Sightsong

自縄自縛日記

鈴木志郎康『日没の印象』

2010-12-31 00:01:04 | 小型映画

ようやく年末の休みに入り、本屋を彷徨いたくなって丸の内の丸善に出かけて何冊か買い込み、ご飯を食べてくたびれて帰って、ちょっと本を読んだら厭きて、気が向いて、鈴木志郎康『日没の印象』(1975年)を観る。

>> 鈴木志郎康『日没の印象』

この映像作家は当時40歳、ふと古い16mmカメラのシネコダック16を買う。25mmレンズが1本だけついている。そして100フィート巻のフィルムを入れると高揚してしまい、周りの私的な風景だけを撮り始める(大辻清司も登場する)。そう、まるでボレックスを入手したジョナス・メカスであり、散文的なタイトルと番号を時々挿入するスタイルは明らかにメカスの影響を受けている。

メカスとの大きな違いは、気負って、照れながら語る方法論が本人の独白の大半を占める点だ。だからと言って本当の技術論ではないのであって、「空間論」と銘打っておきながらその論はなく、また、「ワイドコンバーターを付けてみたが何ということはなかった」などの印象にとどまっている。外と中に向けて発信する内向きの視線であり、のちに円周魚眼レンズによって自室内を撮った丸い作品群、『眉宇の半球』にも通じるものがある(買っておけばよかった!)。

しかしその揺らぎが悪くないのだ。映像に挿入された自筆では、焦点の定まらない映像を、「とまどい」と表現している。吉増剛造が8ミリ映画について、「脈動を感じます。それはたぶん8ミリのもっているにごり、にじみから来るのでしょう」(『8ミリ映画制作マニュアル2001』、ムエン通信)と表現した。それらは小型映画に向けられた愛情に他ならない。


原将人『おかしさに彩られた悲しみのバラード』、『自己表出史・早川義夫編』

2010-07-31 08:48:03 | 小型映画

茅場町のギャラリーマキで、原将人の映画を順番に上映しはじめた。今回は高校生のときに撮られた『おかしさに彩られた悲しみのバラード』(1968年)と次作『自己表出史・早川義夫編』(1970年)の2本である。大島渚『夏の妹』の批評や、『東京戦争戦後秘話』の脚本によって興味を持っていたものの、作品をこうして観るのははじめてだ。

『おかしさに彩られた悲しみのバラード』は、一見、極めてユルい。しかし、カットが短く切り詰められ、継ぎ合わされている映像は、奇妙なビート感を孕んでいた。こうすることにより、楽屋落ちに堕すことがないのだと後で気が付いた。

政治の季節。街頭デモ。ベトナム戦争で頭を撃ち抜かれるベトコンの映画を撮ろうとする劇中劇(いや、すべてが劇中劇か)。リンチを受ける朝鮮人少年。それは「風景論」のようなタイトさや抽象性は持たず(足立正生『略称・連続射殺魔』は1969年に公開された)、ユルいが故に、丸山真男の言った「であること」的な距離を置かず、よりアクティブに世界と関わっているのだった。

「中学生のころからコルトレーンを追いかけていた」という監督らしく、映画ではずっとジャズが使われている。チャールス・ロイドの「フォレスト・フラワー」があった。上映の後、居酒屋で訊ねてみると、エリック・ドルフィーやレス・ポールも使っているということだった。

『自己表出史・早川義夫編』は、ソロ活動を始めたころの早川義夫を追った映像。デビュー作のユルさは消え、スタイリッシュでさえある(何しろ、オーネット・コールマン「ロンリー・ウーマン」で始まるのだ)。早川義夫は、作曲のときが音楽的なピークであり演奏時は追体験に過ぎないこと、メッセージソングであろうとなかろうとメッセージを殊更に強調したくはないこと、グループで演奏すると時間の進み方を支配されてしまうこと、などについて、原監督のツッコミに応じて正直に語る。

やはりここでも政治が独特な振る舞いで闖入する。1969年10月21日、国際反戦デー、前年に続く新宿での騒乱。「政治運動を撮るだけで運動になる」との主張をナンセンスだと感じていたという原将人の、独自の距離と関わり。この前後、原将人は大島渚の創造社に出入りしていた。この関係が、大島渚『新宿戦争戦後秘話』(1970年)において、脚本での参加という形となる。大島渚は『新宿泥棒日記』において、1968年の新宿騒乱を撮っていた。大島渚の近くには常に私服の公安が張り付き、声ひとつ、手ひとつあげようものなら逮捕しようと待ち構えていたという。足立正生が「おまわりさん!」と叫んでみると、柔道で耳の形が変わった「私服」たちは一斉に逃げた、という話も開陳された。

トークショーのとき、突然、Sさん質問はないですかと指名されたので、8ミリと16ミリというフォーマットの違いについて訊ねてみた。1枚の解説には、8ミリに飽き足らず、質感を求めて16ミリにしたのだとある。実際のところ、1コマずつのコントロールがより自由である点を重視したのだということだった。また最近8ミリに回帰している点については、フジのシングル8中止に対するプロテストのようなものだ、と。居酒屋で、それではスーパー8は使わないのかと訊ねると、巻き戻しなどのコントロールがシングル8のほうが良い点、フジカZC1000というカメラが使えるという点を挙げていた。このため、スーパー8のフィルムをシングル8のカートリッジに詰め替えて使っている人もいるらしい。

それにしても、変人たちの集まりは愉しかった。次回の上映にも足を運びたい。

●参照
大島渚『夏の妹』(原論文)
大島渚『少年』
大島渚『戦場のメリークリスマス』


ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1

2010-07-29 00:33:25 | 小型映画

ジョナス・メカスは映画作家としても、詩人としても、もっとも敬愛する人物のひとりだ。『リトアニアへの旅の追憶』(1972年)という奇跡的な映画を1996年に六本木シネ・ヴィヴァンで観たことが、確実に自分の中の何かを変えた。『I Had Nowhere to Go』(1991年)も、もう何年も前に読んだ本だが、また読みたくなって通勤電車の中で開いている。

少年時代から、ナチスドイツによる虜囚、難民となっての米国への移住、1950年代までの手記である。500頁近くの分厚い本であるから、通勤電車の中ではなかなか読み進めることができない。今のところ、終戦後数年間が経ったものの、メカスはまだ弟のアドルファス・メカスとともにドイツにいる。

なぜ捕虜となったかについては、『リトアニア・・・』でも語られている。抵抗運動を続けていたメカスには、ドイツもロシアも目を付けていた。ある日、納屋に置いていたタイプライターが泥棒に盗まれる。そこから足が付く危険がある。メカス兄弟はウィーン行きの電車に乗る。しかし、それは収容所行きの電車となった。そして、空腹で、退屈で、不潔で、自由のない生活が始まる。

メカスの自由への願いは切実で、痛々しく、かつユーモラスだ。狭いタコ部屋に同居する奴らがやかましいと常に怒っているのだが(ボッシュの描く怪物に例えたりしている)、その一方、自由が得られたときには周囲の迷惑を顧みず大声で歌ってみたりする。駄目だと禁止されても、自転車や電車で無理に遠出し、犬のように疲れてしまう(このあたり、収容所生活の感覚がよくわからない)。

収容所から大学にも通うが、何も残らない。空腹に耐えかねて、大量の本やタイプライターや服を売り払う。メカスは空っぽになってしまったらしい。そんな中、後年同名の映画を撮ることになる、ヘンリー・ソロー『ウォールデン』を読んだり、リトアニア人たちを集めて機関誌を発行し始めたりもする。この苦しくも楽しそうでもある時期に、メカス再生のプロセスを見る思いだ。

メカスらしく、無意味に、手記の一部をピックアップして適当に訳してみる。

「アドルファスは芋の皮をむく。レオと僕はそのまま食べる―――なぜ良い物を捨てるのか。それに早いし、手間が要らない。僕たちは料理と家事でたくさんの新しいことを学んだ。食べ物は原始的に眺めること、ちょうど子どもたちがしているように。僕たちは、芋を熱い灰の中に入れて焼いたものだった。それをズボンでちょっと拭いて、全部、灰ごと食べた。ああ、そんなふうに食べたら旨かった。特に、濡れた枝から冷たい秋の雨が首筋に垂れてくるようなとき、風が吹いてハンノキが曲がってしまうようなときには。
 しばらくして・・・違う生活があって、年月が過ぎて・・・僕は、焼き芋のことを忘れてしまった。綺麗に皮をむかれて適度に茹でられ、牛乳やバターと一緒に出されるものだった・・・。
 いま僕たちは、ぼろベッドの端っこに座り、テーブルの上にある5個の茹でた芋を見ている。塩に付け、皮ごと全部食べてしまう。もしかけらでも床に落ちていれば拾って、埃を吹き飛ばして、むさぼり食う。
 それから僕らは、汚れ、埃、大地、床、内部、外部の意味について論じ合う。
 子どもは何でも口に入れてしまうが、僕たちはパンの一かけでさえ、床に落ちた途端に食べたくなくなるんだ。」

●参照
ジョナス・メカス(1) 『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』
ジョナス・メカス(2) 『ウォルデン』と『サーカス・ノート』、書肆吉成の『アフンルパル通信』


ジョナス・メカス(2) 『ウォルデン』と『サーカス・ノート』、書肆吉成の『アフンルパル通信』

2009-05-07 22:22:24 | 小型映画

札幌にある書肆吉成というところが出している『アフンルパ通信』を見つけたのは最近のことで、それというのも、ジョナス・メカスの最近のニュースか何かないかと検索していて、最新号の文章がひっかかったのだった。

ジョナス・メカスはリトアニア出身の映像作家、詩人であり、現在も戦後流れ着いたニューヨークに住んでいる。私がもっとも敬愛するひとりで、息子の名前も彼の詩集から引用したほどだ(2005年来日時に話をする機会を得て、そのことを告げたところ、身体が動くほど驚かせてしまった)。

『アフンルパ通信』第7号(2009年3月)には、映像作家の金子遊氏が、メカスに関する思い出を綴っている。アポなしでニューヨークの拠点、アンソロジー・フィルム・アーカイヴスの前をうろついていると、メカスが歩いてきた。そこで話しかけたところ。

「彼はしばらく考えるように黙してから口を開いた。「いや、私はメカスじゃない。君がメカスだ。この街路樹を見てごらん。この木の肌、この枝、この葉の一枚一枚がメカスなんだ。」」
(金子遊『失われた記憶にふれる指』)

この文章では、メカスの『ウォルデン(Walden / Diaries, Notes and Sketches)』(1988年)に関する技術的な方法についても触れている。16ミリのボレックスにはゼンマイ式の巻き上げハンドルが付いているのだが、それを固定せず、回転状況を把握するためにあえてハンドルも回転させていたようだ。あの多重露光、ピンボケとブレ、露出過多へのゆらぎ、速度のゆらぎなどは、そういった肉体的な感覚によって得られたものだということがわかる。

それもあって、手持ちの『ウォルデン』を再び観た。何年も前に海外オークションで購入したもので、3時間近いはずが2時間程度までしか入っていなかった。30分程度のリール5本目の途中までである。ただ、ヒエラルキーのないフッテージの集合体であるから、まったく気にしていない。そのうち最後まで観る機会があればいいなと思う程度だ。実際に、作品のなかでも、メカスは「No tragedy, no drama, no suspense・・・」と呟いている。

映像は春から始まる。どのメカスの作品にも言えることだが、ストーリーを説明することには意味がない。日常生活や友人との付き合いが描かれ続ける。親しい友人たち、アレン・ギンズバーグ、アンディ・ウォーホル、ニコ、スタン・ブラッケージらも登場する。そして夏、秋、冬を経て、ブラッケージの家で春の雪解けを見る。光の明滅は瞬き、観ている私もこの上なく幸せな瞬きだと感じる。こんな感じの呟きもあった。「I' m celebrating what I' d like to celebrate」。


いつもの細切れタイトル

『ウォルデン』のリール2の一部は、『サーカス・ノート(Notes on the Circus)』(1966年)という10分強の小品にもなっている。これが実は、米国の前衛映像作家の作品集DVD『TREASURES IV / AVANT GARDE 1947-1986』(National Film Preservation Foundation、2009年)に収録されている。まだ全てを観てはいないが、これは急いではいけないような気がして、ひとつひとつを体験するようにしている。余談だが、サイレントものにはジョン・ゾーンが音楽を付けている。

『サーカス・ノート』については『ウォルデン』と同じだから敢えて言うこともないが、やはりVHSなどよりも映像が鮮明なのは嬉しい。『ウォルデン』にも登場するスタン・ブラッケージの短編『The Riddle of Lumen』(1972年)も収録されていて、いつもの終末的なイメージを観ることができた。これがメカスと同じ春の雪解けを共有した者による作品だということが、あらためて不思議に感じられる。採取するものとしての映像を、暗い部屋で加工したフッテージであり、現代のヴィデオアートにも通じる面がある。

●参照
ジョナス・メカス(1) 『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』


「科学映像館」に9.5ミリ映画がある

2008-07-21 22:01:42 | 小型映画

北海道のお土産はやっぱり六花亭の「マルセイバターサンド」。お土産と言いつつ自分でもひとつ食べている。旨い旨すぎる。

沖縄の画家、故・大嶺政敏氏の作品を紹介するウェブサイトが観られなくなっている。なんだろう。

科学映像館」の配信映画が次第に充実してきている。Youtubeなどより画質が格段に良く、貴重な映像が多い。

最近、『昭和初期 9.5ミリ映画』(東北文化財映像研究所紹介作品)が登録されていた(>> リンク)。9.5ミリ映画とは、小型映画のなかでも、スーパー8やシングル8、さらにダブル8よりもさらに古い形式のフィルムフォーマットだ。私はスーパー8を敢えて現在使っているし、ダブル8についてもかろうじて使えることは知っている(何しろダブル8は、16ミリを往復して左右を仲良く使い、現像時に裁断するものであるから)。しかし、9.5ミリとなると、いかな変人であろうと今使うことは無理なのではなかろうか。その意味で、このような映像を誰でも観ることができる価値は高い。

映像は農作業の様子からはじまる。どうも水路を造成するため、皆で土を盛ったり石を積んだりしているようだ。土を運ぶための背負う器具が面白くて、盛るべき場所に着いたら底板を外して土を落とすつくりになっている。(『大脱走』を思い出した。)

トタン屋根を作る大工仕事の映像では、鉋掛けの様子が凄い。何しろ鉋などしばらく使っていないし、自分はとても苦手だった。いまでも鰹節を削るのは苦手だ。それが、見事に削り屑がふわふわと積みあがっていく。

岩手県・陸前高田駅の開通の様子というのもある。Wikipediaで調べてみると、どうも一日平均乗車人員が2000年・433人から2007年・260人と、かなりの勢いで減っている。ここにはまだ、開業翌年の1934年に建てられた木造の駅舎が残っているようだ。当然、開業時点の映像にはこの駅舎は映されていないが、俄然行ってみたくなる。

それにしても、映される人たちの表情を見ていると嬉しくなる。子どもたちも大きめのぼてぼてした服を着て、連続的に見られることなど全くなかったであろうときの顔といったら。

おそらく、この頃に小型映画を撮ることができたアマチュアは、ライカなどと同様、限られた富裕層であったに違いない。この映像は、日本におけるパテー協会というような建前で撮られている。

そのパテーについては、他の小型映画メーカーと同様に、ユルゲン・ロッサウ『Movie Cameras』(atoll Medien、2000年)に詳しい。チャールズ・パテーは1869年に生まれ、エジソンが発明したフォノグラフ(蝋菅再生機)を転売したり、映画事業に乗り出そうとして技術的に失敗したりしていた。それが1921年になって、9.5ミリフィルムを世に出し、プロジェクターとともに販売して大成功した。この9.5ミリフォーマットを使うカメラは、ボリュー、ボレックス、ニッツォを含め、多くのメーカーが作ったという(さっきまで、パテーしかないのかとおもっていた!)。しかし1927年には、ジョージ・イーストマンが過半数の株式を保有するようになり、チャールズは会社を手放さざるを得なくなる。

パテーの9.5ミリフィルムは面白い特徴を持つ。なんと、フィルムのパーフォレーション(送り穴)がコマ間の真ん中にある。多分、カメラやプロジェクターのアパチャー前後に送り爪があったのだろうと想像するが、当時の精度では、コマに掻き傷がどんどんついていったのではないかと心配してしまう。それだけではなく、フィルムの横に「ノッチ」が付いている箇所には、タイトル画面があることを示しており、そこでプロジェクターがフィルムを送るのを止めていたということだ。(また再開するときにはどうしたのだろう?)

パテーは映画事業の最後、1978年には、スーパー8のサウンドカメラを開発し、日本のナルコムから出していたようだ。ボレックス後期のスーパー8カメラがチノン(ああ、そういえばここもコダック子会社になっている!)によりOEM生産されたことは知っていたが、逆のパターンはさっきまで知らなかった。かと言って、探し出してまで使おうという気にはなれない。


9.5ミリフィルムの仕組み ユルゲン・ロッサウ『Movie Cameras』(atoll Medien、2000年)より

●参考(科学映像館の配信映像の一部)
『科学の眼 ニコン』
『沖縄久高島のイザイホー(第一部、第二部)』


記憶の残滓

2008-03-03 23:59:29 | 小型映画

以前、スーパー8のフィルムを現像に出すと、スイス送りになって戻ってきた。小さいリールに巻かれ、識別のためにか、端っコで切り捨てられた誰かのフィルムに数字のタグが付いたものが、貼られていた。どこで撮られたものかまったくわからないが、捨てるに忍びなくてとっておいた。


いちご大福、久しぶりの8ミリ、チャウ・シンチー、キヨシロー

2008-01-14 22:19:32 | 小型映画

レトロ通販」から8ミリの現像があがったとの連絡があったので、受け取りに錦糸町まで行ってきた。2年くらい撮っていなかったから、レトロに行くのもそれ位振りということになる。その間に、コダクロームがなくなり、エクタクロームもトライXもプラスXも新型に変わってしまった。しかし、レトロ通販の周りは町工場や安売りの洋服屋なんかが多く、雰囲気はまったく変わっていない。

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錦糸町の駅前では、新日本婦人の会(平塚らいてう、いわさきちひろなどの呼びかけで結成された会だそうだ)、それから民青同盟の人たちが署名やアンケートをしていた。自分は、政治への意思表明のスタンスは、政策の中身や議員の考えによってそのたびに考えるので、特定の政党を応援したりということはない。しかし、平和憲法、反戦、大きな政府といった考えについて、共感するところは多い。

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おやつは、息子が作った「いちご大福」(ツマ監修)。手作りに勝るものはないとしみじみ思う。

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久しぶりに箱から取り出した映写機(エルモST-800)はまったく元気だった。部屋を暗くして、サイレントでたった3分を2本、スクリーンに上映する。それだけでヴィデオよりもうきうきする。赤ん坊はぽかんとして観ていた。この、小型映画をスナップとして使う方法は、もっと復活してもいいと思う。

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連休はわりとヒマだったので、チャウ・シンチーの出る映画『0061北京より愛をこめて!?』(1994年)、『ハッスル・キング』(1997年)、『ラッキー・ガイ』(1998年)の3本をまとめて観た。香港だけあって、このバカバカしさは昔大好きだった『Mr. Boo』シリーズのノリと共通している(『アヒルの警備保障』はDVDも持っているぞ)。

『少林サッカー』に登場する変な俳優たちがそろって出てきていて、顔を見るだけで笑いそうになる。

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「スペースシャワーTV」で、忌野清志郎が復帰する記念に、これまでの映像をまとめた番組をやっていた。「君が代」を凄い顔で歌う姿に爆笑。ホーンズとして、テナーサックスの片山広明やアルトサックスの梅津和時がぶりぶり吹いていた。


シネカメラ憧憬(3)

2008-01-06 23:56:52 | 小型映画

きのう、久しぶりに8ミリカメラをまわした。赤ん坊の記録のためだ。

もともと、劇映画を撮ろうなんて気持ちはさらさらなく、最初の子どもをフィルムに記録するためにそろえたものだ。「cine vis」というシネカメラ専門店が、当時、青山のレンタルスペースに時々カメラを出店していたので、8ミリのことを色々教えてもらったのだ。もちろん、そのときも、今も、8ミリを使おうなどという人はほとんどいない。

フィルムという媒体への偏愛は置いておいても、いまでも、8ミリのメリットは「長時間撮れない」ことだと思っている。気持ちを込めて撮り、気持ちを込めて観るということだ。1カートリッジでは3分程度しか撮ることができないし、音も録音できない。

日本で主流を占めたシングル8でなく、海外でスタンダードだったスーパー8を選んだのは、カメラとしての出来が相当違うこと(例外はある)、それから、コダクロームを使いたいこと、の2点だった。実際にコダクロームの色や質感は素晴らしく、どんなにシャープになってもヴィデオの追随を許さない、というか別物である。しかし、そのコダクロームも、35ミリ版を前に姿を消してしまった。カラーフィルムとして残るエクタクロームは、あくまで低光量・室内向けであり、映像としては劣るものだった。これも、最近新型に変わったから、期待している。

カメラは、キヤノンが1967年に発売したオートズーム814を使っている。金属とガラスの塊だから重いが、やはり最初の頃に気合を入れて作った製品なので出来が良い。その後のプラスチック製のキヤノン514XL-Sを使ったこともあるが、作りも、レンズの描写もまるで違う。(キヤノンの製品は、今になっても、高級機と普及機の力の入れ具合が確信犯的に異なっているといわれる。)

さて、旧型のエクタクローム(50フィート)を2本撮ったので、錦糸町の「レトロ通販」に送って現像してもらう必要がある。以前は江古田の「育英社」でのみ現像していたが、設備をすべてレトロ通販に譲ったとのことだ。コダクロームや白黒フィルムの場合、米国やスイスに送ってもらわなければならないので、まだマシだ。

待つ間に、2年以上放っておいた映写機をメンテしなければ・・・。


キヤノン814と新旧エクタクローム(手前が新型)


キヤノン814はつくりがいい


記念に取ってあるコダクロームの箱、ロシア製白黒フィルム(ひどかった)、これから使う白黒のトライX(旧型)

シネカメラ憧憬
シネカメラ憧憬(2)


もういちど観たい映画(3) 歩みつつ垣間見た美しい時の数々

2007-10-14 23:52:34 | 小型映画

もっとも敬愛する映画作家、ジョナス・メカスによる、2000年に完成した4時間48分の大作である。2002年に、御茶ノ水のアテネ・フランセで観た。

長いとはいえ、ボレックスの16ミリカメラで日常を淡々と撮り、時間を置いてから編集し、自分の訥々と話す声をかぶせる映画のあり方は、これまでの作品とまったく変わらない(もっとも、『グリーンポイントからの手紙』など最近の作品はDVを使っているようだが)。

1996年に六本木のシネ・ヴィヴァン(今はもうない)でのリバイバル上映で観た、『リトアニアへの旅の追憶』(1972年)に揺さぶられてから、メカスのことがずっと好きである。故郷への旅という非日常でありながら、日常的な視線と心象を撮った、揺れるカメラ、瞬き、情緒的な自身の声、により、酔ったような気持ちになった。その<瞬き>は、実は、ボレックスが壊れて露出がおかしくなっていたからでもあるが、小型映画独特の、フリッカーの明滅からこぼれるような光と<染み>があってこその効果だ。吉増剛造が言う、8ミリの画面についての、「脈動を感じます。それはたぶん8ミリのもっているにごり、にじみから来るのでしょう」(『8ミリ映画制作マニュアル2001』、ムエン通信)とする感覚にも共感をおぼえる。

『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』は、自分の妻や子どもたち、友達などのシークエンスを、個々にタイトルを出しては展開するという手法で作られている。採録シナリオを読んでも、それしかない。これで5時間弱も語り続けるのは過激ですらある。

メカスが過去の映像を利用しつつ語る、編集時点での気持ち。観客に対して、これは日常に過ぎないのだと開き直るのも、『リトアニア・・・』と同じだ。しかし、メカス自身が歳をとった所為なのか、とても感傷的だ。ゆらぐ映像とともに聴かされると、胸がしめつけられる。甘いといえばその通りなのだろうが。

「長い時を費やして、ようやくわたしはひとを石、木々、雨と隔てるのは愛であること、その愛は愛することによって育まれると気づいた、そう、わたしにはどうすればよいのか、まったくわからない、なにひとつ、わからない―。」

「きみの眼に歓喜と苦痛を、失われ、取り戻され、再び失われた楽園の残影を、あのひどい寂しさと幸せを見た、そして夜明けに独りこうして坐り、思いをめぐらせ、きみを想う、冷たい宇宙を往くふたりの寂しい飛行士のようなわたしたち、そうしたひとつひとつに思いを馳せる―。」

「わたしたちの暮らしは、みなじつによく似ている。ブレイクの言うとおり、ひと雫の水にすぎぬ。わたしたちはみなそのなかにあり、きみとわたしの間に大きなちがい、本質的なちがいなどありはしない。」

「どれもこれも、日々くりかえされるなんでもない情景、そのひとだけのささやかな楽しみや歓びばかり。重要なものはどこにも見当たらない。しかしそう見えるとすれば、そのひとは生まれて初めて歩いたこどもの感じる有頂天の歓びを知らないのだ。その瞬間の、こどもが生まれて初めて踏み出す一歩が、たとえようもなくたいせつなことを知らない。春、木々が一斉に花を咲かせる、そのたいせつさ、途方もないたいせつさ。奇蹟、日々の奇蹟、今、ここにある楽園のささやかな瞬間、またたきひとつするうちに、過ぎ去って、もう戻らないかもしれない一時。まったくたわいもなく(笑い) しかし、すばらしい・・・・・・」

「撮影するこころよさ、身近なものをただ撮ること、眼に映るもの、そこにあると気づいてわたしが反応するもの、指が、眼が反応を起こすもの、この瞬間、今、すべてが起こりつつあるこの瞬間を撮影することの、ああ、そのなんというこころよさ―」

「今わたしはきみたちに話しかけているのだよ、ウーナ、セバスチャン、そしてホリス。今、わたしはきみたちに話しかけている。これはわたしの思い出だ。きみたちにも記憶があったとしても、きみたちの思い出はずいぶんわたしのとはちがっているのだろう。これはわたしの思い出だ。」

最後の引用は、映画でも4時間を過ぎて終わりそうな頃に、自分の子供たちと妻に向けて話された台詞だ。しかし、私には、妻への愛情表現がいちばんの気持ちであって、メカスの照れ隠しではないかと感じられた。もっと言えば、これはメカスが妻にささげた愛情映画だ。映画のフラグメントひとつひとつが「なんでもない」ものであっても、観るものは、想いさえ共振すれば、長い映画でもメカスの心象に引き込まれるし、これは実は自分のなかで反射し続ける体験にもなるのだった。

メカスは2005年、青山の画廊「ときの忘れもの」での個展にあわせて再来日した。自身の映画フィルム3コマくらいを大伸ばしにした作品だ。レセプションパーティーでメカスに逢えるというので出かけて、メカスに映画のことではなくごく私的なことについてだけ話をした。夢のような心地だった。


ジョナス・メカス Leica M3、ズミクロン50mmF2.0、Tri-X(+2)、フジブロ2号


ジョナス・メカス Leica M3、ズミクロン50mmF2.0、Tri-X(+2)、フジブロ2号


シネカメラ憧憬(2)

2007-04-05 08:18:20 | 小型映画

先日、テレビ東京系の番組制作会社が来て、温暖化や排出権についてコメントした。

「ワールドビジネスサテライト」は、30分くらい喋って、合計30秒も出なかった(笑)。

次は今日の「ケンちゃんの晩飯前」。ケンちゃんというアニメの男の子が話を聴きにきているという想定なので、私の視線も小さいキャラを見ているような想定。それで、実際に私と話をしているテレビの人は、しゃがんで、テーブルから頭だけ出していた。5分番組だがどれだけ出るのだろう。

せっかくなので、持ってこられたカメラをじろじろ見させてもらった。レンズはニコンのズーム、開放f1.7(焦点距離は興奮していたので忘れた)。200~300万円するそうだ。カメラは700万以上とか。

なおCマウントなので、古い映画用の単焦点レンズが装着できるはずだ。需要が小さいのでツァイスのレンズなど安く買って・・・と下らぬ想像をしたが、やはり、もうズーム1、2本で済ませるということ。

テレビプロデューサーの大野克己氏は、『カメラこだわり読本1999-2000』(毎日新聞社)で、業務用レンズをライカMマウントに改造して、スーパー8カメラのライキナ・スペシャルに装着していることを紹介している。やはり、業務用、放送用のレンズの新品価格は安くて数十万円、高くて200、300万円は当たり前らしい。マウントが「無垢のチタンの削り出し」だったりして・・・。 レンズを交換してシネカメラを使う夢は、なかなか難しい。


シネカメラ憧憬

2007-02-15 23:59:46 | 小型映画

椎名誠は昔から結構好きで、いろいろ読んだ。真っ直ぐで素朴な気持ちの表現は、本当にうまいと思う。しかし、軽いので、どれがどれだかはっきりとは覚えていない。

『まわれ映写機』(幻冬舎文庫)も、電車の行き帰りですぐに読んでしまった。

映画好きで、自身でも8ミリからはじめて撮り続けているということは知っているが、ここまでシネカメラへの憧れを書かれてしまうと、こちらの頭も溶けてしまう。カメラフェチだ。

アリフレックス。ボリュー。ボレックス。エルモ。キヤノン。アトーン。フジカ。 ただ、8ミリではなく16ミリとなると、よほどでないと家庭人失格となる。カメラもさることながら、フィルムや現像代が8ミリとは比べ物にならないくらい高いのだ。

それで、私は、愛用のカメラバッグにボリューのピンバッジをつけて我慢している。ボリューには8ミリもあるから、実は半分現実的な憧れの対象でもある(実はピンバッジは16ミリではなく8ミリの「5008」という機種で、8ミリのくせに高いから、同じようなものだ)。それから、アリフレックスの野球帽も使っている。バカみたいだ。

8ミリを1年以上ほったらかしている間に、35ミリ用に先立って、8ミリ(スーパー8)のコダクロームは姿を消してしまった。この本でわりと気分が高揚したので、また8ミリをまわそうと思っている。