こういう映画って、映画の内容(この作品の場合は黒人差別)に囚われ過ぎて、事実を知ることの重みにまず動けなくなり、そしてそのことの意味を自分に問うことになる。だから作品の評価より、むしろ映画がもたらす事実に観客は懊悩することになる。
何を言いたいのかというと、通常の映画の評価より、黒人差別という歴史観がものすごく重すぎて、正しい映画評が出来にくくなる恐れがあるということなのだ。特に日本人の場合はこの作品からは初めて知り得るところが多いように思う。
人間って、本当に悪への深淵は計りしれないなあというのがまず僕のこの映画への感想だ。二度目の所有者ミヒャエル・ファスベンダー は強烈だ。彼は黒人を人間とは思っていない。思っていないというか、黒人は人間ではないという教育を受けて来たんだよね。だから、女奴隷を愛していながらも、子供まで作りながらも、未だに黒人を家畜だと思っていて、人間だとは思っていない。
けれど愛しているから自分でむち打ち刑を実施できない。出来ない理由が愛しているからとは気付いていない。ここがこの映画の一番すごいところである。怖い。
映画では自由黒人と奴隷黒人がいるらしい。主人公は裕福な自由黒人だったから、むしろ拉致された監禁状態の「人間」であると言えるだろう。すると、人間が簡単に家畜化するわけである。この映画はそんな不条理を訴える。
だから12年後主人公が解放されて家に帰っても、それは個人的なことであり、肝心の黒人の「家畜から人間」への解放はまだされてはいないのである。彼は裕福自由黒人に戻るんだろうけれど、家畜のままで人間にはなり切れていない大勢の黒人はそのまま歴史に取り残されているのである。
でも最近、こういう黒人の歴史を正面切ってハリウッドで製作されている。この状況をどう見ればいいのだろうか。何かオバマの政治メッセージとリンクする何かがあるのだろうか、、。
映画は深いです。
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