボウなどは「従マングローブ種」として分類されるようだ。

●写真
沖縄県今帰仁村・備瀬のオオタニワタリ
沖縄県東村・新川川のオオタニワタリ
沖縄県東村・慶佐次のヒルギ
沖縄県東村のサガリバナ(下がり花)
沖縄県名護市・「ジュゴンの見える丘」から見たイタジイの亜熱帯林

●科学映像館のおすすめ映像
『沖縄久高島のイザイホー(第一部、第二部)』(1978年の最後のイザイホー)
『科学の眼 ニコン』(坩堝法によるレンズ製造、ウルトラマイクロニッコール)
『昭和初期 9.5ミリ映画』(8ミリ以前の小型映画)
『石垣島川平のマユンガナシ』、『ビール誕生』
ザーラ・イマーエワ『子どもの物語にあらず』(チェチェン)
『たたら吹き』、『鋳物の技術―キュポラ熔解―』(製鉄)


張祖道『江村紀事』、路濘『尋常』、解海?『希望』、姜健『档案的肖像』

2009-01-17 21:42:15 | 中国・台湾

以前に上海の空港で見つけた中国現代写真のシリーズがかなり気に入ったので、今回北京で時間を見つけ、繁華街・西単(シーダン)にある書店「西單圖書大廈」に行ってきた。中国のブログ『北京味混搭台客風』(>> リンク)で見つけた小粋な書店兼カフェ「閑暇時光書店」(ヒマでヒマなときの本屋、というくすぐる名前)も訪れたかったが、時間がなく、次回の楽しみにとっておくことにした。写真集ならば、「798芸術区」の写真ギャラリーがベストだろうが、ここも空港と市街との間なので寄っている時間はない。

「西單圖書大廈」は、ガイドブックには8時半開店とあったが、実際には9時から。開店前には多くのひとが待っていた。店の規模は三省堂書店本店などを上回るほど大きく、城のようである。

写真のコーナーの大半は、技術書、それもデジタル関係のもので占められている。日本でも出版されている、ナショナルジオグラフィックの撮影技術指南書の中国語版もあった。写真の作品集はごく一部だった。ところで、日本文学もそれなりに翻訳されており、なかでもよく目につくのが渡辺淳一(こういうのが好まれるのか?)。ここにも、『愛的流刑地』、『失楽園』、『鈍感力』なんかが平積みされていた。村上春樹もあった。

上海錦綉文章出版社が出している写真集のシリーズは全6冊。このうち3冊を前回入手した(>> 記事)が、残りの3冊をここで揃えることができた。なお、1冊32元(400円程度)。

張祖道『江村紀事』は、江蘇省にある水辺の村を対象にした調査に伴って撮影された作品群である。

「江村,実名「開弦弓村」は,世界で最も有名な中国の村の一つである.社会人類学者の費孝通(Fei Hsiao-Tung 1910-2004)が1938年にロンドン大学の学位論文として江村を対象としたモノグラフィーを発表し,高い評価を受けたからである.解放後,彼はこの村の集団的追跡調査を実施し,政治的な中断期を含みつつ農村工業化を軸とする「小城鎮」建設に関する研究を続けていった.
 ここで注目されるのは,費孝通が農村工業化を論じる際に,過去の水郷地帯における水運による商品流通ネットワークの再建を意図していたことである.」
(坂下明彦・朴紅・市来正光『中国蘇南地域における農業生産システムの変化と土地問題――江村の追跡調査(1)――』、北海道大学農經論叢、2006年)

本書の巻頭にも、費孝通が亡くなる前に寄せた文章が掲載されている。写真は1950年代から90年代までと幅広い一方、あまり時代の流れを感じさせない。水を中心とした生活の様子、学校の様子、農業の様子などがおさめられている。先日立ち寄った寧波の湖畔の村も水辺ならではの風景を形作っていたが(>> 記事)、きっとそれよりも際立った生活形態なのだろう。

路濘『尋常』の写真家は1974年生まれ。家族の素朴な日常を撮影している。写真家の妻が新しい下着の柄を見せびらかしている写真など、笑ってしまい嬉しくなるものがある。表紙の写真は人物の周辺を焼きこんだものなのか、逆光で人物のエッジが光るのを利用しているだけなのかよくわからない。目をひく派手さはないが、観ているうちに沁みてくる良い写真集だと感じた。

解海?『希望』は地方の農山村の子どもたちをとらえた作品群で、『誰も知らなかった中国の写真家たち』(アサヒカメラ別冊、1994年)には「次代を担うリーダーたち」のひとりとして紹介されている。牛腸茂雄『幼年の時間』もそうだが、子どもたちの凝視にはこちらの琴線に触れるものがあって、今回もっとも印象的な1冊だった。なかでもセンチメンタルになってしまうのが表紙の作品で、本書にはその後この女の子が成長し、大学で経済学を学んでいるところまで追っている。

ネット上にも『希望』作品群が紹介されている(>> リンク)。最後から2枚目が表紙の女の子(似ているが別の写真)、最後がその後15歳になって共産党の委員になっている姿だということだ。


表紙は陸元敏の写真

姜健『档案的肖像』は別の写真家作品集シリーズのひとつで、もっと上等な紙と印刷。68元(950円程度)だから高い方だ。タイトルの副題は「The People's Archive」といって、おそらくは大判フィルムを使って被写体と向き合っての記念撮影的な作品群となっている。手法については、本人が前半でアニー・リーボヴィッツ、アウグスト・ザンダー、ダイアン・アーバスなどに言及しており(中国語なので言及していることしかわからない)、かなり意識的なものだとわかる。

本書にはいくつものシリーズがおさめられている。生活する家のなかで撮ったもの。野外で胡弓を弾き歌うひとを撮ったもの。孤児の履歴書と肖像を対にしたもの。それから1966年に撮られた全体写真におさまっている女性たちを40年後探し当て、比較するもの。大判かつアーカイブであるから、どうしても「人生」の襞のようなものを意識させられてしまう。

これらもネット上でいくつか見つけた。

「主人」シリーズ
孤児たちのシリーズ


北京の炸醤麺、梅蘭芳

2009-01-17 00:51:43 | 中国・台湾

さっき北京から戻ってきた。坂本一敏『誰も知らない中国拉麺之路 日本ラーメンの源流を探る』(小学館、2008年)(>> リンク)に紹介されていた麺を食べたいとおもい、天壇公園近くにある「老北京炸醤麺大王」で昼食をとった。

炸醤麺は「ジャージャン麺」と読み、盛岡の「ジャジャ麺」のルーツとされている。

「ちなみに盛岡は、『秘境西域八年の潜行』を書いた西川一三氏が、チベットから帰国後住んだところである。その本の別巻で、青海省タール寺での生活を書いた文章の中に、次のような「ジャジャ麺」と呼ぶ麺の記述がある。
 「夕食は肉汁のウドンか『ジャジャ麺』と呼ぶ、湯がいたウドンを味噌、葱、小切りの肉をバターか種油でいためた味付け味噌と混ぜ合わせて食べるか、饅頭と肉、野菜汁か包子、焼児餅を食べている」(昭和四十三年 扶養書房刊)
 この本が発行されたときと、盛岡で「ジャジャ麺」が出たときがほとんど同時期なのは、私にはどうしても偶然だとは思えないのである。」
坂本一敏『誰も知らない中国拉麺之路 日本ラーメンの源流を探る』

店に脚を踏み入れた途端、まるでどこかの寿司屋のように、店員全員が凄まじい声で迎えてくれる。11時半ころでまだ空いていたが、どんどん混んできた。

運ばれてきたのは茹でた麺と様々な具、それから炸醤(肉味噌)と付け合せの大蒜。店員が目の前でもの凄い勢いで具と麺とを混ぜ合わせてくれた。食べる側が、炸醤を自分で入れて混ぜるやり方である。麺は上の本のように、かん水や卵を使っていない、うどんのようなもの。炸醤は辛いものではなかった。具は胡瓜、緑豆、豚肉など。

味はかなり良かった。夢中になってあっという間に平らげた。これで10元(140円程度)だ。工夫すれば自分の家でも近いものを作ることができるかもしれない。


店員が冗談のように素早く具と麺とを混ぜる


混ぜたもの


さらに自分で炸醤を混ぜる

北京、それからちょっと中に入った石家庄は猛烈に寒かった。風が吹くともう耳がちぎれそうだった。しかし昔住んでいた方によると、50年くらい前は寒さはこんなものではなく、外で顔や耳を出して歩くなどありえないほどだったそうである。


石家庄の凍った川

石家庄へは、昨夏に開通したばかりの新幹線「和階号」で2時間程度。数年前訪れたときには、車や列車で何時間もかかっていたことをおもいだせば雲泥の差だ。始発の北京西駅は、1月25日からの春節(旧正月)を前に、帰省するひとが段々と多くなってきていて混雑していた。


北京西駅


和階号

石家庄の名物はたしかロバの肉をパンのようなもので挟んだバーガーで、以前朝食に食べたときは非常に旨かった記憶がある。今回は、朝うろうろしたが土地勘がなく、あまりに寒いので早々にホテルに戻って世界中どこでも同じホテルの朝食を取った。

ところで、映画館では『赤壁(レッドクリフ)』の続編や、陳凱歌の『梅蘭芳(メイ・ランファン)』を既に公開していた。『レッドクリフ』にはあまり興味がないのだが、『梅蘭芳』は楽しみだ(チャン・ツィイー、レオン・ライ主演)。『さらばわが愛 覇王別姫』と同様に京劇物である。日本では『花の生涯 梅蘭芳』という題名で2009年3月に公開されるようだ。(>> リンク


映画館にあった『梅蘭芳』の看板

○参考 陳凱歌の映画