久々のタヴィアーニ作品。そしてベルリングランプリ作品と来ればいそいそ映画館にも出かけたくなる。館内は年齢もさまざまな映画ファンが今かとその時を待っている風だ。
冒頭、(演劇の)ラストシーンからスタンディングオベーションに始まるスタッフと観客との感激シーンなど、盛り上がるシーンが映像に流れる。そして突如暗転しモノクロのオーディション風景が映される。それは6か月前のことであった。
俳優陣が決まる。「ジュリアスシーザー」。マフィア関係で長期受刑中の囚人たちは題材が自分の人生と交錯していることに即気づいただろう、シェイクスピアの、重く、意味深の劇である。
カメラの撮り方、演技中の俳優の表情等々、稽古は刑務所内で行われているが、これが何と驚くなかれドキュメンタリーではなく、ほとんどが脚本による囚人の演技だということである。囚人が囚人の役を演じ、ジュリアスシーザーのローマ時代を見事形成する。
その陰影のある彫の深い囚人たちの顔。そもそも一流の俳優にはない凄味が彼らに存在している。そこらの俳優にはない人生上の履歴は演技では作られない本質的な沈殿物を露呈し、まさに人生を生きた人間の顔がそこにある。
そして6か月の稽古を通して舞台がはねた彼らはそれぞれの牢獄に戻って行く。6ヶ月間彼らは夢を見ていた。ローマの時代を見ていたのか、見果てぬ自分の夢を見ていたのか、凄惨な自分の人生をローマ人に見立てていたのか、彼らが見た一瞬の夢ははかなく消え去る。
監視が牢獄を締める音がとても厳しい。映画は、冒頭の再映像で終わる。このリフレインはどうなののか。冒頭部分はオーディションから始めてもよかったのではないか。そうすると演劇の感動が観客にストレートに伝わる気がした。ちょっと惜しいかな、、。
そして何より、稽古部分をドキュメンタリーではなく、脚本による演技(すなわちそれがドラマ)に構成したということは何を意味するか。この部分がこの映画の一番ユニークなところだ。僕にはタヴィアーニのニンマリとした微笑が見えてくるようだった。
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