Sightsong

自縄自縛日記

金時鐘『背中の地図』

2018-06-30 09:56:23 | 韓国・朝鮮

金時鐘『背中の地図』(河出書房新社、2018年)。

東日本大震災のあと、金時鐘はそのことを詩のかたちにしていた。

読んでいると、どうしても、金時鐘がごつごつとぶつかるように朗読する声が聴こえてくるようで、その速度で、言葉の数々を自分の中に放り込んでゆく。そこには巨大な自然の力を前にした、あるいは後にしての、呆然自失があり、また、地の底から沸きあがってくるような激しい怒りがある。

言葉とは怖ろしいものである。ひとつひとつにどきりとさせられる。「光の棘の祟り」。「天外の青い火」。人間に扱いきれない力を制御しようとしたことによるカタストロフについて、「眺めるだけの私」たる詩人が、棘のような言葉を紙に刻んでいる。

●金時鐘
金時鐘講演会「日本と朝鮮のはざまで」
金時鐘『朝鮮と日本に生きる』
金時鐘『境界の詩 猪飼野詩集/光州詩片』
細見和之『ディアスポラを生きる詩人 金時鐘』
『海鳴りの果てに~言葉・祈り・死者たち~』
『海鳴りのなかを~詩人・金時鐘の60年』
金石範、金時鐘『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』
仲里効『悲しき亜言語帯』(金時鐘への言及)
尹東柱『空と風と星と詩』(金時鐘による翻訳)


ジーン・ジャクソン・トリオ@Body & Soul

2018-06-30 08:44:44 | アヴァンギャルド・ジャズ

南青山のBody & Soulに、ジーン・ジャクソンのトリオを聴きに行った(2018/6/29)。

Gene Jackson (ds)
Mayuko Katakura 片倉真由子 (p)
Pat Glynn (b)

ガブリエル・ゲレーロ(ジャクソンは「グェレロ」くらいに発音)、カルロ・デローザと組んだニューヨークでのトリオが「Trio Nu Yorx」、この東京でのトリオが「Trio To-Kyo(と、今日)」。ジャクソンは200枚以上のアルバムに参加しているのに、リーダー作は先日のTrio Nu Yorxによる『Power of Love』がはじめてのものである。この日聴いて、Trio To-KyoもTrio Nu-Yorxと同等以上に素晴らしいとわかった。

1曲目はコール・ポーターの「I Love You」。ハービー・ハンコック『Live in New York 1993』でも、Trio Nu Yorx『Power of Love』でも冒頭に演奏していた。やはり90年代にハンコックのレギュラー・ドラマーであったことが重要な経験であったことがわかろうというものであり、本人もそのことを話していた。アレンジもハンコック。しかし、片倉真由子のピアノはハンコックやゲレーロとはまた異なっており、バッキング時にメロディや即興を入れていくプレイがいきなり強く印象に残った。

2曲目は「Great River」(ジャクソン)。なんでも高価な録音機器の名前であり、新録のために売ったそうである。奇妙な構成の曲だが、それを自ら超えて浮揚させるドラムス。続いて「A Peaceful Tremor」(デローザ)。ここではジャクソンはブラシを持ち、そしてまた執拗な同じフレーズから新たなアイデアを繰り出してくる片倉さんのピアノがとても良い。

4曲目は「Lighting」(ゲレーロ)。本当はゲレーロは「Lightning」のつもりだったのに間違えてしまい、もう間に合わなかったという。そんなわけで、ジャクソンは「Lighting a.k.a. Lightning」とふざけて紹介した。ジャクソンの複雑なリズム、その繰り返しの中から大きなドラミングの盛り上がりがある。

次にセロニアス・モンクの「Played Twice」。CDでも非常に特徴的だった、時間方向へのジャクソンのタテ波。これがジャクソンならではのものだ。ピアノのソロも見事。

セカンドセットは「Land of the Free」(ゲレーロ)、続いて「Neptune」(デローザ)では軽快なブラシ。3曲目はセロニアス・モンクの「Ugly Beauty」、そして「Before Then」(ジャクソン)ではふたたび力技のタテ波が繰り出される。停止と再始動の構造による快感がある。

5曲目は「Lapso」(ゲレーロ)。曲の進行の隙間を縫うように自在に泳ぐ片倉さんのピアノ。また、ピアノが同じパターンを繰り返す中で上へ上へと浮揚するドラムス。これは高揚せざるを得ない。

アンコール曲は、デイヴィッド・ブライアントの「Higher Intelligence」。ブライアントのことは若くて才能のあるピアニストだとの紹介があった。その通りである。先日来日したときには入院していて駆けつけられず残念だった(浦安までレイモンド・マクモーリンと一緒に来て飲んでいたらしい)。曲は「Giant Steps」を想起させるような複雑なコード進行を持ったもので、ピアノとベースとが道を切り開き、その道を、ジャクソンが太いパルスを発しながら邁進した。

Fuji X-E2、XF60mmF2.4 

●ジーン・ジャクソン
ジーン・ジャクソン(Trio NuYorx)『Power of Love』(JazzTokyo)(2017年)
オンドジェイ・ストベラチェク『Sketches』(2016年)
レイモンド・マクモーリン@Body & Soul(JazzTokyo)(2016年)
及部恭子+クリス・スピード@Body & Soul(2015年)
松本茜『Memories of You』(2015年)
デイヴ・ホランド『Dream of the Elders』(1995年)

●片倉真由子
北川潔『Turning Point』(2017年)


東京中央線 feat. 謝明諺@新宿ピットイン

2018-06-28 07:34:53 | アヴァンギャルド・ジャズ

前日Ftarriで観た謝明諺の演奏が印象に残り、台湾に戻る前のラストギグだというので、新宿ピットインにも足を運んだ(2018/6/27)。

Tokyo Chuo-Line 東京中央線:
Ken Ohtake 大竹研 (g)
Toru Hayakawa 早川徹 (b)
Noriaki Fukushima 福島紀明 (ds)
Guest:
Minyen "Terry" Hsieh 謝明諺 (ts, ss)

開演前の謝さんはやはり目を爛々と光らせて笑っており、この生命力のようなものが演奏時のキャラだったりもするのだ。ベースの早川さんに紹介してくれてなぜかがっちり握手をした。東京中央線は台湾での活動が多く、この名前も台湾で誤解のようにして定着したものであるらしい。その縁での謝さんか。

今回はじめて東京中央線のライヴを観るのだが、勝手な予想よりもはるかに愉しく刺激的なものだった。大竹研のギターは太く光っていながらもエラスティックにぐにゃぐにゃと曲る。福島紀明のドラムスはとても力強いビートで絶えずバンドを鼓舞する。そして最強のトリックスター・早川徹は、飛び跳ねたりもしながら、愉快なグルーヴを創りだしている。ふと上村勝正のベースを思い出したところ、上村さんも客席の後ろに居た。

謝明諺のテナーはとても巧く、豪放でユーモラスでもあり、ときにソニー・ロリンズやマイケル・ブレッカーの影が見え隠れした。やはりジャズなのだが、その一方で、前日のFtarriでのインプロのようなことも軽々とやっている。なんて振れ幅! ソプラノでの表現は、そういったジャズ的というよりも、声のように効果を付け加えるためのツールとして使っているように思えた。

こうなると台湾のシーンにも興味が沸いてこようというものだ。謝さんに訊くと、台北や高雄に良いヴェニューはあるが少ないとのことだった。

●謝明諺
謝明諺+大上流一+岡川怜央@Ftarri


エディ・ヘンダーソン『Be Cool』

2018-06-27 07:51:26 | アヴァンギャルド・ジャズ

エディ・ヘンダーソン『Be Cool』(Smoke Sessions Records、2017年)を聴く。

Eddie Henderson (tp)
Donald Harrison (as)
Kenny Barron (p)
Esset Essiet (b)
Mike Clark (ds)

エディ・ヘンダーソン健在。過度にではなく自然な領域に抑制していて、端正で、知的で、とても良い。例えば、ウディ・ショウの名曲「The Moontrane」を吹いても見事にエディの音になって、それがまた嬉しい。エディ色ということで言えば、やはり「After You've Gone」なんかの抒情的な曲でもっとも発揮されるように思えるが、特に、吹き終わりの余白での余韻がまたエディ色で聴き惚れる。

実はドナルド・ハリソンも昔から好きなのだ。ちょっとヌメっとした音色で、しかし敢えて自分を誇示するようにこれ見よがしの迫力を持たせるでもなく、あくまでナチュラルなアルト。20年くらい前に観たっきりだが、またどこかでプレイに接することができないかな。

そしてケニー・バロンは明確で目が醒めるようなバッキングとソロ。

いやー、良いなあ。だからどうなんだという盤なのだけど、明らかにかれらの音であって、それで十二分。

●エディ・ヘンダーソン
ベニー・グリーン『Tribute to Art Blakey』(2015年)
ジェレミー・ペルト@SMOKE(エディ・ヘンダーソンが遊びにきていた)(2014年)
エイゾー・ローレンス@Jazz at Lincoln Center(2014年)
ソニー・シモンズ『Mixolydis』(2001年)
ローラン・ド・ウィルド『セロニアス・モンク』(エディ・ヘンダーソンは精神科のインターン時にモンクを担当した)


謝明諺+大上流一+岡川怜央@Ftarri

2018-06-27 07:22:31 | アヴァンギャルド・ジャズ

水道橋のFtarri(2018/6/26)。

Minyen Hsieh 謝明諺 (ts)
Riuichi Daijo 大上流一 (g)
Leo Okagawa 岡川怜央 (electronics, contact mic)

大上・岡川デュオ。大上流一はスライドから始めるが、音の出し方からは一貫性が端から棄てられており、頻繁なペグの操作により周波数も次々に変えられる。つまり最初から意図的な断絶があって、それを集めて続けるという演奏。それを岡川怜央は受けてサウンドに包んでいるようにみえた。刺激剤や起爆剤として前面に提示する音ではなく、逆に、断片の合間にそうと気付かされる音やノイズのあり方。最後に大上さんは、ギター「ならでは」の抒情的な音をいくつか出した。 

謝ソロ。かすかな音を積み重ねてゆく。吹いているだけでなく吸う音も表現手段としている。音のクラスターの合間にはそれなりに長いインターバルがあり、次の展開を組み立てている過程が直接的に出されていた。音がサックスの中で次第に共鳴してゆき、やがてブロウへと移行する。やはり奏法がジャズのイディオムから出来ているように思える瞬間が多々あった。この謝さんの巧みさが、インプロの領域を明らかに拡張していたのだが、逆に言えば、試行という場に固執するタイプのインプロとは異なっていた。

トリオ。三者三様の活動があえて重ならないようになされていた。とは言え、謝さんのサックスが岡川さんのエレクトロニクスを模倣する愉し気な場面もあった。また、岡川さんは素子に触れたりケーブルを持ち上げてノイズを発生させたりして、かなり繊細な音を創出していた。意識をそこに向ければ聴こえ、潜っていても断絶のときにまた意識下に現れるサウンドは面白いものに思えた。

Nikon P7800

●大上流一
Shield Reflection@Ftarri(2017年)
リアル・タイム・オーケストレイション@Ftarri(2016年)

●岡川怜央
『Ftarri 福袋 2018』(2017年)


沖縄国際大学南島文化研究所編『韓国・済州島と沖縄』

2018-06-25 22:16:14 | 韓国・朝鮮

沖縄国際大学南島文化研究所編『韓国・済州島と沖縄』(編集工房東洋企画、2009年)を読む。

このような企画だからタイトルに入れざるを得なかったのかも知れないのだが、本書の中で沖縄についてはほとんど言及されていない。論文が8本収録されており、無理に沖縄とのつながりを見出そうとしつつ、それがないことを呟いているような有様である。ちょっとこれは問題があるのではないか。

またそれぞれの内容も、時代遅れだったり、単に魚介類のリストを並べているだけだったり(韓国語でのみ)、まあほとんど読み応えはない。

面白い発見はひとつだけ。済州島は火山島であり、島の多くが火山灰土壌で覆われている。一般に、肥沃度は非火山灰性土壌のほうが高い。そして、草刈歌の曲調を分析してみると、火山灰性土壌の場所では物悲しく、非火山灰性土壌の場所では明るいという。火山が人の行動を知らず知らずのうちに支配していたということである。

●済州島
済州島、火山島
済州島四・三事件の慰霊碑と写真展
済州島の平和博物館

済州島四・三事件69周年追悼の集い〜講演とコンサートの夕べ
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』
オ・ミヨル『チスル』、済州島四・三事件、金石範
文京洙『済州島四・三事件』
文京洙『新・韓国現代史』
金石範、金時鐘『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』
金石範講演会「文学の闘争/闘争の文学」
金石範『万徳幽霊奇譚・詐欺師』 済州島のフォークロア
金石範『新編「在日」の思想』
水野直樹・文京洙『在日朝鮮人 歴史と現在』
済州島四・三事件と江汀海軍基地問題 入門編
金時鐘講演会「日本と朝鮮のはざまで」
金時鐘『朝鮮と日本に生きる』

金時鐘『境界の詩 猪飼野詩集/光州詩片』
細見和之『ディアスポラを生きる詩人 金時鐘』
『海鳴りの果てに~言葉・祈り・死者たち~』
『海鳴りのなかを~詩人・金時鐘の60年』
梁石日『魂の流れゆく果て』
(屋台時代の金石範)
仲里効『悲しき亜言語帯』(金時鐘への言及)
林海象『大阪ラブ&ソウル』(済州島をルーツとする鶴橋の男の物語)
金賛汀『異邦人は君ヶ代丸に乗って』(済州島から大阪への流れ)
藤田綾子『大阪「鶴橋」物語』
鶴橋でホルモン(与太話)
三河島コリアンタウンの伽耶とママチキン
尹東柱『空と風と星と詩』(金時鐘による翻訳)
『越境広場』創刊0号(丸川哲史による済州島への旅)
徐京植、高橋哲哉、韓洪九『フクシマ以後の思想をもとめて』(済州島での対談)
新崎盛暉『沖縄現代史』、シンポジウム『アジアの中で沖縄現代史を問い直す』(沖縄と済州島)
宮里一夫『沖縄「韓国レポート」』(沖縄と済州島)
長島と祝島(2) 練塀の島、祝島(祝島と済州島)
野村進『コリアン世界の旅』(つげ義春『李さん一家』の妻は済州島出身との指摘)
加古隆+高木元輝+豊住芳三郎『滄海』(「Nostalgia for Che-ju Island」)
豊住芳三郎+高木元輝 『もし海が壊れたら』、『藻』(「Nostalgia for Che-ju Island」)
吉増剛造「盲いた黄金の庭」、「まず、木浦Cineをみながら、韓の国とCheju-doのこと」
「岡谷神社学」の2冊


森山威男『East Plants』

2018-06-25 21:32:09 | アヴァンギャルド・ジャズ

森山威男『East Plants』(VAP、1983年)を聴く。

Takeo Moriyama 森山威男 (ds)
Hideaki Mochizuki 望月英明 (b)
Shuichi Enomoto 榎本秀一 (ts, ss)
Toshihiko Inoue 井上淑彦 (ts, ss)
Yoji Sadanari 定成庸司 (per)

未聴だったので待望の再発(油井正一のガイドブックにも紹介してあって聴きたかった)。

手の付けられない勢いがあって、あっという間に最後まで行き着く。定成庸司のパーカッションがいつにない色を付けていて面白い(長らく沖縄県立芸術大学で教鞭をとっていた人だったんだな)。そしてやはりツインサックス。井上淑彦の乾いた音色と得意な節回しが聴こえてくると嬉しくなる。

森山威男のドラムスはもちろん独自の嵐。「竹」でのスティックにも「遠く」でのブラシにも興奮。やはりここでも森山威男得意のクライマックスのパターンがあって、待ってました、なのだ。それが何かと言えば、名作中の名作『Live at Lovely』と聴き比べて欲しい。

●森山威男
森山威男3Days@新宿ピットイン(2017年)
森山威男@新宿ピットイン(2016年)
ペーター・ブロッツマン+佐藤允彦+森山威男@新宿ピットイン(2014年)
森山・板橋クインテット『STRAIGHTEDGE』(2014年)
ペーター・ブロッツマン+佐藤允彦+森山威男『YATAGARASU』(2011年)
『森山威男ミーツ市川修』(2000年)
森山威男『SMILE』、『Live at LOVELY』(1980、90年)
松風鉱一『Good Nature』(1981年)
内田修ジャズコレクション『宮沢昭』(1976-87年)
宮沢昭『木曽』(1970年)
見上げてごらん夜の星を
渚ようこ『あなたにあげる歌謡曲』、若松孝二『天使の恍惚』


上野英信『出ニッポン記』

2018-06-25 07:21:18 | 中南米

上野英信『出ニッポン記』(現代教養文庫、原著1977年)を読む。

 『追われゆく坑夫たち』(1960年)の続編的に書かれたルポである。1960年前後には既に石炭産業が傾いており、また三井三池炭鉱の大量解雇と争議があった。それに伴い、資本側は国策にのって炭鉱労働者の海外への移民を企図し、実施した。上野英信は、ブラジル、コロンビア、ドミニカ、アルゼンチンなど、中南米に流れていった炭鉱労働者のもとを訪ね、何が起きたのかについて聞き書きを行った。

もとより中南米移民の歴史はもっと遡る(1908年~)。石炭産業においても、人を人として扱わず資源として使い潰す国策と資本の歴史があった。著者も指摘するように、三井資本は1886年から囚人を使って西表島での採炭を開始した(三木健『西表炭坑概史』に詳しい)。また、1889年には三池炭鉱を下賜され、1930年まで囚人使役を継続した。その石炭産業が斜陽になった時期の棄民政策の実施であったと言える。 

南米での労働は、炭鉱がそうであったように、極めて過酷なものであったようだ。甘言に釣られて海を渡り、騙されたと知るケースが多々あった。多くの者がろくでもない土地を転々として、野菜や穀物や果物の栽培を行い、貧困にあえいだ。既に炭鉱労働で指を無くしていたり肺をやられていたりという者も多く、そのために現地で亡くなったという話も少なくない。そして契約文書には、もし日本に帰らざるを得ない場合には自己負担などといった酷い条件が書かれていた。医師もろくにいなかった。戦争遂行体制と同じである(吉田裕『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』)。

現地での受容はどうだったか。確かに「順応性」を買われた場合もあったが、日本人特有の醜い行動もあったようだ。出身県で固まり(南米まで行って、他の県の者を排他するのだ)、現地の人を一段下の存在として蔑視し、そのために日本人に対する激しい拒否反応が起きた場所もある。一方で、現地に溶け込み生き延びた人たちも多かった。

中南米の移民の中には沖縄出身者が多い(著者はのちに『眉屋私記』を書いている)。数で言えばブラジル、割合で言えばアルゼンチンである。このきっかけは、1898年の沖縄県民に対する徴兵令であった。それに対して、沖縄県民は希望のために移民を選んだのだが、政府は、それを徴兵忌避として厳しく弾圧した。また帰国すれば反軍思想を持つ者とみなされた。これは沖縄戦においても、移民帰国者がスパイ扱いされ、またチビチリガマとは異なりハワイ等から戻ってきた者がいたシムクガマでは、かれらの真っ当な発言があったことにより、「集団自決」が起きなかったといった現象につながっている。

その挙句、戦後には炭鉱離職者が不要になったという理由で、政府は海外移民を押し進めたのであった。いずれにしても棄民政策であることに違いはない。

●上野英信
上野英信『追われゆく坑夫たち』
上野英信『眉屋私記』
『上野英信展 闇の声をきざむ』

●移民
上野英信『眉屋私記』(中南米)
『上野英信展 闇の声をきざむ』(中南米)
高野秀行『移民の宴』(ブラジル)
後藤乾一『近代日本と東南アジア』
望月雅彦『ボルネオ・サラワク王国の沖縄移民』
松田良孝『台湾疎開 「琉球難民」の1年11カ月』(台湾)
植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』(日系移民)
大島保克+オルケスタ・ボレ『今どぅ別り』 移民、棄民、基地
高嶺剛『夢幻琉球・つるヘンリー』 けだるいクロスボーダー


カロリン・エムケ『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』

2018-06-24 10:30:39 | 思想・文学

カロリン・エムケ『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』(みすず書房、原著2016年)を読む。

恣意的に作り出され、共有される、憎しみの対象。その対象に対しては知性や倫理のリミッターが外れてしまい、野蛮な行為が許され、それが「必要なこと」であったとの評価さえがなされる。それは、うっかり、ではない(「失言」というおかしな言葉が暗喩するように)。著者曰く、「ユダヤ人」「女性」「信仰のない者」「黒人」「レズビアン」「難民」「イスラム教徒」「アメリカ合衆国」「政治家」「西側諸国」「警官」「メディア」「知識人」。日本であればどうなるか、残念ながら思いつくのは実に簡単だ。

それはなぜなのか。著者は平易なことばを使い、しかし、本質を突く。

憎しみは突如個人の中で沸くわけではなく、差異を覆い隠す外的なストーリーに沿ってあらわれる。憎しみには常に特有の文脈があり、ときにそれは歴史的な思考パターンである。視線の向きは積極的に曲げられる。そして極端な者だけでなく、傍観者が多く存在することによって、憎しみの共犯関係が生まれる。

たとえば、憎しみを発生させる装置として「懸念」というものが挙げられている。課題評価される「懸念」、批判してはならない「懸念」。そのフィルターが、「懸念」についての合理的な判断をはねつけている。しかし、実のところ、「懸念」とは「異質なものへの敵意」を覆い隠し批判を防ぐものでもあるのだと、著者は指摘する。「懸念」が、「問題の解決策を探すふりをして、問題解決の妨げになる」のだ、と。

こうしたフィルターのかかった世界観や人間観に馴れてしまうと人間はどうなるか。著者の言うのは「想像力の枯渇」である。実際のところ、可視化のプロセスが曖昧なフィルターにある概念が、何を指しているのか明らかにされることはない。そのような概念で世界や人を括ろうとすること自体が暴力だということである。フィルターによる正当化と承認がどのように成立しているのか観察・分析し、可視化することが、その抵抗手段として挙げられる。

逆に、そのようなフィルターの対象となってしまう者はどうか。かれらは脅威にさらされ、攻撃する側は人生のごく一部の時間を使うのであっても、受ける側は、常に防衛をしなければならない。冨山一郎『流着の思想』が、「沖縄」という名で呼ばれる沖縄にとっては名を呼ばれるという暴力的な位相があるのだと説いたように。それに対して、真っ当な抵抗の術があらかじめ奪われ、ことさらに「明るく」「おおらかに」振る舞い、「感謝」さえも示さなければならないような、痛ましいことが少なくない。しかし、著者のいう解は、フィルターを解除した姿を示すしかないというものだ。(ハンナ・アーレント「ある種の人間として受ける攻撃には、その人間として抵抗するしかない」)

「今日、ある種の政治的運動は、自身のアイデンティティを均一、根源的(または自然)、あるいは純粋であることを特に好む。」

均一への抵抗、根源的への抵抗、純粋への抵抗。これがサブタイトルの意味だ。あらゆる独立した個人の民主的意思であったはずのものが、いつの間にか、全体=あいまいな集団の意思へと変わっていく。社会集団のアイデンティティの怖さである。

著者はこの抵抗に希望を見出してもいる。それはすなわち社会の学習であり、自己批判の可能性であり、想像力の拡張であり、権利と自由を侵害されることへの抵抗が本人に押し付けられないようにするための全員の仕事であり、何より不純で多彩なものへの支持だとする。それはときに危険な行為でもある(ミシェル・フーコーの「パレーシア」)。さらにもうひとつ、重要な抵抗は、誰でも幸せを望むこと、あるいは「世間の基準から外れていても幸せな生き方と愛し方の物語を語る」こと。これは力強いメッセージである。

本書はドイツでベストセラーになったという。ヘイト本が氾濫し、電車では組織人としてのノウハウ本ばかりが読まれる日本においても、広く読まれて欲しい。


森重靖宗+徳永将豪@Ftarri

2018-06-24 09:08:45 | アヴァンギャルド・ジャズ

水道橋のFtarri(2018/6/23)。

Yasumune Morishige 森重靖宗 (cello)
Masahide Tokunaga 徳永将豪 (as)

徳永ソロ。あまり無いことだと思うのだが、目の前に楽譜を置いた(あとで訊くと、コンセプト等ではなく普通に音符が書かれているということ)。そのためか、抑制気味にアルトを吹き、随所で曲をまじえてくる。これにより、突き抜けた周波数を中心としたわけではなく、音が出されたり抑えられたりするときのマージナルな部分のトーンがより前面に提示され、別種の緊張感を孕むものとなった。演奏の最後にふたたび用意された旋律を吹き、やや唐突に終わった。唐突というのは自分だけの印象かもしれないのだが、その定まらなさに次の展開の入り口があるのかもしれないと想像した。

森重ソロ。弓による弦や胴のこすれが、硬い石の表面のマチエールやホワイトノイズを思わせる。その中からときどき立ち現れる弦の振動と胴の共鳴に毎回意表を突かれ、そのたびに少し驚く。パフォーマンスにはこれ見よがしなところが皆無であるにも関わらず(であるから)、身体を折り曲げ、次の展開を模索する姿を凝視してしまう。演奏は外に向けられたものであるのと同時に、音の世界をすべて受け容れなければならないかのように自身に向けられたものにもみえた。

デュオ。徳永さんは今後は譜面台を脇に退け、独特の重音と倍音を形成しては再び次に備える。それは円環を思わせる。最初はピチカートで間合いをはかっていた森重さんは、ほどなくして弓で弾きはじめ、アルトの円環とのシンクロを形成した。ときに円環には両者によって亀裂が入れられた。はじめてのデュオとのことだったが、今後も続けてほしいところ。

終わってからその場でちょっと懇親会。先日『別冊ele-king』のNY特集をご一緒したお三方や、ヴォイスの赤い日ル女さんもいらしていて、もろもろの話。

Fuji X-E2、XF35mmF1.4

●徳永将豪
Zhu Wenbo、Zhao Cong、浦裕幸、石原雄治、竹下勇馬、増渕顕史、徳永将豪@Ftarri(2018年)
高島正志+河野円+徳永将豪+竹下勇馬@Ftarri(2018年)
クレイグ・ペデルセン+エリザベス・ミラー+徳永将豪+増渕顕史+中村ゆい@Ftarri(2017年)
Shield Reflection@Ftarri(2017年)
窓 vol.2@祖師ヶ谷大蔵カフェムリウイ(2017年)
徳永将豪『Bwoouunn: Fleeting Excitement』(2016、17年)
徳永将豪+中村ゆい+浦裕幸@Ftarri
(2017年)


エヴァン・パーカー+ノエル・アクショテ+ポール・ロジャース+マーク・サンダース『Somewhere Bi-Lingual』、『Paris 1997』

2018-06-22 00:19:56 | アヴァンギャルド・ジャズ

相変わらずのノエル・アクショテの激しい音源リリースの中に、見覚えのあるメンバー。

アクショテが、エヴァン・パーカー、ポール・ロジャース、マーク・サンダースと組んだ演奏であり、出た当時から持っている『Somewhere Bi-Lingual』(Siesta Records)が1997年4月15・16日のロンドンにおけるスタジオ録音、今回の『Paris 1997』が4月18日のパリにおけるライヴ録音。

Evan Parker (ts, ss)
Noël Akchoté (g)
Paul Rogers (b)
Mark Sanders (ds)

改めて『Somewhere...』と聴き比べてみると面白い。

エヴァン・パーカーと共演するとしても、たとえばデレク・ベイリーのギターはその場限りの一閃のようなものだが、アクショテのそれは音価が長く、パーカーと別の形で拮抗しおおせている。アクショテの金属音が、ポール・ロジャース、マーク・サンダースの石を引っ掻くがごとき音と相乗効果を生み出し、良いノイズ時空間が成立している。

パーカーはいろいろと試していて、テナー、ソプラノそれぞれで渾身の研ぎ澄まされたブロウを放つほどではない。・・・と、言おうとしたのだが、違った。

パリのライヴは録音がさほど良くないものの、演奏の迫力はロンドンでのスタジオ演奏を凌駕しており、パーカーの循環呼吸奏法には黙って聴き入ってしまう(特にセカンドセットの2曲目)。この最後から3曲目冒頭までのロジャースのベースソロも良い。また、その前のセカンドセット1曲目もグループ全体の一体感が素晴らしい。ライヴというものはこんなことが起きるのだな。聴いて良かった。

●ノエル・アクショテ
ノエル・アクショテ『Get Happy – Plays Sonny Rollins's “A Night At The Village Vanguard”』(2015年)
カンタン・ロレ+ノエル・アクショテ『The Return of Q. & A』(2015年)
フィル・ミントン+ロル・コクスヒル+ノエル・アクショテ『My Chelsea』(1997年)
コクスヒル/ミントン/アクショテのクリスマス集(1997年)
ルイ・スクラヴィス+ティム・バーン+ノエル・アクショテ『Saalfelden '95』(1995年)

●エヴァン・パーカー
エヴァン・パーカー@稲毛Candy(2016年)
エヴァン・パーカー+高橋悠治@ホール・エッグファーム(2016年)
エヴァン・パーカー@スーパーデラックス(2016年)
エヴァン・パーカー、イクエ・モリ、シルヴィー・クルボアジェ、マーク・フェルドマン@Roulette(2015年)

Rocket Science変形版@The Stone(2015年)
エヴァン・パーカー US Electro-Acoustic Ensemble@The Stone(2015年)
シルヴィー・クルボアジェ+マーク・フェルドマン+エヴァン・パーカー+イクエ・モリ『Miller's Tale』、エヴァン・パーカー+シルヴィー・クルボアジェ『Either Or End』(2015年)
エヴァン・パーカー+土取利行+ウィリアム・パーカー(超フリージャズコンサートツアー)@草月ホール(2015年)
マット・マネリ+エヴァン・パーカー+ルシアン・バン『Sounding Tears』(2014年)
エヴァン・パーカー ElectroAcoustic Septet『Seven』(2014年)
エヴァン・パーカー+ジョン・エドワーズ+クリス・コルサーノ『The Hurrah』(2014年)
ジョン・エスクリート『Sound, Space and Structures』(2013年)
『Rocket Science』(2012年)
ペーター・ブロッツマンの映像『Soldier of the Road』(2011年)
ブッチ・モリス『Possible Universe / Conduction 192』(2010年)
エヴァン・パーカー+オッキュン・リー+ピーター・エヴァンス『The Bleeding Edge』(2010年)
ハン・ベニンク『Hazentijd』(2009年)
アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『ライヴ・イン・ベルリン』(2008年)
シュリッペンバッハ・トリオ『Gold is Where You Find It』(2008年)
エヴァン・パーカー+ネッド・ローゼンバーグ『Monkey Puzzle』(1997年)
エヴァン・パーカー+吉沢元治『Two Chaps』(1996年)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ(1981-98年)
スティーヴ・レイシー+エヴァン・パーカー『Chirps』(1985年)
エヴァン・パーカー『残像』(1982年)
シュリッペンバッハ・トリオ『Detto Fra Di Noi / Live in Pisa 1981』(1981年)
シュリッペンバッハ・トリオ『First Recordings』(1972年)

●ポール・ロジャース
ミシェル・ドネダ『OGOOUE-OGOWAY』(1994年)

●マーク・サンダース
ジョン・ブッチャー+ジョン・エドワーズ+マーク・サンダース『Last Dream of the Morning』(2016年)


マシュー・ウェルチ+ジェレマイア・サイマーマン『Bardo Thodol』

2018-06-21 23:04:28 | アヴァンギャルド・ジャズ

マシュー・ウェルチ+ジェレマイア・サイマーマン『Bardo Thodol』(Kotekan Records、2016年)を聴く。

Matthew Welch (as)
Jeremiah Cymerman (cl)

バグパイプなど様々な楽器を扱うマシュー・ウェルチだが、ここではアルトサックスに専念している。ジェレマイア・サイマーマンはやはりクラリネット。エフェクトは使われていない。

曲目としては、ジャチント・シェルシ、オーネット・コールマン、モートン・フェルドマン、ピエール・ブーレーズ、アルノルト・シェーンベルクといった音楽家たちに捧げられたものが並べられている。現代音楽の作曲家たちのことはあまり知らないのだが、それぞれの作風を意識したように聴こえなくもない。

ただむしろ、このストイックなデュオにおいて、クラリネットとアルトサックスとが多様な演奏において楽器特有の音を出し、絡み合っては離れ、重なりあいや離脱の瞬間にその旨みが浮上したり、うなりを生じたりするショーケースとなっている面白さがある。

●ジェレマイア・サイマーマン
「JazzTokyo」のNY特集(2017/12/1)


山中千尋@ディスクユニオンJazz Tokyo

2018-06-21 00:36:38 | アヴァンギャルド・ジャズ

御茶ノ水のディスクユニオンJazz Tokyoで、山中千尋のインストアライヴ(2018/6/20)。

Chihiro Yamanaka 山中千尋 (p)
Hiroyuki Yamamoto 山本裕之 (b)
Genki Hashimoto 橋本現輝 (ds)

普段は健康的すぎるような気がして(無理に理由を考えるなら)、あまり聴かないピアニストだが、こうして演奏を目の当たりにすると圧倒される。

新譜『ユートピア』は20枚目のリーダー作だそうであり、クラシックの曲が中心(『モルト・カンタービレ』もそんなコンセプトのアルバムだった)。どうも自分には距離が遠そうだが、いやいや、かつて松風鉱一さんの「w.w.w.」を取り上げただけで正義の味方である。

リハーサルと言いつつバリバリと弾いた「マンボ」。バダジェフスカ「乙女の祈り」はたいへんな疾走感。阿武隈川でがぶりとやられて以来苦手な白鳥のふてぶてしさをイメージしたという、サン=サーンス「白鳥」。最後に「Utopia」~「Strike up the Band」。もうノリノリ、右手の高速の旋律や、いきなりファンキーに入るノイジーな音なんか、なかなか夢中になって凝視してしまうのだった。


マイラ・メルフォード『Live at the Stone EP』

2018-06-20 23:15:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

マイラ・メルフォード『Live at the Stone EP』(2015年)を聴く。

マイラ・メルフォードは、2015年3月24-29日、NYのThe Stoneにおいて、自身のレジデンシーとして様々なグループで演奏した。そのときの4曲をbandcampで無料で聴くことができる(>> リンク)。

プログラムは以下の通り。このうち、わたしはSnowy Egret、マーティ・アーリックとのデュオを観ることができた。そのとき悩んだのではあるけれど、デュオのあと居残って、リンゼイ・ホーナー、レジー・ニコルソンとのトリオも観ればよかった。何しろ1990年代初頭に、『Jump』、『Now & Now』、そして『Alive in the House of Saints』により、ピアノトリオの歴史に明確な足跡を遺した3人であったから。

3/24 Tuesday

8 pm Allison Miller and Myra Melford(本盤の4.)
Allison Miller (ds), Myra Melford (p)

10 pm Spindrift for Leroy Jenkins
Nicole Mitchell (fl), Tyshawn Sorey (ds), Myra Melford (p)

3/25 Wednesday

8 pm Dialogue
Ben Goldberg (cl), Myra Melford (p)

10 pm Miya Masaoka, Mary Halvorson, Myra Melford
Miya Masaoka (koto), Mary Halvorson (g), Myra Melford (p)

3/26 Thursday

8 pm Crush Quartet
Cuong Vu (tp), Stomu Takeishi (bass g), Kenny Wollesen (d), Myra Melford (p)

10 pm Be Bread Sextet(本盤の1.)
Cuong Vu (tp), Ben Goldberg (cl), Brandon Ross (g), Stomu Takeishi (bass g), Matt Wilson (ds), Myra Melford (p)

3/27 Friday

8 and 10 pm Same River Twice
Dave Douglas (tp), Chris Speed (ts, cl), Erik Friedlander (cello), Michael Sarin (ds), Myra Melford (p)

3/28 Saturday

8 and 10 pm Snowy Egret(本盤の3.)(>> 記事
Ron Miles (cor), Liberty Ellman (g), Stomu Takeishi (bass g), Ted Poor (ds), Myra Melford (p)

3/29 Sunday

8 pm Marty Ehrlich and Myra Melford(本盤の2.)(>> 記事
Marty Ehrlich (reeds), Myra Melford (p)

10 pm Myra Melford Trio
Lindsey Horner (b), Reggie Nicholson (ds), Myra Melford (p)

1曲目のBe Breadを聴くと、NYシーンにおけるクラリネットの復権という指摘を思い出す。ベン・ゴールドバーグの存在感は確かに大きい。そしてマイラ・メルフォードのピアノが入ってくると、そのオリエンタルな感覚もある旋律、きらびやかで前に前にと進む勢いと、彼女の個性をあらためて認識させられてしまう。

2曲目のマーティ・アーリックとのデュオ。観たときには、それまでの印象よりも柔らかく、余裕を持って間を持たせており、ユーモアさえあるとちょっと驚いたのだった。しかしこうして録音を聴くと、歳を重ねてからのリー・コニッツほどではないがエアを含みもったブロウではあっても、一方では尖ったまま音色をかなり力技で逸脱させては戻ってきているようでもある。

3曲目はSnowy Egret。CDのメンバーのうちタイショーン・ソーリーだけが別のギグ(ミシェル・ローズウーマン)に参加しており、テッド・プアが叩いた。これを聴いてもドラムスの出番が多く、やはりソーリーであって欲しかった。それはともかく、Be Breadと同様に、ツトム・タケイシのベースギターによる挑発が異常にカッコいい。それと並行してリバティ・エルマンのギターがピキピキと強靭な旋律を弾いてゆく。ロン・マイルスのコルネットは地に足が着いたような独特なもので、にんまりする。またこのグループで続編を吹き込んでほしい。

4曲目はアリソン・ミラーのドラムスとのデュオ。ちょっと不定形でマイラを煽ってもいて面白い。

それにしても、レジデンシー2日目のミヤ・マサオカ、メアリー・ハルヴァーソンとの演奏を聴きたいのだが。

●マイラ・メルフォード
マイラ・メルフォード+マーティ・アーリック@The Stone(2015年)
マイラ・メルフォード Snowy Egret @The Stone(2015年)
ロイ・ナサンソン『Nearness and You』(2015年)
マイラ・メルフォード『Snowy Egret』(2013年)
マイラ・メルフォード『life carries me this way』(2013年)
『苦悩の人々』再演(2011年)
マイラ・メルフォード『Alive in the House of Saints』 HAT HUTのCDはすぐ劣化する?(1993年)
ブッチ・モリス『Dust to Dust』(1991年)


ノエル・アクショテ『Get Happy – Plays Sonny Rollins's “A Night At The Village Vanguard”』

2018-06-20 22:42:56 | アヴァンギャルド・ジャズ

ノエル・アクショテ『Get Happy – Plays Sonny Rollins's “A Night At The Village Vanguard”』(2015年)を聴く。

Noël Akchoté (g)

これもまた、bandcampで怒涛のリリースを続けるノエル・アクショテの作品のひとつ。もう何が出ても驚かないだろうと思っていたがやはり驚いた、というか、笑った。ソニー・ロリンズの大名盤『A Night At The "Village Vanguard"』(1957年)における演奏曲を、ソロギターでやってしまっている。

もっとも、オリジナル版だけでなくその後のコンプリート版の曲を多く取り上げており、順番は異なる。また、「Pent Up House」、「Paul's Pal」はもとの収録曲には含まれない。そこまでのパラノイアではなく、あくまでファン道の行き着く先であったということに違いない。

アクショテの演奏は思った以上にオーソドックスで、やはりこれはロリンズへのリスペクトなんだろうなと思わせる。ソロにより太いテナーも、ベースも立ち現れ、また、ギターの軋みがドラムス的に機能しているようにも感じられる。

ネタではなく、思った以上に良かった。

●ノエル・アクショテ
カンタン・ロレ+ノエル・アクショテ『The Return of Q. & A』(2015年)
フィル・ミントン+ロル・コクスヒル+ノエル・アクショテ『My Chelsea』(1997年)
コクスヒル/ミントン/アクショテのクリスマス集(1997年)
ルイ・スクラヴィス+ティム・バーン+ノエル・アクショテ『Saalfelden '95』(1995年)