Sightsong

自縄自縛日記

サタジット・レイ『チャルラータ』

2012-02-21 11:25:26 | 南アジア

ドーハからの帰途、カタール航空の機内で、サタジット・レイ『チャルラータ』(1964年)を観る。

カルカッタ(現在のコルカタ)。チャルラータは美しい。インテリの夫は、金持ちも怠惰ではいけないと新聞を発行し、リベラルな政治への運動に関与している。オペラグラスで窓の外を眺めたり、刺繍をしたりとヒマなチャルを心配した夫は、能天気な大学生の従弟アマルを呼び寄せる。姉のようにアマルに接し、何か社会に接しなさいと文章を書かせて雑誌に投稿させるチャル。それが雑誌に採用されるや、自らの外部への発信意欲を刺戟され取り乱す。チャルもアマルに促され、エッセイを書いたところ、雑誌に掲載される。しかし、チャルはさらに気持ちを掻き乱され泣いてしまう。一方、夫は親戚にオカネを騙し取られ、新聞事業を頓挫させてしまう。今まで顧みなかったチャルとの生活を再開しようとするが、既にチャルの気持ちはアマルに向いていた。家庭は一気に崩壊し、もう元に戻ることはない。

チャルラータの描写はきめ細やかで素晴らしい。歩きつついくつもの窓から外の人をオペラグラスで覗き続けるテンポ。アマルが草の上で昼寝する横でブランコ遊びをするチャルが弾みをつける足、アマルの横顔ごしに捉えたブランコの動き、ブランコとともに流れる背景とチャルの顔。自我がコンクリートのようにへばりついたチャルの背中と顔。

サタジット・レイ(ショトジット・ライ)の手練の技を見せてもらったという印象だった。

●参照
サタジット・レイ『見知らぬ人』


スリランカの映像(10) デイヴィッド・リーン『戦場にかける橋』

2011-12-23 17:40:38 | 南アジア

泰緬鉄道は日本軍が連合軍捕虜たちを酷使して建設した鉄道であり、その名の通り、タイからビルマまで敷かれていた(現在はタイのみにその一部を残す)。特に難関だったのがクウェー川(クワイ川)での橋の建設であったといい、この話がもとになって、ピエール・ブールの小説が生まれ(『猿の惑星』の作者でもある)、その後、デイヴィッド・リーン『戦場にかける橋』(1957年)も生まれた。

しかし、ロケはタイではなく、スリランカ(当時、セイロン)で行われている。今日初めてこの映画を観て、改めて調べてみたところ、ロケ地はヌワラエリヤからコロンボへと少し向かったあたりのハットンであるらしい。聖山スリー・パーダの麓でもある。私もヌワラエリヤの「友人の教え子の家」に泊まり、大晦日の夜中に「初日の出」を見るべく電車で麓まで移動したから、ひょっとしたらそのあたりだったかもしれない。(友人も自分もオカネをほとんど置いてきてしまったことに途中で気がついて、何とか登山と下山までこなしたものの、そのあと一文無しでどうやってヌワラエリヤまで戻ったのか覚えていない。)

湯本貴和『熱帯雨林』(岩波新書、1999年)によると、いまではタイの国土は3割に過ぎないが、戦前までは8割近くが熱帯雨林に覆われていたという(>> リンク)。ただ、この映画が撮られた1950年代半ばの状況がどうだったのかはわからない。日本軍の捕虜収容所を脱出した米軍兵が保護された病院が、当時英国領であったセイロンの海岸にあるという設定になっており、ならば同じ国で撮影してしまえ、とでもいった決断があったのかもしれない。

映画は、英国軍将校にアレック・ギネス、米軍兵にウィリアム・ホールデン、日本軍将校に早川雪洲と豪華な俳優を揃えており、おまけにデイヴィッド・リーンときては、立派すぎて面白みがまったくない。今月足を運んだこの橋のたもとには、建設で命を落とした中国人捕虜の碑があった。映画の視線は、米、英、日、そしてタイ人(スリランカ人を起用したのかもしれない)にのみ向けられている。

それにしても、やはりあのテーマ曲は「猿、ゴリラ、チンパンジー」である。

●参照
泰緬鉄道
スリランカの映像(1) スリランカの自爆テロ
スリランカの映像(2) リゾートの島へ
スリランカの映像(3) テレビ番組いくつか
スリランカの映像(4) 木下恵介『スリランカの愛と別れ』
スリランカの映像(5) プラサンナ・ヴィターナゲー『満月の日の死』
スリランカの映像(6) コンラッド・ルークス『チャパクァ』
スリランカの映像(7) 『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』、『シーギリヤのカッサパ』
スリランカの映像(8) レスター・ジェームス・ピーリス『ジャングルの村』
スリランカの映像(9) 『Scenes of Ceylon』 100年前のセイロン


シャンカール『Endhiran / The Robot』

2011-12-23 12:03:52 | 南アジア

シャンカール『Endhiran / The Robot』(2010年)のDVDを観る。主演は大スター・ラジニカーントとアイシュ。日本では『ラジニカーントのロボット』というタイトルが付けられるそうだ。

科学者(ラジニカーント)は、自分にそっくりな人間型ロボットの開発に成功する。彼の夢は、ロボットをインド軍で使ってもらうことだった。ロボットの感情のなさを指摘され、さまざまな情報をインプットして感情を植えつけるも、ロボットは科学者の恋人(アイシュ)を好きになってしまう。科学者は無骨で(恋人へのプレゼントが、スティーヴン・ホーキング『A Brief History of Time(ホーキング、宇宙を語る)』や『フリーコノミクス』であったというのが笑える)、それに比して万能で強く、忠実なロボット。しかし、科学者の恋人にご褒美とばかりに頬にキスされると舞い上がってしまい、暴走を始める。

手がつけられなくなり、一度は科学者に壊され棄てられたロボットであったが、彼の成功を妬む師匠に拾われ、悪辣な「Version 2.0」として再生する。ロボットは自己の複製再生産をはじめ、恋人を奪い、ロボット軍団を率いて帝国を築く。

タミル映画の伝統を裏切らず、歌あり踊りあり(ところで、何でマチュピチュを前にして、キリマンジャロ~モヘンジョダロ~なんて歌うのか)。下らなすぎて最高だ。

しかし圧巻は科学者・インド軍・警察とロボット軍団との対決場面である。説明するよりも動画の一部を観てほしいが、とにかく過剰だ。空に浮かぶ無数の紳士たちの悪夢「ゴルコンダ」を描いたルネ・マグリットも、これを観たら驚愕するに違いない。ここまでやるのかというCGと冗談、ハリウッド映画を笑いながら軽く凌駕する。何の感慨もないがとりあえずは驚いた。

>> 動画の一部

もう60歳を超えているラジニカーントは今でも大人気だそうで、昨年インドでそんな話をしながら歩いていると、同行のインド人がほらあそこにも、と車の窓に貼られたシールを指さした。あらためて確認してみると、この映画の宣伝用シールだった。


2010年10月、バンガロール近郊にて


2011年12月、プネー

2011-12-19 23:10:15 | 南アジア

インドのプネームンバイから飛行機で30分、自動車で数時間程度の距離にある。大学がいくつかあるためか、落ち着いた雰囲気の街である。

※すべてペンタックスK2 DMD、M 35mmF2.0、FUJI PRO 400で撮影

●参照
2011年9月、デカン高原北部のユーカリとかレンガ工場とか
2011年9月、ヴァーラーナシーの雑踏

2011年9月、ヴァーラーナシー、ガンガーと狭い路地
2011年9月、ベンガル湾とプリーのガネーシャ
2011年9月、コナーラクのスーリヤ寺院
2011年9月、ブバネーシュワル
2010年10月、デカン高原
2010年10月、バンガロール
ジャマー・マスジッドの子ども
2010年10月、デリー
2010年9月、ムンバイ、デリー
2010年9月、アフマダーバード
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク


荒松雄『ヒンドゥー教とイスラム教』

2011-12-17 17:34:55 | 南アジア

ムンバイからバンコクに移動する飛行機で、荒松雄『ヒンドゥー教とイスラム教 ―南アジア史における宗教と社会―』(岩波新書、1977年)を読み始め、バンコクに居る間に読み終えてしまった。

同氏の『インドとまじわる』(中公文庫、原著1982年)は、まだ実際のインドを体験した日本人が少ない1950年代にインド留学した体験をもとに書かれたエッセイであった。滅法面白く、本書の古本をヤフオクで調達しようかと思っていたところ、今年、ちょうどアンコール復刊されていた。あとは、『多重都市デリー』(中公新書、1993年)も読みたいが、これは古本市場にしかなさそうだ。

ヒンドゥー教、イスラム教それぞれの特徴や歴史をまとめるのではなく、両者がどのように併存してきたのかという視点で書かれた本である。本書前半はその意味で生煮えのようで、物足りないところがある。後半になってぐんぐん面白くなってくる。

○ヒンドゥー教は東南アジアの島嶼部にまで幅広く広まっており、インドの「民族宗教」と呼ぶには抵抗がある。
○インドへのイスラム教勢による軍事的侵入の第一は、8世紀、ウマイヤ朝の侵入であった。この後、インダス川下流域がインドとムスリムとの接点となった。第二は、10世紀後半以降、西北インドへのトルコ系民族の侵攻であった(ガズナ朝、ゴール朝)。
○しかしそれとは別に、インドへのイスラム教浸透は、非軍事的になされた。それは交易・商業活動であり、スーフィーの活動の影響であった。
○スーフィーは人間の多い場所に拠点を設けた(デリー、ラホールなど)。スーフィー聖者はヒンドゥーのインド人民衆に共感をもって迎えられた。ヨーガ行者を見慣れていたインド人たちは、スーフィー聖者たちにも素直に崇敬の念を抱いていった可能性が高い。
○一般のヒンドゥー民衆が個人的にムスリムに改宗することは困難だった。むしろなんらかの集団ぐるみの改宗のほうが一般的であっただろう。なかでも、カースト=ヴァルナ制のなかで下層民として被差別の立場に立たされていた人たちの集団が、平等観と同胞意識を掲げるイスラム教に改宗したことが考えられる。
○インドのイスラム政権(ガズナ、ゴール、ムガル)は、ヒンドゥーの社会や信仰や統治機構を大きく変えることなく支配するものであった。
○このような両文化の混淆はさまざまな面で観察できる。ムスリム建築であるタージ・マハルは、それ以前のヒンドゥー様式を含んでいる。ラヴィ・シャンカールの使うシタールは、西アジア起源の楽器である。
○寛容であったムガル帝国でも、六代皇帝オーラングゼーブの時代になると、その傾向が弱まっていった。
○社会的には自然に併存していた両文化に楔を打ち込んだのは、英国支配であった(「Divide and rule」)。
○従って、歴史的には、インドとパキスタンの分離独立(1947年)を宗教対立にのみ帰するのは軽率な認識である。

これらの見方は、現在も強くあるパキスタンとの対立や、インドにおけるヒンドゥー・ナショナリズムに向けられる視線にも色付けを施すものだろう。

●参照
荒松雄『インドとまじわる』
中島岳志『インドの時代』
アルンダティ・ロイ『帝国を壊すために』(ヒンドゥー・ナショナリズム)
ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』(ヒンドゥー・ナショナリズム)
ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンの映像『The Last Prophet』(スーフィズムのカッワーリー)


デリーは煙っていた

2011-11-06 00:40:03 | 南アジア

5回目のインド。デリーの大気はやけに煙っていて、ほんの少し先でも視界が濁っていた。ホテルで読む「The Times of India」紙は、空港でも視認度が悪いだの、危険ゆえクレーンを解体したり足場にポリエチレンのカバー(目立つよう)をするだのと毎日その様子を報じていた。どうやら風が吹かず湿度が高いという条件による現象のようで、2008年以降、毎年この時期に起きている。

2008年 10月6-7日
2009年 11月5-6日
2010年 11月18日
2011年 11月1日-?
(「The Times of India」、2011/11/2)


インド門があまり視えない

これまでよくネタにしていた「世界大気汚染都市ワースト10」(1998年、WHO調査)には、デリーは入っていないし、あってもよさそうなカトマンドゥ(ネパール)もランクインしていない。冬の太原の凄さはその通りだと思うが(暖房用に石炭を燃やしているため)、ミラノの空気が汚かった記憶はまるでない。古さや調査対象の母数は置いておいても、おそらくは年のうちの調査時期も影響するわけである。

1 太原(中国・山西省)
2 ミラノ(イタリア)
3 北京(中国)
4 ウルムチ(中国・新疆)
5 メキシコシティー(メキシコ)
6 蘭州(中国・甘粛省)
7 重慶(中国)
8 済南(中国・山東省)
9 石家荘(中国・河北省)
10 テヘラン(イラン)


スリランカの映像(9) 『Scenes of Ceylon』 100年前のセイロン

2011-10-05 06:00:00 | 南アジア

大英帝国の植民地時代のフィルムを収めた「Colonial Film」というサイトがあって、当然、スリランカ(当時セイロン)の映像も含まれている。この中で最も古いのは『Scenes of Ceylon』(1909年)であり、有名なセシル・ヘップワースが製作した8分ほどの短いサイレント映画である。「stay-at-home」、すなわちオリエンタリズムの視線以外を持ちようもない、自宅での観賞という用途である。つまり、動く絵葉書というわけだ。

いきなりキャンディコロンボの街と市場が登場する。さすがに100年前であり、新旧の都といえど、当然、この古さとせせこましさは既にない。キャンディは大きな湖を囲む閑静な街であるし、コロンボは皆が憧れる大都市になった。

それでも、人びとの風貌についてはそうでもない。男は都会の「ズボンをはく人」を除けば腰巻のサロンである(そういえば現地で貰ったが使っていない)。田舎の光景は、漁村、ココやしのエステート、象がうろうろする場所など、さほど変わりはしていないのである。と言っても、私が訪れたのはもう十数年前のことで、幾分かはタカを括っている。

アヌラーダプラで声をかけてきたフェルナンドという男に数日間のガイドを頼み、自動車で移動していると、象使いがいた。象の背中に乗ってみるとわかるが、意外に毛深い生きものである。象を尖った棒で操り、作業させ、川で水浴びさせる様子がそう変わるわけもない。

>> 『Scenes of Ceylon』


スリランカ(1997年) Pentax ME-Super、FA28mmF2.8、Provia100、DP

●参照
スリランカの映像(1) スリランカの自爆テロ
スリランカの映像(2) リゾートの島へ
スリランカの映像(3) テレビ番組いくつか
スリランカの映像(4) 木下恵介『スリランカの愛と別れ』
スリランカの映像(5) プラサンナ・ヴィターナゲー『満月の日の死』
スリランカの映像(6) コンラッド・ルークス『チャパクァ』
スリランカの映像(7) 『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』、『シーギリヤのカッサパ』
スリランカの映像(8) レスター・ジェームス・ピーリス『ジャングルの村』


スリランカの映像(8) レスター・ジェームス・ピーリス『ジャングルの村』

2011-09-18 19:02:20 | 南アジア

スリランカのシンハラ映画においてはレスター・ジェームス・ピーリスが最も高名である。しかし、これまで限られた映画祭などでしか観る機会がなく、1本も観ることができないでいた。Youtubeでもごくわずかのフッテージだけしか配信していない状況だったのだが、最近、映画全編がアップされていた。そのひとつが『ジャングルの村』(Baddegama - Village in the Jungle)(1980年)である。


佐藤忠男『映画で世界を愛せるか』(岩波新書)より


杉本良男編『もっと知りたいスリランカ』(弘文堂)より

スリランカ南部のジャングルに位置する村。ジャングルで狩猟をして暮らしてきた男、その妹、ふたりの娘。彼の亡くなった妻は村長の妹であり、男の子を産まないがために虐待したと村長には恨まれている。その村長と一緒に暮らす甥が、男の娘に恋をして結婚する。もうひとりの娘は、近くの邪悪な老人の求婚を拒み、そのために老人により悪魔憑きとのデマを流され、その挙句、殺されてしまう。ある日金持ちの男が越してきて、村長と結託し、男の土地も娘も奪おうとする。裁判にも負けた男は銃を手に、村長と金持ちのもとに向かう。

ジャングルの自然、登場人物たちの人間くささ、精霊信仰と悪魔の仮面、都市と農村の格差などが描かれていて、熟練さえも感じさせる。やはりピーリスは匠であることを確認できた。

ところで、金持ちの男はフェルナンドという。ポルトガル統治時代から続いてきた混血の名残であるといい、その彼がオカネと都市を体現しているように描写されているのは面白い(ジャケットに下はサロン、髪をなでつけており、いかにも、である)。彼は男たちを騙そうとして、「コロンボは美しい街だった。蛇も、象も、虎も、熊もいない。道路にはヨーロッパの女性がいる。」などと嘯くのである。

映画の冒頭と後半の裁判のシーンには、裁判官として、故アーサー・C・クラークが登場する。コロンボ7に住み、スリランカでは知らぬ者のないほどの存在であったが、鬼籍に入ってしばらく経った今、どうなっているだろう。

ピーリスのシンハラ映画史における功績は、『運命の糸』(1956年)において、撮影をスタジオから屋外(しかも村)に追い出し、大袈裟な演技を排し、素人の村人も登場させるといった自然主義リアリズムを導入したことにあるという。そしてこの『ジャングルの村』は、1982年に日本でも公開されている(杉本良男編『もっと知りたいスリランカ』)。もう92歳だが、2007年にも新作を撮っているらしい。

>> レスター・ジェームス・ピーリス『ジャングルの村』

●参照
スリランカの映像(1) スリランカの自爆テロ
スリランカの映像(2) リゾートの島へ
スリランカの映像(3) テレビ番組いくつか
スリランカの映像(4) 木下恵介『スリランカの愛と別れ』
スリランカの映像(5) プラサンナ・ヴィターナゲー『満月の日の死』
スリランカの映像(6) コンラッド・ルークス『チャパクァ』
スリランカの映像(7) 『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』、『シーギリヤのカッサパ』


2011年9月、デカン高原北部のユーカリとかレンガ工場とか

2011-09-18 08:46:30 | 南アジア

故あってヴァーラーナシー(ベナレス)から車で片道5-6時間の移動をした(というか、それが目的でヴァーラーナシーに立ち寄ったのだが)。デカン高原北部ウッタル・プラデーシュ州の南東部である。

6年前に来たときには、道の真ん中にクレーターのような大穴があると驚いたものだが、状況はさほど変わってはいない。悪路また悪路、人と犬と牛、そして途中に大きなセメント工場があるためにトラックが行列をなしてゆっくり進んでいる。居眠りをすると頭を打ち付けてしまう。従って、いかに悪路でないところでスピードを出し、どれだけのトラックを追い越すかによって、移動の速さが決まってくる。発展にインフラ整備が追いついていない印象が強い。勿論、大都市の域内だけでなく道路がきっちり整備されているところはあって、去年はデカン高原南部を7時間以上移動しても苦にならなかった。

ガンガーに架けられた大きな橋を渡り、ごみごみしたエリアを脱出してしばらくすると、いろいろな風景が現れる。広い水田の中に赤や橙の鮮やかなサリー姿の女性がいる。ユーカリばかりの地域。レンガ工場が林立する地域では、ツチノコが立ちあがったようなずんぐりした煙突がそこかしこに見える。山道からの眺望。

去年デカン高原南部で見た風景は、巨大な岩が積み上がった奇怪な山々やひまわり畑だった。やはりこれだけ広いと、どこを見て語っても「群盲象を評す」を体現する結果になってしまう。これもインド発祥の言葉であるらしい。


デカン高原北部のユーカリと小屋と牛 Pentax LX、AM TOPCOR 55mmF1.7、FUJI PRO 400

道路のあちこちには、当然、食べ物の屋台や小屋がある。

オリッサ州。同行者がサモサを食おうと言って停まったところにはサモサはなく、バラという名前の豆や芋の揚げ物をつまんだ。別の場所には、やたらと甘い菓子のセナガチャというものがあった。


バラ (コンデジで撮影)


セナガチャ (コンデジで撮影)

この時期はちょうどムンバイでガネーシャ祭をやっていたばかりで、その影響が北部や東部にもあるのか、あちこちで大きなガネーシャを担ぎだし、スピーカーから大音量の音楽を流し、夜になろうというのに大勢が騒いでいた。

>> オリッサ州、車窓から(動画) 

参照
2011年9月、ヴァーラーナシーの雑踏
2011年9月、ヴァーラーナシー、ガンガーと狭い路地
2011年9月、ベンガル湾とプリーのガネーシャ
2011年9月、コナーラクのスーリヤ寺院
2011年9月、ブバネーシュワル
2010年10月、デカン高原
2010年10月、バンガロール
ジャマー・マスジッドの子ども
2010年10月、デリー
2010年9月、ムンバイ、デリー
2010年9月、アフマダーバード
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク
荒松雄『インドとまじわる』


2011年9月、ヴァーラーナシーの雑踏

2011-09-17 22:27:25 | 南アジア

ヴァーラーナシーの雑踏でスナップ。奇妙な建築物が多く愉しい。


四方山話


柘榴と林檎とバナナ


ムスリム女性


出窓とバルコニー


奇妙建築


トランプ遊び


雑踏


奇妙なコンプレックス


奇妙な塔


衣服屋


衣服屋


風車屋


バナナ屋


うがいをする男


何の神か?


女性たち

※すべてペンタックスLX、AM TOPCOR 55mmF1.7、FUJI PRO 400で撮影

●参照
荒松雄『インドとまじわる』
2011年9月、ヴァーラーナシー、ガンガーと狭い路地
2011年9月、ベンガル湾とプリーのガネーシャ
2011年9月、コナーラクのスーリヤ寺院
2011年9月、ブバネーシュワル
2010年10月、デカン高原
2010年10月、バンガロール
ジャマー・マスジッドの子ども
2010年10月、デリー
2010年9月、ムンバイ、デリー
2010年9月、アフマダーバード
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク


2011年9月、ヴァーラーナシー、ガンガーと狭い路地

2011-09-17 22:10:20 | 南アジア

ヴァーラーナシー(ベナレス)は聖なるガンガー(ガンジス川)での沐浴で有名であり、三島由紀夫や遠藤周作もここを舞台にした小説を書いている。ちょっと話したサリー屋の男も、「大沢たかおが『深夜特急』の撮影で来たよ、長澤まさみも来たよ」なんてまくしたてていて、オリエンタリズム的なステレオタイプと化しているのは間違いないのだ。

とは言っても、そして実際に日本や韓国や欧米の観光客をちらちら見かけるとしても、そんなもので本質が揺るがないような圧倒的な存在の重さがヴァーラーナシーにあることも間違いない。ガンガーと路地と雑踏でそんなように思った。

空き時間にガンガーに足を運ぼうとしてホテルで訪ねると、沐浴なら早朝か夕方、特に朝焼けが良いよと教えてくれたが、そうも言っておられず、昼過ぎに向かった。

ガンガーでは大勢の人や犬や山羊が階段に腰掛けていて、呆然と川面を眺めている。ボートに乗って対岸を見物しようとする人たちもいた。


くつろぐ人びと


座り込む人びと


山羊


河に近付く女性たち


ボートに乗り込む人びと

横の路地はひたすら狭く、それにも関らず、バイクも牛も平気で通っている。

「町の中心部からガートへ向かう大通りの左手、幅二メートル程の小路を入ると、サーリー、下着、食器、玩具、線香と、およそ生活と信仰とに関わるありとあらゆるものを売る小さな店が、両側に所狭しと並んでいる。」
(荒松雄『インドとまじわる』)

この文章が書かれたのは1981年、30年前のことであるが、これは変わっていない世界だと確信できる。ひとつの小さな店で、気まぐれにハヌマーンの小さな彫像を値切って手に入れた。きんまの葉に石灰水と檳椰の実を巻き込んだものを噛むと口の中が真っ赤になる。いつか試したいと思っているが、仕事で来ていてそれは無理。


野菜売り


行きかう人びと


ポンプ


きんまの葉


狭い路地の牛

※すべてペンタックスLX、AM TOPCOR 55mmF1.7、FUJI PRO 400で撮影

●参照
荒松雄『インドとまじわる』
2011年9月、ベンガル湾とプリーのガネーシャ
2011年9月、コナーラクのスーリヤ寺院
2011年9月、ブバネーシュワル
2010年10月、デカン高原
2010年10月、バンガロール
ジャマー・マスジッドの子ども
2010年10月、デリー
2010年9月、ムンバイ、デリー
2010年9月、アフマダーバード
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク


ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』

2011-09-17 20:45:49 | 南アジア

ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』(2008年)を観る。ヒットしたのに観逃していて、去年インドで何かの飛行機に乗った時に隣の席の見知らぬインド人となぜかインド映画の話になり、これを熱烈に薦められたのだった。但し、監督のダニー・ボイルは英国人である。

主な舞台となっているムンバイが映画のような顔役に牛耳られているのかどうか知らないが、登場する場面はいちいち興味深い。

例えば、兄のサリームはレストランで働き、ミネラルウォーターを注文されると空容器に水道水を詰め、キャップを未開封のように細工する。ホテルやレストランで出てくるミネラルウォーターのキャップがよく空いていることは実際にあって、キャップだけには注意しようと思っているのだが、こんな工夫をされては叶わない。ちょっとのけぞってしまった。

ムンバイの空撮シーンではスラムのブルーシートが目立つ。これも、ムンバイの空港に着陸する直前に目にする光景だ。

冒頭には、ジャマールとサリームの母が「ムスリムを殺せ!」と叫ぶ群衆によって殺される場面がある。現在のヒンドゥー・ナショナリズムと地続きのようなこの描写を、インドの映画好きたちはどのように捉えただろう。

●参照
2010年9月、ムンバイ、デリー


2011年9月、ベンガル湾とプリーのガネーシャ

2011-09-17 12:09:54 | 南アジア

コナーラクプリーはすぐ近くだ。途中ベンガル湾が見える場所にさしかかって歓声を上げる。海は真茶色で波が荒い。

それにしても、紅海、アラビア海、タイ湾、渤海、インド洋など、はじめての海に邂逅するたびに、われながら演技のように歓んでいた。海とはそうしたものか、河ではそうはならない。


ベンガル湾


ベンガル湾

プリーはヒンドゥー教の四大聖地のひとつであるらしく、地元のジャガンナート神を祀ったジャガンナート寺院(12-15世紀)がある。ヒンドゥー教徒でなければ足を踏み入れることができないのだが、はじめてここに来たという仕事相手のインド人がどうしても祈りを捧げたいようで、付き合って彼の戻りを待つことにした。

例えば日本の出雲やスリランカのカタラガマがそうであるように、地域の神は大きな神のストーリーに取り込まれていく。ジャガンナート神もそのような存在であるという。目が真ん丸のコミカルな顔をした神様である。

「「ジャガンナート」とは「ジャガド(世界)のナート(主)」の意味であり、サンスクリットの音便により「ジャガンナート」と呼ばれる。この命名はサンスクリット文化の伝統に従うものであることが明らかであり、この寺院がヒンドゥー教の「大いなる伝統」のなかに取り込まれてからは、ヴィシュヌをさす。しかし、このジャガンナート神は、元来はヒンドゥー教徒と関係ない伝統の神であったと思われる。」
(立川武蔵・大村次郷『ヒンドゥーの聖地』)


怖い人力車、手もぶれる


ジャガンナート寺院


ジャガンナート神(右側)、オリッサ州立博物館にて (コンデジで撮影)

寺院周辺は出店で賑わっている。生活物資も、果物や野菜も、サリーも、土産物もある。きょろきょろして歩いていると、巨大な牛の糞を蹴飛ばしてしまい、皮靴がクソマミレになった。ホテルで綺麗に洗うまでブルーな気分だった。

ちょうど8月末からムンバイを中心にガネーシャ祭をやっていた影響なのか、いつも通りなのか、参道は大きなガネーシャだらけだ。


ガネーシャ


ガネーシャ


ガネーシャ


ガネーシャ

※すべてペンタックスLX、AM TOPCOR 55mmF1.7、FUJI PRO 400で撮影(ジャガンナート神を除く)

●参照
荒松雄『インドとまじわる』
2011年9月、コナーラクのスーリヤ寺院
2011年9月、ブバネーシュワル
2010年10月、デカン高原
2010年10月、バンガロール
ジャマー・マスジッドの子ども
2010年10月、デリー
2010年9月、ムンバイ、デリー
2010年9月、アフマダーバード
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク

●参照(ガネーシャ)
ガネーシャ(1)
ガネーシャ(2) ククリット邸にて
アショーカ・K・バンカー『Gods of War』


2011年9月、コナーラクのスーリヤ寺院

2011-09-17 08:50:00 | 南アジア

オリッサ州ブバネーシュワルからベンガル湾に向かって田舎道を2時間程度走ると、コナーラクという小さな街に、13世紀に建造されたスーリヤ寺院(太陽寺院)がある。世界遺産として登録されている。

オリッサの寺院建築はほとんどの場合、切り出した石材を積み上げてつくる石積寺院であるといい、これがひとつの典型である(立川武蔵・大村次郷『ヒンドゥーの聖地』)。オリッサ州はボーキサイトや鉄鉱石などの産出が多く、使われているのもそのような石である。現在の産業と遠い過去の遺跡とにはリンクがあるわけだ。

祀られているスーリヤ神はすでに『リグ・ヴェーダ』(紀元前1200-900年の編纂)に登場する太陽神であり、ここにも一体の姿を見ることができる。しかし、本尊は英国が収奪し、現在は大英博物館にある。また、もう一体はデリーの博物館に収められている。

現在残されている主な部分は、神に捧げる踊りがなされた舞堂と、その先の前殿である。さらにその先の本殿高塔は現存しない。ブバネーシュワルのリンガラージャ寺院と同様の形状であったというが、そもそも作られていなかったという説もある。


前殿、エロチックな彫刻


舞堂から前殿をのぞむ


舞堂前の獅子と象


P・ブラウンによる復元想像図(荒松雄『インドとまじわる』)

舞堂には多くの女神が彫刻されている。太鼓を持ったものもあり愉しい。


舞堂の女神


舞堂の女神


舞堂の女神

前殿の基部の壁面には、12の車輪(チャクラ)が浮き彫りにされている。巨大な堂宇が疾駆するイメージである。この12という数字には意味がある。

「クリシュナの子シャンバは、父からその悪行を戒められて醜い容貌の身に変えられ、十二年間の悔悟の苦行と太陽神への祈りとを強いられる。シャンバは、その難行と信仰とによって救われ、スールヤ神への感謝の念をこめて巨大な堂宇をその神のために造営したという。事実は、(略)実在の王が建設したものであるが、彼は、十二年間の地税を費し、千二百人の工人を使い、十二年をかけてこの寺院を建てたという。」
(荒松雄『インドとまじわる』)


前殿の車輪


前殿の車輪

よく見ると、車輪の中にはエロチックな彫刻がある。それどころではない。前殿の横全体が、『カーマ・スートラ』のエロエロ世界となっているのだ。この凄さはブバネシュワールの寺院の彫刻を遥かに凌駕する(その意味で)。見れば見るほど驚く。●P、6●、動●など、何でもあり、なのだ。当たり前だが、昔から人間は変わらないのだ。


前殿のエロチックな彫刻


前殿のエロチックな彫刻


本殿高塔の基部、スーリヤ神


親子?


バニヤン・ツリー


バニヤン・ツリー


寺の牛


土産物通りの男


土産物通りの男


何だか寂しいごみ箱


近くのガネーシャと少年

※すべてペンタックスLX、AM TOPCOR 55mmF1.7、FUJI PRO 400で撮影

●参照
荒松雄『インドとまじわる』
2011年9月、ブバネーシュワル
2010年10月、デカン高原
2010年10月、バンガロール
ジャマー・マスジッドの子ども
2010年10月、デリー
2010年9月、ムンバイ、デリー
2010年9月、アフマダーバード
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク


2011年9月、ブバネーシュワル

2011-09-17 01:06:42 | 南アジア

ブバネーシュワルはインド・オリッサ州の州都だが、田舎街である。ここには10-11世紀の寺院が数多く残されており、これをオリッサ様式というらしい。最も有名だというリンガラージャ寺院(11世紀)はヒンドゥー教徒でなければ足を踏み入れることが許されないが、隣りに見物台がある。いそいそとのぼってその姿を目にしたとき、感嘆の声をあげてしまった。最も高い塔はスタイリッシュであり、確かに様式として洗練されたものに見える。

リンガラージャ寺院を除けば、私たち異教徒であっても覗くことができる。勿論、重要な場所に入るときには裸足にならなければならない。


リンガラージャ寺院の塔


リンガラージャ寺院


リンガラージャ寺院

「・・・幸いにして、ブバネーシュワルは、その周辺に大小数百の寺を持っている。小径を廻り、化物のようなジャクフルートの実がぶらさがる樹木の蔭に、半ば崩れた囲壁の中に残された大小の寺や塔を一つ一つ訪ねるのは、信仰の外にある者にも許された歓びである。中でも、ムクテーシュワル寺院(ほぼ十世紀初頭)や、ラージャラーニー寺院(ほぼ十一世紀初頭)はすぐれた遺跡で、塔の中、下面や入口の上に残る彫像や文様で私たちの目を楽しませてくれる。」
(荒松雄『インドとまじわる』)

ヴァイタール寺院(8世紀)。長方形であり、水の中に建っていた。死の女神チャームンダーに捧げられているという。


ヴァイタール寺院


ヴァイタール寺院に座る男

パラシュラメシュワール寺院(7世紀)。本殿の中にも外にもリンガ・ヨーニがあった。男性原理と女性原理の結合の象徴である。

「リンガがヨーニを貫いているのをわれわれは見ている。ということは、われわれは女性の胎内にいるということを意味する。」
「・・・つまり、このシンボルは、それを見た人びとに対して「この世界はすでに女神の胎内に包まれてある」と告げているのである。」
(立川武蔵・大村次郷『ヒンドゥーの聖地』)


パラシュラメシュワール寺院


パラシュラメシュワール寺院のリンガ・ヨーニ

ムクテーシュワル寺院(10世紀)。破壊神シヴァに捧げられている。アーチ型の門(トーラナ)が特徴的である。真っ暗な本殿の中には迫力のあるリンガ・ヨーニが設置されており、周囲は花で飾られ、その中心ではシヴァの蛇が鎌首をもたげている。


ムクテーシュワル寺院のトーラナ


ムクテーシュワル寺院


ムクテーシュワル寺院のリンガ・ヨーニ


ムクテーシュワル寺院の外に祀られていたガネーシャ

ラージャラーニー寺院(11世紀)。ここだけは入場料を取っている。塔の作りは他とは一線を画しており、寺によって寺が構成されているのである。どうやって建造したのか、これには驚愕させられる。そして周囲をびっしりと埋め尽くした官能的な女神や獣の彫刻は素晴らしい。


ラージャラーニー寺院


ラージャラーニー寺院の女神


ラージャラーニー寺院の子ども


ラージャラーニー寺院の女神


ラージャラーニー寺院の女神


ラージャラーニー寺院の男


ラージャラーニー寺院の子ども

※すべてペンタックスLX、AM TOPCOR 55mmF1.7、FUJI PRO 400で撮影

●参照
荒松雄『インドとまじわる』
2010年10月、デカン高原
2010年10月、バンガロール
ジャマー・マスジッドの子ども
2010年10月、デリー
2010年9月、ムンバイ、デリー
2010年9月、アフマダーバード
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク