「ドキドキ文芸部」に絡めてコミュニケーション(不全)のことを書いたので、随分前に書いて放置状態となっていたVtuber黛灰と精神科医名越康文の対談に関する記事を上げておこうと思う。というのも、以下で述べていることは、なぜ自分がVtuberのキャラクター性をくり返し取り上げ、また掘り下げようするのかにも関わっているからだ。
かなり長文になってはいるが、この記事の性質上、かえってそれがパフォーマティブに問題意識を表現する結果になっていると思うので、そのまま掲載することとしたい。
さて、原文を「本当の自分」から書き始めている理由について述べると、対談内容とももちろん関係があるけれども、やはりそこは黛灰というライバーの特異性を意識したからだと思われる。
Vtuberというのは「キャラクター」であり、また「キャラクター」にすぎない、とも言われる。これは向こうに演者(生身の人間)がいる一方で、それと眼前のキャラが完全には合致しないという非常に微妙で曖昧な距離感を踏まえると、いささか単純化し過ぎな見方だと私は思うが、黛はかつて2021年6月19日に新宿アルタビジョンで擬似的な街頭ジャックを行い、その中で「どうしてそっちがリアルで、こっちがバーチャルなの?」と問いかけた。
このような演出・主張は色々な角度から論じようがあるし、「生身の身体がある以上、Vtuberと同じではありえない」という反論も容易に可能だ。しかしこの発言を、「君たちは俺を作られた仮想の『キャラクター』だと言うが、しかしそれなら、画面の向こうにいる君たちは、『キャラクター』ではないのか?」と捉えてみると、非常に示唆に富んだものになると私は思う。
いきなり何を言い出すかと思われたかもしれないが、まだVtuberどころかようやく初音ミクが登場した頃のゼロ年代で言えば、「キャラ的人間関係」という言葉が一時流行ったが、その少し前に人気を博した「ブギーポップ」シリーズにおいて、社会の中で仮面をかぶって「なりすまし」つつ、今にも窒息しそうになりながら生きている人たちの様が描かれていた。
ではそんな10年以上前の状況が今と断絶しているかと言えば、全くそんなことはない。以前「自己責任論が生んだゼロリスク世代の未来像」でも述べたように、共通前提を失った若年層はむしろ周囲から浮き上がることを極度に恐れ、何とかして出る杭とならないよう期待された役割通りに振舞おうとしている。つまり、「キャラ的人間関係」などとして言明されてきたものが、もはやあまりにも当たり前となった結果として、わざわざ何か特殊な用語で表現する必要すらなくなった、というのが実情ではないだろうか。そしてそのような抑圧的状況の表出の一端が、(少子化にもかかわらず)若年層の不登校者数の増加であり、またG7中で唯一若年層の死因順位1位が自殺という状況に繋がっているように思われる。
このような状況を踏まえると、黛の発言は一般的かつ挑発的な問いとして興味深いものではある。しかし、より固有の問題として、黛灰自身が性同一性障害、つまりアイデンティティの深刻な問いを抱えた人であるのも、影響しているのではないかと思う。あるいは、かつて鬱状態になったことについても、他者から求められる自己像とのギャップに苦しんで生じたものかもしれない・・・という具合に考えてみると、二次元キャラクター(彼の場合はハッカー)によるRPとか、あるいは手垢のついた(第四の壁的な)境界線侵犯を超えた、彼自身の実感の籠った問いかけでもあったのではないか、と思ったりする。
以上のような背景が、元々の記事を「本当の自分」とその虚構性から始めた理由である。
まあもっとも、こうして演者とライバー(この場合はやみえんと黛灰)を過剰に重ね合わせてあれこれ推測するのは、危険が伴うことでもあるだろう。例えば同じVtuberの兎鞠まり。ボイチェンはともかくとしても、そのあまりに完成度の高い立ち居振る舞いは、よく「脳がバグる」などとネタにされ、もはや「本人がおじさんと勘違いしているだけの女児」とまで言われるほどである(実際女性と間違われるエピソードや、好きなもののフェミニンさを考えればむべなるかなというものだが)。
ただ彼女(?)自身、いわばトランスジェンダー的な存在としてカテゴライズされインタビューを受けて困惑した経験を因幡はねるとの対談で述べたりもしている(下記動画。本当は切り抜きがあれば良かったのだが見つからず・・・)。
すなわち、兎鞠まりとしては自分の好きなものに女性的なものが多いというだけで、そこに過剰な意味づけや属性賦与が行われ、あるカテゴリーの存在としてフルパッケージされることへの違和感を述べたわけだが、こういったレッテルは、抑圧として機能したり、時にはその手前勝手に構築した像から外れたとして攻撃の対象にさえなったりするものだ(以前取り上げた朝井リョウの『正欲』なども想起したい)。
さらに言ってしまえば、そういうものへ自分がカテゴライズされるのを強く否定するのも、別にそういう人たち自体を攻撃したい訳ではないので、どのように自分とそのレッテルとの差異を言明していくかが難しい、という側面もあるかもしれない(LGBTQのような括りがマイノリティの連帯といった意味合いを持つことは十分理解するが、一方でこういう側面には注意を要する)。
さて、もう一つの事例として、ホロライブの「ノエフレ」を挙げてみたい。これは3期生の白銀ノエルと不知火フレアの二人を指し、実際非常に仲がよく、カップルリングさえ作っていたのだが、今やそのような打ち出しをすることは無くなっている(以下の切り抜き参照)。
まとめると、カップリングで打ち出すことにより(過剰な)役割期待がなされ、それが活動の幅を狭めるのももちろん、お互いの関係性維持にもよくないと判断した、というところになるだろう。
こちらは兎鞠まりと違って明言してないのであくまで私の予測だが、その役割期待には「同性カップル」としての過剰な読み込みも含まれていたのではないだろうか(つまり、別にレズビアンでもないのにそういうものとしての発言や立ち居振る舞いを求められたりする、ということ)。
少なくとも、かつてフレアが(先の配信以外でも)明確に言っていたのは、自分が「男役」のように見られることへの困惑であった。そうみなされる理由は、おそらく彼女の声が低音で「イケボ」と評されるようなものに近く、一方ノエルはふわふわの癒し系ボイスという特徴によるものと思われる。それによる過剰なレッテルが、今度は「なぜ~ではないのか」という縛り・抑圧として機能しまった(もしくはその兆候が色濃く見られたので避けるようになった)、ということなのだろう(ちなみに原文では、「ななしいんく」の龍ヶ崎リンを類例として言及している)。
思い出してみると、ノエルが自身の牛丼好きを人気取りのためのRPだと相談するドッキリを仕掛ける企画が以前あったが、様々なリプの中でもフレアのそれは極めて真摯で心配りのなされたものであった(言ってみれば、ドッキリを仕掛けて一番罪悪感が湧くタイプの人だw)。そこからは、とても真面目で細やかな配慮をする人物像が透けて見えるが、他でも2期生の大空スバルがフレアを「優しい近所のお姉さん」と評していた切り抜きなどからすると、やはり彼女はそういう人物なのだろう。
あえて言えば、そのとても柔和な性質で真面目な人が、「男性的」な振る舞いを期待されることへの困惑とプレッシャーがあり、カップリングでの打ち出しを止めたのではないか、ということである(この辺は、にじさんじのCrosssickとそれが表では絡まなくなったあたりも、おそらくノエフレとは要因が全く違うのだが、比較検討の材料としては興味深い)。
・・・ということで、いくつかの事例を元にVtuberのキャラクター性と、「キャラ的人間関係」≒レッテル貼りにまつわる話をいつくか取り上げてみた。
すでに触れた通りであるが、現実世界でもレッテル貼りはしばしば行われる。特に、昨今は成熟社会化によって社会の複雑化・多様化が進んだことで共通前提が消失し、他者を理解するためのハードルが上がった結果、他者を慎重に見定めようとするよりもむしろ、手っ取り早くわかった気になるためのレッテル貼りが横行するようになっている。
その具体例としては「パリピ」「陰キャ」「上級国民」など枚挙に暇がないが、その他にも明確な診断がある訳でもないのに相手を何某かの病名で名指す行為はその典型だろう。また、LGBTQといったカテゴリーすらそういう抑圧機能を持ちうることはすでに述べた通りである(念のため言っておくと、現代のみの話ではなく、魔女狩りや歴史の俗説など、過去にもそういう事例は存在していた。しかし現代は、あまりに情報が溢れていて、もはや一つ一つのものにじっくりと向き合う時間や精神性が失われているため、レッテル貼りで精神的安寧を得がちな状態が作り出されており、しかもそれによるレッテル貼り行為がSNSなどで過剰に可視化されてしまっている点が特異と言える)。
このような社会状況を思う時、黛の言う「じゃあ何で君たちはキャラクターじゃないと言えるの?」という問いは重要な意味を持つ、というわけだ。
なお、私の予測では、AIの「進化」と人間の「劣化」の中、ますます人間社会の分断とレッテル貼りは加速するものと思われる(AIの「進化」はAIによる人間の支配を惹起するのではなく、むしろAIに対する態度の差異から、人間の分断と人間社会の自壊を促進するものとして機能すると予測)。するとRPをしているVtuberと生身の人間の境界はますます曖昧になり、それと平行して一層、彼の問いは無視できないものとなっていくのではないだろうか。
私が応援しているVtuberはksonや儒烏風亭らでんなど数多いが、以上のような理由から、私はその生み出すコンテンツと同時に、彼・彼女らのあり方やそのリスナーたちの関り方(もちろんそこに自分も含まれる)を、「キャラ的人間関係」やその変化の興味深い分析・観察対象としても見ている。これが、Vtuberをブログで度々取り上げ、またその人物像に関する記事を度々書いている理由である。
【以下原文】
どうも、おサルです。
黛灰が引退してからもう10か月が経ったが、アーカイブが残っているおかげで今も様々なものを見返すことができる。その中でも非常に興味深いものの一つが、精神科医名越康文とのコラボである。
「本当の自分」?それは具体的な異議申し立てに置き替えた方がいい。例えば「私は今の友人関係を窮屈に感じている」とか「何かに追われて生きている気がするので、しばらく何も考えずのんびり過ごして何の目的で仕事をしているのか一度じっくり考えてみたい」とかね。「生きる意味は何か」問うんじゃなくて、「~と一緒にいると楽しい」、「~でやりがいを感じる」と置き換えるみたいに。もちろん、抽象的であるがゆえに、さらなる問いを産み出すことは一応できる。その枠組み、抑圧装置の由来は何か?といった具合に。
精神主義、依存症への無理解。近代発祥の欧米よりも、時に極端な「理性」信仰。あるいはもしかすると、啓蒙主義と精神主義(東洋思想や軍国主義)が融合した成れの果てかもしれない。つまりセム的一神教に顕著な、「神に対する人間の必謬性」という発想がない。ただまあ補足しておくと、無知と想像力の欠落に基づく、「こいつに同情できない」という「感情の理論化」の可能性も大いにある(ジョナサン・ハイ)
ローテイ、アドルノ動画。黛、有越。没入をさせない。Vtuberへのスタンス。共感という病。執着。傾聴力。龍ヶ崎リンにも似た印象。はねるや堰代ミコからの信頼。二人とも安心して彼女に委ねている感。普段おバカ発言が目立つので気づきにくいが、相手の感情の機微を敏感に察知する。
感覚はあくまで一つの材料に過ぎない。それで全面正当化できると思ったら大きく道を誤るぜ。一方観念の怪物。複雑な現実を単純化し歪曲すらする。だからその緊張に満ちた往還関係の中にしか答えはない。個人的な感情を吟味して言語化する時間が取れない。かなり偏っている。
人間の動物性。理性信仰が肥大化しすぎて、全てそちらでコントロール可能という勘違い→短絡的な自己責任論が生まれた。
社会的に有害と書く理由。環境要因や病の知識。人間を信用しないから。変化に期待しない。だからプラグマティックに「じゃあどうすんの?」と問いかけるわけ。それがない方言としての自己責任論など思考停止と問題放置という意味で害悪の極み。同情するか否かは関係ない。問題にどう向き合うかでしょ。そしてそれを放置するなら、自分にも跳ね返ってくるだけ。
記事を書く前のスタンスの話。離人症。幻聴。ONEの話。自己消滅の切迫感。明らかに荒唐無稽だけど、圧倒的にリアリティがある。抑圧とサーキットのモデルケース。いつかコースアウト。
ただ、そういう経験の中で「私を縛る私という名の檻」みたいな「気付き」があり、そっから受験という心境の変化や予備校という第四空間にそれなりの時間身を置くなど環境の変化があって、結果的に破綻までいたらずに済んだ。このことが極めて矛盾する二つの柱をおそらく形作っていて、一つは、「問題を解決するのはあくまで自分だ」という発想。だから極めて個人主義的な、もっと言えばリバタリアン的な発想が自分の根底にはある。で、もう一つは「理性の脆弱さ」。「極限状況」の話にも繋がるが、常に十全な理性が発揮できるとか、ましてや他人も同じように振る舞えるとかなんて、妄想の産物にすぎない。さらにもう1つ付け加えるなら、「偶然性」。俺が破滅せずに今ここに存在しているのはたまたまに過ぎない。交換可能性の感覚。沙耶の唄。
ここに「助けられているのだし、また助けてもいるのだ」という互助性の気付きからリベラリズム的な発想が強くなり、ある意味「安定」するのは社会人になってから。
人間存在にはあまりに不明な点が多い以上、それにかかわる精神分析やら心理学やらが なのは当然のことだろう。それはあくまで他者理解の指針ではあっても、決して「不変の真理」などではない。
しかし、言葉が出来上がるとついそれが自明のものであるように思い始め、あまつさえそれをレッテル貼りとして無批判に使い始めたり、そこから少しでもずれるものは「異端」として切り捨てるようなことがしばしば起こる。
以前マンハイムの著書を読むにあたって実証主義の話をしたが、理論と実践、もしくは普遍性と固有性の間の緊張に満ちた往還運動の上にようやく誠実な が成り立つのであり、教条主義とアドホック、どちらも採用できないものだ。
「人に頼れない」、自己責任論、忍耐を美徳とする、人に迷惑をかけてはいけない、単身世帯が増える。分断が進む。このような傾向による病状はますます深刻化していくものと思われる。
「実は自分だけでない」という気付き
「距離がある」がゆえのアクセスのしやすさ(キャラクターに仮託する)
現実とバーチャルの境目の曖昧さ。黛自身もその生い立ちや人間観察から、言わば「なりすまし」を経験したり、「なりすまし」をしている人を多く見てきたのではないか。そのような彼からすれば、キャラクターを演じているVtuberと、目の前に現実として存在しながら、ペルソナを背負っている人々の間に一体どれだけの懸隔があるのかという発想が出てくるのは驚くべきことではない(もちろんそこには「身体性」という越えられない壁があるのだが)
シュレディンガーのゼパ。女?男?どっちでもええやん。なぜ一意に決める(決まる)ことに執心するのか。そこに身を委ねよ。
バンドアパート。板橋、荒川フェス。
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