Sightsong

自縄自縛日記

デイビッド・ウォルトナー=テーブス『排泄物と文明』

2014-11-29 19:52:11 | 環境・自然

デイビッド・ウォルトナー=テーブス『排泄物と文明』(築地書館、原著2013年)を読む。

 

要するに、ウンコの本である。原題は『The Origin of Feces』(『糞便の起源』)、つまりチャールズ・ダーウィン『The Origin of Species』をパロッている。 

人はウンコが嫌いで好きである。認めてはいるが視ていない。有用であり有害である。ヘンにタブーだからヘンなことになる。

所詮は、消化しきれなかった食べ物と、水と、バクテリアの塊である。それが、生態系の主役のひとつでもある。すなわち、ウンコを真っ当に評価して扱わないことには、食糧問題も公衆衛生も解決できない。著者がユーモラスにたくさんのネタとともに迫るのは、まさにそのことである。

読みながら思い出したこと。

わたしは腹が弱い。真っ青になって必死に走ったのは、日本ばかりではない。バンコクのスーパーマーケット(綺麗なトイレだった)。ハノイの空港(タクシーで冷房に当たりすぎた)。インドネシアの離島の空港(あまりにも汚く、水も出なかった)。ネパール・ポカラの街(買い物をしている途中だったので、支払う前に預けてまた戻った)。紹興(間に合って出ていくと、仲間に万歳三唱をされた)。・・・思い出せばまだありそうだ。

これがあまりにも酷い("OPP")と、トイレに通い詰めることになる。イエメン・サヌアの宿では、本来使ってはならない紙をたくさん使ってしまったために、トイレが詰まったようで、掃除をしていた男に、お前だろう、わかっているぞと言わんばかりの形相で睨まれてしまった。用を足したあとに紙でなくバケツの水を使う文化は多いのである。そんなわけで、本書にもイエメンについての言及があってドキリとした。イエメンが「近代化」されると水洗トイレが増え、サヌアでは水不足と地下水位の低下が起きているのだという。まるで「近代化」の先兵としてトラブルを起こしたような気がしてくる。申し訳ない。

そのあとも下痢は止まらず、紅海へと向かう車のなかで「ハンマーム!」と言って止めてもらっては、サボテンの陰に隠れた。そのサボテンは他よりも大きくなっただろうか。まるで生態系に悪影響を与えたような・・・それはないか。(ちなみに、「ハンマーム」という言葉は、英語の「バスルーム」と同様に、風呂のことも指す。)

もうひとつ思い出したこと。

インド・ムンバイは海辺の街。早朝に散歩して海に着いたところ、たくさんの男たちが佇んでいる。みんな、しゃがんでいる。仰天した。ここまで多ければ生態系の一部として評価すべきものだろう(どちらの影響かわからないが)。本書でムンバイの話として示しているのは、映画『スラムドッグ$ミリオネア』の中で、突然あらわれた映画スターのサインが欲しいがために、肥溜めに飛び込んだくだり。そのことだって、ウンコの管理や処理という問題を垣間見せてくれるものなのである。

もうひとつ・・・。キリがない。このように恥ずかしい話のネタとして扱われることが、ウンコの置かれた状況を示すものでもあるだろう。ウンコを直視すべし。


キース・ジャレット+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Hamburg '72』

2014-11-29 14:20:12 | アヴァンギャルド・ジャズ

キース・ジャレット+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Hamburg '72』(ECM、1972年)を聴く。

Keith Jarrett (p, ss, perc, fl)
Charlie Haden (b)
Paul Motian (ds, perc)

同名のライヴ映像と同じ音源の一部が使われた再発である(2014年)。映像は昔のテレビ放送だけあって画質も音質も良くないため、このようなリマスタリングは大歓迎なのだ。しかも、考えられないほどクリアで瑞々しい。これは嬉しい。

キースの若い頃の演奏に接すると、最良のもの、天才のコアは既にそのはじまりからあらわれているのだと思えてならない。特に映像を観ると、「音楽」が服を着て魅力を爆発的に発散していることを実感する(そのときの写真が、CDのライナーにも収められている)。キースはピアノを弾くときも、ソプラノサックスを吹くときも、妙な打楽器を叩くときも、ひたすらに嬉しそうだ。アメリカンフォークの匂いもある。

勿論、ヘイデンのベースの残響も、モチアンのドラムスの自在に伸縮するさまも聴くことができる。パーフェクト。

●参照
キース・ジャレット『Facing You』(1971年)
キース・ジャレット『Arbour Zena』(1975年)
キース・ジャレットのインパルス盤(1975-76年)
70年代のキース・ジャレットの映像(1972、76年)
キース・ジャレット『Staircase』、『Concerts』(1976、81年)
ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』、クリストのドキュ、キース・ジャレットのグルジェフ集 (1980年)
キース・ジャレット『Standards Live』(1985年)


『苦悩の人々』再演

2014-11-29 09:47:43 | アヴァンギャルド・ジャズ

アレックス・クライン『For People in Sorrow』(Cryptogramophone、2011年)を観る。なお、同内容のDVDとCDのセットである。

Oliver Lake (as, fl)
Vinny Golia (woodwinds)
Dan Clucas (cor, fl)
Dwight Trible (voice)
Jeff Gauthier (e-vln)
Maggie Parkins (cello)
Mark Dresser (b)
Myra Melford (p, harmonium)
Zeena Parkins (harp)
G.E. Stinson (el-g, electronics)
Alex Cline (perc)
Sister Dang Nghiem (chant, bell [pre-recorded])
Larry Ward (opening poem)
Will Salmon (conductor)

タイトル通り、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ(AEC)による『People in Sorrow』(『苦悩の人々』)に捧げられた再演であり、メンバー数はAECの4人から大幅に増えている。そのため、指揮者は、時折、異なった色のボードを演奏者に示す。これがどのようなルールなのかはわからない。

AECは、ひたすらソロの傍らで管楽器による単音を続けて、聴く者の耳と脳とにストレスを与え、おそらくは「sorrow」を表現した。ここでは、マイラ・メルフォードのハルモニウムがその役割を担い、大きな効果をあげている。ヴィニー・ゴリアの柔軟な管の音は悪くないが、それよりも、オリヴァー・レイクのノイズだらけのサックスが、内奥へ内奥へとえぐっていくようで耳を奪われる。

オリジナルのみが持ちうる凄味はないが、素晴らしい集団即興のパフォーマンスだ。

●参照
豊住芳三郎+高木元輝 『もし海が壊れたら』、『藻』(「苦悩の人々」演奏)
加古隆+高木元輝+豊住芳三郎『滄海』(「苦悩の人々」演奏)


ノア・ハワード『Live at the Swing Club』

2014-11-28 07:25:17 | アヴァンギャルド・ジャズ

ノア・ハワードの作品はLPを含め結構集めたが、この『Live at the Swing Club』(Altsax Records、1974年)は持っていなかった。イタリア・トリノでのライヴ録音。

Noah Howard (as, bells, tambourine)
Michael Smith (el-p, p)
Bob Reid (b)
Noel McGhie (ds)

この人のアルトサックスは普通に上手いとは言い難い。ピッチが安定しない感じで常によろよろしている。フレーズはそんなに気が利かず同じパターン。どちらかと言えば、切迫感とか悲壮感のようなものばかりがアンバランスに突出している。

しかし、それでいいのだ。今後も偏愛。


デューク・エリントンとテリ・リン・キャリントンの『Money Jungle』

2014-11-27 07:20:31 | アヴァンギャルド・ジャズ

デューク・エリントンがチャールス・ミンガス、マックス・ローチという「異種」のふたりと吹き込んだアルバム『Money Jungle』(Blue Note、1962年)には、聴くたびに感動させられる。エリントンは1899年生まれ、ローチが1924年、ミンガスが1922年生まれ。およそふたまわりも離れている。ただ、どちらが獰猛かというと必ずしもバップ派とは限らない。

Duke Ellington (p)
Charles Mingus (b)
Max Roach (ds)

この名盤へのオマージュとして吹き込まれたアルバムが、テリ・リン・キャリントン『Money Jungle: Provocative in Blue』(Concord Jazz、2013年)である。

余談ではあるが、今年の7月にニューヨークのStoneで彼女のプレイを観たときに、共演したカーメン・ランディから「テリ・リンはグラミー賞だからねえ」と言われ、厭そうな顔をしていたのを覚えている。調べてみると、この「Best Jazz Instrumental Album」部門の受賞作は広く受ける作品が多いような印象がある(もてはやされていた時期のウィントン・マルサリスが3年連続で受賞したり、ハービー・ハンコックやパット・メセニーが常連であったり)。この盤も、「ジャズの歴史へのリスペクト+現代」というコンセプトが刺さったのかなとも思える。

それはともかく、これも良い演奏だ。テリ・リンのドラムスは軽く鋭い。ゲストも多士済々で、特にクリスチャン・マクブライド(ベース)のテクニシャンぶりが痛快である。

曲は、ほとんどエリントンの盤を踏襲している(CDでの追加曲もカバー)。テリ・リンのオリジナルが2曲ある他に、ジェラルド・クレイトン(ピアノ)のオリジナル曲「Cut Off」が入っているのだが、これは、カバーされていない「Solitude」に曲想が似ている。

そんなわけで、1曲ずつとっかえひっかえ聴き比べるのが愉しい作業なのだ。わたしの判定は、エリントン盤の圧勝。ピアノのアタックの強度や和音の分厚さ、サイドメンとはとても呼べないローチとミンガスの個性の爆発ぶりは、こうして比較しても素晴らしいものだ。

Terri Lyne Carrington (ds)
Gerald Clayton (p, rhodes)
Christian McBride (b)
Robin Eubanks (tb)
Tia Fuller (as, fl)
Antonio Hart (fl)
Nir Felder (g)
Arturo Stable (perc)
Shea Rose (voice; 11)
Lizz Wright (voice; 3)
herbie Hancock (voice of Duke Ellington; 11)
Clark Terry (tp, voice; 2)

ジャケットの裏側にはパロディ

テリ・リン・キャリントン(NY、2014年7月)

●参照
デューク・エリントン『Live at the Whitney』
ジェリ・アレン、テリ・リン・キャリントン、イングリッド・ジェンセン、カーメン・ランディ@The Stone


林博史『暴力と差別としての米軍基地』

2014-11-26 06:23:28 | 沖縄

林博史『暴力と差別としての米軍基地 沖縄と植民地ー基地形成史の共通性』(かもがわ出版、2014年)を読む。

軍事基地の要・不要論というものがある。本書はそこには敢えて踏み込まず、世界中の米軍基地が、いかに植民地主義と差別政策のもと形成されてきたかを検証している。

本書での引用によれば、植民地主義とは、「中核による周辺の支配と収奪の一形態」と定義されることがある。まさに、沖縄は、アメリカにとってのさまざまな周辺のひとつとされ、日本の「本土」(ヤマト)にとっての周辺とされてきた。もちろん、その思考様式は前近代的で野蛮なものである。しかし、その支配は今にいたるまで暴力的にとり行われ、沖縄は常に「周辺」であることを強制され続けている。

アメリカは、第二次世界大戦中から、世界規模で、戦後を見越した基地計画を策定してきた。本書において如実に示されることは、明らかに、沖縄もそのコマであったことだ。沖縄には施政権返還まで核兵器が配備され、他の基地と連動して、ソ連や中国への攻撃プランの一部をなしていた。

沖縄だけではない。

プエルトリコの小島ビスケス島では、そのほとんどを米軍基地が占め、多くの住民が土地と生活を奪われた。しかし、プエルトリコ出身のアメリカ連邦議会の議員やアメリカ本土に住んでいるプエルトリコ人たちの活動によって、この基地がもたらす問題がアメリカの政治課題となり、2004年に、基地の閉鎖がなされている。

キューバのグアンタナモは、テロリスト容疑者に対する厳しい扱いによって悪名高い。オバマ大統領による一部閉鎖命令は、いまだ実行されていない。

ミクロネシアのマーシャル諸島は、大規模な住民移転、核実験と、それによる人体影響を調べるための場となった。(前田哲男『フクシマと沖縄』に詳しい。)

グリーンランドでは、アメリカ政府の意向を汲んだデンマーク政府が、基地建設のために住民を強制退去させた。

インド洋のディエゴガルシアでは、アメリカ政府の要請により、英国政府が島民全員(!)をモーリシャスに強制移住させた。この問題は現在、モーリシャス政府によって、ハーグの国際仲裁裁判所に持ち込まれている。

韓国のピョンテクでは、やはり、親米政権によって国内への強引な基地建設が行われている。

こうして示される諸事例を見ると、冷戦が終結した今も、米軍の「周辺」における世界戦略が、沖縄を含めた米軍基地の上位概念であることがよくわかる。すなわち、このことは、米軍の戦略に照らせば、沖縄の米軍基地をもはや不要なものと位置づけることが可能ということや、アメリカの「本土」において前近代的な統治の是非を問うことが有効であることも示しているのではないか。

●参照
太田昌克『日米同盟』
前田哲男『フクシマと沖縄』
琉球新報『普天間移設 日米の深層』
琉球新報『ひずみの構造―基地と沖縄経済』
沖縄タイムス中部支社編集部『基地で働く』
前泊博盛『沖縄と米軍基地』
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
渡辺豪『「アメとムチ」の構図』
渡辺豪『国策のまちおこし 嘉手納からの報告』
高野孟『沖縄に海兵隊はいらない!』
宮城康博・屋良朝博『普天間を封鎖した4日間』
エンリコ・パレンティ+トーマス・ファツィ『誰も知らない基地のこと』
押しつけられた常識を覆す
来間泰男『沖縄の米軍基地と軍用地料』
佐喜眞美術館の屋上からまた普天間基地を視る
いま、沖縄「問題」を考える ~ 『沖縄の<怒>』刊行記念シンポ
ガバン・マコーマック+乗松聡子『沖縄の<怒>』
由井晶子『沖縄 アリは象に挑む』
大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』
浦島悦子『名護の選択』
浦島悦子『島の未来へ』
新崎盛暉『沖縄現代史』、シンポジウム『アジアの中で沖縄現代史を問い直す』
『世界』の「普天間移設問題の真実」特集
久江雅彦『日本の国防』
久江雅彦『米軍再編』、森本敏『米軍再編と在日米軍』
『現代思想』の「日米軍事同盟」特集


デューク・エリントン『Live at the Whitney』

2014-11-25 07:19:02 | アヴァンギャルド・ジャズ

デューク・エリントン『Live at the Whitney』(Impulse!、1972年)は、巨匠によるピアノソロとピアノトリオ。

Duke Ellington (p)
Joe Benjamin (b) (13-19)
Rufus Jones (ds) (13-19)

名盤として名高い『Money Jungle』は、マックス・ローチ、チャールス・ミンガスという、個性と呼ぶのも生ぬるいようなふたりとのセッションで、異種格闘技的でもあった。しかし、10年後に吹き込まれた本盤は、それに比べればずいぶんリラックスしている。

美術館での演奏ということもきっと関係がある。1曲が1分から2分程度と短いものが多く、聴衆にエッセンスを披露しようと思ったのかもしれない。そんなわけで、気持ち良く楽しめる録音である。ところで、このホイットニー美術館は移転中で、2015年1月に別の場所再オープンする(設計はレンゾ・ピアノ)。これまでの建物も、エリントンが演奏したのだと意識していれば、もっと感慨深かったに違いない。

ソロによるビリー・ストレイホーンの曲「Lotus Blossom」は、メロディーに合わせて循環する。渋谷毅さんも、必ず、オーケストラの締めくくりには「Lotus Blossom」を弾く。この演奏を聴いていたのかな。


NY・ホイットニー美術館(2014年6月)

2015年1月オープンの新ホイットニー美術館(2014年7月)

●参照
ホイットニー美術館のジェフ・クーンズ回顧展


金達寿『朴達の裁判』

2014-11-24 22:28:21 | 韓国・朝鮮

金達寿『朴達の裁判』(東風社、原著1948-58年)を読む。

金達寿(キム・ダルス)は在日コリアンの作家であり、長編『玄界灘』(1953年)などが代表作。後年には小説よりも歴史研究に没頭している。本書は短編集であり、戦後、1948年から1958年にかけて書かれている。

すべての作品に共通していることだが、ひたすらに鬱屈している。もちろんそれは当然と言えるようなものであって、日本の官憲から隠れるようにして暮らす生活を描く「司諫町五十七番地」はもとより、解放後を舞台とした他の作品でも、そこに描出されているのは、本質的に国を奪われたままの姿でもあったからだ。

在日コリアンたちが朝鮮に渡る際にも、南か北か、そして北であっても「北鮮」と呼ぶのか「朝鮮」と呼ぶのか、アイデンティティという足許を揺さぶられるような事態。さらには、韓国では、共産主義というだけで死を意味する時代がやってくる。そして、在日コリアンは、日本での生活を続けざるを得ない。絶えず、お前はナニモノダという踏み絵を前にしたような状況のなかで生みだされた小説群なのである。

そんな中での表題作「朴達の裁判」は、奇妙にコミカルだ。主人公の朴達(パク・タリ)は、教育を受けておらず、組織のヒエラルキーとはまったく無縁なところで社会運動を続ける。逮捕されるたびに、飄々と「転向」するという型破りさは、筋金入りの「運動家」からは信じられない存在であった。民衆のバイタリティーに向けられた、小説家の視線を感じるのだがどうか。

●参照
金達寿『玄界灘』
金達寿『わがアリランの歌』


エリック・ドルフィーの映像『Last Date』

2014-11-24 10:15:02 | アヴァンギャルド・ジャズ

エリック・ドルフィーは、1964年6月、オランダにおいて傑作『Last Date』を録音する。そして同月、パリ、ベルリンへと移動し、糖尿病が悪化して亡くなる。このDVD(監督:Hans Hylkema、1991年)は、そのころのドルフィーを追ったドキュメンタリーである。

さまざまな関係者たちの証言がある。『Last Date』の録音は、オランダの若い3人(ミシャ・メンゲルベルグは29歳、ハン・ベニンクは22歳!)には大変なハードルであり、教育の場でもあったようだ。

ハンは、コルトレーンとドルフィーとが共演したライヴを観たときの印象をこう語る。「トレーンはソロに入るときにlazyだったけれど、ドルフィーは鷹が襲うようにマイクに近づきバスクラを急に吹き始めた。そんなジャズマンははじめてだった」と。また、「ジョニー・グリフィンとも共演したけど、ドルフィーは格が違った」とも。

やはり多くの者に強い印象を残したのはバスクラだったようで、アルトサックス奏者のTinus Bruinが「まったく理解できず児戯にしか聞こえなかった」と告白する一方で、ドルフィー研究家のThierry Bruneauは、採録した楽譜を示しながら、何オクターブもジャンプする独特の技術を示す。ファイヴ・スポットで共演したリチャード・デイヴィスは、「かれのバスクラには、たくさんのエネルギーとフィーリングがあった」と思い出してもいる。そして、ジャキ・バイアードは、「魔術」と。

少年時代のドルフィーは練習魔だった。おばさんや先生の、「一日中練習してたんだよ」という証言もある。ドルフィーはそのまま、音楽ばかりを考える大人になった。それにも関わらず、黒人のジャズ・ミュージシャンというだけで、死の間際も、どうせドラッグだろうとたかをくくられていたという。

ヨーロッパでのチャールズ・ミンガスとのツアーを経て(1964年4月12日・ストックホルム、4月13日・オスロでの映像がある)、ドルフィーは、そのままヨーロッパに残ると告げる。バイアードの証言によると、「そりゃあミンガスは怒ったよ(mad)」と。ミンガス「どのくらいヨーロッパにいるつもりなんだ?」、ドルフィー「長くないよ」、ミンガス「長くないって?」、ドルフィー「1年もないよ」といったやり取りの映像も収録されているのは面白い。

そのころには、「いとこ」だというJoyce Mordeaiという女性と結婚する予定になっていた。彼女はダンスをやっていて、その活動のため、パリに行くことにしていて、だからこそドルフィーも同行した。諍いもあって幸せとばかりは言えなかったようだが。そのときドルフィーは体調を崩していて、彼女によると、「眼がどんよりしていた」と。

ベルリンでの日々。ライヴハウスの世話人がホテルに呼びにいったところ、本当にひどい様子で、アイスクリームを大量に食べていた。最後のステージでは、少し音を出したもののそのまま楽器を取り落とす。そして入院し、亡くなる。ここにも収録されているリハーサル映像も、ミンガスとのライヴも、実に余裕があってエネルギッシュであり、とても、すぐに亡くなるようには見えない。糖尿病とはそのようなものだったのだろうか。

なお、DVDには、映画完成当時(1991年)の「ドルフィー抜き『Last Date』」のライヴが収録されている(ドルフィー役はPiet Noordijkというサックス奏者)。20年以上経った今からみれば、当然だが、ハンもミシャも若くて嬉しくなってしまう。


ICPオーケストラ ミシャ・メンゲルベルグ、トリスタン・ホンジンガーら(2006年) Leica M3、Elmarit 90mmF2.8、Tri-X(+2)

●参照
エリック・ドルフィー『At the Five Spot』の第2集
ハン・ベニンク@ディスクユニオン Jazz Tokyo
ハン・ベニンク『Hazentijd』(ミシャ・メンゲルベルグ)
ハン・ベニンク キヤノン50mm/f1.8
レオ・キュイパーズ『Heavy Days Are Here Again』(ハン・ベニンク)
ウェス・モンゴメリーの1965年の映像(ハン・ベニンク)
ペーター・ブロッツマンの映像『Soldier of the Road』(ハン・ベニンク)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ(ハン・ベニンク)
イレーネ・シュヴァイツァーの映像(ハン・ベニンク)
横井一江『アヴァンギャルド・ジャズ ヨーロッパ・フリーの軌跡』


坂手洋二『8分間』@座・高円寺

2014-11-23 21:05:12 | 関東

何かの飲み会で隣に居合わせたことがきっかけで、坂手洋二さんから新作『8分間』の招待状をいただき、座・高円寺で観劇してきた。

杉並区、おそらく井の頭線のプラットフォーム(隣の駅が見えるとか言っているし)。鈍行の間隔は8分間。登場するのは、女性が車輌との隙間に足を挟まれ困っている。助けようとする人たち、痴漢だいや冤罪だともめる男女、香港民主化の運動家を装う男女、他人が目に入らぬような雰囲気でやってくる若い男、すぐにツイッターにアップする女子高生、ファンタジー小説の作家など。

ひとしきり騒動が終わって次の電車が来ると、また同じ時間に戻っている。そしてまた次も、その次も。8分間で繰り広げられることは、それぞれ微妙に異なっている。

この悪夢のなかから見えてくるものは、「今、ここで」に他ならないのだった。面白かった。なお、音楽は太田恵資さん。

終わってから、同じ回に観た編集者のSさんと古本屋を巡り、沖縄料理の「抱瓶」で飲み食い。


「抱瓶」の揚げにんにく

●参照
坂手洋二『海の沸点/沖縄ミルクプラントの最后/ピカドン・キジムナー』


嘉手苅林次『My Sweet Home Koza』

2014-11-23 08:46:21 | 沖縄

嘉手苅林次『My Sweet Home Koza』(B/C Record、1997年)。ずっと愛聴していて、たまに聴くたびにおおっと思わせてくれる。

嘉手苅林次 (うた・三絃・ヴァイオリン)
宮城ちどり (ツラネ・はやし)
松田弘二 (ギター)
仲本興次 (ドラム・はやし)
関島岳郎 (チューバ・トランペット・他)
中尾勘二 (サックス・クラリネット・他)
鈴木常吉 (アコーディオン)
渋谷毅 (オルガン)

メンバー的には「沖縄・ミーツ・中央線」か。大島保克『今どぅ別り』と同じように、賑々しく、ときにひなびた楽団ぶりが、沖縄民謡にマッチする。絶え間なく「くすぐられる」のである。

嘉手苅林次は偉大なる嘉手苅林昌を父に持つ唄者。高嶺剛『嘉手苅林昌 歌と語り』や中江裕司『ナビィの恋』など、林昌の歌う映像でも、林昌の横で妙にノホホンと三線を弾き歌っているという印象だが、主役になると、その個性が全面的に爆発してすさまじく愉快である。声はスモーキーで、奇妙に上ずっていて、余裕綽々。「富原ナークニー~ハンタ原」における超はや弾きにもニヤリとしてしまう。

いやあ、林次さんのパフォーマンスを観たいなあ。もう何年も前に東京公演があったのだが、ちょうど激務の最中で涙を呑んで断念した。沖縄に行くたびに駆けつけたいと思うのだが、どこで歌っているのかわからない。前回調べたところ、コザの「とみ子の店」で活動していることを知り、電話をかけてみたが、もう使われていなかった。

情報求ム。

●参照
『獏』 (嘉手苅林次参加)
嘉手苅林昌「屋慶名クワデサー」、屋慶名闘牛場
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、池澤夏樹『眠る女』、齋藤徹『パナリ』
小浜司『島唄レコード百花繚乱―嘉手苅林昌とその時代』
大島保克+オルケスタ・ボレ『今どぅ別り』 移民、棄民、基地


奈良原一高『王国』、『人間の土地』、『ブロードウェイ』

2014-11-23 08:38:11 | 写真

竹橋の国立近代美術館に足を運び、奈良原一高の写真を観る。目当ては『王国』だが、常設展のなかで、『人間の土地』、『ブロードウェイ』も展示されている。

『王国』(1958年)

第一部「沈黙の園」では北海道の修道院、第二部「壁の中」では和歌山の女性刑務所が撮影されている。

信仰、監禁と理由は異なるが、閉ざされた場所において生きている人の姿を見出すことができる。単なるルポでもなく、また、被写体への違和感や感情移入を強制するものでもない。間には確実にカメラ=私があって、そのことが独特の緊迫感をもたらしているように思える。

『人間の土地』(1956年)

この写真家のデビュー作。春休みに九州一周旅行をする際に、鹿児島の黒神村(溶岩で断絶された村)や長崎の軍艦島に立ち寄ることを勧められ、強い印象を持ったことがきっかけだったという(『こだわり「カメラ」のスナップ流儀 Vol.2』、2000年)。すなわち、「隔絶された状況の中での生活」というコンセプトは、その後の『王国』にも共通している。

被写体に向かう独特のスタンスは確かにこのときから感じることができる。すなわち、己とは異なる向こう側の世界に身を置きつつも、厳粛に凝視しているような・・・。

『ブロードウェイ』(1973-74年)

ニューヨーク・ブロードウェイの路上に立ち、魚眼レンズで撮った風景を、4点組み合わせてプリントした作品群。こう観るとデジタル的でコンセプチュアルな奈良原一高。


「泣き女」と「妓生」のドラマ『The Dirge Singer』

2014-11-23 00:17:15 | 韓国・朝鮮

韓国KBS制作のドラマ『The Dirge Singer』(2014年)を観る。(>> 英語字幕版

母親の仕事である「泣き女」を継ぐことを拒否した女。一方、高貴な家に生まれながら、母親が「妓生」であったために、家のなかで軽んじられている男。女は笑うために妓生となろうとするが、差別されている者たち同士の感情から、なかなか受け容れられない。ある日、男の兄が亡くなり、女は葬儀で激しく泣くことを強要される。男も泣くことを選ぶが、それは高貴なる家からみれば恥ずべき行動だった。

日本とは異なるかたちの差別の歴史か。


竹内正右『モンの悲劇』

2014-11-21 23:33:56 | 東南アジア

竹内正右『モンの悲劇 暴かれた「ケネディの戦争」の罪』(毎日新聞社、1999年)を読む。

モン族は、中国雲南省からベトナム北部、ラオス北部で生活する山の民である。佐々木高明『照葉樹林文化とは何か』によると、もともと長江流域で稲作をしていたが、太平天国の余波などにより、東南アジアへと移動してきた。さらにまた、梅棹忠夫『東南アジア紀行』によれば、1000mの等高線で切って、それ以下の部分を地図で消し去ってしまうと、あとに彼らの「空中社会」があらわれる。

本書は、そのモン族が、戦後も、大国の思惑で翻弄され続けてきたことを示す。インドシナ戦争とベトナム戦争、さらにその後も、フランスやアメリカの「反共」のために多数が動員された。中越戦争にも、タイ・ラオス国境紛争にも、モンは巻き込まれた。70年代末には、北ベトナム軍が、ソ連から提供を受けた化学兵器をモン攻撃のために使った証拠さえあるという。それが本当なら、ベトナムは枯葉剤の被害者であるだけでなく、加害側にも立っていたことになる。

大変興味深いルポなのだが、残念なことに、文章が読みにくい。本書を読み解いてあらためて歴史の中に位置づけていく仕事があればよいと思う。


モン族のふたり(ベトナム北部、2012年)  Pentax LX、FA77mmF1.8、Fuji Superia 400

●参照
佐々木高明『照葉樹林文化とは何か』
梅棹忠夫『東南アジア紀行』


『RAdIO』

2014-11-21 07:43:17 | アヴァンギャルド・ジャズ

『RAdIO』(地底レコード、1996, 99年)を聴く。

川下直広 (sax, vln)
不破大輔 (b)
芳垣安洋 (ds)
渋谷毅 (org)

川下直広の濁ったサックスも、不破大輔の挑発的なベースも、マーチングバンドの勢いを思わせる芳垣安洋のドラムスも、すべてが良い。

何より、渋谷毅のオルガンのカッチョ良さに吐きそうになり、卒倒しそうになり、また陶然とする(本当)。いや攻める、攻める。渋谷毅オーケストラでも、浅川マキの歌伴でも、渋谷さんは時折立ち上がり、ピアノの上に置かれたオルガンをぎゅい~んと弾き、突然攻めの姿勢に転ずる。90年代の頭ころにはじめて観たときにはやかましいなあと感じたオルガンだが、それが突き刺さってくるのには時間がかからなかった。かなりのヴィンテージものだと聞いたことがあるがどうなのだろう。

この『RAdIO』は、かつて同じ地底レコードからカセットテープ版が出ていて、よく聴いていた。同じメンバーだが、CDとは異なる音源である。なかでも、「Dava Dava Dava」(フェダインも演奏)がとても良かった。ずいぶん前に問い合わせると、これをCD化する計画はないということだった。残念・・・。

●参照
ネッド・ローゼンバーグ@神保町視聴室(芳垣安洋)(2014年)
高木元輝の最後の歌(不破大輔)(2000年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2014年)
渋谷毅+津上研太@ディスクユニオン(2011年)
渋谷毅+川端民生『蝶々在中』(2011年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2011年)
渋谷毅+森山威男『しーそー』(2001年)
浅川マキの新旧オフィシャル本
宮澤昭『野百合』(渋谷毅)(1991年)
カーラ・ブレイ+スティーヴ・スワロウ『DUETS』、渋谷毅オーケストラ
浅川マキ+渋谷毅『ちょっと長い関係のブルース』(1985年)
浅川マキ『闇の中に置き去りにして』(1998年)
渋谷毅のソロピアノ2枚