演劇好きでも何度も見ているという人が多いチェホフの名作。僕もこの作品が大好きである。最初はロシア(当時はソビエト)映画のリュドミラ・サベリーエワがニーナ役の作品です。これは1974年公開作で当時僕がまだ学生の時でした。なんと今でもこの作品のこと、結構覚えてるんですよね。不思議です。
その後チェホフの原作を読んだり、舞台も何回も見た。でもやはり最初に見た映画が忘れられない、、。今でも一番好きなのだ。
ということで今回は集大成のつもりで、なぜこの作品が好きなのか解明しようと、この作品をじっくり見ることにした。もちろん席は一番前で、俳優のすべての所作まで細かく見ることにした。
チェホフからするとこの作品は喜劇なんですよね。けれどほとんど客席からは笑いは起こらない。でも悲劇というのでもない。人生を達観したところから見下ろした枯れた喜劇なのではあるまいか、そういう気がした。
思ったところは、人間の営みはすべておかしいのである。若い男が一人の女に恋をし、女が駆け落ちしてまで男を裏切っているのに、数年後女がのこのこ戻ってきても、やはり好きなものは好きで、男の胸には女への恋心が広がるだけだ。
けれど駆け落ち相手の男との子供も亡くしたのに、女はまだその男のことを思っている。いや今でもますます燃えていくようだと若い男に告げる。男は作家として成功していたが、絶望し自殺してしまう。それがこの喜劇かもめの幕切れである。実に悲劇っぽい作りである。
僕も結構長らく生きてきましたが、この喜劇には人生のすべてが詰め込まれているように思える。あこがれ。希望。恋愛。都会生活。裏切り。諦観。青春のいぶきとともに、老残の哀しみまで感じさせる。
通常なら悲劇でもいうべき内容なのだが、チェホフは乾いた見地からこれらすべての人間の営みを喜劇だと思念する。そう私たちの人生には悲劇なんてあり得ず、そこには喜劇しかないのです。すべてが乾いたお笑いの世界、人生なのです。達観ですなあ。今回の舞台でよくそれが分かりました。
うーん、チェホフってすいごいと思う。乾いた思想からは人間を斜めに見ざるを得ない哀しみも垣間見える。すなわち喜劇=悲劇なんですよ。チェホフが初めて分かったような気がしました。
戻しましょう。舞台そのものはさすが、ピッコロ。登場人物10数人、全員が鍛えられている。発声、所作、動き、感情の露出。完璧である。この極上喜劇への取り組み方が深々とわかる。実に素晴らしい。原作は結構読むとシンプルなんだが、潤い、味わい方が調理され絶品の作品となった。凄いです。
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