Sightsong

自縄自縛日記

亀戸の純レバ丼と餃子

2016-05-31 23:42:24 | 関東

先日久しぶりに亀戸を歩いたらまた行きたくなって、平日のランチを亀戸でとることにした。

■ 菜苑

錦糸町と亀戸との間あたりにあって、12時前に着くと既にほとんど満席。「純レバ丼」が有名であり、お店の人や通は単に「レバ丼」と呼んでいる。甘辛味のレバーがどろりとご飯の上に盛ってあり、さらに大量の葱。厨房ではひたすら葱をタンタンタンと刻んでいる。

さほど辛くはないが、混ぜて食べているうちに顔が温まってくる。何で味付けしているのだろう、確かに癖になりそうな。

■ 亀戸餃子

昔何度も食べたのだが、亀戸に用事がない今となってはなかなか寄りづらい。しかも、夜は18時半で暖簾をおろしてしまうため、帰り道に食べに行くことが難しい。そんなわけで久しぶりである。

入ると自動的に一皿目が出てくる。座る人は必ず二皿を食べなければならないルールである。とは言え、ビール瓶の横に皿を積み上げている人が多い。(わたしは愚かにも上の店からランチハシゴをしたので二皿のみ。)

厨房では餃子を焼く音と、ときどき最後に水を差して激しいジュワーという音。これを何年も何年も繰り返していて、旨くないわけがないのだ。サイズは大きすぎず小さすぎず。片面が揚げに近いほど焦んがりと焼けていて、キャベツやニラや挽肉からなる普通の具が詰まっている。これが固まるでもばらけるでもなく絶妙である。思い出しただけでまた一皿追加してもらいたくなる。

ところで今の亀戸には、ホルモン屋と同じように、餃子屋もいくつもある。別の店を含め、亀戸カラーとなっているのかどうか、これからの研究対象である。あっ、蒲田にもまた行って羽根つき餃子を食べないと。

●参照
亀戸事件と伊勢元酒場


パスカル・ニゲンケンペル『Talking Trash』

2016-05-31 09:01:21 | アヴァンギャルド・ジャズ

パスカル・ニゲンケンペル『Talking Trash』(clean feed、2014年)を聴く。

Le 7ème Continente:
Joris Rühl (cl, amplification)
Joachim Badenhorst (cl, amplification)
Eve Risser (prepared p)
Philip Zoubek (prepared p)
Julián Elvira (pronomos, sub-contrabass fl)
Pascal Niggenkemper (b, composition)

クラリネットふたり、プリペアド・ピアノふたり、「サブ・コントラバス・フルート」、そしてニゲンケンペルのベース。

持続するベースの基底音があり、それが電気とパフォーマンスとによって絶えず胎動し、不穏な生命のサウンドを創りだしている。それに刺激と力を与えるピアノ、不安の歌をうたうクラリネット。怯えながら、葉や苔や柔らかい土を踏みながら、薄暗い森の中を歩いていくような音楽である。

●パスカル・ニゲンケンペル
ハリス・アイゼンスタット『Canada Day IV』(2015年)
ジョー・ヘルテンシュタイン『HNH』(2013年)


イングリッド・ラウブロック+トム・レイニー『Buoyancy』

2016-05-30 23:33:09 | アヴァンギャルド・ジャズ

イングリッド・ラウブロック+トム・レイニー『Buoyancy』(Relative Pitch Records、2014年)を聴く。

Ingrid Laubrock (ss, ts)
Tom Rainey (ds)

イングリッド・ラウブロックのサックスは決してこれ見よがしでもケレン味があるわけでもなく、持てるエネルギーをぶち込む熱演型でもない(もっとも、実際にはそんなに余裕綽綽で吹いているわけではなかったが)。周囲の空気を取り込んで一体化するような感覚があって、ちょっと馥郁たる香りとでもいうのだろうか。今回はドラムスとのデュオということで、そのあたりの振幅の大きな彼女のサックスを十分に味わうことができた。

そして相方のトム・レイニーは、サウンドをドライヴするでも鼓舞するでもない。軽いといえば軽いのかもしれないが、さまざまな色の火花をあちこちではじけさせているようで、これがラウブロックの豊かな音と相まって、時間を忘れさせてくれる。

●イングリッド・ラウブロック
イングリッド・ラウブロック UBATUBA@Cornelia Street Cafe(2015年)
ヴィンセント・チャンシー+ジョシュ・シントン+イングリッド・ラウブロック@Arts for Art(2015年)
アンドリュー・ドルーリー+ラウブロック+クラウス+シーブルック@Arts for Art(2015年)
イングリッド・ラウブロック『ubatuba』(2014年)
イングリッド・ラウブロック、メアリー・ハルヴァーソン、クリス・デイヴィス、マット・マネリ @The Stone(2014年)
イングリッド・ラウブロック(Anti-House)『Roulette of the Cradle』(2014年)
アンソニー・ブラクストン『Ao Vivo Jazz Na Fabrica』(2014年)
ネイト・ウーリー『Battle Pieces』(2014年)
アンドリュー・ドルーリー『Content Provider』(2014年)
トム・レイニー『Hotel Grief』(2013年)
トム・レイニー『Obbligato』(2013年)
イングリッド・ラウブロック(Anti-House)『Strong Place』(2012年)
クリス・デイヴィス『Rye Eclipse』、『Capricorn Climber』(2007、2012年)
イングリッド・ラブロック『Who Is It?』(1997年)

●トム・レイニー
イングリッド・ラブロック UBATUBA@Cornelia Street Cafe(2015年)
イングリッド・ラブロック『ubatuba』(2014年)
イングリッド・ラブロック、メアリー・ハルヴァーソン、クリス・デイヴィス、マット・マネリ @The Stone(2014年)
イングリッド・ラブロック(Anti-House)『Roulette of the Cradle』(2014年)
トム・レイニー『Hotel Grief』(2013年)
トム・レイニー『Obbligato』(2013年)
イングリッド・ラウブロック(Anti-House)『Strong Place』(2012年)
クリス・デイヴィス『Rye Eclipse』、『Capricorn Climber』(2007、2012年)
イングリッド・ラウブロック『Zurich Concert』(2011年)
ティム・バーン『Electric and Acoustic Hard Cell Live』(2004年)


北井一夫『流れ雲旅』

2016-05-30 21:26:24 | 写真

この日曜日に青山のビリケンギャラリーに足を運び、北井一夫『流れ雲旅』を観た。

てっきり、つげ義春+大崎紀夫+北井一夫『つげ義春流れ雲旅』(朝日ソノラマ、1971年)の復刻なのだろうと思い込んでいたが、そうではなかった。今回の作品は北井さんの写真集なのであり、しかも、そのほとんどは改めて選ばれ、新たにプリントされている。

在廊されていた北井さんに伺ったところ、今回はプリントはご自身ではなく他の方に焼いてもらったのだということ。そして、ほとんどは当時使っていたキヤノンの25mm(ボディはキヤノンのIIBかIVSb)で撮られたのだということだった。この25mmは癖玉で、北井さん曰く、「結局は信用できなかった」。しかし、その癖は実にいい効果をあげていて、青森県東通村の民家の前で撮られた家族写真には見事な光芒が写り込んでいる。一方で、青森津軽の森の中に立つ馬も激しい逆光で撮られているものの、写りは現代のレンズのようにクリアだ。北井さんによれば、個体差もあり、また使い方によってずいぶん違うのだという。

それにしても素晴らしく沁みる写真群だ。青森も、四国のお遍路も、九州の国東半島もある。いくつかには、当然、つげ義春さんや、ご夫人の藤原マキさんが写っていて、実に味がある。既につげさんの写真にはすべて買い手がついていた。

今回出された写真集(ワイズ出版)を求め、せっかくなので、手持ちの古い『つげ義春流れ雲旅』にご署名をいただいた。前日の展示初日にはなんとつげ義春さんご本人もいらしたそうで、「昨日来ればふたりの署名が並んだのに」と笑いながら言われてしまった。

帰宅してから新しい写真集を紐解いてみると、確かに違う。東通村の民家の写真が、左右がトリミングされず、良い印刷がなされているのは嬉しい。また、恐山の宿で部屋を覗き込む少女は、今回の写真ではなんと笑っている。下北半島尻老の海岸の写真では、前の版では遠くから遊ぶ少年をとらえていたところ、今回はより近く寄って座り込む少年たちを写している。眼が悦ぶような、新鮮な驚きがあった。

北井さんは既にソニーのデジタル一眼を使っている。以前に尋ねたときには、まだ試している段階だとのことだったが、この日は、そろそろ発表を考え始めてもいいかなと呟いていた。50mmと35mmのエルマーをアダプターで付けておられるそうである。来るべきデジタル・カラーの北井写真を観る日が楽しみだ。


東通村、旧(左)と新(右)


恐山、旧(左)と新(右)


下北半島尻労、旧(左)と新(右)

●北井一夫
『COLOR いつか見た風景』
『いつか見た風景』
『道』(2014年)
『Walking with Leica 3』(2012年)
『Walking with Leica 2』(2010年)
『Walking with Leica』(2009年)
『北京―1990年代―』(1990年代)
『80年代フナバシストーリー』(1989年/2006年)
『フナバシストーリー』(1989年)
『英雄伝説アントニオ猪木』(1982年)
『新世界物語』(1981年)
『ドイツ表現派1920年代の旅』(1979年)
『境川の人々』(1978年)
『西班牙の夜』(1978年)
『ロザムンデ』(1978年)
『遍路宿』(1976年)
『1973 中国』(1973年)
『湯治場』(1970年代)
『村へ』(1970年代)
『過激派』(1965-68年)
『神戸港湾労働者』(1965年)
大津幸四郎・代島治彦『三里塚に生きる』(2014年)(北井一夫出演)


東松照明『光源の島』

2016-05-29 23:57:14 | 沖縄

新宿ニコンサロンにて、東松照明『光源の島』を観る。

この大写真家の死後、宮古島において見つかったカラープリントから選ばれた69点は、1973年から91年の間に撮影されたものであるという。沖縄本島も、宮古島や石垣島も、渡嘉敷島や久高島など本島近くの離島もある。またスクエアも35ミリもある。

もっとも強く受ける印象は、ぎとぎとといってもいいほどの原色群だ。それは日中であってもフラッシュを焚いて撮られているからでもある。そして被写体としては、主に、祭祀をとりおこなう人たち、昔の生活文化を保持している老人、海人などが多い。あまりにもわかりやすい、南島に向けられた視線と演出である。

確かに写真は素晴らしい。しかし、東松照明という思想を脇に置いて、何だか素晴らしいものでしょう、と提示する行為に見えてならない。会場に置いてあったカメラ雑誌に企画監修を行った評論家の文章が書かれていて、驚くほど何も書かれていなかった。

●参照
平敷兼七、東松照明+比嘉康雄、大友真志
東松照明『光る風―沖縄』
「琉球絵画展」、「岡本太郎・東松照明 まなざしの向こう側」、「赤嶺正則 風景画小品展」
豊里友行『沖縄1999-2010』、比嘉康雄、東松照明
東松照明の「南島ハテルマ」
東松照明『新宿騒乱』
青木亮『二重被爆』、東松照明『長崎曼荼羅』
沖縄・プリズム1872-2008
仲里効『フォトネシア』
仲里効『眼は巡歴する』


ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』

2016-05-29 10:13:43 | ヨーロッパ

ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』(岩波文庫、原著1955年)を読む。

底本は1955年版だが、初稿が書かれたのは1938年、ブレヒトが既にナチスドイツを脱出した後のことである。ブレヒトの作品はヒトラー政権によって弾圧され、亡命後は焚書の対象となっている。

一読すると、この物語は17世紀初頭における「固陋な宗教界、対、真理を求める科学者」の構図のように見える。実際に、本書の表紙に書かれた文句はそれを意識したもののようだ。しかし、それは皮相な見方に過ぎない。ガリレオを英雄視する視線はあくまで大衆受けする物語なのであり、実際のところ、このガリレオ事件は宗教界における許容と拒絶とのフリクションだった(田中一郎『ガリレオ裁判』)。

ブレヒトの視線は実に複眼的である。主役はガリレオでも宗教界の権力でも政治権力でもなく、むしろ、大衆なのだった。そしてブレヒトが大衆に向けるまなざしは決してあたたかくはない。それは、ガリレオという「科学者」の存在を二次利用して物語をつくりあげ、その過程で容易におかしな方向へ自己誘導されていく大衆の姿である。またガリレオを英雄視し、拷問の恐怖から折れた彼を侮蔑する者は、他者を手段として扱うという点で倫理に背いていた。

「科学者」が社会とのかかわりを顧みず「真理」を追究する姿に対するブレヒトの視線もまた複雑だ。この作品が何度も書き換えられていく途中で、2度の原爆投下があって、そのことも作品に反映されている。また、「真理」による「新しい社会」は実際のところ幻惑に過ぎないという、ブレヒト自身の苦い経験があった。もちろん、「真理」を理解できない宗教権力も政治権力もシニカルに描かれているのだが、その一方で、ガリレオにもまた狡猾で偏狭な性格を持たせている。

さまざまな読み方ができる、再読すべき作品に違いない。

●参照
田中一郎『ガリレオ裁判』


川下直広カルテット@なってるハウス

2016-05-29 08:03:18 | アヴァンギャルド・ジャズ

入谷のなってるハウスに足を運び、新作『初戀』を出したばかりの川下直広カルテット(2016/5/28)。

Naohiro Kawashita 川下直広 (ts)
Koichi Yamaguchi 山口コーイチ (p)
Futoshi Okamura 岡村太 (ds)
Daisuke Fuwa 不破大輔 (b)

最初にバート・バカラックの「Alfie」、それからホイットニー・ヒューストンの「Saving All My Love for You」、チャーリー・ヘイデンの「First Song」、スタンダード「Misty」、スキータ・デイヴィスが歌った「The End of the World」、カル・マッセイの「Things Have Got to Change」なんかを演って、最後は尾崎豊の「I Love You」。「Misty」においては最初のテナーのカデンツァが激しく、みんな笑いながら愉しそうに入っていった。そして「I Love You」は原曲のメロディーが命だとばかりに即興のソロ廻しはせず吹きあげた。

ヴィブラートが大きく効いていて、音色が濁った川下さんのテナー。つなぎの音にいつもの川下節があらわれる。そして吹く曲はスタンダードやポップス、この硬軟の懐の深さがたまらないのだった。

岡村さんと不破さんはここでは駆動力。シームレスなソロを展開する山口さんのピアノはやはり面白かった。

zu-jaさんも聴きに来ていて、ジャズのことばかり四方山話。

Fuji X-E2、XF35mmF1.4 

●参照
渡辺勝+川下直広@なってるハウス(2015年)
のなか悟空&元祖・人間国宝オールスターズ『伝説の「アフリカ探検前夜」/ピットインライブ生録画』(1988年)
『RAdIO』(1996, 99年)


トニー・マラビー『Incantations』

2016-05-28 14:01:15 | アヴァンギャルド・ジャズ

トニー・マラビー『Incantations』(clean feed、2015年)を聴く。

Paloma Recio:
Tony Malaby (ts, ss)
Ben Monder (g)
Eivind Opsvik (b)
Nasheet Waits (ds)

ここではマラビーはソプラノとテナーを吹いている。透明感のあるソプラノ、どっしりとしたテナーのいずれも、無数の異なる周波数の集合体として実に重層的な音を出しており、変わらず素晴らしい。clean feedレーベルの本盤のサイトでは、「メインストリーム」と「アヴァンギャルド」とは相反するものではなく、マラビーにとってはコインの両面なのだと煽ってあり、これはまさに言い得て妙。現代最強のサックス奏者の称号を贈ろう。(何がどのように?)

このグループのよさはベン・モンダーの参加にもある。まるで並行する別宇宙で超然として別文脈のギターを鳴らしていて、ときおりこちらの世界に飛び移ってきて基底音となったり絡みあったりするようなイメージ。また、アイヴィン・オプスヴィークのベースはこんなに重たかったのかという発見もある。

最後の17分以上にわたる「Procedure」では興奮必至。

●トニー・マラビー
アイヴィン・オプスヴィーク Overseas@Seeds(2015年)
ハリス・アイゼンスタット『Old Growth Forest』(2015年)
ジェシ・スタッケン『Helleborus』(2014年)
クリス・ライトキャップ『Epicenter』(2013年)
トニー・マラビー『Scorpion Eater』、ユメール+キューン+マラビー『Full Contact』(2013、08年)
トニー・マラビー『Adobe』、『Somos Agua』(2003、13年)
リチャード・ボネ+トニー・マラビー+アントニン・レイヨン+トム・レイニー『Warrior』(2013年)
チェス・スミス『International Hoohah』(2012年)
アイヴィン・オプスヴィーク『Overseas IV』(2011年)
ポール・モチアンのトリオ(2009年)
ダニエル・ユメール+トニー・マラビー+ブルーノ・シュヴィヨン『pas de dense』(2009年)
トニー・マラビー『Paloma Recio』(2008年)
アイヴィン・オプスヴィーク『Overseas III』(2007年)
クリス・デイヴィス『Rye Eclipse』(2007年)
アイヴィン・オプスヴィーク『Overseas II』(2004年)


ジョージ・コールマン『A Master Speaks』

2016-05-28 07:13:17 | アヴァンギャルド・ジャズ

あっと驚くジョージ・コールマンの新作、『A Master Speaks』(Smoke Sessions Records、2015年)。いまもNYで時折吹いているとの記事を読んではいたが、このように形にして出してくれると妙に嬉しい。

George Coleman (ts)
Mike Ledonne (p)
Bob Cranshaw (b)
George Coleman, Jr. (ds)
Peter Bernstein (g)

やはり普通のジャズ・ファンとしては、再生ボタンを押してピアノ・トリオの音が飛び出てくると無条件に気持ちが引き上げられるものだ。ヴェテラン、ボブ・クランショウのベースもよく鳴っているし、これが初録音だという息子ジョージ・コールマン・ジュニアのドラムスは小気味よくスイングしている。

ところが肝心のジョージ・コールマンのテナーが吹き始めると、ヘンにエコーがかかっていて、これでは下手するとムード歌謡。もうちょっとソリッドな録音をしてくれなかったものかと思うが、聴いていくと気にならなくなる。この人もいい感じに枯れて勢いをどこかに棄て、手癖と味だけが残っている。その結果としてのムード歌謡のあやうさならばむしろ歓迎というべきか。

「Blues for B.B.」はB.B.キングに捧げたものであり、この1曲だけギターのピーター・バーンスタインが参加している。イントロがまるで「Georgia on My Mind」だが、かつてコールマンがB.B.キングと共演したのは隣のテネシー州メンフィス。それにしても気持ちよく吹いているブルース。B.B.キングとの共演は、コールマンがシカゴに出ていく前の若い頃だということで(その後NY)、録音なんか残っていないんだろうなあ。クリフォード・ジョーダンがレッドベリーに捧げたアルバムを作ったように、ジョージ・コールマンの、もろブルースの作品も吹き込んでほしいものだ。

●参照
アーマッド・ジャマル『Ahmad Jamal A L'Olympia』(2001年)(ジョージ・コールマン参加)
エルヴィン・ジョーンズ『Live at the Village Vanguard』(1968年)、ジョージ・コールマン『Amsterdam After Dark』『My Horns of Plenty』(1978、1991年)
Timelessレーベルのジョージ・コールマン(1975、77年)
シダー・ウォルトンの映像『Recorded Live at the Umbria Jazz Festival』(1976年)(ジョージ・コールマン参加)
マックス・ローチの名盤集(1955-61年)(ジョージ・コールマン参加)


平出隆『ウィリアム・ブレイクのバット』

2016-05-27 07:02:27 | スポーツ

平出隆『ウィリアム・ブレイクのバット』(幻戯書房、2004年)を読む。同じ著者の『白球礼讃』や『ベースボールの詩学』が滅法面白かったこともあって、古本屋の棚に見つけて即購入決定。

本書はごく短い連載エッセイを集めたものであり、それだけに、この詩人の話の切り上げ方が潔く、ちょっとほれぼれする。海外滞在のこと、自動車免許取得の苦労話、クルマや中古カメラへの偏愛、そしてもちろん野球のことなんかが書かれている。文体は気取ってはいるものの、ときに自虐的でもあったりして、威張ろうとか自慢しようとかいった魂胆などはまるで見えない。なるほど、文章はこうあらねばならない。

ときどき登場する画家、ドナルド・エヴァンス。かれはアメリカで生まれ、架空の国の架空の切手を書き続けた。通貨や言語も、文化や歴史や政治も妄想した上で、である。そしてオランダにおいて火事に巻き込まれ、31歳のごく短い生を終えた。頭の中にひっかかって離れないもの、小さなもの、極めて個人的なものにこだわって、それをやはり個人的な形にしていったところが、この詩人にも重なってみえる。

それにしてもこの一節。

「あれから私は、なんと多くの失敗をやらかしてきたことだろう。思うだけで気が遠くなる。落としもの。忘れもの。見過し。乗り過し。書き損じ。打ち損じ。サードゴロエラー。器物損壊。自己破損。激昂。寝坊。いうべきだった一言。いわなければよかった一言。エンスト。
 そうしたものは、今日もやったし、明日もやるだろう。」

●参照
平出隆『ベースボールの詩学』、愛甲猛『球界の野良犬』


大矢内愛史『ひくれてよもはくらく』

2016-05-27 00:39:06 | アヴァンギャルド・ジャズ

大矢内愛史『ひくれてよもはくらく』(Armageddon Nova、2015年)を聴く。

Aishi "fermata" Oyauchi 大矢内愛史 (curved ss)

函館の大ヴェテランによる、カーヴド・ソプラノを使った完全ソロ。冒頭曲が讃美歌の「Abide With Me」みたいだなと思っていたら、何のことはない、それこそが「日暮れて四方は暗く」なのだった。その他の曲は「かぜ」と名付けられた連作。

やはり、音の長い合間にも息を吹き込み続けている。音を出すときにもマウスピースの隙間からエアを放出し、管の中にもエアや唾を吹き込むノイズがしていて、まるで燃費が悪い昔のアメ車のようだ。もちろんそれが人間臭くてとてもいいと思うのである。

●参照
『大矢内愛史の世界 wrong exit』(2014年)
明田川荘之『ライヴ・イン・函館「あうん堂ホール」』(2013年)


『《《》》』(metsu)

2016-05-26 07:08:04 | アヴァンギャルド・ジャズ

『《《》》』(metsu)(Flood、2014年)を聴く。

《《》》are
Teruyuki Oshima 大島輝之 (g, PC)
Kayu Nakada 中田粥 (Bugsynthesizer, key)
Yuma Takeshita 竹下勇馬 (elb)
Yuji Ishihara 石原雄治 (da)
Guest Musicians:
Yo Irie 入江陽 (p, voice)
Hikaru Yamada 山田光 (as, electronics)

中心なき、寄る辺なき世界。各人は大きな物語やノリやコードや時間進行や場の共有といったものに背を向けて、どこを切っても起点のサウンドを生み出している。権力を過激に無化したデイヴィッド・モスをはじめて聴いたときの驚きと、若干の拒絶感を思い出してしまった。

細田成嗣さんが、「JazzTokyo」誌でのレビューにおいて「痙攣的/発作的なノイズ」とそれとは対照的な「意外にもリズミカルなグルーヴ」が見いだせると書いていて、なるほどと共感する。しかもこのサウンドは、神保町視聴室におけるライヴ録音でありあとから重ね合わせたり切り貼りしたものではない。聴衆との場の共有を前提としていないサウンドなのかもしれないが、それを共有したらさぞ愉しい時間だろう。


田中克彦『モンゴル―民族と自由』

2016-05-25 21:48:32 | 北アジア・中央アジア

田中克彦『モンゴル―民族と自由』(岩波同時代ライブラリー、1992年)を読む。

本書は、主にペレストロイカ後の激動期において、モンゴルがソ連~ロシアという主から離脱したプロセスを、ルポのような形で描いている。

モンゴル革命を経て社会主義国となったモンゴルだが(1924年)、実態として、すべてソ連の権力に強くしばられることになった。革命の英雄スフバートルも、何人もの首相も、ソ連にとって都合が悪くなると殺された。その一方で、スターリンにすり寄ったチョイバルサンのような為政者もいた。

このあたりの高圧的なソ連化は、政治体制だけではなかった。ブリヤートやトゥヴァは無理やりソ連の領土に入れられ、言語も奪われ、文化は塗りなおされた。著者によれば、トゥヴァとモンゴルとの間の国境線に不自然なところがあり、それは、塩が取れる場所をソ連が奪ったからだという(その結果、遊牧民はたいへんな犠牲をこうむった)。もちろん塩だけではなく、モンゴルの資源はソ連が収奪するためにあった。だからこそ、ペレストロイカ後、政党によらず、モンゴルはソ連~ロシアから離れることを強く望んだのである。現在モンゴル南部の資源開発が進められており(ちょっと足踏みしてはいるものの)、これが経済発展の目玉とされているのだが、この状態も歪められた歴史の結果としてあるのかもしれない。

民主化の時期に、自国の歴史を正当に再評価しようという動きもあったようだ。そのひとつがノモンハン事件(1939年)である。重要な視点として、関東軍の暴走であった、あるいは辻政信のような特異な人物の動きによるところ大であった、とする日本人の多くの見方は、天皇と日本帝国を免罪するはたらきを持っているのだ、という指摘がある。ノモンハン事件によらず、そのような力学が働いていることも少なくないのかなと思う。

それから、日本~満州に対して、ソ連~モンゴルという関係を対置してみるという視点もある。

●参照
田中克彦『草原の革命家たち』
小林英夫『ノモンハン事件』
木村毅『モンゴルの民主革命 ―1990年春―』


ナチュラル・ボーン・キラー・バンド『Catastrophe of Love Psychedelic』

2016-05-24 07:21:39 | アヴァンギャルド・ジャズ

ナチュラル・ボーン・キラー・バンド『Catastrophe of Love Psychedelic』(M581Records、2015-16年)を聴く。

Natural Born Killer Band:
KANKAWA (org, Moog)
Shinpei Ruike 類家心平 (e-tp)
Tamaya Honda 本田珠也 (ds)

なんだか見るからにノックアウト必至の凄いバンドである。期待していそいそと買ってきて聴いて、期待をまったく裏切らず興奮する。

KANKAWAのオルガンはリズムに乗って小気味よく弾くのではなく、絶え間なく念を送りつづけるようなでろでろのスタイルである(寒川敏彦としてジミー・スミスに捧げたアルバムも出していたはずだが、そのときのスタイルは違ったのだろうか?)。以前は好みでないと思いあまり聴いていなかったのだが、これが個性なのである。また機会があればライヴに行ってみたい。

そのでろでろの荒野において、息遣いの感じられる類家心平の電気トランペットと、本田珠也の鞭のようなドラムスが、暴れたり、ときに周りを睥睨しながら静かに爪を出し入れする。どの楽器に耳をそばだてても愉しい。

最後の曲だけ新宿ピットインでの2016年のライヴ。オルガンによる雌伏のときを経て、次第に激しく盛り上がってゆき、全員鼻血を出さんばかりである。ドラムソロは、エルヴィン・ジョーンズを聴いているときのように、こちらの鼓動を強引にパルスに合わせて動悸動悸させる。いや~カッチョいいね。

●参照
ジョー・ヘンダーソン+KANKAWA『JAZZ TIME II』、ウィリアム・パーカー『Uncle Joe's Spirit House』
守谷美由貴トリオ@新宿ピットイン(2016年)(本田珠也参加)
蓮見令麻@荻窪ベルベットサン(2015年)(本田珠也参加)
荒武裕一朗『Time for a Change』(2015年)(本田珠也参加)
鈴木勲セッション@新宿ピットイン(2014年)(本田珠也参加)
本田珠也SESSION@新宿ピットイン(2014年)
ポール・ニルセン・ラヴ+ケン・ヴァンダーマーク@新宿ピットイン(2012年)(本田珠也参加)
石田幹雄トリオ『ターキッシュ・マンボ』(2008年)(本田珠也参加)
RS5pb@新宿ピットイン(2016年)
白石雪妃×類家心平DUO(JazzTokyo)(2016年)
白石雪妃+類家心平@KAKULULU(2016年)
齋藤徹+類家心平@sound cafe dzumi(2015年)
板橋文夫『みるくゆ』(2015年)(類家心平参加) 
森山・板橋クインテット『STRAIGHTEDGE』(2014年)(類家心平参加)


三河島コリアンタウンの伽耶とママチキン

2016-05-22 11:10:52 | 韓国・朝鮮

三河島駅周辺のコリアンタウンは歴史が長く、大阪の鶴橋同様に済州島出身の人たちが多いという。確かに韓国料理店や食材店は多いのだが、新大久保のように外向けの商売で戦後さかえたわけではなく、地域の生活のなかで営んでいる印象がある。従って、このあたりで食べれば旨くないわけがない。

そんなわけで、まずは駅の北側。

■ 伽耶

外に派手な看板を置いているでもないのだが、夕刻、窓から覗き込んでみると、既に大賑わい。運よく席があった。

いくつか頼んで食べてみると、タン塩も、上カルビも旨い。そして特筆すべきことだが、ホルモンが甘くて柔らかく、吃驚するほど旨い(ホルモンが固くて味わいのないところ、あるでしょう)。訊いてみると、もう15年くらいやっているという。さすがである。

■ ママチキン

小屋のような小さなお店。なんと生マッコリを自家醸造していて、ヤカンで出されてきたそれは悪酔いなどしようはずもない甘さだった。

もうひとつの名物がフライドチキンだということで、ふつうの味かヤンニョム味かで悩んでいると、じゃあふつうの味がいいよ、ヤンニョムもおまけにつけてあげるよと嬉しいお言葉。これがまた、外がパリパリで中がホクホク、揚げたてでハフハフ。

豚足には塩辛をのせて食べる、これも旨い。そして初体験のスンデは、豚の腸にコメと糸蒟蒻(?)が詰められたもので、これだけで酒を飲むのもアリだと思った。なお、近くの細い路地にある韓国食材店・丸萬商店さんの解説によれば、済州島では豚の腸を使って「スンデ」ではなく蕎麦粉・小麦粉を詰めて「スエ」を作るそうである。そちらも食べてみたいところだが、三河島ならばその機会もあるだろう。

●参照
枝川コリアンタウンの大喜
枝川コリアンタウンのトマトハウス
赤坂の兄夫食堂再訪、新大久保のモイセ
赤坂コリアンタウンの兄夫食堂
荻窪のコチュナム
韓国冷麺
鶴橋でホルモン(与太話)
中国延辺朝鮮族自治州料理の店 浅草の和龍園
ソウルのオモニチプ
旨いウランバートル(Biwon、ピョンヤン)
旨いウランバートル その2(Sorabol、ピョンヤン)
旨いウランバートル その3(ピョンヤン)