Sightsong

自縄自縛日記

デレク・ベイリー+ルインズ『Saisoro』

2017-08-31 07:40:12 | アヴァンギャルド・ジャズ

デレク・ベイリー+ルインズ『Saisoro』(Tzadik、1994年)を聴く。

Derek Bailey (g)
Ruins:
Tatsuya Yoshida 吉田達也 (ds)
Ryuichi Masuda 増田隆一 (b)

ずっと気にかかってはいたものの聴くのははじめてだ。つまりこのようなサプライズは聴きたくもあり聴くのが怖くもあり。

しかし、デレク・ベイリーは往年のひりひりするような緊張感を失っている。ルインズもなんだか大人しい。異種格闘技戦を期待したのに蓋を開けてみたら凡戦だったという印象。近所迷惑な大音量にすればまた迫力も違うのだが、それはルインズの魅力でありベイリーの魅力ではない。

●デレク・ベイリー
今井和雄 デレク・ベイリーを語る@sound cafe dzumi(2015年)
デレク・ベイリー晩年のソロ映像『Live at G's Club』、『All Thumbs』(2003年)
デレク・ベイリー『Standards』(2002年)
ウィレム・ブロイカーが亡くなったので、デレク・ベイリー『Playing for Friends on 5th Street』を観る(2001年)
デレク・ベイリー+ジョン・ブッチャー+ジノ・ロベール『Scrutables』(2000年)
デレク・ベイリーvs.サンプリング音源(1996、98年)
田中泯+デレク・ベイリー『Mountain Stage』(1993年)
1988年、ベルリンのセシル・テイラー(1988年)
『Improvised Music New York 1981』(1981年)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ(1981、91、98年)
デレク・ベイリー『New Sights, Old Sounds』、『Aida』(1978、80年)
『Derek Bailey Plus One Music Ensemble』(1973、74年)
ジャズ的写真集(6) 五海裕治『自由の意思』
トニー・ウィリアムスのメモ

●ルインズ
RUINS、MELT-BANANA、MN @小岩bushbash(2017年)


トニー・ウィリアムス・ライフタイム『Live in New York 1969』

2017-08-30 22:44:39 | アヴァンギャルド・ジャズ

トニー・ウィリアムス・ライフタイム『Live in New York 1969』(Hi Hat、1969年)を聴く。

Tony Willams (ds)
John McLaughlin (g)
Larry Young (org)

同一メンバーの初代ライフタイムによる名盤『Emergency!』が吹き込まれたのが1969年5月。本盤は同年の終わりころのラジオ放送。嬉しい発掘盤である。

『Emergency!』と比較すると、こちらの方がむしろいいのではないかと思える。「Emergency」と「Something Special」を両盤で演奏しているのだが、特に前者において、ラリー・ヤングもジョン・マクラフリンもパワーアップして、四方八方に突き抜けている。残念ながら音質がいまいちで、トニーのドラミングが隠れてしまっている。それだけが残念。

●トニー・ウィリアムス
トニー・ウィリアムスのメモ(1996年)
『A Tribute to Miles Davis』(1992年)
ハービー・ハンコック『VSOP II TOKYO 1983』(1983年)
ハービー・ハンコック『Velden 1981』
(1981年)
トニー・ウィリアムス・ライフタイムの映像『Montreux Jazz Festival 1971』(1971年)
ジャッキー・マクリーン『The Complete Blue Note 1964-66 Jackie McLean Sessions』(1964-66年)
マイルス・デイヴィスの1964年日本ライヴと魔人(1964年) 
ハンク・ジョーンズ


新城郁夫・鹿野政直『対談 沖縄を生きるということ』

2017-08-30 21:26:51 | 沖縄

新城郁夫・鹿野政直『対談 沖縄を生きるということ』(岩波現代全書、2017年)を読む。

タイトルからは、沖縄に住む、あるいは深く関わるといった「当事者性」が強調されているように感じられる。実際にこのふたりによって話されることは、その「当事者性」をいかに問い直すかという点だ。沖縄人でなければ沖縄の政治に関わってはならないのか、あるいは、沖縄人でない場合に沖縄の政治に関わるための資格はあるのか。

この視点からは、沖縄以外の日本を「内地」、「本土」、「ヤマト」のいずれで呼ぶのかという議論も出てきている。たとえば「本土」には、「本土」こそが日本の中心であるという驕りが感じられる。支配の歴史を意識する呼称として「ヤマト」を使う人も多いだろう(わたしもそうである)。しかし、鹿野氏は、「みずからをヤマトと称することの欺瞞性」と指摘する。それは、新城氏によれば、「本土」という言葉の選び直しによる「抑圧」の再自覚化である。それもまた欺瞞かもしれないのだが、言葉の持つ意味や権力関係をわがこととして慎重に考えることは、倫理的な行動に他ならないだろう。

ここで新城氏により「ビカミングアウト」という概念が紹介される。「カミングアウト」をもう一歩進め、何かに「なり続けていく」。絶えず「沖縄になる」、「沖縄人になる」、あるいは「マイノリティになる」。排除と閉鎖の性質を持ってしまう悪しき当事者性が、丸山眞男のいう「であること」に近いものだとすれば、「ビカミングアウト」は悪しき当事者性を乗り越え、開かれた関係を創り出すものとして、とても大事な捉え方なのではないか。

基地の「県外移設論・引き取り論」も、ここでは倫理をもって語られている。レイプなどの凶悪犯罪を構造的に引き起こす基地なるものを、日米安保が重要なら持っていってくださいという考え方は、やはり倫理に背いているだろうという考えに基づくものである。いやしかし、このままでは現実的に解決しないではないか、では平等に負担すべきだという論理が「県外移設論・基地引き取り論」だとして、それにも倫理はあるわけだ。このあたりの議論が、2016年に「沖縄タイムス」紙上で展開されていたのだが、それは次の何かをみることなく終わってしまったのだろうか。

もっとも、議論は倫理ばかりに基づいているわけではない。両氏は、沖縄の施政権返還が米軍の軍事戦略のなかでなされたのだとする。それが現在まで地続きである以上、移設などといったところで米軍がそのように動くわけがないという指摘も的を射ている。

●参照
鹿野政直『沖縄の戦後思想を考える』
新城郁夫『沖縄を聞く』
高橋哲哉『沖縄の米軍基地 「県外移設」を考える』

●本書で紹介された本
屋嘉比収『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』
伊波普猷『古琉球』
岡本恵徳批評集『「沖縄」に生きる思想』
大江健三郎『沖縄ノート』
新崎盛暉『沖縄現代史』


クレイグ・ペデルセン、エリザベス・ミラーの3枚

2017-08-30 08:07:25 | アヴァンギャルド・ジャズ

先日、新宿ピットインの客席で、エリザベス・ミラー、クレイグ・ペデルセンというふたりの即興演奏家と知り合った。カナダから3か月ほど来ており、仕事をしたり演奏をしたり勉強をしたり、だという。後日、かれらの演奏する音源をくださった。

ふたりのユニット「Sound of the Mountain」による『Amplified Clarinet and Trumpet』では、それぞれが楽器のコアでない音までも増幅させ、確かにごつごつした岩山のようなサウンドを生みだしている。マチエール感も全体感もあり、まるでマックス・エルンストの絵を眺めているようだ。

その印象のまま、クレイグ・ペデルセンのみによる『Solo Trumpet (2016)』を聴いてそのギャップに驚いた。短いトランペット・ソロ2曲なのだが、最初はロングトーンで、次は切れ切れのフラグメンツで、ぎらぎらと光り、また沸き立つような音を放っている。

そして、クレイグ・ペデルセンのクインテットによる『Approching the Absence of Doing』もまた新鮮だった。ペデルセンのトランペットはソロと同様に乱反射している。ユニットとしても面白くて、リンゼイ・ウェルマンのアルトが断続的に昇竜のように絡みつくありさまは、セシル・テイラー『Dark to Themselves』におけるデイヴィッド・S・ウェアを彷彿とさせる。ベースは全体のサウンドとのバランスを考慮する前になにかをかなぐり捨てたように我を発散しているし、ツインドラムスはパンクロック的でもある。

かれらはまだ日本に滞在しているようなので、そのうち、このサウンドについて話をしてみたいところ。

■ Sound of the Mountain 『Amplified Clarinet & Trumpet』(Mystery & Wonder、2017年)

Elizabeth Millar (cl)
Craig Pedersen (tp)

■ クレイグ・ペデルセン『Solo Trumpet (2016)』(Mystery & Wonder、2016年)

Craig Pedersen (tp)

■ クレイグ・ペデルセン『Approching the Absence of Doing』(Mystery & Wonder、2017年)

Craig Pedersen (tp)
Linsey Wellman (as)
Joel Kerr (b)
Bennett Bedoukian (ds)
Eric Thibodeau (ds)


ジャズ・ガウロンスキー『Jaruzelski's Dream』

2017-08-30 00:00:49 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジャズ・ガウロンスキー『Jaruzelski's Dream』(clean feed、2008年)を聴く。

Jazz Gawlonski:
Piero Bittolo Bon (as, smartphone)
Stefano Senni (b)
Francesco Cusa (ds)

「ジャズ・ガウロンスキー」とはアルトサックスのピエロ・ビットロ・ボン(PBB)を中心としたグループ名であり、おそらくは、イタリア出身のジャーナリスト・政治家にしてポーランド語も堪能であったジャス・ガウロンスキーの名前をもじっている。そしてタイトルは、『ヤルゼルスキの夢』。ヴォイチェフ・ヤルゼルスキはポーランドの政治家であり、かつてレフ・ワレサの政敵として民主化を弾圧もした。

・・・というような仕掛けがあっても、それはおそらくは言葉遊びなのだろう。関係があるとすれば、苛烈な攻撃、それからアイロニー。

PBBのアルトは確かに何者かに対して苛烈であり、手を緩めずにずっと攻め続けている。ときにロリンズやドルフィーを思わせる瞬間などあるが、そんなことは関係ないと言わんばかりに力技で最後まで攻め吹く。シニカルで哄笑的にも感じられる。

●ピエロ・ビットロ・ボン
ピエロ・ビットロ・ボン(Lacus Amoenus)『The Sauna Session』(2012年)
ピエロ・ビットロ・ボン『Mucho Acustica』(2010年)


ニコール・ミッチェル『Mandorla Awakening II: Emerging Worlds』

2017-08-29 01:15:18 | アヴァンギャルド・ジャズ

ニコール・ミッチェル『Mandorla Awakening II: Emerging Worlds』(FPE Records、2015年)を聴く。

Nicole Mitchell’s Black Earth Ensemble:
avery r young (vo)
Kojiro Umezaki (shakuhachi)
Nicole Mitchell (fl, electronics)
Renée Baker (vln)
Tomeka Reid (cello, banjo)
Alex Wing (g, oud)
Tatsu Aoki (b, shamisen, taiko)
Jovia Armstrong (perc)

本盤はニコール・ミッチェル自身によるSFをもとにしたコンセプト・アルバムである。それによれば、舞台は2099年。崩壊している地球連合において、大西洋に浮かぶMandorlaという島が再生の象徴として空想されている。ディストピアでもユートピアでもない社会、自然と技術とが融和する社会、そのような第三の道を模索することがテーマとなっている。

このあたりの背景はミッチェルへのインタビューでも語られている。彼女はアフリカン・アメリカンの黒人として苦労を重ね、AACMとの出会いがあり、さらにSF作家オクテイヴィア・バトラーとの出会いがあった。そういった個人の歴史が本盤に直接的に反映されている。物語は詩人・歌手・パフォーマーのエイヴリー・R・ヤングによって語られており、演劇的でもある。

それを含め、ミッチェルのサウンドのアレンジには彩りがあって、またフルートの音もふくよかでとてもいい。ブラック・アース・アンサンブルは2018年で活動20年を迎えるという。遡って聴かなければならない。

ところで、上述のインタビュー記事を訳したあとで、ミッチェルから、いつか日本で演奏してみたい、坂田明さんをリスペクトしている、との言葉をいただいた。つまりライヴの機会に坂田さんに伝えればよいのだろうが、さて、坂田さんはミッチェルの音楽をご存知だろうか。

●参照
「JazzTokyo」のNY特集(2017/7/1)
「JazzTokyo」のNY特集(2017/5/1)
オクテイヴィア・バトラー『キンドレッド―きずなの招喚―』


すずえり、フィオナ・リー『Ftarri de Solos』

2017-08-28 22:27:45 | アヴァンギャルド・ジャズ

すずえり、フィオナ・リー『Ftarri de Solos』(Ftarri、2017年)を聴く。

suzueri すずえり (upright piano, toy piano, self-made instruments, objects)
Fiona Lee (DIY electronics, objects)

これはFtarriが店舗を開いて5年が経ったことを記念して作られたCDの1枚である。先日のライヴで記念品としていただいた。

すずえり、フィオナ・リー、ふたりともライヴ演奏を実際に観たことはまだない。それぞれ自作楽器を使って奇妙で愉快な音楽を創り出している。twitterなどでの報告を読むと明らかに視覚的な面白さがあるはずである。しかしそれを音だけで鑑賞することで、実は観るのとは違うように脳に入ってくるに違いない。

すずえりさんのサウンドを聴いていると、半自動のユニークな残忍さといおうか、容赦なさといおうか、そういったことによってヘンに愉快な気分にさせられる。この色彩はメトロノームによってさらに濃くなり、最後にピアノで救われるという魅力。急停止して振り落とされるのもまた愉快。

フィオナ・リーの音は、電気で動く球面内のボールなのだろうか。ぎゅわわんという金属音そのものの面白さを執拗に提示することの愉しさは、それが人間的な電気を使っていることによってさらに増している。


ヴィジェイ・アイヤー『Far From Over』

2017-08-28 21:14:25 | アヴァンギャルド・ジャズ

ヴィジェイ・アイヤー『Far From Over』(ECM、2017年)を聴く。

Graham Haynes (cor, flh, electronics)
Steve Lehman (as)
Mark Shim (ts)
Vijay Iyer (p, fender rhodes)
Stephan Crump (b)
Tyshawn Sorey (ds)

刺激的かと言われれば、そうでもあり、そうでもない。

ジャズ・フォーマットでの暴れっぷりといったらそれは凄い。スティーヴ・リーマンは自身のバンドでないからか抑制度を引き下げていて、いつもこうあってほしいようなアルトを吹いている。タイショーン・ソーリーの個性はいまだによくわからないのだが、それはあまりにも大きなポテンシャルのゆえではないかと思えてくる。彼がサウンドをコントロールしているようにも聴こえる。

このメンバーでヴィジェイ・アイヤーにできる越境音楽とはどんなものだろう。つまり不満はそこにある。

●ヴィジェイ・アイヤー
アグリゲイト・プライム『Dream Deferred』(2015年)
ヴィジェイ・アイヤー+プラシャント・バルガヴァ『Radhe Radhe - Rites of Holi』(2014年)
ヴィジェイ・アイヤーのソロとトリオ(2010、2012年)
ワダダ・レオ・スミス『Spiritual Dimensions』(2009年)
フィールドワーク『Door』(2007年)

ジャファール・パナヒ『これは映画ではない』、ヴィジェイ・アイヤー『In What Language?』(2003年)


『東方見聞録展 モリソン文庫の至宝』@東洋文庫ミュージアム

2017-08-28 20:48:58 | アート・映画

本駒込の東洋文庫ミュージアムで、『東方見聞録展 モリソン文庫の至宝』を観る。

ジョージ・アーネスト・モリソンはオーストラリア生まれの医師であり、「タイムス」の海外特派員や中華民国の顧問も務めた人物である。かれはアジアの文献や絵などを多量収集していた。それは病的な執念と言えるほどのものであったことが、展示室の書棚に並べられた膨大な書物を一瞥するだけでわかる。コレクションは、ちょうど100年前の1917年に、東洋文庫がそれらを購入し、管理している。

南満州鉄道(満鉄)関連の資料、アヘン戦争の絵など面白いものはたくさんあるのだが、やはり目玉は、時代を超えて出版され続けた、マルコ・ポーロ『東方見聞録』の数々。異本と言ってもいいのだろうか。クリストファー・コロンブスが保有していたものと同じ版もある。

こんなものを見ると旅心が刺激されてしまう。『東方見聞録』は、気になったスリランカの箇所を読んだだけなのだが、やはり通して読まなければと思っている。


南満州鉄道の資料


1664年、アムステルダム刊。


1485年版、アントワープ刊。


オクテイヴィア・バトラー『キンドレッド―きずなの招喚―』

2017-08-28 08:06:25 | 北米

オクテイヴィア・バトラー『キンドレッド―きずなの招喚―』(山口書店、原著1979年)を読む。

現代の黒人女性デイナは、あるとき、南北戦争前のアメリカにトリップするようになった。どうやら自分の祖先のルーファスが、いのちの危険を感じたときに「呼び出される」ようなのだった。そしてデイナが自分自身のいのちを失う恐怖を覚えると現代に戻ってくる。過去に旅する時間は体感的には長くても、戻ってくるとわずかな時間しか過ぎていない。トリップを繰り返すたびに、過去の者たちばかりが歳を取っているという奇妙な状況になった。

ルーファスは奴隷を何人も所有する農場の跡取り息子である。かれにも他の者たちにも、黒人が奴隷的立場以外の生き方をすることを受け容れることができない。時間を置いては前と同じ容姿で現れるデイナは、恐れられつつも、やはり、いのちも尊厳もいつ失ってもおかしくはないような境遇で生きていくことになった。

痛みの感覚に対する著者の描写は、読んでいてつらくなる。それは「これから起こりうること」への痛みでもあり、容易に想像できるような「レイプ」などではない。著者はそれを手段として使うことはない。デイナのパートナー・ケヴィンに、デイナが消えている間にレイプされたのではないかと疑わせるのは、ケヴィンに読者を重ね合わせているわけであり、とても優れた仕掛けである。

デイナにとってルーファスは、自分の祖先でもあり(つまり、ルーファスは黒人女性との間に子をもうけたのだ)、精神的に近い存在であるのと同時に抑圧・恐怖の対象だけではない。このことにより、デイナは、奴隷の黒人たちから白人にすりよる存在として嫌われもしてしまう。何重にも錯綜した差別の構造を容赦なく見せつけられるようだ。

バトラーは、シカゴの音楽家ニコール・ミッチェルが大きな影響を受けたと語る存在であり(>> インタビュー記事)、トランプ政権のいままた、1998年の小説で「Make America Great Again」を標榜するファシスト政治家を登場させていることが予言的であったと話題になっている(>> 記事)。もっとバトラーの作品を読んでみたいが、邦訳された長編小説は『キンドレッド』だけである。


Shield Reflection@Ftarri

2017-08-27 23:50:17 | アヴァンギャルド・ジャズ

水道橋のFtarriに足を運び、大上流一・外山明・徳永将豪という驚いてしまうマッチングによる「Shield Reflection」を観る(2017/8/27)。図らずも徳永将豪2デイズとなってしまった。

Riuichi Daijo 大上流一 (g)
Akira Sotoyama 外山明 (ds)
Masahide Tokunaga 徳永将豪 (as)

この組み合わせは2回目。前回は残念ながら観ることができずどんな雰囲気だったのかわからないのだが、「よそよそしさ」は依然としてあるとみた。

ファーストセットは徳永将豪のソロから始まった。やはりロングトーンを基本にしながらも、意図的な逸脱としか思えない音が発せられる。それはアンブシュアの息漏れであり、管がうまく共鳴しないときの共振であった。しかし、もとより音のコアなどはないと主張するかのようなアルトである。ドラムスがアルトの音圧により一瞬遅れてびりびりと響きはじめたのだが、意図的な共演に違いない。やがて外山さんが座り、その一方的な関係をタッピングするかのように叩きはじめた。最後には、徳永さんが不安定な管の共鳴をみせた。

セカンドセットは大上流一のソロから始まった。金属音のように響くピッキング、その残響の中に、アルトが入念に重ね合わされていく。外山さんが入り、スティックの弾性を利用して、まるで熱い金属板の上で水滴が踊るような音を発した。

サードセット、外山明から。「ジャズの外山明」と(異種格闘技的に)期待してしまう面はどうしてもあるのだが、それに応えるかのような不定形のドラミング。大上さんが加わると、ふたりがシンクロするかのような局面が多々あった。ここで徳永さんのアルトはロングトーンのなかで音圧を高め、まるで、「アート・ブレイキーのナイアガラ瀑布」のようにドラムスを響かせた。共演している相手の楽器を鳴らす越権行為、これは実は挑発ではなかったか。外山さんはそれを断ち切るように叩いた。そして、大上さんはギターを急停止させるプレイにより不定形のドラムスにシンクロさせるように見えた。その一方、ピックをやさしく蛇行させることにより、我関せずとばかりに、哀しみの旋律を奏でた。

さらなる可能性があるトリオ。あと1回の演奏を行う予定だという。

●大上流一
リアル・タイム・オーケストレイション@Ftarri(2016年)

●外山明
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2017年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2016年その3)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2016年その2)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2016年その1)
松風鉱一カルテット+石田幹雄@新宿ピットイン(2016年)
渋谷毅+市野元彦+外山明『Childhood』(2015年)
松風鉱一カルテット+石田幹雄@新宿ピットイン(2015年)
纐纈雅代『Band of Eden』(2015年)
渋谷毅エッセンシャル・エリントン@新宿ピットイン(2015年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2014年)
纐纈雅代 Band of Eden @新宿ピットイン(2013年)
松風鉱一カルテット@新宿ピットイン(2012年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2011年)
松風鉱一カルテット、ズミクロン50mm/f2(2007年)
原みどりとワンダー5『恋☆さざなみ慕情』(2006年)

●徳永将豪
窓 vol.2@祖師ヶ谷大蔵カフェムリウイ(2017年)
徳永将豪『Bwoouunn: Fleeting Excitement』(2016、17年)
徳永将豪+中村ゆい+浦裕幸@Ftarri
(2017年)


1972年6月のキース・ジャレット・トリオ

2017-08-27 09:26:59 | アヴァンギャルド・ジャズ

キース・ジャレット+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Hamburg '72』が発掘されたのは2014年のこと。ライヴ映像は観たことがあったし、もちろんこのトリオでの吹き込みは他にもあるから驚きでもないのだが、やはりこの3人の噴出させるエネルギーを浴びることは嬉しいばかりなのだった。

最近聴いている音源は、このECM盤よりも前の演奏である。『Paris 1972』(①)が1972年6月9日。『Hamburg 1972 First Set』(②)が1972年6月14日のファーストセットで、『Hamburg '72』(③)が同日セカンドセット。

既にこのトリオでは演奏しているから初顔合わせのハプニングなどはない。しかしそれにしても鮮烈極まりなく、マンネリに陥った後年の「スタンダーズ」(ゲイリー・ピーコック、ジャック・デジョネット)とは雲泥の差がある。キースはチャールス・ロイドのグループから出て、アメリカン・カルテットも始めており、マイルス・デイヴィスとも共演し、たいへんな音楽的エネルギーに満ち溢れていた時代だったに違いない。サイケデリックと言えるほどに豪華絢爛で、フォーク色もあり、ヘイデン、モチアンも得意技を繰り出しまくっている。

③をあらためて聴いたときには興奮させられたのだが、たった5日前なのに、①の粗削りさはまた別の魅力を放っている。同曲を聴き比べてみてもその印象である。②も良いのだが音質があまり良くない。③は最近レコードでも再発されたようである。

ところで②にはなぜか2枚目として1973年11月3日の「クインテット」の音源が付いているのだが、わたしのプレイヤーでは再生できない。何なんだろう。

Keith Jarrett (p, ss, perc, fl)
Charlie Haden (b)
Paul Motian (ds, perc)

●キース・ジャレット
キース・ジャレット『North Sea Standards』(1985年)
キース・ジャレット『Standards Live』(1985年)
ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』、クリストのドキュ、キース・ジャレットのグルジェフ集 (1980年)
キース・ジャレット『Staircase』、『Concerts』(1976、81年)
キース・ジャレットのインパルス盤(1975-76年)
キース・ジャレット『Arbour Zena』(1975年)
キース・ジャレット『Solo Performance New York '75』(1975年)
キース・ジャレット『The New York Concert』(1975年)
キース・ジャレット『The Bremen Concert』(1975年)
70年代のキース・ジャレットの映像(1972、76年)
キース・ジャレット+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Hamburg '72』(1972年)
キース・ジャレット『Facing You』(1971年)


窓 vol.2@祖師ヶ谷大蔵カフェムリウイ

2017-08-26 23:48:44 | アヴァンギャルド・ジャズ

祖師ヶ谷大蔵のカフェムリウイにて、「窓 vol.2」というダンスとインプロの企画。

荒悠平 (dance)
石原雄治 (ds)
平多理恵子 (dance)
徳永将豪 (as)

荒悠平のダンスは肉体の鍛錬そのものと直結しているように見える。一方の平多理恵子は、鳥の羽ばたきがさまざまな向きを持った円環となるかのように、大きな動きを見せた。ここで徳永将豪のアルトが入ってくる。ロングトーンとうなり、それが発せられてしまうことへの恐怖が内包されている。かれはしゃがみ、うずくまり、それによる物理的な効果もあろうか、うなりは複雑なものに変化していった。音は暗闇の中に溶けてゆく。

セカンドセットは再び荒さんから。かれは床に座り込んでギターを弾きながら奇妙な歌を唄うのだが、その姿は凶暴な道化でもあった。石原雄治のドラムスがリズムを取るために入ってくる。それは程なくしてブラッシュワークと徳永さんの息遣いとの重なりにシフトした。徳永さんのアルトは、音が音の道を通らず、亡霊のように別の場所で響いた。石原さんは鉄の棒を使い固い音を繰り出す。

ふたりのダンサーは対照的な動きをみせる。荒さんは痙攣し、ドラムスの音にシンクロする。また平多さんは一方で徳永さんの発する響きをまるでフォルムにしたかのように、より静的な構造をつくりあげてゆく。ここに、音とダンスとがゆるく結合したふたつの相ができた。とはいえ、その相は互いに介入を続ける。徳永・平多相にある平多さんは、石原・荒相にあるバスドラムに触れてしまったことをきっかけに、ドラムスとの結合も企図した。

緊張感や個々の役割分担から生まれるものとは違う形で、その場での探索があり、当然、音や動きが変わってゆく面白さがあった。

●徳永将豪
徳永将豪『Bwoouunn: Fleeting Excitement』(2016、17年)
徳永将豪+中村ゆい+浦裕幸@Ftarri
(2017年)


ヒカシュー@Star Pine's Cafe

2017-08-26 15:41:19 | アヴァンギャルド・ジャズ

吉祥寺のStar Pine's Cafeでヒカシューを観る(2017/8/24)。

巻上公一 (vo, cor, 尺八, theremin)
三田超人 (g, vo)
坂出雅海 (b)
清水一登 (p, bcl)
佐藤正治 (ds)

ファニーでファジーなインプロと不思議な歌。日本語を解さない人が観たらまた違う面白さを感じるのだろうな。このサウンドの中にどのようにクリス・ピッツィオコスのアルトが入ってゆくのだろう。

Fuji X-E2、XF60mmF2.4


晩夏のマタンゴクインテット@渋谷公園通りクラシックス

2017-08-24 07:45:14 | アヴァンギャルド・ジャズ

渋谷の公園通りクラシックスにて、「晩夏のマタンゴクインテット」(2017/8/23)。確かレオナさんが田村さん・藤井さんと初共演と聞いたような。

田村夏樹 (tp)
藤井郷子 (p)
北田学 (cl, bcl)
レオナ (tap)
鈴木ちほ (bandoneon)

ファーストセット、藤井+レオナ+鈴木。静かなイントロの中でピアノの音に驚かされる。と、突然スタートした。高みへと向かうような爆発を何度もトライする一方で、ときにお互いにペックしあう。激しいアクションの合間には、糸によるピアノの内部奏法、タップシューズによる擦り、バンドネオンの間断ない鳴き、そういったものが残響として常に空間にあった。静と動との併存があまりにも素晴らしく、終わった後に、左右の人と顔を見合わせてしまった。

セカンドセット、田村+北田。和やかな談笑のままに、お互いの楽器で遊び、重なりを探り合う。それは、倍音、息遣いの増幅、そして再び音の取り戻しへと共鳴しながら転換していった。やがて田村さんが低い声で唸り、北田さんがクラの低音で応じる。トランペットのミュートとクラのマウスピースだけによる破裂音の、またしても共鳴。

そして全員が参加した。最初はバスクラが音の礎となるが、たとえばバンドネオンがリズムを取りつつバスクラとタップがその上で跳ねるなど、役割はお互いに転換していった。内に籠るようなサウンドの中で、突然、藤井さんのピアノが介入すると、それは鋭く尖ったものとして、場の隅々にまでサウンドを拡張する。それを機にバスクラが太く強くなり、トランペットが泡立つ。この嵐が静まるとバンドネオンの音が浮かび上がる。

音風景がまた変わった。ピアノは教会の鐘のようであり、タップシューズが床を擦る音、バンドネオンの響き、そういったものが、暗くなってゆく夜を思わせる。北田さんはバスクラからクラに持ち替え、レオナさんは放浪をはじめる。全員が帰巣の準備をはじめているような、収束に向かう雰囲気。しかしそれでは終わらなかった。夜の、もうひと騒ぎが始まった。まるでレオナさん対全員といった構図もあり、田村さんはマタンゴマタンゴと呟いた。

(以下、鈴木さんが付けたキャプションとともに)

すごい集中力を感じる写真

ライブ直前に前髪切った感満載

田村さんスマイル、2人で会話中。

似てる。

胞子振り撒き中のレオナ。

この表情の差がちょうど良いコントラストに!

Fuji X-E2、XF60mmF2.4

●田村夏樹、藤井郷子
This Is It! @なってるハウス(2017年)
田村夏樹+3人のピアニスト@なってるハウス(2016年)

●北田学
北田学+鈴木ちほ@なってるハウス(2017年)

●レオナ
板橋文夫+纐纈雅代+レオナ@Lady Jane(2016年)
板橋文夫『みるくゆ』(2015年)

●鈴木ちほ
北田学+鈴木ちほ@なってるハウス(2017年)
りら@七針(2017年)
齋藤徹+類家心平@sound cafe dzumi(2015年)