ここまで「ファスト教養」や動画の倍速視聴・ネタバレ歓迎が広がっている要因について様々書いてきた。
詳細は記事を確認していただくとして、要は「出る杭は打たれる」ような環境、極端な自己責任論の内面化、自己肯定感の低さが組み合わさることで、「責められたくない」・「自分にはできない」・「失敗したくない」・「挑戦したくない」という傾向が特に若い人に観察される、ということが書かれている。
私は日本社会に(少なくとも半世紀は)明るい未来はないと何度も書いてきた理由の一つはここにある。
つまり、今の日本の問題は単に少子高齢化による生産年齢人口の減少や経済衰退のみにあるのではなく、そこに極端な自己責任論が加わることによって、同調圧力やアンダークラスへの転落に怯え、結果としてまともな挑戦はできなくなり、ゲームチェンジャーになれないのはもちろん、イノベーションも起こらなくなる、という合併症のような地獄が惹起する、という点に注意する必要がある。
なるほど仮に日本全体が厳しい状態でも、身近なコミュニティがある程度しっかりしているならば、「清貧」とされるような生活の仕方、幸福追求の方法もあるだろう。
しかしながら、すでに共同体の解体も急速なスピードで進んでいることは地方の空洞化を見れば明らかだ。また、情報・人・物の流動化により共通前提も激減した状況であるため(この対極が江戸時代の村落共同体)、他者とのコミュニケーションを不得手とする日本人の多くは、精神的なホームベースを持つことができず、さりとて集団主義を植え付けられてセルフコンフィデンスにも乏しいため、所属や承認の欲求(枯渇)を満たすためだけに、常に生きづらさを抱えたまま表面的に集団へ合わせ続けることを余儀なくされるのである(以前紹介した「Needy girl overdose」という作品が優れている理由の一つは、このような時代状況を極めて的確にカリカチュアライズしているからだ)。
このような状態においては、目端のきく人間はとっとと海外に脱出するだろうし、私もそうすべきだと思う(毒親に義務感で付き合い続けるのはただその身を滅ぼすだけだ)。そして外側からは労働力が来ることもなくなり、老人を安く使い倒しながら何とか今のシステムを(お得意の忍耐の「美徳」でもって)維持し続けることになるのではないだろうか。
かかる展望に立てば、「ファスト教養」を求めるような、社会システムの変更には関心を持たず、ただ「出し抜く」ようやメンタリティが前景化するのは極めて必然的なことだし、ゆえにこそ「ファスト教養」を「教養」の観点から非難しても無効だと言えるのである。
ここ数回私の「教養」観がどのように形成されてきたかを何度かに渡って書いてきたが、その際に必ず個人的な価値観の話だと断っているのは、それを社会レベルで適用しようとしても今述べた状況に対しては有効性が皆無だと思っているからである(要は単に「趣味」や「嗜好」の域を出ない)。
というわけで、日本の極めて厳しい状況と、「ファスト教養」の社会的必然、そして旧来の「教養」観念がなぜ効果をなさないのかを述べたところでこの稿を終えたい。
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