Sightsong

自縄自縛日記

若林忠宏『民族楽器大博物館』にイランの楽器があった

2008-11-28 23:09:02 | 中東・アフリカ

先日イラン大使館で目にしたイランの珍しい楽器(>> 記事)。帰宅してから、若林忠宏『民族楽器を楽しもう』(ヤマハミュージックメディア、2002年)を開いたが載っていなかった。翌日、同じ著者の『民族楽器大博物館』(京都書院、1999年)もあったなと思い出し探してみると、ありましたありました。

太鼓の「Daf」は、中央アジアに伝わって名前が微妙に変化した「Dap」があった。大型のものは「Doira」とも言われるようで、なぜかシルクロードの東端ではアラビア語で呼ばれるそうである。

弦楽器「Tar」は、立派なものが紹介されている。胴は桑の木をくりぬき、「入手困難な牛の胎児の皮や、子牛の心臓の皮を守るため、駒の下とバチの当る部分を薄皮で保護してある」ということだ(凄いね)。

弦楽器「Santur」は、ピアノのルーツだとされている。

弦楽器「Rabab」については、数奇な運命がまとめられている。このタイプはアフガニスタンで弓奏から撥弦に変わり、東進し、三味線元祖系と交わり沖縄にも伝わった、とある。

ピアノや三線のルーツを聴いていたのだと考えると楽しい。

こうしてみると楽器とは何と多彩で摩訶不思議なものかとおもう。

若林忠宏『民族楽器を楽しもう』は、楽器の数を抑えて、ひとつひとつの解説やエピソードを色々と紹介している。いつかモンゴルの馬頭琴を演奏したいという妄想に囚われて買ったものだが、結構値がはるし(当たり前だが)、サックスも満足に吹きこなせないで何が馬頭琴だ、と、ツマに真っ当な指摘をされて妄想のまま放置している。でもいつか弾きたいと夢想している。


イラン大使館でアフランド・ミュージカル・グループを聴いた

2008-11-28 00:46:32 | 中東・アフリカ

イラン出身のAさんに誘われて、イラン大使館で行われた「アフランド・ミュージカル・グループ(Afrand Musical Group)」(>> リンク)を聴いてきた(2008/11/18)。グループは普段は12人で活動しているそうだが、今回はそのうち太鼓・歌が1人と弦楽器が3人の4人。

曲調は独特なコードなのか、哀愁があって、演奏技術も全員すばらしかった。Aさんによると、革命直後のイランでは音楽はご法度であり、活動が可能になってきたのはハタミ以降だそうである。ブリュッセルで聴いたクルド歌手のシヴァン・ペルウェルの曲は、1/4音階などを使っていた(>> 過去の記事)。このグループのコードが実際にどのようなものかわからないが、そういった分割をしている可能性はあるだろう。リズムは乗りやすいものだった。

楽器ひとつひとつは初めて見るものばかりだ。帰宅してから手持ちの本をめくってみたが、見つけることができなかった。

太鼓と歌のReza Mahini(>> リンク)が使う太鼓「Daf」はとても大きく、裏側には縁から鉄の輪がじゃらじゃらと吊るしてある。叩くとそれらが金属音を出す仕組だ。左手で持ちつつ、その指先で叩くと、端の方なので小気味良い音が出る。右手で真ん中を叩くと、当然大きな音が響く。彼のソロは迫力があった。

Syavash Pourfazli(>> リンク)が使う弦楽器「Tar」は6弦で、胴が2つの膨らみに分かれていてユニークな形だ。

Ahmad Shoariyan(>> リンク)が使う弦楽器「Rabab」は面白い。4弦なのだが、横に7弦が張ってあって、和音を奏でるときに使うということだった。主な4弦はそれぞれ材質が違って、尋ねたところ、日本の琴の弦を試しに使っている、という遊び心。

もっともユニークで聴客たちがあとでじろじろ見ていたのが、Pejman Hoseinipour(>> リンク)が使う弦楽器「Santour」だった。机の上におき、糸楊枝を大きくしたようなピックで叩く。台形の箱の上に9個の駒が左右にそれぞれ配置されていて、箱の反対側の端から張った弦を持ち上げる。それぞれの駒には4本の同じ音を出す弦が張られていて、左の駒で持ち上げているもの、右の駒で持ち上げているもの、というように互い違いになっている。つまり、4×9×2=72本の弦がある。そして叩く場所は右の山、左の山、それから駒が持ち上げた反対側の部分(短いので高音)。これで3オクターブが出る。ソロになると繊細というのか、幽玄というのか、耳も震えた。

これで無料なのだから、良い文化事業だ。寒いのでお好み焼きを食べて帰った。でも風邪気味だ。


浦島悦子『島の未来へ』

2008-11-24 22:59:23 | 沖縄

浦島悦子『島の未来へ 沖縄・名護からのたより』(インパクト出版会、2008年)は、この2年ほどの辺野古(沖縄県名護市)や高江(沖縄県東村)における、大きな暴力への抵抗の記録である。『インパクション』の連載を中心に、『週刊金曜日』などへの寄稿を加えてまとめられている。

オビには「反対運動・・・」とあるが、著者の意図は、きっと括弧付きの「運動」ではなく、市民として発する声の延長にあるようにおもえる。それらの間のギャップこそ、再軍備を目的とした暴力のあまりの大きさを示している。

著者が応援した選挙としては、名護市において基地に反対の意を示した住民投票(1997年)に蓋をすべく、国からの圧力により基地受け入れを表明して退陣した比嘉市長の後を受けた岸本市長の第一期後の選挙(2002年)、そして第二期後の選挙(2006年)、さらに仲井眞現知事が糸数慶子候補(現・参議院議員)に勝った沖縄県知事選(2006年)が挙げられている。そのいずれも、基地に反対を表明している候補が敗れている。そこには民意と選挙とのねじれや有権者の諦念があるようだ。さらには、カネや間接的な圧力(これこそが、大きな暴力のひとつに他ならない)が、あからさまに使われた。

著者によれば、そのような組織的な圧力を示すものが、期日前の投票だという。2006年の名護市長選挙のすぐ後に行われた名護市議会議員選挙では25%以上、知事選では11%もの投票が、会社の送迎車などで大量動員され、個々の意志を示すことができないまま、大量票となっているというのである。こうなれば、投票率を上げるための方法なのか何なのかわからなくなる。

辺野古近辺にカネが流れている具体例も凄い。国の9割補助により、6つの立派な公民館が建設されている。そしてこれは、実は公民館ではなく、「地区会館」という名称であり、所有権は区ではなく名護市にある。住民自治が疎かにされ、「カネに物を言わす」典型的な手法である。

著者はそれでも言う。

「海兵隊のグァム移転は米軍の戦略的移転に過ぎず、実戦部隊は沖縄に残るため基地被害は減らないだろうと予想されているし、中南部の老朽基地返還は、名護への基地新設=北部の軍事要塞化という米軍にとって最高においしいものを得るための厄介者払いに過ぎない。沖縄ではあたりまえのこんな認識を、声を大にして言わなければならないのかと思うと、疲れてしまいそうだが、やはり言い続けなければならないのだろう。」

辺野古や高江での動向について、あらためて当事者の声を通じて振り返ってみると、本当に腹が立ってくる。もちろん住民の方々やより積極的に関わっている内外の方々にとってみれば、そんなものではすまないことは明らかだ。大きな暴力に抗するためには、環境影響評価のでたらめさ、基地被害の原因、基地の存在が意味すること、あまりに不公平でいびつな政治の姿など、その暴力の包装紙を剥ぎ続けることが、(小田実ふうに言えば)小さな人間が行うことができる行動なのかとおもえる。


ニコラス・ローグ『ジェラシー』

2008-11-24 00:03:14 | ヨーロッパ

特に海外から帰ってくると、緊張の反動で1日は虚脱しているもので、買い物以外ろくに何もしなかった。こんなときはインターネットか映画くらいしかないので、夜ビールを飲みながら、ニコラス・ローグ『ジェラシー』(1980年)を久しぶりに観た。

ニコラス・ローグは好きでいくつも観た。妙に耽美的なところ、例えて言えば割れたガラスの破片に映った狭い時空間が遭い乱れるような感覚。自分の趣味を直接的に映画に紛れ込ませるあざとさも悪くない。(あざとさ、というのは、それがスパイスではなくて観客に気付いて欲しいと言わんばかりだからだ。)

この映画では、グスタフ・クリムトエゴン・シーレの絵、トム・ウェイツビリー・ホリデイキース・ジャレットの音楽がはまっている。特にキースは、『ケルン・コンサート』のソロピアノが使われていて、あの甘ったるさが、愛憎劇に重なると堪らない気分にさせられる。主演のテレサ・ラッセルは、ポール・ボウルズ『シェルタリング・スカイ』を読んでいるが、その後恋人役のアート・ガーファンクルと一緒にモロッコに旅するのも「気分」だ。

ローグの映画は、ジョン・マルコビッチ主演の『ハート・オブ・ダークネス』(1994年)を観たのが最後だ。言うまでもなく、コッポラの『地獄の黙示録』と同じ、コンラッド『闇の奥』を原作としている。こちらも、コッポラ作とは違う意味で傑作だったとおもう。

その後どうなのかと調べてみると、2007年に超能力もの『Puffball』という映画を監督しているようだ。現在80歳。もう映画が日本公開もされないが、再評価してほしい映画作家である。


北京の「Red Gate Gallery」再訪

2008-11-22 23:06:15 | 中国・台湾

北京からさっき帰国した。寒かった。

自動車で唐山から天津に向かう途中、「November Cotton Flower」の通り、綿花の摘み取りをやっていた。摘んでいない白いところと、摘み終わった茶色いところとのコントラストが目立っていた。

今朝土曜日の午前中だけ時間があったので、「北京城東南角楼」の中にある「Red Gate Gallery」を再訪した。

今日から別の展示をしているはずだったが、なぜかまだ終わったはずの展示があった。周吉榮(Zhou Jirong)の「綺城 Fantastic City」と題された一連の作品は、ミクストメディアで、虚実が混じりあったイメージを創り出していた。上部は空のグラデーション、下部に人為的な建造物らしきものが描かれている共通点がある。近くで観ると、風雪に晒されたようであり、錆びているようであり、緑青が出ているようであった。これが三歩下がると、幻影の街となるのだった。

何度もぐるぐる回って観ていると、事務室からスタッフ(欧州人により運営されている)が出てきて、親切にもカタログをくれた。

2階は、前回来たときは改修中だったが、ここの城壁や角楼のジオラマ、古い写真、公開処刑用の刀なんかが展示されていた。

3階には、前回の個展では展示されていなかった王利豊(ワン・リーフェン)の宋王朝シリーズの1点があった(前回は明王朝のシリーズ)。改めて、このひとの感性と技巧に感心する。ほかには、鄭学武のデザイン的な作品や、李剛による靴のオブジェなんかがあった。

まだ少し時間があったので、行ったことがない「今日美術館」を目指して歩いたが、発見できなかった。しかし、うろうろしていたら公園で卓球をするひとたちを見ることができたので、とりあえず満足した。やはり本場なのであり、かなり上手い。昔、地震研究所に在籍していたとき、「卓球部」と言われるくらい毎日卓球をしていたが(研究者になっていないのも当然である)、中国からの留学生たちに勝つことはなかった。

●参考
○「北京的芸術覗見(1)」(Red Gate Gallery)
○「北京的芸術覗見(2)」「(3)」(北京798芸術区)
○「武漢的芸術覗見」(Soka Art Center)
○「北京の「Soka Art Center」再訪」(Soka Art Center)


フランソワ・ジョリ『鮮血の音符』

2008-11-19 23:35:21 | アヴァンギャルド・ジャズ

フランソワ・ジョリ『鮮血の音符』(角川文庫、1996年)も、10年以上前に読んだジャズ・ミステリだ。やはり再読してみて、内容をまったく覚えていなかった。

舞台はリヨン。ある革命組織に所属する男は、ジャズフェスティヴァルでディジー・ガレスピーらの演奏を楽しんでいる。彼が主人公かとおもいきや、早々に暗殺されてしまう。そうではなく、主人公は、殺された男が持っていたジャズのレコードになぜか名前が書かれていたジャズファンであり、彼も(そして作者も)あきらかに理想を追い求める革命組織メンバーの潜在的なシンパのようだ。

革命組織メンバーの何人もの死は、事故や内ゲバではなく、黒幕の大物による工作だったことがわかる。その大物とは民族浄化をも標榜する極右だった。革命組織メンバーを(メンバーはそれと知らされずに)操り、世論を操作し、偏狭なナショナリズムの強化を狙う男は、隙だらけで馬鹿みたいに描写されている。

正直言って、まわりくどい表現を勿体ぶって使うハードボイルドであり、まったく好みでない。一方で、これがフィルムノワールの映画であったなら面白いだろうなとおもう。しかもそこかしこにジャズが登場するとなれば。主人公は深入りしすぎて、穴倉に閉じ込められている間も、ジャック・デジョネットのコンサートにいけなかったことを悔やみ、セロニアス・モンクの「ベムシャ・スイング」を口ずさもうとするのである。

最初に殺される男はフリージャズのファンのようで、オーネット・コールマンの『からっぽのたこつぼ壕(The Empty Foxhole)』、アルバート・アイラーの『幽霊(Ghost)』、セシル・テイラーの『それは何なのだ』(これは何のレコードだ?)を持っていたことになっている。他にも、ラシッド・アリやデイヴィッド・マレイなんかも登場してきて、まあ面白くはある。それにしても、これらのレコード名の訳だけでなく、ミシェル・カミロのことをマイケル・カミロとしたり、翻訳がちょっとひどい。それに発音がどうあれ、これまで日本語で使ってきた言葉を踏襲すべきとおもえる箇所も多い。(小林信彦が、グルーチョ・マルクスだけはグラウチョと書いた、などというのとは別次元の話。)

作者はディジー・ガレスピーのことを何度も書いている。なぜか歴史的実績や実力に比して日本での人気がいまひとつなディジーだが、たまに聴くととてもいいのだ。私のお気に入りは、70年代の『Big 4』(Pablo)だ。共演がジョー・パス、ミッキー・ローカー、レイ・ブラウンという実力者揃いであり、しかもリラックスしている。まあ確かに、日常生活のなかでは、火の出るような「Groovin' High」とかキューバ音楽とか、ひょっとしたらディジーの真ん中にあるような音楽はあまり聴かないものかな、とおもうのだった。


G・G・マルケス『戒厳令下チリ潜入記』、ドキュメンタリー『将軍を追いつめた判事』

2008-11-16 23:25:51 | 中南米

NHK「BS世界のドキュメンタリー」枠で、チリ・ピノチェト政権の大量虐殺を追ったドキュメンタリー『将軍を追いつめた判事~チリ軍事政権の闇~』(米West Wind Production、2007年)が放送された。それを観がてら、G・ガルシア・マルケス『戒厳令下チリ潜入記』(岩波新書、1986年)を再読した。

本書は、ピノチェト独裁が続く80年代に、チリのドキュメンタリー映画を撮ろうとチリに帰国するミゲル・リティン監督の語りの形を取っている。リティンは反体制側であったから、当時のチリ政府のブラックリストに載せられており、故郷とはいえ入国が発覚すると逮捕されることは確実だった。そのあたりの不安な心情を、マルケスは軽妙とも言える筆致で描いている。(マルケスはかつてジャーナリストでもあったのだが、それにしても、あの『族長の秋』や『百年の孤独』を書いた人物と同一とは驚くべきことだ。)

半ば冒険小説のような出来であるからすいすい読めるものだが、しかし、監視されて下手なことを言うことができない社会の様子が感じられる。そして、中南米の他の国と同様に、米国寄りの政権がIMFからの融資を受け、見返りの新自由主義化と一部の肥え太りがなされたことの指摘もなされている。

「輸入はわずか五年間のうちに過去二〇〇年間の総額を上回ったが、それが出来たのは国立銀行の国営企業売却金で保証されたドル建ての信用のためであった。残りはアメリカ合衆国と国際信用機関の共犯によるものであった。だが、いざ代金を支払う段になると、その牙があらわれた。六―七年の幻想が一気に崩壊したのである。チリの対外債務はアジェンデの最後の年には四〇億ドルであったものが、今日ではほぼ二三〇億ドルにも達している。この一九〇億ドルの浪費の社会的犠牲がいかなるものであったかを知るには、マポーチョ川の大衆市場を少し歩いてみるだけでよい。つまるところ、軍事政権の奇跡はほんの一握りの金持ちをますます肥やし、その他のチリの国民をますます貧困の奈落に陥れたのであった。」

これが遠い国の昔の出来事であったと考えるひとは、今後も日本社会の崩壊に向けて、間接的に手を貸し続ける可能性があるだろう。「9.11」は、ピノチェトがアジェンデを葬った1973年9月11日のことでもあり、ニューヨークのそれとセットで視なければなるまい。マルケスは、第二の「9.11」を目にして何を考えただろう。

ところで面白くおもったのは、リティンが入国に際して不安を抑えるために読んでいたのが、アレホ・カルペンティエル『失われた足跡』(1953年)だということだった。キューバの作家、密林の遡上という点から、単純にゲバラやカストロのことを想起してしまうが、リディンが愛読した理由はいかに。本書の解説によると、マルケス自身は、ピノチェトに対する曖昧な態度ゆえマリオ・バルガス・リョサを、社会主義に対する防波堤として軍事政権を評価したとしてホルヘ・ルイス・ボルヘスを批判していたようだが、カルペンティエルとの接点はどうだったのだろうか。

『将軍を追いつめた判事~チリ軍事政権の闇~』(>> 前編後編)は、ピノチェトによる犠牲者からの告訴を受け、ピノチェト政権による犯罪の証拠を集めていくグスマン判事を追っている。拷問、暗殺などいかなる残虐な犯罪が軍ぐるみでなされていたか、その様子がドキュメンタリーの中心だった。判決が下される前にピノチェトは死に、その直前にピノチェトに殺された父を持つバチェレ大統領が就任するところで締めくくられる。

ピノチェトが死んだ際、支持者たちが集まり、「ざまあみろ、お前達は彼に判決を下せなかったんだ」と叫ぶ様子がある。グスマン判事はそれに対し、「彼らはピノチェトがしてきたことなどどうでもよかったのです」、とショックを隠せない。内奥を見ようとしないナショナリストたち、と言ってしまえばそれだけの話なのだろうが・・・。

このドキュを含め、ブラジル・ルーラ政権、ベネズエラ・チャベス政権、ボリビア・モラレス政権のドキュが同じ枠で放送された。再放送は17日からの午前中にもあるようだ(私もルーラを撮りそこねたので助かる。モラレスのドキュだけは、去年放送された「NHK33ヵ国共同制作 民主主義」のひとつである。)(>> リンク

●参考
中南米の地殻変動をまとめた『反米大陸』
太田昌国『暴力批判論』を読む
モラレスによる『先住民たちの革命』


沖縄・プリズム1872-2008

2008-11-16 00:04:25 | 沖縄

金曜日、ビッグサイトで話をしてテンションが妙に上がっていたので、疲れているにも関わらず、国立近代美術館『沖縄・プリズム1872-2008』を観て帰った。金曜の夜だけは20時まで開いているのだ。実際のところ、2時間ではじっくり観るのに足りなかった。

まず嬉しいことは、オリジナルプリントを観たかった写真家の作品が多く展示されていたことだ。

比嘉豊光『光るナナムイの神々』は、御嶽に射し込む光のハレーションの美しさに息を飲んでしまう。久高島コミュニティセンターで観たことがある比嘉康雄の久高島の写真群も、イザイホーという唯一無二の祭祀に居合わせた迫力とあいまって凄い。東松照明『太陽の鉛筆』は、アウトサイダーでありながら内部との関係性を見つめ続けたという点で、何かマージナルな瞬間が見え隠れする。伊志嶺隆『光と陰の島』は、6×6で撮られたであろうフィルムのハイコントラストさが被写体の存在を際立たせる。木村伊兵衛の那覇のスナップは相変わらず絶妙。技術的にどうこうではないが、岡本太郎の訪沖の記録も嬉しい。オリジナルプリントはなかったが、引きと間合いがあまりにも個性的な北井一夫『沖縄放浪』の『アサヒグラフ』での連載も展示されていた。これは、もうすぐ冬青社から発行される『ライカで散歩』に収録されるかもしれない。

時間が足りないというのは、映像をいくつも上映していたからだ。波多野哲朗『サルサとチャンプルー』(2008年)は、沖縄と移民先のキューバを重ね合わせて撮られており、とても興味深い。高嶺剛『オキナワン・ドリーム・ショー』(1974年)は、8ミリで絵にならないところをスローモーに見つめており、眩暈がした(ただ、音楽を最近の大城美佐子の歌声にしたのはミスマッチ)。森口豁『沖縄の十八歳』『一幕一場・沖縄人類館』は、以前「森口カフェ」で観たので覗かなかったが、時間があれば再見したい。

最後の照屋勇賢などのインスタレーションは、どうしても絡め取られてしまうオリエンタリズム的なスタンスの足をすくってくれるもののように感じた。

充実している。展示が終わるまでにもういちど足を運びたい。

●参考
森口カフェ 沖縄の十八歳
高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘(照屋さん)
東松照明の「南島ハテルマ」


ビル・ムーディ『脅迫者のブルース』

2008-11-15 22:42:29 | アヴァンギャルド・ジャズ

本棚を整理していたら出てきたので、11年ぶりに、ビル・ムーディ『脅迫者のブルース』(文春文庫、1997年)を読んだ。中身をぜんぜん覚えていなかった(笑)。原題は『Solo Hand』、事故で右手がうまく使えなくなってジャズ・ピアニストであることをやめた男が主人公である。片手ということと、ソロをとる手ということをかけているわけだ。

世の中にどれだけジャズ小説があるのかわからないが、その面白さの一部は、ジャズ・ファンがにやりとしてしまう描写にあることだろう。その意味で、この小説は仕掛けが散りばめてあって、肩がこらず楽しめる。

主人公はピアニストをやめ、ライターとして糊口をしのいでいる。その批評は、たとえばチック・コリアの演奏に向けられる。

「彼の演奏はいつも好きだった。少なくともクロスオーバーの方向に踏み出して、電子音楽に手を染めるまでは。電子音楽はわたしの趣味に合わないので、結局、その気持ちに正直に、名ピアニストが空虚なフュージョンに転向してしまったのを嘆くことにした。チックのファンの怒りを買わないのはわかっている。彼のファンは、誰も『ブルーノート』など読まないのだから。しかし、せめてジャズの現状をひとくさり批判することができるだろう。」

最初からこの調子なので、何となく、この不幸な境遇に陥ったばかりの主人公に肩入れして読んでしまう。ライターではあるが、かつてのしがらみから素人探偵になって困り果てるのである。

他にも、かつてマイルス・デイヴィスに面罵された歌手が飼い犬にマイルスという名をつけていたり、ガールフレンドが伝言を言付けた人に尋ねると、本人であることを確認させるために「チャーリー・パーカーはどこの生まれ?」と訊かせたりと、ネタに事欠かない。

ストーリーテリングや謎解き自体は、さほど秀逸ともおもえない。それでも、飽きずに1日で読んだのだから、ジャズ好きには悪くない本だろう。(そのくらいの感想なので、すっかり内容を忘れていたとも言うことができるが。)

著者のビル・ムーディの邦訳は他にはなさそうだが、同じ主人公が登場する『Looking for Chet Baker』(2002年)、ワーデル・グレイの死をとりあげた『Death of a Tenor Man』(2003年)、クリフォード・ブラウンの録音テープを巡る『The Sounds of the Trumpet』(2005年)、最新作『Shades of Blue』(2008年)なんてものもある。ちょっと英語で読むほど熱くなれないが、邦訳があれば全部付き合うに違いない。


高橋哲哉『戦後責任論』

2008-11-14 23:10:51 | 政治

昨日日帰りで北海道に行ってきたので、道中、高橋哲哉『戦後責任論』(講談社学術文庫、2005年)を読み続けた。もちろん、頭の片隅には、例の、自ら戯画化されたような歴史修正主義者の醜い姿がある。

(ところで、昔から、飛行機が高度を下げるときが大の苦手で、絶対に耳が痛くなる。唾を呑み込んだり欠伸をしてみたりと懸命の努力をするのだが、駄目な時は駄目だ。いい方法はないだろうか。)

本書では、頻繁かつ執拗に日本の戦争責任を回避しようとする歴史修正主義に対して、歴史の検証によってではなく(もちろんそれを前提にして)、私たちの精神のありようを考えることによって、抗しようとしている。重きを置くもの、それは国境を跨る他者との関係性であり、応答可能性(responsibility)としての責任であり、自ら(日本人)のアイデンティティ確立のみを優先することの欺瞞である。

ここでの論考は、「なぜ直接加害したわけでもなく戦争体験もない自分たちが責任を負わなければならないのか」、「日本軍はよかれと思ってやったのではないのか」、「他の国も酷いことをしているのになぜ日本ばかり責められるのか」、といった、素朴であり、だからこそ蔓延している問いに答えを見出そうとしている。当然ながら、そのベクトルは、歴史修正主義者のそれとは全く正反対だ。

著者は言う。戦争被害者に対して、もういい加減にしてほしいなど反応することは、「トラウマ記憶」に対する無理解であって、さらに過去や喪の作業を一方的に終わらせることは記憶の抹消工作に加担することである、と。そして、過去に向き合い続け(無数の声がいまだ発せられている)、罪の裁きを行うことは、報復とは反対の、<赦し>と同じ側にあるのだ、と。

「ここに剥き出しになっているのはなんでしょうか。植民地化された朝鮮半島その他の地域を「全部日本人社会にしようとした」ことを、「仁愛を施すこと」として、日本人の「平等志向」や「お人好し」から出た善政として怪しまない底なしのナルシシズム。他民族の社会を「全部日本人社会」にすることが民族性の抹殺、文化的エスノサイド(民族絶滅)にほかならないことをまったく理解できないレイシズム。「皇民化」政策を推進した当時の支配層となんら変わらないメンタリティ。」

「ここで求められるのは、いかに苦しくても過去を想起し、それにジャッジメント(判断)を加えて、過去に対する批判的な距離を作り出していくことです。侵略の過去を認めること、兵士もまた加害者であった事実を認めることへの猛烈な抵抗を解除するためには、この種の徹底操作が必要なのです。過去に何があったかを勇気をもって直視し、その過去に対して、自らの責任で批判的判断をくだすこと。このプロセスを回避して、過去の支配を断ち切る「喪」の作業、いいかえれば「哀悼」はけっして成り立たないでしょう。」

ここで、なぜ過去の罪に対して現在の自分たちが<責任>を負うべきなのかが見えてくる。<責任>とはいま私たちが断罪されるということよりは、無数の声に対して<応答>していくこと、として見るべきだという考えが貫かれているようだ。<応答>には、現在のまなざしが含まれている、ということだ。そして<応答>とは、人格を持つ人間との関係性であって、決して<中国>や<米国>といった抽象的な存在に対するものではない。

「日本のようにかつて植民地帝国として異民族支配を行い、少数民族を圧迫、「同化」し、その結果として大規模な民族移動を引き起こしたような国においては、マジョリティ(民族的多数派)のナショナリズムはもはや「健全」ではありえない。(略) それは必然的に暴力を孕み、排外主義を孕んでしまう、ということです。「国民の正史を立ち上げる」という自由主義史観の主張が、たとえば在日韓国・朝鮮人の人たちにどれほどの不安や恐怖をもって受け取られているかを考えてみれば、それは明らかだと思います。」


加藤崇之トリオ『ギター・ミュージック』の裏焼き

2008-11-12 00:55:57 | アヴァンギャルド・ジャズ

加藤崇之『ギター・ミュージック』(TBM、1989年)の西ドイツ(当時)からの逆輸入盤を持っている。「My One And Only Love」のソロでの和音もいいし、トリオでの「Straight No Chaser」の疾走感も好きである。

それはさておき。

ライナーノートは英語、ドイツ語、日本語で書かれている。しかし、日本語がこのありさまである。品質管理はどうなっていたのだろう。


反対側の新宿ピットイン

2008-11-09 21:17:23 | アヴァンギャルド・ジャズ

きょうは通っている音楽スクールの「発表会」。といってもジャズなので、テーマとコードの譜面だけはもらっていたが、肝心のメンバーとは、1週間前に初めて会って1時間リハーサルするだけというコワさ。

ソロのパートで何をどう吹こうかと、この2週間ほど鬱々としていた(なら受けなければいいのに)。『BAND IN A BOX』という音楽ソフトウェアがあって、これで流すコードを片側ヘッドホンで聴き、音を殺して帰宅後に吹いていた。常にこのような練習をしていれば、もっと巧くなっているはずなのだが(笑)。

今回ははじめて新宿ピットインになった。前回は江古田のBuddyだった。その前は、既につぶれた六本木ピットインだったが、ここでは参加していない。何でも、地下のピットインの向かいに直営のスタジオができたので、大人数の受け入れができるようになったということだ。スタジオができる前は、裸のムキムキ男が登場する店であり、ライヴを聴いて出ると明らかに違う空気が漂っていた。

何といっても新ピ、日本のジャズのメッカなので、ここで吹けるということだけでもうれしいことだ・・・などとは、そのときは余裕がなくて頭にない。結果は、まあ・・・。

早めに終わったので、講師陣を含めたプレイをのんびり聴いた。師匠・松風鉱一、寺下誠、秋山一将、望月英明など、これだけで元がとれたような気がする。山下洋輔の本だったかに、「俺はジャッキー・マクリーンと同じ夜に近くのジャズクラブで演奏したんだ」と誇りにしている米国人のエピソードがあったが、おなじような誇大妄想を抱くこととする。夜の部は、板橋文夫トリオだったし!

疲れて帰宅し、日本シリーズを見ていたら、あっジャイアンツが逆転された。


宮城康博『沖縄ラプソディ』

2008-11-08 00:27:23 | 沖縄

筑紫哲也さんが亡くなった。これを書いているいま、テレビの『NEWS23』で、昔から最近までの氏の発言がいくつも流されている。「少数者」であることを怖れないこと、「沖縄」にこだわることはそれに通じること、・・・。至極真っ当な発言者がひとり居なくなったことは悲しい。

宮城康博『沖縄ラプソディ <地方自治の本旨>を求めて』(御茶の水書房、2008年)を読む。

ブログ『なごなぐ雑記』(>> リンク)を時々読んではいたが、そのブログ主(=本書の著者)が、名護市の住民投票を牽引した中心のひとりであることを知ったのはごく最近のことだ。本書の編集者に教えてもらったからだったか、たまたま気がついたのか、よく覚えていないが。

名護市の住民投票(1997年)は、辺野古の新たな米軍基地に対して、政府の暴力的なローラー作戦にも関わらず「NO」の民意を示した、画期的なものであったとされる。勿論私もそう思っている。しかしその<民意>に反し、その後、<民>が選ぶ沖縄県知事や名護市長は、<民>の意思を尊重する者であったわけではない。山口県岩国市でも、同様の状況が生じている。

この<ねじれ>に伴うさまざまなかたちを、著者は、「住民自治」と「団体自治」との違いによって浮かび上がらせている。後者には、「お上至上意識」も、「諦念」も、「不安」も、関連しているに違いない。それらの意識を生み出している背景には、カネや権力を直接的に用いた大きな暴力がある。本書は、それらの具体的なありようを提示する。転じて、市民の意思の実現に向けた自治のプロセスを、読者と一緒に考えるかたちで示している。本がナマのプロセスであるという点で、広く読まれるべきものだとおもった。

それにしても、資料編として収められている『名護市総合計画・基本構想』(1973年)は感動的な代物である。所得格差是正のために持続可能でなく非可逆的な工業開発・産業構造転換・社会構造転換を語ることの愚を明確に説き、農村漁業の発展を中心に据えるものだ。1973年にしてこのビジョン、驚くべきだ。その後の名護は・・・?とのみ外部から(皮肉として)問うことは、ここでは、さまざまな意味で愚かな行いとなる。


魚住昭『野中広務 差別と権力』

2008-11-04 00:37:01 | 政治

魚住昭『野中広務 差別と権力』(講談社文庫、2006年)が、麻生首相就任の前後から取り沙汰されている。

問題となっているのは、以下のくだりだ。

「永田町ほど差別意識の強い世界はない。彼が政界の出世階段を上がるたびに、それを妬む者たちは陰で野中の出自を問題にした。総裁選の最中にある有力代議士は私に言った。
 「野中というのは総理になれるような種類の人間じゃないんだ」
 自民党代議士の証言によると、総裁選に立候補した元経企庁長官の麻生太郎は党大会の前日に開かれた大勇会(河野グループ)の会合で野中の名前を挙げながら、
 「あんな出身者を日本の総理にはできないわなあ」
 と言い放った。」

そして、小泉首相の出現により辞任する野中は、最後の自民党総務会で発言する。

「「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で「野中のような出身者を日本の総理にはできないわなあ」とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」
 野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。」

このことは、最近の『東京新聞』(2008/10/24)における野中インタビューでも触れられている。

「僕はどう言われようと構わない。ただ、政治家として問題の経緯を知らずに人権をゆがめて見ているとは、悲しいことだ」

本書は、野中本人からも難詰されたという、被差別のことについてのみ触れているわけではない。また、(そのような側面はひときわ強かったにせよ)差別撤廃に向けて闘った政治家として描いているのでもない。むしろ、権力争いの中で陰に陽に動き続けた、妖怪的な政治家として描いているものである。その行動には一貫性がおよそなく、受苦の体験からくるのであろう、差別へのまなざしは持ち続けていたとしても、国家がかくあるべきという大きなビジョンもなかったのだとする。もちろん、小さな声がかき消されてしまう小選挙区制導入に反対していたことは、前者の面につながっているのだろう。

マイナスの面はいくつも見つけることができる。橋本首相時のSACO合意後、沖縄・普天間基地の返還に伴う辺野古基地建設には拘泥し続けた。名護市の住民投票の際にも、基地賛成票を集めるべく、カネ(振興策)を提示し、地元建設業や防衛施設局(当時)の戸別訪問を現地入りまでしてプッシュしている。住民投票では「基地ノー」が示されたものの、野中の推した自公連携などが奏功し、その後沖縄では自民政権寄りの政治体制が力を持つようになる。

一方では、次のような発言もしている。沖縄で米軍用地を強制使用する改正沖縄特措法(1997年)の採決時のことだ。

「那覇からタクシーで宜野湾に入ったところ、運転手が急にブレーキをかけ、「あの田んぼの畦道で私の妹は殺された。アメリカ軍にじゃないんです」と言って泣き叫んで、車を動かすことができませんでした。その光景が忘れられません。どうぞこの法律が沖縄県民を軍靴で踏みにじるような結果にならないよう、そして今回の審議が再び大政翼賛会のような形にならないよう若い皆さんにお願いしたい」
戦争の悲惨さを肌身で知る野中の心中から思わず漏れ出た言葉である。」

この大いなる矛盾が同居した政治家であったということか。ただ、引退のきっかけとなった小泉政権の成立より、いい意味でも悪い意味でも、利権温存型、利益再分配型のような旧来の自民党政治は姿を変えてしまっている。そして、受苦の存在に無自覚な者が、「小泉以降」の新自由主義・新保守主義的な側面を受け継いでいるのは確かにおもえる。


ジャズ的写真集(5) ギィ・ル・ケレック『carnet de routes』

2008-11-02 23:45:22 | アヴァンギャルド・ジャズ

と言っても、単体の写真集ではない。アルド・ロマーノ(ドラムス)、ルイ・スクラヴィス(クラリネット、ソプラノサックス)、アンリ・テキシェ(ベース)による録音『carnet de routes』(LABEL BLEU、1995年)とセットになっている。ここでは、CDのおまけではなく、あくまでCD+写真集となっていて、写真集は100頁弱もある。CDの名義も、この3人に加えてギィ・ル・ケレックの名前があり、楽器のところに「ライカ」とあるのがなんとも嬉しい。

音楽は94、95年にスタジオ録音されたものだが、写真はその前にこのメンバーがアフリカツアーを行ったときのものだ。90年にはチャド、中央アフリカ、コンゴ(旧ザイールではない方)、ガボン、カメルーン、赤道ギニアを、93年にはモーリタニア、マリ、ブルキナファソ、ニジェール、コートジボアール、ガーナ、セネガルを訪れている。そのたびに、ジャケット写真にあるように野外でセッションを繰り広げたのかどうかわからないが、その状況ではこのような緻密な音楽を構成することは難しかったに違いない。

聴くたびに、スクラヴィスの微分的な音符をうねうねと繰り出していく超絶技術に圧倒される。これだけ楽器が吹けたら怖いものはないだろうね。何年前だかに来日したとき、草月ホールに聴きに行くつもりが、熱が出て行けなかった悔しい記憶があるが、聴いてもきっと熱が出た。

ル・ケレックの写真だが、名人芸というのか、3人の音楽家のまわりを踊りまくるその土地のひとびとをも含めて、動きのある作品に仕上げている。何気ないスナップ写真ももの凄く巧い。レンズは21mmとか24mmとか、かなりの広角を使っているはずだとおもい(CDにはライカM6とR6を使用、とのみある)、いろいろググっていたら、どうもこの後に機材を全て盗まれたらしいということがわかった。

1997年に盗難にあったル・ケレックの全てのライカは以下の通り(数字はシリアルナンバー)。

Leica M6 - 1706764 and 1709955;
M lenses: 28 f/2.8 Elmarit - 3154541, 35 f/2 Summicron - 3018868 and
2619793, 50 f/2 Summicron - 3100543;
R6 body - 1747862;
R lenses: 28 f/2.8 - 2785373, 35 f/2 - 3364671, 50 f/2 - 3113320, 90 f/2 -
2506573, 135 f/2.8 - 2611624, and 180 f/3.4 - 2866832.
http://leica-users.org/v01/msg08825.htmlより)

つまりM型にしろR型にしろ、広角は28mmまでだとわかる。28mmであの写真を撮ろうと思ったら、相当被写体(しかも飛び跳ねている)に戦いを挑まなければならない。まあ名人芸である。この写真集を観るまでは、ル・ケレックのジャズ写真は、写真集団マグナムの展示にあった、ウィントン・マルサリスを撮った1枚しか記憶に残っていなかったし、しかもそれはさほど臨場感のあるものではなかった・・・ウィントンの音楽と同様に。

この後、同じメンバーでさらに2枚+写真の作品が世に出ているが、まだ聴いたことはない。ル・ケレックのライカが戻ってきたかどうかもわからない。