以前人格の定義・把握をロールシャッハに例え、それが一面的な解釈に繋がる危険性を述べた。とはいえ、私は人格の定義そのもの、あるいは内省を否定して思考停止しろと言っているわけではむろんない。
私が強調したいのは、「人格とは何らかの統一的な像を結ぶもの」と思い込んで自己分析を行うのは妥当性を欠くし危険だ、ということなのだ。人は往々にして物事を単純化・一般化しがちな生き物である。それは確かに、事象を分析しやすくするために生み出された合理的な思考プロセスではある。ゆえに、様々な人間と接しなければならない我々が対象(=人間)を類型化するのは無理からぬことだろう。しかし、常に向き合っている自己に対してまで、そのような思考プロセスはそのまま有効なのだろうか?私はそうでないと考える。ではどうすればよいのか?それは、混沌を混沌として捉える見方なのだと思っている。そういう視点でもって、人格の定義の持つ「だまし絵的側面」を強調しているのである。
さて、ここから先はちょい付け足し。こんなことをわざわざ言っているのは、内省に向かう姿勢といった哲学的な問題に興味があるから、というだけではない。いやむしろ、それよりもより社会的な現象と繋がる部分で重要だと思っている。例えば、最近心理学の本が流行っている。そして血液型占い・性格判断なども相変わらず人気がある。そしてまた、実際の人間関係においても「キャラ」というものが非常に重視されるようになってきているという事情がある。これは私自身の個人的な感覚もあるが、それだけでなくどうも社会現象と言っていいレベルになっているようだ(『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』第四章「キャラ的人間関係のかよわき紐帯」)。この現象は、人間の類型化をますます促進していくことだろう。そういった判断から、そこに一石を投じるような自己と向き合う姿勢を強調することを思い立ったのである。
集団での「キャラ(作り)」というものについては反感を中心に色々と思っているのだが、それは機を改めて述べたいと思う。
私が強調したいのは、「人格とは何らかの統一的な像を結ぶもの」と思い込んで自己分析を行うのは妥当性を欠くし危険だ、ということなのだ。人は往々にして物事を単純化・一般化しがちな生き物である。それは確かに、事象を分析しやすくするために生み出された合理的な思考プロセスではある。ゆえに、様々な人間と接しなければならない我々が対象(=人間)を類型化するのは無理からぬことだろう。しかし、常に向き合っている自己に対してまで、そのような思考プロセスはそのまま有効なのだろうか?私はそうでないと考える。ではどうすればよいのか?それは、混沌を混沌として捉える見方なのだと思っている。そういう視点でもって、人格の定義の持つ「だまし絵的側面」を強調しているのである。
さて、ここから先はちょい付け足し。こんなことをわざわざ言っているのは、内省に向かう姿勢といった哲学的な問題に興味があるから、というだけではない。いやむしろ、それよりもより社会的な現象と繋がる部分で重要だと思っている。例えば、最近心理学の本が流行っている。そして血液型占い・性格判断なども相変わらず人気がある。そしてまた、実際の人間関係においても「キャラ」というものが非常に重視されるようになってきているという事情がある。これは私自身の個人的な感覚もあるが、それだけでなくどうも社会現象と言っていいレベルになっているようだ(『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』第四章「キャラ的人間関係のかよわき紐帯」)。この現象は、人間の類型化をますます促進していくことだろう。そういった判断から、そこに一石を投じるような自己と向き合う姿勢を強調することを思い立ったのである。
集団での「キャラ(作り)」というものについては反感を中心に色々と思っているのだが、それは機を改めて述べたいと思う。
類型化(=無意識の抑圧)は色々なものを無駄にする行為だと思えるのでね。そりゃ「本当の自分」とかいう発言(タワゴト)も多くなるわっちゅー話。
浅い人間関係を円滑にする上で「キャラ」は便利ではありますが、自分に対してまで人格を限定するのは、自らを貧しくする行為ですよね。
脳を一種のコンピューターと考えれば、最終的には「人格とは何らかの統一的な像を結ぶもの」なのかもしれませんが、普通の人間がそんな複雑で膨大な情報を完璧に整理して、そこに辿り着けるとはとても思えません。
自分を、整理できない訳のわからない宇宙であるとするのが、生きて様々なものを蓄積してきた自分に、本当の意味で誇りを持つこと、他者への思いやりを持つために重要なことだと思います。
血液型を特集した番組の、たった4種類に人格を集約するような演出には、非常に疑問を感じます。一つの身体的特徴である事は確かながら、それで全ての行動の動機付けをしようとするのは、個人が経験し、感じることの全てを否定する乱暴の極みです。
そういう想像力の無さが社会に蔓延するのは、本当におそろしい事です。
「共感の虚構性」と同じで、少し考えれば人格というものがいかに混沌としているかなど容易にわかるはずなのですが、なぜだか人は自己さえも安易に規定したがる生き物のようです。
おそらくそういった行為が蔓延するのは、わずかな事例を何でも一般化してしまうのと同じで「わかりやすいから」なんでしょうね。また私自身は読んでいたのですが、友人の話によると「統一的な自己」という見方が西洋から入ってきて日本の人間観が混乱した、みたいなことを養老孟司が『バカの壁』で指摘しているそうです。
また他の理由として、「規定されたいという願望」があるのかもしれません。要は、自分に対して断定的に言われることで安心するのではないかと。不安な人が多いんでしょうかねw血液型判断のような馬鹿馬鹿しいものがまかり通るあたり、そういった人の「規定されたいという願望」はかなり強いのかもしれませんね。
では、これで失礼します。
俺よりずっと成績が良く(まあ俺自身の成績が元々悪いというのはおいといて)、なおかつ設計のアイデアも素敵な人なのに信じてたりして、
ちょっとその魔力じみたものに辟易していたのですが、
結局はみんな「根拠の強そうな性格判断」に惹かれるんだと思います。これは俺自身そうです。
ボゲードン氏の付け加えになりますが。
以前友人と血液型占いに関してちょっとした口論になったときのおおよその会話を書きます。
俺「ばからしい。人の性格がたった四つにわかれるわけないじゃないか。十二個にわかれる分だけまだ星占いの方が信用できるよ」(このときはまだ俺は歴史の長さだとかその数において今よりずっと星占いを信頼していました)
友「いやだって血液型だよ? 血なんだから正確に決まってるじゃん」
つまり彼らは血液型『占い』に科学的根拠があると信じているようなんです(サンプルの数は多くて数十人なので、以降は推測の話になります)。
つまり俺は「性格定型の数の多さや歴史の長さ」によって星占いに信頼を置いているのに対し(とはいえ最近はそうでもないですけど)、
彼らは(おそらくは)テレビや雑誌が報道し、血液型という名ゆえの「科学的根拠」によって血液型占いに信頼を置いているんだということのようなんです。
これが優秀な学生(俺もまだそうなのでこんな言い方はあれですが)でも平然と
「B型は~~だよね」みたく口走るゆえんのようです。
『血液型占い』自身は、厳密に科学的根拠を問われると瓦解するがために占いを名乗っているにもかかわらず(もちろん推測です)、現実ではボゲードン氏がおっしゃられるように『血液型判断』としてほぼ絶対的信用を得ているこの矛盾。
ちなみに蛇足として付け加えると、血液型占いを「傾向」として信用している傾向(洒落ではありません)も強いようです。俺が先ほどの会話のように批判したりすると、「いや、でもたぶんそういう傾向があるってだけで~~」と言われることもありました。どっちにしろ科学的根拠というか、統計学的なものが背後にあるものとして信用しているように感じましたけど。
なんというか、メディアリテラシーがなんたるかを実感しちゃいます。
電車男ブームのときも思ったのですが、彼らにとってテレビや新聞、雑誌とは真実を写す鏡なんですね。
そりゃ俺も全てを疑うわけにもいきませんし、ある程度は信用していますけど、
彼らを見ているとまるで盲目的につき動かされてるようで、なんだか不気味です。
あからさまにトンデモでゲーム脳に近い『デジタル脳』の話を持ち出されたときも、激昂して批判しちゃったこともあります。
本当のデジタル脳はただの左脳の別称なのに……。
それと、これは俺自身もそうなんですが、『安心』と共に『救い』も求めているんだと思います。
俺は結構以前からエニアグラム(性格診断の一種ですが、性格定型は9つ、ウイングという概念によってさらに2つずつに分かれます。さらに人格成長度的なレベルという概念があります。さらに、これで見えるのはあくまでOSのように人格の基礎的な部分、囚われや根源的欲求であると再三説明されています)の本を持っていてその心理学的背景の存在や、論理的な部分に多少の信頼を置いているんですが、最初は後生大事に自身のタイプに対する『アドバイス』の部分を何度も読み込んでいました。これ、つまり『救い』を求めてるんですよね。実行できなきゃ意味ないな、と思ってすぐに読みふけるのはやめましたけど。血液型占いにおいても、末期患者(というとなんかあれですが)は「俺は何型だから~~はダメなんだ」と言い訳の理由に使ったり「あいつは何型だからああなんだ」と断定的に考える理由に使っているように思えます。昨今流行っている自己啓発系の書物だとかもこれに近いかも知れませんね。
それからちょっと誤解を招きそうな部分について訂正を。
>『血液型占い』自身は、厳密に科学的根拠を問われると瓦解するがために占いを名乗っているにもかかわらず(もちろん推測です)
の「推測」は科学的根拠を問われにくくするため、という部分についてです。
科学的根拠そのものは、ネットに限らず、話題にならない(苦笑)書物で否定されているようです。
調べればでますでます。
科学的なレベルでは、おっしゃるとおりかなり広い範囲で否定されています。私自身、大学で人格心理学という講義を受けていて、いわゆる血液型判断が否定されるのを聞いたこともあります(まあ内容をよく覚えてないのですがw)。
メディアリテラシーについて言うと、「少年犯罪の増加」や「青少年の麻薬使用率の増加」もそうですね。一般に、このことが信用されているようです。情報に対して真偽を確かめようという人は意外に少ないんでしょうかね…