Sightsong

自縄自縛日記

服部龍二『外交ドキュメント 歴史認識』

2015-02-28 19:30:49 | 政治

服部龍二『外交ドキュメント 歴史認識』(岩波新書、2015年)を読む。

「歴史認識」を巡る問題は、戦後ずっと解決せずに存在し続けている。もとより、「歴史認識」という奇妙な言葉自体が、問題そのもののおかしさを象徴している。

敗戦後、少なくとも政治の場においては、歴史的な事実をすべて受け止めて総括する機会を喪失してしまったことは確かだ。そのために、戦争責任も平和憲法も「押し付けられたもの」であり、やむを得ない判断だとする意識が残ってしまった。そして、日本政府の立場は、「大東亜戦争」を侵略戦争であるとする国際的批判を受容しつつ、その一方で、自ら侵略戦争として認めることはない、という矛盾したものであり続けた(波多野澄雄『国家と歴史』)。

とはいえ、自民党を中心とする保守政治家たちにも、かつては多かれ少なかれバランス感があったのだということが、本書を読むとよくわかる。歴史に対しても、国際関係に対してもである。あの中曽根然り、宮澤然り、そして河野然り。それを見事なまでに失い、歪んだ二次情報・三次情報に依拠して判断する現在の惨状は、言うまでもないことだ。

日本社会は記憶の共有に失敗し、中国社会・韓国社会・沖縄社会は記憶の再確認を続けている。そして両者の噛み合わせが負のスパイラルを生み出している。

●参照
波多野澄雄『国家と歴史』
高橋哲哉『記憶のエチカ』
高橋哲哉『戦後責任論』
外村大『朝鮮人強制連行』
植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』
中野聡『東南アジア占領と日本人』
後藤乾一『近代日本と東南アジア』
玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢』


スティーヴ・リーマンのデュオとトリオ

2015-02-27 07:50:32 | アヴァンギャルド・ジャズ

スティーヴ・コールマン~グレッグ・オズビー~ルドレシュ・マハンサッパというアルト吹きの系譜に連なるスティーヴ・リーマン。朝早く目が覚めてしまったこともあり、かれのデュオとトリオを聴いて脳を覚醒させる。

■ 『Kaleidoscope and Collage』(Intakt Records、2010年)

Steve Lehman (as)
Stephan Crump (b)

ステファン・クランプとの共同作。クランプのよく響くベースは、ときにギターのようでもあり、ときにパーカッションになっている。

リーマンは最初はじわじわと抑え目に吹いているが、次第に暴れ始める。とくにイントロあたりのフレージングにはヘンリー・スレッギル的なものを感じるのだがどうか。丁寧かつ精密に理知的なフレーズを積み上げていき、その自ら作り上げたステージ上で躍りまくる感覚である。悶えるほどカッコいいのに、手の内をすべては明かさないでじらすリーマン。

■ 『Dialect Fluorescent』(Pi Recordings、2011年)

Steve Lehman (as)
Matt Brewer (b)
Damion Reid (ds)

ピアノレスのサックス・トリオというのは、サックスがアウトしてもコードを支配するピアノが不在であるだけ自由な感覚があって、実は好みである(ソニー・ロリンズ、ジョー・ヘンダーソン、オーネット・コールマンらのトリオでの名盤を思い出すたびに聴きたくなってしまう)。

そんなわけで、これもまた素晴らしいのだ。ここでもリーマンは抑え気味に聴く者をじらす。ちょっと、ぶっきら棒なところが、テナーのゲイリー・トーマスの音色を思い出させるのだがどうだろう。そして、リーマンは偏執的に積み上げては暴れる。

ジョン・コルトレーンの「Moment's Notice」やデューク・ピアソンの「Jeannie」という名曲の演奏も嬉しいのだが、リーマンの演奏そのものが価値であるから、ジャズ・スタンダードをこのように解釈したという愉快さはとくにない。とはいえ、かつてスティーヴ・コールマンが急に「'Round Midnight」を吹き始めてぞくりとしたときのような感覚も覚える(もう手元にない。どの盤だっけ)。

●参照
ステファン・クランプ+メアリー・ハルヴァーソン『Super Eight』


ビョーク『Gling-Glo』、『Debut』

2015-02-26 23:20:46 | ポップス

何だかビョークが気になるとツイッターで呟いたところ、何人かの方からいろいろと教えていただいた。やはりツイッターは好き者の集まりだ。

昔にも気になってライヴ映像を録画して観たところ、あえなく弾き返された。まあ、何ごとにもタイミングがあるものだ。どうやら過激化を続けている人のようなので、まずは最初の頃の録音を聴く。

■ 『Gling-Glo』(1991年)

というか、ジャズである。なんだそうか。

ピアノトリオがスイングする中で歌うビョークは、居心地よさそうなのか悪そうなのか。思いつめたような声が魅力的なのだが、さらに刺激してくるのは、喉から絞り出す唸り声だ。元ちとせが、『Hajime Chitose』(2001年)においてカヴァーしたときの歌声も、まさに元ちとせ「らしくない」絞り出し声だった。これだったのか。

■ 『Debut』(1993年)

これはさらに嬉しいサウンド。唸り声もやはり良いのだが、たとえば「Like Someone in Love」における揺れ動く声は、ヴァルネラビリティそのものだ。傷つきやすさとその反面の攻撃性とが同居しているというべきか。

そして、「Aeroplane」と「The Anchor Song」においては、オリヴァー・レイクらがサックスを吹いている。これが素晴らしくハマっている。調べてみると、その前には、アート・アンサンブル・オブ・シカゴと共演するアイデアもあったようだ。それは聴いてみたかった。


シュリッペンバッハ・トリオ『First Recordings』

2015-02-25 07:30:20 | アヴァンギャルド・ジャズ

シュリッペンバッハ・トリオ『First Recordings』(Trost、1972年)を聴く。

Alexander von Schlippenbach (p)
Evan Parker (ts, ss)
Paul Lovens (ds)

これが、その後ずっと続く名グループの初めての吹きこみらしい(1972年、ベルリンにおいて)。アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハはまだ30代、エヴァン・パーカーとパウル・ローフェンスはなんと20代。かれらにも若いときがあったのか(当たり前だ)。

しかし、驚くべきことに、既に各人ともに個性を確立しつつあるようだ。華麗というのか獰猛というのか、攻め続けるシュリッペンバッハのピアノ。そこに、割れた音で閉じた世界を創ろうとするローフェンスのドラムスが入ってくる(音空間の内部では閉じていない)。そしてパーカーの唯一無二のサックスによる鳴き声と呟きが、断続的に、鼓膜と脳を刺激する。

オリジンの凄味とはこのことである。何度聴いても動悸動悸する。

●参照
シュリッペンバッハ・トリオ『Gold is Where You Find It』
アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『ライヴ・イン・ベルリン』
『Rocket Science』(エヴァン・パーカー参加)
ネッド・ローゼンバーグの音って無機質だよな(エヴァン・パーカー参加)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ(エヴァン・パーカー参加)
ペーター・ブロッツマンの映像『Soldier of the Road』(エヴァン・パーカー登場)
ハン・ベニンク『Hazentijd』(エヴァン・パーカー登場)


詩人尹東柱とともに・2015

2015-02-24 22:56:11 | 韓国・朝鮮

中国東北部で生まれた詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ)は、日本への留学中に治安維持法違反の疑いで逮捕され、敗戦間際の1945年2月16日、27歳で亡くなった。福岡刑務所での無残な死だった。

尹の生まれ故郷は現在の吉林省・延辺朝鮮族自治州にある。同じ故郷を持つ友人によると、地元でも、韓国でも、知らぬ者はない存在だという。

尹の獄死からちょうど70年後、立教大学で尹の遺品の展示と、朗読会、講演会が開かれたので、足を運んだ(2015/2/22)。尹は当初立教大学に入るも、周囲の不穏さを感じて同志社大学に転学、そしてそこで逮捕された。

会場には、尹が残した詩集『空と風と星と詩』が展示されている。わずか3冊を製本し、そのうち、友人に託した1冊が奇跡的に残された。その友人は、官憲に見つからぬように、家の床下に隠しておいたのだった。そのことばがいかに危険視されたかは、立教大学時代に残した詩を託された者が、その末尾を捨てたことからも推察できる。

確かに、『空と風と星と詩』は、鮮烈、つまり文字通り鮮やかで烈しい力を放つ。 「星を歌う心で/すべての絶え入るものをいとおしまねば」と、イノチへの愛情と執着とを示した「序詞」がもっとも有名だが、それ以外にも、溢れ出て受け止められず手から情感がつぎつぎに滴りおちてしまうようなものが多い。わたし自身が、金時鐘の翻訳に触れてもっとも印象に残った詩「星をかぞえる夜」には、つぎのようなわすれがたいことばがある。

「星ひとつに追憶と/星ひとつに愛と/星ひとつにわびしさと/星ひとつに憧れと/星ひとつに詩と/星ひとつにオモニ、オモニ、
お母さん、私は星ひとつに美しい言葉をひとつずつ唱えてみます。」

しかしこれは、ただの若者のセンチメントではない。イノチとことばと名前と故郷を奪われる者の抵抗のことばでもあった。つぎのことばからそれを感じ取ることができる。

「お母さん、/そしてあなたは遠く北間島におられます。
私はなにやら慕わしくて/この数かぎりない星の光が降り注ぐ丘の上に/自分の名前を一字一字書いてみては、/土でおおってしまいました。
夜を明かして鳴く虫は紛れもなく/恥ずかしい名を悲しんでいるのです。」

立教大学のチャペルでは、尹の詩の朗読に加え、宋友恵(ソン・ウへ)さんによる講演「詩人尹東柱が夢見た世界」があった。

宋さんによれば、恥というものに敏感で、理想的な世界を希求した尹にとって、当時の日本は、ことばや名前を奪う国であり(尹も、日本では平沼という名前を使った)、故郷を奪った国でもあった。特高警察の尋問に対し、尹は、朝鮮の独立が夢なのだと陳述したという。

そうして改めて「たやすく書かれた詩」を読んでみると、恥や怒りを一身に抱え込んだ尹の姿がみえるような気がしてくる。

「人生は生きがたいものだというのに/詩がこれほどもたやすく書けるのは/恥ずかしいことだ。」

●参照
尹東柱『空と風と星と詩』(金時鐘の訳)
中国延辺朝鮮族自治州料理の店 浅草の和龍園(和龍は尹の故郷)


デイナ・スティーブンス『Peace』

2015-02-22 10:20:42 | アヴァンギャルド・ジャズ

デイナ・スティーブンス『Peace』(Sunnyside、2014年)を聴く。

Dayna Stephens (sax)
Brad Mehldau (p)
Julian Lage (g)
Larry Grenadier (b)
Eric Harland (ds)

普段フリーとかやかましいものとかばかり聴いていると、ちょっと物足りないように感じるバラード集。

しかし、何度も繰り返し聴いていると、サウンドの心地良さやスムースさが面白いのではなく、スティーブンスのサックスの音色が良いのだとわかる。ここでは、テナー、ソプラノ、バリトンを吹いているが、どれも軽く吹きこなしている感がある。ホップする球であっても、渾身の力で投げ込まれる藤川球児のストレートではなく、余裕を持って発射される江川卓のストレートといったところか。

ところで、わたしはブラッド・メルドーのピアノと相性が悪いのか、すべてニュートリノのように体内をヒットせずすり抜けてしまう。ここでも、いろいろ弾いてはいるのだが、なぜか、どうも印象に残らない。そんなわけだからか、サックストリオでの最終曲がいちばん嬉しい演奏。

●参照
テオ・ヒル『Live at Smalls』(スティーブンス参加)


テオ・ヒル『Live at Smalls』

2015-02-21 09:07:44 | アヴァンギャルド・ジャズ

テオ・ヒルの初リーダー作『Live at Smalls』(Smalls Live、2014年)。

昨年(2014年)の7月に、ニューヨークのこの「Smalls」で、フランク・レイシーのグループで演奏するヒルも観た。本盤の録音はその2か月少し前だった。

Theo Hill (p)
Dayna Stephens (ts, EWI)
Myron Walden (as)
Joe Sanders (b)
Rodney Green (ds)

そのときにも嬉しくてならなかったことだが、この音楽は、Smallsというハード・バップ系のハコにおいて現代に生きるハード・バップなのだ。熱く、ノリノリで、われもわれもとアッチの方向へ突き進む。もちろん旧態依然としたものではない。「現代の」、である。演奏する者も聴く者もみんなこういうのが大好きなんだろうね。

サウンド全体と同じく、ヒルのピアノも、伝統を受け継いでいるようでいて現代的でもあり、聴いていて快感そのものだ。エネルギッシュでモーダル、気持ちよく転調しまくり、時にマッコイ・タイナーを思わせ、時にハービー・ハンコックを思わせる・・・よく見たら、両者の曲も演奏している。(マッコイやハービーがハード・バップなのかというツッコミは置いておくとして)

ヒルも、アルトのマイロン・ウォルデンも良いが、このセッションにおける白眉はむしろテナーのデイナ・スティーブンスだろう。乾いた音色で軽く、自在に吹きこなしている感じ。なにを今どきと思うのだが、EWIもこのサウンドのなかでカッチョ良く入り込んでいる。

テオ・ヒル(2014年7月、Smalls)

●参照
フランク・レイシー@Smalls(2014年7月)
フランク・レイシー『Live at Smalls』


ジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』

2015-02-20 00:10:57 | 思想・文学

ジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(筑摩書房、原著2006年)を読む。

人間とはなにものか、<私>とはなにか。そのような問いは、<動物>を排除したバウンダリーを設定して発せられてきた。相手を支配しないことは、すなわち、予測不可能を大前提としてヴァルネラブルな顔を晒すことだと説いたエマニュエル・レヴィナスでさえ、思考が及ぶバウンダリーはやはり人間のみ、なのだった。<他者>はどこまでを指すのか、ということである。

このことは、思考する者の世界観や倫理観につながっている。従来の思想家による世界観のもとでは、<動物>は単数形の記号に過ぎないものであった。<動物的>という表現を使うとき、そのことは明らかだ。

デリダによれば、<動物>は、人間が追うものであり、反応はしても応答はせぬ片方向の存在であり(<動物>はコードに基づかない発話はしない)、ラカン的な人間の鏡像である(人間の欲望は、他者の<欲望>である)。してみれば、<動物>は、いかに人間が名前を付けて愛情を注ごうとも、<動物>の側にはなく、あくまで<私>の側にしかいない存在だ。そして、なにものかの存在を利用するとき、倫理が疑われることになる。

(たとえば、善意で特定の民族をコード化するということがレイシズムの一形態であり、また、絶滅危惧種の存在を無闇に社会変革のために使うことが欺瞞でもあることなどを、思い出してみる。)

「動物は偽装することを偽装しない。本物の痕跡とは正しい道筋=行跡を与えるもののことだとすれば、その欺瞞が本物を偽装と思わせることに存するような痕跡を動物がつくることはない、動物はおのれの痕跡を抹消することもない、そうであればそれはすでに、そのものにとって、おのれを能記の主体にすることであろう。」

●参照
ジャック・デリダ『アデュー エマニュエル・レヴィナスへ』(1997年)
ジャック・デリダ『言葉にのって』(1999年)
ジャック・デリダ『死を与える』(1999年)


アンブローズ・アキンムシーレ『The Imagined Savior is Far Easier to Paint』

2015-02-19 07:09:42 | アヴァンギャルド・ジャズ

アンブローズ・アキンムシーレ『The Imagined Savior is Far Easier to Paint』(Blue Note、2014年)を聴く。

Ambrose Akinmusire (tp, perc)
Sam Harris (p, mellowtron)
Walter Smith (ts)
Charles Altura (g)
Harish Raghavan (b)
Justin Brown (ds)
Becca Stevens (vo)
Maria Im (vl)
Brooke Quiggins Saulnier (vl)
Kallie Ciechomski (viola)
Maria Jeffers (cello)
Elena Pinderhughes (fl)
Theo Blackmann (vo, effects)
Cold Specks (vo)
Muna Blake (reading)

自分にとって新しいものはすぐには聴かない方だし、飛行機の中で少しつまみ食いしたがピンと来なかったし、曲によってメンバーが入れ替わるのは苦手だし、というわけで、評判を聞いても手を出さなかったのだが、わたしが間違っておりました。これ、素晴らしく素晴らしいアルバムだ。今までロクに聴いておらず損をした。

確かに曲によって編成は異なるが、何も豪華ゲストを入れまくったわけではない。アンブローズ・アキンムシーレ、サム・ハリス、ウォルター・スミス、チャールズ・アルトゥラ、ハリシュ・ラガヴァン、ジャスティン・ブラウンを中心メンバーとして、ストリングスを入れた曲や、個性的なヴォーカリストを入れた曲があったり。このあたりの構成や作曲は見事。

何より、アキンムシーレのトランペットが本当に耳に新鮮だ。繊細そのものの音色であり、毛羽立たない紙縒りをさらに丁寧により合わせているような印象がある。同様に知的で繊細なトランペットの音色を持つトム・ハレルは、アキンムシーレに惚れたにちがいない(ハレルがアキンムシーレを入れたグループが活動を開始している)。

そして、ジャスティン・ブラウンのドラムスもまた鮮やかで異次元。今頃騒ぐなと言われそうだが、この人は何なのか。リーダー作はないのだろうか。どこで他に聴けるのだろう。

●参照
アンブローズ・アキンムシーレ『Prelude』
ヴィジェイ・アイヤー『In What Language?』(アキンムシーレ参加)


チャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーの3枚組

2015-02-18 07:36:09 | アヴァンギャルド・ジャズ

チャーリー・パーカーディジー・ガレスピーの名前を冠したアルバムといえば、『Bird and Diz』(1949-50年)が有名である。もちろん革命をなしとげたふたりであるから、例えばフィデル・カストロとチェ・ゲバラの足跡をスナップショット1枚で語ることができないように、たまたまの双頭盤だけで・・・、何の話でしたっけ。

要は、偉大なバードとディジーのお得3枚組『Bird & Diz』(Not Now Music)が出ているということ。わたしも手放していたりして、あらためて聴いている。音も良くなっていて、悠然と危険な速度で地表すれすれを飛んでいたかと思うと急上昇するディジーの独特な音や、冗談みたいに引き締まったバードのソロが飛び出してくる。

『Bird and Diz』(1949-50年)は、セロニアス・モンクの参加が嬉しい。もう20年以上前に、これをBGMとして流していた吉祥寺「くぐつ草」のカレーをどうしても思い出してしまう(どうでもいいですね)。

『Jazz at Massey Hall』(1953年)も言わずと知れた名盤。何しろ、ディジーとバードに加えて、チャールス・ミンガス、バド・パウエル、マックス・ローチが加わった「あり得ないクインテット」である。客席の歓声が不自然で、演奏も面子のわりにパッとしないなという印象だったのだが、いやいや、やっぱり素晴らしい。ミンガスの駆動力が再発見。

『Diz 'n' Bird in Concert』(1947, 53年)、これは初めて聴いた。特に47年のセッションにおけるバードの迫力がもの凄い。このときの「A Night in Tunisia」や「Confirmation」をナマで聴いた人は肝をつぶしたのではないか。『Dial Session』のように、美味しいソロが終わると録音が終了するのは良いのか悪いのか。

●参照
チャーリー・パーカーが住んだ家
ジーン・バック『A Great Day in Harlem』(ディジー登場)
フランソワ・ジョリ『鮮血の音符』(ディジーのことが何度も書かれる)


ジェリー・ヘミングウェイ『Down to the Wire』

2015-02-17 07:29:37 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジェリー・ヘミングウェイのプレイを観てから、『Down to the Wire』(hatART、1991年)をあらためて聴いてみる。

Michael Moore (as, cl, bcl)
Wolter Wierbos (tb)
Mark Dresser (b)
Gerry Hemingway (ds, steel ds)

ヘミングウェイのドラムスは、大きなスイングではなく、微細なフラグメンツの絶えざる提示に思える。

それが、この、のほほんとしてユーモラスな演奏に妙にハマっている。微笑みながらプレイしたのか、淡々として作業を重ねていったのかはわからないが。

何しろ、マイケル・ムーアとヴォルター・ヴィールボスは、ICPオーケストラのメンバーである。そしてヴィールボスは、1996年にベルリン・コンテンポラリー・ジャズ・オーケストラのメンバーとして来日したとき、中野ZEROのステージに登場するとデジカメで客席をパチパチ撮っていたヘンな人でもある(デジカメを使う人がまだまだ多くなかったので、忘れられないのだ)。

結局、いつ聴いても肩すかし、脱力。

●参照
WHOトリオ@新宿ピットイン
マリリン・クリスペル+バリー・ガイ+ジェリー・ヘミングウェイ『Cascades』
レジー・ワークマン『Summit Conference』、『Cerebral Caverns』


ホセ・ジェイムズ『Yesterday I Had the Blues』

2015-02-15 23:37:07 | アヴァンギャルド・ジャズ

ホセ・ジェイムズのインストアライヴを観に行って、ついでにCD『Yesterday I Had the Blues』(Blue Note、2014年)も買ってサインをいただいた。ミーハーか、まあいいじゃないですか(誰に言っている)。

Jose James (vo)
Jason Moran (p, fender rhodes)
John Patitucci (b)
Eric Harland (ds)

ビリー・ホリデイ曲集ながら、別にビリーと比較する必要などない。声も時代も、もちろん性別も、背負っているものも、まったく違う。

ライヴでは、やわらかい木を磨いたあとのマチエールのような声だと思った。CDをあらためて聴いてみると、本当に滑らかだ。しかも、中性的でぞくりとする色気がある。 ジェイソン・モランの歌伴もハマっている。

男性ヴォーカルをあまり聴かないジャズファンは少なくないはずだが(わたしもその一人)、これは聴く価値がある。他の吹きこみも当たってみようかな。

●参照
ホセ・ジェイムズ@新宿タワーレコード


『徳田球一とその時代』

2015-02-15 18:08:41 | 政治

NHKにて、2000年11月27-28日に前後編に分けて放送されたドキュメンタリー『徳田球一とその時代』が再放送された。

制作統括として、永田浩三さんの名前がある。永田さんからは、以前、このブログにおいて牧港篤三『沖縄自身との対話/徳田球一伝』を紹介したところ、「政治家それも、共産党の大立者をどかんと紹介する度量が、昔はありました」とのコメントをいただいたことがある。この再放送も、公平性という観点からかけ離れたところに来てしまったメディアのひとつの抵抗だろうか。

徳田球一は、1894年、沖縄県名護市に生まれた。20代になり社会正義を抱いて上京、弁護士となる。1922年、君主制の廃止と労働者国家の実現を掲げ、日本共産党が設立される。委員長は堺俊彦、徳田は中央委員となった。1925年に治安維持法が制定され、1928年、徳田が逮捕された(その直後の大弾圧「三・一五事件」によって大勢の共産党員が検挙された)。ここから、敗戦後まで18年間の獄中生活が続くことになる。

徳田は、1934年からの7年間、網走刑務所に収監された。ここの環境が凄まじく劣悪である。便器と同居する1.25坪の独房、1日に30分の運動しか許されず、冬にはマイナス30度近くまで下がる。徳田も右手に障害を負った。

千葉刑務所に移送され、さらに「皇紀2600年」(1940年)の恩赦により、徳田も減刑され、1941年には出獄できるはずだった。しかし、非転向の政治犯を拘束し続けるための「予防拘禁制度」が治安維持法に取り入れられ、小菅の拘置所から、中野と府中の東京予防拘禁所に移されていった。ここには、宗教家や朝鮮独立運動家がおり、15名の共産党員が含まれていたという。徳田はなお勉強に努め、日本の敗戦を確信していた。

1945年8月、敗戦。しかしなお、全国で3000人ほどの解放されない政治犯・思想犯がいた。フランス人の特派員ロベール・ギランがそのことを突き止め、10月、GHQが釈放を命令する。このとき、GHQは民主化を志向しており、徳田も、GHQのことを解放軍と呼んだ。ようやく世に出た徳田はセンセーションとともに迎えられる。そして1946年の総選挙では、合法化された政党として、日本共産党がはじめて国会に議席を得る。同年には、野坂参三が帰国。おそらくこのときが、日本共産党のひとつのピークであっただろう。徳田も憎めないキャラクターで人気を博した。映像からも、そのことが納得できる。

やがて、東西冷戦が明らかな構造と化してゆき、中国では共産党軍が国民党軍を圧倒、朝鮮戦争も勃発する。それらの動きにあわせて、GHQは労働運動や民主化運動を抑えはじめる。ここにいたり、徳田は、「占領下の平和革命」から「反米独立」への方針転換を前面に押し出してくる。GHQの支配から、アメリカ帝国の支配に変わったという認識であった。吉田政権によるレッドパージや、徳田と野坂との対立があって、ついに徳田は地下に潜行する。そして、秘かに中国にわたり、孫と名乗り、「孫機関」のちの「北京機関」を設立する。ここから、日本に向けたラジオ放送「自由日本放送」を発信する。月に1回は、毛沢東・周恩来・朱徳・劉少奇と食事をしていたという。(対立した野坂も「北京機関」に参加するのだが、番組には、死の年にこのことを語る101歳の野坂の映像が挿入される。スパイ事件の発覚により日本共産党を除名された翌年のことだ。はじめて観た。)

1953年、糖尿病とその合併症を悪化させた徳田は、北京病院にて、59歳で亡くなる。1955年に北京で開かれた追悼集会では、毛や朱が出席し、劉が弔辞を読んでいる。

わたしは、徳田のことを、際立った思想によって名を残した人というよりも、非転向やアジテーションに象徴される活動の人なのだと捉えていた。しかし、この番組からは、思想と活動とを単純に分けることができないことと、徳田という人物がいかに面白い人であったかがわかる。もちろん、このことは、現在の日本共産党の姿とはまったく別の話である。

番組の最後には、徳田が翻弄された敗戦後の日本政治の移り変わりが、「日本の民主主義のありよう」を問いかけているのだというナレーションが入っている。納得である。それはつまり、敗戦時に集団的記憶として共有すべきだったものが曖昧に解体されたということであり、責任も敢えて曖昧なままに放置されたということであり、主体性を欠いたままアジアに対峙するコマとして扱われたということである。

●参照
牧港篤三『沖縄自身との対話/徳田球一伝』


MOPDtK『Blue』

2015-02-15 09:42:59 | アヴァンギャルド・ジャズ

Mostly Other People Do the Killing (MOPDtK)の新作『Blue』(Hot Cup Records、2014年)。このあとにも『Hannover』が出ているので録音上の最新作かどうかわからない。デジタル配信中心だったのか、CDがほとんど出回っていなかったのだが、先日ディスクユニオンで1枚だけおいてあるのを発見した。来日したジョン・イラバゴンが持ち込んだものかもしれない(ライヴ会場には並べていなかったが)。

Peter Evans (tp)
Jon Irabagon (as, ts)
Ron Stabinsky (p)
Moppa Elliott (b)
Kevin Shea (ds)

これまでのMOPDtKと違い、ピアニストを含めたクインテット編成である。というのは、マイルス・デイヴィスの「大」が付く名盤『Kind of Blue』(1959年)を演奏するためだ。

『Kind of Blue』へのオマージュとか、『Kind of Blue』にインスパイアされたとか、『Kind of Blue』と同じ曲を演奏しているとか、ではない。『Kind of Blue』を演奏しているのである。そんなこと予想もしていなかったので、聴き始めて仰天した。まるっきり『Kind of Blue』なのだ。何か違うなという違和感すらあまりない。『Kind of Blue』を棚から探して聴き比べる気にならないほど、クリソツである。

つまり、ピーター・エヴァンスのトランペットはまったくマイルスであり、モッパ・エリオットのベースはまったくポール・チェンバース。ケヴィン・シェアのドラムスはたぶんジミー・コブ(たぶん、というのは、あまりコブに注目して聴いていなかったから)。

そして過激なことに、ピアノとサックスのふたりは一人二役である。ロン・スタビンスキーは、「Freddie Freeloader」では軽快なウィントン・ケリー節を披露し、その他の4曲ではビル・エヴァンスの抑制したプレイを行う。ジョン・イラバゴンにいたっては、左トラックでジョン・コルトレーンそのもののテナーを吹いた直後に、右トラックでは哄笑しながら飛翔するようなキャノンボール・アダレイのアルトソロ。

もう見事という他はなく、唖然としてしまうのだが・・・。これまではジャズの歴史をサカナにして遊び、リスペクトなのか不敬なのかよくわからないところが魅力でもあったのだ。それが、即興の1音1音にいたるまでまったくのコピーである。本人たちは愉しみまくっているのだろうし、冗談でないほどの力量がなければこんなことはできない。わたしは無意味とは言わない、過激と言う。しかし、何を考えているのか。

冗談といえば、最近ツイッター上で展開された愉快なやり取り。

マット・ウィルソン「パフォーマンスを説明するときに"killing"なんて言葉を使うのをやめないか?」
ジャズ・ライター「最近は"killing"のかわりに"dope"が使われているよ」
ジョシュア・レッドマン「Mostly Other People Do the Dope」
ジョシュア・レッドマン「Mostly Other People Do the Fuc...」
ウォルター・スミス三世「spin-off bandだっけ?」
ジョシュア・レッドマン「絶対にオーディションを受けようと思っているバンドだ」
ウォルター・スミス三世「もし新しいバンド名なら、"blow"のサントラを一音ずつ再現したらどうだ」
ジョン・イラバゴン「??? 失敬な。時間とエネルギーの無駄だ、まったくバカバカしい。俺が入っているんだよ」
ウォルター・スミス三世「爆笑」
ジョシュア・レッドマン「Mostly Other People Do the Gigging」

●参照
MOPDtK『Forty Fort』
MOPDtK『The Coimbra Concert』
ジョン・イラバゴン@スーパーデラックス
直に聴きたいサックス・ソロ その2 ジョン・イラバゴン、柳川芳命


アンブローズ・アキンムシーレ『Prelude』

2015-02-14 09:04:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

アンブローズ・アキンムシーレ『Prelude』(Fresh Sound、2008年)。

Ambrose Akinmusire (tp)
Aaron Parks (p)
Joe Sanders (b)
Justin Brown (ds)
Chris Dingman (vib)
Walter Smith III (ts)
Junko Watanabe (vo: 1,5,7)
Logan Richardson (as: 5,9)

巷から周回遅れでアキンムシーレにアプローチしているわけだが(最新作を機内で聴いてピンとこなかったこともあり)、なんだ、こんなに素晴らしいトランぺッターだったのかと思っている。

何しろニュアンス、機微、情感といったものが、音色の体液となって循環している。かと言って、単にモダンジャズの目抜き通りを歩いている感覚があるわけでもなく、これは新鮮だ。ときに粘り、ときに引っ張る。聴いてよかった。

粘るといえば、アーロン・パークスのピアノとキーボードも粘る。ジャスティン・ブラウンのドラムスは雲の中で伸縮しているような柔軟性があって、これもまた良い。

●参照
ヴィジェイ・アイヤー『In What Language?』(アキンムシーレ参加)