便利屋という現代のすきま産業を通して人間を見ていると、現代に生きる僕たちの小さな心の揺れがざわめきを伴って覆いかぶさってくる、それははたして何?
飼い犬との別れといい、子供の孤独といい、親と子の絆といい、幼児虐待といい、妻の浮気といいそれらは昔からある普遍的なものであり、敢えて現代において描く必要はないかもしれない。しかし、人の人生へのまなざしは時代を超えても不変で優しくそして不安げなものなのだ。
だからこそ僕たちは日常を汗して仕方なく生きていき、方向は分からずとも誰かをあてにとぼとぼと歩き彷徨う。寄り添える人がいれば尚いいのだが、それほど世の中は甘くない。
僕たちは本を読み、映画を見、そして音楽を聴く。ぽっかり空いた空間を埋めるためにも僕たちの捨てられてゆく日常は息絶えるまで続く。
この映画の、通り過ぎていく映像を見ていると、生きるということは恐らく過ぎ去るものをただ眺め、そして生き急ぐ他人を見、そしてふと気付くと倒れてかけている自分を発見するようなものなのだろう。
ふと考えると、大人になっても旅立とうとはしない、純粋なままでいられるこの映画の大人子供は、ひょっとしたら現代に生き抜く青年たちの、いや人間たちの理想的な姿なのかもしれない。肩から力を抜いて飄々と(松田龍平のあの走り姿のような)素のまま生きていくことを現代人は切望しているのかもしれない。
何か、この映画が小さな日常の世界を切り取ったものにしろ、そこから現代に生きる僕たちの本質的な寂しさ、温かみ、そしてそこからかすかなチカラをもらったような気がした。ふと自分に戻る融合点を発見させてくれる希有な、いい映画だと思います。秀作です。
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