Sightsong

自縄自縛日記

ジャカルタのワヤン・パペット博物館

2012-11-27 07:56:08 | 東南アジア

ジャカルタの旧市街にあるワヤン・パペット博物館を覗いた。

もの凄い勢いで館員が飛び出してきて、案内をしてくれた。日本語がどうも微妙で、英語のほうが断然わかりやすかった。そして最後は売店案内、買わなければチップでも良い、というお決まりのコース。

ワヤンとはインドネシアの人形影芝居であり、展示されているパペットも、棒で手などが動かせる作りになっている。そして、大半が『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』を題材にしたものらしい。インドから東南アジアなどへの物語伝播とそれによる異本生成を説いた本、金子量重・坂田貞二・鈴木正祟『ラーマーヤナの宇宙』(春秋社)を、もう一度読んでみなければならない。

また、インドネシア独立(ムルデカ)を題材にした影芝居のパペットもあった。近年、ロッテルダム市から返還されたものだという。インドネシアとオランダとの対決、オランダ側についたインドネシア人と独立側のインドネシア人との対立などの場面があった。ムルデカに参加した旧日本軍兵士の姿はなかった。


ハヌマーン


インドネシア人どうしの対立(左側が「裏切ってオランダ側についた」人々)

●参照
ハヌマーン(1) スリランカの重力
ガネーシャ(1)
ガネーシャ(2) ククリット邸にて
ドーハのイスラム芸術博物館(ムガル帝国時代の『ラーマーヤナ』写本)
中島岳志『インドの時代』(『ラーマーヤナ』は現代のヒンドゥー・ナショナリズムにつながっている)


2012年11月、バリ島とL島とP島

2012-11-27 00:15:41 | 東南アジア

はじめてバリ島に行ってきた。

仕事であるから余裕はない。深夜ホテルに到着し、翌朝早々に、隣りのL島まで船で移動し、さらに乗り換えて宿の前まで移動、またさらに10人乗りくらいのボートに乗り換えてP島まで行く。もう飛沫で背中が水浸し。

P島で空いた時間に立ち寄ったヒンドゥー寺院では、腰巻と腰布を付けないと立ち入ってはならないようだった。ガネーシャなどのヒンドゥー神の横に、観音菩薩が祀られていた。勿論、神仏習合はここだけではない。


バリ島


バリ島の珊瑚


サンダルと麦わら帽子を買った


容赦ない水飛沫


碧い碧い海


L島の珊瑚


ボートの船頭


去ってゆくボートとP島のクソガキ(笑)


P島


P島の山


P島のヒンドゥー寺院


P島のヒンドゥー寺院


P島のヒンドゥー寺院


P島のヒンドゥー寺院


P島のヒンドゥー寺院


ガネーシャ


観音菩薩

※写真はすべて、Pentax MX、M40mmF2.8、Fuji Pro 400

●参照
2012年7月、インドネシアのN島(1) 漁、マングローブ、シダ
2012年7月、インドネシアのN島(2) 海辺
2012年7月、インドネシアのN島(3) 蟹の幾何学、通過儀礼
2012年7月、インドネシアのN島(4) 豚、干魚、鶏
2012年9月、ジャカルタ


リヤドの国立博物館

2012-11-26 23:31:37 | 中東・アフリカ

そんなわけで、ようやく辿りついたリヤドの国立博物館

古代から現代までのサウジアラビアの歴史やイスラム美術が、広大な面積に展示されている。説明板はすべてアラビア語と英語。

イスラム美術だけならカタール・ドーハのイスラム芸術博物館の方が多いのだろうが、こちらはまた別の楽しさがある。


リヤド郊外で発掘された珪化木(石になった木)


アラビア半島に1200-1700年前に棲息したマストドン


紀元前4千年紀の「Standing Stone」


オスマン時代の手紙(!)


3-4世紀のガラスの壺


手書きのクルアーン


手書きのクルアーン


聖なる呪文


11-12世紀の戦士のヘルメット


オスマン兵士の鎧


馬具


刀(いまはイエメンでよくみる)


メッカのジオラマ(精巧!) カーバ神殿が見える


カーバ神殿の扉にかけられていたカーテン


香水の壺(メディナ、13世紀)

サウジアラビアは、20世紀になって油田が発見されるまで、貧しい国であった。博物館には、石油開発の歴史も紹介されている。


開発時に用いた自動車


油井


原油のサンプル

●参照
ドーハの村上隆展とイスラム芸術博物館
2012年11月、リヤドうろうろ
2012年11月、リヤドの朝
リヤドのビルと鍵と扉
保坂修司『サウジアラビア』


2012年11月、リヤドうろうろ

2012-11-26 01:10:54 | 中東・アフリカ

サウジアラビア、リヤド。

少し時間ができて、世界遺産のディライーヤに行こうかとホテルマンに相談すると、どうやら、補修工事中で中に入れないらしい。そんなわけで、国立博物館に行くことに決めた。

ホテルカーが出払っていて、ローカル・タクシーに乗った。パキスタン人だというドライバーは、こちらが日本人だと知ると、そうか、日本は良いクルマを作っているよな、と言って、運転中のクルマのハンドルをぽんぽんと叩いた。そこには、ヒュンダイのマークがあった。

街の中で、Uターンできないから、ここで降りて歩道橋を渡り、あとは皆にミュージアムはどこだと訊けば良い、と、降ろされた。ところが、誰に訊いても、知らないか、熱心にそれぞれ違う場所を教えてくれる。

廃墟があったので写真を撮っていると、男2人がげらげら笑いながら近寄ってきた。握手をして、ところでミュージアムを知っているかと尋ねたところ、その廃墟じゃないことは確かだと言う始末。

結局、1時間くらい彷徨うことになった。実は、このような時間が嫌いではない。


どっちに歩けばいいのか?


路地から路地へ


アパート


アパート


給水タンク


廃墟


廃墟

すべてコンパクトデジカメで撮影

●参照
2012年11月、リヤドの朝
リヤドのビルと鍵と扉
保坂修司『サウジアラビア』


2012年11月、リヤドの朝

2012-11-25 09:21:17 | 中東・アフリカ

先々週、2回目のリヤド。

6時間の時差のせいで眠りが浅く、アザンの声ですぐに眼が醒める。モスクはホテルから目と鼻の先だった。

夏は50℃以上になるが、秋は過ごしやすい気候。


初日の朝


2日目の朝


3日目の朝

すべてコンパクトデジカメで。(あまり写真を撮ってはいけない国なので、銀塩カメラなど持ってくる気にならないのである。)

●参照
リヤドのビルと鍵と扉
保坂修司『サウジアラビア』


ダニー・パン『追凶』

2012-11-25 00:46:48 | 香港

シンガポールからデンパサールに向かうシンガポール航空の機内で、ダニー・パン『追凶』(2012年)を観た。

さほど長距離でもないため、90分強の映画1本がぎりぎりである。いつの機材なのか、座席前の画面は小さく汚い。

刑事(ラウ・チンワン)が、変態的な殺人事件を追う。犯人たちは、孤児院においてかつて自らを抑圧した大人たちをターゲットにしていた。刑事は離婚寸前。しかし、犯人たちは、その刑事の妻子を人質にし、逮捕か、妻子を犠牲にするかを選べと強要する。

監督のダニー・パンは、『バンコック・デンジャラス』を撮ったパン兄弟の双子の弟。

ストーリーにはひねりがなく、教訓めいた結末にも脱力させられる。しかし、暑苦しいケダモノ性が顔の毛穴という毛穴から噴出しているラウ・チンワンの存在のお陰で、何とか映画が成立しているような気がする。

●参照
パン兄弟『バンコック・デンジャラス』
ジョニー・トー『奪命金』(ラウ・チンワン主演)
ジョニー・トー『MAD探偵』(ラウ・チンワン主演)
ジョニー・トー『暗戦/デッドエンド』(ラウ・チンワン主演)
ジョニー・トー『デッドエンド/暗戦リターンズ』(ラウ・チンワン主演)


降旗康男『あなたへ』

2012-11-24 23:54:46 | 中国・四国

シンガポールに向かう機内で、降旗康男『あなたへ』(2012年)を観る。

妻に先立たれた刑務官(高倉健)。残された手紙に従って、富山から、妻の故郷である長崎県まで自動車での旅に出る。

映画のつくりとしては、さほど凝ったものではない。説明過多なところもあり、もう少しスマートに作ってほしかった。

しかし、何と言っても憧れの健さんである。ひとつひとつの立ち居振舞がグッとくる。こんな人になりたいなどと昔から妄想していたが、所詮はキャラ違い、永遠にムリだろうね。

関門海峡を見おろす下関の火の山で、ビートたけし演じる車上荒らしの男と立ち話を交わす場面がある。わたしの故郷の近く、とても懐かしい。男は、「旅と放浪の違い」について語る。目的があるのが旅で、そうでないのが放浪だ、と。また、帰るべき場所があるのが旅で、ないのが放浪だ、と。でも、帰る場所なんて、また新しく作ればいいじゃないですか、と。思わず涙腺がゆるんでしまう。

この映画は、大滝秀治の遺作にもなった。彼の存在感が、もうただごとでない。健さんに加え、大滝秀治だけでも、映画を観る価値がある。やはり凄い俳優だったのだな。


関門大橋(2011年) Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、Velvia 100、DP

●参照
蔵原惟繕『南極物語』
健さんの海外映画
関門海峡と唐戸市場


白石隆『海の帝国』、佐藤百合『経済大国インドネシア』

2012-11-17 23:54:32 | 東南アジア

サウジから香港への帰途、白石隆『海の帝国 アジアをどう考えるか』(中公新書、2000年)を読了した。

19世紀に、ラッフルズという人物がいた。英国東インド会社に所属した、シンガポールの生みの親である。

彼が見抜いたマレー半島やインドネシア島嶼における権力構造は、いくつもの中心からなる「まんだら」システムであった。その中心のひとつがマラッカであり、また、のちにシンガポールとなる地であった。各々の中心には、王がいた。そして、スラウェシ島南部のマカッサル人・ブギス人たちが、海の民として交易活動を活発に行っていた。

これは、国境によって色分けされる近代国家とはまるでパラダイムを異にする。そしてその19世紀、英国自由貿易の時代に、近代国家(リヴァイアサン)が誕生する。資本、資源、労働力の囲い込み、そして搾取は、そこからシステムとして変貌する。

確かに、オランダや英国の東インド会社という「会社国家」がいかなるものか、近代国家観からは理解が難しい。そもそも、国家なる観念が変わってきたわけである。著者の指摘によれば、「マレー人」や「中国人」といったラベリングさえも、居住地を分け人口調査のためにリスト作成を行う過程で、創出されたという。ラベル間の境界がいい加減だったのではない。顔かたちや出自が違おうと何人というラベルなど無意味であったところが、ラベリングそのものが、個人のアイデンティティをも形成していったということだ。

まさに民族という観念も、ナショナリズムも、近代の賜物だということさえできる。これは驚くべきことだ。

ところが、中国になると、事情が異なってくる。古代から、農民支配・土地支配こそが帝国の基礎をなしてきたのだという。これは海の「まんだら」と、そこで行われる商業とは相いれない。著者はこのことをもって、中国の市場経済システムが国としての政治経済システムと整合するか疑問だとしている。確かに、天下国家としての固い支配と緩やかな支配、東部の市場主義と内陸部の投資対象・労働力の源泉など、はたしてこのシステムがうまく永続しうるのか、まだ誰にも断言できないのかもしれない。

本書は19世紀から20世紀にかけての国家システムの変貌をダイナミックに描いている。それに対し、現代のインドネシアの姿は、佐藤百合『経済大国インドネシア 21世紀の成長条件』(中公新書、2011年)に、詳しく描き出されている。

腐敗したスハルト時代(1966~98年)が瓦解し、まさに近代的な新興国として、インドネシアが注目されている。その目玉は、人口ポテンシャル、資源(これは、日本の南進時代から変わっていない)、優秀な経済テクノクラートたち、全方位的な成長戦略などなのだという。

実証的にデータと情報が詰め込まれており、ひとつひとつ、なるほどと納得させられる。面白い。

そんなわけで、明日から、今年3回目のインドネシアへ。 

●参照
早瀬晋三『マンダラ国家から国民国家へ』
中野聡『東南アジア占領と日本人』
後藤乾一『近代日本と東南アジア』
鶴見良行『東南アジアを知る』


松戸清裕『ソ連史』

2012-11-17 10:42:58 | 北アジア・中央アジア

サウジ行きの機内では、松戸清裕『ソ連史』(ちくま新書、2011年)も一気に読んでしまった。

崩壊など文字通り想定外であった巨大国家。しかし、振り返ってみると、その歴史はすっぽりと20世紀のなかに収まっている。国境付の国家という存在がさほど古いものではなく、また、戦争、冷戦、民主化、情報化などにおいて激変する現代にあって、ひとつの国家が未来永劫に続くという大前提自体が間違っているのかもしれない。もちろん、それは、ソ連に限らない。

本書は、これまでの固定観念も突き崩してくれる。

フルシチョフの農業への思い。ソ連が大変な高福祉国家であったこと。スターリン時代から想像するような、がんじがらめの監視社会では決してなかったということ。スターリンは極東の朝鮮民族を中央アジアに強制移住させたが、それは西部のドイツ人の強制移住と同根のものとして視なければならないということ。『チェブラーシカ』にも描かれている、企業の環境政策の遅れが、計画達成至上主義という国家構造と無縁ではなかったこと。ゴルバチョフの改革を契機とする国家崩壊は、長期に渡り蓄積した問題のなだれであったということ。ソ連社会主義が西側を魅了したからこそ(勿論それには情報不足もあっただろうが)、西側は、社会政策を実施し、福祉国家化したという面があったということ。

この国の生い立ち、興隆、衰亡をコンパクトに示してくれる本書を読むと、まるで壮大な歴史に立ち会った気にさせられる。良書である。


ミシェル・フーコー『知の考古学』

2012-11-17 09:35:23 | 思想・文学

サウジ行きの機内で、しばらくの間読み続けていた、ミシェル・フーコー『知の考古学』(河出文庫、原著1969年)を読了。

この膨大なテキストの中から、宇宙論が浮かび上がってくる。文字通りの宇宙論ではなく(本書でも、自らを試す言葉として登場する)、相互に異なるメカニズムを持つパラレルワールドを提示する論である。

さらには、ヨーロッパ的とみなされる統一化・中心化を徹底的に排除しようとする。

フーコーの言う<言説>が個々の宇宙であり、それぞれの宇宙の中では、身振りの常識も、話の展開の常識も、まったく、または微妙に異なっている。宇宙内の構成要素たる<言表>については、フーコーは、最小単位とみなすことを許さない。すいかの種のようなものではなく、形も成り立ちも依拠するものもそれぞれに異なるものなのだ。その意味では、分子のように表現することもあやうい。

植物のイメージが因果関係を表徴するものだとすれば、ここでの宇宙論はまったく植物的ではない。そして、フーコーは、結果的に成立している各々の宇宙たる<言説>同士の差異を見出すことが<考古学>であるとする。フーコー自身もはっきりと否定しているように、フーコーは構造主義的ではないのである。

その意味では、松岡正剛氏による本書評(>> リンク)には違和感を覚える。アーカイヴ(<アルシーヴ>)の奥に潜む構造を重視しているとの見方は、構造主義的に見立てていることに他ならないのではないか。アーカイヴ間を縦横無尽に動き回るとしても、問題とされているのは、アーカイヴの構造ではなく、まるで異なる作り方のアーカイヴが共存している様態なのである。何があるのかないのか、何が連続し断絶しているのか、何と何がリンクしているのか、といった、差異化に向けた働きかけである。

「考古学、それは、諸言説の多様性を縮減したり、諸言説を全体化する統一性を描き出したりすることを目指すのではなく、諸言説の多様性をさまざまに異なる形象のなかに配分することを目指すような、一つの比較分析なのだ。」

また、<言説>は静的なものではなく、常に矛盾を抱え、矛盾を翻訳するとともにそこから逃れるために絶えず続行・再開されるという議論はエキサイティングだ。

「言説は、一方の矛盾から他方の矛盾へと至る道であるということ。つまり、言説が目に見える矛盾を生じさせるのは、言説が自ら隠し持つ矛盾に従うからであるということだ。言説を分析すること、それは、矛盾を消失させ、次いでそれを再び出現させることである。それは、言説における矛盾の作用を示すことである。それは、どのようにして言説が、矛盾を表現したり、矛盾に身体を与えたり、矛盾に束の間の外観を付与したりしうるのかを明示することなのだ。」

『監獄の誕生』が、権力生成のあり様や生政治について描き出した一方で、<パノプティコン>という便利なキーワードを人々に与えたのに対し、本書には特段の便利なキーワードはない。知的ぶった某脳科学者が行っているような、そのようなキーワードを使ってのハッタリが、難しいわけである。しかし、膨大なテキストを通過したあとには、壮大な世界が垣間見えてくるような気にさせられる。

●参照
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』
ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』
ジル・ドゥルーズ『フーコー』
桜井哲夫『フーコー 知と権力』


着陸前が苦手

2012-11-16 07:41:38 | もろもろ

飛行機に乗るのは好きなのだが、着陸前に降下を始める頃の気圧変化が苦手である。何故か、離陸後は何ともない。国内線は割と平気で国際線が要注意なのは、飛行機の高度の違いだろうか。

鼻を指でつまんで息を吹きこむと、両耳の気圧差が解放される。この耳抜きも、体調によってできたりできなかったりする。一度油断して耳が痛くなると、もうあとは無理矢理欠伸をしたり唾を呑みこんだりとひたすら努力を続けるが、なかなかうまくいかない。

昔、はじめて他国に行ったときのこと。ネパールからタイに戻る機内で、突然、飛行機の轟音が聞こえなくなった。何か変事かと吃驚して周りを見たが、きょろきょろしているのは自分だけだった。治す方法も知らず、乗り換えのバンコクでは人の話をほとんど聴きとることができなかった。(しばらくして何気なく欠伸をしたらべきべきべきという音がして開通した。)

今では降下時には先手を打つようにしているので、大ごとには至らないが、それでも悩みである。耳抜き以外にいい方法はないものか。


リヤドが近い


ティムール・ベクマンベトフ『リンカーン/秘密の書』

2012-11-16 01:21:09 | 北米

香港からリヤドに向かう機内で、ティムール・ベクマンベトフ『リンカーン/秘密の書』(2012年)を観た。

19世紀、アメリカ。若き日のエイブラハム・リンカーンは、吸血鬼に母を殺される(勿論、史実とは異なる)。復讐を誓ったリンカーンは、実は吸血鬼がひとりではないことを知り、吸血鬼ハンターとなる。そして南北戦争が勃発、リンカーンが率いる北軍は、吸血鬼の多い南軍を倒していく。

まあ普通に面白い映画ではあるが、何しろストーリーにまったくひねりがないどころか、設定にも話の展開にも相当にムリがある。150年前のこととはいえ、南軍の戦死者を勝手に吸血鬼にしては駄目だろう。フランシス・フォード・コッポラ『ドラキュラ』や、トビー・フーパー『スペースバンパイア』などの吸血鬼映画の足許にも及ばない作品。山本迪夫『血を吸う薔薇』はしょうもなかったが、それでも、手探りの意がギンギンに感じられるだけ、こんなものより遥かにマシだ。

●参照
山本迪夫『血を吸う薔薇』


レオス・カラックス『Holy Moters』

2012-11-16 00:40:48 | ヨーロッパ

香港からの帰途、機内で、レオス・カラックス『Holy Moters』(2012年)を観る。

自分にとっては、『ポンヌフの恋人』(1991年)を日本公開初日に観に行って以来のカラックス作品だ(その後に『ポーラX』があるが、観ていない)。主演はカラックス作品でお馴染みのドニ・ラヴァン、その彼ももう50歳を越している。

オスカー(ラヴァン)は、毎朝、異様に長いリムジンに乗って仕事に出かける。1日のアポイントはぎっしり入っている。仕事とは、何者かに化け、奇妙なシチュエーションでの行動をなすこと。老婆と化して物乞いをしたり、野人と化して墓地の花を喰らいつつ、撮影中のモデルをさらったり(このとき伊福部昭『ゴジラ』のテーマソングが流れる)、死ぬ間際の老人に化け、愛する女性との別れの言葉を交わしたり、奇怪なコスチュームに身を包んでエロチックなダンスをしたり、銀行家を殺して自らもボディーガードたちに射殺されたり。

誰のための、何を目的とした演技なのか、どこまで真なのか、まるで解らないのだ。

しかし、途中でヒントがある。オスカーが、このように言う。昔カメラは大きかった。それが頭より小さくなって、今では撮っているのかどうかすらわからない、と。

撮影という行為、編集という行為、観客が観るという行為、そのような営みが映画というものだとすれば、もはや、撮影のみならず、視線や主体がどのようなものであってもよいのかもしれない。撮影さえしていなくてもよいのかもしれない。視線に晒されなくてもよいのかもしれない。

これは映画という制度を解体せんとする挑発であるとみた。


『Improvised Music New York 1981』

2012-11-11 07:01:15 | アヴァンギャルド・ジャズ

『Improvised Music New York 1981』(MUWorks Records、1981年)。先日、中古盤を入手した。

Derek Bailey (g)
Fred Frith (g)
Sonny Sharrock (g)
John Zorn (horns)
Bill Laswell (b)
Charles K. Noyes (ds)

これでもかと凄い名前が並ぶ。ヨーロッパ・ミーツ・NYといったところだ。もちろんヨーロッパとはデレク・ベイリー

混沌のような演奏の記録だ。その場を想像しようと努めながら聴いていると、淡々として独特の金属音の響きを放つデレク・ベイリーの姿が浮かんでくる。その隣りで、フレッド・フリスソニー・シャーロックがまた奇妙なトライアルを続ける。

時々何か(サックスだけでなく、鳥笛のようなものかもしれない)を吹いて絡んでくるジョン・ゾーンは、まだ活動の初期段階であり、2年後の1983年に、デレク・ベイリーと『Yankees』を出すことになる。また、半引退状態にあったソニー・シャーロックを、ビル・ラズウェルが引っ張り出した時期にもあたる。時代の結節点的なドキュメントなのかもしれない。

もはや30年以上前の音楽であり、当時の先鋭はいまでは安心して聴くことができる記録になってしまっている。しかし、耳を澄ましていると、いろいろな蠢きの音が聴こえてくる。演奏はあっという間に終わってしまい、何度もリピートする破目になる。

●参照
デレク・ベイリー『New Sights, Old Sounds』、『Aida』
デレク・ベイリー+ジョン・ブッチャー+ジノ・ロベール『Scrutables』
ウィレム・ブロイカーが亡くなったので、デレク・ベイリー『Playing for Friends on 5th Street』を観る
デレク・ベイリーvs.サンプリング音源
田中泯+デレク・ベイリー『Mountain Stage』
トニー・ウィリアムス+デレク・ベイリー+ビル・ラズウェル『アルカーナ』
デレク・ベイリー『Standards』
1988年、ベルリンのセシル・テイラー(ベイリー参加)
ジョン・ゾーン『Interzone』 ウィリアム・バロウズへのトリビュートなんて恥かしい
ミッキー・スピレイン、ジョン・ゾーン
『Treasures IV / Avant Garde 1947-1986』(ゾーンの音楽と実験映像)
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(ゾーン参加)


『Number』の「BASEBALL FINAL 2012」特集

2012-11-10 21:45:15 | スポーツ

『Number』(文藝春秋)が、「BASEBALL FINAL 2012」特集を組んでいる。てっきり、毎年のように日本シリーズの特集だと思って楽しみにしていたので、その扱いの小ささに、少しがっかりした。何しろ、ジャイアンツ久しぶりの日本一に興奮していたのだ。

日本シリーズ特集では、ファイターズ栗山監督のことを「ロマンチスト」だと評している。確かにそうに違いない。斎藤祐樹を実力度外視で開幕投手に指名したり、なかなか打てない中田翔を4番に据え続けたり。その結果、斎藤は完投勝利し(活躍は続かなかったが)、中田は何だかただものでないオーラを漂わせるようになっている。シリーズ第6戦、澤村から打った同点スリーランには慄然とした。

先日大阪に足を運んだ際に、駅の売店で、スポーツ報知の「巨人日本一特別号」を買って、モノレールの中で読んだ。当然というべきかヨイショ記事ばかり、何と言うこともない。やはり『Number』の方が断然知的で面白い。

今年のジャイアンツは、何と言っても、途中の松本哲也の復活が嬉しかった。浦安の星・阿部の打撃も凄かった。東野は出番を与えられず(干されていたということか)、シリーズ後にトレードでブレーブス移籍となってしまった。良い球を投げ込むと良い顔をする良い投手で、割と好きだったのだが。

ところで、『Number』では、工藤公康・仁志敏久・田口壮の3人が、WBC日本代表のスタメンを勝手に選んでいる。こういった、プロが語るプロという趣向の記事が『Number』の醍醐味。

それによると、

(投手)
黒田、吉川、前田、岩隈、ダルビッシュ

(野手)
1番レフト 長野
2番センター 青木
3番ショート 坂本
4番キャッチャー 阿部
5番ファースト 中島
6番DH 稲葉
7番ライト 糸井
8番サード 松田
9番セカンド 本多

う~ん。ぜひ松井秀喜をDHで入れてほしい。代打要員に金城と畠山が欲しい。ショートは坂本より鳥谷。

と、勝手に妄想を膨らませてみる。いやあWBC楽しみだな。

●参照
『Number』の「ホークス最強の証明。」特集
『Number』の「決選秘話。」特集
『Number』の清原特集、G+の清原特集番組、『番長日記』
『Number』の野茂特集
WBCの不在に気付く来年の春