リベラルの分裂・抑圧と「保守」の反発:そして「AIの進化」と「人間の劣化」はどのような社会を生み出すか

2023-02-23 12:18:18 | AI
 
 
 
襲撃事件もあり、宮台真司と神保哲生の対談を取り上げるのも久々な気がするが、この動画の20分までで極めて本質的かつ重要なことを述べていると思ったので掲載してみた。
 
 
端的に言えば、リベラルは普遍主義を標榜しながら、その実「どこにフォーカスするか」がてんでバラバラだから、団結するどころか「内ゲバ」さえ始める一方、グローバリズムなどによる社会変化へのプリミティブな危機意識に基づく反発は、それが根元的であるがゆえに、連帯を生みやすい、という話である(本来は、ローティの唱えたリベラルアイロニズムなどがそれを乗り越えるスタンスだったはずだが、結局そういった連帯は生存を脅かすような危機に基づくものでなければ難しい、というのが今の分断が進む社会で観察される現象と言えそうだ)。
 
 
自分なりに付け加えるなら、今や悪名高いキャンセルカルチャーも、その淵源は「解放の神学」のような、言わば「抑圧からの自由」を求めるという志向性で始まったはずだが、今ではむしろ自身が「(しばしば独善的な)平等の強制」という抑圧装置、つまり21世紀の異端審問のような存在になっており、それへの反発(とは言わないまでも疲弊)がそこかしこに見られると言えるのではないだろうか(そういう「割り切れなさ」を表現した傑作の一つが先日再度紹介したBEASTARSやBEAST COMPLEXである)。
 
 
またあるいは、「価値観の多様化や過剰流動化によりもはや隣人でさえ仲間だと思えない」という分断の深刻化の話も出てくるが、この傾向は今後さらに加速していくだろう。対談では「オルタナティブファクト」や「ポストトゥルース」といった言辞によって、価値観の違いどころか、基本的な事実でさえも都合よく解釈することが正当化されていく状況が現出していることに触れられているが、今後は未婚者や単身者の割合の増加、あるいはAI的(bot)なるものへのコミットの仕方の違いなどを通じてさらに溝が深まり、さらに人間や社会のリゾーム化が進んでいくと思われるからだ。
 
 
たとえば極端な話をするならこういうことだ。ある人がパートナーから性的被害を受けたと訴えたとしよう。それに対し、「生身の人間と関係しようとすればそんなリスクが生じることぐらい始めからわかっていただろう。プログラミングされていたものを選んでいればそんな事故も起こらなかったはずで、法的に被害者とはいえ、全くの自己責任だ」といった驚愕の見解を当然のように語る人間が一定数出てきたとしても、私は全く不思議に思わないだろう(「そんな人間の本来性を否定する言説が生まれるなんて馬鹿げている」と思われるかもしれないが、今でさえ「子どもを作ったのは自己責任(だから助ける必要なんてない)」と言われる状況が観察されるわけで、共通前提が崩落していくと、自他の切り離しに基づく短絡的な自己責任論が跳梁跋扈するのである)。
 
 
こういう話をすると、動画内でも語られている「加速主義」の話をしているように思われるかもしれないが、これも0か100かで考えると大きく事態を取り違える気がするので、少し補足が必要だろう。
 
 
近代民主主義社会を成り立たせているのは、言わば人間=対等・対話可能という普遍主義的発想である(ただし、その過程においてどこまでが「我々」なのかという国民国家の問題が常に取り沙汰され、それが世界大戦のような破滅的現象を引き起こしてきた)。今観察されているのは、前述のオルタナティブファクトやポストトゥルースのように、そもそも基本的な事実さえ熟議による合意形成が不可能なのではないか(=近代を成り立たせている幻想が壊れようとしている)、ということである。
 
 
かかる状況の中、格差拡大や価値観の多様化を通じてさらに分断は進んでいくが、そこにAIの発達とそれに対する態度・コミットの仕方が拍車をかけていくだろう(その一例が、先に言った「そもそも生身の人間と肉体関係を結ぼうとすること自体がリスク」というような発想であり)。こういう話はつい「攻殻機動隊」のような世界への全面的変化を想像させるかもしれないが、おそらくそうではなく、モザイク状の様相を呈するであろう、ということだ(もちろん、「攻殻機動隊」でも電脳化こそしてもそれ以外はあえて生身を選択するトグサのような事例は描かれているが)。
 
 
そしてそうであるがゆえに、中近世で見られたような、もはや「価値観の違う他者を同じ人間としてみなさない」という振る舞いすら珍しいものではなくなり、その時近代民主主義を支えていた幻想も、それによって成り立っていたシステムも崩壊せざるをえないだろう。
 
 
おそらく、ここには次のような反論が即座に飛んでくると思われる。すなわち、理性によってそのような社会の到来を防ごうとする人間は大勢いるはずだ、と。大勢かどうかはともかく、前述のような「新反動主義」のような動向に掉さそうとする人はそれなりの数はいるだろう。しかし、それは社会のリゾーム化を止められないばかりか、むしろ加速させてしまう可能性すらある。
 
 
これを述べたのが「インセルをどのように取り扱っていくのか」について触れた記事だが、要するに人間が他者に危害を加えないという制約の下で自由選択(自由意思)で生きることを共生の条件とする時、言うまでもないことだが、その人の欲望が叶えられるとは限らず、そうして承認の枯渇とルサンチマンを溜め込んだ人間たちは、社会そのものを破壊する行動に出ることがある(いわゆる「無敵の人」もこの類型と言っていいだろう)。
 
 
ではそれに対し、旧来の価値観においてどのような処方箋を提示できるのだろうか?皆婚制度を導入する?それはまさに自由選択の否定である。あるいは生活が苦しい生身の女性をマッチングする?それは奴隷制度と一体何が違うのだろうか?・・・といった具合に、壁に突き当たることだろう(なお、東アジアの少子化や非婚について扱った記事も参照)。
 
 
もちろん、そもそも欲望の断念が必要=欲望の際限ない拡大を肯定する社会自体が問題だとか、インセルというのはあくまで承認の枯渇による攻撃衝動の表れであり、それを対症療法的に生身の女性をカップリングすることが解決策と思っている時点で本質的ではないとか、様々な角度の議論がありえる(後者を戯画的に扱ったのが「おそ松さん:DT松の謎」という記事。ちなみにこういう文脈を踏まえて孤独担当相の設置なども理解すべきである)。
 
 
しかしそもそも、そういった発想の転換や新たなエートスの埋め込み、社会的包摂によって事態を解決しようとする、言わば規律訓練型の社会設計というものの困難さがすでに認識され、それを生-権力的な方法(その身近な例が「マックの椅子」)に置き換え人を生理的にコントロールしようとしているのが21世紀の社会と言える。
 
 
そのような中において、規律訓練型の取り組みで問題が解決できると考えることが余りにも楽観的と言えないだろうか。少なくともそれは迂遠かつ限定的な効果しかもたらさないのではないか?そう考えた時に登場するのが、bot的なるもの、VR的なるもの、ということである。
 
 
Vtuberの記事などをよく書いているので誤解されているかもしれないが、それらに耽溺することが生身の人間との関係性より実りがあるものだと私は全く思わない。しかし今述べたように、複雑化しリゾーム化する社会を何とか維持する上において、それらが必要不可欠なツールとして要請される可能性が高いし、一たびそれに手を出してしまうと、そこから戻ることは困難な人も多く出てくるだろう、という話をしているのである。そしてこうなった時、社会は不可逆な変化を被り、もはや近代民主主義社会(熟議型民主主義)に戻ることは困難になるのではないだろうか。
 
 
というわけで、「加速主義」という言葉はあたかも世界全体が新しいシステムに向かってパラダイムシフトを起こすかのうような印象を与えるかもしれないが、それはもっとキメラ的でコントロール困難なものだろうと述べつつ、この稿を終えたい。

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