『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』:とにかく目立ちたくない・失敗したくない若者はどのようにして生まれるか

2022-10-29 12:45:45 | 本関係

昨日は「自己責任論が生んだ『ゼロリスク世代の未来像』」という記事を書いたが、その元になった本の一つは金間大介『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』である。

 

この本では近年の大学生の傾向が統計データを元に語られ、それが30代以上の各世代や世界の人々と比較されたりしているが、そこに強くみられる傾向は、「とにかく自分に自信がなく、視線はどこまでも内向きで、どこまでも主体性がない」というものである。

 

このような傾向は、社会が右肩上がりであれば流れに乗っていけばいいだけだし、また社会が安定期であれば問題は表面化しないだろう。しかし、日本社会の衰退と変動が明確に予測される今、このような行動原理は地獄への一里塚である。

 

大学生という立場を基準としたら、そこから会社などの就職した先で、状況は刻一刻と変化する(フリーランスになろうが同じ)。その中でただ指示待ちをしているだけでは、なれるのは戦力ではなくせいぜい「茹でガエル」であり、またそのようなメンタリティであれば会社側は交換のきく非正規雇用にしようと思うのが当然だろう(ちなみに私はよく「AIの進化と人間の『劣化』をパラレルに考えるべきだ」という趣旨の話を書いているが、本書で書かれるような会社員のような性質がもう少し深刻になり、もう少しAIの利便性が向上すれば、正直後者の方に仕事を任せた方が将来性があると考えるのは私だけではないだろう)。

 

そして一たび就職やら仕事に失敗しようものなら、深刻なダメージを受けて復帰は容易でなくなるし、また失敗した人間に対しても、足蹴にするようなことはしないまでも、まあ自己責任だよねの一言で消極的に放置すると予測される。

 

失敗のダメージが大きい(と思える)ので踏み出せない、踏み出せないから現状維持で、そういうメンタリティだから実際に失敗するとそれを過重に受け止め、復帰することが困難になる。

 

コンサマトリーを願いながら、周囲の目線と失敗には常に怯えながら暮らし、一たび失敗したらハイさよなら・・・これが地獄でなければ何なのだと思うし、それは自殺もするだろうという話だ(ちなみに近頃の人は友人にむしろ自分の悩みを相談できない、という話もある)。

 

ここまで書くと単なる「若者ディス」でしかないが、著者も書いているようにこういう人々や環境を作り出したのは紛れもなくそれより上の大人である(というかいつも思うのだが、仕組みを作る側なはずの大人が、その事実を無視して「近頃の若者は・・・」と何のてらいもなく発言することほど、浅慮という言葉が似合う場面もない)。

 

例えばよく言われるのは、親との距離の近さ(これが本書で全く触れられていないのがいささか不思議だが)。最近の親は、大学関連のイベントはもちろん、会社関連のイベントにまで関わってくる。家族と仲が良いこと自体は悪いことではないが、このような状況は保護者たちの「とにかくレールを敷いて失敗しないようにコントロールする」傾向を反映しており、そりゃあそういう分厚い繭の中で守り続けていれば、その繭の心地よさで外に出るモチベーションが弱くなるのは当然だし、視線が内向きになるのも必定だろうと思う。また、あらかじめ決まったレールの上を走る人生を歩むから(もしくはそうすることが善だと吹き込まれ続けるから)、自分で試行錯誤して勝ち取ったものは少ないので自尊心は育たないし、それゆえ経験しない失敗を過度に恐れるようにもなる。親などから与えてもらう人生に慣れているから、会社に入っても指示待ちの心性を変えることができない・・・とまあそういう具合である(「ファスト教養」を求める人々の心性は、そういう周囲の様子をどこか下に見て「出し抜く」ことを考えているように見える。しかしその一方で、これさえあれば大丈夫、というような「ビジネスシーン特化型のマニュアル化された教養」を求めるという点については、今述べたような親からレールの敷かれたマニュアル思考と似通っている点は興味深い)。

 

今述べた保護者というのは、「今の大学生の親世代=40代後半~50代=バブルの熱狂とそこからの奈落を両方知っている人々」であり、その価値観が濃縮還元されて育ったのが、本書で描かれるような若者である。

 

じゃあそういう「バカ親」の行動を何とかすればいいのか?それは間違っていないが、事の本質の半分しか言い当てていないように思える。例えば、「ファスト教養」の時にも似たような話を書いたが、「じゃあそれでうちの子が失敗したらどうするんですか?誰が責任を取ってくれるんですか?責任取れないんだったら口を出さないでもらえます?」という反発は容易に思いつく(まさにそういう不安がそのまま子供に感染してるんですよって話ではあるが)。

 

そしてここで話は改めて冒頭の自己責任論に戻ってくるわけである。つまり、自己責任論が過剰に内面化された結果、失敗を許さないメンタリティが醸成され、それが日本社会の「再チャレンジが難しい仕組み」と相まって、極端なリスクヘッジ行動を正当化・合理化するのだ(そりゃ地方公務員になりたい人が大量に出るわって話だ)。もちろん、実際には日本とてノーチャンスではないのだから、そういう極端な発想にならないためにも、家族というホームベース(いつでも帰れる場所)だけは確保しておいてあげてほしい、というのが保護者が心に留めておいてほしいことだと私は思う。そうすれば、ゆっくり社会を見渡して再チャレンジできることに気づき、新しい居場所を見つけることにつながるだろうから。

 

ともあれ、今述べたことは家族レベルによる「自助努力」の話でしかない。よってやはり、日本社会自体に包摂の意識が極めて弱いことが、保護者・子供のリスクヘッジマインドを必然的な生存戦略となし、結果としてゲームチェンジャーにもなれずイノベーションも起きない、ただ「茹でガエル」を量産する社会を形成している、という事実にいい加減気づく必要があるのだ。

 

まあこれが変化に繋がるには教育レベルの見直しから必要なので最低半世紀はかかると私は思っており、少なくともそれまでは地獄でサバイブするしかないですね、といつもの話にはなるのだが、将来目指していくべき社会像が不在だったり、それが完全に誤っていれば、被害のレベルは半世紀どころでは済まなくなる。よって、「情けは人のためならず」の言葉通り、公助が何のためにあるのか今一度よく考えて社会設計やメンタリティ(教育のレベルから)を見直すべきだ、と(一応前向きなことを)述べつつこの稿を終えたい。


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