人間の生きる哀しさを描いた映画といえば言うまでもなく限りなくあるが、しかしこの映画の寂寥感は他映画と追従しない何かがあります。しかも、、
この映画の主人公たち、彼らは人間ではないとみなされ生かされている存在だ。人類が寿命が100歳になったのも彼らクローン人間が臓器提供をするという前提で初めてなし得る。その、恐らく金銭取引で製造されたのであろう彼らクローン人間はだからこそ人間ではなく、人間扱いをされていない。
3回程度の臓器提供で彼らはみんな終了していく。けれど、見かけも心も彼らは人間なのである。愛する人も出来、セックスもする。しかし、人間ではない。いわば家畜である。だから、幼年寄宿舎で彼らがバザールと称して絵などの作品を出していたのは、人間どもが彼らにそもそも魂があるのかどうか確かめるためだったという。
だから、人間からしては彼らは人間のためだけに存在していた家畜なのであって、パートを取り換えるための部品の存在でしかあり得ないのだ。そんな存在の彼らに魂めいたものがあるのは人間にとっては実に不快だろう。
映画の視点は彼らクローン人間を主体としているので、彼らの、人間のために生かされている哀しみを徹底的に追及する。恐らく彼らは製造されたときから家族というものもなく、ましてや戸籍もないはずだろうから、生まれてから自分の運命を厭というほど分かっているのである。
そんな存在の彼らの哀しみがこの映画ではテーマとしているが、これは人間の哀しみとはまた違ったものではないだろうか。本来人間として扱われなかった人たちの根源的な人間の哀しみ、というには設定がSF的に飛躍しているので何とも意見を挟めない気もするのだ。
恐らくこのクローン人間と鶏、肉牛などとを同列に見立てる気はないものの、100歳寿命のSF世界ではこの状態を同様のものとしているのかもしれない。
でも、ラスト、主人公の彼女はクローン人間が臓器提供をし終了してしまうのと、移植された人間がさらに生きながらえて行くことの意味を問うが、やはりここまで来ると生きる哀しみというより、人間にとっての生と死を考えるに、人間の驕りというものを強烈に感じざるを得ない。家畜だって生を絶つ時は涙を流すのである。
原作未読なので何とも言えませんが、実際は原作とかなりトーンが違っているのではないでしょうか。テーマが分かりそうで分からなかったです。
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