D・ホフマンがこんなに演出的にも手馴れているとは驚いた。さすが映画を知っているなあと思う。敢えて言えば映画の文法なるものを知っていると思う。名優にして名監督あり、というのはやはり生きていた。
1時間40分。よどんでいないんだよね。リズムがゆったりと途切れない。そこは、ゴージャスな老人ホームというより終末別荘といった感じだろうか、音楽芸術家だけが入ることのできる人生の終末場所。それは部屋といい、お城の延長のような大庭園といい自然に恵まれた雄大で広い敷地である。
そいうところには一部の人でなければ入所できないとは分かってはいる。庶民から手が届かないところなんだというのも分かっている。けれどもそういう雑多な想いは消えてしまい、ただ単にそこの素晴らしさに息を飲むほどだ。 これぞ終末の棲み家としては極上でこれ以上のものはない。
そんな環境の話だから一市井の人間からは遠すぎるかといえばそうでもない。高級な人間でも、ましてや芸術家でも、死の足音は日常的に近づいてくる。冒頭、ピアノを弾く女性。指先はもうしわくちゃだ。顔を見ればこちらもしわくちゃだ。でもその老いた指が奏でるピアノの音の素晴らしきこと。このワンシーンでこの映画の意図をホフマンは伝えている。
高齢者であれ、体がだんだん動かなくなっても、少々痴呆が入って来ても考えていることは何らそこらの若者と変わらない。年を取って来ると共に自然と考え方が変わって来る(或いは枯れて来る)ということはないのである。
彼らはホームで楽器を弾き、鳴らし歌を奏でる。自分の生きてきた証しを毎日ここで確認し合う。そんな彼らのうちの4人をピックアップしたのがこの映画だ。カルテット。四重奏。彼らのうち80歳前になって初めて生涯の愛を確認するカップルもいる。それも人生なのだ。
けれど途中で救急車に運ばれる入所者もいる。やはりどんな素晴らしい場所に住んではいても死は徐々に訪れる。それも彼らは甘んじて受け入れる。老いとはそういうものなのだ。
実にゆったりとした演出、カメラワーク。D・ホフマンは映画の文法というものを知っていた。そして恐らく人生というものの真実を、も、、。
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