Sightsong

自縄自縛日記

大島渚『Kyoto, My Mother's Place』

2015-05-04 07:28:10 | 関西

大島渚『Kyoto, My Mother's Place』(1991年)を観る。

大島渚が、英BBCから依頼されて撮った1時間弱のテレビドキュメンタリーである。なお、大島の意向により16ミリフィルムが使われており、フィルムならではの淡く美しい映像となっている。『戦後50年 映画100年』に収録されたシナリオを読んで以来ずっと観たいものだと思っていたが、2014年にようやくDVD化された。

京都は大島が生まれた場所ではない。瀬戸内の海の近くに生まれ(そのために渚と命名された)、「王子」のような幼少時代を送っていたが、小学1年を終えたころ、父親の死により、母親の実家がある京都に越してくることになる。そこは、タイトルにあるように、自分の土地ではなく母の土地であった。

開放から閉鎖へ、明から暗へ。大島は京都を憎んだ。

「権力者にはそむかず……
 隣近所に気を使い……
 摩擦を起こさず……
 火事を出さず……
 美しく飾り……
 何事にも堪え忍ぶ……
 こうして美しい京都は完成した。
 若い私にはそれが我慢ならなかった。
 どうして堪え忍ばなければならないんだ。
 京都なんか燃えてなくなればいいんだ。
 私は中世末期の戦乱の中の英雄、織田信長のことを考えていた。」

この怨嗟の声を裏返しにするとまさに大島渚の作品になる。大島が(外国向けということもあってか)外から第三者が観察したように京都の歴史を語ってみせることも興味深い。町家や街路や寺を撮るカメラアングルには、悪意が漲っている。

その一方で、語りの中と声の表情に、憎しみとは正反対の愛情も同時に強く感じられることが、実に面白い。

●参照
大島渚『飼育』(1961年)
大島渚『忘れられた皇軍』(1963年)
大島渚『青春の碑』(1964年)
大島渚『アジアの曙』(1964-65年)
大島渚『大東亜戦争』(1968年)
大島渚『新宿泥棒日記』(1969年)
大島渚『少年』(1969年)
大島渚『夏の妹』(1972年)
大島渚『戦場のメリークリスマス』(1983年)


森まゆみ+太田順一『大阪不案内』

2014-12-29 09:04:01 | 関西

森まゆみ(文章)、太田順一(写真)による『大阪不案内』(ちくま文庫、2009年)を読む。

もとは雑誌の連載なのだろうか、大阪のあちこちが紹介されている。蘊蓄を傾けていたりもするが、大概は、地元の人たちとの会話だとか、海老フライを食べただとか。もとより、タイトルにも「不案内」とあり、「不案内」な著者が大阪を歩いての印象は、結果として「案内」にはなっていない。それでも、たまに仕事でのみ、それもほとんどは日帰りで行くわたしのような人間には面白い。

これを読んで。

○ 東京の「京橋」と大阪の「京橋」とは、アクセントの位置が違うんだな。
○ 坂が多い空堀商店街(万城目学『プリンセス・トヨトミ』に登場)で、お好み焼きを食べたい。
○ 古くからの洋食屋を目指すべし。
○ たれを刷毛で塗る伝統的な大阪の寿司屋を目指すべし。(わたしは布施の「すし富」に2回ほど行っただけだが、安くて感動的に旨かった。)

旧・猪飼野の写真集を出している太田順一の写真も優しくてとても良い。そういえば、2台のライカM6にズミルックス35mmF1.4を付けたものの、レンズの性能がひどかったという記事を読んだことがあるが、これもズミルックスによるものだろうか。

●参照
北井一夫『新世界物語』


大阪の寿司は醤油を刷毛で塗る

2014-03-15 21:14:53 | 関西

大阪に行ったついでに、布施にある「すし富」に足を運んだ。

Nikon V1, 1 NIKKOR VR 30-110mm f/3.8-5.6 で撮影

以前に紹介してもらって食事をしたとき、これは旨いと感激した。そんなわけで2回目なのだ。

前回、味のほかに驚いたことがあった。カウンターの上に、醤油とタレの小さい壺が置いてあり、中に刷毛が入っている。自分で寿司の上に塗るのである。どうやら、大阪の寿司の伝統でもあるらしい。

ご主人曰く、「大阪では寿司を箸で食べるんですよ。そしたら、小皿の醤油に付けるのはやりにくいでしょ?最近はわりと少なくなりましたけどねえ。」

まぐろの赤身も、大トロも、活海老も(醤油を塗ったらぴくぴく動いた)、その頭を焼いてくれたものも、ひらめの上にエンガワと芽葱をのっけたものも、うなぎも、げそも、それはもう、ひとつひとつが旨かった。早くまた大阪に行かなければ。

iphoneで撮影


高畑勲『かぐや姫の物語』

2014-01-02 21:23:45 | 関西

高畑勲『かぐや姫の物語』(2013年)を観る。

墨の線による淡い色彩のアニメが、男鹿和雄の背景美術と見事に融け合っていて、見事。仰天、驚愕。ハイテクかつアナログ、大変な地点にまで来ているのではないか。

これは倫理の物語であり、また、ケガレ論でもあるようにも思えた。かぐや姫は、ケガレとの境界を行き来し、その上で、ケガレの境界を引きなおし、そこに豊饒な生命をあらためて見出していくことになる。

●参照
高畑勲『じゃりん子チエ』(1981年)
男鹿和雄展、『第二楽章 沖縄から「ウミガメと少年」』


鈴木則文『忍者武芸貼 百地三太夫』

2013-12-28 23:38:05 | 関西

鈴木則文『忍者武芸貼 百地三太夫』(1980年)を観る。

織田と豊臣に滅ぼされんとする伊賀忍者の百地三太夫(真田広之)。豊臣に仕える甲賀忍者の不知火将監(千葉真一)。徳川に仕える、やはり伊賀忍者の服部半蔵。何だかよくわからない白髭の先生(丹波哲郎)。百地が逃げていた先の明国で知り合った愛蓮(志穂美悦子)。

あきらかにJAC(ジャパンアクションクラブ)を売り出すプログラム・ピクチャーなのだが、ひたすら下らなくて面白い。石川五右衛門は大勢での創作であった、とか、明から何故か真田広之を追いかけてきてチャイナドレスとヌンチャクで闘う志緒美悦子とか、冗談のように目をひん剥いて千葉真一を演じる千葉真一とか、いちいち笑ってしまう。もう、「面白ければ何でもいいや」である。いや~、いいね鈴木則文。

ミャンマーでは千葉真一(サニー千葉)を知らぬ者がないほど大人気。今年訪れたヤンゴンでは、タクシー運転手が、水を向けた途端に待ってましたとばかりに雄弁にサニー千葉のことを語りはじめた。彼はこの映画も観たのかな。


溝口健二『雨月物語』

2013-05-26 00:22:01 | 関西

久しぶりに、溝口健二『雨月物語』(1953年)を観る。ブックオフに韓国版DVDが500円で置いてあったのだが、もう著作権も切れたということだし、本屋のワゴンにでも廉価版が売っていたりするのかな。

戦国時代、琵琶湖の北の畔。窯で器を焼いて生計を立てる男とその妻子。隣には、侍になりたいと妄想する馬鹿男とその妻。戦のどさくさで焼き物が売れに売れ、あぶく銭を手にしてしまった男たちは、金と欲に目が眩む。かたや、成仏できずにさ迷う亡霊に憑りつかれ、かたや、手にした銭で武具を買い、出世を狙う。

溝口健二は、妥協を知らない職人だったという評価をどこかで読んだ記憶がある。名作として称えられるこの映画を観ると、確かにそうだったのだろうと確信してしまう。

焼き物を積んで霧の中を漕ぎだす湖の場面は、宮川一夫の撮影手腕もあるのだろうが、実に見事。唐突にあらわれる亡霊の姫様(京マチ子)の妖艶さ、男が化かされる屋敷でやはり突然カメラが向けられる甲冑の迫力には、文字通り、吃驚してしまう。男が命からがら戻った家で、真っ暗ななか蝋燭が灯され、妻(田中絹代)の顔が浮かび上がる確信犯的な場面。すべてに隙がない。

この素晴らしいモノクロ映像は、きっと、フィルムによる上映を観たならば、さらに網膜に焼きついたことだろう。

当時の観客は、度肝を抜かれ、茫然として、あるいは陶然として、映像を凝視したに違いない。

●参照
溝口健二『雪夫人絵図』(1950年)


斉藤耕一『無宿』

2013-05-04 23:38:29 | 関西

斉藤耕一『無宿』(やどなし)(1974年)を観る。

高倉健勝新太郎が共演した唯一の映画だそうだが、そんなことを感じさせないほど相性が良い。

それに加え、梶芽衣子、安藤昇、大滝秀治、殿山泰司、石橋蓮司、山城新伍と、もう堪らぬ豪華なキャスティング。梶芽衣子は、「野良猫ロック」、「女囚さそり」、「修羅雪姫」といった当たり役をひとしきり通過したあとの演技で、恥ずかしげもなく、アンニュイに上目使いで甘えるキャラを打ち出している(もちろん、悪くない)。いやあ、みんな良い俳優だなあ。

ストーリーは任侠版『冒険者たち』といった感じで、憧れとともにフランス映画を意識したような印象が愉快。ロケ地は、京丹後あたりのようで、日本海はやはり碧い。望遠レンズを多用した撮影も効果が出ている。思いがけず良い映画に巡り合った(が、昔いちど観たような気が・・・?)。

>> 映画のスチル集

●参照
降旗康男『あなたへ』(高倉健主演)
蔵原惟繕『南極物語』(高倉健主演)
降旗康男『地獄の掟に明日はない』(高倉健主演)
健さんの海外映画
勅使河原宏『燃えつきた地図』(勝新太郎主演)


井上剛『その街のこども 劇場版』

2013-03-24 23:14:48 | 関西

井上剛『その街のこども 劇場版』(2010年)を観る。

NHKで放送されたヴァージョンを再編集して劇場公開された作品。テレビドラマ版以来3年ぶりに観たわけだが、また沁み入るような気持ちにさせられてしまった。

1995年1月17日早朝、阪神・淡路大震災。そのときに小中学生だったふたりが、15年目のその日に、神戸で出逢う。異なる体験を抱えるふたりは、何故か、真夜中に神戸の街を延々と歩くことになる。

渡辺あやの練られた脚本が良いことに加えて、大友良英の音楽、まるでホームヴィデオのようにアンビエント性を摂り込んだ撮影、それに主演ふたりの演技(森山未來、佐藤江梨子)が出色。やっぱり名作ではないか。

阪神・淡路大震災から15年目、後で振り返ってみると、東日本大震災の1年前。映画では、15年間という時間により、実際に消えたもの、記憶のなかで薄くなったもの、別の形で熟したものが、提示されていた。

いまは、東日本大震災から丸3年。出鱈目な政策を見るにつけ怒りを覚える。まだ美しく包むべきではない。

●参照
テレビドラマ版『その街のこども』
テレビドラマ版『クライマーズ・ハイ』(井上剛演出)


なんばの「千とせ」のカップ、その2

2013-01-26 01:11:40 | 関西

2年ほど前に、大阪なんばにある「千とせ」の名物「肉吸」のカップを発見したことがあるが、今度は、日清食品が、ここのカップ肉うどんを出している。

早速食べてみたが、普通のカップうどんである。何なんだ。


肉うどんカップ


「肉吸」のカップ


「肉吸」のオリジナル(2009年2月)

●参照
なんばの、「千とせ」の、「肉吸」の、カップ


北井一夫『神戸港湾労働者』

2012-12-01 23:39:32 | 関西

ギャラリー冬青で、北井一夫『神戸港湾労働者』のトークショーを聴く。相手は、東京都写真美術館の藤村里美学芸員。

曰く。

1965年、20歳で学生運動を撮り、『抵抗』を出版した氏だが、これがまるで売れなかった。それで、高校時代を過ごした神戸に戻り、しばらく港湾労働者たちの写真を撮っていた。アパートの前で暴力団の抗争があったり、毎日カメラを持ってうろうろする氏にサングラスの男(写真にも写っている暴力団員)が声をかけ、重労働をやってみたりもした。

もともと日本的なものが嫌いで、モダンジャズや米国の抽象表現主義(ジャクソン・ポロック、ジャスパー・ジョーンズ)に魅かれていた氏は、最初画家を志すも断念。金丸重嶺氏の口利きもあり日大芸術学部に入学(のちに退学)、最初はキヤノネットを使って、もっと良いカメラを買いなさいと諌められた。そのようなわけで、『抵抗』はミノルタSR-1と50mm、100mm(少し)を使った。

反抗の時代だった。高校時代はケルアックの言うジャズに憧れ、7時から開いているジャズ喫茶に立ち寄って、毎日30分くらい遅刻していた。『抵抗』は、暗室では白衣、温度計、計量カップをすべて拒否して目分量で現像した。それが自分の中のモダニズムのようなものだったが、ただの反抗でもあった。とにかく反抗していた。

『抵抗』では、被写体が皆動いてくれて意外に撮りやすかったが、『神戸港湾労働者』では、相手が怖くてあと一歩を寄ることができず、写真の大変さを自覚した。それで、ケンコーだかコムラーだかの300mmを使ったが、これが悪いレンズで、ボケボケになった。それにニコンの135mmと21mmをニコンFに付けて使った。標準レンズは使わなかった。

自分がいないと誰も学生運動を撮ってくれないからと、全学連の前進社が戻ってほしいと連絡してきた。そろそろ神戸の写真も一区切りかなと思っていたので帰り、『過激派』を撮った(12月4日から、Zen Fotoで展示)。撮った写真を翌朝までに半切にプリントしておいて、立看用に売った(500円くらい?)。これが結構良い収入になった。

フィルムを100フィート巻からスプロケットに巻くと、氏は下手で傷だらけにしてしまった。印画紙も放っておいてくっついていたりした。そんな媒体を使うと、絵でいうマチエールのようなものが出て、意図的にそのようにした。

写真ではウジェーヌ・アジェが好きだった。パリに住む人の視線だった。同様に、ジャスパー・ジョーンズも、靴やハンガーなど日常そのものをアートにした。このように日常を作品にすることは、写真に向いているのではないかと思った。『バリケード』でも、トイレットペーパーなど、そんな作品がある。

ただ、日本の写真はさほど好きではなかった(東松照明、奈良原一高、細江英公など)。中平卓馬も最初は意気投合したが、やがて政治への距離の面から話がかみ合わなくなった。中平は情緒的で相手と自分との間で宙ぶらりんな位置に身を置き、荒涼とした根なし草的なものを求めていたが、自分はもう少し自分のなかでかっちりしたものが欲しかった。

政治は強い。写真は引っ張り廻されてしまう。それで、政治と訣別し、自分の目で視ることができる対象を選んだ。日常や人を撮りたいと思った。

冬青社の社長によれば、氏の写真には、子ども、道、電信柱が登場する。

子どもは、自らの幼児体験の投影のように思えた。また、田舎は過疎化しており、働ける大人は出稼ぎでいなくなって、子どもか老人ばかりになっていたこともある。

田舎の道は良い。東日本大震災のあと、『村へ』でよく訪れた石巻を再訪した。悲惨さを押しだすのは自分の写真ではない。何を撮るか。家はなくなっても不思議と道は残っている。氏は、そういうものを撮ってきたので、謙虚にこつこつと、残った道を撮ることを考える。

そして電信柱。学校では、電信柱をフレームから避けるようにと指導された。土門拳などは撤去させた。なぜ世の中にこんなにあるのに除け者にするのか。それで、真ん中に入れることにした。これも抵抗だった。

もう、どこの田舎にいっても同じ風景でつまらなくなった。また、旅をし過ぎて嫌になった。そんなわけで、『ライカで散歩』では、氏は自宅の船橋を撮り、そのうち自宅の中を撮るようになってしまった。しかし、また、旅に出る。氏の生まれ育った旧満州、沖縄の拝所など土俗的なもの、そして被災地を、うまくまとめようと考えている。具体的な方法はまだ目途がたっていない。

ところで、氏の未発表の作品には、深川木場の祭や風景(母親の親戚から撮影を頼まれた)、川口の鋳物職人を撮った作品群があるという。

===

トークショー後、北井さんに署名をいただき、『神戸港湾労働者』の作品群をじっくりと観た。

確かにボケボケの300mm作品も、21mm作品もある。露出はかなりばらついているようだ。いやそんなことよりも、既に、人を撮る北井写真になっている。港湾の資材でかくれんぼをする子どもたち、ぱらぱらと子どもがうごめいている風景、サングラスをかけてカメラを視る暴力団組員、急いで立ったまま昼飯をかきこむ労働者。数点だけあるヴィンテージプリントと新しいプリントとを比較すると、過去にトリミングをした工夫などがわかって面白い。

できれば1枚欲しい。

北井一夫情報
●『いつか見た風景』 東京都写真美術館 2012年11月24日~2013年1月27日
●プリント販売点 『抵抗』から現在へ 神保町・小宮山書店 2012年11月14日~12月25日
●『過激派』 Zen Foto Gallery 2012年12月4日~12月29日
●『Barricade』 Harper's Books、発売中
●『村へ』カラー版(2014年?) ギャラリー冬青
●『三里塚』 ワイズ出版のものよりも前の作品群、もうドイツの出版社のカタログには載っているとのこと(?)

●参照 北井一夫
『1973 中国』(1973年)
『遍路宿』(1976年)
『境川の人々』(1978年)
『西班牙の夜』(1978年)
『ロザムンデ』(1978年)
『ドイツ表現派1920年代の旅』(1979年)
『湯治場』(1970年代)
『新世界物語』(1981年)
『英雄伝説アントニオ猪木』(1982年)
『フナバシストーリー』(1989年)
『Walking with Leica』(2009年)
『Walking with Leica 2』(2009年)
『Walking with Leica 3』(2011年)
中里和人展「風景ノ境界 1983-2010」+北井一夫
豊里友行『沖縄1999-2010』


藤田綾子『大阪「鶴橋」物語』

2011-11-12 21:43:46 | 関西

藤田綾子『大阪「鶴橋」物語 ごった煮商店街の戦後史』(現代書館、2005年)を読む。金賛汀『異邦人は君ヶ代丸に乗って』が1920、30年代の旧猪飼野におけるコリアンタウンの成立を描いているのに対し、本書は戦中戦後の変貌を描いている。両者に共通する点は地元に密着した聞き取りに基づくことである。

私が鶴橋に足を運んだのはわずか2回に過ぎず、土地勘はまったくないし、あの雑踏を何を目指してどのように歩いたらよいのか手がかりがなかった。しかし本書を読むと、そのわかりにくさこそが歴史を反映したものであることがわかる。鶴橋駅周辺は戦時中の「建物疎開」によってまるまる空き地に変わり、その空き地が戦後闇市に変貌し、そして商店街へと姿を変えてきた場だったのだ。それらのカオス的な発展が鶴橋の雑踏を生んだということである。同様に疎開空地からマーケットへと移行した場として、渋谷、池袋、上野、大阪の梅田が挙げられている。

鶴橋の闇市は凄まじいエネルギーを呼び寄せ、発生させたものであったようだ。奈良から名古屋から、またさらに遠くから、食物や物資が運ばれ、それが利潤と人びとのイノチを生産し続けた。しばらくは警察に厳しく統制されたものの、1949年頃には統制解除の流れが明らかなものとなってきて、それを抜けたあとには鶴橋商店街の黄金時代が到来する。「鶴橋に行けば何でも揃う」と言われ、近鉄電車の早朝ラッシュ時にさえ鮮魚の買い出し人たちで混雑していたという。もちろんコリアンタウンでもあり、チマ・チョゴリでも韓国食材でも買うことができた。

ここを利用するのはそれなりの理由もあったようで、例えば、石鹸の大手メーカーが問屋に卸す価格が地方により異なっていたため、遠くから来てもまだ利ざやはあった。鶴橋は行商人や業者だけが集まる場ではなく、素人客もまとめ買いをしてオカネを浮かせていた。

もちろんこれは産業構造のゆえであって、時代が変われば状況も激変する。スーパーの進出もあり、鶴橋でも大型ショッピングセンター建設の計画があったという。著者は、古い時代を残した商店街が存続していることを単に良しとすべきではない、と主張しているように思える。それはそうに違いないことであって、自分を含めた他者の視線など、多かれ少なかれ歪んだ欲望が変身しただけのものに過ぎまい。

また、本書によれば、焼肉などの韓国料理屋が沢山出来たのはさほど古い話ではない。老舗「鶴一」の創業者は、戦時中に済州島から大阪に渡ってきて、1948年に鶴橋で蒸し豚屋を始め、1953年頃になってようやくホルモン焼を店に出している。かと言って爆発的にこのような店が増えたのではなく、1970年代にあっても焼肉屋は数軒程度であった。われわれの視線は、よそ者の欲望を孕んでいるだけではなく、時間を移動できる能力を欠いている。

ところで、昨日所用で北九州に足を運んだ際、空港で、下関のフリーペーパー『083』を手に取った。海峡を挟んだ向こう側である。下関のコリアンタウンの特集記事があって、最近、商店街の入り口に「釜山門」が作られているという。力道山の木像が安置された韓国寺さえある。下関は私の生まれ育った街からさほど遠くないが、コリアンタウンには足を運んだことがない。関釜フェリーに乗りたいと思い続けてまだ果たせていない。いつかぜひ。

●参照
金賛汀『異邦人は君ヶ代丸に乗って』(鶴橋のコリアンタウン形成史)
林海象『大阪ラブ&ソウル』(済州島をルーツとする鶴橋の男の物語)
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』
梁石日『魂の流れゆく果て』(金石範の思い出)
鶴橋でホルモン(鶴一)


森崎東『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』

2011-11-07 02:47:12 | 関西

森崎東『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』(1985年)を観る。舞台は敦賀湾の原発銀座である。

沖縄居酒屋「波の上」に、ドサ回りのヌードダンサー・バーバラ(倍賞美津子)が帰ってくる。連れ添いの原発ジプシー原田芳雄)とは、沖縄のコザ暴動のときに一緒に逃げた仲である。沼のような社会に、退学中学生、責任を取らされた引率教師(平田満)、ダルマ船の船長(殿山泰司)らがうごめく。彼らが食べていくための手段は、結局、孫請け、曾孫請けの原発ジプシーでしかない。接着剤となっているのはヤクザである。そして、原発の廃液漏れの証人を逃がそうとしたために、目に見えない権力と目に見えるヤクザに命を狙われることになる。

話をあえて混乱させることにより、混沌とした世界を描こうとする森崎東の手法は、三流としか言いようのないものだ。それはそれとして、黒木和雄『原子力戦争』(1977年)に続き、原発立地という穴を描く作品に登場した原田芳雄の演技は貫録である。殿山泰司もいつもながらの存在感をみせている。

原発ジプシー、被曝、原発立地という蟻地獄、隠蔽。

問題が問題として告発されている限りにおいて、問題は永遠の問題にとどまる。現在はとうの昔から存在していたのである。


『アートシアター ATG映画の全貌』(夏書館、1986年)より

●参照(ATG)
淺井愼平『キッドナップ・ブルース』
大島渚『夏の妹』
大島渚『少年』
大森一樹『風の歌を聴け』
唐十郎『任侠外伝・玄界灘』
黒木和雄『原子力戦争』
黒木和雄『日本の悪霊』
羽仁進『初恋・地獄篇』
実相寺昭雄『無常』
新藤兼人『心』
若松孝二『天使の恍惚』
アラン・レネ『去年マリエンバートで』
グラウベル・ローシャ『アントニオ・ダス・モルテス』


金賛汀『異邦人は君ヶ代丸に乗って』

2011-11-06 11:27:38 | 関西

デリーに居る間、金賛汀『異邦人は君ヶ代丸に乗って ―朝鮮人街猪飼野の形成史―』(岩波新書、1985年)を読む。猪飼野は現在の大阪市生野区であり、鶴橋のコリアンタウンは焼肉屋や朝鮮食材の店で賑わっている。この街の形成史を知りたかったところだった。著者の金賛汀氏は在日コリアンとして生まれ、ルポライターとして現在に至るまで多くの著作をものしている方である。

旧猪飼野には済州島出身者が多い。その理由として、これまで、韓国の白色テロである済州島四・三事件(1948年)から多くの人びとが逃亡してきたことを知っていたのだが、それは始まりではなかった。そのとき既にこの街は済州島出身者たちにより形成されており、逃亡者たちの受け皿になったということだったのだ。なお、本書には四・三事件のことは触れられていない。

1910年、日本による韓国併合。日本の近代漁法で漁場を荒らされ、やはり日本の近代的な大規模紡績工業による安価な綿布の流入によって唯一の有力産業である綿花栽培・手紡家内工業を壊滅させられた済州島民たちは、極貧に苦しむこととなった。これについて、過去の侵略戦争についてと同様に、日本のお陰で近代化したのだなどと嘯く輩がいるとすれば、それはTPPがどうのと得々と語る者たちの姿と重なることだろう。

もとより韓国本土からの差別を受けていた人びとが向かった先は、日本であった。なお、この差別感情について、著者は「沖縄島民に対する日本本土の人々の差別感に似た感情」であったと表現している。

1922年、尼ヶ崎汽船が大阪・済州島間に定期航路を開始し、1924年には朝鮮郵船も定期航路を開き、大阪への渡航がきわめて簡便になった。これにより、大正末期から昭和初期に端を発する済州島民の急増につながったのだという。この定期船の船名は「君ヶ代丸」と呼ばれた。

「「君ヶ代丸」とはまた奇妙な名前を付けた船舶だと思った。植民地の民がその支配者の国に移住しなければならない時に乗せられた船の名前に「君ヶ代」が使われるとは。皮肉を痛烈に感じた。」

猪飼野に住みはじめてからも苦難は続いた。差別により住居を貸してもらえず、ようやく探してからも1畳あたり平均2人ほどのぎゅうぎゅう詰めの暮らし。露店には警察に水をかけられ、開いた夜学も暴力的に警察に閉鎖させられ、職場でも労働条件や賃金に差を付けられた。想像することしかできないが、彼らの受苦がいかばかりのものだったか。

これらについては、メディアにおいてもっともらしい理由とともに当然だとの言説が醸成されたという。本書では、それらの言説について、いかに実態に基づかないものであったかを検証している。現在の高校無償化に関する権力とメディアの振る舞いに似ているものがある。

先月所用で大阪に行った際にも、折角なので鶴橋まで足を運んだ。やはり案内者がいないとよくわからず、適当に、駅近くの「やあむ」でレバ刺し、ハラミ、マッコリ。旨かった。しかし、あとで思い出した。徳山昌守が鶴橋に開いているという焼肉店に行こうと思っていたことを・・・。

●参照
金石範『万徳幽霊奇譚・詐欺師』 済州島のフォークロア
林海象『大阪ラブ&ソウル』(済州島をルーツとする鶴橋の男の物語)
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』
梁石日『魂の流れゆく果て』(金石範の思い出)
鶴橋でホルモン(鶴一)
長島と祝島(2) 練塀の島、祝島(練塀のルーツは済州島にある)
吉増剛造「盲いた黄金の庭」、「まず、木浦Cineをみながら、韓の国とCheju-doのこと」(李静和は済州島出身)
野村進『コリアン世界の旅』(済州島と差別)
宮里一夫『沖縄「韓国レポート」』(沖縄と済州島)
『けーし風』沖縄戦教育特集(金東柱による済州島のルポ)
豊住芳三郎+高木元輝 『もし海が壊れたら』(高木元輝こと李元輝が「Nostalgia for Che-ju Island」を吹く)


山田典吾『死線を越えて 賀川豊彦物語』

2011-10-29 08:40:39 | 関西

山田典吾『死線を越えて 賀川豊彦物語』(1988年)を観る。科学映像館で配信しているのは40分の短縮版である。ちょうど隅谷三喜男『賀川豊彦』(岩波現代文庫、原著1966年)を読んだばかりだ。

>> 『死線を越えて 賀川豊彦物語』

映画は賀川が労働運動に取り組む前、一度は宣告された死を意識して神戸・新川の「貧民窟」に移り住み、キリスト教の伝道に勤しむ様を描いている。監督の山田典吾は、『はだしのゲン』三部作(1976、77、80年)を撮った人であり、映画的に光る何かは全くと言っていいほどない。むしろどん臭いと言うべきだ。スノッブな映画ファンには無縁か。

しかし、それはそれとして、よく出来た教育映画ではある。脇役には長門裕之や黒木瞳、そして美術監督が木村威夫である。ここでは木村威夫はオーソドックスに、スラムのリアルさ作りに徹している。

自分を含め、「ベタ」だと思うのであれば、なぜ「ベタ」だと思うのかを考えなければならないのかもしれない。キリスト教は自分の生まれ育った環境にはないものであったし(そもそも自分は無宗教・無信仰である)、スラムという社会だってそうだ。すなわち「外部」ということである。おそらく「外部」視してしまうことこそに焦点を合わせなければならない。

同じ科学映像館で配信している、山岸豊吉『賀川豊彦の生涯』(1980年)については、以前からよくあるエラーが出て観ることができなかった。他のソフトが邪魔している可能性があるらしく、Realplayerなんかをアンインストールしたのだが効果がない。

●参照
隅谷三喜男『賀川豊彦』
『はだしのゲン』を見比べる(山田典吾)

●科学映像館のおすすめ映像
『沖縄久高島のイザイホー(第一部、第二部)』(1978年の最後のイザイホー)
『科学の眼 ニコン』(坩堝法によるレンズ製造、ウルトラマイクロニッコール)
『昭和初期 9.5ミリ映画』(8ミリ以前の小型映画)
『石垣島川平のマユンガナシ』、『ビール誕生』
ザーラ・イマーエワ『子どもの物語にあらず』(チェチェン)
『たたら吹き』、『鋳物の技術―キュポラ熔解―』(製鉄)
熱帯林の映像(着生植物やマングローブなど)
川本博康『東京のカワウ 不忍池のコロニー』(カワウ)
『花ひらく日本万国博』(大阪万博)
アカテガニの生態を描いた短編『カニの誕生』
『かえるの話』(ヒキガエル、アカガエル、モリアオガエル)
『アリの世界』と『地蜂』
『潮だまりの生物』(岩礁の観察)
『上海の雲の上へ』(上海環球金融中心のエレベーター)
川本博康『今こそ自由を!金大中氏らを救おう』(金大中事件、光州事件)
『与論島の十五夜祭』(南九州に伝わる祭のひとつ)
『チャトハンとハイ』(ハカス共和国の喉歌と箏)
『雪舟』
『廣重』
『小島駅』(徳島本線の駅、8ミリ)
『黎明』、『福島の原子力』(福島原発) 
『原子力発電の夜明け』(東海第一原発)
戦前の北海道関係映画


実相寺昭雄『無常』

2011-07-03 12:37:58 | 関西

実相寺昭雄『無常』(1970年)を観る。随分久しぶりだが、改めて、実相寺とは偉大なるスタイリストであったのだと強く思う。『怪奇大作戦』『ウルトラマン』といったテレビシリーズでも、映画でもそうだった。晩年の『姑獲鳥の夏』(2005年)においてなお、マガマガしいまでの癖と毒を発散していた。


『アートシアター ATG映画の全貌』(夏書館、1986年)より

何の救いもない酷い物語であり、地獄極楽や悪に関する演説などはすべて実相寺の独特な撮影世界を引き立たせるために奉仕する。超広角レンズと魚眼レンズによる奥への/からの動き、下からのアングル、傾いた地平、逆光、ハイキー、画面半分での視線をそらした顔のクローズアップ。それはあまりにもわかりやすく、だからこそフォロワーが出てこない。

舞台は琵琶湖近くの旧家と京都である。丹波篠山を舞台にした『哥』といい、『怪奇大作戦』での「京都買います」「呪いの壷」での京都といい、なぜ江戸っ子の実相寺がこのあたりにこだわったのだろう。そういえば、悲惨な死に方をする書生を演じた花ノ本寿は、「呪いの壷」において自滅する男の役でもあり、毒粉を自ら浴びて黒目の色が変わる場面は忘れられない(『無常』での旧家と同じ日野という名前だった)。


ウルトラマンマックスとメトロン星人(『ウルトラマンマックス』、「狙われない街」の再現)
『ウルトラマン展』(2006年、川崎市民ミュージアム)より
Pentax SP500、EBC Fujinon 50mmF1.4、Velvia100

●参照(実相寺昭雄)
霞が関ビルの映像(『ウルトラマン』、「怪獣墓場」)
『時をかける少女』 → 原田知世 → 『姑獲鳥の夏』
怪獣は反体制のシンボルだった(『ウルトラマン誕生』)

●参照(ATG)
黒木和雄『原子力戦争』
若松孝二『天使の恍惚』
大森一樹『風の歌を聴け』
淺井愼平『キッドナップ・ブルース』
大島渚『夏の妹』
大島渚『少年』