青春ものロマンスの定番スタイル男2+女1。そこに大人の実女一人を加え、大地震の爪あとの残る中国の過去と現代・そして未来を描く。いったい人はどこへ行くのか、行こうとしているのか。それを一瞬のカメラで切り取っている。しかしこの映画、観念的ではある、、。
4人が4人、そろって自分にそれほど深く踏み込まない。それぞれ悩んではいるが表層的である。表層的であるがゆえに、そこに崩れゆく自然・文明を持ってきても当然と人工的な色合いを示すことになる。
エピソードの一つ一つが頭の中で無理にこしらえたものに見えてしまうのだ。そういうのを観念的というのであろう。
定番のスタイルといっても一人の男は絵になるイケメンだが相方は太っちょで最初から男2にはなっていない。女もイケメンの男にしかなびいていない。太っちょも女のことを愛の対象とは思っていない。だから本質的には定番のスタイルではない。
実女が部屋を3人に貸す。特に金がないわけではないのに(むしろブルジョアであるのに)3人に部屋を貸す理由がまずもって僕には分からない。説明がない。でも本当はこれは重要なんだ。
それほど、死ぬほど悩んでいるのなら彼女の脳裏には余計な(余裕の)部分はないはずなのだ。だからこの部屋貸しは無理に4人を会わせるためのご都合主義に見えてしまう。
突如題名のブッダ・マウンテンに4人は全面修理した新車のような白い車で向かう。地震で廃寺になった寺院の復興を手伝う。これが唐突なんだなあ。そのきっかけは実女の自殺未遂である。
でもこの未遂が嘘くさいんだなあ。本当に死ぬつもりだったらなにも3人がいるときに自殺行為なんかしないでしょう。(まさか狂言だとは思えないし、、)
実女が立ち直ったと思ったら山の中腹で一瞬にして見えなくなる。そして3人の若者の複雑な顔つきを眺めながらこの映画はジエンドになる。
ラストはいいと思う。雰囲気がある。
そう、この映画は雰囲気の映画なんだ。本当に痛いもの・汚いもの・怖いものを避けて雰囲気で人生を見てる。
若い時は何を隠そう僕はこういう映画を評価していたような気がする。映画も見る歳を重ねてくると見る方に余裕がなくなってくるんだよね。雰囲気=甘さ、すなわち人生のオブラート化として捉えてもいいが、もうちょっと真実・現実に目をしっかり向けてもいいのではないか、と思う。
でもこれだけ欠点を提示しているのに僕は決してこの作品を嫌いではない。この雰囲気は好きだ。
別に人生なんてそれほど重く考えなくてもいいのかもしれない。死ぬのに意味付けなんか要らないのかもしれない。とすると、対する生きることにも意味付けはもちろん要らない。
それでいいのではないか、と。
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