これまで「ファスト教養」が広がってきた背景とその駆逐の難しさ、あるいは自分の「教養」観念の形成について述べてきた。それを踏まえ、「ファスト教養」という単純化されビジネス合理性に特化した観念と最も程遠い発想に触れられる小林秀雄と岡潔の対談、『人間の建設』を紹介したい。
これは主題を定めての対談ではないこともあって、話の内容は千変万化である。ゆえにある時読んで得た印象や受けた感銘があったとしても、次に触れる時は全く違うものとして感じられるかもしれない。だが、それで良いのである。
何か体系立てた結論を元に予定調和的な議論を行うのではなく、次に相手がどのような話題を繰り出してくるのか、また自分もどのような話題を投げかけるのか、お互い探り探りの中で、ある時は「何を言っているかわからん」という反応をし、ある時は自身の持っていた茫洋とした印象に輪郭が与えられる経験をして議論が深まる、という達人同士のセッションという感がある。
その一つ一つに対し、自身も「これは単に飲み屋の放談レベルのことをそれらしく言ってるだけにしか聞こえん」とか「こういう切り口の考え方があるのか恐れいったわ」などという具合に反発したり感銘を受けたり、それを記録し反芻する中で自身の考えが研磨・精錬される経験は「ファスト教養」で得られるものとは対極に位置するのではないだろうか。
とまあ抽象的な話だけをしていてもしょうがないので、3つの話題に絞って書いてみようと思う。
1.人間は論理だけでは納得しない
とだけ言うとありきたりな話だが、鬼才の数学者岡潔が、数学的にそのようなことが証明されたということを受けて数学というものを改めて考え直さねばならなくなった、と発言しているのが興味深いところ。これについては、人間の非合理性に立脚した行動経済学を知る今日の我々にとってはむしろ容易にうなずけるところだろう。
この対談が1965年に行われたという時代性に注目するなら、「欲求を合理的に追及する人間の経済行動」という観念に基づく古典派経済学に対し、先に述べた行動経済学が台頭してくるのが1970年代からなので、そういう時代性という意味でも興味深い発言と言える。
あるいはもう少し話を進めるなら、理性に基づいた熟議による民主主義という発想の限界や、それがどのように持続可能かという視点で論じたのがちょうど1990年代ローティのリベラル・アイロニズムだし、サンスティーンが『熟議が壊れるとき』を著したのが2012年、あるいは感情と理性の関係を像と乗り手に喩えたジョナサン・ハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』が2014年であり、その意味でも岡が言ったような気付きは今日ますます重要なものになっていると言える。
2.古代ギリシアは小我に固執する
自分より大きなものに目を向ける必要がある・・・という文脈で一方ギリシアは自分=小我に固執する、というやり取りを二人がしているが、このような解釈は単純に事実誤認であり噴飯物の箇所と言えるだろう。
その反証はいくらでもあるが、例えば「アガメムノン」などを残したアイスキュロス。彼は自分が偉大な悲劇作家と称賛されるより、マラトンの戦いに参加したことの方を誇りとした。これはつまり、優れた芸術の才を持てる者として個人的に称賛されることよりも、ポリスの危機に際して不利な状況を顧みずに身を投じたことを己の矜持としたのである。
あるいはソフォクレスの描く「オイディプス」を思い出してみたい。あの話はつまるところ何なのかと言えば、人間の自由意思と逃れがたい運命のうねりの相克である。もし仮に自我にこだわることこそが古代ギリシアの本質なのだとしたら、なにゆえデルフォイの神託という逃れがたく呪わしい運命と、それに敗北する人々の姿を描かなければならなかったのだろうか?なるほど仮にソフォクレスを始めとする人々が何らかの愚かさや救いがたい悪意で自滅したのであれば、運命のうねりはある種安っぽい・俗っぽい因果応報話に過ぎないかもしれない。しかしながら、例えばソフォクレスの父も子供を捨てるよう命ぜられた羊飼いも、提示された破局や目の前の悲惨な状況に耐え兼ね、それを免れようとある種「最善」を尽くしたに過ぎない。しかしながらその集合の結果は、父殺しであり母を寝取ったことであり、そしてその罪の意識に耐え兼ねた自身の身の破滅なのであった。果たして小我=自我こそ全てと考えるような認識からこのような烈しくも哀しい物語が生まれてくるものかは、と私は問いたい。
最期にアリストテレスの「ニコマコス倫理学」を挙げよう。そこでは、「ポリスのために戦って死ぬべきか、それとも家族のために戦いから逃げるべきか」ということが問われている。これが単に理想論の話でないことは、ペルシア戦争時のテルモピレーなどを思い出せば十分だろうと思うが、これまた小我に固執する発想からは出てきようがない問いである。
その他、ヘレネスとバルバロイ、あるいは命を賭して神にその健身をアピールするオリンピアの競技といった具合に、古代ギリシアの人々が自我を超えた領域、つまりポリスや同一言語を話す人々を意識しそのために命を懸けた事例は枚挙に暇がない。ことほどさように、「自己を最小単位とし、それさえ生き延びればよい」などという発想が古代ギリシアにおいて支配的だったとは全く言えないのである。
小林と岡の古代ギリシアの自我に関する評価は、要するに「個人主義の欧米と集団主義の日本」という極めて浅薄なステレオタイプを語っているに過ぎず、これはどれだけの知性を持っていても、考察材料が間違っていれば誤った(偏った)結論を「論理的」に出してしまう好例と言えるだろう(ついでに言うと、今の日本社会がわかりやすいが、自分より大きいものに目を向けたところで、所属不安と承認不安の中で地に足がついていなければ、ただ「空気」が読めるだけの忖度マシーンにしかなれないのである)。
3.教育に関する話
「今は学問を好きになるような教育をしていない」とか「素読が重要だ」と言ったことが話されているが、頷ける部分もある一方でシステムのレベルで考えていないため、実りのある提言になっていないと率直に思う(ちなみに理想があることが重要で、現実がどうかは問題ではない、と考える向きの方には「ロベスピエールってご存じですか?」と尋ねてみたいところだ)。
教育の件は色々なものが絡み合った問題なのでどこから話を始めたものかと思うが、およそ次のようなことは書けるだろう。
(1)日本の大学はそもそも「帝国大学」とあるように官僚養成機構の側面が強かった
(2)とはいえ、戦前は(高校も含め)学力も意識も高い一握りの人間が行く場所だったので、質が担保されていた
(3)戦後になって大衆化が進むと、学びのモチベーションや知のレベルは相対的に下がっていく
(4)就職における「高卒」や「大卒」というポジションの持つ意味合いが、たとえ勉強が好きではなくてもそこに行くことを要請する
(5)こういうわけで、大学ですら就職予備校化する
(6)ビジネスにとっての合理性のみを重視する「ファスト教養」の発想が広がるのはこういった背景も影響している
(7)別に勉強が好きで来ているわけではない生徒たちにどう教えるかという問題が惹起する
(8)好きではないのでそもそも興味を持たせる工夫が必要である
→動機づけの担保が必要なので素読での体得とかは間違っても無理
→難しいものを深く考えるより簡単なものに流れる理由
(9)時代の変化とともに学ぶべきものの量が増える
→古典などは特に「なぜそれを学ぶのか」という前提のセットアップが必要・重要になる
(10)パノプティコン(監獄的環境)で教えるスタイルはいまだに変えることができていない
→アメリカのようなスタイルに変えることが無理であれば、せめてパノプティコンの中での合理性を追求するしかない
こういった特徴は一人日本だけでなく、中国や韓国といった東アジア文化圏(儒教・科挙文化圏)に共通して見られることにも注目する必要があるだろう(昔は日本の「受験戦争」などと言われていたが、今や中国や韓国のエリート層の詰め込みの方がよほどえげつない状態になっている)。
そのような社会現象を踏めると、個人的な理想論ではなく、システムとしての現実や有用性を考えつつ、この制約の中でどうベターを模索するか、あるいは多少の犠牲を払ってでもシステム自体を破壊・再構築するかという話にならざるをえない(だから私が「ファスト教養」について「個人的には」全く受け入れられない書きつつ、たかが「ファスト教養」に「教養」を対置して前者を批判したくらいでその広がりを押しとどめるのは不可能だとも繰り返し書いているのは、今述べたようなシステムで思考をしないと結局意味がないからである)。
私が以前「古文や漢文の勉強ってそんなに優先順位高いのか?」という記事を書いたのも今述べたような状況理解による。もしも現在の極めて困難な状況を踏まえずにただ「古典を学ぶことは重要だから」という理由で今までのやり方・内容を踏襲していればよいと考えるならそれは堕落した権威主義と何ら変わるところはないし、そのような腐敗した監獄の中で学ばされる学生たちはまさに悲劇以外の何物でもないだろう。
自身が聡明な人間というものは、他人もそうであると無根拠に期待しがちである(これは小林や岡にも言えることだが)。他者性をもって相手を理解した上で、それを効率よくガバナンスするにはどのような仕組みが最も有効であるかを考える必要があるだろう。
え?そんなことをしても「教養」は身につかないんじゃないかって?それこそ、前に書いたように、学校で教えられる程度のことを私は「教養」などと考えていない、という話になる。そも、教えられるのは「知識」であって「知性」ではないように、「教養」をマスに教えて一様に体得させるなどという発想は無理筋なものだ。つまりはせいぜい「知識」を効率よく教えることと、そこにいくつかフックを用意して自分から勉強する、しやすいような仕掛けを作る程度のことしかできないのである。
そしてそこまでの工夫を十全にやって初めて、「生徒一人ひとりにとって知識の意味は異なるに決まっている(から何の意味があるかなんて話をしてもしょうがない)」と言う資格が生じるように思える。それをやらないで、ただ素材を生のまま生徒の側に放り投げ、「それをどう料理するかは、そしてどう摂取して自分のものにするかは君たち次第だ」と言い、それでも皆が素材を悪戦苦闘の上で料理も摂取もしてくれると期待するのなら、受け手の自主性を過剰に見積もった理解である、と述べておきたい(まあ何度も書いているが、こういう点において私は「人間不信」なのである)。
というわけで今回は終了。ではまた別の機会に。
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