冒頭の、贋作についての講演会はスリリングで観客の目を釘付けにする。一番前のスタッフ席に遅れて来た女が座り、関係者と話をする。さらに遅れて来た彼女の息子が席に座わらず壁に立ち彼女を急き立てる。仕方なしに、彼女は会場を出ていく羽目に。一方、ここまでに男の講演を観客は仕方なく聞かされるという拷問にも遇っている。
この鮮やかさは、何でもないシーンをいかにも何かあるように装う【オリヴェイラ】風でもある。そして彼の講演内容の贋作論が観客の脳裏のどこかに残ってしまう仕掛けまで用意してある。
女は息子をレストランに連れて行くが、逆に息子から男のことを好んでいると揶揄される。ませた息子。女は席を立つ。
女は雇われ美術商らしい。古びた店に男が訪ねて来て即二人でトスカーナ巡りをすることになる。美術館に入り「トスカーナのモナリザ」は最近贋作と判明したものの今でも展示されていることを男は告げる。そしてさらに「ダ・ヴィンチのモナリザ」でさえ実際〇〇夫人の複製じゃないか、と男がのたまう始末。
そんなこと言ってたら絵画だって映画だって小説だってすべて偽物でしょう?となるのだが、【キアロスタミ】はちょっと羽目を外しかけている。饒舌だ。彼はこんな映画を撮る映画だったけ?とかなり驚いている僕。
そのうちカフェの女主人が彼女たちを夫婦と勘違いしたことから彼らの夫婦ごっこが始まる。ここ以降はくだらない日常会話が飛び交い倦怠期を超えた中年夫婦がまさにそこにいる。
ひょっとしたら、彼らは夫婦ごっこをしているのではなく、夫婦が他人ごっこをしていたのではないか、とまで思わせる演出の鮮やかさ。【キアロスタミ】は滑ってはいるが、遊んでいる。余裕だ。余裕でいきいき映画を撮っている。輝いている。けれど観客は置いてけぼりを食って、ほとんどが動揺し始めている。
でもそうなったら彼の企みに見事はまっていることになる。所詮、映像自体が銀幕の上の虚像なのである。だから、レストランで【ビノシュ】はこちら側を鏡に見立てて化粧直しをする。観客は否が応でも紅を引く女を見させられ、イヤリングを装着するつまらない時間を共有させられる。観客はこの映画に鏡として見事登場させられている(覗き見している)のである。
虚像とは何か。映像とは何か。映画とは何か。【アントニオーニ】の『欲望』、【レネ】の「去年、マリエンバートで』に通じる興味深い作品だ。
ええ、好きですよ。こんな思い上がりいっぱいの破廉恥作品は。ますます彼の創作意欲が増強していることが確認できる過渡期の作品ではないだろうか。やはり作家は余裕がないといけない。映画館を出るときはやられたという思いが苦笑に変わっていた。
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