Sightsong

自縄自縛日記

オ・ミヨル『チスル』、済州島四・三事件、金石範

2014-03-31 23:00:00 | 韓国・朝鮮

渋谷のユーロスペースで、オ・ミヨル『チスル』(2012年)を観る(2014/3/30)。

これは、済州島四・三事件(1948年)を描いたものとして、世界ではじめての長編映画である。

日本の植民地支配は終わったが、朝鮮半島の人びとは、自分の祖国を取り戻すことができなかった。強引に冷戦構造のなかに組み込まれ、国は南北に分断されつつあった。そして米国主導での南側だけの政権樹立に反対した済州島民たちは、米国の権力のもと、韓国軍・警察による虐殺の対象となった。死者は、島民28万人のうち、3万人にものぼったと推定されている。文字通り、白色テロであった。

この映画において、虐殺の対象となった島民たちも、韓国軍・警察も、ずいぶんユーモラスに描かれている。大きく、また決定的な違いは、後者が、自らの裡に逃げ場を持たない憎悪にとり憑かれたことだ。

下っ端の若者たちは、明らかに罪のない島民に銃を向けても、撃つことができない。それでも、彼らは、組織権力の一機能であることから外れることはできない。理性は棄ておかれても、獣は走り続ける。この映画は、それを、逃げ道もカタルシスも用意せず、描きおおせている。オ・ミヨル監督も、インタビュー(パンフ所収)において、「死んだ者と殺した者は存在するが、なぜ殺したのかを説明してくれる人がいないのが現実です」と語っている。

映画の上映後、作家の金石範さんと、「済州島四・三事件を考える会事務局」の高二三さんとの対談があった。

金石範さんはこう言った。この映画は歴史のひとつの断片に過ぎない。さまざまな事象のつながりとしての歴史を考えても、この事件がなぜ起きたのか、米軍は背後でどのような役割を果たしたのか、日本軍が済州島を沖縄の次の「捨て石」として計画していたことの意味など、描かれていないことは少なくない。それでも、これは非常にすぐれた芸術映画だ、と。

映画には、虐殺者が、島民の残した豚を大きな釜で茹でる場面がある。金石範さんによると、そのあとに、捕らえた島民も釜で茹でて残酷に殺した筈だという。なぜ、そのような行動を取ったのでしょうね、と言う金さんの声は、震えていた。

高二三さんによると、現在の課題は「四・三事件の国際化」だという。その意味で、この映画も広く観られて欲しい。


金石範さん

●参照
文京洙『済州島四・三事件』
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』
済州島四・三事件と江汀海軍基地問題 入門編
金石範講演会「文学の闘争/闘争の文学」
金石範『新編「在日」の思想』
金石範『万徳幽霊奇譚・詐欺師』 済州島のフォークロア
金時鐘『境界の詩 猪飼野詩集/光州詩片』
『海鳴りのなかを~詩人・金時鐘の60年』
細見和之『ディアスポラを生きる詩人 金時鐘』
林海象『大阪ラブ&ソウル』(済州島をルーツとする鶴橋の男の物語)
藤田綾子『大阪「鶴橋」物語』
金賛汀『異邦人は君ヶ代丸に乗って』(鶴橋のコリアンタウン形成史)
鶴橋でホルモン
野村進『コリアン世界の旅』(済州島と差別)
新崎盛暉『沖縄現代史』、シンポジウム『アジアの中で沖縄現代史を問い直す』(沖縄と済州島)
知念ウシ・與儀秀武・後田多敦・桃原一彦『闘争する境界』(沖縄と済州島)
宮里一夫『沖縄「韓国レポート」』(沖縄と済州島)
『けーし風』沖縄戦教育特集(金東柱による済州島のルポ)
加古隆+高木元輝+豊住芳三郎『滄海』(「Nostalgia for Che-ju Island」)
豊住芳三郎+高木元輝 『もし海が壊れたら』(「Nostalgia for Che-ju Island」)
吉増剛造「盲いた黄金の庭」、「まず、木浦Cineをみながら、韓の国とCheju-doのこと」(李静和は済州島出身)
長島と祝島(2) 練塀の島、祝島(練塀のルーツは済州島にある)


渋谷の「龍の髭」が閉店

2014-03-30 23:59:59 | 関東

渋谷のセンター街を抜けたあたり、三叉路の角に、台湾料理店「龍の髭」がある。

ちょうど今日(2014/3/30)が閉店だというので、17時の開店と同時に入った。昔、クアトロに矢野顕子のライヴを観に行った帰りに友人と話しこんだことが、いい思い出。

折角なので、定番メニューの角煮チャーハンを食べた。肉からはふわりと八角の匂いがして、濃すぎない味付け。やはり旨かった。これで、食べおさめ。

iphone5cで撮影


小山堅・久谷一朗『台頭するアジアのエネルギー問題』、茅陽一・山地憲治・秋元圭吾『温暖化とエネルギー』

2014-03-30 22:55:32 | 環境・自然

小山堅・久谷一朗『台頭するアジアのエネルギー問題』(エネルギーフォーラム新書、2013年)、茅陽一・山地憲治・秋元圭吾『温暖化とエネルギー』(エネルギーフォーラム新書、2014年)を読む。

「脱原発」には、しばしば現実論が欠けており、感情論が先走る。政策立案・推進側には、従来、透明性が欠けており、議論の場を設定してこなかった事実がある。特に東日本大震災に伴う原発事故以降、両者の乖離は広がった。

この2冊が、それらの乖離を埋めるための即効薬になっているわけではない。そのようなものはない。読んでいて勉強になった点も、強く異論を唱えたい点も多いが、至極真っ当な具体論である。くだらぬ環境陰謀論を読んで想定悪を見出す時間があるなら、こちらを。


スー・チャオピン+ジョン・ウー『レイン・オブ・アサシン』

2014-03-29 13:34:08 | 中国・台湾

スー・チャオピン+ジョン・ウー『レイン・オブ・アサシン』(2010年)(原題:『剣雨』)を観る。

明朝時代の南京。達磨大師のミイラを入手した者は、生命力を手にし、武術の頂点に立つと言われていた。ミイラの半身とともに失踪した女は、手術によって顔を変え、幸せな結婚生活をしていた。彼女を追う暗黒組織との闘い。しかし、彼女の夫も、実は親の仇を討つべく彼女を追っていたのだった。そして、暗黒組織の長は、宦官であり、ミイラの力で自分の一物を蘇生したいと願っていた。

もはやジャンルとして確立された、中国武侠映画である。ワイヤーアクションもCGも満載、途中まで呆れ果てて観ていたが、やはり、「やり過ぎ」の凄さと面白さにやられてしまう。もちろん、それを期待してDVDを入手したわけだ。特に、しなりまくる刀を使った武術や、針を飛ばす武術が新しい。さすが、ジョン・ウー。

暗黒組織の一員を演じるバービー・スー(徐煕媛)がとても魅力的。調べてみると、台湾のタレントなんだな。

そのバービー・スーが組織の長に迫り、下半身に手をのばす場面。あるべきものが無く、彼女は「あなたはeunuchなのか」と驚き、嘲り笑う。「eunuch」とは、「去勢された男」「宦官」の意味なのだった。ひとつ言葉を覚えた(使わないかもしれないが)。


公開時のチラシを取ってあった

●参照
ジョン・ウー『男たちの挽歌』(1986年)、『男たちの挽歌 II』(1987年)
ジョン・ウー『ミッション:インポッシブル2』(2000年)
ジョン・ウー『レッドクリフ』(2008、2009年)


白石典之『チンギス・カン』

2014-03-28 07:09:10 | 北アジア・中央アジア

白石典之『チンギス・カン ”蒼き狼”の実像』(中公新書、2006年)を読む。

「チンギス・カン」なのか、「チンギス・カーン」なのか、「チンギス・ハーン」なのか。「カン」は長や王の意であり、「カーン」「ハーン」はさらに崇め奉る皇帝の意である。本書によると、チンギスが大モンゴルを形成していった時代、呼称はあくまで前者であり、後世の者がチンギスを神格化した結果の呼称が後者であるという。

このことでもわかるように、本書は、大きな物語によってチンギスを描くものではない。むしろ、食べたもの、住んだところ、親族間の確執、周辺を攻める際の戦略など、実際の人間像に迫ろうとしている。

また、この時代(13世紀前後)において、戦争で優位に立つためには鉄資源が必要であり、それがモンゴル高原にはなかったのだとする指摘は、とても興味深い。

チンギスの死後、モンゴルにおける権力争いだけでなく、さらに清朝の支配、中国国民党の活動、関東軍の活動、中国共産党の支配に至るまで、チンギス聖廟の扱い、すなわち、「正統性」が常に重要視されてきたという。これこそが、チンギスの存在の大きさを示すものだといえる。もちろん、現代モンゴルにおいても然りである。ちょうど、昨年訪れたウランバートルでも、中心部のスフバートル広場が、その名前をチンギス広場と変えたばかりでもあった。 

●参照
岡田英弘『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』
杉山正明『クビライの挑戦』
姫田光義編『北・東北アジア地域交流史』
2013年11月、ウランバートル


ヨアヒム・キューン『Voodoo Sense』

2014-03-27 08:00:32 | アヴァンギャルド・ジャズ

ヨアヒム・キューン『Voodoo Sense』(ACT、2012年録音)。アーチー・シェップが特別ゲストとして招かれている。

Joachim Kuhn (p)
Majid Bekkas (guembri, voc & kalimba on 1, balafon on 4)
Ramon Lopez (ds, perc)
Special Guests:Archie Shepp (tts on 1, 3 & 4)
Kouassi Bessan Joseph (talking drum & zinu congas on 1, 2 & 4, voc on 2)
Gouria Danielle (perc on 1 & 4, vocals on 2)
Dally Jean Eric (calabas on 1)
Gilles Ahadji (jembe on 1 & 4)
Abdessadek Bounhar (karkabou on 1, 2 & 4)

いきなり「クル・セ・ママ」で始まる展開に興味があって入手したが、何度聴いても、音が脳の表層にとどまり、まったく内部に沁みてこない。

すなわち、アーチー・シェップ+ヨアヒム・キューン『WO! MAN』(Archie Ball、2011年録音)と同様。シェップはシェップを、キューンはキューンを模倣し、もはや突破力を見出すことが難しい。早くから個性を確立した巨匠が洗練されていっても、それを聴き続けることは厳しい。

●参照
アーチー・シェップ+ヨアヒム・キューン『WO! MAN』
アーチー・シェップ『The Way Ahead』
『Jazz in Denmark』 1960年代のバド・パウエル、NYC5、ダラー・ブランド
アーチー・シェップの映像『I am Jazz ... It's My Life』
イマジン・ザ・サウンド


デジタル耳せん

2014-03-27 00:07:38 | もろもろ

キングジムが発売したばかりの「デジタル耳せん」を入手した。量販店で5,000円未満だった。ちっちゃくて、単四電池1本で動く。

型番が「MM1000」とあって、一瞬考えたのちに、笑ってしまった。

これは、環境騒音と逆位相の音を出すことで騒音を打ち消す道具である。それでいて、人の声やアナウンスは聴きとれるのだという。

わたしには、「ゴーッ」という運転音はさほど気にならないのだが、オッサンの発するノイズが嫌でしかたないことが多い(オッサンに限らないけど)。「んご~」と鼻をすすったり、「ちっちっちっ」と歯から音を出したり、妙にハァハァ言っていたりすると、そのたびに集中力がそがれてしまうのだ。

早速、地下鉄や飛行機で試してみた。効果やいかに。

○宣伝はウソではなく、かなり静かになる。
○若干、鼓膜を圧迫するような気圧を感じる。
○人の声は小さくはなるがちゃんと聞こえる。ただし、これをつけたまま会話をすると、自分の声量がどの程度なのかよくわからない。
○オッサンのノイズが気にならなくなった。もちろん、でかい音でのくしゃみなどは聞こえる。ただ、音が小さくなるため、仰天はしない。
○飛行機では、なぜかトイレを流す音が消されずに聞こえてくる。

結論、推薦。読書が前よりも快適になった。


E・L・ドクトロウ『Andrew's Brain』

2014-03-25 21:08:22 | 北米

札幌行きの飛行機で、読みかけの、E・L・ドクトロウ『Andrew's Brain』(Random House、2014年)を読了。

物語は、科学者のアンドリューが、寒い冬の夜に、離婚した前妻のもとに幼い娘を抱きかかえてくるところからはじまる。若い再婚相手が亡くなり、世話ができないから助けてほしい、というのだった。この情けない男が、なぜ離婚したのか。新妻とはどのように知り合い、なぜ亡くなったのか。

そのような話が、次々につながっていく。それも、複雑な事情を解きほぐすように、ではない。饒舌に、しかも語り手がアンドリューだけでなく作者や第三者にいつの間にか移っていたりして、逆に、混乱させられてしまう。誰が誰に対して話し、誰がボケとツッコミなのか、よくわからなくなるのである。

ただでさえ支離滅裂の気配がある上に、英語の文法がなんだかヘン。そんなわけで、読みながらリズムに乗っていくまでに苦労した。ただ、こんなものかと思ってしまえば、複雑奇っ怪は軽やかに転じる。

絶望して田舎に引っ越し、高校の教師をしていたところ、授業中に突然、アメリカ大統領が見学にあらわれる(笑)。しかも、アンドリューと大統領とは昔の同級生だった。成り行きで、大統領のアドバイザーのようなおかしな職をあてがわれるアンドリュー。他の補佐官たちに、「囚人のジレンマ」を説明し、ゲームとして実行してもらう場面など、笑ってしまう。(もちろん、ホワイトハウスの住人だけあって、見事に相手を裏切るという結末。)

しかし、ホワイトハウスからも、大統領に害を及ぼそうとしたという咎で、いきなり追放される。よくわからない行き先では軟禁。スティーヴ・エリクソン『黒い時計の旅』や、セオドア・ローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』を思い出す理不尽さである。それでも、語り口は軽やかさを失わない。

この不可解さこそが、きっと本作の魅力なのだろう。小説のなかでも言っているように、マーク・トウェインのような馬鹿げた物語が人生に必要だ、ということかもしれない。


旨い札幌(2)

2014-03-25 07:21:47 | 北海道

一昨年末以来の札幌。いまだに土地勘がない。

■ すみれ

札幌ラーメンの有名店(らしい)。本店は遠いのでススキノ店に行った。

甘い挽き肉にシコシコ麺。他の味噌ラーメンと何がどう違うのかわからないが、旨い。

■ 七福神商店

海の物を求めてススキノと狸小路をうろうろ。外に貼りだされているメニューに「ルイベ」とあったこともあり入ったのだが、残念ながら品切れ。しかし、店員さんお薦めのものはいちいち旨かった。

タラの芽とアスパラの天ぷら、ホッキ貝、ツブ貝、名前を聞いたことがない八角(背びれが派手)、やはり初めて聞くぶどう海老(水揚げするときに、水圧差でぶどう色になるから、だとか)。調子に乗ってその他いろいろ、日本酒。

ぎりぎりまで飲んでしまい、慌てて千歳に向かった。札幌から30分程度で着くかと思いこんでいたら、50分くらいもかかってしまい、焦った。当然ながら、飛行機の中では爆睡。


タラの芽とアスパラの天ぷら、ぶどう海老


ツブ貝、ホッキ貝


八角

●参照
旨い札幌
旨い釧路
「らーめん西や」とレニー・ニーハウス
札幌「五丈原」
札幌「雪あかり」、「えぞっ子」
デュッセルドルフ「匠」(西山製麺)


ずっと憧れていた江戸前の穴子寿司

2014-03-23 22:51:38 | 関東

所用があって、千駄木に足を運んだ。この町には、ハタチになるちょっと前から4年以上住んだ。それも20年くらい前のことなので、何やら新しい店がたくさん出来ている。懐かしい店は消えてなくなっていたり、どこにあったか記憶が混乱したり。

その頃から、「乃池」という寿司屋にはずっと行ってみたいと憧れていた(住所は谷中)。何しろ、好物の穴子寿司をウリにしている店である。しかし、寿司屋というものは、学生にとっては敷居が高い。そんなわけで、好機到来とばかりに、二十年来の恋を成就させた。

穴子寿司は八貫で2,500円。フワフワに柔らかく煮てあって、濃厚なツメが塗ってある。期待通り旨かった。・・・だが、もう、「まだ行ったことがない憧れの店」ではなくなったわけであり、胸にぽっかりと穴が開いたようだ(大袈裟だな)。

ところで、道を挟んだ向かい側には、「朝日湯」という銭湯があって、定休日以外には毎日通っていた。「谷根千」(谷中・根津・千駄木)に住むなら、風呂なしで銭湯に通うのが粋というものだと言い張っていた。(探したらホームページがあった。懐かしくて吐きそうになる

その横には「砺波」という小さい中華料理屋があって、湯を浴びた帰りに、洗面器を持って立ち寄り、春巻とかアジフライをよく食べた。

というようなことを思い出しながら乃池を出ると、目の前には、まるで変わらぬ「朝日湯」と「砺波」があった。冗談のようだ。ぜひまた食べに来て、こっそりと感慨にひたらなければならぬ。

iphoneで撮影


ベルナルド・ベルトルッチ『ラストタンゴ・イン・パリ』

2014-03-23 10:05:08 | ヨーロッパ

ベルナルド・ベルトルッチ『ラストタンゴ・イン・パリ』(1973年)を観る。

公開当時は性描写の凄さばかりが取り上げられたというが、さすがに40年以上前の映画であり、もはやさほどの過激さを感じることはない。しかし、主演のふたり(マーロン・ブランド、マリア・シュナイダー)は、この映画に出てしまったために、私生活でも散々な憂き目を見たという。1976年には、大島渚『愛のコリーダ』がやはり猥褻映画だとして大騒動の元となっており、両作品は時代にぶつけられた爆弾のようなものだったのかもしれない。 

そのような興味よりも、この映画の見所はたくさんある。

ヴィットリオ・ストラーロの撮影による黄色くハイコントラストな映像、舐めるようなカメラワークには目を奪われる。

オープニング画面には、いきなりフランシス・ベーコンの絵が2枚現れる。欲の塊となったふたりの姿でもあるようだ。

全編に流れ続ける、ガトー・バルビエリの塩っ辛いサックスも素晴らしい。 

このとき、マーロン・ブランドは40代後半(映画では45歳という設定)。醜さを発散する演技はさすがなのだが、実は、『ゴッドファーザー』も同じ年に公開されている。同じ時期に、かたや欲望を漲らせた中年男、かたや枯れたマフィアのボスを演じたということだ。ちょっと信じ難い。

●参照
ベルナルド・ベルトルッチ『ラストエンペラー』(1987年)
ベルナルド・ベルトルッチ『魅せられて』(1996年)
ガトー・バルビエリの映像『Live from the Latin Quarter』(「Last Tango in Paris」を吹く)
ガトー・バルビエリ『In Search of the Mystery』
フランシス・ベーコン展@国立近代美術館
池田20世紀美術館のフランシス・ベーコン、『肉への慈悲』
『人を動かす絵 田中泯・画家ベーコンを踊る』


大島渚『飼育』

2014-03-22 09:27:19 | 東北・中部

大島渚『飼育』(1961年)を観る。前年の『日本の夜と霧』騒動で松竹を退社したあとの、最初の作品である。配給は、新東宝から派生してできた大宝による。

わたしは、90年代に、池袋にあったACT SEIGEI THEATERで「大島渚オールナイト」で本作を観た。しかしもう眠く、あまり覚えていなかった。

敗戦直前、長野県の山村。撃墜されたB29からパラシュートで脱出した黒人兵が、村人たちによって捕らえられる。山村とはいえ、働き手の若い男を軍隊に取られ、東京からの疎開者も多く、食糧事情は厳しい。そのような中で、「いずれ憲兵隊に表彰される」という理由で、村人たちは、黒人兵を農作業小屋の鎖につなぎ、食べ物を与える。やがて、諍いがあり、戦死の報があり、村人たちの間に大きな歪みが出てくる。かれらは、その原因を黒人兵の出現に見い出し、殺すことにする。

日本の田舎固有の硬直し歪んだ権力関係や、むき出しの性欲や、支配欲や、暴力欲が、何のオブラートにも包まずに、これでもかと見せつけられる映画である。そして、外部から視れば如何に異常なことが行われていようとも、最後は、「丸くおさめよう」との意思がすべてに勝利する。

カリカチュアだとはいえ、突飛な世界だとは思えないのは、<日本>であるからか。

ところで、脚本協力に「松本俊夫、石堂淑朗、東松照明」とある。東松照明は何を請われたのだろう。

●参照
大島渚『忘れられた皇軍』(1963年)
大島渚『青春の碑』(1964年)
大島渚『アジアの曙』(1964-65年)
大島渚『大東亜戦争』(1968年)
大島渚『新宿泥棒日記』(1969年)
大島渚『少年』(1969年)
大島渚『夏の妹』(1972年)
大島渚『戦場のメリークリスマス』(1983年)


マノエル・ド・オリヴェイラ『家族の灯り』

2014-03-21 22:21:28 | ヨーロッパ

岩波ホールで、マノエル・ド・オリヴェイラ『家族の灯り』(2012年)を観る。

長年、会社の会計係を続けている老人(マイケル・ロンズデール)。息子(リカルド・トレパ)は8年前に失踪した。そのため、老人の妻(クラウディア・カルディナーレ)には狂いの兆しが出てきて、息子の妻(レオノール・シルヴェイラ)と夫を口汚く罵る。毎日が変わらない貧乏暮らし。家には、友人(ルイス・ミゲル・シントラ、ジャンヌ・モロー)がときどき雑談しにやってくる。

突然、息子が帰ってくる。彼は、変わらない日常と望まない人生を激しく憎んでいた。帰ってきても、それは変わらなかった。老父もまた変わらない。何を言われようとも、何も起こらない人生こそが幸せなのだ、貧乏は誠実の結果なのだと呟く。彼は、自分自身の独善に気付かない。息子は、父が預かっている会社の金を強奪し、また家を出ていく。

そして、警察がやってくる。

まるで室内劇のようなつくりで、レンブラントの絵のように渋く落ち着いた画面。その時空間のなかで、巨匠オリヴェイラは、おそろしいほどの余裕をもって、人心の残酷さを描く。

これは、映画のコピーにあるような「家族の愛」を描いたものでもなく、「人生の切なさや美しさ」を描いたものでもない。むしろ、人の間にある根本的な断絶(わかりあえなさ)を描いたものであり、また、人生への意味付けを拒否したものでもある。美しく心あたたまる作品を期待して映画館に足を運ぶと、それは無惨にも裏切られることになろう。もちろん、オリヴェイラだからこそ撮ることができた傑作である。

それにしても、何か所与のものに帰属することを拒絶する「魔」を表現する俳優として、リカルド・トレパは適役である。近作の『ブロンド少女は過激に美しく』(2009年)でも、『The Strange Case of Angelica』(2010年)でも、「魔」に憑りつかれた者を演じていた。

人の心だけでなく、社会のつくりを冷徹に視た映画でもある。

ノーム・チョムスキー 「スミスは『国富論』の中で、分業に対して、次のような痛烈な批判をしています。「人間の大半の理解力は、その人の職業によって形成される。単純作業をして生涯を暮らす人、それがいつも同じか、ほとんど同じような結果しか生まない作業に従事する場合、人間は(物事を)理解することができず、最も愚かで無知な人間になってしまうことが多い。」(2014年3月6日、上智大学における講演。「週刊読書人」2014年3月21日)

●参照
マノエル・ド・オリヴェイラ『The Strange Case of Angelica』
マノエル・ド・オリヴェイラ『ブロンド少女は過激に美しく』
マノエル・ド・オリヴェイラ『コロンブス 永遠の海』
『夜顔』と『昼顔』、オリヴェイラとブニュエル
マノエル・ド・オリヴェイラ『永遠の語らい』


西川伸一さん講演「戦後19回の都知事選から分析した都民の投票行動の特徴」

2014-03-20 23:48:00 | 関東

西川伸一さん(明治大学)によるアジア記者クラブ主催の講演「戦後19回の都知事選から分析した都民の投票行動の特徴」を聴いた(2014/3/20、明治大学リバティタワー)。

2014年2月19日に行われた東京都知事選は、舛添要一氏が、宇都宮健児細川護熙の両氏を、それぞれほぼダブルスコアで下し、当選した。宇都宮票と細川票を足しても、舛添票にはまだ少し及ばなかった。この過程と結果は、何を意味するのか。

政治学で有名な「ライカー・モデル」という定式がある。有権者が投票行動を取るかどうかの指標であり、それは、自分の投票に意味があるのかという主観、候補者の差、投票の面倒くささ、投票への義務感といった変数で決まっていくとする。

今回、候補者の上位3人は、脱原発や防災の対策において有意な差がなく、争点とならなかった。メディアは舛添圧勝の予想を報道し、投票行動へのモチベーションとならなかったばかりか、「勝ち馬」に乗ろうとする有権者を増やした。選挙当日は大雪で寒く、さらに投票率を引き下げた。また、期日前投票が百万票を超え、なんと全投票数の2割以上にも達した。

すなわち、投票率は必然的に下がり、そのために、組織票が大きな力を発揮した。

西川さんは、過去の都知事選を分析し、さまざまな経験則や、それに基づく「勝利の方程式」を示している。これが非常に面白い。詳しくはここには書けないので、『アジア記者クラブ通信』に掲載される予定の講演録を一読されたい。(>> リンク

●参照
西川伸一講演会「政局を日本政治の特質から視る」
佐々木信夫『都知事』
斎藤貴男『東京を弄んだ男 「空疎な小皇帝」石原慎太郎』


ポール・ブレイ『Homage to Carla』

2014-03-19 23:50:17 | アヴァンギャルド・ジャズ

ポール・ブレイ『Homage to Carla』(OWL、1992年)を聴く。

Paul Bley (p)

タイトル通り、すべて前妻カーラ・ブレイの曲を演奏したソロ・ピアノ集。ヘンタイ・ピアニストがヘンタイの曲を演奏しているわけであり、期待を超えて、カテゴライズなどできない音楽世界を展開したものになっている。

この人の手にかかると、独特の色を持つカーラの曲でさえも、新たにこの世に生まれ出てきたような鮮烈極まりないアウラを放出する。時間だとか、もちろんコードだとか、そういったものだって、その都度、創り出しているような感覚。プロセスは隠されており、同時に明け透けに見せられている。内省的であり、同時に外部に発信されるパフォーマンスである。

嬉しい演奏は、5曲目の「Vashkar」。最近、カーラ・ブレイが『Trios』でも演奏した4分の6拍子の曲だが、ここでは、テンポなどぐしゃぐしゃに解体されてしまっている。そして、曲そのものの美しさに耽溺していて、聴く方は吐きそうにさえなってしまう。聴いたあとは、その残滓だけが脳内にあり、これは何だったのかと思う。

ところで、昨日気が付いたのだが、「Vashkar」は、トニー・ウィリアムス・ライフタイムの名盤『Emergency!』でも演奏されている。もちろん、提示されるイメージはまったく異なるものであって、面白い。

●参照
ポール・ブレイ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Memoirs』
ポール・ブレイ『Solo in Mondsee』
『イマジン・ザ・サウンド』(若いころのブレイが登場)
カーラ・ブレイ+アンディ・シェパード+スティーヴ・スワロウ『Trios』
カーラ・ブレイ+スティーヴ・スワロウ『DUETS』、渋谷毅オーケストラ
アート・ファーマー『Sing Me Softly of the Blues』
スティーヴ・スワロウ『Into the Woodwork』
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2011年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2014年)