Sightsong

自縄自縛日記

コザ暴動プロジェクト in 東京

2016-04-30 06:27:38 | 沖縄

1970年12月20日深夜に、コザ市(現・沖縄市)において、米兵が沖縄人をクルマで轢いた。集まってきた人たちに対し米軍警察が威嚇発砲し、それまで鬱積していた沖縄人の怒りが弾けた。人びとは米軍人のクルマを次々にひっくり返し、火を放った。いわゆる「コザ暴動」である。

そのときから45年以上が経ち、「コザ暴動」を振り返るプロジェクトが、「コザ暴動プロジェクト in 東京」(2016/4/29、主催・明治大学「島しょ文化研究所」)として行われた。

■ 「コザ暴動」写真展

比嘉康雄、平良孝七、國吉和夫、比嘉豊光、松村久美、吉岡功、大城弘明、山城博明の各氏により撮影された「コザ暴動」。プリントはインクジェットプリンターでなされた簡易なものだった。事件の大きさゆえ、誰が撮っても似たようなものになるのかなと思いながら観ていたが、個性はそれぞれに出ている。「暴動」の最中に撮られたものは少なく(故・比嘉康雄ら)、むしろ、明け方、「暴動」の後に撮られた作品が多い。夜中に駆けつけられなかったという理由もあるだろうが、一方、この後のシンポジウムで松村久美氏が発言したように、顔を撮ってはならぬという圧力もあったのだった。故・平良孝七による写真にはユーモアのようなものがあった。

■ シンポジウム第1部「写真に映し出されたコザ暴動」

パネラー:國吉和夫(写真家)、小橋川共男(写真家)、松村久美(写真家)、倉石信乃(明治大学)、比嘉豊光(写真家、コーディネーター)

最初に、現場で怒りを爆発させる沖縄人の声(ラジオ沖縄)、「暴動」の映像(琉球放送)が流された。後者から聞こえてくる、機動隊も沖縄人だろう・沖縄人の味方をしろとの声には、まさに辺野古で行われている抑圧と同じ構造があった。さらに、映像を観ながら、会場での「うちなーぐち」による対話があり(わたしにはまったく解らない)、これはトークの最初に意図的に「うちなーぐち」を混ぜたことを含め、比嘉豊光氏の意図的な仕掛けのように思われた。

比嘉氏によれば、昨年(2015年)、沖縄において「戦後70年・沖縄写真 まぶいぐみ」というスタンスや世代の違いを超えた写真展を行い、撮った側と観る側との共有、歴史の記録・記憶が重要だと考えたことが、今回のプロジェクトの背景にあるのだという。そして、当時「暴動」を撮った写真家たちは皆若く、結果として場所と時代との共有になっているのだ、と。

各氏の発言により、次のようなことがわかる。

「暴動」前日の12月19日には、市内の美里中学校で「毒ガス即時完全撤去を要求する県民大会」が行われた(前年の1969年に、米軍基地の知花弾薬庫から毒ガスが漏れる事故があった。>> 森口豁『毒ガスは去ったが』)。その取材のために多くのジャーナリストや写真家が参加し、コザや那覇にいた。もちろん、戦後25年経っても、沖縄を下に見るアメリカの存在や、多発し続ける米兵の凶悪犯罪に対し、人々の怒りが鬱積していた。起こるべくして起こった事件であった。

人びとは、建物に延焼しないようクルマを道の真ん中でひっくり返した。対象は、あくまで米軍なのであり、その観点で焼き討ちするべきクルマを選び、また略奪など関係のない暴力行為は一切起きなかった。「暴動」に直接参加した人も、遠巻きに見ていた人も、火の海の中で、罰が当たったのだというような満足感を顔に出し、顔が輝いていた。指笛を吹き、カチャーシーを踊っている人も少なくなかった。米兵や米軍警察は、次の段階に備えて銃を水平に構え、実弾を装着していた。米軍ヘリは目が開けられないほどの強いサーチライトを人びとに当て、催涙ガスも使った。明け方になり顔が識別できるようになってくると、人びとは去っていった。

倉石氏が、写真と沖縄との関係について発言した。明治の上杉茂憲(沖縄県令)や大正期の鎌倉芳太郎(紅型等の研究者)が撮った沖縄は、ヤマトが観る文化財としての対象であった。戦前に木村伊兵衛が沖縄を撮ったときの視点は、観光や技法解説といったものであり、植民地・満州に向けられた視線と同じであった。戦後、岡本太郎、濱谷浩、再び木村伊兵衛らが沖縄を撮る(山田實らによる組織が、「本土の大家」の受け皿となった。>>『山田實が見た戦後沖縄』)。依然として、沖縄は被写体としての立場を強いられていた。こういった視線の起点は、ペリーによる沖縄の踏査(ダゲレオタイピストや素描家を伴っていた)、すなわち植民地に向けられる目線にさかのぼることができる。一方、「コザ暴動」の写真には、ヤマトとの非対称性が見られず、一時的に写真家の権力構造がフラットになったことによる解放感が感じられるのだ、と。

比嘉氏は、写真を通じてのヤマトの沖縄収奪に関して、それを共有しながら現場に「戻す」作業が必要なのだと発言した。それに呼応して、松村氏、國吉氏が、自分たちの死後には、遺された者たちにとってフィルムが「ゴミ」になることを懸念し、しかるべきところに収めてゆくことの大事さを語った。

「文化植民地化」に関して、倉石氏がさほど悲観すべきではない若い沖縄の存在として挙げた例として、次の名前があった。石川竜一(>> 木村伊兵衛賞受賞)。ミヤギフトシ(「六本木クロッシング2016展」に出展中)。山城知佳子(「沖縄・プリズム1872-2008」では、自ら海のアーサに絡みつかれていた)。根間智子。かれらの作品は、「本土」を媒介せず、沖縄から自律的につくられたものだという。

会場からは、当時の沖縄において、黒人兵士が反戦のビラを日・英2か国語で撒いていたという証言があった。

■ シンポジウム第2部「コザ暴動から見る沖縄の現在と日本」

パネラー:比屋根照夫(琉球大学)、今郁義(映像ディレクター)、金平茂紀(TBSキャスター)、川端俊一(朝日新聞)、後田多敦(神奈川大学、コーディネーター)、外間氏(「コザ暴動」に居合わせた方)

まさに交通事故のあと、今氏(映画『モトシンカカランヌー』の製作や全軍労スト支援のため沖縄入りしていた)が、クルマから米兵を引っ張り出そうとしていた。そこに居合わせた方が、急遽登壇した外間氏である。氏は、米軍警察が上に向けて威嚇射撃したあとに、向こう側で米兵が銃を水平に向けて撃つ準備をしていたのを目撃している。外間氏は、会場に向けて、「皆さんに問題提起します。(問題の構造は)あのころから変わっていません」と呼びかけた。

川端氏は、昨年(2015年)、朝日新聞夕刊において「新聞と9条 沖縄から」の連載を執筆した方である。氏によれば、当時、米兵による交通事故(「轢殺事件」)が頻発しており、「コザ暴動」の前にも、米軍警察を遠巻きにした人びとからの投石などもあった。糸満で主婦が轢き殺されたにも関わらずそれを犯した米兵は無罪となり、琉球新報でも、その実態を報じる連載を「暴動」2日前にはじめたばかりであった。やはり、起こるべくして起こった事件なのだった。本来は、自分の身に危害が及ぶ場合でなければ民間人に発砲してはならないという米軍のルールがあったにも関わらず、「暴動」を抑えるために、米兵は実弾を装填した。米兵は沖縄人を人間以下の存在として扱っていた。

当時大学院生の比屋根氏にとっても、「ひたひたと世の中が変わる足音があった」という。その現象として、「暴動」のあと、バスに米兵が乗ってくるとき、指でピースサインを作っていたり、あるいはコザの黒人街にベ平連の事務所があって連帯のメッセージを発信していたり(第1部で会場から紹介のあった事例)、ということがあったという。

アメリカ大統領選の取材のためワシントンDCに居る金平氏は、スカイプで参加した。氏が強調したのは本土メディアの劣化のひどさであり、沖縄の米軍基地問題はもう終わったものとする風潮や(「あそこはもうしょうがないんですよ」と切り捨てる)、霞が関・永田町目線となってしまう政治部の体質についてであった。氏は、1995年の米兵による少女暴行事件のことや、当初は「県内移設」という考えなどなかったことを、メディアが本来は触れるべきであるのにそうしないことを指摘した(その意味で、金平氏も、外間氏も、「普天間移設」ではなく、正しく「辺野古の新基地建設」と表現していた)。氏によれば、アメリカ人に沖縄のことを考える視線は無く、トランプに至っては、アメリカの同盟国は恩返しをしろと発言する始末。それに直接的・間接的に同調する東京の人が、現在と構造のまったく変わらない「コザ暴動」をどう受け止めるかが重要なのだとした。

呼応して、川端氏は、「沖縄に米軍基地がある」「米軍基地が東アジアの安定に寄与している」という前提をこそ、メディアが問い直すべきではないのかと発言した。そして、メディアにおいてもっとも怖いものは、自らの「忖度」である、と。

後田多氏は、沖縄が今でも植民地であること、コザ暴動の相手は実はヤマトであったのだと指摘した。

そして、ふたたび比嘉豊光氏が、この写真展とシンポジウムを「見てくれてありがとう」ではなく、「あなたがたは何を引き取るのか」という問いが重要なのだと発言した。

大阪でも、この10月頃に写真展を企画しているという。

終わってから、会場にいらしていた森口豁さんにご挨拶した。前日に上映された森口氏のドキュメンタリー『かたき土を破りて』には、本シンポジウムの冒頭で流された琉球放送の映像よりもさらに前の様子が撮られていたという(『沖縄 こころの軌跡 1958~1987』に書かれているように、氏はそこに立ちあっている)。

森口氏の関連イベントは以下の通り。

●『~沖縄を語り続けるヤマトンチュ~ 森口豁トークショウ Vol.2』(『島分け・沖縄 鳩間島哀史』1982年、『ひめゆり戦史・いま問う国家と教育』1979年の上映あり): 国立市キノ・キュッヘ(木乃久兵衛)、2016/5/15(日)16:00
●『沖縄の傷痕 アメリカ世の記憶 森口豁×金城実』: 沖縄愛楽園交流会館、2016/4/15-6/30
●『伝えたい!沖縄の今 作家・目取真俊講演会』: 浦和コミュニティセンター、2016/6/5(日)18:45

シンポジウムに参加したNさん(沖縄オルタナティブメディア)、Tさん(研究者)と、神保町で飲んで帰った。

●参照
比嘉豊光『赤いゴーヤー』(「コザ暴動」の写真を所収)
三上寛『YAMAMOTO』(「十九の春」において「コザ暴動!コザ暴動!」と叫ぶ)
森崎東『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』(主人公たちは「コザ暴動」を経験している)
高嶺剛『夢幻琉球・つるヘンリー』 けだるいクロスボーダー(「コザ暴動」のエピソードが入っている)
比嘉豊光『光るナナムイの神々』『骨の戦世』
仲里効『眼は巡歴する』
仲里効『フォトネシア』


グレッチェン・パーラトの映像『Poland 2013』

2016-04-29 11:04:09 | アヴァンギャルド・ジャズ

グレッチェン・パーラトのDVD『Poland 2013』を観る。(御茶ノ水のJANISで500円で発見した。)

Gretchen Parlato (vo, perc)
Alan Hampton (b, g, vo)
Aaron Parks (p)
Mark Guiliana (ds)

マーク・ジュリアナ(グレッチェンの夫)のドラムスが目当てだったのではあるが、グレッチェンのヴォイスに惹かれる。パーカッションを鳴らしながら歌うリズム感が抜群で、声も囁くようでありながら、決して脱力しているわけではなく、実に繊細。しかも、ハービー・ハンコックの「Butterfly」やウェイン・ショーターの「Juju」までさらりと自分流にしてしまったりして。

スタンダードの「Like Someone in Love」も素敵なのだが、これはアーロン・パークスのピアノとのデュオであり、やはりジュリアナとの共演のほうが嬉しい。そんなわけで、ジュリアナのドラムスが決してデジタル的イケイケなどではなく、歌伴もとても巧いことを発見したのだった。

●参照
マーク・ジュリアナ@Cotton Club(2016年)
デイヴィッド・ボウイ『★』(2015年)(マーク・ジュリアナ参加)
ダニー・マッキャスリン@55 Bar(2015年)(マーク・ジュリアナ参加)
マーク・ジュリアナ『Family First』(2015年) 
ダニー・マッキャスリン『Fast Future』(2014年)(マーク・ジュリアナ参加)
ダニー・マッキャスリン『Casting for Gravity』(2012年)(マーク・ジュリアナ参加)
アンブローズ・アキンムシーレ『Prelude』(2008年)(アーロン・パークス参加)


セシル・テイラー『Live at the Cafe Montmartre』

2016-04-29 09:13:50 | アヴァンギャルド・ジャズ

セシル・テイラー『Live at the Cafe Montmartre』(Debut、1962年)をあらためて聴く。

Cecil Taylor (p)
Jimmy Lions (as)
Sunny Murray (ds)

これが録音されてからもう50年以上が経っているわけだが、いまだに、鮮烈さとオリジナリティとがどうしようもなく残っている。セシル・テイラーによるクリスタルの大伽藍に接すると、その鮮やかさに加え、知的体力と持続力とに圧倒されてしまう。耳を傾けるともはや音から耳をひき剥がすことが困難になり、ひたすら動悸を覚えながら聴き続けなければならなくなる、という・・・。

サニー・マレイのシンバルを多用したパルスも素晴らしい。かれはどのようにこのスタイルに到達したのだろう。そして、ジミー・ライオンズのプレイに、実はバップの尻尾が見え隠れすることも再発見だった。

●セシル・テイラー
セシル・テイラー+田中泯@草月ホール(2013年)
ドミニク・デュヴァル セシル・テイラーとの『The Last Dance』(2003年)
セシル・テイラー+ビル・ディクソン+トニー・オクスレー(2002年)
セシル・テイラーの映像『Burning Poles』(1991年)
セシル・テイラー『The Tree of Life』(1991年)
セシル・テイラー『In Florescence』(1989年)
1988年、ベルリンのセシル・テイラー
イマジン・ザ・サウンド(1981年)
セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット(1979~1986年)
セシル・テイラー『Michigan State University, April 15th 1976』(1976年)
セシル・テイラー『Dark to Themselves』、『Aの第2幕』(1969年、76年)
ザ・ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ(1968年)
セシル・テイラー初期作品群(1950年代後半~60年代初頭)


渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン

2016-04-29 07:40:07 | アヴァンギャルド・ジャズ

新宿の模索舎で本を買って、もう仕事でヘトヘトだしナルシスかゴールデン街のシラムレンか裏窓にでも行ってゆっくり酒を飲もうかと思っていたのだが、そういえば渋オケの日。それなのに新宿ピットインの横を通り過ぎるのは人の道に背くことである。そんなわけで、耐えられず、2年ぶりの渋オケ。

渋谷毅 (p, org)
峰厚介 (ts)
松風鉱一 (bs, as, fl)
林栄一 (as)
津上研太 (as)
青木タイセイ (tb)
石渡明廣 (g)
上村勝正 (b)
外山明 (ds)

入るとちょうど「Side Slip」(石渡)が始まったばかりで、松風さんがバリトンを吹いていた。上村さんは既に前傾姿勢でノリノリのベースで煽っていて、もはや川端民生時代とは違うバンドとなっている。そのことはドラムスの外山さんにも言うことができて、この確信犯的変拍子が、古澤良治郎時代とは違う強烈な色をオケに付けている。

そのあとは、「Ballad」(石渡)。林さんのアルトの音圧と外れっぷりに威圧される「Reactionary Tango」(カーラ・ブレイ)、津上さんの透徹するソプラノがいい「Three Views Of A Secret」(ジャコ・パストリアス)、「Chelsea Bridge」(ビリー・ストレイホーン)、そしてディキシーランドの「Jazz Me Blues」。

そもそも20代のころに渋オケを聴いたショックがあって、その勢いで、松風さんに師事したのだった(何にもならなかったが)。当時よりも個々の迫力が増して、いまや誰もが躊躇うことなく全力で剛球を投げ込むという怖ろしいグループになっている。そんなわけで、松風さんにご挨拶をするとまた旅の話。

セカンドセットは、ちょっと珍しいデューク・エリントンの曲「Sonnet for Sister Kate」と「Such Sweet Thunder」からはじまり、「もはやちがう町」(石渡)。次の「Brother」(林)においてようやく渋谷さんは立ってカッチョいいオルガンを弾き、松風さんのフルートソロも素晴らしかった。それから、「Soon I Will Be Done With The Trouble Of The World」(カーラ・ブレイ)、ユニークさゆえ皆がニヤニヤしてプレイする「Aita's Country Life」(松風)、「A New Hymn」(カーラ・ブレイ)、最後は渋谷さんのピアノソロで「Lotus Blossom」(ビリー・ストレイホーン)で締めくくるいつものやり方。

いつも同じなのにいつも違う渋オケ。疲れとストレスとがどこかに消えた。

●参照
渋谷毅@裏窓(2016年)
渋谷毅エッセンシャル・エリントン@新宿ピットイン(2015年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2014年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2011年)
渋谷毅+津上研太@ディスクユニオン(2011年)
渋谷毅+川端民生『蝶々在中』
カーラ・ブレイ+スティーヴ・スワロウ『DUETS』、渋谷毅オーケストラ
渋谷毅のソロピアノ2枚
見上げてごらん夜の星を
浅川マキ『Maki Asakawa』
浅川マキの新旧オフィシャル本
『浅川マキがいた頃 東京アンダーグラウンド -bootlegg- 』
『ちょっと長い関係のブルース 君は浅川マキを聴いたか』
浅川マキが亡くなった(2010年)
浅川マキ DARKNESS完結
ハン・ベニンク キヤノン50mm/f1.8(浅川マキとの共演、2002年)
浅川マキ『闇の中に置き去りにして』(1998年)
浅川マキ『アメリカの夜』(1986年)
浅川マキ+渋谷毅『ちょっと長い関係のブルース』(1985年)
浅川マキ『幻の男たち』 1984年の映像
浅川マキ『ふと、或る夜、生き物みたいに歩いているので、演奏家たちのOKをもらった』(1980年)
オルトフォンのカートリッジに交換した(『ふと、或る夜、生き物みたいに歩いているので、演奏者たちのOKをもらった』、1980年)
『恐怖劇場アンバランス』の「夜が明けたら」、浅川マキ(1973年)
宮澤昭『野百合』


ジミー・ライオンズ『Push Pull』

2016-04-27 23:14:32 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジミー・ライオンズ『Push Pull』(Hat Hut Records、1978年)を聴く。

Jimmy Lyons (as)
Karen Borca (basoon)
Hayes Burnett (b)
Munner Bernard Fennell (cello)
Roger Blank (ds)

ファゴット、ベース、チェロが参加していて、特に気の利いたアンサンブルに沿うでもなく、皆が自由意思で演奏している。従って、遊泳可能な広がりを持つヴァーチャルな空間が生じているのではなく、どちらかというと低音のグチョグチョした沼だ。

そんな中でジミー・ライオンズがひたすらアルトを吹く。艶やかで激しいが、我を忘れて破裂することはなく、統制が取れてダンディな感じである。独特の美意識に彩られているような気がして、ライオンズのアルトは好きなのだ。

●ジミー・ライオンズ
セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット(1979-86年)
セシル・テイラー『Michigan State University, April 15th 1976』(1976年)
セシル・テイラー『Dark to Themselves』、『Aの第2幕』(1969、76年)
ザ・ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ(1968年)
セシル・テイラー初期作品群(1956-62年)


ウィリアム・サローヤン『僕の名はアラム』

2016-04-27 22:21:04 | 北米

ウィリアム・サローヤン『僕の名はアラム』(新潮文庫、原著1940年)を読む。

ここには、極めてヘンな大人たちばかりが登場する。妙に堂々として、妙に自信満々に我が道をゆき、それ以外の自分になることなどできるわけがない人たち。現代の日本であれば、確実に共同体から排除されているであろう人たち。

ところが、サローヤンは、主人公の子どもアラムの目を通して、かれらを実に温かく描いている。共同体から排除されるどころか、共同体を、ヘンな人の集合体としてとらえているとしか思えないのである。アラムの言動も相当におかしい。面白くて腹筋が痙攣してくる。

これを読んでいると、誰もが、ああ自分にも恥ずかしくて消してしまいたい記憶がある、などと思い出してしまうに違いない。いや、穴があったら入りたい(何が)。

サローヤンも、ここに登場する人物たちも、アルメニアからアメリカに流れ着いてきた移民の血をひいている。1915年には、オスマン帝国政府によるアルメニア人大虐殺という事件が起きているわけだが、それを直接体験していなくても、それぞれが抱えているものはいろいろな形で影を落としていたり、人格形成になんらかの影響を及ぼしたりしていたのかもしれない。この小説も、「アメリカ」も、そのことを抜きには語れない。

●参照
ホイットニー美術館の「America is Hard to See」展(アルメニア人大虐殺(1915年)によって母親を失ったアーシル・ゴーキー)
カーソン・マッカラーズ『結婚式のメンバー』(村上柴田翻訳堂)


ポール・ブレイ『Barrage』

2016-04-26 07:36:55 | アヴァンギャルド・ジャズ

ポール・ブレイ『Barrage』(ESP、1964年)を聴く。

Marshall Allen (as)
Paul Bley (p)
Milford Graves (perc)
Dewey Johnson (tp)
Eddie Gomez (b)

短いテーマらしきもののあと、マーシャル・アレンのアルトが前面に傾奇ながら出てきて、引っ掻くような音にてジャンプする旋律のソロを取る。続いてデューイ・ジョンソン、勢いはよかったが最後は萎むようにソロを終えて、そしてポール・ブレイ。最初のところから強引にテンションが引き上げられてしまう。

このセッションのちょっと前、『Complete Savoy Sessions 1962-63』でもそうだったのだが、ブレイは既に30歳そこらで強靭なる自身と化しており、美しいフレーズで腐敗手前のあやうさを見せる。こんな暴力的な面々と一緒にプレイしながら、随所で妖しくエロチックに光るピアノが介入してくる。

どうしようもなく目立つ存在がミルフォード・グレイヴスであり、かれのパーカッションは原始の祝祭のように荒い。おそらくは身体を大きく揺らしながら発せられる不定形のパルスが、聴く者のボディをあらゆる方向から叩き、脳蓋を揺さぶり続ける。

●参照
ポール・ブレイ『Solo in Mondsee』(2001年)
ポール・ブレイ『Homage to Carla』(1992年)
ポール・ブレイ『Plays Carla Bley』(1991年)
ポール・ブレイ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Memoirs』(1990年)
イマジン・ザ・サウンド(1981年)(ポール・ブレイ参加)
ポール・ブレイ『Complete Savoy Sessions 1962-63』(1962-63年)
アレン/ドレイク/ジョーダン/パーカー/シルヴァ『The All-Star Game』(2000年)
サン・ラの映像『Sun Ra: A Joyful Noise』(1980年)(マーシャル・アレン参加)
ロヴァ・サクソフォン・カルテットとジョン・コルトレーンの『Ascension』(1965、95年)(デューイ・ジョンソン参加)
ミルフォード・グレイヴス+ビル・ラズウェル『Space / Time * Redemption』(2013年)
デイヴィッド・マレイ『Saxophone Man』(2008、10年)(ミルフォード・グレイヴス参加)
ブラクストン、グレイヴス、パーカー『Beyond Quantum』(2008年)
ローウェル・デヴィッドソン(1965年)(ミルフォード・グレイヴス参加)
『Tribute to John Coltrane』(1987年)(エディ・ゴメス参加)
アルバート・マンゲルスドルフ『A Jazz Tune I Hope』、リー・コニッツとの『Art of the Duo』(1978、83年)(エディ・ゴメス参加)


トマ・フジワラ+ベン・ゴールドバーグ+メアリー・ハルヴァーソン『The Out Louds』

2016-04-25 22:45:23 | アヴァンギャルド・ジャズ

トマ・フジワラ+ベン・ゴールドバーグ+メアリー・ハルヴァーソン『The Out Louds』(Relative Pitch Records、2014年)を聴く。

Tomas Fujiwara (ds)
Ben Goldberg (cl)
Mary Halvorson (g)

誰も音楽を前へと駆動させようとしていない。確かに時間は進んでいるのだが、メアリー・ハルヴァーソンのギターが時間も空間も歪めていて、落とし穴があったりドーナツのような構造があったりして、気が付くと逆走していたり前と同じところを歩いていたり。ゴールドバーグとハルヴァーソンが追い抜き合いッコをしてみたり。みんな静かに狂っている。

トマ・フジワラのドラムスも、時間を刻むことをハナから放棄しているように聴こえる。それにしても、磁石でひゅっぺたっとくっつくようなかれのドラムスは快感。

●トマ・フジワラ
トマ・フジワラ『Variable Bets』(2014年)
Ideal Bread『Beating the Teens / Songs of Steve Lacy』(2014年)

●メアリー・ハルヴァーソン
イングリッド・ラブロック、メアリー・ハルヴァーソン、クリス・デイヴィス、マット・マネリ @The Stone(2014年)
メアリー・ハルヴァーソン『Meltframe』(2014年)
アンソニー・ブラクストン『Ao Vivo Jazz Na Fabrica』(2014年)
イングリッド・ラブロック(Anti-House)『Roulette of the Cradle』(2014年)
『Plymouth』(2014年)
トム・レイニー『Hotel Grief』(2013年)
チェス・スミス『International Hoohah』(2012年)
イングリッド・ラブロック(Anti-House)『Strong Place』(2012年)
イングリッド・ラブロック『Zurich Concert』(2011年)
メアリー・ハルヴァーソン『Thumbscrew』(2013年)
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Mechanical Malfunction』(2012年)
ステファン・クランプ+メアリー・ハルヴァーソン『Super Eight』(2011年)
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Electric Fruit』(2009年)
アンソニー・ブラクストン『Trio (Victoriaville) 2007』、『Quartet (Mestre) 2008』(2007、08年)


宮城大蔵、渡辺豪『普天間・辺野古 歪められた二〇年』

2016-04-24 23:56:49 | 沖縄

宮城大蔵、渡辺豪『普天間・辺野古 歪められた二〇年』(集英社新書、2016年)を読む。

1996年の日米SACO合意によって、普天間の返還はいつの間にか辺野古新基地建設とパッケージにされてしまったわけだが、実は、それさえも最初の形から極めて変質していた。その変質は、橋本首相が大田知事にサプライズで合意を迫ったときの曖昧さから、必然であったように思えてくる。

橋本首相は、大田知事に突然の電話をかけて、普天間返還を伝えるとともに、隣にいたモンデール大使に電話を替わり、そのモンデール大使が大田知事に対して「県内移設を条件として」と説明したのだと回顧している。しかし、それは「アメリカ」をだしにした虚構であった可能性があるという。この構造は、民主党政権時代にも過剰に機能した。

さらに、その「代替施設」も「ヘリパッド」に過ぎなかった。それが20年経った今では、機能を大幅に強化した辺野古新基地の建設強行に変貌している。過剰な政治化がもたらした歪みそのものだ。その暴力的な手法に抗して、沖縄の「民意」は逆に基地反対に収斂せざるをえなかった。

著者は次のように書いている。「後世、「なぜあのような愚策を」と指弾されることが避けがたい辺野古での「現行案」に対するあまりに近視眼的な執着」と。

●参照
渡辺豪『「アメとムチ」の構図』
渡辺豪『国策のまちおこし 嘉手納からの報告』
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
前泊博盛『沖縄と米軍基地』
琉球新報『普天間移設 日米の深層』
琉球新報『ひずみの構造―基地と沖縄経済』
宮城康博・屋良朝博『普天間を封鎖した4日間』
大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』
新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』
新崎盛暉『沖縄現代史』、シンポジウム『アジアの中で沖縄現代史を問い直す』
櫻澤誠『沖縄現代史』
由井晶子『沖縄 アリは象に挑む』
ガバン・マコーマック+乗松聡子『沖縄の<怒>』
いま、沖縄「問題」を考える ~ 『沖縄の<怒>』刊行記念シンポ
林博史『暴力と差別としての米軍基地』
沖縄タイムス中部支社編集部『基地で働く』
高野孟『沖縄に海兵隊はいらない!』
高橋哲哉『沖縄の米軍基地 「県外移設」を考える』
エンリコ・パレンティ+トーマス・ファツィ『誰も知らない基地のこと』
押しつけられた常識を覆す
『世界』の「普天間移設問題の真実」特集
浦島悦子『名護の選択』
浦島悦子『島の未来へ』


ザイ・クーニン『オンバ・ヒタム』@オオタファインアーツ

2016-04-23 22:12:29 | 東南アジア

六本木のオオタファインアーツに足を運び、シンガポール作家ザイ・クーニンの個展『オンバ・ヒタム』を観る。

「オンバ・ヒタム」とはマレー語で黒潮を意味する。今回の個展のためにザイ・クーニン氏本人が寄せた文によれば、「黒潮」という言葉をはじめて聞いたのは、音楽家の齋藤徹さんからであったという。そのこともあって、作家が思いを馳せる南シナ海のリアウ諸島は、アジアの海の流れに位置付けられてゆく。

ここに展示された作品群は、紙に染み込んだ海に見える。さまざまな濃さの墨や赤が、重なり合って、浸食しあっている。それはバクテリアの海にも、島の人が夜中に覗き込む海にも、毛細血管にも見える。絵の具の中には筆の毛が残ってしまっていて、自然と共生する人間の痕跡にも思えてくる。想像が海流にのってどこかへと漂流してゆく。

人好きのするザイ・クーニン氏と話した。齋藤徹さんのことを特別な存在だと言う。テツさんはいまヨーロッパに行っており、すれ違いなんだねと言ったところ、いやわたしもヨーロッパに行くんだ、と。会場にはあばら骨のような船のインスタレーションが展示されていたのだが、氏によれば、来年のヴェネチア・ビエンナーレでは、数十メートルものそれを展示する計画だという。それはぜひ、観てみたいものである。

やがて、氏は座ってギター演奏を始めた。ポツンポツンと弾く懐かしいような旋律、そして、唸るような低音の声。素晴らしかった。

氏の文章にはこのようにもある。「南シナ海は日本とリアウとの間を結ぶものと言えるかもしれず、私はいつも人生のプロジェクト、またはアートプロジェクトとして、船で沖縄まで航海する可能性について思案してきた」と。蔡國強(ツァイ・グォチャン)は、福建省からペルシャ湾までの海上の道を夢想し、それをドーハに形作った(ドーハの蔡國強「saraab」展)。海の道はアジアのアーティストを刺激してやまないものかもしれない。

ザイ・クーニン+大友良英+ディクソン・ディー『Book from Hell』にサインをいただいた

Nikon P7800


沖大幹『水の未来』

2016-04-21 22:22:36 | 環境・自然

沖大幹『水の未来ーグローバルリスクと日本』(岩波新書、2016年)を読む。

気候変動の分野では「カーボンフットプリント」という概念がある。何かの人間活動それぞれについて、そのためにどれだけの温室効果ガスが排出されたかという手法であり、それなりに有用な手法と評価されている。温室効果ガスは世界のどこで出ても同等であるからだ。

本書で紹介される概念は、これと似た「ウォーターフットプリント」。話はカーボンほど簡単ではない。量も質も扱わなければならず、その重要さや影響度は場所や条件によってまったく違うからである。ただ、その結果を見せられるととても興味深いことがいろいろと見えてくる。

たとえば、食料自給率の低い日本は、大量の食料を輸入しているわけだが、それは、食料生産のために費やされた水も同時に輸入してきていることに他ならない。著者はそのことをもって、大資本や市場の機能を単純に否とはしない。それは、事実や分析結果をもって議論や政策決定が行われるべきだということを大前提としている。

●参照
米本昌平『地球変動のポリティクス 温暖化という脅威』(本書で引用)


エグベルト・ジスモンチ@練馬文化センター

2016-04-21 07:16:58 | 中南米

練馬文化センターで、エグベルト・ジスモンチのソロライヴを観る(2016/4/20)。はじめの計画ではナナ・ヴァスコンセロスとのデュオであったところ、かれが急逝し、ジスモンチひとりだけになったという経緯があった。残念ではあるが、ならば代役は不要である。

Egberto Gismonti (g, p, 笙, fl)

冒頭に、笙によるシンセサイザーのような音の重なりを展開し、驚かされた。その後、ファーストセットは、ギター中心の演奏。

かれのギターは、繊細極まりない副旋律に力強い主旋律をかぶせていく。耳はふたつの物語を同時に追っていくのだが、一方、ノッてくるとそのふたつの旋律・物語が驚くほど有機的に絡み合い、そのままどこかに連れていかれるような感覚があった。ギターはときに軋み、ときにベースの働きもし、ときにナナのパーカッションが降りてきたりもした。メロディとリズムとが同列にあった。

フルートも吹いた。構造が工夫されたもののようで、倍音が出てきて、ギターに馴れた耳にとっては刺激剤だった。

セカンドセットはピアノ。ギター以上に、小さな小さな音を大事にする演奏であり、皆は息を呑んでかれを見つめていた。愉しげに転調を繰り返すピースもあり、また、「Silence」など故チャーリー・ヘイデンのナンバーも聴こえてきた。悼む友人は、ナナだけではないのだった。

そして最後の曲では、画面にスクリーンが降りてきて、そこに投影されたヴァーチャル・ナナとの共演。やり過ぎかと思ったのだが、それはまずいものになりようがなくて、胸にぐっとくるものがあった。


ネイト・ウーリー+ケン・ヴァンダーマーク『East by Northwest』、『All Directions Home』

2016-04-18 23:11:27 | アヴァンギャルド・ジャズ

ネイト・ウーリー+ケン・ヴァンダーマーク『All Directions Home』(Audio Graphic Records、2015年)を聴く。

Nate Wooley (tp)
Ken Vandermark (B♭ cl, bcl, ts, bs)

クラ2本にサックス2本、音域が幅広く、堂々として押し出しの強いケン・ヴァンダーマーク。立派でいて、ケレン味があるのかないのかよくわからないのだが、とにかくヘンな音も含めて重い球を投げ込んでくる。まるでヤンキースの「ロケット」ことロジャー・クレメンスである。

それに対して、地面すれすれを浮いているようなイメージを抱かせるネイト・ウーリー。地球への引っ張られ方がヴァンダーマークとずいぶん違うのではないのか。

そんなわけで、この対照的にも思えるふたりのデュオは聴けば聴くほど味が出てくる。いや、面白いな。前作『East by Northwest』(Audio Graphic Records)は、まるでふたりの間合いと技の探り合いで、それはそれで面白かったのだが、音のあちこちのキャラが立っている新作のほうが好みである。

Nate Wooley (tp)
Ken Vandermark (cl, ts, bs)

●参照
ネイト・ウーリー『(Dance to) The Early Music』(2015年)
ネイト・ウーリー『Battle Pieces』(2014年)
ネイト・ウーリー『Seven Storey Mountain III and IV』(2011、13年)
ネイト・ウーリー『(Sit in) The Throne of Friendship』(2012年)
ネイト・ウーリー『(Put Your) Hands Together』(2011年)
ハリス・アイゼンスタット『Canada Day IV』(2015年)(ウーリー参加)
ポール・ニルセン・ラヴ+ケン・ヴァンダーマーク@新宿ピットイン(2011年)
ペーター・ブロッツマンの映像『Concert for Fukushima / Wels 2011』(2011年)(ヴァンダーマーク参加)
ペーター・ブロッツマンの映像『Soldier of the Road』(2011年)(ヴァンダーマーク登場)
4 Corners『Alive in Lisbon』(2007年)(ヴァンダーマーク参加)
スクール・デイズ『In Our Times』(2001年)(ヴァンダーマーク参加)


ヘンリー・グライムス『Live at the Kerava Jazz Festival』

2016-04-17 23:22:32 | アヴァンギャルド・ジャズ

ヘンリー・グライムス『Live at the Kerava Jazz Festival』(ayler records、2004年)を聴く。実はしばらく探していて、最近ようやく見つけた。

Henry Grimes (b)
David Murray (ts, bcl)
Hamid Drake (ds)

ここではデイヴィッド・マレイ、ハミッド・ドレイクと、一騎当千の剛の者3人による剛の演奏。しかし、強調しすぎてもし過ぎないくらいだが、主役は、間違いなくヘンリー・グライムスである。

かれのベースは大きなハンマーのように滅茶苦茶に重たい。まるで、顔色を変えずにそれで地面を叩き続け、共鳴させているような音である。剛毛が生えているように音色がささくれており、他の何者が触っても変えられない残響もある。はじめてグライムスのプレイを観たとき、ステージからこの恐竜の足音が聴こえて口を開けてしまった記憶がある。

マレイもまだまだ逞しい。グライムスに決して負けることなく、がっぷり四つで、テナーとバスクラを疲れることなく吹いている。長い2曲のあとに、名曲「Flowers for Albert」を吹き始め、ノリノリになって、グライムスもそれに追随する展開など、思わずぞくぞくさせられる。(で、マレイはいつから味わいオヤジになってしまったのだろう・・・。)

●参照
「KAIBUTSU LIVEs!」をエルマリート90mmで撮る(2007年)(ヘンリー・グライムス参加)
US FREE 『Fish Stories』(2006年)(ヘンリー・グライムス参加)
マーク・リボーとジョルジォ・ガスリーニのアルバート・アイラー集(1990、2004年)(ヘンリー・グライムス参加)
スティーヴ・レイシー『School Days』(1960/63年)(ヘンリー・グライムス参加)
デイヴィッド・マレイ+ジェリ・アレン+テリ・リン・キャリントン『Perfection』(2015年)
デイヴィッド・マレイ・ビッグ・バンド featuring メイシー・グレイ@ブルーノート東京(2013年)
デイヴィッド・マレイ『Be My Monster Love』、『Rendezvous Suite』(2012、2009年)
ブッチ・モリス『Possible Universe / Conduction 192』(2010年)
ワールド・サキソフォン・カルテット『Yes We Can』(2009年)
デイヴィッド・マレイの映像『Saxophone Man』(2008、2010年)
デイヴィッド・マレイ『Live at the Edinburgh Jazz Festival』(2008年) 
デイヴィッド・マレイの映像『Live in Berlin』(2007年)
マル・ウォルドロン最後の録音 デイヴィッド・マレイとのデュオ『Silence』(2001年)
デイヴィッド・マレイのグレイトフル・デッド集(1996年)
デイヴィッド・マレイの映像『Live at the Village Vanguard』(1996年)
ジョルジュ・アルヴァニタス+デイヴィッド・マレイ『Tea for Two』(1990年)
デイヴィッド・マレイ『Special Quartet』(1990年)


ジャグアー・ライト『Devorcing Neo 2 Marry Soul』

2016-04-17 09:11:56 | ポップス

テリ・リン・キャリントン『The Mosaic Project: Love and Soul』で予備知識なく接して、獣のような存在感にたじろいでしまった歌手のジャグアー・ライト。気になって、『Devorcing Neo 2 Marry Soul』(Artemis Records、2015年)を聴く。

いやなんというか、自らむしり取るようにして、喉を絞るように鳴らす声が凄い。ずいぶん際どい歌詞もあったり、俗っぽい歌詞もあったり。獣と性を前面に押し出していて、ほとんど威圧される。濃密すぎて、またダイレクトすぎて、まあわたしには百年早い。あるいは百年手遅れだ。

たしかにテリ・リンのアルバムのように、ジャズのサウンドの中で聴きたいところ。

●参照
テリ・リン・キャリントン『The Mosaic Project: Love and Soul』