Sightsong

自縄自縛日記

『別冊ele-king カマシ・ワシントン/UKジャズの逆襲』の特集「変容するニューヨーク、ジャズの自由(フリー)」

2018-05-31 16:34:12 | アヴァンギャルド・ジャズ

『別冊ele-king カマシ・ワシントン/UKジャズの逆襲』に、もうひとつの特集として「変容するニューヨーク、ジャズの自由(フリー)」が組まれている。

つねに動き続ける先端ということもあってか、これまで、『JazzTokyo』の「Jazz Right Now」などネット媒体でその動きを見出すことが中心だった。あるいは、先端というフラグメンツとしては、ライヴ会場、音源の共有区間、ミュージシャンやリスナーが発信するSNSなどが重要となっている。今回紙媒体でこのような形になったことはとてもわくわくすることである。そしてこれも現在の断面ということがまた面白い。

まだ流し読みしただけだが、執筆各氏の論考や発言がどれも興味深く、あらたな視点をいちいち提示してくれている。中でも、時間軸でも音楽領域でも特定することが困難であり、越境性や並行性を無視することの困難さが、各氏の共通した指摘であるように読めた。

今回、細田成嗣さんを中心に、根田恵多さん、定淳志さん、それから不肖わたし(齊藤聡)で、上記「Jazz Right Now」を大きく意識しつつ、NYフリー・即興シーンの重要人物のマッピングを試み、あわせて全員で合計30枚のディスクレビューを行った。

越境性と並行性がある以上、このマッピングは非常に難しく、恣意的な思い入れをベースにした四者の「ああでもない」、「こうしたらどうか」、「この視点が大事なんだ!」、「この人がいない!」、「ずらそうぜ?」といった解のない議論を続けることとなった。つまりとても面白かった。そんなわけで、おそらくツッコミどころが少なくないが、そこに価値があるのであり、今後聴いていくときにも何かのきっかけとなるのではないかと話している。NYか東京ででも、登場人物に「これどう思う?」と見せてみるのが楽しみである。

なおわたしが書いたディスクレビューは、ジャック・デジョネット、ジョナサン・フィンレイソン、Mostly Other People Do The Killing、ブランドン・シーブルック、ジェイミー・ブランチ、Farmers by Nature、アイヴィン・オプスヴィーク、ドレ・ホチェヴァーの8枚。

実は「青田買い」枠で新進気鋭の期待できるミュージシャンが参加した盤を各人1枚入れようということになり、わたしは中国出身のブライアン・キューをホチェヴァーの盤参加ということで入れた(本人曰く、リーダー作の予定もある)。定さんはウィル・メイソン、根田さんはジェレマイア・サイマーマン、細田さんはラファエル・マルフリート。


原武史『大正天皇』

2018-05-31 07:02:47 | 政治

原武史『大正天皇』(朝日文庫、原著2000年)を読む。

明治と昭和の天皇にはさまれて、大正天皇の存在感は希薄である。それに加え、精神を病んでいたという風説が広まり信じられている(わたしも親からまことしやかにそう聞かされていた)。実の姿は、そのようなものではなかった。確かに生まれながらに病弱で、また47で崩御する前は幼少時の脳膜炎が再び悪影響を及ぼし言動が不自由になった。しかし、それを除けば、独自のカラーを出して役割をまっとうした。

明治天皇は、それまでの天皇とは全く異なる近代国家元首として君臨する形を作るべく、全国の大巡幸と「御真影」の設置というメディアミックスの仕掛けによって、視ること自体が権力構造に巧妙に組み込まれた(多木浩二『天皇の肖像』に詳しい)。大正天皇も全国津々浦々をまわった(皇太子の時には巡啓として、天皇になってからは巡幸として)。そして訪れた先には「御写真」が与えられた。

しかし、その目的も効果も明治天皇のときとは異なっていた。巡啓を実行したのは、詰め込み教育による皇太子の拒否反応と健康の悪化を改善させ、地理や歴史の学習を進めるためであり、受け入れる側にも大袈裟なことをやめるよう指示がなされた。実際にそれにより皇太子は健康となり、巡啓先でもフランクで天真爛漫な言動を行ったという。結果として普及したイメージは、親しみやすい皇太子であった(家族写真の絵葉書セットも売られたという)。

ここで重要な指摘がふたつある。ひとつは、この巡啓/巡幸の実施により、受け入れ側の自治体が道路などのインフラを整えるという利益誘導型の政治の萌芽がみられること。もうひとつは、大正天皇にとって、受け入れ側が侵略された地であっても、大日本帝国の統治の正当性になんら疑いを抱かなかったこと。北海道では短期間の道路整備にアイヌが駆り出された。また併合前後の韓国には親しみを抱き晩年まで韓国語を覚えようとしていたが、それ以上のものではなかった。

ソフトなあり方は、山形有朋などストロングマン的な元首を求めた者たちからは大きく反発されていた。そのため、ふたたび大正天皇の体調が悪化してからは、昭和天皇(迪宮)を摂政として立てるという明確な権力移譲が行われた。大正天皇と気が合ったソフト路線の原敬も、大正末期には暗殺されて世を去っていた。

如何に大正天皇が異端であったか。天皇の守護神は、アマテラス直系ではなく、国を譲る方のオオクニヌシだった(!)。出雲の神である。このあたりについてもう少し踏み込んで知りたいところだ(著者には『<出雲>という思想』という著作もある)。

驚かされるのは、明治、大正の両天皇とはまた大きく異なる昭和天皇のメディアミックス手段である。それは、動画に撮らせて(それまでは写真撮影さえヒヤヒヤものだったにもかかわらず)、上映により国民ひとりひとりに内部化させるというものだった。しかも上映された場所の多くが、日比谷公園、上野公園、芝公園など、普通選挙の実現を求めた民衆運動の拠点であった。革命を防ぐための巧妙な手段だった。それに加え、天皇本人が民衆の前に姿を現すという方法によって、天皇の個々の国民への内部化は強化されていく。

鉄道関連の著作を多くものしている著者ならではの指摘がある。東京駅は明治天皇の権威を演出すべく建設された(当初は丸の内口のみだったことからも明らかだという)ものだが、結果的に明治天皇が使うことはなく、大正天皇の権威付けに使われた。また、現在も原宿駅には皇室専用のホームがあるが、これは、病状が悪化した大正天皇の姿を国民から隠すために作られた。そして大正天皇がそれを利用したのは、保養に向かう際のいちどきりだった。鉄道にも、天皇という歴史が刻まれているということである。

●参照
原武史『<出雲>という思想』
原武史『レッドアローとスターハウス』
多木浩二『天皇の肖像』
豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』
豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』
ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』
古関彰一『平和憲法の深層』


ノーム・ウィーゼンバーグ『Roads Diverge』

2018-05-30 19:26:15 | アヴァンギャルド・ジャズ

ノーム・ウィーゼンバーグ『Roads Diverge』(BJU Records、2017年)を聴く。

Noam Wiesenberg (b)
Philip Dizack (tp)
Immanuel Wilkins (as, cl)
Shai Maestro (p, Fender Rhodes)
Kush Abadey (ds)
Dayna Stephens (ts) (Track 5)

ノーム・ウィーゼンバーグはイスラエル出身のベーシストであり、本盤では同じイスラエルということでか、シャイ・マエストロが参加している。このマエストロの演奏にはやはり特別なものがあって、タッチが強く、そのためにリズムもまた強くコントロールしている。アルバム全体を通じて強靭で華麗でもある芯が入っている印象を受ける。

フロントのひとり、アルトのイマニュエル・ウィルキンスは、昨年(2017年)、NYのSmallsにおいて、E. J. ストリックランドのグループでの演奏を観た。なかなか熱かったので記憶に残った。こんな人が今後ばんばん出てくるんだろうなと思っていたら、すぐにこうして出てきた。即興の作り方はちょっとAACM的なうねうねしたものだが、より押し引きできる柔軟さがあって、しかも、グループ全体で突っ走るときにはずっと粘着して吹き続ける。いや、やはり良いと思う。次の吹き込みもぜひ聴きたい。

Immanuel Wilkins(2017年9月、Smalls)

1曲だけ、デイナ・スティーヴンスがテナーで参加するのだが、この人のエンジンは大きく、悠然と包み込む良さがある。

そしてリーダーのウィーゼンバーグ。ベースの響き自体がとても柔らかく、その音色がサウンドの色も特徴付けているように聴こえる。ときにバックヴォーカルのように響いたりもする。きっとライヴで観ると気持ちいいのだろうな。

最後の曲「The Tourist」はレディオヘッドのカヴァーであり、多重録音なのだろうか、アルコとピチカートとを組み合わせて、やはり実に柔らかく陶然とさせられる音を作っている。元曲が収録された『OK Computer』でも最終曲であり、聴き比べてみると(たまたま気分転換にとCDを病院に持ち込んでいた)、かれらはテンポを落とし、「スピードを落とせよ」と歌って、着地に向けて独特の雰囲気を作り出している。どちらも何とも言えずしみじみとさせてくれて、アルバムの締めくくりに相応しい。


町中華探検隊、北尾トロ、下関マグロ、竜超『町中華とはなんだ』

2018-05-30 07:33:04 | 食べ物飲み物

町中華探検隊、北尾トロ、下関マグロ、竜超『町中華とはなんだ』(立東舎、2016年)を読む。

町中華再発見の立役者たちによるコラム集(?)。北尾トロ、下関マグロの両氏の文章はよく目にするが、お互いに意識して付けたライター名である。「町中華探検隊」(MCT笑)に遅れて参入した竜超さんはゲイマガジンの元編集長。

内容は、町中華である(笑)。ガイドブックでも何でもない。町中華に対するときの偏った心がけのサンプルである。

だらだらと読んでいると、突発的に笑いそうになる。「おいしさなんて求めない」。「油流し」(町中華を食べた後で舌に残った油をコーヒーで洗い流す)。「町中華グルーヴ」。「絶対言うまいと誓ったお世辞」。「舌の火傷は、危険を承知で宝探しをする腹ペコ野郎の勲章」。「町中華ブルース」。「化調風月」。「土着中華」。

天才だ。腹筋が痛い。


金成隆一『ルポ トランプ王国―もう一つのアメリカを行く』

2018-05-29 15:57:18 | 北米

金成隆一『ルポ トランプ王国―もう一つのアメリカを行く』(岩波新書、2017年)を読む。

本書は、2016年のアメリカ大統領選の前に、都市部ではない地域の住民の声を集めたものである。

前回2012年の共和党ロムニー候補が負けて、今回トランプが勝った州は6つあった。そのうちフロリダを除く5州(オハイオ、ペンシルベニア、ウィスコンシン、ミシガン、アイオワ)は、五大湖周辺の「ラストベルト(さびついた工業地帯)」に重なっていた。その一帯の労働者たちは、鉄鋼などの工場で仕事をし、労働組合にも属し、もともと民主党が強かった。

しかし、かれらはトランプを支持した。それは、古き良きアメリカが去ってしまい、ミドルクラスから没落し(毎年家族で長期旅行するなど)、脱出もできない不安が転化したからであった。その不安をすくい上げての仮想敵が、オバマケアであり、海外との自由貿易であり、安い賃金で働く移民たちなのだった。

著者が指摘するように、自由貿易によりかれらは安い製品を買うこともできていたし、移民たちが不法に入ってきた者であっても納税して財政に貢献していることは証明されている。また、産業構造の変化はやむを得ないことだった。雇用が減ったのはオートメーション化のためでもあり、一方で、働くほうもかつてのように誰でもできる手段で良い生活を送ることなどできない時代になっている。

トランプは実際に実施可能な手段を示さず、仮想敵を作り、シンプルなメッセージを出し続けた。それが奏功した。仮想敵という点では、富裕層や企業からオカネを得ているエスタブリッシュメントへの反感も、かなり住民に浸透していたという。(その意味では、リベラルのオキュパイ運動とも皮肉なことに批判対象が同じわけである。)

アパラチア山脈添いのケンタッキー州など、もともと共和党支持者が多い地域では、やはり住民はトランプを支持した。石炭産業は没落し、環境面から目の敵にされ、山の中で「時代遅れ」の地域だった。ここの「置き去りにされた人びと」の不満も激しい。

すなわち、何もこれらの地域住民がトランプの発する非民主主義的な傾向やヘイトスピーチに鈍感であったからではない。かれらは生活を脅かされていたから変革を求めた。自由貿易や移民や産業構造の変化に関する理解不足を指摘するのは、仮にそれが正しいことであっても、都市の勝ち組の視線であり、民主党もそちら側から脱却できなかったということである。

愚かなトランプだけを視ていては、ことは改善しない。これは日本についても言えることに違いない。


ジョシュア・エイブラムス『Music For Life Itself & The Interrupters』

2018-05-28 16:36:05 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジョシュア・エイブラムス『Music For Life Itself & The Interrupters』(eremite records、2010、2013年)を聴く。

Life Itself:
Joshua Abrams (b, p, Rhodes, g, harmonium)
Rashida Black (harp)
Ben Boye (p, Pianet)
Ari Brown (ts)
Hamid Drake (ds)
Tony Herrera (tb)
Marquis Hill (tp)
James Sanders (vln, viola)
Joshua Sirotiak (tuba)

A Place Called Pluto:
Joshua Abrams (b, p)
Emmett Kelly(g)
Frank Rosaly (ds)

The Interrupters:
Joshua Abrams (b, MPC1000, p, Wurlitzer, ds, perc)
Jason Adasiewicz (vib)
David Boykin (bcl)
Nicole Mitchell (fl)
Jeff Parker (g)
Tomeka Reid (cello)

てっきりジョシュア・エイブラムスの作品であり大人数でもあるから、音響的なサウンドを追究したものかと思ったのだが、そうではなかった。43曲も収録されており、3種類のバンドによってショーケース的な音のクリップを撒き散らしている。

もちろんこのシカゴ勢のメンバーであり、聴き所は聴くたびに発見できる。アリ・ブラウンの深いサックスも良いし、デイヴィッド・ボイキンとニコール・ミッチェルとの音の重なりも良い。とはいえ音響的な要素は手を変えチラ見せされており、これにはエイブラムス自身のベースや他の楽器を使った引き出しの多さが効いている。通しで聴くとなんだか騙されたような気分になり、なかなか見事。

●ジョシュア・エイブラムス
レンピス/エイブラムス/ラー+ベイカー『Perihelion』(2015-16年)
ニコール・ミッチェル『Awakening』、『Aquarius』(2011-12年)
ジョシュア・エイブラムス『Represencing』、『Natural Information』(2008-13年)


井上荒野『ひどい感じ―父・井上光晴』

2018-05-28 16:13:57 | 思想・文学

井上荒野『ひどい感じ―父・井上光晴』(講談社文庫、原著2002年)を読む。

井上光晴が「ウソつきみっちゃん」だったことは、原一夫の映画『全身小説家』(1994年)で衝撃的にもユーモラスにもばらされてしまい有名になっている。

本書は、娘が見た「ウソつきみっちゃん」の姿だが、なるほど、変人だったんだなと思わせられる。それと同時に、困った人たる父親を愛情を持って回想し、自分自身にも小説家としての影響があることを認めている。業みたいなものだったんだろうな。

短いけれど、じわじわくる。いいエッセイ。

●井上光晴
井上光晴『西海原子力発電所/輸送』
井上光晴『明日』と黒木和雄『TOMORROW 明日』
井上光晴『他国の死』


本橋信宏『新橋アンダーグラウンド』

2018-05-28 15:36:36 | 関東

本橋信宏『新橋アンダーグラウンド』(駒草出版、2017年)を読む。

新橋という街の形成史や現在の裏の世界のルポなのかと思ったのだが、そうでもない。どちらかと言えば著者の自分語りであり、そんなことわざわざ書かんでもと密かにツッコミを入れつつも、なんだか妙に面白くてあっという間に読了してしまった。

まあ街なんて体系的に見ている人がいるでもなし、誰もが必死に生きていきながら身を置くようなものであり、このような見せ方が正しいのかもしれない。特に新橋のように個人の欲望を吸い込み続けてきた街はそうである。

それにしても、新橋のナポリタンが、勤め人のシャツに飛ばないよう粘っこく作られているなんて初めて聞いた説である。スタジオジブリの鈴木敏夫が「アサヒ芸能」出身であり、同誌は徳間書店の保守本流なんてやはり初めて知った。また、中丸明がかつてはやはり「アサヒ芸能」の伝説的記者であったことも初めて知った。たしかに人間は清濁というより濁濁としたものである。

まずは再開発が予定されているニュー新橋ビルを、あらためて探検しなければ。


吉田裕『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』

2018-05-27 10:03:29 | 政治

吉田裕『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書、2017年)を読む。

本書の特徴はふたつある。ひとつめは、太平洋戦争において日本政府および日本軍の組織的な判断が、物資および技術の面から根本的に間違っていたこと。ふたつめは、そのような大きな話の中に置かれた兵士が具体的にどのような影響を受け、か弱い人間として生命を危機にさらされたかということ。

戦病死者の大部分は、まともに判断すれば敗戦が明らかになった1944年以降であった。そのうち兵士に限っても、死の最大の原因は、戦闘による戦死ではなく、餓死を中心にした戦病死だった。とは言え、餓死とひと言で片づけるわけにはいかない。マラリアなどの感染病、精神病、自殺なども飢えや過労と結びついていた。戦力にならなかったり、足手まといとなったり、逃げようとしたりすると自軍に殺された。国際法で認められていたにも関わらず、相手軍への投降も許されなかった。それらの描写は凄惨極まりない。

具体的に不足した物資は兵器だけではなかった。靴の糸も革もなく、靴そのものもないため、足がぼろぼろになる。最後の命の綱とも言える飯盒がない。背負う背嚢がない。虫歯が蔓延していたがそれを治す歯科医がおらず、口の中がぼろぼろになる。自動車も重機もない。体重の3-4割が限界であるところ半分か体重と同じくらいの荷物を持って、行軍を強いられた。逃げるためには死しかなかった。それが皇軍というものであった。

もちろんわたし達は、小説や漫画や映画や体験記などを通じてその惨状の断片は知っている。しかしここまで体系的・具体的にまとめられると、あまりの恐ろしさに震えてしまう。知っているようなつもりでいて、実は何にも知らなかったということに気付かされる。


ブランドン・ロペス+クリス・コルサーノ+サム・ユルスマン『Holy, Holy』

2018-05-26 16:31:39 | アヴァンギャルド・ジャズ

ブランドン・ロペス+クリス・コルサーノ+サム・ユルスマン『Holy, Holy』(Tombed Vision Records、-2017年)を聴く。

Sam Yulsman (p)
Chris Corsano (ds)
Brandon Lopez (b)

形はオーソドックスなピアノトリオだが、ブランドン・ロペスのベースが際立って個性を発揮している。弓で弦をかちあげてでもいるのだろうか、あるいは強く弾いているというだけなのだろうか。アンバランスなほどに強靭な音のアーチが、かれの弓のひと弾きごとに作られ、トリオの演奏空間に放出される。

これを、クリス・コルサーノのカラフルで鋭いドラムスが見事に受け止めてみせている。

●ブランドン・ロペス
ブランドン・ロペス+ジェラルド・クリーヴァー+アンドリア・ニコデモ+マット・ネルソン『The Industry of Entropy』(-2018年)
「JazzTokyo」のNY特集(2017/2/1)

●クリス・コルサーノ
メテ・ラスムセン+クリス・コルサーノ@Candy、スーパーデラックス(2017年)
メテ・ラスムセン+クリス・コルサーノ@Candy(JazzTokyo)(2017年)
クリス・コルサーノ、石橋英子+ダーリン・グレイ@Lady Jane(2015年)
コルサーノ+クルボアジェ+ウーリー『Salt Talk』(2015年)
メテ・ラスムセン+ポール・フラハーティ+クリス・コルサーノ『Star-Spangled Voltage』(2014年)
アイスピック『Amaranth』(2014年)
エヴァン・パーカー+ジョン・エドワーズ+クリス・コルサーノ『The Hurrah』(2014年)
メテ・ラスムセン+クリス・コルサーノ『All the Ghosts at Once』(2013年)
ネイト・ウーリー『Seven Storey Mountain III and IV』(2011、13年)
ネイト・ウーリー+ウーゴ・アントゥネス+ジョルジュ・ケイジョ+マリオ・コスタ+クリス・コルサーノ『Purple Patio』(2012年)
ロドリゴ・アマド『This Is Our Language』(2012年)


石井美樹子『中世の食卓から』

2018-05-26 13:56:09 | ヨーロッパ

石井美樹子『中世の食卓から』(ちくま文庫、原著1991年)を読む。

軽いエッセイだが、中世ヨーロッパ人たちが何を食べていたのかについてあれこれと書いてあり、想像すると愉しい。

スパイスがいかに重要で高価なものだったか、とか(だからこそカネモチは使わなければいけなかった)。蜜にかわって砂糖が重用されて、そのために貴族が虫歯になることはステータスシンボルだった、とか。野菜なんて蔑視の対象だった、とか。かつてパリではみんな豚を飼っていて、それが禁止されて遠隔地から肉を運ばざるを得ず、鮮度が落ち、肉団子料理が発達した、とか。

それから、キリスト教の四旬節では肉を決して食べてはならず、その代わりに、ニシンばかり食べていてみんな見るのも嫌になった、とか。本書でもブリューゲル「謝肉祭と四旬節の喧嘩」について書かれているが、この絵の下の方で樽に乗って肉を喰らわんとしている人は、つまり、生命力というか食べ物への執念というか、そういうものを爆発させていたわけである。

そういえばニシンそばを食べたくなった。わたしはそんなにニシンを食べていないのでまだ嫌ではない。


テジュ・コール『オープン・シティ』

2018-05-25 20:32:05 | 北米

テジュ・コール『オープン・シティ』(新潮クレスト・ブックス、原著2012年)を読む。

主人公はナイジェリア生まれ・NY在住の精神科医。アフリカ人であり有色人種である。そのことからも、世界が自分と隔たっている。かれはNYのアフリカ人と、かつて日系であるためにアメリカで収容された先生と、アメリカからベルギーに戻った老婦人と、誠実に、しかし自らの欺瞞を認識しながらも、話をし続ける。それはどうしたって摩擦と内省を生じる。

視るだけではない。かれは視られもする。世界に自分が溶け込んでいない、それはつねに視られていることでもある。公園の鳥にも視られる。世界からの疎外感は暴力でもあり、かれは自分に理不尽に与えられる暴力を受け容れているようでもある。しかし、暴力は受けるだけではなく、かれが他者に与えるものでもあった。しかも、自分自身が意識しないところで。

この静かで大きな驚きのまま、かれはマーラーのコンサートに出かける。そして、ついには世界の亀裂を視るのだ。読むべし。


シヤ・マクゼニ『Out of This World』

2018-05-25 19:58:46 | アヴァンギャルド・ジャズ

シヤ・マクゼニ『Out of This World』(2016年)を聴く。

Siya Makuzeni (vo, tb, Pedals / Loops)
Ayanda Sikade (ds)
Benjamin Jephta (b)
Thandi Ntuli (p, key)
Sakhile Simani (tp, flh)
Sisonke Xonti (ts)
feat. Justin Faulkner (ds) on track 6

『ラティーナ』誌2018年6月号の南アフリカジャズ特集に紹介されているディスク。

シヤ・マクゼニは歌い、トロンボーンを吹く。声は少しハスキーで、ぬめりのような独特さがある。サウンドは作曲によるところもあるのか、沈んでいながらも上下左右に飛び出るようなノリがあり、想定外で驚いてしまった。ここにはベンジャミン・ジェフタの躍るベースも貢献している。その中でマクゼニの声がルーパーによってそのあたりをたゆたい、まるで多くの者がざわついているようにさえ聴こえ、ちょっと動悸がする。

もうひとつ特筆すべきはタンディ・ンツリのピアノとキーボードであり、流麗にスウェイして、どうしても耳に飛び込んでくる。

5曲目の「Through the Years」は、なんと、ベキ・ムセレク『Timelessness』(1993年)の収録曲である。当時は日本でも評価されたムセレクだが、やがて日本盤も出なくなり、亡くなっても話題にもならなかった(わたしは翌年になって気が付いた)。『Beauty of Sunrise』(1995年)はいまも傑作だと思っている。ムセレクが母国でこのように大事にされているのだと思うと嬉しい。

●参照
タンディ・ンツリ『Exiled』


ブランドン・シーブルック『Needle Driver』

2018-05-25 19:37:25 | アヴァンギャルド・ジャズ

ブランドン・シーブルック『Needle Driver』(Nefarious Industries、-2017年)を聴く。

Brandon Seabrook (g)
Allison Miller (ds)
Johnny Deblase (b)

はじめてシーブルックと話したときに、その前日に知らずに観たNeedle Driverのことを思い出し(クリス・ピッツィオコスの出演前だった)、「ああ昨夜観ましたよ、Needle Point」と失礼なことを言ったのはわたしです。

それはネタとして。本盤も楽しみにしていた(その割にリリースを忘れていた)。

確かに疾走するし、歪むし、スピードの緩急も良いし、大きな音で聴くと気持ちいいのではあるが、どうもそれ以上ではない。なんでかな。他の人の感想も訊きたいところ。


Needle Driver, Don Pedro's (2015年)

●ブランドン・シーブルック
トマ・フジワラ『Triple Double』(2017年)
ブランドン・シーブルック『Die Trommel Fatale』(JazzTokyo)(-2017年)
アイヴィン・オプスヴィーク『Overseas V』(JazzTokyo)(2016年)
CPユニット『Before the Heat Death』(2016年)
アイヴィン・オプスヴィーク Overseas@Seeds(2015年)
アンドリュー・ドルーリー+ラブロック+クラウス+シーブルック@Arts for Art(2015年)
クリス・ピッツィオコス@Shapeshifter Lab、Don Pedro(2015年)
トマ・フジワラ『Variable Bets』(2014年)
アンドリュー・ドルーリー『Content Provider』(2014年)
ブランドン・シーブルック『Sylphid Vitalizers』(2013年)


大和田俊之『アメリカ音楽史』

2018-05-25 07:13:32 | ポップス

大和田俊之『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』(講談社選書メチエ、2011年)を読む。

本書で対象とする音楽は幅広く、最初は散漫な印象を受ける。しかし読んでいくうちに、ミンストレル・ショウ、ジャズ、R&B、ロック、ヒップホップなど、そのいずれにおいても、その時点から過去に向けられた黒人と白人双方の欲望が交錯する領域に形成されたのだとする大きな視線があることがわかってくる。それが「偽装」というふるまいによってあらわれてくるというわけである。

その視線の中にアフロ・フーチャリズムも入っており、面白い。つまり、サン・ラなど黒人音楽家たちは、SF的想像力によって「惑星的他者」を偽装し、自らのアイデンティティを再確認したということである。ここにもオクテイヴィア・バトラーの名前が登場してくるのだが、そうなれば、ニコール・ミッチェルの活動もその文脈で捉えられる。

一方、ジャズのモード奏法こそが歴史的な断絶であり西洋からの解放だとする論旨には、ちょっと納得しにくいところがあった。