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演劇集団あしたかぜ「わたしがわたしであるために」(作・演出 つぼさかまりこ)(於・金毘羅) 80点

2015-12-13 20:07:07 | 演劇遍歴

つぼさかの演劇は僕は3作目である。「さよなら父さん」、「しみったれた~」の切実な愛の考察がいまだに余韻が残るほどであるが、本作は前作に比べてとてもシンプルである、と思う。

音楽を志し路上で歌っていた男が一人の女性からの一言で希望を得る。そしてその女性との数年後の再会。女性は風俗嬢で男は小学校教師になっていた。ホテルでの二人の対話が続く、、。

僕もずっと演劇なるものを見て来ているが、それは演劇という可能性を信じて自分を表現している役者のその真摯さに痺れるのである。映画と違い(スクリーンという虚像ではなく)まさにそこに役者の生の実像がある。汗がある。肉体がある。これはもういつもすごいことだと思う。

僕らは自分の生活の一部で演劇というものを見ているだけだが、役者たち演劇にかかわっている人たちは、年に数回の公演のために自分の生活を犠牲にしている人も多いと聞く。演劇だけで食べていける人は一握りの人だろう。

みんな若い時にはいろいろ夢を持つ。仕事がしたくて仕事をする人は少ないであろう。出来たら好きなことをしていて、それが実益になればいいぐらいに思っているのだが、そうは世の中は甘くない。

そこでみんな何かを捨てる。生活するために、食べるために、捨てまくる。そして生活にまみれてその中でやっと何かかすかな光ぐらいは見たいと思うようになる。そして例えば僕のように演劇を見る、、。

でも演劇に携わっている人たちは演劇をするために、生活も不安定にならざるを得ない(と思う)。でも演劇という光明、すなわち自分を表現する場所を捨てることができない。捨てる人もいる。役者を辞める人もいる。僕らと同じように普通の生活に戻る人もいる。でもそれもその人の人生、生き方なのだ。

つぼさかまりこは今当然のことだが考えている。自分を表現する場所について、これからの長い人生をどう過ごしていくのか考える。僕らと同様何かを捨てるのか、つぼさか流にいうと「逃げる」のかどうか考える。当然だろう。

何かを捨てて何らかの生活をしている僕ら、それでも普通の市井の生活をしつつ、悩みは尽きない。

この劇を見て思う。つぼさかは考える。今年も結構客演のつぼさかを見てきたが、やはり主演のつぼさかは全然違っている。線が柔らかくなる。機微が深くなる。この女性らしさは全然素晴らしい。そしてつぼさかが考える切実な問題を観客も受け入れることになる。

今僕が思うことは、2年ぶりの演劇ということではなく、少なくとも1年に1回は公演をすることが、つぼさかのこの劇の問い(テーマ)に対する回答になると思います。

頑張れ、つぼさか!!


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